動物で読み解く『罪と罰』の深層

江古田文学97号に掲載したドストエフスキー論を何回かに分けて紹介しておきます。



動物で読み解く『罪と罰』の深層
清水正

罪と罰』には様々な動物(哺乳動物・鳥・昆虫・神話的動物)が登場する。どのような動物がどのような役割を担って登場しているのかを見ていくことにしよう。

■〈猫〉(кошка)

 まず最初に登場するのが猫である。手塚治虫のマンガ版『罪と罰』では第一頁2コマ目、画面左下に一匹の黒猫が描かれている。この黒猫は『罪と罰』の舞台となった十九世紀中葉のペテルブルクを俯瞰的に眺められる高い建築物の上にすわっている。次の3コマ目、左半分には乾草を積んだ荷馬車とその中で眠りほうける百姓男、中央に継ぎ接ぎだらけの上着を着てヨロヨロ歩く酔漢の後ろ姿、右端に二人の子供が走り去っていく姿が描かれている。酔漢と子供たちの間には「旅人はその町で見た。ハダシの子どもたちと、酔っぱらいと、売春婦のむれ。みんなが何かを期待し、そして絶望してくらしていたのである」と記されている。ここで言われている〈旅人〉は1コマ目では空を飛ぶ〈鳥〉であり、2コマ目の〈猫〉である。端的に言えば、3コマ目は猫の目に張り付いたカメラが映し出した世界である。手塚治虫は二十世紀日本から百年の時空を飛翔して十九世紀ペテルブルクへと至りついた〈鳥〉を、高層建築物の上に〈猫〉として変容させ、さらにその〈猫〉の目にカメラを装着して現実の世界を映し出す描法をたった三コマで駆使している。
 原作『罪と罰』ではどうか。『罪と罰』は13日間の物語で第一日目は一九六五年七月八日である。途方もなく暑い夕方時分、主人公の〈一人の青年〉が屋根裏部屋から通りに出て、何か惑いがあるらしく、のろのろとK橋の方へ向かって行くところから物語は始まる。この時点で主人公の名前は明かされていない。主人公はあくまでも〈一人の青年〉である。この青年はペテルブルク法学部の学生時代に下宿の娘ナタリヤと婚約し、女将に百五十ルーブリの借金を負っていた。が、ナタリヤは一年半前に腸チフスで死んでしまい、その死にショックを受けた青年は大学も家庭教師の仕事もやめて、今は屋根裏部屋に引きこもっている。青年は夕方になると散歩するために外に出るが、外に出るためには女将の部屋の前を通らなければならない。もし女将に見つかれば、面倒な話もしなければならない。そこで彼は〈猫〉となって、そっと誰にも知れぬように外に出るというわけである。この〈青年〉が〈猫〉となって女将と出会うことを回避したことは、意外と重要な意味を持っている。女将と出会えば、青年は借金弁済のことやら仕事のことやら、要するに現実的な話をしなければならない。青年は〈猫〉になることで、当面する現実的問題を回避し、自分でも〈幻想〉(фантазия)としか思えなかった「はたして私にアレができるだろうか?」(Развие я способен на это?)という〈アレ〉(это=表層的には高利貸し老婆アリョーナ殺し)へと向かっていかざるを得なかった。


清水正ドストエフスキー論全集第10巻が刊行された。
清水正・ユーチューブ」でも紹介しています。ぜひご覧ください。
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https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk

これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

清水正の著作はアマゾンまたはヤフオクhttps://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208で購読してください。
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日芸生は江古田校舎購買部・丸善で入手出来ます。

清水正の「ドストエフスキー論」自筆年譜(連載4)

江古田文学」82号(特集 ドストエフスキーin21世紀)に掲載した「ドストエフスキー論」自筆年譜を連載する。

清水正の「ドストエフスキー論」自筆年譜(連載4)
一九七五年(昭和50年)26歳
   ●ベトナム戦争終結(4月30日)
○「『プロハルチン氏』をめぐって──鏡との対話──」 :「ドストエフスキー狂想曲」創刊号(5月1日 「ドストエフスキー狂想曲」編集室)
 ※「ドストエフスキー狂想曲」は清水正編集・発行の同人誌。同人に浜田章、小島良孝、灘玄海、南保雅樹、新岡安彦。寄稿者に中村文昭、小柳安夫、新部雅樹。
○「『おかみさん』の世界──胎内回帰とその挫折──」 :「ドストエフスキー狂想曲」2号(12月10日 「ドストエフスキー狂想曲」編集室)

