猫蔵の日野日出志論(連載4)

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猫蔵の日野日出志論(連載4)
『幻色の孤島』論(第四回)

日野日出志(右)と猫蔵(2009年 江古田の中華店・同心房にて)。撮影・清水正

猫蔵著『日野日出志体験』の栞より

 見開き4ページ目。
 右ページ、「はあ はあ なんて おそろしい ところなのだ」と男はひとり呟く。そして、男が身を潜めた木の脇を、大蛇が這って進んでいる。すると、突然、人間ほどの大きさもある大ネズミが一匹、姿を現し、大蛇に飛びかかる。大ネズミは大蛇の腹にかじりつき、蛇を殺してしまう。しかし次の瞬間には、「グフッ グフッ」と奇怪な声で鳴く怪鳥が歩み出て、大ネズミを頭から丸呑みにしてしまった。「ひょっ としたら ここが地獄 かもしれない」とは、この一部始終を見てしまった男の言である。
 弱肉強食の具体的な場面はここまでしか描かれてはいない。だが、この怪鳥ですらも、次の瞬間にはもっと別の大きな動物の餌食になっていたとしても、ちっともおかしくはない。おのが肉体の大きさや機能に優れたものが、より快感を貪ることができるという点において、SEXもこれに等しい。このページに描かれているのは、弱き肉体が強き肉体によって貪り食われる、果てしなき輪環である。ただ、強者だと思われた肉体も、次の瞬間においては更に強い肉体の餌食に貶められる訳だから、浮き彫りにされるのは、敗者となった肉体の、無様さ、無力感といっていい。女体の内部を思わせる森の奥地にて、これら肉体への渇望と挫折を連想させる場面が繰り返し演じられていることは、示唆的である。
 ただし、論を急ぐあまり、本作品を作者の思想の代弁物として論じたのでは、まったく意味がない。
子供が親から生まれたものであったとしても、親の思想まで受け継いだ二次創作物かといえばまったく誤りであるように、我われが寄り添い、立脚すべきは、本作品そのものが繰り返し描こうとしている、独自のリズムや嗜癖それ自体である。前章にて論じた映像作品『血肉の華』をはじめて観た際に感じた高揚、“作者”日野日出志なる人物の、思想や意図におもねらない剥き出しの部分こそが、一貫して寄り添うべき作品の息吹である。するとやはり、圧倒的な質量をもった肉体の存在感と、それを前にして僅かながらに残り火をくゆらしている理性の断片とが、内混ぜになり絶えず意識されている事実に目がいく。
左ページに目を移す。
男は泉を発見し、水が飲めると喜んでいる。黒く塗られた泉の底には一体なにが沈んでいるのか、判別はつかない。なにか異変を感じとったのか、男は傍らにあった棒切れを泉のなかへと投げ込む。すると棒切れは、“ジジジ”と音をたてて解けてしまった。泉の恩恵に預かろうとして挫折した男の顔が、波紋を描いた水面に、歪んで映っている。本当にのどが渇いていたのであれば、しゃにむに泉の水を飲んだはずのものを、男の分別はまたそれを邪魔して、男を快感へとは導いてくれない。結果として、その分別が男の命を救ったわけであるが、この分別こそが、この島と男との一体化を阻んでいる元凶であろう。
やがて、どこからともなく“どんどろ どろろん”という怪しい音が聞こえてきて、振り返った男は目を見開いて驚きの表情を浮かべる。

