清水正・ドストエフスキーゼミ課題レポート

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清水正ドストエフスキーゼミ「文芸研究Ⅰ」では週に一回のペースでレポートを書いてもらい、メールで送ってもらっています。今回は第二回課題「母プリヘーリヤについて」と第三回課題「ソーニャと私」を掲載します。順不同となったのは容量オーバーのため今回のレポートが消失してしまったためです。

母プリヘーリヤについて

 林英利奈

罪と罰の主人公、プリヘーリヤは、一言で言ってしまえば現代にも通じる『教育ママ』の姿勢をとっている。夫も亡くし、二人の子を抱え、貧しい暮らしの中で過ごしてきた彼女にとってみれば、息子を優秀に育て上げ、それによって栄誉をつかむことがたった一つの夢なのだろう。それは、当人にしてみれば自信を支える唯一の柱でありうるのだろう。
だが、誠心誠意、身を粉にして育てている割には、息子に金策について述べてしまうのが、プリヘーリヤだった。普通、お金に関することは子供にはタブーだろう。人に金を借りるなぞ、子供には言えない。
そうであるならば、何故そんなことを言ってしまうのだろうか。
一つは、彼女が敬虔なクリスチャンだからではなかろうか、と思う。嘘をついてはいけないから、素直に娘が仕事をやめられなかった理由を、一から十まで述べてしまった。彼女が信心深いことは、手紙の最後でわかります。
もう一つは、彼女自身が、子供たちへ罪悪感を抱いているからでなかろうか。手紙では特に、さまざまなことを強いてしまっている、娘へ。ドゥーネチカのことを、母プリヘーリヤは何度も『天使』と形容している。ドゥーネチカに結婚を申し込んだルージンは、プリヘーリヤたち家族に比べればたいへん豊かで、結婚すれば様々なことが上手くいくようになる人だ。しかし、それによってドゥーネチカは、これからの人生を潰してしまう。『もしかしたら』ロジオンが成功し、一家三人で幸せに暮らし、ドゥーネチカが好きな人と添い遂げられるかもしれない――そんな『もしかしたら』を奪ってしまうのだ。
プリヘーリヤが、子供に到底言いそうにないことを手紙に書きつづったのは、つまりこういうことではないだろうか。
また、彼女はたびたび、ロジオンをロージャ、ドゥーネチカをドゥーニャと呼んでいる。ドゥーネチカのことを『天使です』と言い切り、ロジオンを『希望と望みの星』と記す。何度も何度も名前と愛称を書くのは、一種病的なものを感じてしまう。普通、あんなふうに名前を一行に何度も書くのだろうか。私は原文を見たことが無いのでわからないが、もしも元の文でもあんなに沢山呼んでいたら、作者がそこに意図を持っているのではないかと勘ぐってしまう。
そもそも、子供を上記のように形容するものなのだろうか。これを書いている当人は無宗教と言われがちな日本人で、プリヘーリヤは時代を遡ったロシアの女性だ。もちろん、常識が異なるのは重々承知である。現代日本に生きる私たちにとってしてみれば、天使は物語のなかの生き物でしかない。実在を信じているのは少数派だ。自分の母親に『天使のような子ね』と言われたら頭大丈夫?と言ってしまうだろう。だが、プリヘーリヤは信心深い人であり、おそらくではあるが、天使の実在も固く信じているだろう。そんな彼女が娘を『天使です』と言い切るのは、娘に対する最大限の褒め言葉、もしくはそれ以上のものなのであろう。
子供を生きがいにする母親は、どの時代にも存在する。それは現代にも通じる、むしろ子供が反抗期に入らなくなったといわれる現代だからこそ、よくわかる一つのパターンだ。子供に何でもかんでもしてあげる代わりに、子供に真の自由を与えられない。彼女の姿は、子供の実像をつかめなくなっている現代にこそ、鏡のように映りだされているのかもしれない。

 引間沙代子

 母親、という単語についてまず私が思い浮かべることは、暖かさをはらむ笑顔、安心のできる居場所、そして私を見つめる優しげな瞳、だ。いつも私という人間を無償の愛で庇護してくれ、その腕に抱いてくれる。そんな人のことを、私は自身の母親以外知りはしない。それは私の中で言うただの幻想かもしれないが、私は母親という存在に絶対さを感じていることがしばしばある。だがしかし、時折「母親」のことを疎ましく思うこともあるのは事実だ。話しをするのも億劫になることさえある。母親が私を思ってするのだろう気遣いが私にとっては大きなお節介であり、それが結果的に裏目に出てしまうこともあるし、口うるさい時は一緒に居るのがしんどいとさえも思う。彼女が私にとって良かれと思ってやっていることが私にとっては嫌なことだったり、恥ずかしいことだったり、子供と親という関係は決して相容れぬ思考回路を携えているのだろう。だからこそ私は、ラスコーリニコフの母親であるプリへーリヤ、彼女の立場から物事を考えてみたいとも思う。
 まず私は、彼女の息子ラスコーリニコフがあまり好きではない。お世辞にも性格の良い好青年とは思えないし、少し頭のネジがゆるい人なのではないかとさえ思っていた。しかし、母親であるプリヘーリヤからしたらそれはとんだ間違いである。何故なら、この時代の親も現代の親と変わらず自信の子供は例えどんな人間でもかわいく愛しいと思うからだ。それは全ての親に共通して言えるわけではないが、少なくとも私はそう思う。プリヘーリヤは息子への手紙に『私たちの希望と望みの星です。おまえさえ幸福になってくれれば、私たちも幸福なのです。』と書いていたが、これは彼女の本音であることに間違いはないだろう。気難しく不肖な息子をせめてこうやって持ち上げて同情を誘いその気にさせようという魂胆が丸見えだ。そして私がプリヘーリヤの立場でもそうしたことだろう。それには、この時代で大きく人生を左右する近所間で行き交う噂だとか付き合いだとか、つまりはそういった外聞的なものが起因してしまっているのだから。嫁ぎそびれた女やいつまで経っても出世しない男、現代でも煙たがれるそれらが如実に非難される時代だ、母親である彼女が息子の将来を心配してしまうのは当たり前のことであるし、そうしていい歳になってまで母親に心配されてしまうということは恥ずかしいことに違いない。文章には出ていなかったが、ラスコーリニコフも自身でそう羞恥であると思ったからあのように腹を立てたのではないだろうか。私だってどうしようもない状況に立たされたとき、母親からあんな手紙(妹の婚約も含め)が届いたら埃を被っていたプライドが呼び覚まされてしまっても仕方がないと思う。そうした感慨にふけりながらプリヘーリヤから息子への手紙を読んでいるとき、私はふとある小説を思い出した。それは一八十三年に出版された「高慢と偏見」という作品だ。イギリスの女性作家ジェーン・オースティンの代表作の一つであり、私の愛読書でもある。この小説は一七○○年代のイギリスならではの社交界、家族関係、近所付き合い、結婚、恋愛を皮肉に描いており、現代とも共通する部分が多々ある素晴らしい作品の一つである。そして、この話の中に登場する主人公の母親が私の中で彼女、プリヘーリヤと似通った部分があると錯覚させた。娘の結婚を第一に考え、なりふり構わず家族にとって得だと思った人間には喜んで尻尾を振る主人公の母親にはプライドなんて塵ほどにもないが、そうした精神が少しだけプリヘーリヤを思わせたのだ。まだ何度も読み込んでいるわけではないので私にはプリヘーリヤが一体どのような人物なのか完璧に理解できているわけではないが、私が第一印象として彼女に思い描いたのはその「高慢と偏見」に登場する知性の欠片もない母親であった。その母親よりプリヘーリヤの方が何倍もマシであるとは思うが、それは知性と教養が彼女よりほんの少しあるだけに過ぎないからだろう。「罪と罰」の発行は一八六六年である。その五十三年前に「高慢と偏見」が発行された。やはり、この時代の背景に共通する事柄はしっかりとあるのだろう。ロシアとイギリス、また現代の日本でも母親は子を思い、子は母親を愛するが故に時に疎ましく思ってしまう。いつの時代も親子の関係というものは変わらないのだと思わせる人物、それが私にとってのプリヘーリヤである。

