清水ゼミ一年は通称ドストエフスキーゼミ。課題レポート(連載1)

エデンの南  清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室   清水正の著作
清水正ドストエフスキーゼミでは週に一回のペースでレポートを書いてもらい、メールで送ってもらっています。第一回課題は「ロジオンと私」。今回はメールで届いているレポートを掲載します。

ロジオンと私
佐々木明莉紗

 私は、ラスコーリニコフの狂気は、彼の過ごしているあの狭い屋根裏部屋から生まれているのではないか、と感じた。彼の部屋には、娯楽の道具は何もない。ただ寝泊りするためだけの部屋である。私の部屋も決して広いわけではない。むしろ狭い。布団を敷いてしまえば、勉強机の前のスペースを除いて、足の踏み場がなくなってしまうくらいである。たとえ私が自分の部屋に一日中閉じこもっていなければならない状況に陥ったとしても、私には彼のような狂気は生まれないであろう。
 なぜかと問われたのなら、答えは簡単である。私の部屋は、ラスコーリニコフの部屋と違い、たくさんのもので溢れているからだ。私と彼の性格云々は抜きにしてつ次のことを考えてみた。誰かに『今日一日、自分の部屋から出るな。』と言われたとしよう。本や漫画、ゲームなどがある私の部屋では、暇をつぶそうと思えばいくらでもできる。しかし、ラスコーリニコフの部屋ではどうなるであろうか。彼の部屋には何もない。寝て過ごす、という手段もあるのだが、一日中寝ているわけにもいかないと思う。そこには、自分しかいない。人間がたった一人でいる時に何をするかというと、ひたすら考えにふけるのではないだろうか。
 ここでもう一つ、私とラスコーリニコフの違いを発見することができる。今度は、先ほどとは逆に、性格を踏まえた上での話となる。それは、自分と人とのつながりである。
私の部屋には、両親や弟といった訪問者が来る。私は、よほど機嫌が悪くないか忙しくない限り、快く自分の部屋に訪れた訪問者を受け入れるであろう。一方、ラスコーリニコフは、人との関わりを避けている。下宿の主婦に対しては、借りを作ってしまったことから顔をあわせるのに恐怖を感じ、大学時代での唯一の友人であるラズミーヒンにさえ、彼は住所を教えていなった。そして家族とは別居中である。
こういった一人になるという状況を自ら作ってしまったラスコーリニコフは、彼の心の内に潜んでいた悪魔を極限にまで増大させ、殺人という取り返しもつかない大罪を犯してしまったのではないだろうか。
話は少し戻るが、人間は一人の時間に、多くの考えを張り巡らす。ラスローリニコフは、その時間が人よりも多い環境にいた。そうして、あの恐ろしい計画が浮かび上がってしまったのではないであろうか。彼を止めようにも、そのような人物は彼の周りにはいなかったし、もしいたとしても、ラスコーリニコフは拒んでしまったに違いない。
元々彼はいじけた青年ではなく、むしろ正反対の性格であったはずなのだ。そんな彼が変わってしまったことと、あの屋根裏部屋は無関係ではないと私は思う。

さて、ここまで私とラスコーリニコフとの相違点を挙げてきたが、『罪と罰』を読みんで、彼に共感できることも不思議とあったのだ。私が感じた序盤の彼の印象を正直に言い表すと、どこまで卑屈で暗くて天邪鬼な男、であった。きっと彼は、私が気にも留めないようなことでも揚げ足をとってくるんだろうな、と思ってしまうほど、彼を面倒くさい人物であると感じた。しかし、私がラスコーリニコフに対して抱いたこれらの感情は、物語を読み進めていくうちに、同属嫌悪と似たようなものであることに気がついた。
何かをすることを自分で決めたにもかかわらず、何度もその決意が揺らいでしまう優柔不断さや、出会った人の、あらゆる行動を気にして疑心暗鬼になってしまうようなところが、私にそっくりだと思った。ラスコーリニコフが、金貸しの老婆を殺してしまった場面を読んでいた時は、『もう、なんでもいいから早く逃げてしまえ!』と考えていたし、それと同時に『これまでのことをしてしまったのだから、もう引き下がれない。』『今逃げたら、一体なんのためにここに来たのか』といった、私はまるで物語の中に入ってしまったかのように、彼と一緒になって思考を張り巡らせていた。
案の定、その後の劇中での展開では、彼も同じようなことを考えていた。偉大なドストエフスキーが描く登場人物と思考を同じく出来たことを嬉しく思う反面、言い方は悪いが、私にとって、好感の持てる人物ではないラスコーリニコフと同類であることを、嫌でも自覚してしまったために、複雑な気持ちになってしまった。
最初に私は、私と彼の相違点を、部屋という舞台を題材にして挙げた。けれどもよく考えてみると、まるで他人であり、それどころか現実には存在していないはずのラスコーリニコフを、自分の中に感じていたのだ。
