猫蔵の日野日出志論(連載5)

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猫蔵の日野日出志論(連載5)
『幻色の孤島』論(第五回)

日野日出志賞受賞のレポートの感想を語る日野日出志先生と猫蔵さん。撮影・清水正

 見開き10ページ目。
 だが、男の期待とは裏腹に、「何日たっても むこうがわの世界へ はいる方法は 見つからなかった」。やがて、男自身のからだも変調をきたしはじめる。まず、髪とひげが抜け落ち、皮膚までも剥がれはじめる。同時に、今まで食料に充ててきた虫や小動物や花の実いっさいを、男のからだが受けつけなくなったのだ。“アレルギー症状”であると男はみずからのからだを分析し、食べたものを嘔吐してしまう。衰弱したからだに追い討ちをかけるように、矢によって負傷した左手は、ある日、腐って落ちてしまう。空腹に耐えかねた男は、腐れ落ちたみずからの左手を貪り食うより他にない。
 壁の向こう側に至るという大きな目標を前に、みずからのからだの一部だったものが、思いがけず、分離・消失してしまう。男の欲求は、けっしてそれを手放すまいと、まるで餓鬼のように浅ましく喰らいつくことを男自身に求める。
『幻色の孤島』という作品がその根底に忍ばせている息遣いとは、主人公の男によって醸し出される、“理性”に対する浅ましいまでの走光性である。彼は頑なに、理性を放棄しようとはしない。この力強さは、映像作品『血肉の華』のもつ、「剥き出しの思向」に通じるものがあるように感じる。
 なぜなら、男はみずからの肉を喰らうことによって命を繋ぎ止め、なにより衰弱によって垂れ下がりつつあった目蓋をふたたび見開くからである。壁向こうの世界との結合に失敗した結果、今までさも当然として受け止めていたものが瞬く間に色を失い、みずからのからだから遊離してしまった状況である。この場合、男のからだから遊離してしまった肉体の一部とは、間違いなく、言葉を有した物質である。
 喪失とは、他ならない言葉の消失だ。性の初体験の場において、男の肉体が男自身を裏切ったとする。すると、彼がこれまで培ってきた「男―女」という言葉の魔力は瓦解し、場合によっては逆転さえしてしまうであろう。女の肉体の、あまりの男性味に、彼は悩める胎児とならざるを得ない。肉体の挫折と共に、男は言葉をも失った。左ページ5コマ目、折れ曲がり横たわっている男の腕は、剥がれ落ちた、男自身の男根である。
 しかしながら、男は剥がれ落ちたみずからの左腕を、ふたたびみずからの身の内へととり込んでいる。この状況を解釈すれば、男は壁向こうの世界との結合を断念などしていないばかりか、他ならない自分こそが、壁向こうの世界にもっとも相応しいという想いを、また燻らせている。みずからの左腕を食すことによって、男の目はふたたび生気をとり戻すし、なによりアレルギーとは、現状に甘んじることへの、拒絶だからである。それはなにより、壁向こうの世界こそが、みずからの本来あるべき場所であると、男自身の精神と肉体が判断している証である。