 冨田絢子

やはり、母プリヘーリヤといって一番印象的なのは、上巻に出てくるラスコーリニコフに送った手紙の場面である。約20ページにも亘ってプリヘーリヤの手紙の内容がそのまま描かれている。手紙を書くまでに、プリヘーリヤやその周りで起きた出来事を描くだけならば、手紙でなくてもよかったはずだが、プリヘーリヤの手紙で伝える手段を選んだということは、手紙であるから読者にも伝わるものがあるからなのだろうと感じる。プリヘーリヤの手紙は、大判の便箋2枚で25グラムほどもあったという。どんな大きな紙を選んだのだろうとは思うが、さらにそこには、「こまごまとした字でいちめんに埋められている」というのだから、それほどラスコーリニコフに伝えたかったことが多くあったのだろう。今回は、特にこのプリヘーリヤの手紙に着目してみたいと思う。
 まず、手紙全体を通して思ったことは、プリヘーリヤは実に感情的になりやすい人間なのではないだろうか、ということである。自分の身の回りで起きたことを手紙に書くときに、その出来事だけでなく常にといっていいほど、自分の考えや思いも混ざっていると思われた。書かなくても良さそうなことまで書いているところや、話題が急に変わっているところからも、感情に左右されやすい人物であることが読み取れる。文章ではあるが、言葉遣いや語尾などから、十分プリヘーリヤの感情の上げ下げが伝わってきて、表情までも感じ取れるような文面となっている。
 手紙の中でプリヘーリヤはラスコーリニコフに向けて、「私がおまえをどんなに愛しているかはご存知のとおりです」「おまえを抱きしめ、数えきれぬくらい接吻をします」と書いたり、「私たちの希望と望みの星」などと書いたりしていることから、心からラスコーリニコフを愛し、信じ、成長してほしいと願っていると取れる。それと同時に、「妹のドゥーニャを愛してやってください」と書いていることから、ラスコーリニコフだけでなく、妹のアヴドーチヤも同じようにこの上なく愛し、幸せを強く祈っていることが分かる。また、似たような言葉だが、「あの子がおまえを愛しているように愛してやってください」と書いているように、兄弟間が上手くいくことも望んでいるようだ。母親として、子供たちをこんなにも愛することは確かに素晴らしいことであるが、自分の娘を何度も「あの子は天使です」と言ったりするのは、いわゆる親バカであると思われる。少なくとも私は母親に、おまえは天使だなどと言われたこともなければ、希望の星だとも言われたこともない。おそらくこの先、言われることもないだろう。ちなみに、兄弟もいるが、「愛してやってください」などと言われたことはないし、そもそも私がそこまで愛していないので、自分が愛される部分も大いに減る。こういった違いは、我が家だから生まれているのか、国の文化や時代の違いから生まれているのかは定かではない。
 手紙はもちろん、他のシーンからも読み取れるのは、プリヘーリヤは宗教的な信仰心が強いらしいということである。ラスコーリニコフに対し、「ロージャ、神さまのお祈りはしているでしょうね、以前のように創造主にして救い主なる神のお心を信じているでしょうね?」と手紙に記しているのに加えて、物語の随所にも祈りを捧げる様子や十字が出てくる。また、子供たちがしっかりお祈りをし、不信になっていないかを心配しているようだ。しかしプリヘーリヤが宗教を信仰する思いが強いと思うのは、我が家があまり宗教とは関わりのない生活をしていたからでもあるだろうし、時代的な背景が強いのかもしれない。
 最後に気になった点は、プリヘーリヤは手紙の最後を「プリヘーリヤ・ラスコーリニコワ」としめているところである。手紙の場面を読んでいて、ふと、プリヘーリヤのフルネームがそんな名前だったか疑問に思い、登場人物の補足説明を見てみると、「プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ」となっており、やはり違っていた。結局どちらが本名のフルネームなのかはよく分からないが、手紙の最後をラスコーリニコワで書いたということは、プリヘーリヤはラスコーリニコフの母であるということを強く言いたかったのではないだろうか。名前の前には「おまえの生涯の母なる」と記していることからも、ラスコーリニコフの母でありたいという思いが伝わってくる。
 今回は主にプリヘーリヤの手紙についてまとめたが、手紙の内容はプリヘーリヤの性格や思いが大きく反映されており、全体のストーリーから見た母の姿でもあるだろうと思う。確かに感情の起伏が激しい部分などはあるが、子供たちのために必死になって働き、子供たちを誰よりも愛し信じる姿は、現代でも見られる時代を超えて共通した姿、気持ちであり、また、あまり見られなくなってしまった、見習うべき部分でもある。

 阿久戸芽生

主人公のロジオンにとってかけがえのない存在の一人である、母プリヘーリヤ。
プリヘーリヤが登場するのは、ロジオンへ熱烈的に書き連ねた手紙のシーンだ。
母から手紙が届いたと聞くと、彼は夢中で手紙を受け取りナスターシャを部屋から追い出し、「すばやく手紙を唇にあてて接吻した。」
久しぶりに届いた母の手紙の筆跡やらで心を弾ませるほどの期待をしていたに違いない。
一方、読み終えた後と言えば、気持ちも打って変って彼を苦しめた。
離れたところに暮らす息子に送る手紙というのはこんなにも強烈なのか。
「ロージャ、おまえは私にとってすべてです。私たちの希望と望みの星です。」殺人を犯そうと、こつこつ考えている最中、こんな手紙を読んだら滅入るに決まっている。
プリヘーリヤは女でひとつで、ロジオンを大学に入れ、娘のドゥーニャまできちんと育てあげた。彼女にとってロジオンとドゥーニャは文字通り宝であり財産に違いない。
しかし、やや行き過ぎた愛を所々であるが垣間見る。
第一この手紙は長すぎる。いくら母親であってもこんなに長い手紙を送られたら鬱陶しく思うだろうに、内容も然りである。
世の中の母親はみんなこうなのであろうか。
現代で言う、教育ママな要素を持っているプリヘーリヤだが何となく世間知らずというか優柔不断な雰囲気に嫌悪感を抱いてしまう。
ドゥーニャにとって身売りとも言えるルージンとの婚約に対しても、一切の疑念を持たないように努力をしているのか、はたまた気付かない振りをしているのかどちらとも言えない態度だし、手紙では「ルージンさんは、いろいろな点から見てもわかることですが、たいそう立派な方にちがいありません。」など抽象 的なことを繰り返して言う始末。
挙句の果てに、ロジオンがルージンとの結婚について断固反対しだすとすぐさまルージンに対して否定的なことを言い出す。
一体あなたは何しに遥々遠いところから来たんですか、と聞きたくなるくらいだ。
ロジオンはプリヘーリヤのことをどのように思っていたのだろうか。
ひたすら自室に籠り、黙々と自分の思想を広げ最終的に革命とも言える殺人を犯すまで、母のことをおもったときはあるのだろうか。
逆にプリヘーリヤは常日頃気にかけていた息子がそんな状況に追い込まれていることに少しも感づいたりしなかったのだろうか。
実際にロジオンと再会したときのプリヘーリヤは大変絶望したであろう。
久々に会った愛するロジオン、大事に育てた息子、が住んでいるところと言えばまるで棺桶のような部屋だし、病気を患っているなんて、なんという衝撃。
 しかし、そんなプリヘーリヤロジオンが自分から離れていくことを薄々気付き、今まで以上に心配する。ロジオンはそんなことは気にせずに相変わらず我が道を進む。
プリヘーリヤの愛情をもっとも感じるのは、ロジオンが最後に自分からプリヘーリヤに会いに行くシーンだ。
ロジオンが何か辛いことを抱えていると思い、毎日心配し会いに行きたい気持ちを堪えていたプリヘーリヤは、彼の突然の訪問のうれしさに口もきけない。
ロジオンの酷い身なりを気にしつつも、彼の書いた論文を三度も読んだのよと必死に息子のことを理解しようとしている姿には、心が痛くなった。
 「わたしはね、このまえからずっと、わたしたちがおまえにうるさがられているんだ、と思っていたんだよ。」の部分ではきっと彼女が誰よりも辛かったにちがいないことが分かる。愛している息子にろくに会えずにただただじっと待っていた期間は、生き地獄だっただろう。
「…で、今日はね、おまえに戸をあけてやって、顔を見たとたん、ああ、運命のときが来たんだなって思ったのさ。」
戸を開けた刹那、プリヘーリヤどれだけ辛かっただろう。
うれしくて堪らないはずなのに、ロジオンと二度と会えないと悟ってしまうなんて、あまりにも酷だ。私がもしプリヘーリヤだったら…と考えるとやっぱり泣いてしまうだろう。
手紙を送ってきたときのプリヘーリヤについては好感を得なかったが、この場面での彼女は本当に素敵な母親で哀れで、読み手に痛切な感情移入を起こさせる。
「来ます、来ますよ、さようなら」
の言葉を最後にロジオンは立ち去る。「さわやかな、あたたかい、よく晴れた夕暮れだった。」
私はこの部分が好きだ。罪と罰に出てくる景色で初めて気持ちが安らぐような場所だ。
この先プリヘーリヤとロジオンは会うことなく終わるのに、皮肉にもとても美しい情景が目に浮かぶ。
 ロジオンがこの後ついに自白しエピローグに繋がるが、プリヘーリヤは精神錯乱し、息子が帰ってくることを信じ待ち続ける。しかし呆気なく脳炎で死ぬ。
最後の最後までロジオンを信じて愛して死んだプリヘーリヤ。ここまで我が子を愛することのできる母親は現代、いや現実にいるのだろうか。
今の日本では母親が子供を虐待死した、なんてニュースはざらになってきている。
プリヘーリヤのように立派に一人で子供を育て、心から愛することのできる母親がいたら、それは素晴らしいと思う。上巻での手紙も最後まで読むと、何となく許せてしまう。
 話は反れるが、私は幼稚園のころに両親が離婚し、今は再婚したが、小学4年生までは母親が一人で私を育ててくれた。一人で子供を育てていくのはいつの時代であろうとも大変だと思う。だから尚更プリヘーリヤがどんな気持ちでロジオンやドゥーニャを心配したり大事にしたりしてたかと思うと、よくわかるの で辛い。
プリヘーリヤを通して、母を大切にしよう、と心から思う。


