ここをクリックしてください エデンの南   清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室  
清水正の著作   D文学研究会発行本
清水正ドストエフスキーゼミ「文芸研究Ⅰ」では夏休み前、週に一回のペースでレポートを書いてもらい、メールで送ってもらっていました。今回は前回に引き続き峯 里織子さんのレポートを三本掲載します。

書斎より
峯 里織子


課題6
レベジャートニコフについて

 レベジャートニコフ。彼は自室に戻ると、まず心臓を抑えつけた。脈打つ振動が手のひらいっぱいを占め、じとりと汗ばむ。暴れ回る心臓が狭いと叫び、からからに乾いた喉から飛び出してしまいそうだった。
 暴露家を名乗る彼だが、ルージンの悪行を暴露することになるとは予期していなかった。いや、全く予感していなかったわけではない。むしろ、こうして彼をとことん追い詰め糾弾するその日を、彼は今か今かと待ちわびていたのだ。自身の主義、思想、理念。レベジャートニコフはそれらに盲目的に心酔している。それらに囚われ、止まれなくなっていることにも、気付いていた。だが「頭の鈍い」彼は、本職たる宣伝啓蒙に酔っていたのだ。自分に酔っているレベジャートニコフは、いつか必ずルージンを啓蒙すべく、二週間待ちわびていた。その待ちわびていた瞬間が、先ほどの哀れな娼婦をめぐった、一連の騒動なのである。
 やったぞ!ついに!
 内心、手を打ち合わせて喜んだ。実際は震える拳をぐっと握り締め、乱れる呼吸を荒い鼻息に閉じ込めて、何処ともない一点を見つめていた。興奮と歓喜が彼の身を満たし、冷めやらぬ熱は異様な暑さを発する。もしレベジャートニコフに話し相手がいたなら、彼は嬉々として自分の善行を語っていただろう。しかし「右手にも知らしむべからず」を由とする彼は、この栄光を語ってはならないのだ。そう決めていた。
 ルージンは欲深で強かな男だった。そして、それを貫き押し通すことの出来る、地位と金を持っている。レベジャートニコフが何度啓蒙しようと、ルージンは冷笑を返し、悪態をつき、軽蔑していたのである。何度、何を説いても無駄だった。勿論ルージンに全ての原因があったのではなく、レベジャートニコフの「嘘」による啓蒙の未熟さも因果しているのだろう。そうはいっても、この愚かな暴露家よりも社会的に遥か高みに座すルージンを啓蒙出来たことは、レベジャートニコフの達成感を気味よく充足させた。
 レベジャートニコフには好機が必要だった。他人の助力を得たかったのではない。自分の力―――言葉で、時機的な瞬間を狙って事を成したかったのだ。彼にとって、娼婦の騒動は千載一遇の好機であった。ルージンを啓蒙する。それがレベジャートニコフに課せられた使命だ。ルージンの鼻っ柱を砕き、高飛車で傲慢な悪しき魂を打ち破る。何を教えようとしても、対象の根底に卑しい心が根ざしているのならば、意味を成さないのだ。レベジャートニコフは二週間の内に、その結論に至った。彼を消さなければならない。消して、全く新しい状態から、教えを注ぎこまなければならないのだ!悪だくみが挫ける様を味わせて、鉄槌に似た衝撃を食らわす。それが正義だと信じていた。
 レベジャートニコフは思い返して、悦に入っていた。ルージンを罵った自分。言葉が曖昧になりながらも、全力を以て弁を振るった自分。
 『みじめな卑劣漢め!』
 決め台詞を辿るように、頭の中で繰り返し再生した。よく言った、よくぞ言った。小さく呟いて、自身を褒める。ぐるりと自室を見回すと、ここ最近の様相から一転、小ざっぱりとしていた。ルージンの荷の一切が、綺麗になくなっていた。あの騒動の後、ルージンはすぐ撤収したのだ。レベジャートニコフには、さながら敗走に見えた。ルージンが座って金を数えていた席を見る。
 そうだ、あの男は負けたんだ!そして、ぼくは勝ったんだ…根比べに…この二週間の戦いに終止符を打ってやったんだ!
 すっくと立ち上がり、レベジャートニコフは歩む。窓際へ、ソファへ、卓へ。足を動かさねば、唸るか発狂かをしてしまいそうだった。とにかく、昂る心身を静めるために歩いた。意味もなくソファの布を擦ったり、撫でたりもする。浮いたように上手く力が入らない足は、数回レベジャートニコフをこけさせようともした。ふらふらと室内を行きつ戻りつしているうちに、彼は自分が平常でないことを悟る。
 無理もない、ぼくは勝利したのだから。
 勝利、その二文字にまたも熱が点る。そしてようやく自分の喉が異常に渇いていることを意識し、素直に水を飲もうと思った。水を飲もう。この乾ききった喉を冷たい水で潤せば、変哲ない水でも勝利の美酒になるだろう。水を求めて、レベジャートニコフは扉へ向かう。
 振り返って、より簡素になった自室を見た。

