林芙美子の『浮雲』と『罪と罰』について(連載2)

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林芙美子の『浮雲』と『罪と罰』について(連載2)
清水 正

手賀沼・散歩道

 ハッピーエンドで幕を下ろした『罪と罰』はまるで少女マンガのようにも見える。ロジオンには〈思弁〉(диалектика)の代わりに〈生活〉(жизнь)が到来したと作者は書いたが、わたしは依然として〈思弁〉を愛している。この〈思弁〉を支えているのは虚無である。この〈虚無〉はソーニャの狂信を必要としない、ロジオンの非凡人の思想を必要としない、ルージン・ピョートルの実務家的敏腕を必要としない。ましてや、悪魔に魂を売っておきながら神の前にひざまずくプリヘーリヤの信仰も必要としない。この〈虚無〉は自殺に至るスヴィドリガイロフの戯れ心を必要としない。ポルフィーリイの鋭利な饒舌とおどけも必要としない。海千山千の淫湯漢スヴィドリガイロフを無意識のうちに唆し、敏腕家のルージンとの婚約を破棄して、女たらしの好青年ラズミーヒンとの結婚を選んだ魔性の凡人ドゥーニャも必要としない。しょっちゅう手を揉みしだいている狂信者ソーニャも必要としない。わたしの虚無は林芙美子が描いた浮雲とともにある。だからこそ、わたしは今『浮雲』について執拗に書き続けている。

 ロジオンにおける〈復活〉はどのように描かれているのか。まずはその場面をきちんと見ておくことにしよう。引用テキストはわたしが長年、愛読してきた河出書房版世界文学全集米川正夫訳に拠る。

  それはまたよく晴れた暖かい日であった。早朝六時ごろに彼は河岸の仕事場へ出かけて行った。そこには一軒の小屋があって、雪花石膏を焼くかまどの設備があり、そこで焼いた石をうすづくのであった。(略)ラスコーリニコフは小屋から川岸っぷちへ行って、小屋のそばに積んである丸太に腰をおろし、荒寥とした広い大河をながめ始めた。高い岸からはひろびろとした周囲の眺望がひらけた。遠い向こう岸のほうから、かすかな歌声がつたわってきた。そこには日光のみなぎった目もとどかぬ草原の上に、遊牧民のテントが、ようやくそれと見わけられるほどの点をなして、ぽつぽつと黒く見えていた。そこには自由があった。そして、ここの人々とは似ても似つかぬ、まるでちがった人間が生活しているのだ。そこでは、時そのものまでもが歩みを止めて、さながら、アブラハムとその牧群の時代が、まだ過ぎ去っていないかのようであった。ラスコーリニコフは腰をおろしたまま、目も放さずにじっと見つめていた。彼の思いは夢のような空想と、深い黙思に移っていった。彼はなんにも考えなかったが、なんともしれぬ憂愁が彼を興奮させ、悩ますのであった。
  とつぜん、彼のそばへソーニャが現われた。ほとんど足音もたてずに近よると、彼とならんで腰をおろした。時刻はよほど早かった。朝寒はまだやわらいでいなかった。彼女は例の貧しげな古いブルヌース(外套)を着て、緑色の布を頭からかぶっていた。その顔はまだ病気のなごりをとどめて、やせて青白く、ほおがげっそりこけていた。彼女は喜ばしげにあいそよく、にっこりと彼にほほえみかけたが、いつもの癖で、おずおずと手をさしのべた。

  どうしてそんなことができたか、彼は自身ながらわからなかったけれど、ふいに何ものかが彼をひっつかんで、彼女の足もとへ投げつけたようなぐあいだった。彼は泣いて、彼女のひざを抱きしめた。はじめの一瞬間、彼女はすっかりおびえあがって、顔はさながら死人のようになってしまった。彼女はその場からおどりあがり、わなわなふるえながら彼を見つめた。けれどすぐ、その瞬間に、彼女は何もかもをさとった。彼女の目の中には無限の幸福がひらめいた。彼女はさとった。男が自分を愛している、しかも、かぎりなく愛しているということは、彼女にとってもうなんの疑いもなかった。ついにこの瞬間が到来したのである。(626〜627)