以上のことを踏まえると、私はゼミの講義で教わった、『罪と罰』は現代文学である、ということをより深く理解することが出来たと思う。誰しもが、この物語の主人公の『一人の青年』に成り得るのである。いつどこで私が狂気に見舞われるかは予測不能であるし、周りに彼のような人物が現れないとは限らない。もしかしたら、この作品を読むということは、彼、ラスコーリニコフの部屋にいることと同じことになるのかもしれない。



崎田麻菜美
 部屋というより戸棚、とロジオンの部屋は表現されていた。それなら私の部屋は、事実上、部屋というより戸棚と言っても過言ではないだろう。それは、本当に文章そのままの意味だ。私は、自分の部屋にはほとんど立ち入らない。家で過ごすほとんどの時間を、リビングで過ごす。テスト前の勉強も、自分の部屋からわざわざ勉強道具を運び、リビングで行う。そしてこの原稿を書いているのもリビングである。別に自分の部屋の居心地が悪いというわけではない。広さだってロジオンの部屋よりは広いだろうし、小型だが地デジも受信できる薄型テレビだってある。大きな本棚も二つあり、文庫本やらマンガ本が詰め込まれている。エアコンも完備されているし、勉強机にいたっては、デスクトップパソコンを置いてもまだ充分に広さが確保できる立派なものである。
 それでは何故、私は自分の部屋で過ごさないのだろうか。実は答えは単純明白なもので、家の中で一人きりという空間が嫌いなだけなのである。家の中にいる時くらい、家族の誰かと時間や場所を共有していたいと思う。その観念は、私の育ってきた環境にあるのかもしれない。
 ロジオンは父親を亡くし、母親であるプリヘーリヤに育てられた。私の父はまだ生きているが、一緒に暮らしてはいない。かれこれ十五年、単身赴任で各地を飛び回っているのだ。だから単身赴任になる前、私に物心がつくかつかないかの頃までしか、同じ家に住んでいない。十五年間、全く顔を合わさないわけではなかったが、つい先月、三年ぶりに顔を合わせるきっかけになったのは、皮肉にも祖父の納骨式だった。私たち家族のために一生懸命働き、生活費を送ってくれる父には申し訳ないが、これでは正直、いてもいなくても同じ存在だ。事実、その三年ぶりに会った時、なんと声をかけていいものか戸惑った。それは父も同じだったようで、私の名前を呼んでくれるまでに、少し時間がかかった。父のことが嫌いなわけではない。むしろ私は父が大好きなのだ。それでも、同じ時間を共有できないだけで、家族の間に疑惑と不信が生まれる。その溝というか、距離感が私は大嫌いなのだ。母に関しては生まれてこの方、ずっと同じ家に住んでいる。ロジオンがプリヘーリヤに文字の読み書きを教わったように、私も母に教わった。しかしそれは、私に物心がある程度ついてからだ。私が生まれてすぐに、母は会社に呼び戻された。産休をとる条件として、それが決まりだったらしい。母が会社で仕事をしている間、私は祖母に育てられた。
 つまり私の両親は、私の性格とか、今後の行動の基盤となる幼少期を、自分たちの目で見ずに過ごしたことになる。祖父母が遊び相手をしてくれてはいたものの、幼い私が淋しさや孤独感を抱えて育ったことは間違いないだろう。私が家の中で一人きりという空間が嫌いなのは、この幼少期の反動といったほうがいいかもしれない。とにかく、家族とはなるべく時間を共有していたいのだ。
 だが、私が高校、大学と進学をしていく中で、今度は逆の事態が発生してきた。高校では部活の部長だったため、残ってミーティングや書類の仕事をすることも多く、帰りはいつも夕飯の時間を過ぎていた。そのため、祖父母に食事を出した後、母が一人で食事をとることも少なくなかった。クリスマスや正月といった特別な日も友人や恋人と過ごす機会が多くなり、家族で過ごすことは滅多になくなってしまったのだ。大学に進学すると、アルバイトやサークルの関係で平日の夜も家にいる時間が減り、家族と過ごす時間は急激に少なくなった。まるで私が幼少期、家に一人取り残されたように、今度は母が一人取り残されてしまっている状況だ。父はもともと家にいないのだから、たった三人の家族は文字通りばらばらに生活していることになる。
 他の家庭も、みんなそんなものなのだろうか。一人暮らしをしているロジオンのように、中には大学から一人暮らしをしている人もいるだろう。だが私は、学生という身分の内は、家族とできるだけ同じ時間や空間を共有してほしいと思う。家族と共に過ごす時間が減ったから、ロジオンが結果的に殺人を犯すまでになった……とは言わないが、少なくともプリヘーリアの愛を身近で感じていれば、ロジオンはあそこまで追い詰められた生活を送っていなかったのではないか、と思う。そしてこれは決して、一人暮らしをしている大学生への忠告でもない。あくまで私個人の考えなのだ。ただ、長期休暇の時くらい、家族に顔を見せに帰省するくらいはしてもいいのではないかと思う。
