日芸創設者・松原寛の著作を読み返す。

日芸創設者・松原寛の著作を読み返す。

今日は久しぶりに松原寛の本を読み直す。

三年前、日大病院に入院中、入手できた本はすべて読み、450枚の松原寛論も執筆した。これは「日藝ライブラリー」松原寛特集号に掲載した。

松原寛は京都帝国大学哲学科を卒業した哲学者で、著作も二十数冊あるが、すべて五十年以上にわたって絶版状態にある。

松原寛の本はいわゆる書斎派の学的哲学というよりは、激しい内在的な欲求によって自在に書かれている。哲学、宗教、芸術、芸能から身辺雑記に至るまで、幅広く、熱く語っており、そこに最大の魅力がある。

まさに松原寛は市井の哲学者、現代のソクラテスぶりをいかんなく発揮している。

今回読み直したのは『哲学への思慕』に所収の「愛兒に與う」と「別れし妻に與う」の二篇。一読すれば松原寛、只者ではないことがすぐにわかろう。分別臭い、頭でっかちの思弁家ではなく、わが魂の震えをもって、ニーチェの言うわが血によってものを書く本物の哲学者なのである。松原寛の著作には例外なく血のしたたる「わが魂」が躍動している。

わたしは今後も徹底して松原寛の本を読んでいこうと思っている。

また、日芸の学生はぜひ、創設者松原寛先生の著作を読み、日芸魂にじかに触れてもらいたい。絶版状態にあってなかなか入手できない本を苦労して探し出すのも必要である。わたしは六年ばかり日芸の図書館長を務めたが、学生時代はもっぱら早稲田や神田の古書店街を歩き回って、本を購入した。目的の本を歩いて探す楽しみ、苦労して手に入れた本の一冊一冊に懐かしい風景がまとわりついている。

Ф.М.ドストエフスキー『罪と罰』におけるразум考察の重要性


清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。

清水正が薦める動画「ドストエフスキー罪と罰』における死と復活のドラマ」

https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk

これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。



「日藝ライブラリー」三号所収の清水正「松原寛との運命的な邂逅」「苦悶の哲人・松原寛」を読んだ感想


Ф.М.ドストエフスキー罪と罰』におけるразум考察の重要性
―『日藝ライブラリー』No.3所収、清水正「松原寛との運命的な邂逅」、「苦悶の哲人・松原寛」に寄せて

坂下 将人


1
松原寛は、宗教的な観点から哲学を問い、哲学的な観点から宗教を問う。哲学の成果と課題を前に、松原は宗教を立脚点とし、哲学者一人一人の論考を再検討・再確認しつつ、哲学と宗教の「融合」を志向し、また両者をいかに藝術的な観点から照射でき得るかを、己の著作を通じて幾度となく問い続ける。
清水正は、松原に対する実存的検証を通して、松原の藝術観、宗教観、世界観を見事に「再現」している。松原は、神学的思惟を哲学に与えることで、哲学に「亀裂」を入れ、藝術と宗教の入り込む素地を作り、藝術と宗教と哲学を「結合」させることで、革新的かつ学際的な学問領域を創成しようとしたことが窺える。
筆者は、松原に対する清水の実存的検証を読むことで、ドストエフスキーの文学作品を研究するにあたって「指針」と成り得る、重要な「気づき」を得ることができたため、以下2において『罪と罰』論を展開することにしたい。
きっかけは、前述したように、松原が宗教を立脚点とすることで、既存の西洋哲学に「亀裂」を入れ、宗教と哲学を「融合」させることで、「宗教哲学」を志向しようとした点にあった。宗教は「感性」であり、哲学は「理性」であるが故に、言うまでもなく、両者は「対立」する概念である。宗教は「信仰」であり、哲学は「知恵」、「知性」である。
しかし、『罪と罰』において「信仰」と「知恵」を「同義」とするドストエフスキーの解釈からも明らかなように、宗教と哲学は必ずしも「対立」する概念ではない。従って松原は、自身の一連の著作の中で、『罪と罰』執筆時におけるドストエフスキーと同じ立場をとり、宗教と哲学を「同義」として解釈することで、両者を「融合」させようと試みていることが窺える。
なお、後述するように、ドストエフスキーは『悪霊』において「信仰」と「知恵」を「対立」として解釈していると考えられるため、宗教と哲学の「融合」を目指す松原の言説は、あくまでも、『罪と罰』執筆時におけるドストエフスキーの見解と同じものである、という点に留意されたい。
清水は他に例を見ないほど、松原の一連の著作における主題を、釈義上の思索を綿密に繰り返すことで実存的に検証している。清水の検証によって、松原が哲学者の著作に対して言語的な観察に宗教的な認識を重ね合わせることで、哲学者の世界観、並びに哲学書の釈義的解明に到達しようとする試みを何度も確認することができる。従って、清水の実存的検証は、松原の抱く純粋な問題意識と苦悶を浮き彫りにすることに見事に成功しており、松原の一連の著作を理解する上で非常に重要な言説となる。

2
罪と罰』では文字通り、「知恵」を意味する「ソフィア」を名前に持つソフィア・マルメラードワがロジオン・ラスコーリニコフの「知恵」となることで、ラスコーリニコフを「復活」へと導き、「愛」によってラスコーリニコフを「復活」させるという役割を果たす。
罪と罰』では「知恵」と「信仰」は「同義」であり、作者によって「知恵」と「信仰」の共存が作品内において認められている。しかし『悪霊』では、「知恵」か「信仰」かの二者択一であり、『罪と罰』とは違って、「知恵」と「信仰」の共存は認められてはいない。「知恵」を持てば「信仰」は失われ、逆に「信仰」を持てば「知恵」は失われる。「知恵」と「信仰」を同時に持つ「ソフィア」のような存在は、『悪霊』の舞台に主要人物として登場することを許されていない。『罪と罰』において「知恵」と「信仰」は「同義」であるが、『悪霊』においては「知恵」と「信仰」は同義ではない。従って『悪霊』では、ごく一部の存在を除き、「信仰」と「知恵」を共存させ、内包する人物は登場しない。
確かに、アダムとイヴは「知恵の樹の実」を食べた結果、天国を追放される。また、荒野でイエスを誘惑する悪魔が「知恵ある悪魔」と呼ばれていることからも、「知恵」は紛れもなく「悪」として解釈されていることが理解できる。しかし、「知恵」は本来、キリスト教において「神を象ったもの」であるが故に、「知恵」と「信仰」は「同義」として解釈されるべき概念である。
東ローマ帝国第一の格式を誇る「教会」であり、キリスト教の大聖堂だった「ハギア・ソフィア大聖堂」には「ソフィア」という名前があてがわれている。また、東ローマ帝国領の各地には「ハギア・ソフィア」と名付けられた教会堂建築が数多く残されている。従って、キリスト教において「ソフィア」が「神の知恵」を意味し、「イエス・キリストを象ったもの」として理解されていることがわかる。「ハギア・ソフィア」はギリシャ語で「聖なる叡智」を意味する。よって、「ハギア・ソフィア大聖堂」は「(神の)聖なる叡智の大聖堂」であることが理解できる。「ソフィア」が「神」を象っているからこそ、また「教会」が「「神」の肉体」であり、「「神」が降臨する場所」であると考えられているからこそ、教会や大聖堂には「ソフィア」という語があてがわれているのである。
ローマ・カトリック教会を信奉する上智大学Sophia Universityとして表記される理由も、「ソフィア」が「イエス・キリスト」を象ったものであることがわかれば、納得できるものである。Sophiaが「イエス」を象り、「キリスト教」を表していることが理解できれば、上智大学キリスト教系列の学校であると瞬時に判断することができる。Sophiaが「イエス」を象り、「キリスト教」を表現しているからこそ、上智大学創立者は同大学がキリスト教系列の学校であることを明示するために、大学名にSophiaをあてがったのである。
キリスト教における「ソフィア」は「神の知恵」を表現している。これは、知恵が「キリスト教」と結びつかなければ、「神の知恵」とはならず、また「イエス・キリストを象ったもの」にはならないことを暗示している。
「知恵」に「両義性」が存在する理由は、キリスト教と結びついた「知恵」と結びついていない「知恵」の二つが存在するからであると考えられる。キリスト教と結びついた知恵は「神の知恵」、また「イエスを象ったもの」となり、キリスト教と結びつかない知恵は「信仰」を阻害するものとなるが故に「悪」として解釈されるのではないだろうか。いずれにしても、キリスト教において「知恵」は「イエス」を象り、「神の知恵」を意味するが故に、「知恵」と「信仰」は「同義」となる概念であることに留意されたい。
このように、「ソフィア」はキリスト教において「神の知恵」を意味し、また「イエス・キリストを象ったもの」として理解されている。従って、『罪と罰』においてソフィアが「キリスト」へと変容するのも故なきことではない。
ソフィアの父マルメラードフの名前「セミョーン」(Семён)は、古代ヘブライ語で「聴く」を意味するから、マルメラードフはソフィアによる「ラザロの復活」の朗読の場面に居合わせ、ソフィアが読み上げる「ラザロの復活」を「聴いていた」と考えることができる。従って、ソフィアによる「ラザロの復活」の朗読は、「マルメラードフ」に対してなされたものでもある。また、マルメラードフの名前「セミョーン」を父称に持つソフィアは、ラスコーリニコフの「告白」を「聴く」者でもある。
マルメラードフの父称「ザハール」(Захар)は、古代ヘブライ語で「神憶え給えり」を意味する。「神」に対する生前の祈りが通じた結果、「神」に「記憶」されたマルメラードフは、当然の帰結として、死して「キリスト」になったと考えられる。よって、ソフィアには朗読時、マルメラードフとイエス・キリストの二人の姿が同時に見えていた、またはキリストとなったマルメラードフの姿が見えていたと判断することができる。ソフィアにはマルメラードフとイエス・キリストの姿が重なって見えていた、あるいはソフィアは両者の姿を重ね合わせていたとも考えることができるだろう。
「ラザロの復活」は、イエス・キリストの復活を「予告」したものでもある。従って、ソフィアによる「ラザロの復活」の朗読は、「イエス・キリスト」と「マルメラードフ」、あるいは「キリスト」となったマルメラードフ(「イエス・キリスト」=「マルメラードフ」)に対してなされたものであるが故に、ソフィアの「信仰告白」ともなる。
なお、マルメラードフの名前「セミョーン」(Семён)は、「種子の」を意味するсем、同じく「種子、種子の」を意味するсеменоを暗示する。семяには「種、種子」の他に、「原因、もと、芽」、「精液、精子」(=сперма)、「一族、子孫、末裔」などの意味がある。семенникにも「実、果実」、「精巣、睾丸」、「春の聖ニコライ祭日(旧暦5月9日、新暦5月22日)」などの意味が存在し、семеннойで「種子の」、「精子の、精液の」を意味する。従って、マルメラードフの名前「セミョーン」は「種子」、「精子、精液」を暗示するが故に、「セミョーン」を父称に持つソフィアが「精液に塗れた存在」であり、「売春婦」である理由も納得することができる。マルメラードフの名前「セミョーン」は、ソフィアが「売春婦」であり、ソフィアが「売春婦」として本編に登場することを「予告」したものでもある。
また、семは「家族」を意味する「семействоの省略形」でもあるから、「家族の、家庭の、家庭のための」、「家庭的な、家族のためを思う」を意味するсемейственный、「家族関係、家庭的生活、家庭的雰囲気」、「家族への愛情」を意味するсемейственностьより、マルメラードフは「家族」を持たざるを得ない運命にあったことが、すなわち、カチェリーナと結婚せざるを得ない運命にあったことが窺える。無論、最終的にマルメラードフは「キリスト」となることで、全人類の「家族」となる運命にあった、とも言えるだろう。なお、「家族」はсемьяとも表現される。
「カチェリーナ」(Катерина)の名前は「Екатеринаの口語形」であり、ギリシャ語で「純潔の」を意味するが故に、カチェリーナとマルメラードフとの間に肉体関係はなく、カチェリーナは前夫との間でしか肉体関係を結ばなかった可能性が考えられる。あるいは肺病を患っているが故に、カチェリーナはマルメラードフと肉体関係を結なかった可能性も考えられる。従って、マルメラードフは、念願の貴族出身であるカチェリーナと再婚できたにもかかわらず、一度もカチェリーナと肉体関係をとり結ぶことができずにいた、と考えることができる。
カチェリーナと肉体関係を結べなかったマルメラードフの「無念」を感じ取ることができれば、我々読者はマルメラードフに「同情」を寄せることができる。また一方で、再婚したにもかかわらず、マルメラードフがカチェリーナと肉体関係を結ぶことができなかったのは、カチェリーナの肺病がマルメラードフと再婚した時、すでに「末期」にあったからであるとも考えられる。
カチェリーナは、マルメラードフに肉体を与えたくても与えられなかった。当然の帰結として、カチェリーナはソフィアの代わりに売春婦になることもできなかった。カチェリーナの肺病がマルメラードフと再婚した時、すでに「末期状態」にあり、ソフィアの代わりに売春婦になることができなかったことがわかれば、カチェリーナを、義娘であるソフィアを地獄に突き堕とした非情の女として解釈することはできなくなる。「純潔の」を意味する「カチェリーナ」の名前は、カチェリーナの「自尊心」を表すと同時に、またカチェリーナ自身の「性行為における不能」を暗示する。
前述したように、マルメラードフの名前「セミョーン」は「種子」、「精子、精液」だけでなく、「家族」をも暗示するから、ソフィアもまたマルメラードフと同様、「家族」を持たざるを得ない者であり、従ってソフィアはエピローグ後、ラスコーリニコフの「家族」になったと判断することができる。
ロシア語で数字の7はсемьである。従って、семя並びにсемьяより、本作品においてマルメラードフの名前「セミョーン」が“7”を暗示していることが窺える。本作品はエピローグを含めると、七部から構成されている。7が強調されている描写を二例挙げると、スヴィドリガイロフがペテルブルクへ来たのが「七年」ぶりであること(1)、またエピローグにおけるラスコーリニコフとソフィアに対する描写、「七年、七年! 幸福をえた最初のころ、ときとしてふたりは、この七年間を七日のように見ることもあった」(2)がある。
よって、本作品内において“7”を強調するドストエフスキーが、“7”に対して象徴的な意味を見出し、独自の意味を付与していることは疑いの余地がない。