課題7
スヴィドリガイロフへの手紙

拝啓
 突然お手紙をお許しください。21世紀のアジア人から、19世紀ロシアにお生まれのあなたへ、この手紙をお送りします。
 アメリカは如何でしょうか。アメリカはアメリカでも、私が存じ上げているアメリカよりも、遥か遠く離れた国にいらっしゃるそうですね。あなたがこの事実を把握していないことは、当然です。些細なことはお気になさらず、新聞の投稿者によるお便りコーナーでもご覧になっているようなお気持ちで、お読みくださいませ。
 ご自身もお分かりのように、あなたは正しく人のあるべき道から外れたお方ですね。あなたは妻がいるにも関わらず、住み込みの家庭教師・アヴドーチヤ・ロマーノヴナに熱情を抱き、その発展として地元では知らぬ者はいないというほど大きい規模の事件の渦中にいらっしゃいました。その詳細については、彼女の母であるプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが息子であるロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフに宛てた手紙から、窺いました。その手紙と、とある青年の目線に絞られた七月のペテルブルグの様子から、私はあなたを知ったのです。
 私が何よりも残念に思うのは、あなたの清らかでない所業や、何処よりも遠いアメリカへの旅行ではありません。誰の偏見もない無の視点で、マルファ・ペトローヴナが健在している時のあなたを見ることが出来なかった。ただその一点のみです。当時の屋敷で起こったあらゆる出来事は、伝え聞くことしか出来ないのです。口頭であったり、心の内であったり、手紙であったり、常に誰かを通過してから、私に届くのです。何者も通過していない無の視点から、屋敷でのあなたを見ることは遂に適わなかったのです…。
 見れるであろうという期待はしていませんでした。私が拝読した物語の主人公は、ロジオン・ロマーヌイチであり、あなたではないのです。更には、作中で一度も回想がなかったことも、期待しなかったことの理由です。ロジオン・ロマーヌイチの幼少の頃の回想場面かもしれない記述はありましたが、そのような夢想的なものではなく、確固たる過去を語る記述はありませんでした。あなたの真実を知ることが出来ないとわかっていた、その上で読み進めなければならない。恐ろしく苦痛でした。まるで、作為的にあなたを敵視するように仕組まれているようで、実に不快でなりませんでした。私の目を曇らせて、あなたの真実を隠させるのです。
 私は思いました、ここに何かあると。布を被せて隠すような、隠している事実は露わにする潔さはなく、気付かぬうちに靄の中へ紛れ込ませてしまうような、巧みな細工があるように思えてならないのです。疑問を持たせる隙もなく、あなたを卑しい男だと思いこませようとする魂胆が見えるのです!
 本当は屋敷で何があったのか、あなたの真実を問い詰めたいくらいです。この手紙を書くにあたって、もう何度「真実をお聞かせください」と書きそうになったことでしょう。しかし私はそれをしませんでした。やってはならないと、書き始める時点で自分に枷をはめました。あなたにそれをお聞きしたとして、そして応えてくださったとしても、あなたという人を通過しているのです。あなたの視点という限られた世界から、あなたの感情を伴わせてしまえば、それは作中の記述と何ら変わらない、靄の中に真実は消えていってしまいます。
 ですから、私は…読者は、混在するあなたの情報を収集し、取捨選択しなければなりません。導かれるままに、手を引かれる幼子のようにこの物語を読んではいけないのです。描写ひとつひとつに疑ってかからなければなりません。私は危うくその罠にはまりかけ、あなたを悪役決めつけてしまいました。本当に浅はかでした。
 罠に気付いてから、私の世界は少し開けました。無遠慮かもしれませんが、あなたが善人であるとは思いませんよ。それはあなたの行動から明らかです。ですが、あなたが淫猥で不埒なだけの男かというと、私は頷きません。ひとつ抜粋して挙げるとするなら、夢の中で少女を助けた時の、頭の中での呟きです。「また余計な世話をやいている!」このとおり!!
 私はあなたのお言葉を聞かずとも、あなたの真実を暴こうと思います。それが適わずとも、こうした罠を発見し、暴いていくことの過程を糧にしていきます。あなたはそれを改めて気付かせてくださいました。ありがとうございました。
敬具


