清水正の『浮雲』放浪記(連載179)

清水正の『浮雲』放浪記(連載179)

平成A年2月6日

先にわたしは伊庭の大日向教とイヴァン・カラマーゾフの大審問官の類似性について書いた。違いと言えば、大審問官には苦悩があり、伊庭にはないということである。大審問官の劇詩がどんなに深刻ぶって書かれていようが、〈手品〉であることには間違いない。大審問官には黙って接吻するキリストが現れているが、伊庭にはいない。伊庭も教主の成宗専造も大日向教は金儲けの為の手段であり、手品の次元を一歩も出ていない。ゆき子は伊庭の手品を鼻先でせせら笑っているが、その手品のおかげで暮らせている。ゆき子も伊庭に劣らぬ悪党であるが、彼女の悪党ぶりが目立たないのは、作者がゆき子のその部分に拡大鏡にさらすことがなかったからと言えようか。とにかくわりを食っているのは伊庭であり、その妻子である。作者は大日向教で贅沢三昧の生活を始めた伊庭一家については全く照明を与えることはなかった。伊庭の妻真佐子は小説の初めから、作者によって人間扱いされていない。三年間、同じ屋根の下で暮らしていた夫とゆき子の情事に気づかなかった真佐子を女と見なすことはできない。真佐子は〈伊庭の妻〉という役柄を与えられた木偶人形の位置に据え置かれている。真佐子は遂に最後の最後まで妻として、女として、人間としての声を封じられたモノでしかなかった。
 とにかく真佐子に限らず、『浮雲』において富岡兼吾の妻邦子、富岡兼吾の愛人ニウ、富岡兼吾がゆき子以上に惚れたおせいなど、富岡兼吾と幸田幸子の〈腐れ縁〉の持続に邪魔となるような人物や出来事はばっさりと省略されてしまう。
 成宗専造と伊庭杉夫が大日向教の教義に関して真剣にやり合うなどという場面は全くない。彼らは教主と会計担当という役柄だけで存在しているようなもので、〈手品〉をせざるを得ない人間の悲哀や絶望には全く触れてもらえない存在なのである。わたしは『罪と罰』を読んでいてもつくづく思う。ロジオン・ロマーノヴィチの内面にあれほど頁数を費やしたドストエフスキーであるのに、殺された老婆アリョーナやリザヴェータや、ソーニャの内面には全く照明を与えようとしない。ソーニャの場合はロジオンの想像作用によってそれなりに浮かびあがってくるが、もっともひどいのはアリョーナ婆さんである。彼女はロジオンの生理的嫌悪感で塗り込められた卑劣で醜悪な肖像画のみが前面に押し出され、首都ペテルブルグを腹違いの妹リザヴェータを抱えながら高利貸しとしてたくましく生き抜いてきた側面や、未亡人としての悲哀などいっさい触れられない。ロジオンの想像力は母親プリヘーリヤや妹ドゥーニャに対しては豊かに発揮されるが、アリョーナ婆さんに関しては固定観念を一方的に押しつけるばかりで、まったく包み込む愛の想像力が欠如している。
 『罪と罰』の読者の大半は、ロジオン・ロマーノヴィチの内部視点に寄り添って読み進めていくから、彼の主観の色に染められやすい。若い頃に読めば、まさに読者はロジオンと同一化してアリョーナ婆さんの頭上に斧を打ち下ろすのである。還暦を過ぎてまで、ロジオンの主観から抜けきれずにいる者もいるから、その影響力たるや恐るべしである。
 『浮雲』の読者もまた、幸田幸子の視点にばかり寄り添っていると、伊庭の肖像を一義化して〈モノ〉化してしまう危険性がある。幸田ゆき子が人間なら、伊庭杉夫もまた歴とした人間なのである。保険会社の人事課に勤め、実直な男の評判をとっていた伊庭が、敗戦後、どうして宗教手品に手を染め、深みに入っていったのか。それを〈モノ〉化され、客体化された伊庭に向かって問うのではなく、あくまでも妻もあり子もいる、人間伊庭に問わなければならない。が、作者は伊庭を富岡兼吾扱いすらしていない。ゆき子は伊庭の妾になって暮らしをたてることにした女である。当然、伊庭との肉体関係は定期的にある。富岡兼吾に未だ惚れているゆき子が、どのように伊庭に抱かれていたのか。作者はいっさい描かない。富岡とゆき子の情事は性愛であるが、伊庭とゆき子の情事は一種のとりきめ(提供された金の対価としての肉体提供)に過ぎない。ゆき子は十九歳の時から、伊庭とそういう関係を続けており、間に富岡兼吾やジョオとの関係を挟んでいたとは言え、別に生娘が抱くような苦痛や嫌悪があるわけではない。肉の欲求のみに充足し、それで生活が保障されるとなれば、女は〈妻〉の座に居座り続けることもできるし、〈妾〉となることもできる。そこに女のたくましさもしたたかさも見ることができようが、ゆき子の場合はそこにとどまることはできなかった。ゆき子は生活が安定するだけでは充足できない。彼女の深淵には不断に妖しく生動するマグマが蓄えられており、伊庭はこのマグマの熱い生動に応えることができない。女のマグマの熱い生動に応えられない男は、いくら財産があり、地位があり、権力があっても、その女を真に満足させることはできない。若いヴロンスキーと不倫の関係に走ったアンナ・カレーニナを想起すればよい。
 女は子供があってすら、惚れた男に後先考えずに跳ぶことができるのである。フョードル・カラマーゾフの最初の妻アデライーダは三歳の息子ミーチヤを捨てて師範出の貧しい教師と駆け落ちしてしまう。もちろん跳べない女も存在するが、そういった女性は小説のヒロインには向かない。