一九七六年(昭和51年)27歳
○「道化が戯れに道化を論ずれば──『ポルズンコフ』を中心に──」 :「ドストエフスキー狂想曲」3号(10月30日 「ドストエフスキー狂想曲」編集室)
○「『弱い心』の運命」 :「ドストエフスキー狂想曲」3号(10月30日 「ドストエフスキー狂想曲」編集室)

一九七七年(昭和52年)28歳
○「坂口安吾とドストエフスキ──ー『吹雪物語』と『悪霊』を中心に」 :「ドストエフスキー狂想曲」4号(4月15日 「ドストエフスキー狂想曲」編集室)
○「初期作品に見るドストエフスキー :「日本大学芸術学部紀要」第7号(12月20日 日本大学芸術学部紀要委員会)
○「関係の破綻と現実還帰の試み──『正直な泥棒』『白夜』『他人の妻とベッドの下の夫』をめぐって──」 :「ドストエフスキー狂想曲」5号(12月25日 「ドストエフスキー狂想曲」編集室)

一九七八年(昭和53年)29歳
○「流刑前の作品世界 『分身』を中心に」 :「「ドストエーフスキイの会会報」No.50(4月1日 「ドストエーフスキイの会」)
○「ドストエフスキーに関する勝手気儘なる情熱」 :『場 「ドストエーフスキイの会の記録Ⅰ 1969-19739』(5月15日 海燕書房淵)
○「『イワン・デニーソヴィチの一日』について」 :「ドストエフスキー狂想曲」6号(6月30日 「ドストエフスキー狂想曲」編集室)
○「死の家の記録:「ドストエフスキー狂想曲」6号(6月30日 「ドストエフスキー狂想曲」編集室)
○「喜劇作者ドストエフスキー──『おじさんの夢』を中心に──」 :「ドストエフスキー狂想曲」6号(6月30日 「ドストエフスキー狂想曲」編集室)
○「道化と赦しの物語──『ステパンチコヴォ村とその住人』について──」 :「ドストエフスキー狂想曲」6号(6月30日 「ドストエフスキー狂想曲」編集室)
○「ドストエフスキーてんかん :「「ドストエーフスキイの会会報」No.52(7月15日 ドストエーフスキイの会)

一九七九年(昭和54年)30歳
○「『罪と罰』序論──基本的構造からテーマへ向けて──」 :「日本大学芸術学部紀要」9号(2月25日 日本大学芸術学部紀要委員会)
○「自意識病の道化師──『地下生活者の手記』について──」 :「ドストエフスキー狂想曲」7号(6月25日 「ドストエフスキー狂想曲」編集室)
○「文体の魔術師──『地下生活者の手記』第一部・「地下の世界」について──」 :「ドストエフスキー狂想曲」7号(6月25日 「ドストエフスキー狂想曲」編集室)

一九八〇年(昭和57年)31歳
  ●イラン・イラク戦争勃発(9月22日)

