「雑誌研究」では特集・日野日出志を企画準備中

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今年度の「雑誌研究」では実存ホラー漫画家・日野日出志の特集を企画し、「雑誌研究」と「マンガ論」の受講生には日野氏の代表作「蔵六の奇病」を読んでもらい、夏期課題として日野氏のマンガに関する感想を寄せてもらった。この学生諸君のレポートを中心に「日野日出志特集」を編集するが、同時に日野研究家にも原稿を依頼した。今回は雑誌発行に先だって熱烈な日野ファンである荒岡保志氏の原稿を紹介したい。

荒岡保志氏と氏が集めた日野日出志の単行本

偏愛的漫画家論(連載1)
日野日出志へのファンレター

荒岡 保志漫画評論家

戦後漫画、否、日本漫画史上に於いてホラー漫画家の大御所と言えば次の五人である事は誰にも異論は無いだろう、即ち、最近は人気テレビドラマ「ゲゲゲの女房」のモデルにもなり、米寿を超えてなお現役、衰え知らずの真に妖怪「水木しげる」、手塚治虫石ノ森章太郎藤子不二雄赤塚不二夫らを輩出したあの「トキワ荘」出身で、心霊現象に拘り、日常に霊界の入口を開く霊界案内人「つのだじろう」、妖怪とも心霊現象とも異なり、「呪い」、「祟り」、「憑き」などの東洋独特とも言える「怨念」を隠れ蓑に、人間そのものに内在する本質的な「恐怖」を描く、そしてその同じベクトル上に「笑い」までも展開する異才「楳図かずお」、魔女、悪魔など西洋の古典的信仰を現代日本に忍ばせる黒魔術士「古賀新一」、そして、その中でも一際異彩を放つ、詩人にして血塗れ地獄絵師、我が「日野日出志」の五人である。

「一際異彩を放つ」と形容したが、勿論、それは作品のストーリー、構成、その独特の絵柄を含む作風にもあるが、ホラー漫画家として他四人を寄せ付けない圧倒的な相違点が存在し、その相違点こそが「日野日出志」がカルトホラー漫画家とも位置付けられる理由となる。

この「日野日出志論」は、その生い立ち、その作品を通してご本人の輪郭に迫る事を試みる「漫画家論」であると同時に、三十年を超える日野漫画の、一愛読者からの「ファンレター」である、と改めて記して置こう。

ホラー漫画家日野日出志、本名星野安司、1946年4月19日、満州チチハルに生まれる。
同年の晩秋、九死に一生を得た父、母に連れられて内地に引き上げるも、父の職業が定まらず各地を転々とする。小学校一年生の一年間で三回の転校を繰り返し、この間に強い孤独癖、空想癖に取り憑かれるようになったという。また、日野漫画の重要な核となる家族構成であるが、後述する作品論と重複するため、ここでは割愛させて頂く。

漫画家としての初めの転換期、というより覚醒は高校2年生の頃か。

当時は黒澤 明監督に傾倒し、将来映画監督になる事を夢に、高校を卒業したら日本大学芸術学部の映画学科に入学し、プロの道を歩もうと真剣に考えていた。
余談になるが、2010年現在、その過っての志望大学のキャンパスで、ご自身の漫画作品が教材として取り扱われ、またご自身が特別講座の講師として教鞭を振るっているというのも妙な巡り合わせである。

映画監督を目指す高校生は、芥川龍之介の「地獄変」を原作に、映画化を仮想してこつこつと絵コンテを起こしていた。
再び余談になるが、日野漫画が芥川龍之介の怪奇、幽玄の世界に多少なりともインスパイアされている事はその作品からも容易に読み取れ、ご自身の代表作に「地獄変」と題したのも芥川龍之介に対するリスペクトの表現であろう。

その絵コンテを見て、同級生の友人が自分の描いた漫画を見せてくれた、それが日野日出志の漫画家への第一歩となった。漫画なら、映画でやりたかった事が自分一人で全部出来る、と奮い立ったのだ。

石ノ森章太郎の漫画家入門を貪り読み、高校卒業後、東京デザインカレッジと言う漫画専門学校に入学するも、一コマ漫画、四コマ漫画を中心とする漫画の授業は、自身が目指す漫画とあまりに隔たりがあり直ぐに退校してしまう。
その後アニメーターの仲間達と漫画同人誌「黒点」を発行、自ら主宰する。また、あの虫プロ商事「COM」の編集部に出入りするようになり、同誌のファン組織「ぐら・こん」の東京支部長を務めていたのもこの頃である。

そして、待望の商業誌デビューは、二十一歳の秋、やはり「COM」誌上、1967年10月号「ぐら・こん」コーナー月例新人賞で、デビュー作品は「つめたい汗」、星野安司名での発表になる。

「つめたい汗」は、あまりの猛暑に苛立つ武士が、その苛立ちから善良な農民を斬ってしまう、というストーリーで、そのジリジリと焼ける太陽、蝉の鳴き声、太鼓の音、農民達の世間話の声々などが暑苦しさを増幅させ、武士の中にストレスがどんどん溜まって行く様子が描かれている秀作ではあるが、正直、日野日出志ファンを自称する私でさえ、そう言われなければ日野漫画とは気が付かなかっただろう。