大横綱朝青龍に功労金

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テレビのワイドショーなどで引退後の朝青龍についてハワイでゴルフしているなどけしからんとか、あいかわらず余計なお世話のばかばかしいコメントを、まるで正義の味方のような顔(こういう顔をどこかでみたような気がしていたが、そうそう、小学生時代、担任の先生に指名されるようないい子の顔だ)をして、何のはじらいもなく口にしている相撲解説家やゲストをみていると、ほんとうにこんな意見を心から納得している日本人が大半とはとうてい思えない。番組製作者はあまり視聴者をなめないほうがいい。

わたしは今回の朝青龍引退問題で親しく付き合っている人たちと話す機会があったが、朝青龍の相撲格闘家としての抜群の力量、大横綱としての風格を評価する者はあっても、彼の強制された引退を快く思っている者はいなかった。

横綱の品格を問題にするなら、まず第一に土俵上の勝負に賭ける集中力や情熱や取り組み内容を問題にすべきである。朝青龍の相撲の魅力は、その烈しさ、闘志をむきだしにして闘うその姿にこそある。それが朝青龍の相撲のスタイルであって、その烈しさを非難する者は、相撲格闘家朝青龍の存在そのものを否定することになる。

最も滑稽なことは、朝青龍横綱に推挙した審議会の連中が、自分たちの責任をとらずに、天下の大横綱を一方的に批判していることである。また高砂親方も親方として失格だとか、教育がなっていないとか朝青龍に劣らず非難の的になっているが、忘れてはいけないのは、朝青龍横綱にまで育てたのは高砂親方にほかならないということである。あのおおらかな明るい性格の親方だからこそ、朝青龍のような破天荒な大横綱が誕生したのである。偉大な横綱を育成した親方がバッシングされ、十両力士の一人も育て上げられない親方が小学生並みの〈正論〉を口にしていること自体がおかしい。朝青龍がダメだというなら、朝青龍以上の横綱を育成してから、その相撲道を口にしてほしいものだ。

酒を飲み、御馳走を口に運び、談笑しながら観客は相撲を観戦している。そういった伝統の中で力士にのみ品性を求めてどうしょうというのか。きれいごとを全うしようとすれば、闇はさらに深くなるのである。

日本の文化や伝統だけを押しつけるのではなく、モンゴルの文化、伝統も尊重しなければいけない。朝青龍はモンゴル相撲の伝統を背負って、日本の大相撲の横綱になった偉大な格闘家である。その格闘家に対する尊敬の念もなく、あほみたいな質問ばかりをあびせていれば一喝されるのはあたりまえのことである。

本来ならば、相撲協会の理事長、理事などは命をはって朝青龍をバッシングの荒波から救い出し、守らなければならなかったはずなのに、結果として彼らは、日本大相撲の宝である大横綱を、モンゴルの偉大な英雄である朝青龍を、本人があくまでも回避したかった引退へと追いやってしまった。そのつけがどれほど大きいか、身をもって受け止めればよかろう。

週刊文春」【2月18日号】で小説家の伊集院静さんが朝青龍に関して特別寄稿「朝青龍は本当に悪いのか」を寄せているが、彼のコメントは朝青龍問題に関して冷静な判断をくだしている。今後、マスコミ報道は朝青龍バッシングから朝青龍讃美へと移行していくだろう。日本のマスコミ報道などにまどわされず、朝青龍朝青龍としての生き方を全うしていただきたいと思う。
闘志満々のすばらしいあなたの相撲は、たとえ日本の相撲界を去られても永遠に語り継がれていくことでしょう。日本にはあなたの偉大な功績を心から讃える者もいることを忘れないでください。

文藝評論家=山崎行太郎さんの政治ブログ 『毒蛇山荘日記』でも朝青龍問題に関して鋭い辛口のコメントが展開されていますので是非ごらんください。

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大相撲の魅力
・・土俵の内外に見る光と闇の人間ドラマ・・