 余談だが、家族とこれ以上溝が深くなるのを避けるため、私はこのゴールデンウィーク中に何もせず家で家族と過ごす時間を作った。久しぶりに家族で囲む夕飯は温かかった。


林英利奈
罪と罰』に手を伸ばして初めて思ったのは、『仲良くなれそうにもない。』私は今まで小説とは感情移入して読むものだと思っていたし、世界観にのめり込むことだとも考える。だが、『罪と罰』は最初の一文目から読者を拒否しているような気がした。理解しがたい、と思ったのも、未だに尾を引いている。
ロジオンは読者を拒絶しているのではないか。けれど、たとえば大切な人を失って、全ての気力を喪失したことのある人ならば、親身に感じられるのかもしれない。ロジオンは、そういう人だと感じた。
 『罪と罰』の主人公・ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフという人は、まず内向的であると評せざるを得ないと思う。私もどちらかというと内向的であるし、高校時代の友人には『悩みすぎるにもほどがある』と云われた。確かにそうだと思う。その癖、さみしがりという二律背反な性格をしている。大学入学当初は大分心理的に負担がかかっていた。現時点では友人もでき、それなりに楽しくやれている。
 だがロジオンはどうだろう。彼は、大学生活をドロップ・アウトしてしまった。貧しさゆえに精力的に行わなければならぬであろう家庭教師、要はバイトにも手が付いていない。彼に感情移入できない、『仲良くなれない』私にしてみれば、怠惰だと評せざるをえない。が、彼の背景を知ってしまえば、同情の余地があるようにも思えてくる。
 私は、(と打った時点で、文字数が666になった。この数字を背負っているという彼は、かつて真っすぐだったころ、罪について罰について、どう思っていたのだろうか――)恵まれていると思う。両親ともに無事で、二人の姉がいて、末っ子だからと随分甘やかされた。それは今現在も同じだ。むしろ、深化したと思う。二番目の姉は母と折り合いが悪く、ある意味とばっちりを食らう形で、高校三年間を冷たい状況で過ごした私は、大学合格を契機に母と上手くやっていけるようになった。
 そもそも、大学受験自体、私が一番自由にやらせてもらった。金銭的な意味でも、進路的な意味でも。もちろん、後にお金をかける存在が居るわけでないからだし、三度目ともなれば両親の心情的に妥協がきくのも、無理はない。
 三女の私を、かつて一番上の姉が『溺愛されている』と苦々しく言ってのけたものだが、確かに今私は、一番行きたかった学校で、一番勉強したかったことをやらせてもらっている。合格祝いと称してパソコンを買ってもらったりもしたし、私の部屋で大きな比重を占める本棚七つを埋める本は、両親のおかげであるのがほとんどだ。
 ロジオンはどうだろう。彼は母親に期待され、プレッシャーを掛けられていたと思う。まずそこから、私とは違う。期待が重かったことは、ここ数年はない。自分は内向的だと前述した。物語に、創作にのめり込む私は、基本的にインプットな、自己完結型の人間だ。期待が重い中に育てられた人間は、他者から良い評価を受けて、何らかの目標がなければ前進できないのではないだろうか。それはかつての私自身のように思えてくるし、それがロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフという人間なのだろうか。
 ロジオンは内向的な人間だ。しかも、並大抵の内向ではない。少なくとも私は、パソコンもなく、本もそれほどない部屋で、ひたすらに時間をつぶすことなどできない。もちろん、紙とペンさえあれば、物語を描くなり書くなり、熱中はできるのであろう。しかし、食事もちゃんと摂りたいし、できるなら美味しいものが食べたい。大学生活で、私は毎日弁当を作るのを自身に課している。それは母に負担をかけたくないからであり、単純に料理そのものが苦ではないからでもあり、コンビニ食や学食では飽きてしまいそうだったからだ。大学まで上手く乗り継げて1時間半、朝が辛いが、そこは我慢している。話はそれたが、つまりそこまで集中できない。おなかがすいた。ねむい。ロジオンには、そういう欲求は無いのだろうか。人間の三大欲求を、悉く無視している。無視して、ひたすらに没頭している。自らの思索に。