 中村 光 

いつの時代も母親というものは強いもので、彼女たちは長年、陰ながら夫を支え子供を育て家庭を守ってきた。もともと、女性自体強い生き物であるとされているが、母性が加わると、それ以上に女性は強くなるのである。例えば、これはテレビで見た話だが、地震で家が全壊し、瓦礫の下敷きになってしまった親子がいる。結果的に生き埋めになってしまった母親と幼い子供は救助されたのだが、それは親子が生き埋めにされてから三日後のことだった。ふつう、若干四、五歳の子供が飲まず食わずで三日間も生きられるはずがない。その子が生きられたのは正に、母親のおかげである。母親が瓦礫の破片で手などをきり、傷口から出る血を娘に飲ませ続けたのである。考えるだけで苦痛の伴う話だが、そこにはやはり母親の大きな愛を感じることができる。
そんな正当な愛の一方で、歪んだ愛情を見せる母親もいる。子供を甘やかす行為も愛情あってのことだと思うのだが、その行為が行き過ぎると恐ろしいことになる。あまりにも人気名作品なので我々の記憶にも新しいが、映画『踊る大捜査線』での一幕で、織田裕二演じる刑事、青島が犯罪に手を染める青年の部屋に押し入るシーンがある。青年たちを摘発しようとする青島だが、青年をかばった母親に刺されてしまうのである。この母親も子供への愛情に変わりはないが、愛し方を一歩誤ると、それは完全に行き先を見失い迷子になるのである。それにしても、子供のためだったら人だって殺しかねない母親は強いというか、肝が据わっている。
しかし、先に述べた種類の母親には共通点がある。それは、どちらも行動に移す瞬間は冷静な心理状態にあったということだ。人間とはパニック状態に陥ると平静を失い、何も考えられなくなる。いわゆる頭が真っ白という状態である。実際、『罪と罰』でも金貸しの老婆、アリョーナを殺害した後のラスコーリニコフは目的も果たさずにげてしまう。このようにふつうの人間ならパニックになってしまうような時でも母親というものは常に思考し、いついかなる時でも冷静さを失わない生き物なのである。
小説の中の世界とはいえ、ラスコーリニコフの母、プリヘーリヤにもやはり同じことが言える。プリヘーリヤがラスコーリニコフに宛てた手紙には母親としての彼女の性格がよくでている。プリヘーリヤは最初に、返事をしなかった詫びをいれてから本題にはいる。妹、ドゥーニャが家庭教師として住みこんだ家の主人、スヴィドリガイロフの家でひどい仕打ちをうけたことを告げるのだ。ここで彼女はすぐに返事を返すことができなかった言い訳をのべる。「私自身が絶望していたようなわけでしたが(ドゥーニャがひどい仕打ちをされていた件について)、本当にどうしようもなかったのです。それに私自身、当時は事の真相を全部は知りませんでした。」と自分は悪くないということを一心に主張しているのである。それどころか、むしろ「ドゥーニャには困ったもんよ!」と言わんばかりに金をまえがりしたドゥーニャに責任を転嫁するのである。さらに、そのドゥーニャの金の前借りの件は「何よりもまず、お前に送る六十ルーブリを都合しようためでした。」と責任は転嫁に転嫁を重ね、最終的にそれがラスコーリニコフのためであることを明かしたのである。プリヘーリヤがこのように意図的に遠まわしにしたのは他でもなくラスコーリニコフに嫌われまいとするためなのだが、息子をもつ母親特有の感情あっての行為であると考えられる。人間は母親であっても本能的に娘よりも異性である息子を可愛がるという性質があるため、プリヘーリヤは娘であるドゥーニャを犠牲にしてまでラスコーリニコフを出世させようという奇抜な考えに及ぶのである。
しかし、ドゥーニャに求婚する弁護士、ルージーンは彼女のことを「ものの考え方に少しばかり浮ついた、メロドラマ的なところがあるよう」な母親だと思っている。そんなピュアなルージーン氏をあざ笑うかの如く、プリヘーリヤは陰でラスコーリニコフの出世計画を進めているのである。さらに、そのことについても手紙で述べているのだが『お前自身があの方のお仕事の右腕になれば、恩恵をうけるというより、当然受け取る給料としてこの援助を受けられるわけですから…』とラスコーリニコフが働かせてもらい、給料をもらうことが当然のことだと悪びれもせず主張している。しかも念には念を重ねるべく遠まわしに、それもラスコーリニコフの癇に障らないように述べているのである。
ラスコーリニコフの母プリヘーリヤは、一見おっとりしていて子供思いの母親と読み取れるが、その化けの皮をはがせば、さまざまな事柄において損得を考えて行動するような、打算的であり、なおかつ恐ろしく冷静な人間なのである。また、手紙の長さからみて彼女の中に何か出世に対する執念のようなものが感じられる。いうなれば、彼女はいわゆる「オバチャン気質」な性格で、もらえるものはもらっておこうと思っており、それも直接自分にダメージがないように、うまく周囲の人物をまるめこみながら事を進ませようとする考えからは、やはり母親が持つ冷静さが垣間見ることができる。今風の言葉でいえば母プリヘーリヤは「強い」人間なのである。