一九八一年(昭和56年)32歳
○「回想のラスコーリニコフ──自称ポルフィーリイの深夜の独白──」 :「現代のエスプリ」164号(3月1日 至文堂)
 ※「あぽりあ」掲載の再録。
○「『罪と罰』をめぐって」 :「ドストエフスキー」創刊号(4月1日 「ドストエフスキー」編集室)
 ※「ドストエフスキー狂想曲」終刊後、田村一平、富岡幸一郎と共に創刊したドストエフスキー専門誌。3号で廃刊。
◎『「虐げられた人々」論』(10月15日 私家版) A5判・並製六六頁 非売品
ドストエフスキーの全作品を批評しつくそうと考えていたから、初期作品から順を追って作品批評を展開していった。『虐げられた人々』はそれほと批評衝動にかられた作品ではなかったし、批評の方法に関しても行き詰まりを感じていた頃であった。ドス卜エフスキーの作品を読めば読むほど全文引用するより他はないのじゃないかと思い、現にこの論考はかなり引用が多い。長い引用は、批評家にとってはどこかしら屈辱的な思いを感じるものである。引用も批評のうちと開き直って論をすすめたが、やはりそれが批評として成功したとは思えなかった。この思いは今でも変わらない。しかし、長いドストエフスキー研究の途上でこういった引用だらけの批評もあっていいのではないか、こういった地点も通過していかなければ先に進めないのだ、と思ったことも確かである。
『慮げられた人々』のワルコフスキー公爵が発する言葉はきわめて魅力的で、彼の言葉はいくら長く引用しても退屈することは全くなかった。彼の〈言葉〉を乗り越える〈言葉〉ははたしてあるのだろうか。】(「自著をたどって」より)
◎『ドストエフスキ──ー中期二作品──』(10月30日 呼夢書房) A5判・並製一六二頁 定価一五〇〇円
 ※「自意識病の道化師──『地下生活者の手記』について」「文体の魔術師──『地下生活者の手記』第一部・「地下の世界」について」「『虐げられた人々』論──赦しの精神の破綻」所収。
【この本の表紙に使ったのはわたしが十九才頃にワラ半紙に書いた『悪霊』論の一枚である。当時わたしは極めて小さな文字で原稿を書いていた。わら半紙一枚に四百字詰め原稿用紙に換算して五十枚ほどになる文字を書いたこともある。二十歳前後の頃、わたしの神経は異常に研ぎ澄まされていて、赤インクや緑インクを使って文字を書いたこともある。当時のわたしは完全な夜型人間で原稿はほとんど夜中に書いていた。冬などは炬燵に入って原稿を書き、疲れればそのまま炬燵で寝ていた。
 新潮文庫『地下生活者の手記』(米川正夫訳)との出会いによってわたしのドストエフスキー体験は始まった。十代後半から二十代、三十代とわたしのドストエフスキー体験は絶え間なく続いた。四十代の十年間は宮沢賢治論に終始した感もあるが、それでもドストエフスキーと縁が切れたわけではない。むしろドストエフスキーはより深いところへと沈んでいったのかもしれない。】(「自著をたどって」より)
○「ドストエフスキー遊園地──無為なる道化のすべり台──」 :「ドストエフスキー」2号(12月15日 「ドストエフスキー」編集室)
○「流刑前の作品世界 『分身』を中心に」 :『場 ドストエーフスキイの会の記録Ⅱ 1973-1978』(12月15日 海燕書房)
○「ドストエフスキーてんかん :『場 ドストエーフスキイの会の記録Ⅱ 1973-1978』(12月15日 海燕書房)

一九八二年(昭和57年)33歳
◎『ドストエフスキーの作品Ⅰ』(12月5日 私家版) A5判・並製五八頁 非売品
 ※「『貧しき人々』の多視点的考察」所収。

一九八三年(昭和58年)34歳
○「ドストエフスキー遊園地──白痴のブランコ──」 :「ドストエフスキー」3号(1月25日 「ドストエフスキー」編集室)
◎『ドストエフスキーの作品Ⅱ』(10月30日 私家版) A5判・並製九四頁 非売品
 ※「意識空間内分裂者による『分身』解釈」所収。

一九八四年(昭和59年)35歳
◎『ドストエフスキーの作品Ⅲ』(8月31日 私家版) A5判・並製八四頁 非売品
 ※「『フロハンチン氏』をめぐって」「おかみさん』の世界──胎内回帰とその挫折」所収。
○「〈書評〉中村健之介著『ドストエフスキー 生と死の感覚』」 :「日本読書新聞」(10月1日 日本読書新聞


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四六判並製160頁 定価1200円+税

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清水正の「ドストエフスキー論」自筆年譜(連載3)

江古田文学」82号(特集 ドストエフスキーin21世紀)に掲載した「ドストエフスキー論」自筆年譜を連載する。

清水正の「ドストエフスキー論」自筆年譜(連載3)

一九七一年(昭和46年)22歳

○「〈断想・2〉肖像画に見るドストエフスキ──ー並びに批評の問題──」 :「陀思妥夫斯基」No.3(1月15日 日本ドストエフスキー協会資料センター)
○「肖像画に見るドストエフスキーニーチェ :「ニーチェ・ノート」(3月30日 日本大学芸術学部文芸学科)
○「〈断想・3〉三角関係に見るドストエフスキ──ー〈一〉『虐げられた人々』における三角関係」 :「陀思妥夫斯基」No.10(8月30日 日本ドストエフスキー協会資料センター)
◎『停止した分裂者の覚書』(9月15日 豊島書房)四六判・上製二八二頁 定価一〇〇〇円
 ※『ドストエフスキー体験』の増補改訂版。『未成年』論と「不条理の世界──カミュドストエフスキーか──」を増補。