言うまでもなく、日野漫画の大きな魅力の一つは、その独特な絵柄である。

前述した漫画同人誌の仲間と共に、とりあえずアニメーターでもやろうかと考えた時期があったが、絵のクセが強過ぎてアニメーターには向かないと採用されなかった経緯があるぐらい日野日出志の絵柄は個性的であり、100メートル先から見てもそれと分かるほどの強烈なオリジナリティを持つ。

「つめたい汗」執筆当時も、絵のクセが強過ぎてアニメーター不採用と言う事実を考証すると、それはある程度の完成を見ていただろうと容易に想像できる。このデビュー作品は、当時傾倒していた「永島慎二」の影響が強かったのか、敢えて「COM」の読者層を意識して描いたのかだろう。

そして「どろ人形」。
青林堂「ガロ」1968年5月号新人賞に入選した作品で、日野日出志と言う名前で発表した記念すべき第一作目である。「つめたい汗」はやはり満足のいく作品ではなかったのだろう、ご自身も、この作品が自分の本当のデビュー作だと思っている、と公言している。

この「どろ人形」を機に、「水の中の楽園」、「埴輪の森の伝説」など数本の読み切り漫画を「ガロ」誌上に発表するのだが、この時期の読み切り漫画は、今となってはかなり入手困難な虫プロ商事発行の作品集「臓六の奇病」に掲載されているに過ぎず、私もまだ触れた事すらないので、ここで作品を語る事が出来なくて申し訳ない。ただ、1970年に入って「少年画報」に発表された「泥人形」、そして「水の中」は、「ガロ」掲載作品をセルフリメイクしたものであろうと推測され、ここでは、両作品とも大変密度の濃い日野漫画の傑作に仕上がっている、とだけ記しておこう。

しかし、デビュー二年目にして、日野日出志は漫画家として第二の転換期を迎える、否、正確に言えば余儀なく迎えざるを得なくなる。

それは、本当に自分の描きたいものは何だ、自分の目指すところは何処だ、と言うアーティスティックな苦悩、それと同時に、大手出版社の商業誌に発表の場を移行しない限り漫画では生活が出来ない、という現実に直面したことである。
一般論で申し訳ないが、この二つの事項は相反し、両立はかなり困難である、即ち、エンターティメントに徹すれば徹するほど、自分の目指すものを歪曲せざるを得ないというのが常だ。

そして、 約一年かけて完成された作品が日野漫画最高傑作と評価の高い「蔵六の奇病」である。

熱烈な日野ファンである安岡氏が長年にわたって蒐集した日野本

「蔵六の奇病」は、少年画報社「少年画報」1970年9号に発表される。「少年画報」は、後の「少年キング」で、日野日出志は、苦悩に次ぐ苦悩を乗り越え、漸くメジャー商業誌でのデビューを果たしたわけだ。

自分の描きたい怪奇、叙情の世界をエンターティメントとして面白く表現するにはと、40ページで発表された「蔵六の奇病」に、約300枚の原稿が描き直された。もうこれ以上の物は描けない、ストーリーは勿論、構成、構図、絵柄、ペン・タッチまで考えに考え抜き、心血を注いだ。もしこの作品が受け入れられなかったら、漫画家は諦めて実家に戻って家業を継ごう、とまで考えていた。

生れながらに頭の弱い蔵六は、日がな一日ぼんやりと動物、昆虫、風景を眺めたり、絵を描いたりして暮らしていた。働くでもない蔵六は、村人からはからかわれ、村の子供達からも苛められる存在であったが、道化のようにおどけるのが精一杯の毎日だった。
その中で、絵を描きたい、色とりどりの絵を描きたいというのが蔵六のささやかな望みだった。
そんな時、蔵六の顔一面に出来た毒きのこのような七色の出来物が、子供達の悪戯な投石によって破裂、全身に広がってしまった。家族は、蔵六の奇病の感染を恐れ、死期が迫った動物が集まるというねむり沼がある森の廃屋に隔離してしまう。
蔵六は瀕死ながらも、全身の七色の出来物から小刀でウミを出し、色が使える嬉しさに、毎日毎日絵を描き続けた。
もう、蔵六の身体は腐り始めていたのだろう、暑い日が続く頃になると、その腐臭が森を抜け、村まで降りていく。それまで、不憫に思い毎日食事を運んでいた母親も、奇病の感染を恐れる村人の反対を押し切れず、蔵六の事を諦める。
ミミズや野犬の死骸を貪り、何とか生きながらえる蔵六であったが、その秋に、とうとう目玉が腐って落ち、冬を迎える頃には耳も膿で完全に塞がってしまう。蔵六は村人や家族だけではなく、光と音からも完全に隔離されてしまった。感じるものは無限の闇だけであったが、それでもなお蔵六は生きていた。
その頃、村では蔵六を始末する算段を立てている。もし村にでも下りてこられたら大事だと、村人一致で徒労を組んで蔵六の棲む森へ向かう。しかし、蔵六は居るはずの廃屋には居らず、村人が探していると、雪の中に巨大なカメが顔を出す。七色の美しい甲羅を纏うカメ、その目は血の涙を流している。
カメは、呆然と見守る村人を余所に、ゆうゆうとねむり沼に入り、二度と現れる事はなかった。そして蔵六が棲んでいた廃屋には、夥しい数の美しい絵が残されていた。

