清水正・ドストエフスキーゼミの夏期課題

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清水正の著作   D文学研究会発行本
清水正ドストエフスキーゼミ「文芸研究Ⅰ」の夏期課題のレポートを掲載します。

清水正の書斎より。『ドストエフスキー体験』は私が十九歳から二十歳にかけて書いたドストエフスキー論を収録。発行日は1970年1月。


スヴィドリガイロフとドゥーニャについて、及びプリヘーリヤについて

冨田絢子


「スヴィドリガイロフの魅力は、彼の強烈な情欲や鉄火の如き愛の要求にはない。」「スヴィドリガイロフは<幽霊>だ」(『清水正ドストエフスキー論全集』第5巻第五部「現在進行形野『罪と罰』297頁より」)という意見は、私の今までのスヴィドリガイロフのイメージを大きく変えた。物語の表面上の部分しか読み取れなかった私は、スヴィドリガイロフはドゥーニャに対して強い愛情があったから、ペテルブルグにまで追ってきたのだと、単純に考えていたからだ。ましてや、スヴィドリガイロフがもし幽霊だったら、と考えると、『罪と罰』が違う世界観に見えてくる。まさに「二重の世界」である。「彼がドゥーニャに求めたのは、ドゥーニャによって殺されることであった。」「もう一度死ぬことによって<死>の世界からの飛躍を試みたのである。」(298頁)という考えは、確かに飛躍しすぎた解釈と思われるかもしれないが、私は非常に面白いと感じた。殺されることを願って、ひとりの女を追う人間がどこにいるだろう。しかも、そのスヴィドリガイロフの望みが最終的に叶えられなかったところがまた興味深い点である。そして、ドゥーニャがスヴィドリガイロフの抱えているもの、気持ちを理解し切れなかったのは、仕方がないことだ。現実世界に存在する者が、幽霊の心を理解することなどできるわけがない。ドゥーニャが仮にスヴィドリガイロフを殺害していたとしたら、スヴィドリガイロフはどのように、どこまで、どんな飛躍したのだろう。
母プリヘーリヤの手紙に関して、『清水正ドストエフスキー論全集』第5巻では、「母の見るドゥーニャは、マルファの立場も考えることのできる優しい思慮深い娘であり、<外聞の悪い話>や<みなに傷のつく>ようなことはできうるかぎり回避しなければならないという賢明な判断のできる娘なのである。」「プリヘーリヤは<母>として、清廉潔白な<娘>の悩みを代弁する次元にとどまっている」(302頁)と述べられているが、私もこの意見と同じように思う。一度読んだだけでは、プリヘーリヤが書いた手紙の内容を鵜呑みにしてしまい、あたかもドゥーニャが被害者のように解釈してしまうが、実際はスヴィドリガイロフやマルファばかりが悪者だったわけではないだろうと感じる。ドゥーニャも何らかの悪い思惑や計画があっただろうし、ドゥーニャはそこまで簡単に被害を被るような頭の悪い人間ではないだろう。
だが、プリヘーリヤが娘のドゥーニャの身の潔白を主張し、スヴィドリガイロフやマルファを加害者に仕立て上げ、ドゥーニャを庇うような手紙を書いたことは、ある意味当然である。プリヘーリヤでなくても、母親が娘を信じ、守ろうとするのは、当たり前のことだからだ。ドゥーニャが「自分に都合の悪いこと、母に聞かせてはまずいことは極力避けた<事実>」(304頁)しかプリへーリヤに話さなかったのも、ある意味当然のことだ。我々だって、いい事も悪いこともすべてがすべて、母親に逐一報告するわけではない。問題なのは、プリヘーリヤが「娘から聞いた<事実>に、自分なりの脚色を加えて、さらなる<事実>を作り上げ、それを手紙に書いたということ」(304頁)である。ドゥーニャが重要な部分をプリヘーリヤに具体的に話していない上に、プリヘーリヤが自分なりの脚色を加えてしまっていたら、読者はどこまでが事実でどこまでがプリへーリヤによって脚色された部分か分からない。ましてや、息子のラスコーリニコフであったら、母プリヘーリヤの言うことは事実だと、すべてを鵜呑みにするはずだ。342頁でプリヘーリヤが「愚者」であると述べられているが、『罪と罰』を読み返せば読み返すほど、まさにその通りであると思った。そもそも、息子にあそこまで伝える必要のないことばかり書いた手紙を送るべきではない。こう考えるのは行き過ぎているかもしれないが、もしかしたら、ドゥーニャがプリヘーリヤに言っていたことも、プリヘーリヤが手紙に述べたことも、すべて作り話だったということも考えられなくもない。すぐに冷静さを失い、娘を愛し守ろうとするプリヘーリヤの性格を知り尽くした娘ドゥーニャが、自らを守るため、悲劇のヒロインになるため、もしくはもっと何か大きな目的があって、プリヘーリヤに出来上がったストーリーを話したのかもしれない。客観的に見ても打算的なドゥーニャならば、そのくらいのことをしてもおかしくないのではないだろうか。もしドゥーニャの言うことが全部嘘だったとしたら、そこまでして、ドゥーニャがスヴィドリガイロフやマルファを陥れようとする意味は分からないが。