見開き5ページ目。
男が見上げた先には、石煉瓦によって築き上げられた巨大な壁が聳え立っていた。壁の中央には、丸太によって作られた門がとり付けられており、固くその扉を閉ざしている。その門へと続く、果てしなく長い階段が、男の眼前に伸びている。例の“どんどこ どろろん”という怪しい太鼓らしき音は、この壁の向こう側から響いてくるようだ。
閉ざされた門の両脇には、それぞれ、男と女を模した巨大な石像が起立している。左ページ1コマ目、先ほどよりやや近い距離からふたつの石像を見上げる距離へと、視点はズームしている。どうやら男自身が階段を上って、閉ざされた門の前へと歩み出たらしい。門へと近づくにつれ、その下や階段の上には、何十何百という死体が打ち捨てられ、転がっていた。どの死体も、その顔には様々な表情を模した仮面がつけられている。二体の巨像は、それら死者を罰する神のように、厳めしい顔をして聳え立っている。
閉ざされた門の向かって右側に立ち、門を守護している女の石像は、その右手に縦長の盾を構えている。盾の表面に掘り込まれた模様は、盾そのものの形状とあいまって、女の性器そっくりに見える。反対に、門の正面左側に立ち、侵入者を威嚇している男の石像は、その左手に、刃を上にして長槍を握り締めている。こちらはまさに、男性性器を思わせる形状である。
男女いずれの像も、みずからの性別の役割を体現し、侵入者を戒めるという点でその存在をまっとうしている。もし、これらの石像に命が宿ったとしたなら、男像(おとこぞう)の方は、歯を剥き出して手にした槍で侵入者を追い払うであろうし、一方の女像(おんなぞう)の方は、眉間に皺を寄せどこか苦渋に満ちたような表情のまま、無言のうちに盾を構え、侵入者を拒み続けるであろう。いずれにせよ、この閉ざされた門の向こう側には、見たこともない荘厳で深遠な文明が存在しているかのような印象を抱く。ましてや主人公の男は、漂流の身である。この壁の向こうに、みずからのことを理解してくれる高い知性が存在していると考えても無理はない。喪失しかけているみずからの存在を確固たるものにするためには、是が非でも乗り越えなければならない壁なのである。
しかし、画面手前の左隅に小さなシルエットとして描かれた男の姿は、あまりにもちっぽけだ。このコマ絵においては、門の左右に起立した男女の石像へと目が向けられがちではあるが、それとは別に、手前と奥の関係性においても、男と女の役割が課せられていることに注目したい。
手前にシルエットとして描かれた男が“男性”を担わされたものとするならば、その男の眼前に伸びている上り階段の奥、男女の石像に護られた丸太の門もまた、“女性”を担っている。その質量と存在感の上において、“女性”は“男性”を凌駕し、むしろ男のような野性味すら漂わせている。
だが、閉ざされた門の素材に注目してみよう。すると、この部分だけが、他の壁面のように石煉瓦によって造られているのではなく、木の丸太によって出来ている。このため、壁の向こう側の世界と一体になりたいという期待感を僅かながら繋ぐことが可能となっている。
左ページ2コマ目。
石階段の上に重なり合っている、仮面をつけた死体の群れ。なかには、笑ったような表情を模した仮面もあり、死体でありながら、思わず吹き出してしまいそうになるのを抑え切れない。これらの死体は、そもそも門の向こう側から投棄されたものである。壁の向こう側にある国とは、死してなお、素顔をさらすことを許さないところなのか。だが、自分自身の名前すら喪失してしまった男にとり、そんなことを構っている余裕などないようだ。閉ざされた巨大な門の上部に、男は人影らしきものを見る。仲間かもしれない、と男は興奮する。

