春日太一の『天才 勝新太郎』(文春新書)を読む

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春日太一の『天才 勝新太郎』(文春新書)を読む
 春日太一さんの『天才 勝新太郎』(文春新書)を一気に読み終える
。この著作は途中で投げ出すことができない熱気に包まれている。著者の春日太一勝新太郎の霊が乗り移ったのではないかと思わせる異様なスピード感がある。まず何より好感がもてるのは、著者の勝新太郎に対する尊敬の念と、本書を書き上げずにはおれなかったその情熱である。
 彼は第一章「神が天井から降りてくるーー映像作家・勝新太郎」で、『新・座頭市』第二シリーズの第十話「冬の海」(一九七八年ろフジテレビ放映)をとりあげるが、実によく製作に関わったスタッフたちに取材している。わたしなどは、映画批評する場合、作品自体に照明を与えることを第一に心がけ、あまり製作現場などには関心を寄せないし、関心を持ったにしても、わざわざ訪ねて取材するという面倒なことは避けたいと思ってしまう。ところが春日さんは取材そのものを楽しんでいるかのように見える。彼には映画作品は監督一人のものではないという思いが強くある。この思いが全編に漂っていて、実に多くのスタッフたちの名前がしっかりと記されている。「脚本家・中村努」「勝プロでスクリプターを務めた野崎八重子」「カメラマンの牧浦地志」「助監督の小林政雄」「番頭役を長年務めてきた真田正典」といったように、関係者やスタッフ一人一人に対する敬意が伝わってくる。


東京八重洲ブックセンター・五階新書コーナーにて売上第六位(2月14日)現在

 わたしは、この著書を映画一本を集中して観るように読んだのだが、まるで映画製作現場に立ち会っているような、実にリアルな臨場感を抱いた。著者は『天才 勝新太郎』という著作を、あたかも映画を作るように多くのスタッフに支えられて書き上げているかのようだ。
 書名は「天才 勝新太郎」となっているが、全編を読んで浮かびあがってくるのは「神の道化師 勝新太郎」といったところであろうか。『座頭市』を製作する過程で、自らを〈神〉とまで見なす勝新太郎が現れる。著者は脚本やコンテを「下手なデッサン」として切り捨てる勝新太郎の製作現場をリアルに再現している。勝新太郎は自らが〈神〉である限り、ほかの〈神〉(たとえば黒沢明)と折り合いをつけることはできない。最終章の第五章は「神が降りてこない・・・」である。著者は、天才・勝新太郎の栄光と悲惨を実に鮮やかに描き切っている。 
 著書の至る所に注目すべき指摘がちりばめられているが、わたしが最も興味を抱いた項に、第二章「負けてたまるか 映画スター・勝新太郎の誕生」の中の〈「御簾」の裏側〉がある。著者は少年奥村利夫(後の勝新太郎)が学校をさぼって〈御簾〉に入り浸っていたことに注目している。〈御簾〉(舞台の片隅に客席から見えないように簾で閉ざされた一角)は「観客席も、舞台袖も、舞台裏も見渡すことができる」特等席である。〈御簾〉が未来の役者・演出家としての勝新太郎を作り上げた原点であることは確かである。
 いずれにしても、著者が本書で勝新太郎という巨大な映画人の〈実像〉を生々しく、リアルに再構築した功績は大きい。本書によって〈勝新太郎〉は、数々の低次元のゴシップ・スキャンダルから解放され、映画人本来の姿を浮き上がらせることになった。多年にわたって勝新太郎にこだわり、その謎に肉薄した本書は、今後の勝新太郎研究の礎石ともなるだろう。著者の益々の活躍を期待したい。

日芸文芸学科・清水研究室にて。著書を手にする春日太一さん