壮絶なストーリーである。
果たしてこれがエンターティメントを目指した日野漫画なのだろうか。当時、「蔵六の奇病」を採用したのは、代わったばかりの新任の編集長だったと聞くが、当時の「少年画報」でこの作品を発表するのはかなり冒険だったのではないか。この怪奇、叙情の世界を、読者の少年たちはどう読み取ったのだろう、と考えるのは余計なお世話か。

言うまでもなく、この「蔵六の奇病」で、唯一無二、他者を寄せ付けない日野漫画が、紛れもなく完成を迎えたわけであるが、デビュー三年目ということであるから、これは随分と早熟でなことある。

その旧村に伝わる封印された民話のようなストーリー、ゆったりと時間が過ぎ行く農村風景から血塗れの死の森の廃屋へ、村の儀式のように太鼓を鳴らし仮面を被り蔵六の下へ向かう村人たち、そして生きとし生けるものすべてを包容するかのようなねむり沼、この展開も練りに練り尽くされている。ねむり沼から始まり、ねむり沼で幕を閉じる構成力もさすがで、冒頭の夥しい数の烏も死の番人として生きてくる。
そして、その独特極まりない絵柄、前述したが、「蔵六の奇病」発表前の「ガロ」に掲載された数本の漫画を見た事がなく、残念ながらその絵柄について語る事はできないが、「どろ人形」、「水の中の楽園」のストーリーを考慮すると、絵師日野日出志の強烈なオリジナリティの片鱗が窺われていたことは間違いないだろう。この「蔵六の奇病」で、それは完成を見た、と言っていい。独特なキャラクター造り、流れ出る血や膿のリアリズム、色彩に対する徹底的な拘り、美に昇華されたグロテスク、すべてに於いて日野漫画は完成したのである。構図一つをとっても、例えば、冒頭の見開きになるねむり沼のダイナミックさはどうだ。細かく描かれた背景がストーリーに奥行きを増し、佳境に入ると、吹雪の中、仮面の下を決して窺わせない村人の宗教的とも言える行進の怖さはどうだ。これこそ絵師日野日出志の本骨頂、これこそ日野漫画と言える。

言うまでもなく、漫画とは、ストーリーと絵柄の総合芸術であり、どんなに文学性が高い、また哲学的に深いものを描いても、その絵柄に魅力がなければただの駄作である。そういう意味に於いては、映画と漫画は良く似て、素晴らしいストーリーが必ずしも名作映画になるわけではない。
映画監督を目指した高校生が漫画家の道を選択した事は、ご本人にとっても、日本漫画にとっても最善の選択だったろう。

この「蔵六の奇病」は大変高い評価をもって絶賛され、小学館「少年サンデー」、講談社少年マガジン」などのメジャー漫画誌から原稿の依頼が来るようになり、日野日出志は一躍メジャー漫画家の仲間入りを果たす。そして完成を見た日野漫画の、ここから憑き物が落ちたかのような怒涛の快進撃が始まる。

荒岡 保志プロフィール

荒岡 保志(アラオカ ヤスシ)、漫画評論家。1961年7月23日、東京都武蔵野市吉祥寺生まれ。獅子座、血液型O型。私立桐朋学園高等学校卒業、青山学院大学経済学部中退。
「荒岡 保(アラオカ タモツ)」の三男「保彦(ヤスヒコ)」の長男。荒岡 保は、戦後の焼け野原に簡易建築建物(今のプレハブに当たる)を販売しあっという間に財を築いた傑物で、あの菅原通斎が著書「無手勝流」で、「戦後の面白い奴」の一人に挙げている人物である。酒好き、女好きの放蕩三昧の生活から、47歳にして肝硬変により死去。荒岡 保の長男、次男には男子が授からず、荒岡家を継承する唯一の男子である。
現在、千葉県我孫子市在住。執筆活動と同時に、広告代理店を経営する実業家でもある。
漫画評論家デビューは、2006年、D文学研究会発行の研究情報誌「D文学通信」1104号に発表された「偏愛的漫画家論 山田花子論」である。その後、「児嶋 都論」、「東陽片岡論」、「泉 昌之論」、「華 倫変論」、「ねこぢる論」、「山野 一論」などを同誌に連載する。
その批評は、作品論というより、タイトル通り、漫画家本人の横顔に迫る漫画家論となっている。また、「偏愛的漫画家論」のタイトルは、氏が尊敬してやまない暗黒文学の案内人にして検索サイト「澁澤龍彦」の「偏愛的作家論」を捩ったものである。
偏愛する漫画家は、過去に批評した漫画家の他、「日野日出志」、「ますむらひろし」、「山松ゆうきち」など、結果として青林堂「ガロ」出身漫画家に偏る。