 村上絵梨香

 今回はロジオンの母、プリへーリヤについて書く。
彼女はロジオンのことを、とてもよく理解していると思う。彼女は息子に出した手紙にこう書いていた。「あまり性急にいちずな判断をしてほしくない」と。この一文はロジオンの今を、そして健全に生きていた過去の姿をありありと想像させる優れた文章だと思う。私はこの一文を読んだだけで、今のロジオンが決して狂気に犯されている訳ではないのだということを理解した。彼は本来からあまり人の意見を聞かず、思い込みもかなり激しい方なのだろう。
彼女の書いた一文、及びロジオンに宛てた手紙は、私たち読者がそれまでロジオンに抱いていた異常性を和らげ、彼を身近な存在として認識させることに成功した。何てことはない。彼は何処にでもいる普通の、お母さん子の青年だったのである。
ところで、プリへーリヤとロジオンは親子だが、二人の似ているところは何処だろう。私は理屈っぽいところが似ているように思う。ロジオンの独り言も、プリへーリヤの手紙も、くどくどとながく言い訳が多い。しかし、二人には決定的な違いがある。プリへーリヤは息子と違い、現実主義者なのである。
ロジオンは自分の意見がいつも正しいと思っている節があり、それを絶対に曲げようとはしない。それ故彼の人生は、彼自身にとって生きづらく、ストレスの溜まるものなのかもしれない。しかしプリへーリヤは、自分の意見が正しいという自信と共に、それを時には折り曲げることも出来る柔軟性を持っている。彼女は娘のロマーノヴナの婚約相手に対し、人間性の面において不安を感じてはいるが、そんなものは何とかなると言っている。貧乏に苦しんだ生活の中で、不自由のないことが一般的な幸せであることを身に染みて分かったからだ。娘も同じ考えである。二人の女は精神的な幸福よりも、物理的な幸福を長男に与え、身を立てさせることを選んだのだ。その証拠に、プリへーリヤは手紙の中で「ロジオンが自分と娘にとって一番の希望」だと述べている。この考え方から、当時の男尊女卑の思想を垣間見ることが出来る。男の方が優れていると認識されていた時代だからこそ、プリへーリヤとロマーノヴナはたくましくなり、ロジオンを懸命に支える役目に呈したのだと思う。
一方、家族に支えられ、守られて生きたロジオンは、三人の中で一番現実を知らず、甘い人間に育ってしまったように思う。
彼は聡明で自信家であり、いつも自分が賢いことを言っていると思っている。しかし、賢いことが万事いいこととは限らない。彼は意志が強いかもしれないが、それだけである。曲げられる強さを持っていない彼は、家族の中で誰よりも弱く、子供で、生きていく力を持っていないのだ。
しかし、プリへーリヤはそんなロジオンの未熟さを分かっている。だから彼女はロマーノヴナの結婚について、皮算用の物理的メリットを長々と書き綴ったのだ。彼女は二ヶ月ぶりに出す息子への手紙に、息子に対する愛情の他、「折れろ」というメッセージを込めたのではないかと思う。独りよがりな息子に、世間一般の幸福に身を委ねること、折り合いをつけることを学んで欲しかったのだと思う。
さて、そんな思いの詰まった手紙を、健全な頃のロジオンが読んでいたらどう思っていたか。それは別として、以前より神経がより鋭くなった今のロジオンに、偽りだらけのこの手紙は家族への愛情に勝る憎悪を与えてしまった。プリへーリヤはそれに気づいているのか。ロマーノヴナの結婚はどうなるのか。この二つの点がこれからの展開としては気になるところだ。
 プリへーリヤは聡明でたくましい、立派な女性だと思う。しかし母親として、ロジオンを正しく教育出来たかは分からない。自分と娘を犠牲にしてロジオンに尽くした日々が、彼の中の傲慢さを肥大させてしまった可能性もある。当時の時代背景からして、二人の女の長男に対する終着は仕方の無いものだったのかもしれない。しかし、男女差別の無くなりつつある現代にも、このような母親は多くいるように思う。
子供を教育するにあたって、大切なこととは何なのか。聡明さと意志の強さを尊重すると共に、臨機応変に自分を変えていくことも大切なのではないか。私は「罪と罰」に登場するプリへーリヤという「女性」を見て、「母」を見て、このように思った。
最後に、もし私が将来子供を育てることになったなら、子供と自分自身を客観視し、子供が一人でも生きていけるような力を育むことが出来るように、心がけたいと思う。

 宮崎 綾

 ロジオンの母、プリヘーリアはロジオンに長文の手紙を送った。
 私自身は実家暮らしであるため、母から手紙をもらった経験がないが、約二十ページにわたる長文の手紙を息子に送るのは異常である。
 娘に送るのは百歩譲って理解ができるかもしれない。だが、送り先は大学生の息子である。
母親から息子への愛というのは重くなりがちである。だが、それにしても異常な量である。
 また、量も然ることながら内容も非常に狂気的である。
まず、プリヘーリアは経済的な苦労を息子に語り始める。一見、普通の会話のように見えるが、どうだろうか。
 聡明な母親であれば、上京している息子にどれだけ金策が大変だったかを語ることはしないと考える。
なぜなら、教えても息子はどうすることもできないからである。そのことに息子が引け目を感じながら生活するのを快く思わないのが普通である。
次に金銭の話から妹ドゥーニャの苦労話に続く。
ドゥーニャが奉公先の旦那に色目を使われ辟易していたのに、辞めることができなかった理由をプリヘーリアはこう綴っている。
「百ルーブリというお金を前借し、毎月の給料から差しひいて、返す約束になっていたことで(省略)おまえに送る六十ルーブリ都合しようためでした。」
(『罪と罰』七十ページ抜粋)
 上記の文で、プリヘーリアは暗にドゥーニャの苦労はロジオンのためであると言っているのである。
 ドゥーニャがどれだけ素晴らしい娘かを語るのには十分な手紙であると私は思う。
しかし、いくら一家の長として信頼していたとしても息子であるロジオンに話すべき内容ではない。
 ロジオンに大きなプレッシャーや引け目を感じさせるに違いない。
こんな手紙が母親からきたらどうだろうか。卑屈になっていくに違いない。
 その上、ルージンとドゥーニャの結婚についても娘が息子のために身を売る話をロジオンに言って聞かせている。
 ロジオンの学費や将来の勤め先、母親自身の身の振りやルージンの失言、ドゥーニャの様子のことまで事細かに説明しているのである。
 優秀なロジオンがどのような状況なのかを推測することは簡単なことのように私には思える。
 そのことにロジオンは苦しむ。が、プリヘーリアにしてみれば、娘を売ることへの罪悪感を息子になすりつけているのである。
その上、それを自覚していない。
 この無自覚こそがプリヘーリアが愚者である理由なのである。
 また、プリヘーリアのルージンへの評価も過大評価である。
ロジオンは花嫁とその母、二人分の旅費も出さない人間が(それもまだ結婚前である)、これから結婚した先にも、いくらも出すことはしないと考える。
でもそれはもっともなことで、二人分の旅費を出さない人間が花嫁の兄の学費を払うようには思えない。
それにも関わらず、プリヘーリアは獲らぬ狸の皮算用であてにもならない利益を並べ立てているのである。
しかし、上にあげたことよりも私が気になったことがある。
「……それはそうと、母さんはああいう気性だから、仕方ないとしても、ドゥーニャはどうなんだ?」
(『罪と罰』九十三ページ抜粋)
上記の文でわかることは、息子が母親の意見よりも妹の考えを参考にしようとしている。
 信用のない母親、もし自分の母親であればどうだろうか。