 彼が考えるのは罪罰の業についてであり、盲目的ですらある母の姿についてだ。そして、自己犠牲を負わされた妹についてだ。ぐつぐつとうつうつと、考え続ける。私ならば、ネットなり友人なりに相談してしまうだろう。苦労性なところがあるせいか、私はリーダー的なことをよくしてきた。それ向きでない人間だと分かっただけだったが、会話に関する能力は、随分上がったと思う。道化るのもまた然り。ロジオンは相談しない。ロジオンはふざけない。かつて彼は、きっとそれを得意としていたであろうに。
 声を殺してしまえば、彼のようになるのではないか、そのような恐れを抱いたことを記して、筆を置こうと思う。


中村 光 
 五月はじめ、めっぽう暑いさかりではないが、そこそこに暑いある日暮れどき、ひとりの青年がUターンラッシュで混雑している駅からおもてに出て、のろくさと、どこかためらいがちに、祖母の家のほうへ歩きだした。その日は祖母の友人が来ることは承知していたので、カフェで時間をつぶそうとも考えたが、さすがにもう帰っただろうと思い帰宅した。玄関を開けるとそこには見覚えのない靴が二足。まだ居間で話しこんでいるようである。青年はうまいこと玄関で祖母に出くわさずにすんだ。というのも、そこで祖母に遭遇していたら、きっと彼女の友人たちとも自分には関心もないばかげた世間話をあれこれつきあわされたり、通いだして間もない大学での生活ついてあれこれ詮索されたり――いやもう、それくらいなら、いっそ猫のようにこっそりと階段をすりぬけ、だれにも見とがめられず姿を消すほうが、よほどましなのだった。
 ドストエフスキーの『罪と罰』の冒頭部分で私はギクリとした。ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ(以下ロジオン)がとった行動があまりに自分がとった行動と似ていたからである。この冒頭部分だけではなく他にも様々な場面でロジオンと私の行動、心理状態が一致するところがある。とは言え、ドストエフスキーが小説『罪と罰』を創作したのは、1800年代のロシアである。ところが、1800年代の日本といえば洋服どころか、腰には、刀を携え、馬車などではなく直に馬にまたがって移動していた時代である。では、なぜ考え方も違うような時代の小説の主人公であるロジオンと私に類似する点が多いのだろうか。そんな古典文学 『罪と罰』の主人公ロジオンと私、否、私を含めた多くの日本の学生たちが共感する場面を取り上げ、解析するとともにロジオンとの類似の謎にせまりたい。
 まずはロジオンの性格と心理状態の類似点を具体的に挙げていこうと思う。まず一つ目は、ロジオンは外部との付き合いをいっさい避けている点である。さらに、何かの新しい変化が彼のうちに生じ、ふいに人間にひかれる場面がある。「むしょうに人恋しさがつのってきた。まる一月ものあいだ深い憂鬱にとざされ、暗いいらだちに神経をすりへらし、疲れきっていたせいだろうか、せめて一時なりと、どんなところでもいい、どこかべつの世界の空気を呼吸したかった。」と、ロジオンが酒場にくりだす場面である。私は同じような衝動にかられることが多々ある。特に大学生とは案外ひまなもので、合同コンパニオンにあけくれる者もあれば、ロジオンのように用がなければ外出など一切しないような生活をする者もある。後者に属する人間ならこのような衝動を一度は味わったことがあるだろう。
 場面変わって、ロジオンは酒場にいあわせた、ひどく酔った男マルメラードフに実際に話かけられる。ところが、直後にロジオンの心は「いざ、実際に話しかけられてみると、もう最初のひとことから、不快な、いらだたしいばかりの嫌悪感がふいに頭をもたげてしまう。」と思っている。このように感情が一転してしまうことは、その後も様々な場面で描かれているのだが、やはりこれもわれわれ学生にはよくみる心理状態である。このような状態をひき起こす要因の一つは、ロジオンが他人の目を意識していたことにもある。事実、後に  「カウンターのふたりのボーイが下卑たしのび笑いをもらした。」とある。
ロジオンと私が類似している心理状態はまだ他にもある。ロジオンが金貸しの老婆アリョーナ殺害を企てる場面では必ずと言って「俺にはあれができるだろうか。」という自問のシーンがある。しかし、アリョーナ殺し目前、彼は迷信的になり、全体に何か異常な、神秘的なものを自分の中に見はじめる。つまり、彼はアリョーナ殺害成功を確信するのである。ところがいざアリョーナを殺害しに行こうとすると「彼はいまだに自分の計画の実行可能性を、ただのいっときも確信できないのだった。」とある。またしてもロジオンの心理は一転、二転するのである。この状態は、われわれ学生に本当によく見られるもので、よくテスト直前にこの症状が現れる。テスト直前になり精神的に追い込まれ、勉強することがつらくなってくると、勉強をしなくてもテストができるような感覚におちいるのであるが、テスト用紙がくばられる頃には「もうダメだ。」と自信を失うのである。学生ならこのように変に迷信的になってしまう経験があるはずだ。