 【近藤氏は『ドストエフスキー体験』を赤羽の豊島書房主岡田富朗氏に紹介、増補改訂版の刊行を企閲してくれた。豊島書房は古書店を経営していたが出版も手掛けていた。白川正芳氏の埴谷雄高論や近代文学派関係の本を刊行していた。(略)最初のタイトルは『トストエフスキー 体験──停止した分裂者の党書──』であった。しかしこのタイトルは、椎名麟三に『私のドストエフスキー 体験』(一九六七年五月十日教文館)があるということで変更を余儀なくされた。そこでタイトルとサブタイトルを入れ換えて現行のものとした。
 近藤承神子氏と一一緒に小沼文彦氏が主宰する「日本ドストエフスキー協会資料センター」を渋谷に訪れたのはドストエーフスキイの会総会の後まもなくしてのことであった。小沼氏は豊島書房から『ドストエフスキー体験』の増補改訂版が出ることを知って、「本は大きな出版社からだした方がいい」と言って、岩波書店からチェーホフの翻訳を出していた湯浅芳子氏の話などをされた。確かにそうだろうとは思ったが、小沼氏のアドバイスよりは、出版の斡旋をしてくれた近藤氏の友情の方がはるかに嬉しかった。】(「自著をたどって」より)

一九七二年(昭和47年)23歳  ●浅間山荘事件(2月19日〜28日)
○「ドストエフスキー体験記述Ⅰ ドストエフスキ──ーそのディオニュソス的世界」: 「ピエロタ」17号(12月1日 母岩社)

一九七三年(昭和48年)24歳
○「ドストエフスキー体験記述Ⅱ 『貧しき人々』の多視点的考察(1)」
: 「ピエロタ」18号(2月1日 母岩社)
○「ドストエフスキー体験記述Ⅲ 『貧しき人々』の多視点的考察(2)」 :「ピエロタ」19号(4月1日 母岩社)
○「ドストエフスキー体験記述Ⅰ 意識空間内分裂者による『分身』解釈(1)」 :「るうじん」創刊号(4月1日)
○「回想のラスコーリニコフ :「あぽりあ」15号(4月10日 「あぽりあ」編集室)
○「ドストエフスキー体験記述Ⅱ 意識空間内分裂者による『分身』解釈(2)」 :「るうじん」2号(5月1日)
○「ドストエフスキー体験記述Ⅲ  意識空間内分裂者による『分身』解釈(3)」 :「るうじん」3号(6月1日)
○「ドストエフスキー体験記述Ⅳ 意識空間内分裂者による『分身』解釈(4)」 :「るうじん」4号(7月1日)