 崎田麻菜美

 初めに書いておこう、私はまだ『罪と罰』の上巻中間地点までしか読んでいない。そのためプリヘーリアのことに関してはロジオンにあてた手紙でしか推測できないが、この時点で書いたプリヘーリアについての私の考えと思いを、後々『罪と罰』を読み切った時に読み返すと、たぶん違ったものになっているだろうから、それはそれでおもしろいと思い、特に無理に本を読み進めることなく、プリヘーリアについて今の感想を綴ろうと思う。
 彼女のロジオンに対する愛は、異常で一途だ。異常なまでに一途なのではない、あくまで異常で、一途。事細かに周囲の近況、ロジオンに対しての愛、憎しみ、困惑する心中を伝えようとするあまり、彼女は知らず知らずのうちにロジオンを苦しめているということに気づかない。それはまるで遠距離恋愛中の恋人同士のようだ。顔が見れないから、どこで何をしているのかわからないから、毎日連絡を取り合って愛を深めているつもりでも、それがある日を境に重く感じ、最終的には顔も見たくない、声も聞きたくない、別れへと発展していく。森鴎外作『舞姫』に登場するエリスが太田豊太郎に送っていた手紙にもよく似ている。いや、むしろ『舞姫』の手紙のほうが似せているのかもしれない。共通点は相手を思いやるあまり、それが時折憎悪を含ませたものになっているというところだ。
プリヘーリアはロジオンを愛しているが、手紙を読むかぎり、やはり憎悪が時折見え隠れしている。と、私は思う。これはあくまで私の考えだ。断言はよくない。そしてこの感じは、現代のヤンデレに精通していると思う。
愛しているが故、殺してしまう……とか、そういう部類のものだ。彼女の手紙からは、そんな殺気まで感じ取れる部分もある。何度も繰り返し、ロジオンがそうしたように読み返すと、彼女への印象がちょっとずつ変わっていく。
 しかし女手一つで二人の子供を育て上げたことには感心する。私なら絶対に無理だ、これは断言してもいい。しかも生きていける最低限の知恵を、口伝えで……というものではない。きちんと学校にも通わせ、兄は有名大学へ、妹は家庭教師が務まるまでに知識が高い。これは本当に、すごい母親なのだ。私の友人にも、母子家庭で育った人が何人かいる。それ故に、いかに母子家庭で立派な教育を受けさせるのが大変か、知っている。みんなロジオンのようにはいかない。子供の頃からの英才教育が大切だとか、やたら高額の料金で幼児向けの塾を開いているところもあるけれど、プリヘーリアは自分で教えていた部分もあるのだから、彼女自身、頭のいい女性だったのだろう。
 彼女に関しては以上だが、今後『罪と罰』を読破して、改めてきちんと書き直したいと思っている。


 ソーニャと私


 北村哲士

 私は十五歳の時に、母親を亡くしている。その傷跡はいまだに残っているかもしれない。乳がんであった。母親という存在は、特に男にとって、あまりに大きな存在である。母なる大地という言葉が示すように、私には、いまだ大地に根を下ろしているという気持ちが持てずにいる。
 ただ、ここ一、二年であろうか。私はある年配の女性の方と面談を続け、「喪の作業」という言葉に出会った。結局、私の心の葛藤は、母親への「喪の作業」が終わっていないということだったのだ。
 この女性との対話は、正直に言えば、大変につらい作業であった。何しろ、自分の心の底にある、「内臓の言葉」をつむぎ出さねばならなかったからだ。
 しかし私は、辛抱に辛抱を重ねて、女性との対話を繰り返してきた。そのうちに、その「内臓の言葉」が、ごく自然に口からこぼれ落ちるようになってきた。それは私の成長と言っていい体験だった。
 かつて、私には年上の女性と付き合う機会があった。彼女の最後の言葉は。次のようなものであった。
 「私はあなたの母親ではないの」。
 私がその言葉の意味することを、完全に理解したのは、つい最近のことだ。ああ、喪の作業が終わっていなかったのだな、と。そして私は、あらゆる場面において、女性のことを母親として捉えているのだということに気づかされた。しかし、現実には、もう母親という存在は、私の目の前にはいないのである。存在しないものを追い求めるほど、辛いことはない。そう、もう母親はいないのだ。
 そんなことを日々考えながら、私はソーニャについて考えた。ラスコーリニコフにとって、ソーニャという存在はどのようなものであったろうか。
 強引に私の経験と結びつけるつもりは毛頭ない。ただ、私がラスコーリニコフとソーニャの関係に思いを致す時、こんな考えが頭に浮かんだ。彼にとっては、ソーニャは母親のような存在だったのではないか、と。
 ソーニャの台詞には、心に残る多くの言葉が書かれている。その台詞を、すべて列挙するわけにはいかないが、例えば、こんな台詞を引用してみてはどうだろうか。

 お立ちなさい。いますぐ、すぐに行って、十字路に立つんです。おじぎをして、まず、あなたが汚した大地に接吻なさい。それから四方を向いて、全世界におじぎをなさい。そしてみなに聞こえるように、「私は人を殺しました」と言うんです。そうしたら神さまが、あなたにまた生命を授けてくださる。行くわね。行くわね。
 
 大地に接吻するという行為は、まさに象徴的である。私には、この台詞が、大きな意味での母なるものを代弁しているように思われた。おそらく、ラスコーリニコフにもソーニャにも、そのような意識はないであろう。しかし、私には、この台詞が語るように、母親が子供に語るそれであるように思えた。
 大地とはなんであろうか。
 母親そのものである。そして、信仰でさえある。
 私には、ソーニャの存在が、この小説の救いであるように思えた。
 救済である。
 ただ、私だけではないだろう。宗教というものが、一体、どのようなものであるか、それがわからないのである。
 ラスコーリニコフが次のような考えを持つ箇所がある。
 
 ソーニャを訪ねて来る道、自分のすべての希望と救いが彼女のうちにあるように感じていた。彼は自分の苦しみのいくぶんかでも軽減したいと考えていた。ところがいま、彼女の心があまさず自分に向けられてみると、彼はふいに、自分が以前よりかぎりもなく不幸になったことを感じ、意識したのだった。

 ここに在るものは、彼の母なるものと切りはなされる心細さである。
 男にとって母親とは、自らを守り、庇護してくれる存在なのだ。そこから切断される時の感覚は、私にとっても分かりきってあまりあるものだ。
 本作『罪と罰』は、大いなる母を求める物語であり、そして神に近づくそれなのではないか。
 ソーニャの存在があらわれたことによって、私の、この作品に対する印象は変わった。
 母親とは、常に「私」を庇護するものである。この文章は一歩まちがえれば、「マザコン」の人間が書いたものと見えるだろう。
 だが、もうそれでいいのだ。疲れきって、言葉など、もう出ないのだ。
 