 ロジオンのこのような行動、心理状態の大まかな要因は学生という特別な社会的地位にある。ロジオンの場合は元学生なのだが、心理的にはまだ学生気分に違いない。さらに、母親からの便りが届いた時には女中のナスターシャの質問には答えもせず、我を忘れたかのように手紙を持ってこさせようとした。しかも、手紙をうけとった後、それに接吻する始末だ。そして、その手紙を涙を流しながら読んだことから、彼は、精神的な母親離れができていないことが読み取れる。要するに、ロジオンと私の類似点は行動や心理状態だけではないことが言える。つまり、経済的に親の保護下にありながら、ある程度の自由が利くという異常な社会的立場にあるということが、ロジオンと私が類似している大きな理由であり、類似点である。


北村哲士
 どうやら私は、遅れてきた青春期のなかにあるらしい。なにせ今頃になって、ドストエフスキーの作品を読もうとしているのだから。
 多くの作家や詩人が、ドストエフスキーに何らかの影響を受けているようだ。例えば、私の知りうるかぎりでいえば、小林秀雄がその筆頭であろうか。
 小林秀雄の『ドストエフスキイの生活』(新潮文庫)は、私にはまったく歯がたたなかったが、興味深い文章があったので、引用してみたいと思う。
ドストエフスキイという歴史的人物を、蘇生させようとするに際して、僕は何等格別な野心を抱いていない。この素材によって自分を語ろうとは思わない、所詮自分というものを離れられないものなら、自分を語ろうとする事は、余計なというより寧ろ有害な空想に過ぎぬ。無論在ったがままの彼の姿を再現しようとは思わぬ。それは痴呆の希いである。》
 小林秀雄の、この言葉は実に厳しいそれであるように思われる。その言葉が、まっとうであればあるほど、私たちにはとうてい追いつくことの出来ない地点に達しようとしていると考えられる。ただ、一体誰の言葉であったか、小林秀雄キリスト教に一切触れなかったという説を聞いたことがある。それこそが重要であるというのに、それに触れない小林秀雄ドストエフスキー論は未完成であると、そんな意見だったように思う。
 私たちは、日本という風土に生き、宗教的背景も持っていないと言っていいだろう。そんな私たちが、ドストエフスキーの『罪と罰』を読む。あるいは、他の作品を読む機会もあるだろう。それらの行為に、一体、どんな意味が生まれてくるのか、大変、興味深い点である。
 今、ドストエフスキーの作品を読んで、喜ぶ人々はいるのだろうか。潜在的には、いたのである。つい何年か前、東京外国語大学学長の亀山郁夫が、光文社古典新訳文庫にて、『カラマーゾフの兄弟』を新たに翻訳し、それが一種の小さな社会問題になったのだ。季節は一度、ひと回りしたのだろうか。無意識のうちに、多くの読者は、ドストエフスキーの作品を求め、おそらく読みふけったのだろうと思う。このことは一体、何を意味しているのか。
 そして、今、私たちは『罪と罰』を読み進めようとしているわけだ。この陰鬱ともいえる作品を、小説家志望、編集者志望、評論家志望の男女が読む。このことに、ある種の期待感を1持つのは、私だけではあるまい。長間、読み継がれてきた作品が、私たちの目の前に在るということは、運命である。運命の前に在って、人間は何ら一切のものを避けることは出来ない。そして、運命として目の前に存在するこの『罪と罰』は、異常なほどの言語の求心力、いや、こう言いかえてもいいだろうか、異常なほどの迫力がある。
 私は、『罪と罰』を読み進めながら、ある一人の日本人の書き手のことを、ふと、思い浮かべたのだった。その書き手の文章をここに書き記してみることにしたい。
《私は空虚な人間である。だから、私は私の空虚を輝かそうと思う。
 空虚とは何か。充実の反対である。これまで、人は、生の充実とか存在の充実を輝やかしてきた。私は、これからは、人が反対のことをするようになるのだ、と思う。つまり、生の空虚さとか存在の稀薄さを輝やかすのだ。これまで人は、その自己を語るのに、自分の現実とか、所有する真実をもってした。しかし、これからの人は、自分に欠損するものや、不在のものによって、自己を語ろうとするだろう。むろん、空虚な人間がそれでもなお自己を持っていて(これもパラドックス)、それを語りたいと感じた場合にだが。》
 ずいぶん長い引用になってしまったけれど、私はかつてこの文章を読み、そして現在、『罪と罰』を読み継いでいると、ふと、ロジオンのことを思い出したのだった。ちなみにこの文章の書き手は、秋山駿という日本現代文学界を代表する文芸評論家である。秋山駿は「石ころ」や「歩行」などをキーワードにして、評論活動を今現在も続けている。『地下室の手記』という著作もあるくらいだから、ドストエフスキーの影響を、たしかに受けているはずである。