清水 正

以下は『石ノ森章太郎 大江戸相撲列伝』(2008年清流出版)に収録した「大相撲の魅力」を一部改訂したものである。二年前に執筆したものだが、今でも通用すると判断し、この際多くのひとたちに読んでもらいたいと思い載せることにした。

・○相撲との出会い・

私は昭和24(一九四九)年2月に生まれた。いわゆる団塊世代の一人である。
敗戦後まもなく日本に生まれた団塊世代の幼少年時代の遊びといったら、女の
子はゴム跳びや石けり、男の子は野原や学校の運動場での相撲であった。相撲
は自分の体さえあれば誰でもできる。元手がいっさいかからない遊びで、しか
も力の優劣がはっきりと分かる。子供社会の秩序をかたちづくるうえでも相撲
は恰好の健康的な遊びであった。

私の記憶に鮮やかに残っているのは栃錦若乃花の優勝決定戦である。昭和
35年(一九六〇)3月場所千秋楽、両横綱は全勝でその日を迎えた。おそらく
日本国民の大多数がこの一戦に熱中したはずである。私は当時11歳、夕方まで
外で遊び惚けていたが、野菜市場の方で異常な歓声があがっていたので、仲間
たちと近づいてみると、数十人の人々が市場の隅に置かれていたテレビの前に
釘付けになっていた。栃若時代の最期を飾る名勝負で、この取り組みは今日に
おいても語り継がれている。

・○力道山プロレスに熱狂・

大相撲人気と共に忘れていけないのはプロレス人気である。プロレスと言え
力道山で、彼の存在を抜きにして日本のプロレスを語ることはできない。力
道山は二所ノ関部屋に属し、関脇にまで昇進した有望な力士であったが、昭和
25年(一九五〇)9月場所番付の日に廃業し、プロレスに転身した国民的英雄
である。

私は力士時代の力道山については知らないが、プロレスラーとしての力道山
についてはよく知っている。大きな白人プロレスラー・シャープ兄弟を空手チ
ョップで叩きのめす力道山の雄姿は、戦争に負けた日本人の白人コンプレック
スや鬱屈した気分を存分に発散させた。プロレス中継を見るために街頭テレビ
の回りに集まった人々の熱狂的な姿と歓声は、プロレスが単なるスポーツや格
闘技ではなかったことを如実に示している。

敗戦後の日本の復興に力道山のプロレスと大相撲が果たした役割は無視でき
ない。巨大な体躯の外人レスラーに投げられ、締められ、窮地に追い込まれた
力道山が、最期の最期に空手チョップで相手を叩きのめす構図に、老若男女の
日本人が酔いしれた。また栃錦若乃花は相撲取りとしては小兵であったが天
性の勝負魂と厳しい稽古を積み重ねて横綱になっている。日本の伝統的な格闘
技である大相撲と、力道山プロレスが敗戦直後の荒廃した日本の復興と日本人
の心を大いに鼓舞したことは疑いない。

・○テレビの役割・

ところで、大相撲人気とプロレス人気を押し進めた最大の媒体はテレビであ
る。NHKが本格的に大相撲中継を始めたのは昭和28年(一九五三)の夏場所
からである。今でこそテレビ実況中継はNHK一局となってしまったが、昭和
30年代はフジテレビ、TBSテレビも放映していた。テレビ局は大相撲に詳し
い専属のアナウンサーや力士出身の解説者を起用して大いに相撲人気を煽った。

もともとテレビの普及は力道山プロレスとアンテナにあると言われる。日本
人は世間体を異様に気にする民族であるから、隣の家の屋根にテレビのアンテ
ナが取り付けられると、それに刺激されて無理してでもテレビを購入するとい
うことになる。いずれにしても昭和30年代に入ってテレビが一挙に普及し始め
たのは、力道山のプロレス効果であり、栃若時代に象徴される大相撲人気だっ
たと言える。

小さな日本人が大きな外人(それも白人)レスラーを最後にノックアウトし
たり、小さな力士が大きな力士と熱戦して白星をあげること、こういった単純
な勝敗の図式を日本人は好む。プロレスはスリーカウントで決着がつくし、相
撲は土俵上で先に倒れたり、外に出れば負けというように、勝敗に関してきわ
めて分かりやすい。依然として野球の人気は高く、近年はサッカーがもてはや
されているが、これらのスポーツのルールをきちんと把握している者は意外と
少ないのである。

 さて、大相撲がテレビ実況中継と共に広く日本人の中に浸透してきたのだと
すれば、当然その制約も受けることになる。現在のNHKの大相撲中継は3時
から18時までである。三役クラス、大関横綱の取り組みの時間帯は夕食前に
あたる。今日の日本人の夕食時間はだいぶ遅くなってきたが、昭和30年代は一
家そろって晩ごはんを食べる時間が夕方六時前後であった。相撲中継の終了時
間を六時に据えることによって、仕切り時間はもとより、勝負時間も早くなっ
たように思う。ちなみに昭和3年(一九二八)1月から開始されたラジオ放送
以前には仕切り時間の制限はなかった。幕内力士の仕切り時間が今の4分にな
ったのは昭和25年(一九五〇)9月からである。