 中村 光 

今日は雨が降っていて少しジメジメしているせいだろうか。私の気分も同じようにジメジメして湿っている。まるで、風通しの悪いムッとした夏場の実家のあの路地みたいに。原因は自分で理解している。たくさんの原因が集まってできた単なる寄せ集めみたいなものだってこともわかってはいるのだけれど、どうしても悲劇のヒロインを自ら演じてしまう。はい、はい分かりました私がやればいいんでしょ、って言って、言いたいことを自分の中にため込んでレジスタンスすることさえできない。そうしたところで、どうせ解決にはならないし、何より後が怖い。少しのレジスタンスが後々に何倍ものサディスティックなストレスになって返ってくることを知っているから、怖い。もう、本当にどうしようもないとしか言いようがない状況。これを憂鬱という言葉だけでかたずけられるだろうか。 
あの時のソーニャもこういう状態だったに違いないと私は思う。母親に「ただ食って飲んで、ぬくぬくしてやがる」、そんなこと言われてショックを受けない子供がいるだろうか。しかもソーニャは長女であるため責任感が強く、働いてはいたが客には文句ばかり言われ、金もまともにもらえていない。挙句おやじは飲んだくれて金もろくに持ってきやしない。それどころか寝てばかりいる。もうどうしようもない状態だろう。運が悪いとしか言いようがない。そして彼女は最初で最後のささやかな抵抗をする。「じゃ、カチェリーナ・イワーノヴナ、ほんとにわたし、あんなことをしなくちゃいけないの?」。それをせせら笑うかのごとくカチェリーナは「それがどうしたのさ、なにを大事にしてるのさ!たいしたお宝でもあるまいに!」。こんなことを言われたらどうしようもなく生きる気持ちなんか萎えて、人生を諦めるしかない。私だったら、たぶん自殺するだろう。愛する母親にそんなこと言われたら、この先自分がどうなろうとかまわなくなる。ソーニャもここで諦めがついたのだろう。5時をまわるとネッカチーフをかぶりマントをはおって身を売りに行く。ソーニャは何もかも諦めたのである。自身の体もプライドも、そして未来も。何も言わずに出て行ったソーニャには絶望と決心がみられる。人は望みを失うと言葉を忘れ感情だけが前面にでてくる。ただ、ただ泣くことしかできないのだ。 
貧困は、人の人生はおろか平常心までも奪う。恐ろしいものである。カチェリーナがこのような卑劣な言葉をはいたのも仕方のないことだった。カチェリーナがこのような言葉を言ったのは他でもない、貧困のせいである。家族の将来はおろか今生きることさえままならない状態なのに夫は帰ってこない、金も着るものもない。そんな状態の中でカチェリーナは平常心を奪われ、何も考えられなくなってしまったのである。要するに気が狂ってしまったのだ。そしてソーニャも一種そのような状態に陥ってしまっていると考えることができる。18,19歳くらいの娘だったら他にも違うやり方で金を手に入れることだってできたはずである。しかしソーニャはもう身を売るしかないというように家をとびだす。貧困は正常な思考能力まで奪い、異常な状態にしてしまう。これを機にソーニャは何もかも諦めなくてはならない人生を歩み始めるのである。
そんなある日、父マルメラードフはソーニャのところへ酒代をせびりに行く。ソーニャは無言で30カペイカを渡してしまう。ソーニャは何故ここで30カペイカを渡してしまったのだろうか。かわいそうだとでも思ってしまったのだろうか。否、この時ソーニャは父親さえも諦めたのだ。きっとこの時のソーニャは瞳孔が開いていただろう。まさに言葉を失ったのだ。だから手元にある30カペイカも諦めたし、父親がまともになるのも諦めたのである。マルメラードフは神が、いずれソーニャを赦して下さると言っているが残念ながらソーニャは一生赦されることはない。『罪と罰』、最後はラスコーリニコフがソーニャを愛すことになっているのだが、結局、ソーニャはその愛さえも手放さなくてはならなくなってしまう。ソーニャはこの先も諦める人生をおくるのである。
ソーニャと私には唯一の共通点がある。それは私たちにまともな未来なんてないことだ。ソーニャは一生このまま体を売って生きていくだろうし、家族を支えるためにはそうするしか他に道はない。私はこのまま大学でなるべく目立たないようにコソコソ生きて行って、すでに学歴社会の下層にいる私は卒業しても就職先がなくて、結局、自分の夢なんか諦めて、適当な会社に入社して、適当な人と結婚して、適当に子供産んで適当な名前付けて、それから適当に専業主婦やって、否、もしかしたら就職さえできなくて挙句の果てには結婚もできないかもしれない。どちらにせよこのまま、ずっと死にたいと思いながら死ぬまで生きなければならないのは確かだし、そうするしかない。いっそのことソープ嬢でもやって体でも売ってみようか。人生諦めると何だってできそうになるもんである。

 引間 沙代子

 私の父は大層なお人だった。仕事に関しては真面目だが、いかんせんその他のことに対しては短気で要領の悪い男だった。そんな父に苦労させられるのはいつも母親で、私はそんな二人の後姿を見ながら育った。――もし父が仕事に真面目じゃなかったら…もし母が病気だったら…?こう考えてみると、一体どうなるだろうか?それならば私もソーニャのように自分を売るような仕事に就いていたのであろうか?私は考える。恐らく身売りまでは行かずとも、少なくともそれに近い仕事はしていただろう。ソーニャが置かれた状況はその時代から考えると仕方がないにしても、まだ年も若くさらに神を篤く信仰する彼女からしたらさぞかし辛かったものだろう。物語を読み進めていく内に私はソーニャに同情の思いを抱いていた。少しだけ神に対して狂信的過ぎやしないか?とも思ったが、どうしようもないくらい貧困で家族には頼られ何もかも捨て去ることの出来ない彼女には唯一神を信ずることのみが救いだったのだろう。そう考えると、ソーニャの神への盲目的な信仰も納得することが出来る。作者のドフトエフスキーもきっとそういう意図があり、彼女の神への思いを綴ったのだと思う。ソーニャは純粋だ。けれど、その中に誰も入る込むことのできない暗い影があるのも事実だろう。まだ全てを読み終わっていないから分からないが、どうにも私には彼女の裏に何かがあるように思えて仕方がない。こんなにも殆ど完璧な女性…いや、人間がいるのだろうか。物語だと括ってしまえば簡単だが、そうはいかない。そこで私は皮肉にもラスコーリニコフに出会って直ぐに死を遂げた彼女の父親を思い出した。マルメラードフ。自分の殻に閉じ篭り、何があってもそこから出ようとしない、自称・自虐的な人間代表である。酒場で酒を飲むのは自分を苦しめるためだと豪語する彼は滑稽以外の何ものでもない。いや、働きなさいよ、と彼の告白を読みながら何度そう思ったことだろう。内容が濃いようで薄いそれに頭を抱えながら読んだのは記憶に新しい。もし私にこんな不肖な父親がいたとしたら縁を切るごときでは許されない。出来れば一生会いたくはないだろう。たまにふらりと現れたかと思うと「酒を買う金がないからくれ」と第一声にはもうそれだ。そしてソーニャは心優しいのか、ただあしらうのが面倒くさいのか(父が死んだときの反応からしてそれは無いだろうが)、マルメラードフに三十カペイカを渡してしまう。それによって父がより一層堕落してしまうと知っているにも関わらず、彼女は自分で自分の首を絞めてしまうのだ。それはソーニャの心に眠る父への愛がそうさせるのか、それとも彼女の中に生まれてしまった同情という思いがそうさせるのかは私には分からないが、それは少なくとも後者だと言いたい。何故なら、本当にソーニャが父親を愛していたのなら、最下層にいる今この状況から彼を救い出してあげたいと思うのが普通ではないだろうか。それなのに何も言わず(それは言いすぎではあるが)お金を渡していたということはマルメラードフを純粋に愛していたのはなく彼に同情していたと考えるのが常識だろう。こんな父親を持ったソーニャは悲劇のヒロイン以外の何者でもない、と私はこう考えるのだが彼女からしたらそれはまったくのお門違いもいい所なのかもしれない。仮にソーニャがマルメラードフを父として純粋に愛していたとしてお金を渡していたと言うのなら、そこに無粋な同情など組み込んではいけないのだ。「私だったらそんな父親は愛せない、愛したくもない」という先立った自分の思いが邪魔をして彼女、ソーニャの聖母のような愛を汚して見ていたとも言えるだろう。結局は私とソーニャでは思考回路も物事の捉え方も育ってきた環境も性別以外何もかも違うのだから互いに理解できないことが大いにあるのは仕方が無いだろう。私は彼女に同情する。そして尊敬もする。けれど彼女のような人間に成りたいとはまったく思わない。彼女のように盲目的なまでに神に縋りたいとは思わない。それは私という人間が育ってきた環境がそう言わせてくれるのだろう。まるでソーニャを貶しているような言い方だったが、それは違う。私は苦しくて仕方がない生活の中、それでも輝きを失わない彼女という人物に嫉妬をしていると同時に心から尊敬しているのだから。私はどうあってもソーニャには成れない、そしてソーニャもどうあっても私になることは出来ない。それは時代がそうさせたのではく、周りを取り巻く家族だとかそういった家庭環境がそうさせたのだ。もし私がソーニャと同じ環境下で生まれ育ったのだとしたら、彼女のようになっていたかもしれない。けれどそれは分からない。私はソーニャではないのだから。