課題8
ポルフィーリィへの手紙

拝啓
 日差しも強く照る盛夏の候、いかがお過ごしでしょうか。
 ポルフィーリィ・ペトローヴィチさん、あなたのご活躍を小耳に挟みました。ペテルブルグにお住まいのアリョーナ・イワーノヴナを殺害した犯人を特定し、自首させるに至らせたそうですね。ペテルブルグ市民の安全を守ることに貢献した、素晴らしい功績です。あなたが真犯人であるロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ青年と弁舌を競い合った場面も拝見させていただきました。熟達した駆け引きは、ただ感嘆の息をもらすばかりです。
 あなたがロジオン・ロマーヌイチを知ったのは、彼の論文をご覧になった時でしたね。それに対するあなたのご意見も、あなたがこぼした御言葉の数々から把握致しました。彼の論文に感銘を受けただとか、素晴らしいだとか、そういった類のものです。勿論、それが計略のひとつであることは存じておりました。あなたの大仰な振る舞いや、独特な口調は撒き餌なのですよね?見え透いた撒き餌ですが、その上っ面の頬笑みは対峙する人間にありありと腹黒さを透視させ、圧迫していきます。ロジオン・ロマーヌイチを褒め抜くあなたの姿は、20世紀以降の日本における刑事ドラマを思い起こさせました。あなたの存在によって、劇的な演出がなされています。あなたの行動ひとつひとつが、ロジオン・ロマーヌイチを捕えるための布石に見えたのです。事実、物語の結末としては高得点の、犯人による自主がありました。あなたはその点では勝利していました。社会への貢献という点では、紛れもなくあなたの勝利でした。
 何を遠まわしに、間怠っこしく書いているのかとお思いですか?無理もありません。どうか、お気を悪くなさらないでくださいね。実は私、少し…大いに引っ掛かっている言葉がございます。ロジオン・ロマーヌイチの部屋で、あなたが彼と話していた時のことです。あなたはロジオン・ロマーヌイチについて、このように仰いました。「気位が高くて、うぬぼれが高くて、しかも気の短い人間」「あなたはひどく短気で、病的でいらっしゃる。あなたが大胆で、自信家で、生真面目な性質で…感じやすいたいそうまたものに感じやすい方」そして、私が最も注目したお言葉はこちらです。「いや、この男はただじゃすまさないぞ!」
 ただではすまさない。それを実行した形が、殺人犯となったロジオン・ロマーヌイチを追い詰めていくことだったのですか。しかし、そうならば、もっと別のやり方があったはずなのです。苦しませる方法はもっと他にありました。彼の論文に憤ったあなたの反撃、そんなふうには思えません。私があなたの行動をどう考えたのかというと、失礼にあたるかもしれませんが、予審判事からかけ離れた思いでロジオン・ロマーヌイチに接触したのではないか、ということです。
 犯罪を正当化しようとする理論への反撃でもなく、ただあなた自身の望みのためなのではありませんか?ロジオン・ロマーヌイチは、彼が書いた論文と酷似した――同じ境遇に走りました。あなたは偶然にも論文をご覧になっており、更にまた偶然にも同じペレルブルグ市内にお住まいで、そして偶然にも事件の余波にも遭遇しているのです。疑わしい人物として、ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフの名が挙がった時、あなたは興奮したはずです。理論を唱えた張本人が、それと全く似たような境遇に置かれている!もし、これが夫婦間の諍いや、美味しい料理の調理法の類であったなら、あなたは興味を示さなかったでしょう。しかし、事は小さくありません。歴ににその名を残すほどの、大事件でもありませんでしたが、殺人という人の命と人生が関わることでした。こうまでして、極めて確立の低い偶然と出会うことがあるでしょうか。いいえ、ありません。あなたがロジオン・ロマーヌイチに容疑者として詰問している時、社会への貢献という意識などなかったはずです。あなたは、この稀に見る偶然と好機を逃しませんでした。何の好機か?あなたの研究、探究心を満たすための好機ですよ!違いありませんでしょう?あなたはロジオン・ロマーヌイチを監視していたのではありません。観察していたのです。あの論文を書いた男が、その通りになってしまったとき、どうするのか?何を思っているのか?何を言うのか?楽しみに彼の一挙一動を観察し、考察していたのではないでしょうか。
 あなたの飽くなき探求心と行動力は、凄まじいものがあります。社会人であるあなたはいくらかの自由を制限され、いくらかの義務を負い、それと引き換えに権利を得ています。そんな乾いた人間社会で、ご自分の探究心から人生を楽しんでおられご様子は、拝見していて羨ましく思います。社会貢献への傍ら、お疲れの無いように、ご自分の活動に精励なさってください。
敬具