一九七四年(昭和49年)25歳
◎『ドストエフスキー体験記述──狂気と正気の狭間で──』(5月1日 私家版) A5判・並製二一一頁 定価一二〇〇円
 ※「肖像画に見るドストエフスキーニーチェ」「回想のラスコーリニコフ──自称ポルフィーリイの深夜の独白」「ドストエフスキー──そのディオニュソスヒサ的世界」「『貧しき人々』の多視点的考察」「意識空間内分裂者による『分身』解釈」所収。
 【一九七〇年末から一九七三年末までの約三年間、私は相変らずドストエフスキーを読み続け、書き続けた。喫茶店の薄暗い片隅でコーヒーをすすり煙草をのみながら、あるいは皆の寝静まった深夜に私はひとりドストエフスキーの宇宙に旅立った。その孤独で悩ましい体験のみが、私の生活であり、現実であったかのように──。/ドストエフスキーの作品群は、私にとって偉大な現代文学であり現代心理学であり現代哲学であり、人間存在の深淵に照明を与えてくれる唯一のものとして存在し続けた。ドストエフスキーの世界を解明する作業が、現代に生きる私自身の存在のあり方を解明する作業である限り、私は一生彼の宇宙を彷徨い続けなければならないのであろう。】(「あとがき」より)
【二十五歳になったら本を出したいと思っていたので原稿の準備だけはしていた。大学三年時のゼミ雑誌「ニーチェ・ノート」(一九七一年三月三十日 日本大学芸術学部文芸学科)に発表した「肖像画に見るドストエフスキ!とニーチェ」、三年から書きはじめた「貧しき人々」論、四年から書きはじめ卒業後一年たってようやく書き上げた「分身」論などを収録して『ドストエフスキー体験記述』は刊行する運びとなった。この本は最初の本と同じく高知の土電印刷所に頼んだ。当時は石油ショックで紙代が高騰し、印刷代が予想の三倍を超えた。完全な自費出版で百万近くの金がかかった。細君が貯金の全額を降ろして協力してくれた。金銭的にも精神的にも感慨深い三冊目の本である。
「分身」解釈を書いている頃、精神状態は最悪であった。主人公ゴリャー トキン氏の狂気が感染しそうな感じすら覚えた。江古田につくといつも烏が鳴いていた。その鳴き声が耳について離れなかった。百三十枚ほど書いて行き詰まった。書くべきことはある。が、それがなかなか表現になってくれない。苛立ちの中でハイデッガーの『有と時』(辻村公一訳)を読み、ビンスワンガーの『精神分裂病』、R - D ・レインの『引き裂かれた自己』など多くの精神病理学の本を読んだ。それもこれもゴリャートキン氏の狂気に照明を与えるためである。半年の間、一文字も書くことができなかった。ある日、日暮里から乗った電車の中でノートを聞き、とにかく我孫子駅までぺンを走らせた。それで突破できた。「意識空間内分裂者による「分身」解釈」は三百枚を超える批評となった。】(「自著をたどって」より)




清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。


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清水正の「ドストエフスキー論」自筆年譜(連載2)

江古田文学」82号(特集 ドストエフスキーin21世紀)に掲載した「ドストエフスキー論」自筆年譜を連載する。

清水正の「ドストエフスキー論」自筆年譜(連載2)