 崎田麻菜美

マルメラードフがロジオンにソーニャのことを話した時、最初に売春婦だという事実を話していた。普通、見ず知らずの他人に自分の娘のことを話す時、売春婦などと明かすだろうか。それともこの時代の、ソーニャの年齢くらいの女の子は、みんな副業程度でも売春に手を出さなければ生活も成り立たなかったのだろうか。その後もソーニャのことに関してマルメラードフは話しているが、やはり売春婦だという印象が色濃い。自らのカラダを売って金を稼ぎ、その金は父親の酒飲み代として消えていく。なんという悲劇、悪循環、負の連鎖。ちなみに私は、売春行為はしたことがない。もししていたら、今頃私はこの原稿を書くこともなく牢屋の中だ。
しかし私は、ソーニャのような女の子を一人知っている。もちろん、今の日本で売春行為は犯罪だ。これはある意味告発文に似ているかもしれない。その子は別に、家計が貧しいからカラダを売っているわけではなかった。自分のカラダで稼いだ金は、全て自分で管理をしていたみたいだし、好きなように使っていた。彼女に聞いたことがある、知らない他人とのセックスはどんなものなのかと。彼女は冷静な顔をして私に言った。
「どうも思わない。気持ちいいと思ったこともないから、快楽のためにやっているわけではない。ただ自分が嫌いだから、他人に汚して欲しい。」
 彼女が自分のカラダを売りに行く行為と、ソーニャとではまるで物の考える次元が違う。ソーニャは望んではいないのだ、他人とのセックスを、売春を。そして稼いだ金を惜しみなく家族へと差し出す。なんて健気で病的な行い。それはもう思考回路が働いていないのだ。マルメラードフの話の中の、私が思うソーニャはいつも虚ろな瞳をしている気がする。それはもう売春を何の欲も意志も持たずに繰り返し、からっぽになってしまった人形のようなものだ。
私は売春をしたことはない。けれどセックスは好きではない。正直女は気持ちよくはないのだ。男が勝手に気持ちよくなって果てていくだけの行為。……我ながら最低な評価かもしれない。だが、そう思っているからこそいくら金が無くても売春には走らない。もしセックスに関して何の嫌悪感も罪悪感も持たなくなったら……それは彼女のようになってしまうかもしれない。
ソーニャはきっと嫌悪感とか罪悪感をずっと抱いたまま他の男に抱かれ続けているのかもしれない。だとしたら死にたくなるほど苦痛なはずだ。しかし彼女に選択肢はない。無理に自分を着飾って、高値で抱いてくれる男を捜しに街へ出る。そして抱かれ、金を家に運び、また男に抱かれに街へと出て行く。マルメラードフは、そんなソーニャが見ていられないと言っていた。しかし現実は娘が抱かれた金で酒を飲むのだ。
売春と言うからいけないのだろうか、ふと思ってしまった。キス一回の値段を決めて街に出る。キスくらいならいい。しかし本来売春婦は、カラダを売るときでもキスだけは絶対にしないらしい。キスだけは、最愛の人のためにとっておく……と、聞いたことがある。最も、キスだけとっておいても、その最愛の人が他人の男に抱かれた女を抱きたいと思うかが問題だ。
ソーニャは、誰のためにキスをとっておくだろう。私がキスをしたい相手は、たった一人決まっているけれど。


 林英利奈

ソーニャは、自己犠牲的だ。というのが、マルメラードフの告白を読んだ私のまず第一の印象だった。父親は大酒呑み(今でいうところのアルコール中毒なのであろう)で、義理の母は肺病持ちでヒステリック。義理の弟や妹たちは、毎日お腹をすかせている。そんな中で彼女は、朝から晩まで身を粉にして働き、あげく体を売りもする。彼女は大きいものから小さいものまで、ありとあらゆる苦を背負っている。それが、実の父親のセリフの中で、はっきりと伝わってくる。
キリスト教圏の国では、身売りというのははっきりと軽蔑されるのだろう。事実、彼女は家を出る羽目になっている。クリスチャンではないので詳しくは分からないが、姦淫の罪に触れるからだろう。男性原理主義をとった西方教会が、マグダラのマリアを『罪深い女』と同一視しておとしめた事からも、それがどれ程嘲りの対象になるかを伺わせられる。ちなみにロシアで信仰されている東方正教会マグダラのマリアと『罪深い女』の同一視を行っておらず、聖母マリア・エジプトのマリアに次いで人々に篤く敬われているそうだ。そして、エジプトのマリアは姦淫の罪を悔い荒れ野を彷徨い、神の祝福を得た女性である。
話をソーニャに戻そう。彼女は生活のため、父母のため、弟のために身売りをする。健気だと言ってしまえば終わりかもしれないが、自己犠牲というのもどこかおかしい気がする。何故ならば、全てを終えて帰ってきたソーニャに、義母・カチェリーナは足に接吻をし、抱き合って眠りもしたのだ。甚振り怒鳴りつけもした義理の娘に、それほどのことが出来るのだろうか?
私はふと、ここでソーニャは、自己犠牲だけの女性ではないのではなかろうかと思った。これを書いている現時点では、私は『罪と罰』を読み切っていない。マルメラードフではなく自分自身の視点でのソーニャという女性については、いまいちよくわかっていない。この告白の中のソーニャは、確実に父親に対して『精神的な優位性』を得ている。それは義理の母に対してもそうだ。だからこそ、私はこう思う。『ソーニャは自分の体と世間体を犠牲にして、家族の好感情を獲得した。』のだと。
ソーニャが敬虔な女性なことは聞いているが、しかしそれら信心全てを取り除いた先にある感情は、案外「ざまあみろ」なのではないだろうか。綺麗な人間なんて存在しないことを、ソーニャは一番分かっているのではなかろうか。体を売る人間が居るのは、体を買う人間が居るからだと、分かっているのではないだろうか。ざまぁみろ、娘に体を売らせて、お前は酒を飲んでいるんだぞ。申し訳がないでしょ、情けないでしょ、自分が――と、彼女は心のどこかで思っているのではなかろうか。少なくとも、私が彼女の立場であれば、それ位のことを思っている。
彼女がそんなことをかけらでも感じていないなら、それこそが彼女と私の、違いなのだろう。人間が追いつめられた時取る行動は、大体似通っている。生活に困った女性が最後に体を売るという手段に出るのも古今東西どこでも同じだ。同じ環境に置かれれば、存外誰でも同じことをしてしまう。大切なのは、『その状況でどんなことを思い、考えるか。』だ。
マルメラードフの家庭では、彼女が唯一の働き手として家族を養っている。体を売るという最低な手段で。だがそれは本当に、マルメラードフが言うように可哀そうな、健気な娘がうちひしがれながらおこなっているのだろうか。彼女はそれほどまでに聖女なのだろうか。傍目からは可哀そうな、可哀そうな、可哀そうな女に見え、彼女自身も打ちのめされているとしても、心のどこかで「ざまあみろ」が無いと言い切れるのだろうか。
もっとも、この「ざまあみろ」仮定は、今の私だからできることだ。今、というのは現代の、ということだ。現代日本では、もし父親が借金を背負っても、18くらいなら家を出て、行方をくらませてどこか他県でアルバイトだのなんだのして、資格でも取りながら必死になって働き、正社員になって――そして、親が死んだあと残った借金だって、相続権を放棄してしまえばそれでおしまいだ。親と縁を切ってしまえば、同じ状況でも全く違う結末になる。それを知った上で家族を見捨てずに体を売れば、「ざまあみろ」と考えられるのであろう。
だけれど、ソーニャの居る時代のロシアでは、それは叶わないのかもしれない。素性の知れない女性は、雇ってももらえないのかもしれない。それしか道が無いうえで行っているのとそうではないのでは、話が全く違うのだ。
最後に。マグダラのマリアは、改心した娼婦の守護聖人であり、また『罪深い女』はイエスの足に香油を注ぎ、自らの髪でぬぐった、もしくはその足に接吻したと言われている。カチェリーナが、帰ってきた義理の娘の足に口づけたのは、自らの懺悔であり、真実家族の救い主であったからではないだろうかと、私は思う。