3
修士論文で述べたように、ドストエフスキーは人間の「内面性」、すなわち、人間の「心」、「魂」、「霊性」、「精神」を重要視し、「天」、「天国」(небо)の所在を「人間の心の中」に求めていることが窺い知れた。ロシア語では「心」、「知性」、「理性」、「精神」を一語で表現する語としてразумが挙げられる。従って、ドストエフスキーの精神世界において、небоとразумは「同義」となる。
「信仰」は「心」から発出されるものである。従って、「信仰」と「心」は「同義」であるから、「心」と「知性」の両方の意味を内包するразумより、「知恵」(「知性」)と「信仰」は「同義」として解釈されていることが確認できる。
ドストエフスキーが『罪と罰』において、「知恵」と「信仰」を「同義」として解釈していたことは、本作品のヒロインであるソフィア・マルメラードワの名前「ソフィア」の他に、ラスコーリニコフの親友であるドミートリイ・ラズミーヒンの名字「ラズミーヒン」(Разумихин)からも明らかである。「ラズミーヒン」の名字は、まさにразумに由来する。разумは、ギリシャ語で「魂」、「知性」、「理性」、「精神」を意味する「ヌース」に相当する語であるが故に、「神を象っている」ことが理解できる。従って、разумに由来する「ラズミーヒン」は、「神を象った語」である。
イワーノヴナ姉妹を殺したロジオン・ラスコーリニコフは、ソフィアの力によって復活の曙光に輝く。前述したように、ヒロインであるソフィア・マルメラードワの名前「ソフィア」も「神を象っている」から、「ラズミーヒン」と同様、「ソフィア」もまた「ヌース」と「同義」となり、「ヌース」=「ラズミーヒン」=「ソフィア」という図式が導出できる。
ソフィアとラズミーヒンがそれぞれ「神」を象っており、両者が「同義」であることに着目できれば、ラスコーリニコフはソフィアだけでなく、ラズミーヒンの力によって復活の曙光に導かれていたことが判明する。
ラスコーリニコフを復活の曙光に輝かせたのは、ソフィア一人の力だけではない。ラスコーリニコフはソフィア一人の力だけで復活の曙光に輝けたのではない。ラスコーリニコフは、ソフィアとラズミーヒンの力によって、復活の曙光に輝くことができた。従って、ラズミーヒンが作品世界に存在しなければ、ラスコーリニコフは復活の曙光に輝くことができなかった。
ラスコーリニコフはソフィアに対して自分が犯した罪を「告白」する。ラスコーリニコフの「告白」を「聴いた」ソフィアは、ラスコーリニコフに対して「まず、あなたが汚した大地に接吻なさい」(3)と述べる。ラスコーリニコフに対するソフィアの上記セリフより、ソフィアが「大地信仰」を抱いていることがわかる。ラズミーヒンの名前「ドミートリイ」(Дмитрий)もまた、大地に農耕の恵みと穀物の実りをもたらす豊穣神「デメテル」に由来するが故に、ソフィアとラズミーヒンは「同義」であると判断することができる。
農耕・大地の神である「デメテル」はギリシャ神話の女神であり、オリンポス十二神の一人に数えられ、古典ギリシャ語で「母なる大地」を意味する。従って、「大地信仰」を持つソフィアと「母なる大地」を意味する豊穣神「デメテル」を名前に持つラズミーヒンは、作品内において「同義」となる。
ソフィア、разумがともに「イエス・キリスト」を象っており、さらにソフィアの抱く「大地信仰」、並びに「母なる大地」を意味する豊穣神「デメテル」を冠するラズミーヒンの名前「ドミートリイ」にも着目し、両者が「同義」の存在であると理解できれば、ラスコーリニコフを復活の曙光に輝かせたのは、ソフィアとラズミーヒンの二人であることが判明する。従って、『罪と罰』では文字通り、「知性、理性、精神」を意味する「ラズミーヒン」がラスコーリニコフの「知性、理性、精神」となることで、ソフィアとともにラスコーリニコフを「復活」へと導き、「愛」によってラスコーリニコフを「復活」させるという役割を果たしている。

4
「知性、理性、精神」を意味するразумは、「分離、分割、分配、分散、分与」を意味する「接頭辞」разと「知」を意味するумが合体して形成された語であるが故に、「分離した知」を意味する。周知のように、ラスコーリニコフ(Раскольников)の名字は、「分離派」を意味するрасколを暗示する。「接頭辞」разは、「接頭辞」расと「同義」であるから、「分離した知」を意味するразумを「神」として解釈することが可能であれば、正統キリスト教から分離した「分離派」には「聖性」が担保され、従って「分離派」を暗示する「ラスコーリニコフ」は「神」を暗示していると考えることができるが故に、ラスコーリニコフもまた、ソフィアやラズミーヒンと同じく、「キリストを象った人間」となる。
繰り返すが、「分離した知」を意味するразумが「神」を象り、「神の聖なる知性、理性、精神、心」を意味するものであれば、正統から分離した「分離派」も同様に、「聖性」を担保していると考えられるが故に、「イエス・キリストを象った教派」となり、当然の帰結として、「分離派」を暗示する「ラスコーリニコフ」もまた、「神を象った人間」となる。
加えて、ラスコーリニコフの「父称ロマーノヴィチ(Романович)の「ロマーン」(Роман)は、ラテン語で「ローマの、ローマ人」を意味するが故に、ラスコーリニコフの「父称」であるロマーノヴィチは、正教会からローマ・カトリック教会が「分離」して誕生したことをも暗示する。
「知恵」と同様、разумにも「両義性」が存在する。「知」を意味するумは「神」そのものであり、「神を象った知」であるが故に、разумは「「神」から「分与」された完全に清く健全な知」であると解釈できる。しかし一方で、разумは「神から分与された知」が罪に陥り、汚れた結果、「本来の「知」から「分離」してしまった「知」」としても解釈できる。またあるいは、разумは「「神を象った知」から「分離」してしまった知」であるが故に、「聖性を喪失した知」であるとも解釈できる。従ってразумは、「聖性を備えた知」であるとも、また「聖性を喪失した知」であるとも解釈することができる。
разумの持つ「両義性」は、本編の主人公である「ラスコーリニコフ」に如実に「反映」されている。従ってラスコーリニコフは、「聖性を備えた、「神」を象った人物」であるとも、また「聖性を喪失した、「悪魔」を象った人物」であるとも解釈することができる。
ラスコーリニコフが「神」から「悪魔」に、あるいは「悪魔」から「神」に「変容」する場面は、ラスコーリニコフが振りかぶった斧の「刃」を自身に向け、「峰打ち」することで老婆を殺害した時であろう。ドストエフスキーは、ラスコーリニコフが老婆の脳天に「峰打ち」をしたという描写、並びに「峰打ち」という表現を何度も繰り返し用いている。従って、老婆を「峰打ち」で殺害するというラスコーリニコフの行為は、己の額に刻印された悪魔の数字666を破壊して「悪魔」から「神」へと変容する道を選んだとも解釈することができるし、逆に己の額に刻印された「神」を破壊して「神」から「悪魔」へと変容する道を選んだとも解釈することができる。
ロシア語で「人間」はчеловекである。「人間」は「額」を意味するчело、「世紀」を意味するвекに分解できる。「世紀」は100であり、100は正教会において「永遠」を意味するから、「人間」は「「額」に「永遠」が刻印された存在」であると解釈できる。「額」に「永遠」が刻印されているという表現は、「額の上」に、すなわち、「「天」に「永遠」が存在する」ことを意味する。ロシア語において「人間」とは「「神」を戴冠した存在」である。従って、ラスコーリニコフの老婆に対する「峰打ち」は、ラスコーリニコフ自身の「額」に刻印された「神」を破壊する行為と「同義」となるが故に、ラスコーリニコフは老婆を「峰打ち」して殺害することで、「神」を破壊し、「信仰」を捨て、「悪魔」へ身を売り渡したとも解釈することができる。
ラスコーリニコフは、老婆を「峰打ち」して殺害することで、実は自分自身をも殺害していた。ラスコーリニコフが老婆殺害を通して、自分自身を殺害していたことは、「いったいぼくは婆さんを殺したんだろうか? ぼくが殺したのは自分自身で、婆さんじゃないのさ!」(4)というラスコーリニコフ自身の言葉からも明白である。
ラスコーリニコフは、老婆を「峰打ち」して殺害することで、「神」と「悪魔」に「分裂」した。従って、前述したように、老婆を「峰打ち」で殺害するというラスコーリニコフの行為は、己の額に刻印された「悪魔」を破壊して「悪魔」から「神」へと変容したとも解釈することができるし、逆に己の額に刻印された「神」を破壊して「神」から「悪魔」へと変容したとも解釈することができる。
разумに対するドストエフスキーの解釈を解明することができれば、上記老婆に対するラスコーリニコフの「峰打ち」の解釈を明らかにすることが可能となる。また逆に、老婆に対するラスコーリニコフの「峰打ち」の解釈を解明することができれば、разумに対するドストエフスキーの解釈を明らかにすることが可能となる。
このように、разумはラズミーヒンやソフィアだけでなく、ラスコーリニコフを考察する上で、また本作品の謎を解く上で非常に重要な鍵を握る単語である。разумに対する考察は、『罪と罰』を底流する思想・信条・信仰、すなわち、作品執筆時におけるドストエフスキーの宗教観を浮き彫りにすることへと繋がる。また「分離」、「分裂」は、清水も指摘するように、ドストエフスキー文学の本質及び特徴の一つでもある。
上記разумに対する考察の重要性は、『悪霊』においてもあてはまる。『悪霊』における「悪霊」は、作品内において様々な意味で用いられているが、一般的には「西欧から渡来した無神論」、「無神論的革命思想」の意味で解釈されることが多い。従って「悪霊」とは、「西欧から渡来した無神論に憑依された結果、信仰を失った人間」を指す。しかし、「人間の心は神と悪魔の永遠の戦場である」と考え、「天」の所在を「人間の心の中」に求めるドストエフスキーの宗教観を踏まえた上で、再度『悪霊』において用いられている「悪霊」を考察すると、「悪霊」は外来的で外在的なものだけではなく、逆に自身の「心」から発生・発出するものでもあるが故に、内来的で内在的なものでもあると判断することができる。確かに、人間は外来的で外在的な「悪」に「憑依」された結果、「悪霊」へと変容する。だが一方で、人間は自身の「心」から発生した、内来的で内在的な「悪」に飲み込まれた結果、「悪霊」へと変容する側面も併せ持つ。
небоとразумの接続と発展に対する考察は、作品世界だけでなく、ドストエフスキーの精神世界並びに宗教観をも解明することが期待できるが故に、разумに対するドストエフスキーの解釈を考察することは意義がある。