・○相撲に八百長はあるのか・

私はNHKのテレビ中継によって大相撲を観戦するようになったが、子供の
頃は土俵上の取り組みを純粋に真剣勝負とみていた。昭和30年(一九五五)前
後の大半の日本人は力道山プロレスでさえ真剣勝負と見て、テレビの前で熱狂
し、死者まで出していたのだから、大相撲の取り組みに八百長があるなどとは
思ってもいなかった。

しかし、ある時、叔父が「プロレスはみんなインチキで、相撲にも八百長
ある」と余りにも平然と口にしたので、半信半疑ながらもショックを受けた。
「どうせ八百長するなら、もう少し分からないようにとればいいのに」といっ
た言葉も脳裏に焼きついた。土俵上の真っ向勝負にも、子供には分からない闇
の世界が潜んでいたのであろうか。

・○八百長問題をどうとらえるか・

 土俵上にガチンコ勝負の白黒だけを見るのか、それとも八百長を含めた複雑
な人間のドラマを見るのか。力士の魅力は相撲の強さにあることは間違いないが、それ以外の要素も無視できない。

江戸時代の勧進相撲では人並みはずれた体格や身長だけで観客を集めた看板
大関がいたことでも分かるように、相撲は勝ち負けだけを争う格闘技ではない。
主催者側からすれば興行を成功させるためにさまざまな工夫や妥協をしなけれ
ばならなかったであろうし、相撲で暮らしをたてなければならない力士にして
みれば、その寿命を延ばすこれまたさまざまな工夫があったことであろう。

真剣勝負とは一度負ければ死を意味する。たとえ今日負けても、明日勝つか
も知れないという試合は、厳密に言えば真剣勝負とは言えない。15日間を戦う
大相撲は、その意味ではきわめて人間臭いドラマを内に抱え込んだ格闘技と言
えよう。

・○相撲の歴史・

相撲は奈良・平安時代には相撲節会(すまいのせちえ)と呼ばれた宮中の年
中行事の一つであり、皇族や貴族によって運営され一般民衆はそれを見ること
はできなかった。鎌倉時代になると相撲は武士たちのあいだで盛んに行われ、
その内容も実戦的なものとなった。室町時代には相撲を職業とする者が現れ、
江戸時代になると大相撲興行の前身となった勧進相撲が行われるようになった。
勧進相撲の本来の目的は神社や寺を建立するための資金調達にあったが、後に
は興行それ自体が目的となった。勧進相撲は江戸の各地で行われていたが、天
保4年(一八三三年)からは回向院に限られた。

・○相撲史上初めての現役力士の逮捕・

平成20年(二〇〇八)2月7日、元時津風親方の山本順一容疑者(57歳)は
序ノ口力士だった斉藤俊さん(当時17歳。しこ名は時太山)が急死した事件で、
愛知県警捜査1課と犬山署に傷害致死容疑で逮捕された。時太山の兄弟子3人
も暴行に加わったとして逮捕された。この事件は平成19年(二〇〇七)6月25
日午後〇時40分頃から死亡当日の26日午前11時半頃にかけて、逮捕された兄弟
子3人が中心となって愛知県犬山市の宿舎裏や稽古場で時太山を金属バッドや
こん棒で烈しく殴打し、外傷性ショック死させたという、相撲界はじまって以
来の不祥事として報道され、各メディアからきびしく糾弾された。

特にテレビ朝日は連日のようにこの事件をとりあげていたが、元時津風親方
が逮捕された翌日の8日の朝の番組「スーパーモーニング」は「総力取材“死
の土俵”・直撃・3人の兄弟子・元親方母が涙の激白・角界激震・理事長は・
目撃者語るバットで壮絶リンチ」を、また昼の番組「スクランブル」は「時津
風元親方を逮捕・悔し涙 故・時太山の母が胸中初告白・兄弟子の壮絶暴行実
態を部屋元力士が激白」を放映した。

時津風親方は新弟子の時太山の額をビール瓶で殴打、兄弟子らに「お前ら
も教えてやれ」とか「鉄砲柱に縛りつけておけ」などと指示、また通常5分程
度とされるぶつかり稽古を30分もさせたことが非難された。この事件によって
犬山署の初動捜査のミス、相撲界の古い閉鎖的なしきたりが改めて問題にされ
た。7日夜、両国の国技館で記者会見した北の湖理事長は「長い歴史の中で、
力士が逮捕される結果となったことは残念でならない」と苦渋の表情を浮かべ
たが、理事長の指導力を疑問視する識者は少なくない。