 阿久戸芽生

まずマルメラードフの告白について書きたいと思う。
安酒場でマルメラードフがロジオンに身の上話をする場面は長い。言いかえると、マルメラードフの話が長すぎるのだ。いくら酔っぱらっていても、自分の家庭事情をこと細かくあかの他人に教えないだろう。しかしマルメラードフは、妻のカチェリーナがサディスティック且つヒステリーなこと、娘のソーニャが売 春婦であること、小さな子どもたちは三日もパンの皮さえ食べていないこと、など他の客さえもが面白がって聞き耳を立てているのに、べらべらと話す。
私が思うに、マルメラードフの役割は、カチェリーナとソーニャのことを説明するだけのためにいる気がする。マルメラードフ自身どうしようもない人間だし、ロジオンも彼を「卑劣」だと思っている。マルメラードフは馬車に飛び込み自殺する。死ぬ間際まで家族に迷惑をかける男は死んだほうが家族のためなのか もしれない。明確な理由はないが、マルメラードフとロジオンは何となく似ているような気がする。身勝手で周りの人の気持ちを考えないなど、共通部分があるからかもしれない。
両親のせいで売春婦になったソーニャ。彼女は自分の体を売ったお金を、目立たない日暮れ時にカチェリーナのもとに届ける。そこまでしているのにマルメラードフからは「ただ可愛いソーネチカは、金をみついでくれるだけで」「いまのあの子は、小ぎれいにしていなくちゃならん。ところが、この小ぎれいという のが特別なものなんで、金がかかるんですわ。」など文句まで言われる始末。父親でありマルメラードフは金を消費することができても稼げないくせに、とんだ人間だ。もし私がそんな父親や家族がいたら、きっととびだしてしまうと思う。いくら家族の生計のためでも売春婦にはなりたくないし、百歩譲って売春婦のみちを選んだ としても、ありがたく思ってくれないような家族に金を渡すのは嫌に決まっている。しかしソーニャは家族のために自分を犠牲にし、働くのだ。
ソーニャとドゥーニャは金のために自分を犠牲にし、家族を手助けしようとするところが共通している。
 ソーニャは父親を亡くし、母親も発狂に近い状態で死に、両親を失うも、これは憶測だが、きっと安心したと思う。ロジオンとの関係も、両親を亡くしたからこそ深くなったのではないかと思う。なぜなら、そんな厄介極まりない両親がいたところで、恋なんぞに現を抜かしている暇はないと思うからだ。 
 さきほど、ドゥーニャとソーニャの共通している部分を取り上げたが、決して似ているわけではない。私が思うに、ソーニャほど人間として出来上がった登場人物はいないのではないか。ソーニャは世界の汚い部分や現実を見てきているし、経済的に貧しい暮らしをしていると、最悪どうなるかも知っている。世の 中の不公平なことに不満をもって棺桶のような部屋にこもるロジオンとは違う。ロジオンは結局、意味のない悪あがきをしただけなのだ。人を殺したところで得られるものはなにもない。
ソーニャは何かに期待するわけでもなく、頼れる人もいない、自分で頑張るしかないことを誰よりも分かっていて、また誰よりも諦めていたに違いない。
 そんな彼女の前に現れたロジオンは正義のヒーローではなく殺人犯だったのだ。
罪の意識も無い、世間を見下したロジオンを彼女は実際のところどう思っていたのか分からない。しかし殺人犯と分かったときは絶望したと思う。どうして私の周りの人はいつもこうなんだろう、と。だって彼女の周りには普通の人なんかいないのだから。
ソーニャが神をやたらに信仰しているのは現実に頼れる人がいないからだと思う。
彼女にはもう、心の拠り所になってくれる人、すがることのできる人は、神しかいなかったのだ。
 ロジオンの告白を聞いてソーニャは「あなたが汚した大地に接吻しなさい。それから四方を向いて、全世界におじぎしなさい。そしてみなに聞こえるように、「私は人を殺しました!」と言うんです。」と言う。これは彼女の怒りの表れなのではないか。これほど彼女が感情的になったときはあるのだろうか。
 このあとロジオンは自白し、刑を服しにシベリアに移動するが、ソーニャもそれに着いていく、という点が少し腑に落ちない。なんとなくというか、金銭的な面でも非現実的な気がするのだ。『罪と罰』は、殺人を犯した犯人ロジオンとソ売春婦ソーニャとの恋物語、などと紹介されているときがあるが、私はちっ とも恋愛的要素を感じない。好きだ、とかそういうセリフがないからとかの問題ではなく、なぜソーニャがロジオンに魅かれるのか分からない。一方、ロジオンはソーニャのことを愛していると服役中に気付くが、それまではどのように思っていたのだろう。私がロジオンの立場だとしたら、ソーニャを神の化身と思うだろう。そう 言っても過言にはならないのではないか。
すべてを受け入れ、決して裏切らないソーニャは『罪と罰』でもっとも大人だ。


 村上絵梨香

私には正直、ソーニャの人物像なるものがあまり見えて来ない。彼女はロジオンが酒場で出会ったマルメラードフという退職官吏の娘であり、彼自身の告白の中にもしばしば名前が上がる。しかし、ソーニャという人物を理解するにあたり、それだけではあまりに情報が少な過ぎるのだ。
そんな少ない情報の中、私には気になっていることが一つある。父であるマルメラードフはソーニャについて、気弱で大人しく、優しくて、日本で言えば仏のような存在であると評価しているが、それは本当なのだろうか。
ソーニャはマルメラードフの連れ子であり、現在彼の妻であるカチェリーナとは血が繋がっていない。父は酒ばかり飲んで働かず、継母には稼ぎが少ないことで頻繁にいびられている。そしてある日、とうとう継母に売春婦になることを強要されてしまう。
そしてソーニャは売春婦になった。継母には逆らえなかったのか。少しでも家族に楽な生活を送って欲しかったのか。色々な理由が考えられるが、私は彼女が母親に売春婦になるよう命じられてから、家を出て行くまでの心境に注目したい。
マルメラードフはその辺りのことを全く話に出していない。その時彼は酒に酔っていて妻と娘の会話を寝そべって聞いていた。おそらくうとうともしていただろう。細かいことが分からないのは無理もないが、彼の欠点はこんな所にあるのではないかと思う。彼は家族をちゃんと見ているようで、実は表面をさっとなぞっているだけに過ぎない。そもそも、自分の大事な娘が売春しようとしている場面で、ただ床に寝そべっている神経が分からない。
話をソーニャに戻す。ソーニャは継母に対し、自分は本当にあんなことをしなくちゃいけないのか、と尋ねている。私は最初にこの部分を読んだとき、ソーニャは悲しげに顔を歪ませ、頭もパニック状態になっているのではないかと思った。しかし今では、このときの彼女はいたって冷静だったのではないかと思っている。
確かにここまでのマルメラードフの告白を読む限り、彼女は気弱で大人しいイメージである。しかし、彼女は初めての仕事に出掛けて帰宅した時、そのイメージを一変するような反抗的な行動をとった。
彼女は稼いだ銀貨をテーブルに並べると、黙ったまま寝台に横になってしまったのである。この部分は数少ないソーニャのエピソードの中でも、絶対に無視してはいけないところだと思う。それはソーニャが見せた唯一の自我を主張する、とても脅威的な行動だった。
私はここまで読んで自分が作り上げたソーニャのイメージに違和感を感じた。ソーニャは本当に神様のような優しく慈悲深い娘だったのか。いや、そんなはずはない。彼女もやはり一人の人間だった。そして弱かった。父を軽蔑し、継母に絶望し、しかしそこから抜け出せない、一人の弱い人間だった。
それでは、ソーニャが親元を離れられない理由とは何なのだろうか。それは決して決定的な何かではないように思える。近年では児童虐待が増え、その話を耳にする機会もよくあるが、ソーニャは虐待の被害に合った子供と同じ心理を持っているのではないかと思う。
虐待をされている子供は自分が親に暴力を奮われても、決して親を悪く言わないと聞いたことがある。その理由には親が怖いということの他、それでも親を愛しているというものがあるそうだ。私は虐待を受けたことがなく、暴力を奮ってくる相手のことを好きだと思う気持ちは分からないが、そこには親と子の本能的な何かが作用しているのではないかと思う。
私はソーニャもそれと同じ気持ちを両親に対して抱いているのではないかと思う。彼女は自分の両親に対し、貧しい生活に対し諦めを感じていて、故に何処か冷めている。酒代をせびりに来たマルメラードフに無言で金を渡したところなどを見ても、そんな心情が伝わって来る。
結論として私はソーニャのことを、マルメラードフの言うような優しい子だとは思わない。もちろん優しい部分もあるのだろうが、それだけではない。彼女もマルメラードフと同様、全てを諦めた弱い人間なのだ。