5
罪と罰』のエピローグには、「ふたりを復活させたのは愛だった」(5)という記述が存在する。上記引用における「ふたり」とは無論、「ラスコーリニコフ」と「ソフィア」を指す。しかし、上記разумに対する考察を踏まえた上で、「ソフィア」と「ラズミーヒン」を「同義」として解釈すると、上記引用における「ふたり」は、「アヴドーチヤ」と「ラズミーヒン」を指すと考えることができる。ラスコーリニコフがソフィアの「愛」によって「復活」したのであれば、「もう一人のラスコーリニコフ」であるアヴドーチヤもまた、ラズミーヒンの「愛」によって「復活」したと考えることができるからである。
ラスコーリニコフの妹であるアヴドーチヤの名前「アヴドーチヤ」(Авдотья)は、「Евдокияの民衆形」であり、ギリシャ語で「愛顧」を意味する。「アヴドーチヤ」という名前が明示しているように、アヴドーチヤはラズミーヒン、スヴィドリガイロフ、ルージンに「求愛」されるが故に、本作品内において最も作中人物に愛される人物である。「愛」は作品内においてアヴドーチヤに向けられることが多く、従って「愛」によって「復活」した人物が「アヴドーチヤ」であっても何ら不自然ではない。本作品ではラスコーリニコフとソフィアの「愛」だけでなく、アヴドーチヤとラズミーヒンの「愛」もまた成就しているが故に、上記引用における「ふたり」に「アヴドーチヤ」と「ラズミーヒン」を「代入」することができる。
また、上記引用における「ふたり」は、「ラスコーリニコフ」と「アヴドーチヤ」を暗示していると考えることもできる。ラスコーリニコフはソフィアの「愛」によって、アヴドーチヤはラズミーヒンの「愛」によって「復活」しているからである。さらに、上記引用における「復活した「ふたり」」を、ラスコーリニコフによって殺された「イワーノヴナ姉妹」として解釈することもできるだろう。
繰り返すが、上記引用における「ふたり」とは、「ラスコーリニコフ」と「ソフィア」を指す。しかし一方で、разумとソフィアが「神を象った語」であり、ラズミーヒンとソフィアが「同義」として描写されていることが理解できれば、上記引用における「ふたり」に対して、「アヴドーチヤ」と「ラズミーヒン」、「ラスコーリニコフ」と「アヴドーチヤ」、さらには「イワーノヴナ姉妹」を重ね合わせることができる。
作品内において、разумの果たす役割と重要性に着目することができれば、すなわち、キリスト教における「信仰」と「知恵」の同義性、並びに「ソフィア」と「ラズミーヒン」の同義性を理解することができれば、テクストの「多義性」を明らかにすることができる。従って、разумに対する考察は、テクストに落とし込められた作者の真意を炙り出し、作者の精神世界に肉迫することが期待できる。


(1)ドストエフスキー罪と罰』(下) 江川卓岩波書店 2000 p.266。
(2)ドストエフスキー罪と罰』(下) 江川卓訳 p.403。
(3)ドストエフスキー罪と罰』(下) 江川卓訳 p.135。
(4)ドストエフスキー罪と罰』(下) 江川卓訳 p.134。
(5)ドストエフスキー罪と罰』(下) 江川卓訳 p.401。

「雑誌研究」の最終レポートより



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平成28年度「雑誌研究」(清水正担当)最終レポートより
「日藝ライブラリー」三号所収の清水正「松原寛との運命的な邂逅」「苦悶の哲人・松原寛」を読んだ感想


雑誌研究最終レポート
飯塚舞子


 清水先生による「松原寛との運命的な邂逅−日大芸術学部創始者・松原寛の生活と哲学を巡る実存的検証―(1)」は私の興味をかき立てる様々なことが詰まっていた。この『日芸ライブラリー3』に私の原稿を載せていただいた際、松原寛の著作を読み、松原寛という人物と、その考えにはとても関心を抱いたのだが、今回、清水先生によるこの膨大な文章を読んでいると、やはり私の興味の対象となるのは松原寛よりも身近な存在である、“清水先生から見た松原寛”なのであった。清水先生の松原寛への想いは幾度となく聞かせていただく機会があり、その話からも松原寛への熱量は知っているつもりであった。しかし、これら清水先生による二つの文章を読むと、私には松原寛を通して見る清水先生と、清水先生を通して見る松原寛、どちらにも大変なおもしろさを感じたのである。
 そして今回、この『日芸ライブラリーNo.3』を読んで中でも強く心に残ったのは、清水先生のお母様とお父様の話であった。お母様のお話というのは、何度か少しだけ聞く機会があった。そして今回、清水先生の神髄である“書く”ということを通して見たお母様は、とてつもない強さを秘めていた。それとは逆に、お父様については本当に数回だけ聞いたことがあるが、お母様のお話をされている時とは異なり、この人の話をしているなんて自分でも不思議でならない、といった表情をされているのがとても印象的だった。だからこそ、先生はお母様に対するものとは違った、何か尋常ではない思いがあるのだろうと勝手に推測していたのだが、この『日芸ライブラリーNo.3』を読んで少しだけ、この思いの一部を垣間見たような気がした。そして、今回この『日芸ライブラリーNo.3』によってお母様とお父様の人間性について詳しく知ることによって、清水先生の言動などに勝手ながら、なるほどな、と納得してしまった。お母様はもちろんのこと、お父様も、その沈黙の中に秘めた強さがあったのだろう。お母様もお父様もとても“強い人”であったのだろう。だからこそ清水先生も“強い人”なのだろうと感じた。清水先生の口からも聞いたことがあるお母様と、詳しくは決して聞くことがなかったお父様について。そしてそれらが書かれた「わたしの母と父」の最後の結びを忘れることはできないと思う。

   わたしは最愛の息子の死に限りのない憤怒と悲しみに沈んだ。以来、わたしの書くものすべては祈りとなった。どんなに饒舌な思弁にも憤怒と悲しみのそこに祈りがある。わたしはこの祈りのない文学や芸術を認めない。ある時、内孫の死にまで立ち会わなければならなかった父の沈黙の重さがのしかかってきた。(1)

 私がこの雑誌研究という授業の中で最も印象深かったのは、やはり先生の息子さんのお話である。今まであんなにも詳しく、しっかりとお話を聞くことがなかっただけに、授業中は思うことが沢山あった。そして、この「わたしの母と父」と、その最後のこの文章を読んだときに、清水先生の書くものと、そしてお話と、それら全ての意味を私は少しだけれど、初めて知った気がした。そしてこの、

   どんなに饒舌な思弁にも憤怒と悲しみのそこに祈りがある。わたしはこの祈りのない文学や芸術を認めない。(2)

 この想いを私は『日芸ライブラリーNo.3』に掲載されている「日芸プライド」を書く際に読んだ、松原寛の著作である「芸術の門」の中に見た。
 私は今回、清水先生と松原寛の間に共通点という名の深いつながりをいくつか見出した。まず先述の通り“芸術”というものへの定義だ。松原寛の著書を読む限り、彼の芸術への考えというのは実に様々な箇所へ散りばめられ、大量に書かれているように見えた。それほどまでに彼は“芸術”ということについて深く、そして真剣に考えていたのだろう。その中でも、『日芸ライブラリーNo.3』の中で清水先生が引用されていた箇所の一部は、私が「日芸プライド」を書いた際にも注目した考えであった。厳密には、私が読んだのは『芸術の門』であり、清水先生が引用されたのは『現代人の芸術』であったのだが、全くと言って良いほど同じ内容だったため、見逃すわけにはいかなかった。清水先生は『現代人の芸術』の中の

   私は思う。苦悶の叫びこそ芸術ではないでしょうか。まことや如何にして生きんとするかという、苦悶の声を外にして、芸術は那辺にありませうか。(3)

という箇所を

   この本を読んで心に強く感じた箇所(4)
 
として引用されている。そして松原寛は『芸術の門』の中で、

   芸術には生命の深い流露がなければならぬ。天眞の人間性が活躍して居らねばならぬ。かくて藝術的価値は深刻に生きようとするものの姿であらふと思う。眞に生んとするならば其処に苦悩の涙がある。そこに苦悶號叫の叫びがある。この涙、この叫びを描くところにこそ眞の藝術的境地がある。即ち深刻なる人生の苦悶を感ずるでなくば、大きな作品を生むことは出来ない。(5)