・○横綱朝青龍の夏巡業さぼり事件・


平成19年(二〇〇七)7月、横綱朝青龍は腰の疲労骨折を理由に夏の巡業に
参加せず、故郷モンゴルに帰っていたが、サッカーに興じる元気はつらつの姿
がお茶の間にテレビ放映され、一挙に糾弾の嵐が吹きまくった。朝青龍は二場
所の出場停止処分を受けた。ふてぶてしくやんちゃな横綱として知られていた
朝青龍ではあったが、この厳しい処分にショックを受け、精神科医からうつ病
寸前の症状と診断され、故郷モンゴルでの治療が許可された。

日本の各テレビ局は朝青龍を追い続け、何日間にもわたってモンゴルでの取
材を放映した。朝青龍の復帰は難しいとの判断や、横綱の品格に欠ける朝青龍
は即刻引退すべきだという強硬意見も出るなか、朝青龍は日本に帰るとすぐに
相撲協会北の湖理事長、横綱審議委員会のメンバーに詫びを入れた。テレ
ビカメラを前にした朝青龍は、精神的ショックからすっかり立ち直り、烈しい
闘士を内に秘めた本来の横綱に戻っていた。

・○土俵に復帰した朝青龍

二場所も土俵にあがらなかった朝青龍が、平成20年(二〇〇八)初場所でど
のような相撲をとるのか、日本中の関心を集めた。朝青龍は引退すべきだと主
張する横綱審議委員がおり、日本人でない横綱の存在を面白く思っていない者
があり、日本に帰化して日本人の女性と結婚した横綱白鵬を応援する者がある。

朝青龍の欠場した二場所の人気はがたおちで観客は集まらず、時太山死亡事
件で相撲部屋に入門する日本の若者はいない。東西2人の横綱をはじめとして、
番付上位陣を占めるのはモンゴル勢やロシア、ブルガリアグルジアの外国人
力士である。いったい日本の国技と言われる伝統的な由緒ある格闘技・大相撲
の未来はどうなってしまうのか。朝青龍が三場所ぶりに土俵にあがって闘うと
いうことは、単なる巡業サボタージュ事件でバッシングを受けたやんちゃな横
綱の禊ぎ相撲という枠を超えた問題を孕んでいた。

朝青龍は2日目、稀勢の里に破れた。相撲識者の間では、朝青龍に勝てるの
稀勢の里しかいないとまで言われていたが、彼の勝利は朝青龍を快く思って
いなかった者たちの溜飲をさげた。二場所も休んだ力士が、本土表で勝ち越せ
るわけがない、日本の大相撲を甘く見るなよ、というわけだ。しかし、朝青龍
は大方の予想を裏切って快進撃を続け、千秋楽まで一敗を守った。片や、飛ぶ
鳥落とす勢いの横綱白鵬もまた一杯で千秋楽を迎えていた。

・○「龍鵬時代」の到来・

「龍鵬」による東西横綱の対決による優勝決定戦は、平成13年(二〇〇一)
夏場所貴乃花武蔵丸以来七年ぶりである。これで日本中がわかないはずは
ない。がっぷり四つに組んだ両横綱の引き合いに観客席はどよめく。白鵬が寄
ると朝青龍は渾身の力をこめて吊り上げる。が、朝青龍白鵬を吊り寄るほど
の力はない。再びがっぷりと四つに組んだ後、白鵬の上手投げが見事に決まっ
た。国技館内は万雷の拍手にどよめいた。

この朝青龍白鵬の対決は大相撲史上にあっても稀なる名勝負として後世に
語り継がれていくことだろう。もし朝青龍白鵬を倒し、三場所ぶりの本場所
で優勝していたら、朝青龍の肉体と精神の底力に恐れを抱く者すら現れたであ
ろう。何しろ朝青龍は故郷モンゴルの地に身を隠すまでの二ヵ月間、連日のよ
うにメディアのバッシングに晒され続けていたのであるから。また同じ横綱
して朝青龍のいない二場所を連続優勝していた白鵬の実力も疑われることにな
っただろうし、それより何より日本人力士の不甲斐なさが改めて指摘されるこ
とにもなったであろう。

してみると、朝青龍が千秋楽で白鵬に堂々と戦い敗北したことは、彼にとっ
て何よりの幸いであったと言える。まさか、この勝負をシナリオ通りの八百長
と見る者はいないであろう。

・○モンゴル人・朝青龍の誇り・

白鵬朝青龍のこの戦いは、日本よりも、むしろ二人の横綱を輩出したモン
ゴルにおいてこそ深い意味を持っていたかもしれない。大相撲は国技というこ
とで横綱の品格を問い、朝青龍の日本への帰化を暗黙のうちに要請している。
しかし朝青龍の言動を見る限り、彼が引退後大相撲協会に残って後進の指導に
当たることはなさそうだし、奔放なやんちゃぶりも一向に直る気配がない。