見開き6ページ。
助けを求めて階段を駆け上る男に対し、仮面を被った人間たちは、不可解な言語を発した末、弓矢を放ってくる。男は身をよじって逃げ出す。逃走の最中、男の左腕に矢が突き刺さる。かくして、二者間の交流は失敗に終わった。
左ページ。男は、「あ〜あ せめて ことばでも 通じればな」と呟く。男が受け入れられなかった理由は定かではないが、少なくとも男自身はその原因を、<ことば>の違いに置こうとしている。
ここで、ふたたび冒頭の扉絵を思い起こしてみたい。
原始的充足感に満たされた扉絵のなかにおいて、ただ一点、満たされざる部分があったことは先に述べた。それこそが、男自身の目が訴えかけている、鋭敏なる彼の理性に他ならなかった。男の理性は、彼自身が手にした槍で獲物を仕留め、野に下りこの森で生きていくことを許しはしない。それが証しに、男はいまだ、言葉による関係の回復を企てている。壁の向こう側の世界との合一は、そもそも男自身の理性の介在によって失敗した事実を、彼はまだ知らない。
例えば、男が性の初体験の場において失敗するのは、その肥大化した理性の妨げによるところが大きいのではないか。理性は、目の前に実存する圧倒的な質量の肉の大陸に対し、幻想のなかで培ってきた認識を必死になって当て嵌めようとする。だが、彼によって与えられた役割通りに、女の肉体、あるいは彼自身の肉体すらも、その実体を適合させてくれるとは限らない。初体験に没頭するどころか、あまりにも現在的で無意味な行為の連なりの前に、ふと空しささえ覚え、“没頭しなくては・・”という使命感とは裏腹に、肉体の方もますますやる気を失い、冷たく萎んでいくのを感じたことはないだろうか。理性とはまことに、カーニバルへの熱中を妨げる、シニカルなジョーカーなのである。
祝祭のなかでの熱狂という不文律を共有できない者は、すべからく、世界中どの社会においても、受け入れられることは困難であろう。男が壁の向こうの住人たちに受け入れられるための当面の手段としては、例えば凡庸な仮面を被り、みずからの“眼光”を隠蔽する努力が不可欠となってくる。(これが実際に男の手によって実行されたか否かは、論を追って詳述する)
壁の向こうの住人に拒絶された男は、大木の洞のなかに身を隠し、しばらく彼らの様子を窺うことにする。シトシトと雨が降り続くなか、負傷した傷口が膿んでくる。傷口にはウジがたかり、痛みで男を苛む。

見開き7ページ。
傷の疼きに耐えながらも、男は住人たちの観察を開始する。彼らは毎日、原色の下水を壁の外へと廃棄していた。そして糞尿は山となって積み重なり、それらを糧にするため、いろいろな動物や虫が集まってくる。また、ときには塀の上から子供たちが放尿したりするのだが、その尿はまるで虹のように七色に染まり、美しい。不思議なことに、最近は男自身の尿や便までもが原色に染まりはじめ、男は感慨深げに、みずからの尿や便を眺めている。
ある日、壁の向こうから、大きな袋が捨てられた。食料かもしれない、と期待して開けてみたその中には、奇形の赤ん坊の死体が、ぎっしりと詰まっていた。
ここでいったん情報を整理すると、壁の向こう側の世界が廃棄しているものとは、<仮面をつけた死体>、<原色の汚水>、そして<奇形の赤ん坊>ということになる。逆に、壁向こうの世界と男とが共有し得たものは、<美しい原色の便と尿>ということになる。徐々にではあるが、壁の向こう側と男との溝が、<原色の糞尿>の共有によって、縮まってきている印象を抱く。男自身もまた、異変を呈しつつあるみずからの糞尿に「うつくしい」と呟いていることに留意したい。