と語っている。つまり、松原寛は芸術の本質は“生きる”故の苦悶であるというのだ。そして私は先にあった清水先生の言葉を思い出す。

   わたしはこの祈りのない文学や芸術を認めない。(6)

 私には、清水先生の“生きる”ことによって経験しなくてはいけない憤怒と悲しみの底の“祈り”こそ、松原寛の言う“苦悶”による涙と叫びであり、松原寛の指す“苦悶”こそ清水先生の中にある“祈り”であると、少なくともその二つには深い一種の核心的つながりがあると感じた。
 そしてもう一つ、私の興味をひき、清水先生と松原寛の共通点として注目したのは“失恋”である。今回この「苦悶の哲人・松原寛―日大芸術学部創始者・松原寛の生活と哲学を巡る実存的検証―(2)」の中で、志賀直哉と対照し、松原寛の<姦淫の罪>について、著書『宗教の門』から引用した箇所があった。

   禁断の果を食った事をまことに因果なものとも嘆いた。失恋は世にも苦しくて、苦い毒杯である。だけれども男のいこじも投げ捨てて失いし恋を呼び戻さんとするは更に苦しい事である。ただし感情の切なる要求で呼び戻そうとしても、他の物があってこれをさえぎるとしたら、その悲痛は更に甚だしいであろう。かく私は理性と感情の締木にかけられて、暗い暗い死の谷を歩かねばならなかった。(7)

 そして、更に興味をひいたのは、この松原寛の<姦淫の罪>についてに対する清水先生の考えとエピソードだ。

   父に関して、母に関して、若くして亡くなった息子に関して多くを語った松原寛であるが、<禁断の果を食った事>に関しては、ついに饒舌に語ることはなかった。しかし、<失恋>の<苦い毒杯>を飲み干した者なら、松原寛の<悲痛><理性と感情の締木><暗い暗い死の谷>を自分のものとして感じるだろう。本気で愛した女に裏切られれば、相手を殺すことも、自らの命を絶つことも考える。その暗黒の<死の谷>を煩悶し、惑い、途方に暮れて彷徨ったことのないものに松原寛の悲痛の叫びは聴こえないだろう。わたしは失恋の痛手をもドストエフスキーを読み、批評することでそれなりに乗り越えてきた。今では笑い話ですまされるが、わたしは一人の女との別離に関して、自分なりに納得するまでに十年の歳月を費やした。(8)

 清水先生の<失恋>については「松原寛との運命的な邂逅−日大芸術学部創始者・松原寛の生活と哲学を巡る実存的検証―(1)」にも興味深い箇所があった。松原寛とドストエフスキーの中で、自身の二十歳の頃を思い出しての箇所である。

   急激な体重の減少の最大の原因は恋愛の破局にあった。この時、わたしは初めて自殺を考えた。ひとりの女との出会いと破局。それは一つの恋愛が終わり、新たな恋愛の始まりというふうに考えることなどどうしてもできなかった。わたしは、死ぬことはできなかったが、破局の時点ですべてが終わりを告げたように思った。すべてのことに対して「さようなら」の五文字を当てはめた。(9)

 清水先生はもちろんのこと、松原寛の“失恋”への想いは先の引用からも、はっきりと分かる。そもそもこの二人は男性であり、私とは恋や失恋への受け止め方やイメージは違うのかもしれない。それでも、この二人の“失恋”への文章を読んだとき、男性にとっての“失恋”の大きさに驚いた。しかし、そんな大きな“失恋”こそ大きな“苦悩”のひとつである。この文章を読んでいて、“苦悩”を生む経験として人が真剣に魂を削って恋をすることの大切さを思った。恋は俗的なものと誰が決めたのか。やはり、すべては経験からである。そこから、芸術のはじまりである“苦悩”が生まれるのだ。そして、男性の失恋の傷の大きさを知り、その責任の重さを感じた。
 今回、この感想文を書くにあたって、松原寛という人間に、もう一度注目することができた。ここには書ききれなかったが、松原誕生の地、島原や松原のキリスト教への考えなど、興味深いことは他にも沢山あった。そして、清水先生の秘められた想いを知ることができた。お母様やお父様についても、そして経験の大切さも知れた。きっと今回知った多くのことを、私は日常のふとした瞬間に思い出し、忘れることはおろか、私の中から出ていくことは無いのであろうと感じた。<注>
清水正日芸ライブラリーNo.3』(2016年7月7日日本大学芸術学部図書館)p39
同上 p39
同上 p12
同上 p12
松原寛『藝術の門』(大正十三年六月大阪屋号書店)p31
清水正日芸ライブラリーNo.3』(2016年7月7日日本大学芸術学部図書館)p39
同上p182
同上p182
同上p25s

松原寛


清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。

清水正が薦める動画「ドストエフスキー罪と罰』における死と復活のドラマ」

https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk

これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。


「日藝ライブラリー」三号所収の清水正「松原寛との運命的な邂逅」「苦悶の哲人・松原寛」を読んだ感想


清水先生の松原寛に関する文章を読んだ感想
高橋寛


 私が日藝に入学した3年前、大学紛争に関することが初めて先輩から語られた場は、サークルの飲み会であった。当時私は歌舞研に入っており、そこの新歓の飲み会で既に大学紛争に付いて語られたと思う。大学紛争は日藝発祥、という様な話も聞いたことも有るが、日藝の裏では大学紛争の歴史が色濃く残っているのだという事を私は察した。他大はわからないけれども清水先生が興味を示さなかった大学紛争は大きな出来事として脈々とサークル内では語られているのだと言う事を知って、私はそっとサークルをやめた。大学紛争の事を語っているから辞めた訳ではないが、日藝出身の先生以外の授業ではあまり語られる事の無い事実を知って、私はサークルを後にした。
 私が日藝に入ったのも完全に偶然と言うのか、神様のお導きと思えるところがある。本当は、私は他の音大に入学予定だったし、日藝は受けるつもりは無かったのだが、色々なトラブルや出来事が重なって、たまたま受ける事になった。日藝にはOCに一回行った程度で、説明会には一回も言った事が無く、受験の時初めて田代先生と楊先生にこんにちはをした。しかしそこで田代先生に思う事が合ったのと、親の勧めで日藝に入学する事にしたのだが、結果的にとても良い事が沢山起こり、入ってよかったと心から思っている。
 清水先生のように江古田でなにかに掴まれた訳ではないが、日藝に何かしら運命的な縁を感じたのは同じである。
 授業で「思い込み」について話したが、私の中に「清水先生はピュアである」という思い込みがある。先生自身は『自分は変わり者だと思われている、独断と偏見に満ちている』と語っているが、私はそうは思わない。ドストエフスキー愛に忠実な、自分に正直で、自分の研究を全う出来る強さがあるだけではないかと思う。少なくとも清水先生のドストエフスキーの批評を読んだ時に思ったのは、実際の授業で生徒をいじってからかっている時の先生よりか、本に表れている先生は、とてもドストエフスキーが大好きで、自分の意見をうまく伝える事に長けていて、どんな馬鹿にでも分かる様な難しい事を優しく噛み砕いて文章にして伝える、読者への優しさや真心がある事が伝わって来た。私的には確かに意見が違う所もあるのだが、清水先生が仰っているドストエフスキー論も「確かに一理あるな」と思うので、反旗を翻すようなことはしない。「絶対に違う」とは言い切れない。今刊行されている先生のドストエフスキー全集が若い時に書かれた物なのかは分からないが、「ああ。こういう考え方もあるんだな。」と受け入れてしまうと言うか、ともかく全否定をする気にはなれない。先生と生徒・女と男・年齢の差という違う視点での考え方の相違は出てくると思うが、基本的にそんなに強く「これは違うでしょう」と言えるだけの読み方をしていないせいもあるかもしれない。先生の分厚い批評本を最初は嫌々読んでいたけれども途中から真面目に読んだ。「なるほど」と思う事が沢山あり、「ドストエフスキーは清水先生の批評を読むとより深く理解できる」という観念が私の中に形成された。清水先生は「打てば響く」感性の持ち主なのではないかとも思った。芸術家に必要な感性だ。ドストエフスキーにせよ、松原寛にせよ、池田大作にせよ、先生は心に響いた文学を素直に心に受け入れる事が出来る人であるなと、授業を受けたり、著作を読んだりして感じた。
 松原寛と私の名前は「寛」という字が被っている。名前が被っているのでどこか親近感みたいなものが湧いてくるのだが、松原寛の人生の苦労は結構自分に似ているなと思った。
 親と志が違うこと。やれば出来てしまうところ。それ故若い頃は虚栄の心に囚われていた事。懐疑心があったこと。
 「親と志が違う」のはもう現代においてどの家庭もそうかもしれない。志賀直哉みたいに父親の権力と戦って勝利して自分の人生を歩めた者、敗北して親のレールに沿わなければならなくなってしまった者、どちらもいるだろう。昨今アダルトチルドレン毒親などの言葉が出て来ているが、それは現代の子供達が「親からの精神的・経済的自立」を掲げて動き出している証拠であろう。松原寛はその走りだったと言えよう。
 「やれば出来てしまうところ」というのは、小学生時代必死に勉強して国語だけでも全国の小学生のうち13位に入った事がある私は何となくわかる。小学生時代必死に勉強して、女子なのにハゲるまで勉強し、ストレスにより高校生で精神的におかしくなるまで勉強に打ち込んだ私は、松原寛の負けず嫌い精神や周囲からの確立を目指して勉強に打ち込んだ気持ちが分かる。
 「それ故虚栄の心に囚われていた」ことは、中学までは勉強していたが高校でエネルギーが失われ、精神的におかしくなって暗記がいっさい出来なくなったり、理路整然と考えながら学ぶことが出来なくなったりして成績が下がったのだが、良い学校に入ったプライドだけで虚栄心により中身の伴わない優等生を演じざるを得なかった自分を思い出す。辛かった。
 懐疑心に関して。懐疑心だらけなので私は病に罹った訳だが、懐疑心のお陰で助かった事や大学の勉強に役に立った事が結構ある。懐疑心が無ければ研究は本当の意味で出来たとは言えないと個人的に思う。また他人に懐疑心を持って接する事も、本当の相手の人格を把握する為に役に立つと思う。松原寛が日藝を造り得たのも、懐疑心のお陰であろう。
 日藝ライブラリーの後半の清水先生の松原寛に関する文章は、哲学が主な内容であった。はっきり言う。私は哲学が何なのかわかっていない。ほぼ毎日死について考えていたり、自殺する人の心情について考えていたり、身近な人の死について考えているのに、「哲学」というものがイマイチよく分かっていない。
 私の友人の愛する人が亡くなった時、友人は哲学科に入り直したそうだ。死について、もしくは何らかの事象に関して「どうして?」や「何故?」を考える人は哲学をしている様なイメージがある。
 松原寛は哲学者としてもかなりの勉強、研鑽を積んで来た事が分かったので、「哲学とはなんぞや」と言う事を、改めて考え直してみたい。
 調べてみると、哲学とは『物事の「本質」を洞察する事、その問題を解き明かす為の「考え方」を見出す営み』と出て来た。
 生死についてだけでなく、様々な事を洞察する事全てが哲学だと言えよう。
 正直私は松原寛が論じているニーチェだとかカントだとかヘーゲルだとか全く分からない。もっと清水先生流に噛み砕いて語ってもらわねば全てを把握する事が出来ない。ドストエフスキーの原作を読んだら必ず清水先生の批評本を読むのも、自力では原作が本当に意味している事を理解したり、自分なりの批評が出来たりする能力が備わっていないと思っているからだ。
 正直松原寛の本の引用文も、清水先生の解説が無ければ意味がすんなり入ってこないという、恥ずかしいがどうしようもない事態が起こってしまう。難しい。
 ただ、志賀直哉を始めとする父親と息子の「男同士の親子は母娘並に壮絶な戦いが繰り広げられるのだな」と言う事がわかったし、思春期の性の目覚めが人間には重要な要素である事は良く分かった。松原寛だけでなく清水先生など、大失恋を超えて新たな自分を構築し、その経験を活かして研究のエネルギーの元にしたり、人生のスパイスとして楽しんだりして失恋自体を昇華させる人を何人か見た事がある。そんな事を経験した事の無い私は、「ただでさえメンタルが弱いのに失恋なんぞしたらどうなる事か」と思って安心している反面、「振られて人生のどん底にまで突き落とされるくらい家族以外で愛した人がいた」経験が羨ましいとも思う。その位大切に思える人に出会えないか少し希望を持っている。
 そして最後の『煩悶し求道する哲学者・松原寛』を読んで、哲学する事とは、日藝ライブラリーの1頁目に書いてある通り、『煩悶し、求道し、創造すること』に繋がってくるのではないかと最終的に思いついた。
 ピアノで言うと、楽譜を見てフレージングや音の高さ、音楽記号などから作曲者がどんな風に歌いたかったのか、あるいは何か情景を表現したかったのか、それともただパズルの様に音列を並べてみたのかを徹底的に読み取る為に悩み、様々な弾き方を試して足掻き、教師の解釈を考え反芻して音楽とは何かを求道している。そして最終的に、様々な事を自分で解釈し、他人からアドバイスなり自分には無い解釈をもらって自分で「こういう風に作曲者は考えていたのではないのか?!」という研究発表の場として、発表会や試演会、試験を受けるのではないか。様々な人の助言を、結局は自分自身の力に変えて外に出す、発表する、それが音楽実技=藝術である。
 松原寛は本を沢山読み、自分の信じる信念に従って生きて来た人であると思う。父がなんと言おうと、教師がなんと言おうと、自分で調べて散々悩んだ挙げ句出した結論と、持ち前の直感や感覚で人生を歩んで行ったまさに日藝人、藝術家として本来有るべき姿の見本的存在として私は畏敬の念を抱く。
 天才かつ努力家という完璧なスペックの持ち主であるのに、若いうちに挫折を味わっている事も好感を持てる。私の尊敬する人が「挫折していない人の人生はつまらない」と言っていたが、人生で何度か死に目に遭うほど挫折を経験している私としてはやはり同じく挫折している人の話す言葉は説得力が有ると思う。しかし挫折しようとも、折れずに立ち直ってまた己の信念に基づき力強い未来へ向かって行く松原を尊敬する。
 私はこの学年末課題は、てっきり林芙美子浮雲に関する何かを論述させられるのかと思い、課題が出された後即座に読み、準備万端であったのだが、意外な事に急に松原寛の事に関して論述しなければならないと知り、正直な所、焦った。授業で清水先生はありがたい松原寛のお話を、文芸批評論と文芸特殊研究でもお話ししてくださった。日藝に入学した者として、松原寛の存在と、松原寛を日大人として召還した山岡萬之助達の存在は知っておかねばならないだろう。1、2年生の時、どの先生からも聞いた事が無かった松原の存在を卒業する前に知る事が出来て良かった。日藝の成立ちすら知らない日藝生は沢山いると思うが、少しでも創始者の人物像、思想に触れる機会に清水先生の授業で出会えて良かったと思う。昔の日藝のイメージだと、「もしかしたら変わった人が造ったのかもしれない、オカマとか」と少し思いもしたが、そうでは無かった事に少し安堵した。藝術学部を造った人の元は哲学に繋がるのだと知り、
よく言われる哲学と藝術の共通点を垣間見たような気がした。
 しかし、松原寛と浮雲だったら浮雲の方について論述したかった気持ちもある。男女の痴情の縺れについて述べるのは何だか楽しそうであったからだ。敗戦した日本特有の男女の恋愛事情を知るのに、浮雲は生々しく理解する事が出来た。私の近しい人が「戦中戦後の日本の男は富岡みたいなのが結構いた」と言っていた。未だ避妊の文化があまり根付いていない日本人の、戦争の最中の性事情はきっととんでもなかったであろう。
 このように色々と浮雲についても考察したかったのだが、今回は「松原寛について述べよ」という事だったので、日藝ライブラリーに目を通し、自分なりに思った事を書いてみた。個人的には松原寛の男女関係を詳しく知りたいと思った。それに、音楽学科を造った人について、音楽学科の歴史について調べてみると面白いかもしれないとも感じた。機会があれば先生に聞くなどしてリサーチしてみたいと思う。