一九七〇年(昭和45年)21歳

○「『カラマーゾフの兄弟』論(一)」 「月刊 出入り自由」創刊号(2月10日)
※『ドストエフスキー体験』所収の『カラマーゾフの兄弟』論の再録(以下同)
○「『カラマーゾフの兄弟』論(二)」 「月刊 出入り自由」2号(3月10日)
○「『カラマーゾフの兄弟』論(三)」 「月刊 出入り自由」3号(4月10日)
 【当時、文芸学科研究室には此経啓助氏が助手として勤務していた。此経氏は「出入り自由」(「ジャーナリズム理論2 」の機関誌) という雑誌の編集をしていて、わたしにも何か載せないかと声をかけてきた。そこで『カラマー ゾフの兄弟』論を載せることにした。三回の連載であった。】(「自著を辿って」より)
ドストエーフスキイ全作品を読む会発足〜現在】
○「(第九回例会報告要旨)ドストエフスキーに関する勝手気儘なる饒舌」 「ドストエーフスキイの会会報」No.10(8月31日 ドストエーフスキイの会)
 ※「ドストエーフスキイの会」の第九回例会(東京厚生年金会館 一九七〇年六月十日午後六時〜九時)で発表した「『罪と罰』と私」を会報用に文章化したもの。
 【「ドストエーフスキイの会」が新宿にあった東京厚生年金会館で研究発表会を開催していた。新聞の文化欄に載った情報をもとに会場に駆けつけた。一九七〇年四月二十七日のことである。講演者は水野忠夫氏、題目は「『カラマーゾフの兄弟』をめぐって」であった。会場に集まった人は百人ほどであったろうか。異様な熱気に包まれていた。日本人には「ドストエフスキーがドーシテコンナニスキー」と言われるぐらい熱狂的なファンがいる。が、二十歳のわたしが不思議だったのは六十過ぎの年配の方も多数おられたことだった。六十も七十歳にもなってドストエフスキーを読んでいることが解せなかった。当時のわたしはドストエフスキーは若いころ熱中して読むもので、老人になってまで読む作家ではないと思っていた。神があるかないかそれが問題だ、などと大真面目になって議論している作品などは青春時代に読むべきであって六十歳過ぎてまでドストエフスキーを読むというのはなんかみっともないことのように思っていたのである。その気持ちは今でも基本的には変わっていない。
 講演後、水野氏に『ドストエフスキー体験』を一部贈呈した。その際、近藤承神子、岩浅武久両氏から拙著を購読したいと申し出があった。後日、近藤氏とは早稲田大学の大限会館で開催されたドストエーフスキイの会総会( 一九七〇年五月七日土曜日)で再会した。近藤氏は次回の講演者としてわたしを推薦した。会場には筑摩書房ドストエフスキー全集の翻訳者として著名であった小沼文彦氏、早稲田露文科の教授でバフチン著『ドストエフスキイ論 創作方法の諸問題』(一九六八年 冬樹社)の翻訳者・新谷敬三郎氏、後にドストエフスキー の謎ときシリーズで有名になった江川卓氏、当時、会の事務局長であった木下豊房氏などが列席していた。小沼氏には拙著を二冊ほど購入して頂いた。
 わたしが東京厚生年金会館で「『罪と罰』と私」という演題で話をしたのは一九七〇年六月十日のことであった。初めて人前で話すということであがっていたのか、具体的にどのようなことを話したのかあまり記憶にはないのだが、途中ひとりの男(ずいぶんと年配の人だった)がとつぜん手をあげて話の中断を申し込んだことは鮮明に覚えている。
 この日の〈できごと〉は近藤承神子氏が「ドストエーフスキイの会会報」№10に「第九回例会印象記」を書いているので次にそれをそのまま紹介しておきたい。
《第九回例会の発表者は清水正氏。一九四九年生まれの堂々たる戦後派。痩躯鶴の如し。司会者は爆弾であると紹介した。会衆はキョトンとする。只の学生じゃねえか。だが長髪にかくれた顔をうつむかせてボチボチ口を聞き出した氏の話は次第に会場の落着きを奪ってゆく。どうもいつもとは様子が違う。居心地が悪い。ズカズカ人の居間に土足で上り込まれたようで苛立たしい。ルール無視の話し方だ。俎の鯉が調理人に咬みついているようなものだ。初っ鼻から清水氏は会衆の毒気を抜いた。抜かれる側もこれではならぬと陣形の立て直し。にらみ合い数刻の後に本号要旨にある──『罪と笥』と私── の話が始った。個性的である。数多く頒布されている評論解説の影響と模倣がみられない。裸の肉体をドストエフスキー御本尊にぶっつけて得た紛れもない自分の言葉で話り続ける。氏の独断とも倨傲とも思える見解の数々が次第に熱した口調にのって播き散らされる。しかしどれもドストエフスキー の作品の中にトップリ身をひたし、深く読込んで得られたものであることを覗わせる。会衆の神経はそれらに触れてピリピリと震えている。彼の大変な「居直り」にたまりかねた会員の一人が、とうとう中断を申し入れ、司会者をあわてさせた。
 理解するには先ず溺れろという言葉があるが、作品世界に埋没して客観を失い全身の力で共感また反発せざるを得ないというところに名作の魔力を知ることが出来る。ドストエフスキーはその作品の読み手に「体験」という傷跡を刻み込む偉大なる達人である。そこから惨み山る血の色を見て、読者は自分の生の痛みを知る。清水氏にも『ドストエフスキー 体験』という著書があるが、これとて、ゲバルト模様に彩りしてはあっても、その心は正統派。当たり前の真っ白けなのだ。この日会衆から発せられた質問は、残念なことに氏の巧妙なメクラマシに外され、白い腹を晒すには至らなかった。合戦は鯉の勝利で幕を閉じた。とにかく面白い三時間であった。》
 この近藤氏の例会印象記は当時のわたしのドス卜エフスキーに憑かれていた姿をよくとらえている。わたしはわたしのドストエフスキーをわたしの言葉で語ったまでだ。が、その言葉はある種の人にとっては常軌を逸した熱狂的な言葉に聞こえ、苛立ちを覚えるのだろう。わたしの批評はテキストに揺さぶりをかけて一度テキストを解体し、再構築化をはかって作品化するという試みである。テキストが〈人間〉である場合、揺さぶられて解体されてはたまらないと感じ、はげしく低抗するのもとうぜんということか。
 近藤氏は同・会報で拙著『ドストエフスキー 体験』の書評もしてくれた。それは、今読んでも面白い。ドストエフスキーを読むということが、どういうことかよく分かる書評である。この会報は後に『場ドストエー フスキイの会の記録I 』(一九七八年五月十五日海燕書房)に収録されたが、今は品切れで入手困難な状態にあるので次に全文を引用しておく。《稚拙な比喩で申訳ないが、ドストエフスキー の作品は濃厚な毒酒である。なまじっかな体質では殺される。故に一滴飲んでもう結構という輩もいれば、強烈な異臭に鼻をつまんでまっぴら御免と尻込みする者もある。口に含む勇気はないが気になって仕方がないという連中はもっぱら酒精の分析に熱をあげる。この酒には幾つもの副作用があり、中毒症状が顕著である。常用していると先ず人づき合いが悪くなる。極度の皮肉屋が生まれ、時に泣き上戸もできる。愛飲家は反抗的で虚無的で同時に博愛心旺盛で人類愛にも富んでいるのだが、程々ということがないから世間にひどく嫌われる。現在迄発売は禁止されていないが、一般には飲まないことが望ましいとされ、この酒の悪口を喧伝することは大いに歓迎されている。勿論、中毒患者は地下室に閉じ込められる。が、地下へと追いやられる程に症状の進行した患者は自分の体内に残った微かなエキスで、臓腑を同じ毒酒に変え得るから、彼は地下に座したまま、毒酒の味わいに酔痴れるのである。そこで彼は人が中途までも徹底させない意識を徹底的に追求する。この丁度を知らぬ表われこそ、この酒のもたらす特徴であり、この意識の徹底に耐え得る体質者のみが、この酒を飲み得るのである。
 『ドストエフスキー体験』いう清水正(まさし)氏の著書は、清水氏の毒酒痛飲酩酊の克明な記録である。氏は存分に毒酒を傾け「意識の徹底」という「病気」を引受けている。氏の肉体はすでに毒酒そのものを発酵させてもいる。ということは氏がドストエフスキーの作品を生きているということに他ならず、『ドストエフスキー体験』と銘されたこの酒もドストエフスキーの毒酒に劣らぬ絢爛たる猛毒の含有を保証している。地下に住む通人たちよ、肝臓には余程注意の上賞味されるがよかろう。然る後、かって或いは現在の己が酩酊と比べてみるがよい。果して清水氏程の泥酔が己れの体験にあったかと。(近藤記)】(「自著をたどって」より)
【小沼文彦主宰「日本ドストエフスキー協会資料センター」開設】
 ●三島由紀夫割腹自殺(11月25日)
○「〈断想・1〉ラスコーリニコフと老婆アリョーナ」 :「陀思妥夫斯基」No.2(12月14日 日本ドストエフスキー協会資料センター)