見開き8ページ。
ある朝、男はいつもと違う激しい太鼓の音で目を覚まされた。門の下へと行ってみると、そこには病人や年寄り、奇形の人びとが、何十人となく捨てられていた。そして太鼓の音に誘われるように、森の奥から、異形の動物や鳥、虫や恐竜どもが湧き出てきた。それらは門の下に群がり、その数を増やしていった。
左ページ1コマ目。
巨大な門の上部に集まり、手に手に槍を振り上げた無数の黒い人影がある。彼らは“どんどろ どろろん”という激しい太鼓の音に合わせ、踊り狂っているように見える。一方、視線を門の下へと移すと、そこにもやはり沢山の白いシルエットの人影が、手を広げ、その身を捩じらせている。こちらの方は、誰ひとりとして手に武器を持ったものはなく、なかには力なく地面にしゃがみ込んだものや、手で顔を覆い、懇願しているように見えるものさえある。
2コマ目。
この太鼓が祝祭を意味するものであるとするならば、巨大な壁の上と下、内側と外側の違いのみにおいて、まるで性質の異なったカーニバルが現出していることになる。門の下に描かれているのは、あばら骨が浮き出た病人や、四肢の欠損した奇形者たちの、打ち捨てられた姿であった。彼らが、この“荘厳で深遠”な王国にて、排除された弱者であることは明白だ。
右ページ3コマ目と4コマ目には、例の男女像の顔がアップで描き出されている。先ほどはこれら男女の石像が、外部からの侵入者を戒めるものであるという視点で論じたが、この場面において改めて吟味し直すと、これらが、壁の向こう側から排除された社会的弱者へと手向けられた、餞別の色合いを帯びたものとして浮かび上がってくる。
このコマ絵において、男像も女像も、その背後が真っ黒にベタ塗りされている。ここでは語り手の視点が、打ち捨てられたものたちの視点に限りなく寄り添って描き出されている。目を血走らせ、恫喝の声を浴びせかけているのは男像である。そして、女像はその目に慈悲や哀れみを見てとれるものの、同時に、もはやどうすることもできないといった諦念をも漂わせている。ことに女像の表情は、胸に迫ってくるものがある。いずれにせよ、彼ら弱者が、決定的な決別を突きつけられた状況にあることは間違いないようである。