松原寛


「日藝ライブラリー」三号所収の清水正「松原寛との運命的な邂逅」「苦悶の哲人・松原寛」を読んだ感想

松原寛

齋藤真由香

 「ふつうじゃない、が、ふつうです」。言わずとしれた我が校の掲げるキャッチフレーズであるが、私はこれが、どうにも胡散臭くて嫌いだ。笑いまじりにこのキャッチフレーズを嘯いて、世俗からはずれた自分、という自意識に酩酊する生徒を見ることがあったが、その都度ゾッとしたものである。日芸ってそういうところじゃないでしょう。と、一生徒でしかない私が声をあげることなど出来る筈もなく、そもそも私自身、何がどうしてこうだから、このキャッチフレーズはおかしいと、はっきり説明できなかった。それではどうしようもない。ただ何となく、だ。例えば凡庸であるのなら、そのことに煩悶するべきであるし、その逆に軒並みならぬ才に恵まれたのだとすれば、疎外感に苦しむべきではないのか。なんていう、私の「芸術に向き合う人間のありかた」のイメージと、どこにも懊悩や葛藤の滲まない「ふつうじゃない、が、ふつうです」は、相反したのである。そんな居心地の悪さに、松原寛という人物が、在学五年目となったいま、ぴしゃりと正解らしいものを浴びせかけてくれたのは、嬉しく驚きに満ちた偶然であった。
 “私は思う。苦悶の叫びこそ芸術ではないでしょうか。まことや如何にして生きんとするかという、苦悶の声を外にして、芸術は那辺にありませうか”。“芸術は真面目に生きんとする努力、深刻に生きんとする苦悶、其処にのみその本質がある。そのまことの姿がある。つまり吾々は死の洗礼を受けなければならぬ。常に炎のなかに燃えていなければならぬ。其処にのみ芸術が生れる。永劫苦悶の姿それが芸術の真面目であります”。松原寛著、『現代人の芸術』の一節だという。このひとが日芸の源流であることを、清水正先生が繰り返し論じていらっしゃったが、私は雷に打たれたような気持ちになったものだ。“煩悶せよ、求道せよ、創造せよ”。日本大学芸術学部に入学したあの春に、こう叱咤されたかったと、今更考える。松原寛という人物は、とても魅力的だ。神について考え尽くし、その尊さに膝をつき、しかし疑うこともやめず、苦悶し続けた彼の生き様は、私自身のものとは異なるが、しかしどうしてか身近に感じさせる魅力を持つ。その要因のひとつとして、彼が俗物としての自覚を備えていたことがあげられる。神を信仰しながら、どうしたってその信仰と相反するだろう、地の上についた功名心と華やかな権勢を諦められなかった強欲の、人間臭さ。“失望と厭世のどん底に陥るも、神により救われている自分が、名誉心によって満たされ、富も地位とも占め得たるとて、そこに真の満足があるのか”。こうして松原寛は懐疑に捕らわれたわけだが、私が何より胸をうたれた彼の言葉は、“私の言わんとする苦悩苦悶は外部からの圧迫や強制ではない。自我の探求、自己の凝視に依って、掘り当てた金塊である”というものだった。彼は己の思索を、何一つとして無駄にすることをよしとしなかった。苦しみから逃げることなく、それどころかそれに価値さえ見出して、芸術を生きたのである。こんなにも誠実な姿勢を目の当たりにして、このひとを好きにならないでいられるわけもなかった。「芸術に向きあう人間のありかた」の理想が、ここにあったのだ。中学に入る前から、「罪の意識」を抱えていたという松原寛であるが、私たちも、無意識下にこれを抱えているのではないだろうか。ひとはきっと、「罪の意識」を目の前に、目を逸らしたり、諦めたりしてしまう。だけど芸術を志すのなら、「救われたいと要求」しなければならないのだ。俗物となることに怖気づいてはいけない。「ふつうじゃない、が、ふつうです」が不満だった私は、己が何者か考えることを放棄し、安っぽいキャッチフレーズに安住することで、若い思惟を腐らすのが、怖かったのかもしれない。
 好意の土台が出来たうえで、私にとってのとどめとなったのは、『宗教の門』である。松原寛が、あらゆる自己否定によって、己を罰するような論説を繰り返すものであるが、そこには神という存在への深い愛情と、尊敬と、それに拠る戸惑いが浮かび、しかし悲しいことに、もたげる懐疑を鎮められず、諦められない希望も、透けて見える。これによって、私のなかの松原寛は、『身近なように感じられるし、好ましくは思うけれど、いまはもう過去のひと』で終わらなかった。ひとひとりの思想を超えた、しかし極めて単純な懊悩によって、松原寛という人物のバックボーンが、私自身に繋がったのだ。彼は間違いなく絶望しているが、そこから立ち上がることが出来ないほど脆弱でなく、また立ち直れてしまう強かさゆえに、苦しみながらも哲学をやめることが出来なかったのだろうかと思わされる、そういった魅力が、『宗教の門』には、満ちみちている。いくつか引用したい。“何のための祈りかと疑うのである。誰に向かっての祈りかと疑うのである。神の姿は次第に見えなくなった。神を見失っては一層不安である。それでも祈ろうとも勿論つとめた。神の姿を追おうともあせった。だがそれも徒労である。わが理知の眼は冷やかにこれを嘲り笑うのみである。こんな場合はしみじみと信仰に燃えていた昔が慕わしかった。なまじいに哲学を知ったことを恨めしくもなった”。「罪の意識」から逃れるための「外部からの」力を頼ろうとしたのに、彼は「自己の凝視に依って」、苦悶という「金塊」を掘り当ててしまった。そこに生まれる寂寥と不安が、彼にこれを書かせたのではないか。“かく救いは自分のみだと知った。だが余りにも弱い自分ではないか。どうしてかかる自分が頼まれよう。あんなに固い信仰は自分で壊してしまったではないか。あんなに頼んでいた神には自分から裏切ったではないか。かかる自分をどうして頼り得られようか。かくて何処に確信と自覚を得られうるか”。私たちが闘うのは、私たち自身なのだ。なによりも不安定で、なによりも存在を確認しがたく、しかしどうしたって一番傍にいる、自分自身。「裏切り」という言葉が使われているが、神を裏切った自分自身が、それまでの自分をも裏切ったということは、松原寛自身の乖離を意味する。己を形造ってきたものすべてを否定することで、究極の自己否定という「罰」を己に与えた松原寛は、救いから遠ざかるばかりのように見え、しかし反して、要求を強めているのである。“懐疑と不安より不信と煩悶に陥り、更に焦燥に迫られてきた。この激浪に翻弄されてきた私に残されたものは、ただ絶望と悲観あるのみである”。こう締めくくったとて、人生は続く。自罰的な思索のなかで生まれる苦悶の叫びを、松原寛は芸術と呼んだ。そして確実に、その先の救済を、諦めて居なかった。このことが、私にとって、あまりにも尊い
 松原寛の思考パターンというのがまた、面白い。清水正先生が自身の「あらゆる角度、速度、強度を駆使しての旋回批評」という思考パターンとの比較でもって、松原寛の思考パターンを、繰り返しを恐れないがために、神との別離を迎えたのではないか、また、彼の思索運動は決して定点的に固定したところに位置していない、ということを述べていたが、懐疑の到来による信仰の揺らぎから神を見捨てる直前までゆき、しかし見捨てることが出来ず、それでも彼のこころは、神への信仰を超えて不信と懐疑に向かっていたという事実の抱える皮肉が、これによって浮き彫りにされている。清水正先生は、松原寛の論の進めかたについても言及していらしたが、「対象とする相手の思想を簡潔に祖述し、それを最大限に肯定し、次に否定の刃を心臓部に突き刺し、致命傷を与えたうえで、今度はその治療行為に転じ、さらにどうしてこういった事態を招くことになったのかと自ら頭を抱えて煩悶し、さらなる永久的なものを求めて思索の砂漠を漂白することになる」というこの一種のパターンが、私には読み解くことが出来なかった。『若き哲人の苦悶』で書かれた自己内面に蓄積された苦悶や、『宗教の門』で書かれた自己否定の繰り返しから薄っすらそのようなものを感じ取ることは出来たが、『青年の哲学』に垣間見えるという欺瞞の自覚や、敬虔な信仰とは異質な、自分自身を英雄視する驕り高ぶりといった異なるイメージの介入によって、すっかり混乱してしまったためである。『松原寛が<現在>優位型の思索家である』という結論を導くことが出来るのは、清水正先生が松原寛の著作を一貫して読み続けたからだろうと、頭の下がる思いだ。
 “長崎県島原半島は、ゴルゴタの丘である”。松原寛の苦悶の生涯をあらわしたこの一文を反芻して、私がゴルゴタの丘を持たない事実を、情けなく思う。磔のイエスと、弾圧された信仰と、そのすべてを呑み込んだ、血と涙の地。彼の宿命が、終わらない思惟をもたらして、日芸にまで繋がったことを有難がるばかりの私にとって、江古田が戦場でないことも、また情けない。齢二十三にもなって、地に足がつかず、見る夢すら曖昧な自分が嫌になるが、まだ学生の身分であるうちに、日芸の源流を知ることが出来たのは、非常に喜ばしいことである。