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「江古田文学」82号(特集 ドストエフスキーin21世紀 批評家清水正の『ドストエフスキー論全集』完遂に向けて)

本日江古田文学」82号(特集 ドストエフスキーin21世紀 批評家清水正の『ドストエフスキー論全集』完遂に向けて)が研究室に届けられた。発売は今月末頃になると思う。中村文昭編集長とのネジ式螺旋対談や「清水正の「ドストエフスキー論」自筆年譜」、清水正ドストエフスキー論に関する批評などが掲載されている。



第11回江古田文学賞授賞式

午後六時より第11回江古田文学賞授賞式が日芸江古田校舎西棟四階文芸学科資料室前のフロアで開催された。受賞者は文芸学科三年の大西由益さん。受賞作は「ポテト」。この日は大西さんのご家族や江古田文学会に所属する文芸学科の先生方や学生などが集まり、盛大な会となった。大西さんは一年生のときに宮沢賢治の童話を題材にした「文芸特殊研究Ⅱ」を、二年生のときに「マンガ論」を、三年生になって「文芸批評論」と「雑誌研究」を受講した。大西さんが提出するレポートにはいつも感心していたが、小説を書いているとは知らなかった。「ポテト」は大学のサークルに所属する男女四人の関係を軽妙なタッチで描く青春小説だが、最後まで読ませる力を持っている。持続して書き続けていってほしい。