貴乃花に対する発言(平成14年9月場所11日目、貴乃花に負けた試合の後
「ケガした足に、ガーンと入れればよかった」)や韓国人記者に向けての暴言
(平成15年春巡業中に「キムチ野郎!」)、先輩力士・旭鷲山との確執、先代
高砂親方の葬儀欠席、親方軽視、精神的落ち込み、巡業さぼり事件など、土俵
の内外で物議をかもす事件を起こしながら、朝青龍は強さをアピールすること
で大横綱としての風格を備えはじめている。日本人が日本人としての誇りを持
っているように、朝青龍はまず何よりもモンゴル人としての誇りを持ち、大相
撲の世界で横綱を張っていることを忘れてはならないだろう。

・○国技と興行(外国人力士の存在)・

大相撲は日本の伝統ある国技であるが、同時に興行でもある。人気がなくな
って観客動員数が減り、テレビ放映が中止にでもなれば国技だ品格だなどとき
れいごとばかりを言っていられないことになる。まず誰よりも困るのは相撲興
行で暮らしをたてている力士や親方である。大相撲協会が外人力士に門戸を開
放したのは、そこに国技という純潔主義を脱して興行的な利益を優先する考え
が潜んでいたからであろう。

相撲人気に陰りがさして、日本人の若者は野球やサッカーへと流れていく。
親方衆が部屋存続に危機を感じ、強い新弟子を国外に求める必然性はあった。
高見山(米国ハワイ州マウイ島高砂部屋初土俵昭和39年1月・優勝1回)、
小錦(米国ハワイ州オアフ島高砂部屋初土俵昭和57年7月・優勝3回)、
曙(米国ハワイ州オアフ島東関部屋初土俵昭和63年3月・優勝11回)、武
蔵丸(米国ハワイ州オアフ島武蔵川部屋初土俵平成元年9月・優勝12回)
といった大型外人力士たちは、慣れない日本に来て、それも古いしきたりが支
配する相撲部屋での修行に耐えて関脇、大関横綱へとのぼり詰めた。彼ら外
人力士の存在がなければ今日の大相撲人気が保てたかどうかすこぶる怪しい。

・○外国出身の力士・高見山の功績・

高見山は二〇〇キロを超える巨体で相手をぶちかます破壊力で恐れられたが、
「史上最高のショーマン」とも言われるほどのサービス精神旺盛な力士でもあ
った。高見山(本名ジェシー)は日本に帰化して渡辺大五郎と改名、引退後は
年寄東関を襲名して曙を横綱にまで育て上げた。派手な仕種で人気の高い高見
盛も彼の弟子である。

しかしハワイ出身で後進の指導に情熱を注いでいるのは彼だけと言ってもい
い。引退後の大関小錦は相撲界を去って芸能界に進出、元横綱・曙はKー1や
プロレスに参加して格闘家として身をたてている。現在ではハワイ出身の現役
力士は一人もいなくなった。

高見山は外人力士で初めて天皇賜杯を獲得した(昭和47年(一九七二)名古
屋場所)。これは大相撲史上画期的な出来事で、日本伝統のしきたりや純潔を
尊ぶ相撲ファンや識者を困惑させた。しかし高見山の人懐っこい人柄や、日本
の慣習に馴染もうとする努力などが幸いしてか、表向き彼個人に対する非難や
中傷はなかった。彼が曙の育成に成功したのも、日本人・渡辺大五郎となって
大相撲発展のために尽力したからに他ならない。しかし別の見方をすれば、ハ
ワイ出身の巨魁・曙が横綱になる道を開いたのは、誰よりも差別発言で協会の
顰縮を買った小錦であったかもしれない。

・○小錦の脅威・

私はぐうぜん、さる居酒屋で千代の富士小錦の対戦を見たことがある。昭
和59年(一九八四)9月場所14日目の取り組みである。当時、小錦はまだ入幕
二場所目であったが、その大きな丸いからだはまるで鉄のかたまりのようだっ
た。千代の富士は日本人力士の中でも小さい方だが、その鍛えられた筋肉質の
からだは鋼鉄のように輝いている。すでに千代の富士は優勝9回を重ねる、押
しも押されもしない堂々たる横綱で、まさか入幕早々の新人力士など軽くあし
らうであろうと思っていた。いよいよ時間いっぱい、小錦は何の遠慮もなく横
綱に向かって突進、そしてあっと言うまもなく相手を土俵の外へと押し出して
いた。千代の富士はまるで子供のように小錦の強烈な突き押しに宙を飛んでい
た。

酒場では大きな絶望のため息がおこった。巨大な黒船の砲弾に千代の富士
まるで小舟のように吹き飛ばされてしまった。小錦恐るべし! この対決を見
た観客の大多数は小錦の力、その天性的とも言える怪力を無条件に認め、そし
て同時に外人力士の進出を恐れたのではなかろうか。この場所、小錦は12勝3
敗で優勝こそ逃したものの殊勲賞と敢闘賞を獲得し、マスコミは「黒船来航」
小錦旋風」とはやしたてた。