〈必然と自由〉の世界—清水正による松原寛論を読んで



「日藝ライブラリー」三号所収の清水正「松原寛との運命的な邂逅」「苦悶の哲人・松原寛」を読んだ感想

〈必然と自由〉の世界—清水正による松原寛論を読んで

伊藤景

 清水先生による松原寛論を読んで、世界には偶然なんて存在しないのだ、と再認識することができた。世の中は、偶然なんて自由で不確かな意思ではなく、計算され尽くした必然によって成り立っているだけなのである。この解答は、私にとっては世界に対する絶望感を覚えるとともに、今までの過去に対しては絶対的なまでの安心感を得られるものであった。
 過去における様々な選択という名の分岐路において、どのような選択を行なおうと結論は一つしかなく、人間は選択をしたような気になっているだけで、ただ誘導されているだけなのだろう。人間には、一寸たりとも自由な意思など存在していないのではないかと考えてしまう。しかし、清水先生は世界とは必然によって支配されているものであると同時に、世界は必然によって成立していることを知ることによって自由にもなれるのだと教えてくれた。
 

  〈地下室人〉の言う〈気まぐれ〉は彼に言わせれば必然の網の目から逃れ得ているようにも書かれているが、必然者のわたしからすれば、とうぜん〈地下室人〉の〈気まぐれ〉もまた必然となる。必然は偶然の反対語を意味しない。必然と自由の一致、これが体感されないと世界の秘密に参入することはできない。(『日藝ライブラリー No.3』174頁)


 私はこの文章を読んだとき、どうにかして理解しようと反芻するように何度も言葉を噛み砕いてみたがどうしても〝必然と自由の一致〟が言葉としては理解できても体感的に理解することができなかった。この言葉を清水先生から初めて聞いたのは、大学院の講義のときであった。先生の声で、この言葉を聞いたときには(そういうことなのか)と理解した気になっていたのだが、〝必然〟について自分なりに考えた上で先生の言葉を改めて噛み締めてみると、どうしても私には分からなかった。しかし、それは仕方ないことなのだと〝今のところ〟は理解をすることは諦めることにした。なぜなら、私は清水先生が経験したような〝必然と自由の一致〟を未だに体感するような経験をできていないからだ。
 この世界を〝必然〟が支配していることは体感的にも経験的にも理解することができた。しかし、私にはまだ〝自由〟が〝必然〟と一致する瞬間を経験したことがないのだ。無理に知ったかぶりをすることは諦めて、私はまだ〝分からない〟ということをしっかりと受け止めなければならない。
 今の私には《世界の秘密》に参入できる人間ではないのだと、どこか背伸びをしたがってしまう幼い自分の姿を見つめることができた。松原寛も《必然と自由の一致》を悟りきることができなかったからこそ、生涯をかけて煩悶し続けたのではないだろうか。私の場合、答え自体はもう分かっているからこそ、後は自分が答えを理解するために悩み続ければいいのが、松原寛の場合は明確な〝解答〟が用意されない状態で答えを求めて藻掻き続けたのだ。その苦しみを思うと、ぞっとするような恐怖を覚えた。彼の〝苦しみ〟は、簡単に言葉にして共有できるような苦しみではなかっただろうと、少しだけ松原寛が内包し続けた〝煩悶〟の姿を見られたような気がした。

 この世界を管理する必然性は、人の記憶にさえ作用しているのだろう。人間は必然によって形作られ、必然によって生かされている。人間は生まれてから、今この瞬間までに過ごしてきたすべての記憶を有しているわけではない。一瞬前に起きたことでさえも、いつの間にか、普段は思い出しもしないようにと記憶の奥底に押しやったり、忘れ去ったりしてしまう。この〝記憶〟さえも人間の自由にままならないのではないかと清水先生の松原寛論を読んで思い至った。人は、忘れたいことこそ記憶にこびりついていたり、忘れたくないことほど簡単に忘れ去ってしまったりする。自分の意思で記憶を留めることができないのではないか。
 私にとって記憶さえも管理されていると感じた現象として、身近なものに夢がある。寝ているときに無自覚に見ているとされる夢のことである。どれだけ面白い夢を見ても、目が覚めた瞬間から砂時計の砂のように、サラサラと頭の中から夢の映像がこぼれ落ちていく。どうにかして、掴み取ろうと、夢の内容を反復しているうちに夢は跡形もなく消滅してしまう。たまに、欠片をすくい上げることに成功しても、それは最早ただの道端に転がる小石と同じであり、夢の中の光り輝く宝石とは程遠い。確かに、誰かの横顔を見ていたはずなのに、必然性に支配された自我が夢からの覚醒とともに姿を現した瞬間、それらの像は霧散していく。どれだけ記憶に留めようとしても無駄なのだ。こんなもの、覚えておかなくていいということなのか、それとも夢という世界が〝必然〟の管理外の範疇であるからこそ忘れさせられてしまうのか。夢という現象に対する存在の意味は未だに分からないが、夢の続きを永遠に見ることができないことだけは確かである。覚醒した必然の支配下による世界においては、夢を見ることさえも許されない。
 そう考えたときに、ふと清水先生は〝必然〟の管理外に存在しているのではないだろうかと思えた。先生はすべて必然が世界を支配していることを理解した上で、必然さえも内包した大いなる世界を生きているのでないかと考えてしまう。


  わたしが物心ついた二、三歳の頃から、夜、寝る前に目を閉じると、無限の闇の中に無数の光の粒子が流れていく光景を見ていた。無限宇宙の闇の世界を光の無限の粒子が左から右の方向へ絶え間なく流れていった。この光景を何年にわたって見続けたのか。正確な記憶はないが、いつの間にか消えた。ただし、その光景は今も鮮やかに蘇らせることができる。(『日藝ライブラリー No.3』40頁)


 まず、二、三歳の記憶を未だに鮮明に持ち続けている人がどれだけ存在するだろうか。断片的であれば、記憶しているかもしれないが、それは本当に自身の記憶なのだろうか。それは、自分でねつ造した記憶なのではないか。
 私はそれなりに記憶力が良い方だと自分で思っているが、過去を振り返るときに再生される映像には必ず自分の姿が登場している。こんなことはあり得ないはずである。自分に起きた事実を俯瞰的に眺めるといった構図であり、本来ならば自分の目で見た構図でしか思い出されるはずはないのだ。これは、真実の記憶だとはいえないだろう。自分で記憶として留めるために再構成しているのだと認識しているが、これは一寸たりともねつ造の含まれない過去であるとはいえない。しかし、大まかな出来事としては嘘偽りのない事実である。このことに気がついたときから、私は自分のことを信用できなくなった。しかし、清水先生の記憶は〝自分〟が見た光景を映像として自由に再生することができるのだ。必然のみに支配された世界に生きる私と《必然と自由の一致》した世界に生きる先生との違いである。
 松原寛の本は『芸術の門』しか読んだことがないが、彼もまた私と同様に〝必然に支配された世界〟に生きる人間だっただろうと感じた。彼は清水先生が指摘するように〝今〟を誰よりも懸命に生き抜いた人間であったのだろう。だからこそ、一つの軸を持たずに多くの思想に触れ続けた。それは、自分の中だけでは答えを見出すことができないからこそ、他者の思想に自分の正当性の拠り所を求めたのではないだろうか。 そして、《必然と自由の一致》した世界を求めたのではないかと考えてしまう。松原寛の言葉は強く、激しい。しかし、どこかに空虚さを私は感じた。それは、未だに自分の求める解に出会えていなかったからではないだろうかと思ってしまう。
 《自分だけ行い済ましている人達には青年の煩悩は分かる道理がない。彼らは概念的の思想はあるかも知れない。ただし思想を生活している人ではない。深い精神生活があるのでもない。》これは清水先生が『日藝ライブラリー No.3』の163頁において引用した松原寛著『宗教の門』の言葉であるが、私はこの言葉に深い納得とともに、深い反省をした。《ただし思想を生活しているのではない。深い精神生活があるのでもない。》この言葉は今の日本に生きる若者すべてにいえる言葉であり、若者たちが噛み締めなければならない言葉である。そして、この言葉を発した松原寛のように真剣に問いと向き合い、解を求めるために生きなければならないのではないだろうか。