 見開き11ページ。
 夜闇のなか、雷の筋が稲光る。人肉の味を覚えた男は、その味を忘れられなくなる。夜闇のなか、身を潜めるように、男は門の前へと通うようになる。時折、夜闇を照らし出す稲光が、いままさにタブーを犯そうとする男を照らし出す。石造りの壁に浮かび上がった影法師は、男自身の欲望の深さを表している。
 ふたたび稲光。
左ページ4コマ目。夜闇に照らし出されたのは、どの死体のものとも知れない人間の手首を貪り食う、男の姿であった。男は、あの得体の知れない獣たち同様に、人肉の味に魅せられてしまった。ただ、この男とあの獣たちとの違いは、獣たちが人目も憚ることなく生きた人間を貪り食っていたのに対して、男の場合、口にするのが死肉に限られていたということである。また、みずからのそんな姿を見咎められるのを、男の本心は恐れている。
漫画『蔵六の奇病』において、主人公・蔵六が、ミミズを喰らっていた場面を思い出す。母からの食事の差し入れが途絶えてしまった蔵六は、みずからの命を繋ぐため、あえてミミズを喰らうことを厭わなかった。蔵六の場合、「絵を描く」という生きるための目的があった。『幻色の孤島』の男もまた、抱え込んだ渇きを癒してくれるものが壁の向こうにあると思われる以上、そこに至りたいという目的の前においては、“死肉を喰らう”という行為すらも、許容の範疇に位置付けられてしまう。
しかしながら、男自身の理性の眼差しは、どこまでも彼の背後にとり憑き、不断に監視し続けている。その事実はここでも同様で、男の理性は、彼自身の行為をけっして忘れることなく、男を罰し続ける。もし巨大な門の前の骸をあらかた喰い尽し、そこに、生きている人間しか発見できなくなったとしたら、男はどうするであろうか。この男が、あの奇怪な動物たちに紛れて、まだ生きたままの人間たちを襲い、その人肉を食べたとしても不思議はない。むしろ、壁向こうの世界から追い出され唾棄された人々に、男自身が、優越感と嫌悪の情をもってその捕食を正当化したかもしれない。なぜなら男は、自分こそが壁向こうの世界にもっとも相応しい人間であり、その価値観を共有すべきであって、そこから脱落してきたものたちは自分自身とは相容れないものであるという考えにおいて、まさに壁向こうの世界の映し鏡と化していたためである。
 懐かしい場所に至りたいという男の想いは浪漫に満ちている。だが、その浪漫に殉じるためには、無垢なままではありえなかった。今まではなんの問題もなく食べてきた虫や小動物、花の実とは、壁向こうの世界のものではない。それらをからだが拒絶するということは、つまり、一度男が壁の向こう側との合一を意識してしまった以上、そこに属していないもののすべてが、男の肌に合わなくなってしまったということである。
 一方、壁向こうの世界から追放された人々の死肉とは、少なくとも、かつては壁の向こう側に組み込まれていたという点において、男にアレルギー反応を引き起こすことはない。それら死肉を口にすることはすなわち、男自身による、壁向こうの社会の体系にみずからを組み込み、ヒエラルキーの位置付けをする行為に等しい。ここでの人肉食とは、この男自身の、壁向こうの世界に対する慕情の表れのひとつと見ていい。
 左ページ2コマ目、および3コマ目。死肉を喰らう男の姿を見つめているものは、あの巨大な男女像のみである。“がつがつ”と死者の腕を貪る男。後ろめたさの表れか、背後の闇より出でた何者かの手が彼の肩に触れた途端、“うわぁ”と男は叫び声をあげている。

 見開き12ページ。
 男はようやくこの島で、言葉の通じる者と出会う。謎の<仮面の男>は、みずからも主人公の男と同じように、漂流の果て、この島に辿り着いたことを告白する。そして壁向こうの世界に紛れ込むことに成功したが、やはり風土が合わず、病気にかかり、今夜ここへ捨てられた事実を打ち明ける。<仮面の男>は、壁向こうの世界へと通じる、みずからが作った秘密の抜け道の存在を男に教える。
 壁の向こう側では、仮面さえつけていれば、言葉が通じなくても生きていくには不自由しないと告げられ、男は嬉しげな表情をしている。そして、<仮面の男>は事切れる寸前、壁向こうの住人たちが男のことを「海からきた男」と呼んでいた事実を打ち明ける。改めて、住人の側もやはり、男を異邦人として認識していたことが明らかになる。すでに動かなくなってしまった<仮面の男>に、“自分自身が一体どこから来た”のか必死になって問い質している男の姿は滑稽だ。当の自分ですら知らないことを、言葉さえ通じない彼らがなぜ、男以上に知っているというのだ。<仮面の男>の死と共に、ふたたび独りぼっちにされた男は、翌日さっそく、教えられた抜け道を探し当てる。そして、死んだ男に教えてもらった通り、微笑みを模した仮面を被り、ついに壁の向こう側へと至ることに成功する。