 ロジオンは「歩行」をするだろうか。今、具体的に、ロジオンの「歩行」や、彼自身の「石ころ」について書く紙幅を持たないが、おそらく彼も「歩行」し続けたはずである。そうでなければ、内的独白は生まれない。
 私にとってのロジオンの存在とは、一体、どんなものなのだろう。
 分身、いや、まさか。しかし、ロジオンの発する独白や台詞は、現代の日本人としていきる存在に対しては、十分に通ずるパイプを持っている。
 彼はどんな人間なのか。今の私には、まだ答えられない。


河野 玲
 2010年3月、埼玉は所沢市の古びた黄色いマンションに、若い女が越してきた。
 彼女は埃っぽいエレベーターに乗り込むと、「5」のボタンを押し、焦げ茶色の重たい鉄の扉が並ぶフロアに昇る。扉を開き、部屋に入ると、灰色のカーペットの床には白いチェスト、白いローテーブル、白いダストボックス、と白い家具が壁際に寄せて置かれている。その色彩のないぼんやりとした部屋にどこか所在なげに座り込む女、いや、少女と言った方がいいのかもしれない彼女は、暮れだした窓の外、灰色の鳩の群れが集まる寺を眺めていた。
 このような独り住まいの大学1年生の女性(女子ではない)は、現在の日本の首都圏のあらゆるところに点在しているだろう。つまり、私のような者が似たような生活を送り、そして似たような感想を持っているということだ。毎日遭遇する新たな人の集団、そのシステム、ネットワークに組み込まれようと努力し、少し空回りし、一人の部屋に帰って座り込む。空虚というには大げさすぎるが、そのときのぼんやりした感覚は、大多数の共感を得られるはずである。
 翻って、ドストエフスキー著/「罪と罰」の主人公、ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフの生活環境はどういったものだろうか。彼は、「5階建ての高い建物をのぼりつめた屋根裏にあり、部屋というよりは戸棚という感じ」(1)の下宿先で、「不格好なばかでかいソファー」(2)の上で寝起きしている。また、優れた容姿でありながらもひどい身なりで、大学を中退しており、小銭のやりとりにさえ神経を使うほど経済的に余裕がないことが詳しく描かれている。
 この状態で、強い厭世感と社会に対する劣等感を抱かぬ者はなかなかいないだろう。ロジオンにもそのフシはある。だが、彼と一般論の間には一つ隔たりがある。それは、彼が劣等感を抱いていない点である。むしろ世の中の人々を嘲笑い、自分より下等であると見なして関係を断っている。彼のこの性根は環境のせいだと一言で片付けることはできない。なぜなら彼は大学在学中も交友関係を求めず、また、周囲の人間が避けるほどあからさまに人々を嘲っていたからだ。
 ここで考えたいのは、「彼は本当に、常人を超越した存在であるか」どうかである。彼は自意識が並外れて強く、宗教的リフレインのような自らの発する呪いごとを絶対としている。確かに、一見常軌を逸しているように見える。しかしどうだろう、彼のような人物像は、ともすれば現代の私と重なる部分も持ち得ているのではないだろうか。
 彼が困窮極まっても人々を嘲り続けられる、その自信の根拠をあげるとすれば、例えば大学の法学部に通っていた過去や、そこでも図抜けた才覚を発揮できていたこと、また故郷の母と妹の強い期待に応えんと張り切っていたこと等様々ある。要は、高い他己評価を得られる土壌に立っていたのである。では、私の場合はどうだろうか。日芸というネームバリュー、筆記試験/専門試験/面接という内容の試験を突破し、高い授業料を両親に払わせながらドイツ文学の研究をする・・・・・・学力以外の他己評価を伴う試験に合格した私=日芸の生徒は、特になにも考えないままでいれば、自意識過剰になり、「他人と違う自分」を思い込む可能性が多分にある状況に置かれている。私が反転すればロジオンなのではなく、既にロジオンと私は隣り合わせなのである。
 また、心理描写が執拗なために異常な印象を受けてしまうが、彼はとてもポピュラーな悩みを抱えている。いくら自らが優れていると思っていても、彼には自分を取り巻く周囲の状況を打破することができないのだ。現に、彼が殺人を犯す段になっても、結果は当初の計画とはかなりずれたものである。冷徹で無機質で排他的なことを考えていても、現実のイレギュラー要素には敵わなかった。そして結局以前と同じように理想と現実のギャップの中で苦しみ、戦い続けるのである。「本気を出せばなんだってできる」と豪語し、常日頃は本気を出さず、出したところでお粗末な結果に終わる、このような構図は誰にだって作り得る。人の悩みで最もポピュラーと言っても過言ではない、理想と現実のギャップに苦しむロジオンの姿は、現在の私とまさにダブっている。