千代の富士を土俵外に吹っ飛ばした小錦を認めることは、日本人による日本
の伝統的な大相撲の破壊を許すことになるのではないか。というわけで、日本
人の大半は小錦排斥の心情に傾いたことを否定しきれないであろう。建前では
土俵上の勝負にいっさいの八百長を認めず、力士は全力をつくして闘わなけれ
ばいけない、などと言いながら、いきなり突拍子もなく強い外人力士が登場す
ると、相撲は喧嘩ではない、勝ち負けだけがすべてではない、日本の伝統文化
を理解していないなどとクレームをつけ、あらゆるメディアを使ってバッシン
グになだれ込んでいく。日本のメディア、特にテレビはあさましいほど同じ論
調で糾弾と賛美を繰り返している。

小錦は昭和62年(一九八七)5月場所後、外人力士として最初の大関になっ
た。平成元年(一九八九)11月場所は14勝1敗で念願の初優勝を飾った。高見
山に続く外人力士二人目の快挙である。平成3年(一九九一)11月場所は13勝
2敗で二度目の優勝。平成4年(一九九二)1月場所は12勝3敗、同年3月場
所は13勝2敗で三度目の優勝をはたしている。

優勝3回の実力を持った大関小錦は文句無く横綱に推挙されてしかるべきで
あったが、どういうわけかついに昇進かなわなかった。横綱昇進の条件は優勝
連続2回、あるいはそれに準ずる成績をおさめることである。当然、横綱にふ
さわしい人格も問われたのだろうが、それ以上に外人力士を横綱にすることの
躊躇が大相撲協会にも日本人全体にもあったのだろうと思う。要するに、横綱
になるには外国人力士・小錦の登場は時期尚早だったのである。

しかし、「相撲は喧嘩だ」や「人種差別」発言問題などでバッシングを受け
た〈悪役〉小錦の存在があったからこそ、曙は言動に配慮し、日本人の心証を
害さない〈善玉〉力士として白星を重ね、念願の横綱になることができたとも
言えよう。

・○モンゴル勢の台頭・

ハワイ勢の力士は武蔵丸(最終場所は平成15年11月場所)を最後にその雄姿
を消したが、今やモンゴル勢のいきおいはとどまるところを知らない。最初の
モンゴル出身の力士は旭鷲山(平成4年初土俵、平成18年11月場所で引退)で、
スカウトしたのは大島親方(元大関旭国)である。

旭鷲山は一度部屋を逃げだしたが、モンゴルにまで出向いた親方に説得され
て部屋に戻り、稽古に励んで小結にまで昇進した。モンゴル初の三役力士とな
った旭鷲山は「技のモンゴルデパート支店」と言われるほど多彩な技をくりだ
して一躍人気力士となり、モンゴルでは国民的英雄として尊敬されている。

旭鷲山の成功なくして朝青龍の登場もなかったと言えるが、朝青龍旭鷲山
を先輩とも思わぬ傍若無人な振る舞いで、一時、二人の間は険悪であった。旭
鷲山は引退後、モンゴルで実業家として活躍している。朝青龍も引退後はモン
ゴルに帰国して実業家および政界への進出を図っていると見られている。朝青
龍がしばしば帰国するのは現在手掛けている事業のためとも噂されており、こ
のこともまた現役力士にあるまじきこととしてバッシングの恰好の材料となっ
ている。

旭鷲山にしろ朝青龍にしろ、日本に帰化して大相撲発展のために尽くすとい
う考えがないのは、モンゴル民族とモンゴル相撲に対する誇りが強いからであ
ろう。13世紀、モンゴル族のチンギス・ハンは諸部族を統一してモンゴル帝国
の支配者となった。彼の子孫は東アジアやヨーロッパに進出し、13紀の半ばに
ユーラシア大陸の東西を支配する空前の大帝国をつくりあげた。フビライ
ハンは二度にわたって日本に遠征軍を送った。一二七四年の文永の役と一二八
一年の弘安の役であるが、日本は神風の襲来によって二度の危機を脱している。
朝青龍はチンギス・ハンを生んだモンゴル民族の伝統と誇りを受け継いだ力士
であり、日本人が大相撲の横綱に求めている品格とは違ったものを目指してい
る力士なのである。

・○モンゴル相撲(ボフ)の伝統・

モンゴル相撲の起源は古く、その伝統は日本の大相撲に引けをとらない。と
いうよりは大相撲の源流を辿っていけばそこにモンゴル相撲(ボフ)の姿が見
えてくる。モンゴル相撲のルールは、日本の相撲とは違ってヒジ、ヒザ、尻が
地面につくと負けになる。ボフの力士(フチテ)たちは試合の前にゆっくりと
歩みながら両手を大きく広げひらひらさせる。これは「鷹の舞い」と呼ばれて
いる。青空のもと、地平線に囲まれた壮大な草原で繰り広げられるモンゴル相
撲の力士たちにとって、猛禽類の王者である鷹はまさに最強の象徴である。