その一方、スヴィドリガイロフとドゥーニャに関係があったという意見には賛成する。色気違いのスヴィドリガイロフがドゥーニャを手込めにしようとした、という考え方もあると思うが、私はむしろドゥーニャがスヴィドリガイロフに言い寄ったくらいだと考えている。そこでまた、ドゥーニャの打算的な性格を感じさせる。そうでなければ、わざわざドゥーニャはスヴィドリガイロフの家の家庭教師には入らないと思う。ドゥーニャを悪役にしたいわけではないが、ドゥーニャは自らの目的を達成するために家庭教師に入り、スヴィドリガイロフとの関係を作り、プリヘーリヤに被害者面をしたのではないだろうかと考えている。
しかし、そこでひとつの疑問が生まれる。ドゥーニャが家庭教師として採用される際に、スヴィドリガイロフの妻であるマルファが関わっていることである。『清水正ドストエフスキー論全集』第5巻でも述べられているように、マルファはスヴィドリガイロフの<色気違い>な性格を十分に知っているはずなのに、ドゥーニャを家庭教師として採用しているのである。これは、マルファにも何らかの目的があったに違いない。「マルファはスヴィドリガイロフに関して、圧倒的な優位性を保持し、彼を支配しきれると高をくくっていたのだろうか。それともドゥーニャを夫の前に放し飼いにすることで、夫が誘惑にどこまで耐えられるか試みてでもいたのだろうか。」(304頁)私には推測しきれないが、マルファもドゥーニャとは違った方向の計画を進めていたのだろうと思う。
そのように考えていた分、「マルファは自分の夫がドゥーニャのような女にぞっこん惚れ込んでしまうのを始めから直感していたにもかかわらず、自尊心が邪魔してか、それを口にすることはできなかった。しかし夫とドゥーニャが二人きりでいる場面を目撃したことで、不信と懐疑が一挙に爆発してしまったのであろう。このマルファの感情の爆発は、実は彼女がスヴィドリガイロフを誰よりも愛していることの証でもある。」(306頁)という意見は、非常に新鮮だった。マルファがドゥーニャを家庭教師に雇ったのは、スヴィドリガイロフの愛を確かめるためだとすれば、澱みきったように見える『罪と罰』の世界が、美しくさえ見える。プリヘーリヤが手紙で伝えていることが本当であれ嘘であれ、スヴィドリガイロフの愛を確かめられなかったマルファが、ドゥーニャの悪い噂を撒き散らすのも無理はない。ドゥーニャよりも当然自分を取ると信じていた夫が、試しに雇った家庭教師の魔性の小娘に簡単に流れていってしまったら、誰だってショックで、腹立たしくて、復讐もしたくなるはずだ。現代でも十分にこのようなことは起こりうると思う。
ともあれ、プリヘーリヤが手紙に少しだけ書いた、スヴィドリガイロフに送ったドゥーニャの手紙が、我々読者にとっては事実を知るための重要な鍵となってくることには間違いない。ところが、その重要なドゥーニャの手紙の内容は、全くといっていいほど分からない。あくまでも推測するしかないのだが、もはやそこが『罪と罰』の面白さであるような気がしてくる。スヴィドリガイロフとドゥーニャの関係だけでなく、『罪と罰』では具体的に描写されていない部分が多々ある。それは、ドストエフスキーがあえて描写しないものだろうと思う。はじめから全てを描写し、それを読むだけでは面白くない。スヴィドリガイロフ、ドゥーニャ、プリヘーリヤについてもそうだ。だからこそ、現在にわたってさまざまな議論ができるのだろう。
実に本末転倒な話になるが、スヴィドリガイロフとドゥーニャにどんな関係があって、スヴィドリガイロフがマルファとどういう生活をしていたか、プリヘーリヤとドゥーニャの裏にどんな出来事があったか、などの真相は知るべきでない事実である気がした。それを推測して楽しむのはいいが、一度固定概念がついてしまうと、折角の『罪と罰』世界が広がらない。そこまで事実を追求することが必要だとも思わない。307頁に「一番知りたいのはスヴィドリガイロフの内心の思いである。こういった場面や心理のディティールが分からないと、つまり事の真相に迫ることはほとんど不可能ということになる。」と述べられているように、そんなことよりも、スヴィドリガイロフとドゥーニャが2人きりのときに、互いがどう思っていたかとか、プリヘーリヤはドゥーニャがスヴィドリガイロフの家の家庭教師になると言ったときどう感じたか、そういうことを知りたい。それを知ることが出来れば、事の真相に迫ることもできるかもしれない。きっと、スヴィドリガイロフはドゥーニャと二人きりのときは、ドゥーニャと早く関係を持ちたいと思っていただろう。その反面ドゥーニャは、計画通りだと思っていただろう。プリヘーリヤはスヴィドリガイロフの色気違いを知っていて娘を家庭教師に送り出したのだろう。などと考えていると、どんどん自分の中での『罪と罰』の世界が広がっていく。出来ることなら、もう一度はじめて『罪と罰』を読んだときと同じように、スヴィドリガイロフ、ドゥーニャ、プリヘーリヤを見てみたい。