 「彼は本当に常人を超越した存在か?」もうこの問いに対する答えははっきりしている。否である。むしろ、どこの集団、システム、ネットワークにも存在しうる人物像だ。特に日芸という土壌では、彼と比べて裕福で恵まれている環境にも関わらず、芸術をどう捉えるかによってどんどん身をすり減らせていく人もいるだろう。ここで興味深いのは、ロジオンの結末である。彼の体(行動)と、思想と、取り巻かれている現実は、点でバラバラだが、物語の終末になって、それらが結びつくのか、果たして断絶されたままなのか。ロジオンと関係深い私にとって大変楽しみなところである。
(1)(2)・・・岩波文庫罪と罰江川卓訳より抜粋


富田絢子
ロジオンと私との違いや共通点を考えるにあたり、大きく分けて3つの点に着目して、比較をしてみた。
まずは、ラスコーリニコフと私との性格について比較する。ラズミーヒンによると、ラスコーリニコフは陰気、気難しい、傲慢、気位が高い、疑り深いと見られる反面、心が大きい、親切であるという一面があるようだ。他にも、時には冷淡で無感動になったり、ごろごろしていて何もしない、人の話は半分しか聞かない、みなが興味を持つことには背を向けてしまうといったところもあるようだ。私との共通点は、陰気、時に冷淡で無感動、ごろごろしていて何もしない、などが挙げられるが、よくよく考えるとこれだけいろいろ挙げれば、誰でもどれかひとつくらいは当てはまるとは思う。もしかしたらそれが狙いだったのかもしれない。その他、気になるのは、ラスコーリニコフの思考が所々、というより、終始病的であることだ。最も気にかかったのは、ラスコーリニコフは、僕は婆さんを殺したのではなく、自分自身を殺したんだ、といった発言をしていることだ。これは違う。確実に婆さんを殺しているではないか。文学的な意味や考え方としてはあまりに深く、確かに自分自身も失っているかもしれないが、人を殺害しておきながら、この発言はさすがに人格を疑う。
次に、ラスコーリニコフと私との生活について比較する。読んだ限りでは、ラスコーリニコフは少なくとも私より起床が遅いようだ。9時や10時に起きていては通っていたとしても大学には間に合わないのではないか。しかも、その上夜遅くにはのこのこと酒場に出かけている。これは素行を改めたほうがいい。あとは、ラスコーリニコフと私の住まいについてである。ラスコーリニコフの部屋は、5階建ての屋根裏で、部屋というより戸棚のような場所だそうだ。また、まかないと女中つきで部屋を借りている主婦からまた借りしているとのことである。私はまた借りはしていないし、屋根裏でもない。具体的に言えば、部屋は3階建ての一階で、戸棚というよりは部屋に住んでいる。広さに関しては、奥行き2歩というラスコーリニコフの部屋の広さに対して、測ってみたところ、我が家は奥行き約7歩くらいあったので、大分こちらの方が広いと思われる。ただ、ポストのあたりで他の住民に会うと気まずいというのは、ラスコーリニコフが家を出るとき主婦に会いたくないのと似ている。
最後に、ラスコーリニコフの容姿について私と比較する。すると、性別の違いに関わらず、私との共通点は見当たらない。どうやら、ラスコーリニコフは容姿端麗、現代の言葉で言い換えるならば、イケメンといった部類に属するようだが、個人的にはこれは幻滅に値する。「罪と罰」は、表情、色、場所、金額、服装、風景など、ありとあらゆるものがリアリティに溢れている。だが、ペテルブルグの貧しい大学中退の一少年が偶然にもかなりの美男子というのは、そこだけ物語じみている気がするし、おおよその人は自分に置き換えて読むのは難しい。リアルさをより出すならば、主人公は極一般的なレベルの顔面で構わない。残念ながら私を含め、大抵の人々は容姿端麗ではないからである。それともラスコーリニコフが美男子でなければ、ストーリー展開が変わっていたということも有り得るのだろうか。百歩譲って偶然にもペテルブルグの貧しい大学中退の一少年ラスコーリニコフが相当な美男子であったとしても、また偶然、母プリへーリヤ・アレクサンドロヴナも美しく、さらには妹アヴドーチヤ・ロマーノヴナまでかなりの美人というのは一体どれだけ容姿に恵まれた家族なのだろうか。そんな家族はそうそう見つからないはずである。しかしここは、時代を経ても色あせない文学には、時折自分とは重ね合わせられない部分が必要なのかもしれないという結論に至った。