平成22年4月1日(木曜)
まず注目したいのは、ロジオンの傍らにとつぜん現れたソーニャが〈緑色の布〉をかぶっていたことである。これはマルメラードフ一家が共同で使っていたドラゼダーム織りのショールである。ロジオンが地下の酒場で、マルメラードフの告白話を聞いた時に出てくる。ソーニャが銀貨三ルーブリでイヴァン閣下に身売りに出かけていくときに被っていった緑色のショールである。ドストエフスキーの作品に緑、黄、赤の三原色は頻出するが、特に緑色は重要な意味を賦与されている。初期作品の『弱い心』の主人公ワーシャ・シュムコフは発作で意識を失う直前に世界が緑色に見える。ここで詳細に語ることはしないが、緑はドストエフスキーてんかん病理と密接につながっている。この病理は『分身』や『プロハルチン氏』『おかみさん』などの初期作品に生々しく反映されている。ソーニャの被っていた〈緑色のショール〉は、身売りの現場やロジオンの復活の場面に立ち会っており、いわばソーニャとロジオンの肝心要の〈秘密〉を知っているシンボリックな存在と言える。

 とつぜんロジオンの傍らに現れたソーニャを、『罪と罰』の読者は現に存在する生身のソーニャとしてのみ読んできたわけだが、わたしはここに〈とつぜん〉(вдруг)現出した〈ソーニャ〉を〈幻〉(ヴィデーニィエ=видение)と見たい。この〈幻〉はきわめて実体感が強いので、見た本人はそれが幻だとは気づかないくらいのものなのである。もちろんロジオンのみでなく、『罪と罰』の読者もまたここに現れた〈ソーニャ〉を本物の生身のソーニャと見てなんの疑いも持たなかった。

 ここに現れた〈ソーニャ〉を〈幻〉と見た時に、すぐに思い出すのは、ロジオンの屋根裏部屋に現れたスヴィドリガイロフが語った〈幽霊〉(プリヴィデーニィエ=привидение)である。スヴィドリガイロフはロジオンに向かって、亡妻マルファの〈幽霊〉が三度にわたって彼の眼前に現れたと語る。特に二度目の時には緑色のドレスの長い裾を引きずりながら現れたと話す。マルファとはラザロの姉妹のうちの一人マルタの名前である。ロジオンの復活に立ち会った〈ソーニャ〉が〈緑色のショール〉を被って現れ、〈幽霊〉のマルファが〈緑色のドレス〉を着てスヴィドリガイロフの眼前に現れたということの符号を見落とすわけにはいかない。
 スヴィドリガイロフはロジオンに向かって、幽霊の存在を信ずるかと聞く。ロジオンは幽霊の存在を断固として否定し、幽霊の存在などを信ずる者は正気を失った病人ばかりだと言う。ロジオンはポルフィーリイには神の存在もラザロの復活も文字通りに信ずると言い、ラザロの復活を朗読してくれと頼んだソーニャに向かっては神を否定する者として言葉を発している。まさにロジオンの精神は分裂している。もし、ロジオンの傍らにとつぜん現れたソーニャが〈幻〉(ヴィデーニィエ=видение)であったならば、ロジオンは正気を失った〈病人〉だったということになる。

 作者は「ふいに何ものかが彼をひっつかんで、彼女の足もとへ投げつけたようなぐあいだった」と書いている。ここでは〈ふいに〉という訳語になっているが、ロシア語では〈вдруг〉であり、〈ソーニャ〉がロジオンの傍らに現れた時の〈とつぜん〉と同じである。さて、〈何ものか〉とは何か。これは川の向こう岸、すなわち〈神の国〉から吹きわたってきた〈神の風〉ルーアッハであり〈神の霊〉ブネウマ・ハギオンと解することができる。こちら側の世界で思い惑っていたロジオンは、ついにシベリアにおいて神の風に撃たれ、復活の曙光に輝いたということである。『罪と罰』を最初に読んだ時には感動しても、冷静に考えれば、〈思弁〉の代わりに〈生活〉が到来したのはロジオンであってわたしではない。二十歳の時代、『罪と罰』を読み終わったわたしは依然として観念の屋根裏部屋の住人にとどまり続けた。

 いきなりひっつかんでソーニャの足下へ投げつけたものによって、ロジオンは復活の曙光に輝いたということ、そうだとすればロジオンの〈復活〉は自力ではなく或る絶対的な何ものかの働きによったということになる。この或る絶対的なものの働きがなければ、ロジオンはいつまでたっても〈思弁〉の領域から超脱することはできなかったことになる。〈思弁〉にとどまれば、ロジオンは二人の女を殺したことに〈罪〉(грех)の意識を感じることはできない。ロジオンに苦しみがあるとすれば、まさに激しい罪の意識に襲われないこと、そのこと自体にあった。ロジオンに到来した〈生活〉(жизнь)とは、キリストの言う〈命〉(жизнь)、彼を生きて信ずれば死ぬことのない命であり、たとえ死んでも生きるという命であるから、まさにロジオンはソーニャと同じ信仰を獲得したことになる。