見開き9ページ。
ここでは恐ろしい地獄図が展開される。森の奥から集まってきた怪しい動物たちが、一斉に、門の下にとり残された人たちに襲いかかるのである。この国に住んでいる人びとは皆、どういうわけか仮面をつけている以外は裸なのであり、鋭いクチバシや固いウロコを備えた怪物たちの前では、なす術もなく、頭から丸呑みされるしかない。石の階段の上には、引き千切られた血塗れの肉が散乱し、人間の腕を口に咥えた大蛇が、それを怪鳥と奪い合っている。長い髪を振り乱し、固く閉ざされた門を両手で叩いている人物は、女性であろうか。逃げ惑う人物の表情もまた滑稽な仮面によって隠されており、その本当の表情を窺い知ることはできない。
左ページ。そこには、この地獄図を画策した、壁の上の住人たちの様が、対照的に描かれている。彼らもまた同様に、その素顔を仮面で覆い、一心不乱に太鼓を叩いて踊り狂っている。太鼓を叩く仮面の男たちの肉体は筋骨隆々で、門の下に打ち捨てられたものたちのからだとは比較にならない。祭儀を司り、忘我にも等しい状態で踊り狂う彼らと対になって、左ページ4、5コマ目には、ふたたび男女の石像の顔がアップで描かれている。先ほどと同じようにその背景はベタ塗りが施され、太鼓の音すらも介在しない、静謐さを漂わせている。
女像の表情には、扉絵に描かれていたあの男の目に通じるような、潤わざるものが含まれている。あたかも、男女の営みの場において、“男性”であることに失敗した男を責め苛むような視線である。そういえば、壁の外側へと捨てられた者たちの肉体も、どちらかといえば豊かさを内包しているものとは言い難かった。この女像の眼差しは、肉体によって理性を凌駕することのできなかった男の心の内で、絶えず彼自身を監視している眼差しに他ならない。
左ページ6コマ目。
男は、「たとえ ことばが 通じなくても かれらと話を したくなって」くる。そして、一体向こう側の世界にはなにがあるのか、強く知りたくなる。
たった今、向こう側の世界から打ち捨てられた人びとが、あまりにも無残な最期を迎えたまさにその現場を目撃しながらも、男は壁の向こう側の世界に、言い知れない親しみと懐かしさを覚えている。つまりは、先ほどの惨事を“地獄図”と言い表しながらも、まさしく彼は壁の向こう側こそが、みずからが至るべき場所であると認識している。
“どんどろ どろろん”という太鼓の音はますます激しく打ち鳴らされ、壁の向こう側へと辿り着きたいという男の欲求を、いやがうえにも刺激する。仮面をつけた男たちが撥(ばち)で叩いているものは、まさしく和太鼓である。全裸に仮面という出で立ちを見ると、この壁の向こう側が、どこか見知らぬ異郷の土地だと思われていたものが、思わず、もしかすると我われが充分見知った場所なのではないか?という疑念が沸き起こってくるのを抑え難くなる。
「たとえ ことばが 通じなくても 彼らと 話を したくなった」という状況は、少なくとも、自分自身と相手との間になんらかの共有しうる部分を見出した結果である。
 改めて、日野の漫画作品のなかでも『原色の孤島』が特異であると感じられる理由のひとつとして、本作のなかで描かれているのが、すべて、固有名詞を喪失した後の世界だからという点が挙げられる。主人公の男が、みずからの名前や過去の記憶を失っているという前提は言わずもがな、これを読んでいる読者もまた、本編の舞台となる“孤島”が一体どこであって、なぜそこに迷い込まねばならないのかについて、安定した認識の共有を妨げられている。
 例えば『蔵六の奇病』では顕著であるが、物語の描き手が日本人であり、また多くの読者も日本人であるという関係の上において、すでにある程度は、暗黙上共有しうる世界観の基盤が形作られている。藁葺き屋根の家や、「蔵六」と名付けられた登場人物の具象は、読者自身の身に確固たる実体験がなかったとしても、それらがかつての日本の一場面を抽出したものであると、容易に認識・共感できるはずだ。
 しかし『幻色の孤島』の場合、固有名詞の獲得は急務ではない。“孤島”の圧倒的な質感、実体感の前において、“男”と読者とが共有しうるのは、満たされざる、たった一点の渇きのみである。すでにあらゆる固有名詞は消失してしまった後であり、その代わり男が手に入れたものこそ、癒し難い喪失感である。
 ただ、“男”は喪失を埋めるため足掻き続けるであろうし、今後『幻色の孤島』本編において、失われた固有名詞を回復しうるものが登場しないとも限らない。いや、それはすでに登場していた。<太鼓>である。見開き9ページに描かれた太鼓は間違いなく和太鼓であり、それと同時に、明らかな自覚までには結びつかないとしても、ここに描き出された世界が、ひょっとすると“日本”なのではないかという認識が沸き起こってくる。
 喪失していた固有名詞(=言葉)が、徐々に回復の兆しを見せはじめている。本作冒頭の扉絵においては、あれだけ肉感的な草花や木々、動物たちに囲まれていながらも、“男”の目に宿っていたのは、満たされざる飢餓の片鱗であった。たとえるならば、初体験の床において、あまりにも圧倒的な女の肉体との戦いに挫折した男が、その敗北と男としての喪失を経た後、辿り着いたのは、やはり、他ならない言葉であったということになる。肉体の前に一切の言葉が敗北し、失墜したにもかかわらず、この男は言葉を放棄し肉体に溺れることはできなかったのだ。まるでこの男は、大人のときの記憶を失わぬまま、胎児へと逆戻りしてしまった者のようである。無論、大人だった頃の名前すら忘れてしまっているのだが、大人であったという実感だけは消え失せることなく、彼を深い眠りから妨げている。だとすると、先ほどから聞こえてくる太鼓の音は、母なる者の、心臓の鼓動であろうか。しかし、産道へと通じる門は相変わらず固く閉ざされ、男はいまだ留まるしかない。
 産道という誕生の門の前で、言葉を拾い集めている赤ん坊は憂鬱である。「母から生まれ落ちた瞬間を覚えていた」とは、自著『仮面の告白』の主人公の言葉に託した三島由紀夫の言であるが、まさにこの男は、胎児同然の状況にありながら、確かに、かつての名前と記憶をとり戻しつつある。
 みずからの入門を拒んでいる巨大な壁の向こう側には一体、なにがあるのか。男はまん丸い目を見開き、それを確かめてみたいと思う。
猫蔵・プロフィール
1979年我孫子市生まれ。埼玉県大利根にて育つ。日大芸術学部文芸学科卒。清水正教授に師事。日大大学院芸術学研究科博士前期課程文芸学専攻修了。日野日出志研究家。見世物学会会員。本名・栗原隆浩