  何度でも言うが〈謎〉は解こうとすれば言葉が迷うのである。一流の天才的な言語学者はそれでもこの魔の誘惑に落ちて、言葉によって言葉の秘密を明かそうとして狂気のひととなるのである。(『日藝ライブラリー No.3』160頁)


 私にとって幸いであったことは、松原寛の言葉と出会う前に清水先生の言葉に出会っていたことだろう。思考の渦に捕らわれたとき、私は清水先生の上記の言葉を思い出す。この言葉を松原寛も師からいってもらえていたら、あんなにも苦悩し煩悶し、苦しむことはなかったのではないだろうか。松原寛が解こうともがいていた〈謎〉は、言葉では解決することができないものだったのだ。それが分かっていたら、彼は哲学や宗教をありのままに受け止めることができたのではないだろうか、なんておこがましいことを考えてしまう。
 松原寛は日本大学で信頼すべき上司と出会ったとは思うが、生涯〝良き師〟には出会うことのできなかった人間なのではないだろうか。彼は、清水先生が引用した『松原寛』の部分だけを読んでみても一人で生きていけるタイプの人間ではなく、良き師に導かれることによって成長するタイプの人間だったのだろうと思う。私は尊敬する〝師〟に出会うことができたからこそ、求めるべき答え自体は見えている。後は、私がどれだけその〝答え〟に近付いていけるのかが問題だ。
 松原寛も、誰か一人だけでも心の底から尊敬できる人物に出会うことができていたら、彼の思想も彼自身も変わっていたのではないだろうか。それも、より良い方向へと。なぜなら、私自身が松原寛のような〝良き師によって導かれて成長する〟タイプの人間だからだ。自分だけの力では到達できる世界が限られている。しかし、〝良き師〟からの〝ヒント〟によって、私は自分の力では到達することのできなかった世界を見ることができている。
 簡単に松原寛の気持ちが共感できるなどとは言えないが、彼の悩みの解は、もう彼だけの力では導きだせないものであり、誰かのふとした〝ヒント〟を待ち望んでいたのではないのだろうか。だからこそ、彼は多くの哲学者の思想を追いかけ続けたのではないか。しかし、結局は求める解答には辿り着けなかったように見られる。それさえも必然なのだとしたら、やはり世界は残酷な必然に支配されたものだというしかないだろう。

松原寛との運命的な邂逅ーー日大芸術学部創設者・松原寛の生活と哲学を巡る実存的検証ーー

清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。

清水正監修『日藝ライブラリー』3号 特集「日大芸術学部創設者 松原寛」(日藝図書館刊行 2016年7月7日)が刊行された。


『日藝ライブラリー』3号に掲載した批評の最初の部分を何回かにわたって再録する。

平成27年1月15日(金)
松原寛との運命的な邂逅ーー日大芸術学部創設者・松原寛の生活と哲学を巡る実存的検証ーー

清水正日大芸術学部図書館長・日大芸術学部文芸学科教授)

江古田での神秘体験

わたしが江古田の地に初めて降り立ったのは、昭和四十三年三月一日であった。一年間の浪人中、受験勉強はそこそこに、ひたすらドストエフスキーの『罪と罰』を読んでいた。失恋の痛手もあって体重は四十三キロにまで落ちていた。よく生きていたという状態で、わたしが最後に選んだ大学が日芸の文芸学科であった。三月に入って受験できる大学と言えば日芸くらいしかなかったのかもしれない。どうしても日芸を目指すなどという志とは無縁であったが、運命がわたしを江古田へと向かわせたことは確信できる。
 江古田駅南口の階段を降りてすぐ、日芸校舎に向かう途中で突然背中がゾッとした。何か霊的なものにつかまれた感じで、わたしはその感覚を忘れたことがない。場所も明確に覚えている。江古田駅を降りるたびに、わたしはいつもその奇妙な、神秘的な感覚を思い出していた。
 入学してすぐに大学紛争が勃発したので、まともな授業は各講座一回位だったので、その授業内容も明確に記憶している。特に印象に残っているのは千何百人かがぎっしり詰まった大講堂での一般教養科目の授業、見事にだれ一人として聞いていない。雑談、週刊誌を読むものばかり、老教授の講義を聞いていたのはわたし一人だったのではないかと思うほど、質の低い授業であった。講義はノートをただ読むだけの形式的なもので、学問に対する情熱も、学生に対する熱意も何も感じなかった。はっきり言って、まあこれは大学ではないな、という拭いがたい思いを抱いた。大学改革を求める学生がたちあがるのはごく当たり前ということだろう。