 現時点では、さほどロジオンと私の共通点はなかったように思うが、とても大きな存在だと考えていた世界の名作の主人公と、ただの田舎の大学生である小さな存在の自分と比較するというのは実に面白いことに気づくと同時に、より物語が興味深くなった。時代や常識、モノやものの価値、政治、貨幣、町並み、服装、食事などは必ず、ドストエフスキーが「罪と罰」を執筆した時から大きく移り変わっているものの、人間らしい考え方や人との関わりの中で感じることは、今でもなお多くの共通点を発見できるはずである。ロジオンと私とを考えることで、なぜドストエフスキーはここまで登場人物やその周辺を事細かに描写したのか、もっと言えば、「罪と罰」がなぜこんなにも多くの人々に読まれ続けているのか、ドストエフスキーがなぜロジオンを主人公に選んだのかを考えることに繋がっているのだろう。

 宮崎 綾
「おれにあれができるんだろうか?」
 ロジオンは、本書の冒頭の方でこう考えていた。
 実は最近、わたしにも「あれ」があることに気がついた。わたしにとっての「あれ」とは落語である。
 けれど、落語をすることがわたしの真の目的ではない。落研に入ることで、人見知りやあがり症を克服することがわたしにとっての真の目的、つまり「あれ」なのだ。
落語は目的に対する方法である。
それは、ロジオンの老婆殺しにも言えると思う。
 彼も別に金貸しの老婆を殺すことが目的ではない。彼は正義を成し遂げたかったのである。彼にとっての正義というのは貧困で苦しんでいる人々を救うことであった。
わたしの落語と彼の老婆の殺害。つまり、人見知りの克服と正義の達成とではスケールが違うからわかりずらいかもしれない。
だが、スケールの違いはあれども、わたしもロジオンも一緒なのである。
わたしにあれができるか、そう考えては悩み、実行した。
わたしの方の結果は当分先にならないと出ないけれど、ロジオンは方法を間違えたために(また、老婆以外の人間を殺してしまうと言う不慮の事故があったために)、その罪に悩まされた。わたしはロジオンのような失敗はしたくない。わたしの落研ではスケールが小さいので、ロジオンの殺人ほど大事にはならないけれども。
 清水先生もおっしゃっていたように、おそらく現代の多くの青年(もちろん、わたしにも)に「あれができるだろうか?」は通ずるのだ。
次にわたしとロジオンの生活を比較しようと思う。
 わたしの部屋は十畳一間の大部屋を妹とカーテンで仕切って使っている。部屋にはベッドとクローゼット、タンスが二つ、本棚が三つ。本棚には全てに本や漫画が並んでいる。
物が多い部屋だと思う。まともな服を持っていなかったロジオンだけれど、わたしはクローゼットやタンスに入らないほどの洋服を所持して置き場に困っているし、三つある本棚もとうとういっぱいになり、最近買った本は床につまれている。
 殺風景の狭い屋根裏で生活していたロジオンと物が多くて収集がつかなくなっているわたし。全く異なる。
 実家暮らしで両親共に健在、家も裕福な方である。わたしは今までロジオンのような苦労もなく生活している。
 だから、わたしにはロジオンが正義にこだわる理由が理解できないのかもしれない。彼の正義への執念は相当強いものである。なぜなら、母や妹が苦労して工面した金を困っている人々に与えてしまう。自分自身の生活ですらままならないのに。
また、エリートのロジオンにもコンプレックスがあるように感じた。ひとつは貧しいこと。もうひとつはマザコンである。ロジオンは貧しい家に生まれ、母親からの期待を一身に受けている。ロジオンの母親はロジオンに比べていわゆる俗っぽい考え方の人間である。
 そのような母に育てられながらも、ロジオンという青年はある意味で純粋に育っている。
 だから、悪を倒してヒーローになるという夢を現実に行ってしまった。(結果は失敗に終わったけれど)
 しかも、大きな正義のためなら一つの不道徳は許されると考えている。
殺人以外の違う方法で正義を成すことができるはずであるのに、老婆を殺すという非道徳的な形で正義を成そうと考えたロジオンは異常な心理状態であったと言える。
 わたしにとって、ロジオンは全く理解のできない人間のようにも思えるし、単純な思考の持ち主のようにも感じられる。ロジオンには短絡的な行動が多く、それはまるで小学生の男の子を彷彿とさせる。
わたしはロジオンよりもずっと自己中心的でロジオンの母親のような考え方をしていると思う。わたしは自分の生活のことが中心で、見知らぬ貧困者のことなど歯牙にもかけない。
 正義について考えているロジオンのような青年はある意味で非凡である。
だから、ロジオンは何かを間違わなければ素晴らしく立派な(母親が期待した以上の)青年になっていたのかもしれない。
 貧しいことは人生において、大きなハンデである。ロジオンはそのことをとても理解していた。彼が彼自身の正義にこだわる理由は、貧しいことによるハンデによるものではないか、とわたしは考える。
 わたしは平凡な人間であるから、スケールの小さい「あれ」の達成を目標に頑張りたい。