日芸生が読む蛭子能収「愛の嵐」

エデンの南  清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室   清水正の著作
「雑誌研究」第九回」(2010/6/18)は蛭子能収さんの「愛の嵐」の感想。
蛭子能収(えびすよしかず)はただものではない。はじめてお会いした時にそう思った。「文芸特殊研究Ⅰ」のゲスト講師として手塚能理子さんと対談形式の授業をしていたのを聴講して、久しぶりに面白いと感じた。私は自分の担当する「雑誌研究」(第九回目・2010/6/18)で早速、蛭子能収の「愛の嵐」のコピーを配布して受講生に感想を書かせることにした。わが日芸の学生のレポートも、なかなか読ませる。しばらくこのレポートを連載しようと思う。また私も蛭子能収論を書きたい衝動に駆られたので、早速、江古田や高田馬場の古本屋を廻って蛭子漫画本を購入、本格的に読み始めた。いずれブログにも発表することになるだろう。

日本大学芸術学部文芸学科専門科目「文芸特殊研究Ⅰ」(2010/6/10)で対談授業するゲスト講師の手塚さんと蛭子さん。

「文芸特殊研究Ⅰ」で対談授業する手塚さんと蛭子さんと、担当講師のしりあがり寿さん(左)。

「愛の嵐」が収録された『笑う悪魔の黙示録』(株式会社マガジンハウス発行。1990/7/5)
「愛の嵐」の初出は『地獄に堕ちた教師ども』(青林堂)

日芸生が読む蛭子能収「愛の嵐」(連載1)


蛭子さんの笑顔
井上美帆

 私はこの「愛の嵐」を「文芸特殊研究Ⅰ」の授業で初めて読んだ。蛭子能収自身は、昔テレビでよく見ていたし彼が漫画家である事は知ってはいたが実際読んだ事はなかったのであまりにも衝撃だった。
 漫画というのはパフォーマンスなのだろうか。彼のパフォーマンスなのだろうか。今となっては目
を伏せたくなる表現のものは沢山世の中にあふれているしこの作品が出た時の時代の衝撃がどれ程であったか分からないが、この作品の世界はあまりにも美しくない。冒頭での、大勢の男性が主人公を冷やかすシーンはどう見たって小学校でよく見る光景だ。大人の世界にもこんな馬鹿馬鹿しい事は起きるのだろうか。蛭子さんのあのニコニコした笑顔が恐ろしくたまらない。この漫画を読んだ全員がそう思うだろう。
 主人公とその恋人の勝元さんの関係も全く美しくない。勝元さんの肉体も、それに対する主人公の欲情も、その愛情表現もどれをとっても魅力的ではなかった。しかし、それは当然の事である。他人のセックスなんて美しいわけがない。映画でのベッドシーンのように美しい性行為というのは有り得ない。体中の汗、匂い、肉体の生々しさなどこのシーンではあまりにも現実的に描いている。映画のベッドシーンよりもいやにリアルで本物よりも本当らしい場面である。だからこそ、怖がり見たがりの精神をもって病みつきになってしまう感覚があった。
 2つの疑問に残ったのが、その性行為のシーンの一コマに土星のようなものがあるのと勝元さんが「岡本さんが好きなのは〜」というセリフだ。何故勝元さんは自分の生理の血液を拒まれたからといってそのような事を言ったのだろう。しかもその後、手品の種明かしをした生徒は、先生に殴られてマゾヒズムに目覚めているようだ。これはもしや、先生が性の象徴なのか? そんなわけがないはずなのにそう考えさせられてしまう。謎は深まるばかりだ。清水先生はこれをどのように解釈したのだろうか。「愛の嵐」は、今生きている私達にありそうでない、なさそうである世界だと思った。おそらくこの作中の人間達は今も生きている、私達と同じ世界で。そんなふうに感じさせる作品だった。
 人間は美しくない。その美しさのなさ、醜さを描ける蛭子さんの笑顔もおそらく美しい。
 (蛭子さんの画像を検索すると、どの顔写真も満面の笑顔だ。私達が彼を思い出す時、いつも彼は笑っている。つまり彼は、どの人間の心の中でも笑っている。まるで人間じゃないみたいだ。面白い。)