お祝いの挨拶をする中村文昭「江古田文学」編集長

「ポテト」受賞のいきさつをユーモアをまじえて語る村上玄一選考委員

右から中村編集長、大西さん、小生


清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。


ここをクリックしてください。清水正研究室http://shimi-masa.com/


四六判並製160頁 定価1200円+税

京都造形芸術大学での特別講座が紹介されていますので、是非ご覧ください。
ドラえもん』の凄さがわかります。
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp

http://www.youtube.com/user/kyotozoukei?feature=watch

なか中村文昭氏との対談「ネジ式対談ドストエフスキー

中村文昭氏との対談「ネジ式対談ドストエフスキー」の校正と「『清水正ドストエフスキー論年譜』の作成を終えて

中村文昭氏(左)と小生
去年の12月30日から作成し始めた『清水正ドストエフスキー論年譜』は今年の1月5日にポメラの操作ミスで消失、気を取り直して6日の零時すぎから再開、本日ようやく終えた。この間、卒論の講評、「藝文攷」に連載の「ロープシンの『蒼ざめた馬』をめぐって」の校正、中村文昭氏との対談「ネジ式対談ドストエフスキー」の校正もしなければならず、まさに起きている間中とにかく校正、校正の毎日であった。

「年譜」と「対談」は今年三月末に刊行予定の江古田文学ドストエフスキー特集号の仕事であるから、とにかく急いで完成しなければならなかった。

中村氏との対談は去年の12月25日に四時間をかけたが、校正はその十倍くらいの時間を要した。話言葉というのは、録画映像で見聞きするぶんには理解できても、活字にすると意味不明の箇所が意外と多い。ドストエフスキーの人物たちの名前はほとんど正確にテープおこしされていないので、すべて入力し直さなければならない。

今回は、起こされた原稿を一度読んで、赤を入れ、さらにその校正原稿をもとにして入力したので、まさに二重三重の手間がかかる。これなら最初から自分でテープおこししたほうが早いのではないかと思ったほどである。

最初は中村氏も話言葉を尊重しようという意向であったが、なかなかそうはいかないところが対談や座談の難しいところである。

〈ネジ式対談〉ということで話は多方面へと飛んだが、なかなか面白い対談になったと思う。

中村氏と最初に会ったのは一九七三年、今から四十年も前の昔である。記憶に間違いがなければ、わたしの「回想のラスコーリニコフ」が掲載された「「アポリア」15号が完成して同人の何人かが新宿の酒場に集まった時ではないかと思う。その時は中村氏ひとりが熱く語っていた印象が強い。編集を担当していた坂井信夫氏は実に寡黙で、ただひたすら中村氏の言葉に耳を傾けていた。

中村氏とは酒の席では何度か話をしたことはあるが、なにしろ酒を飲んでの話なので、要するに最後には、文字通りグチャグチャになる。何を話したのかなど記憶に残るはずもない。

今回はお互いにまったくアルコールを入れなかったので、冷静に対談できたのではないかと思っている。酒を飲んで文学の話などしようものなら、まだ何が起きるかわからない……。

ドストエフスキーに限らず、宮沢賢治の文学、暗黒舞踏、スビノザ、サド、ベルグソン林芙美子、信仰、虚無、愛など、とにかく話は縦横無尽に広がっていく。今回の四時間は、テーマの大きさ、深さを考えればとうてい語り尽くしたとは言えない。

が、この対談によって、わたしが抱え込んでいるテーマ(死と復活)はかなり浮き彫りにされたと思う。

近頃、本気で文学を中心に据えて他人とまともに語り合うことはなかったので、この対談はその意味でも面白かった。面白かったという点では、一九八六年の暮れに小沼文彦、江川卓両氏と江古田の居酒屋「和田屋」の二階を借り切って鼎談した時以来である。

なにしろ、小沼、江川氏はいわばドストエフスキー研究にその生涯を費やしたひとたちであるから、話をしていて面白くないはずはない。この二人は「ドストエーフスキイの会」の総会などで顔を会わせる機会はあっても、ドストエフスキーをテーマに本格的に話をする機会はなかった。

こ日は、両氏とも日芸の特別講義を終えてリラックスしていたこともあり、アルコールもだいぶはいってとにかく面白い話に終始した。詳細は「ドストエフスキー曼荼羅」別冊、または「清水正ブログ」を検索してご覧ください。

いずれにしても、いつまでも校正や編集に従事しているわけにはいかない。執筆の中断を余儀なくされているのは林芙美子の『浮雲』論、ロープシンの『蒼ざめた馬』論、ソポクレスの『オイディプス王』論と三編もある