 全共闘の連中が動き出し、連日、校舎前ではデモ行進が行われた。わたしは大講堂の二階から彼らの熱い行動をひたすら見ていた。わたしには彼らと行動を共にする情熱も理論的な支柱もすでに崩壊していた。わたしは十七歳でドストエフスキーの『地下生活者の手記』を読んで以来、行動する理論的根拠をなくしてしまったのだ。
 やがて江古田校舎は全学連の革命戦士たちによって占拠され、授業はすべて休講となった。わたしは彼らの活動を傍目に、平凡社版世界文学全集『悪霊』を小脇に、江古田駅から歩いて三十分ほどの所にあった段ボール工場に通った。バイト料金一時間百円、勤労時間は自由で、ひまな時にでかければよかった。当時、わたしは完璧な夜型人間で、夜はドストエフスキーを読むこと、批評することに費やした。朝方に二、三時間睡眠がとれればいいほうで、不断に自意識が働いてとげとげしい気分に支配されていた。朝食はとらず、昼にほんの少し、夜もほとんど満足に食事したことはない。当時、口にしていたのは煙草のニコチンとコーヒーくらいで、何を食べたのか具体的に思い出すことさえできない。
 大学が封鎖され、貧困な授業に煩わされることなく、わたしはドストエフスキーに没頭することができた。まず書いたのが『白痴』論、これは七十枚ほど書いた。次に書いたのが『悪霊』論でこれが九十枚、続いて『カラマーゾフの兄弟』論、これは百三十四枚、原稿用紙百枚を越えたときの手のふるえを未だ忘れることはない。最後に『罪と罰』論七十枚。こうしてわたしの最初のドストエフスキー論三百七十枚は完成した。わたしはこれを出版したいと思っていたので、江古田のダンボール工場で痩せたからだにムチ打って働き続けた。一時間働いて百円だったが、労働時間は拘束されなかったので一年間続けた。が、その費用だけでは印刷製本費に足らず、所沢のゴム工場でもバイトすることにした。ここは一時間二百五十円で当時破格のバイト料金であった。我孫子の自宅から、所沢のゴム工場まで往復六時間かかった。仕事の内容はトラックで運ばれたカットされた鉄パイプをひたすら数えること。わたしはここで一日八時間働き、ようやく本の出版にこぎつけた。タイトルは『ドストエフスキー体験』、発行元は清山書房と名付けた。刊行年月日は一九七〇年年一月二十日。わたしの二十歳の記念となった。
 わたしの大学一年間は、ひたすらドストエフスキーを読むことで終わり、全共闘の過激な活動は、いわば強大な国家権力の行使によって押さえ込まれた。連合赤軍事件としてあまねく世に知られた群馬県榛名山中における凄惨な内ゲバの実態が発覚、連日、テレビ・新聞が報道し、ここに日本における革命運動はその生命線を絶たれた。日本の知識人たちの間で、この事件と『悪霊』が関連づけられ、ドストエフスキーの文学の予言性など語られた。が、彼らのうちの誰一人として『悪霊』の本当の意味での凄さを理解していた者はいない。ふたつだけ例としてあげておけば、彼らが素朴に信じて疑わなかったに違いない、秘密革命結社五人組の首魁ピョートル・ステパノヴィチ・ヴェルホヴェーンスキーが、実は社会主義者など最も愚かな人間の部類に属すると嘲笑愚弄していた二重スパイであったこと。もうひとつは『悪霊』の作中作者アントン・Gだが、アントンは自由主義者ステパンの元に国家から派遣されたスパイであったということ。つまり『悪霊』は国家から派遣されたスパイ(アントン)と二重スパイ(ピョートル)が重要な位置を占めているが、連合赤軍当時の評論家やドストエフスキー研究家でこのことをきちんと認識していた者はいない。
 大学紛争が一段落して、江古田校舎の封鎖も解け、授業は再開された。とは言ってもまともな授業などされるはずもなく、臨時措置としてレポート提出で受講科目の単位は与えられた。再開後に、わたしは国文学を担当されていた松原博一教授を知った。わたしは書き終えた『悪霊』論の原稿を松原教授に託した。おそらく松原教授の、教室での言葉に何か熱いものを感じたのだろう。ある日、江古田駅を降りてすぐ、例のゾッを感じたあたりで、松原教授にぐうぜんお会いした。松原教授は駅前の喫茶店にわたしを誘い、ホットコーヒーをごちそうしてくださった。
 わたしはこのとき、常日頃思っていた芭蕉について語った。「静かさや岩にしみいる蝉の声、この俳句に芭蕉という生身の俳人は存在せず、彼は自然そのものとなっていますね」これに対して松原教授は「芭蕉はかなり人間臭かったです」と一言。腑に落ちることもあり、わたしは改めて人間芭蕉に対する興味をそそられた。松原教授は缶ピーをひたすら愛する喫煙家で、この日は切らして、しかたなくショートピースを吸っているということであった。わたしはハイライトオンリーのヘビースモーカーだったが、松原教授はわたしにピース一箱を譲ってくださった。わたしはうれしくて一ヶ月ほど机の上に飾っておいた。何週間後に松原研究室を訪れ、『悪霊』の原稿を返してもらったが、内容に関する教授からの感想はなかった。
 二年次になって、わたしは日芸の授業にはきっぱりと見切りを付けた。それでも卒業するつもりはあったので単位だけは取得した。中学と高校の国語教員免許の資格も取った。わたしは今でもつくづく思うが、大学は学問研究・創造機関であるのだから、学生に自由に研究・創作に励める十分な時間を与えるべきで、それが日本大学が掲げる自主創造の理念にかなっていると考える。
 当時、ドストエフスキーは熱狂的に読まれていた。江川卓、新谷敬三郎、木下豊房等ロシア文学関係者が発起人となって「ドストエフースキイの会」を組織し、一般のドストエフスキー愛好家たちを集めて研究会・報告会を開いていた。わたしはぐうぜん新聞の紹介欄でこの会を知り、東京厚生年金会館で開催されていた第九回例会(1970年4月27日)に参加した。講演者は早稲田大学ロシア・フォルマリズムの研究者として知られていた水野忠夫で題目は「『カラマーゾフの兄弟』をめぐって」であった。わたしは『ドストエフスキー体験』(1970年1月1日)を持参、講演後の水野氏に一冊さしあげた。この時、拙著をお譲り願えないかと申しこまれたのが近藤承神子であった。近藤氏はわたしの本を誰よりも先に高く評価し、全面的な応援者になっていただいた。彼はわたしに坂口安吾、秋山駿、つげ義春滝田ゆう、そして当時あまり注目されていなかった大友克弘の存在までも教えてくれた。わたしが後につげ義春漫画の批評を展開するきっかけを作ってくれたのも近藤氏、『ドストエフスキー体験』を彼の行きつけの古書店、赤羽にあった豊島書房の主人に刊行を推薦したのも近藤氏であった。近藤氏は当時、郵便局員として働いていたが編集者としては先見の明を持っていた人で、豊島書房の岡田富朗には『内部の人間』の著者秋山駿の著作刊行を強く勧めていた。岡田富朗は秋山駿の本はついに出さなかったが、わたしの『ドストエフスキー体験』の増補改訂版を出版することを承諾した。
 二年の時、わたしはアルベール・カミュを研究していた大久保敏彦専任講師のゼミに所属し、ドストエフスキーと同時にカミュ文学の世界に参入することになった。その成果はゼミ雑誌「アルベール・カミュ」に「不条理の世界ーーアルベール・カミュドストエフスキー」として発表した。増補改訂版には一年時に執筆し終えてなかった『未成年』論とこの論文を増補して出そうと思っていた。二年時中には刊行されると甘く考えていたが、豊島書房からは何の連絡もなく、この話は没になったのかとさえ思ったが、大学四年時に刊行されることになった。タイトル「ドストエフスキー体験」に関して、すでに椎名麟三に『私のドストエフスキー体験』があるので変更したいという要請があった。それで不本意ながら最初サブタイトルにしていた「停止した分裂者の覚書」をタイトルに、タイトルに考えていた「ドストエフスキー体験」をサブタイトルにした。これではまるで精神病者の手記と勘違いされるのではないかと懸念したが、別にその理由ばかりではなかろうが、この本はさっぱり売れず、書評にもとりあげられず、みごとに商業出版として失敗した。
 『ドストエフスキー体験』を池袋西口にあった芳林堂書店仕入部担当者は、この店だけで百冊以上を売ってくれた。『停止した分裂者の覚書』刊行の折り、彼は、新人の本を売り出すのに、有名な作家、評論家の推薦文ひとつ付いていないのは異例中の異例と言っていた。それまでそんなことを気にしてもいなかったが、言われてみればもっともなこと、豊島書房ではドストエフスキーに多大な影響を受けている近代文学派の埴谷雄高荒正人などの本も刊行していたのだから、ふつうに考えれば彼らに推薦文を書いてもらうとか、そういう商業戦略もとうぜんあってしかるべきだろう。だがさらによくよく考えてみれば、そういった商業戦略などを考える社主であれば、わたしの本など刊行することはなかったであろう。近藤氏によれば、荒正人はわたしに会いたい旨、豊島書房社主に伝えてあったそうだが、それを聞いた近藤氏はおそらく清水さんにはそういう気持ちはないだろうから断っておいたということであった。むろん当時のわたしもそんなことは当たり前と思っていたので、近藤氏の断りに関しては、この人はよくわたしのことがわかっていると思っただけであった。とうぜん、近代文学派の著名人からの推薦もなく、タイトルもタイトルなので、この本はいわば刊行はされたが社会の表層で流通することはなかった。
 豊島書房は出版を兼ねた古書店でもあった。『停止した分裂者の覚書』は神田の古本屋「三茶書房」の割引定価のコーナーに平積みされることになった。三冊百円とかいったゾッキ本の箱に入れられていたわけではいが、定価千円の本が半額の五百円で売られていた屈辱は未だにわすれられない。誇り高き著者の心に烈しい怒りが生じた。わたしは自分の力で、この屈辱をはらすしかないと一人誓った。やがて『停止した分裂者の覚書』は定価の千円になり、それ以上の価格を獲得することになるが、定価通りになるまでに二十年以上の歳月がかかった。わたしのドストエフスキー体験は死ぬまで続くのだ。「ある時期、ドストエフスキーを熱心に読みました」とか、したり顔で口にする者と一緒にされては迷惑至極なのである。
 わたしは、荒正人ばかりではなく、埴谷雄高にも小林秀雄にも実際に会ってみたいと思うことはなかった。わたしが大学一年時、憑かれたようにドストエフスキー論を書いていたとき、日本の批評家で読んだのは小林秀雄ドストエフスキー論で、これは参考にしたとかいうのではなく、文字通り決闘であった。とうぜん、小林秀雄の影響も受けたには違いないが、小林秀雄の批評からの脱出も必死になって模索していた。ドストエフスキーの文学は小林秀雄の批評では太刀打ちできないということを、わたしは実際にドストエフスキー山の素人登山者として体験していたので、それは体でわかっていた。数年後、宇波章が小林秀雄の批評は人間主体的な批評で作品自体を論じていないという、まさにロシア・フォルマリスト風の理論を連続して発表し、日本の文芸批評界に新風を巻き起こした。
 当時、早稲田大学文学部の教授だった新谷敬三郎がミハイル・バフチンの『ドストエフスキイーー創作方法の諸問題』(1968年6月10日)を冬樹社から翻訳刊行し、これまた文芸界に衝撃を与えていた。かく言うわたしも、初めてこの本を読んだときの衝撃は生々しいものがあった。それまで読んでいた小林秀雄や、ドストエフスキー論者としても知られる哲学者ベルジャーエフの著作を通してドストエフスキーの文学や思想や人生を考えていた者にとって、バフチンの作品自体を分析解釈するその方法は、突然、太平洋上にその巨大な姿を現した白鯨を目にした者のごとき衝撃を受けたと言っても、決して大げさではない。ロシア留学中に、バフチンドストエフスキー』の初版本を読んでいたという小沼文彦は、どういうわけかドストエフスキーが味噌糞にけなすローマ・カソリック教の信者で、バフチンの言っていることは別にドストエフスキーでなくても適用できると言っていた。一見、バフチンなど評価していないという口ぶりであったが、彼が主宰していた「日本ドストエフスキー協会資料センター」(当時、渋谷道玄坂を登り切って何分か歩いたマンションの一室)のガラス張りの立派な書棚にはなんと新谷訳の前掲書が五冊も置いてあった。

 早稲田の大熊会館で「ドストエーフスキイの会」の総会が開催された。1970年5月7日のことである。司会は代表を務めていた新谷敬三郎、参加者に小沼文彦、江川卓、木下豊房などロシア文学研究者、それに近藤承神子とわたしも参加した。その席で近藤氏が、次回の例会報告者としてわたしを推薦した。この突然の思いもよらぬ提案に、司会者の顔に一瞬とまどいの表情が見えたが、さすが会を取り仕切るバランス感覚で冷静を取り戻し、結局、近藤氏の提案が受け入れられた。この時、わたしが持参した『ドストエフスキー体験』を小沼文彦がなんと二冊購入してくれた。同じ本が、なぜ二冊も必要なのか。わたしは妙な気持ちであった。後に本人に聞いたところ「本は二冊買うものです」ということだった。
 この時、小沼文彦は「ドストエーフスキイの会」の会員だったが、蔵書寄贈の件で会とは袖を分かち、あらたに「日本ドストエフスキー協会資料センター」(東京都渋谷区神泉町25番8号渋谷マンションウェルズ401号)を主宰することになった。わたしは近藤氏に誘われ、一緒に渋谷のマンションを訪ね、以来、その協会員に所属することとなり、「ドストエーフスキイの会」には脱会届けを出した。が、完全に「ドストエーフスキイの会」との縁が切れたわけではなく、その後も頼まれれば原稿も書き、講演などもしてきた。
 小沼文彦主宰の協会では会誌「陀思妥夫斯基」を刊行、そこには「ラスコーリニコフと老婆アリョーナ」(No.2 1970年8月12日)「肖像画に見るドストエフスキー」(No.2 1971年1月15日)「三角関係に見るドストエフスキー」(No.10 1971年8月30日)などを発表した。専門のドストエフスキー雑誌の刊行の企画もあり、わたしは「回想のラスコーリニコフーー自称ポルフィーリイの深夜の独白」の原稿をあずけておいたが、これはついに刊行の運びにはいたらなかった。原稿も返してもらえなかったが、当時のわたしは生原稿を二部作成していたので、催促もしなかった。いったいあの、第二の死せる青春の煩悶の文字を刻印した生原稿はどこに身を潜めているのだろうか。
 わたしの「ドストエーフスキイの会」での報告「『罪と罰』と私」の模様を近藤氏は会報10号(1970年8月31日)で書いている。当時の会場の臨場感あふれる文章で今や伝説的なものとなっている。わたしは具体的に何を語ったのかほとんど記憶にないが、途中、初老の男性会員が手をあげて、話の中断を要請したことは鮮明に覚えている。わたしは今でこそ、ドストエフスキーの文学を題材にして漫談風に語る術を身につけたが、二十歳過ぎの青年に、それこそドストエフスキーの霊がそのまま憑依したようにしゃべり続けられたら、ディオニュソス的陶酔を知らないままにアポロン的整合性を生きてきたような者の思考は破壊の危機に晒されるわけで、その会員もやむにやまれず中断を申し入れたのであろう。まあ、彼の耳に、わたしの話は、今まで聞いたこともない、途方もない独断と偏見に満ちたものに思えたのであろう。これは、二十歳の昔に限ったことでなく、今でもそうである。今は教授だったり、図書館長だったりするので、その肩書きに遠慮してか、面と向かって反旗を翻すような者はいなくなったが、本心のところでは納得していない者が多いのも確かだし、内容が理解できない者は〈変人・奇人〉の部類に入れてすましている。人間、歳をとったからといってその本質が変わるわけではない。

 わたしは『ドストエフスキー体験』を刊行した時、もうドストエフスキーとはおさらばするつもりであった。わたしの文学的野望はドストエフスキーのみを研究することにあったのではない。わたしは古今東西の哲学者や文学者を一人物に見立てて、究極の真理を見極める一大戯曲の創造を意図していた。この野望はどこで頓挫したのか。一つの契機は、大学三年になってドストエフスキーの処女作『貧しき人々』論にとりかかったことにある。ドストエフスキーから離れるどころの騒ぎではなくなった。第二作目の『分身』に関しては大学四年時にとりかかり、卒業後大学に残ってからも、半年の中断を含め、書き終えるのに丸二年もかかった。第四作目の『おかみさん』もずいぶんと時間をかけた。わたしの二十四歳から三十一歳に至るまでの七年にわたる副手時代に関しては一冊の本が準備されなければならない。この時代に書いた初期作品論は沖積舎版『ドストエフスキー 初期作品の世界』(1988年6月28日 沖積舎)にまとめてある。