モンゴル相撲の最高の称号はアヴァルガ(巨人)で、これは大相撲の横綱
当たる。モンゴル相撲に土俵はないので、巨体力士に優位とされる押し出し、
突き出し、吊り出しなどの技はない。日本の相撲、特に現代の相撲はその勝負
時間が短く、ほとんど5秒以内に決着がついてしまう。土俵の外に出されると
負けになるというルールが確立されたことによって、体重の軽い小兵の力士よ
りは小錦、曙、武蔵丸といった巨体の力士が有利となる。

とうぜん日本の力士たちも大型化を目指す。その結果、肥満体の力士が多く
なり、相撲内容が単純化して面白みがなくなった。ところがボフの歴史と伝統
を持つモンゴル出身の力士たちは粘り強い持久力と俊発力を備えている。朝青
龍や白鵬の強さはボフの歴史と伝統を継いだ者の強さでもあることを忘れては
ならないだろう。

白鵬の父親ジグジドゥ・ムンフバトは一九六三、四年の国家ナーダム(年に
一度開催されるモンゴル民族の祭典)で連続優勝した力士で、一九六八年のメ
キシコ五輪ではレスリングで銀メダルを獲得した国家的英雄である。彼は大相
撲に例えると大鵬クラスのアヴァルガと言われている。朝青龍の長兄ドルゴル
スレン・スミヤバザルもまた一九九八、九年の国家ナーダムで連続準優勝、二
〇〇六年には優勝してアヴァルガの称号を授与されている。

平成の大相撲を担う両横綱の父親と兄がモンゴル相撲のアヴァルガとして民
族の尊敬を一身に集めている存在であることを日本の相撲ファンは忘れてはな
らない。数々のスキャンダルで横綱の品格を問われている朝青龍もまた、15歳
でモンゴル相撲を始め、ナーダムの少年部門で優勝の経験をしている。朝青龍
は紀元前3世紀頃から続くと言われるモンゴル相撲の伝統を背負って日本に相
撲留学し、その頂点に立っているのである。

平成20年(二〇〇八)1月場所千秋楽の朝青龍白鵬の優勝決定戦は、モン
ゴル相撲が実力において日本の相撲を凌駕してしまった一つの揺るがすことの
できない歴史的な証ともなっている。

・○横綱の品格・

平成19年(二〇〇七)ほど朝青龍のことで〈横綱の品格〉が問われたことは
なかったが、はたして日本人の何人が〈品格〉を問える立場にあったろうか。
年金問題や安倍首相の突然の引退劇で日本の国家(政治家や役人)に〈品格〉
がないことはもはや誰の目にも明らかである。こと大相撲の歴代の横綱に限っ
ても、双葉山は別格として横綱の品格に相応しい人物を見いだすのは困難であ
る。

平成に大相撲の一大フィーバーを巻き起こした若貴兄弟をめぐるスキャンダ
ルを振り返ってみようではないか。平成7年(一九九五)11月場所千秋楽の若
貴兄弟対決は多くのファンの注目を集めたが、相撲内容は誰の目にも貴乃花
本来の力が入っているようには見えなかった。貴乃花は引退後テレビ番組に出
演して漫画家やくみつるの質問に答え、この試合が後の兄弟確執のもとになっ
ていることを認める発言をしている。

兄・若乃花八百長疑惑に平成10年(一九九八)5月場所千秋楽の対武蔵丸
戦がある。これに勝てば二場所連続優勝で若乃花横綱昇進が確定という大事
な一番、武蔵丸無気力相撲が疑惑を生んだ。ガチンコ力士として実力を評価
されていた若貴兄弟にも昇進に絡む疑惑が生じたことで、心あるファンには衝
撃が走った。日本の伝統文化を誇る大相撲のうちに潜む闇の領域の深さを改め
て考えさせられた一番であった。

・○スキャンダルまみれの若貴兄弟・

 若貴兄弟は相撲の外でも様々なメディアの注目の的であった。父は名大関
讃えられた貴ノ花で、初代若乃花(第45代横綱で後に大相撲協会理事長)の弟
である。貴ノ花は引退後は年寄(鳴戸→藤島→二子山)となって後進の指導に
当たった。昭和63年(一九八八)、若貴兄弟はそろって父親の藤島部屋に入門、
この時から父親は親方、母親憲子はおかみさんとなった。テレビは二人の入門
時の様子をくわしく伝えた。

 平成4年(一九九二)11月、貴乃花は国民的人気を博していた女優宮沢りえ
との婚約を電撃発表、2人そろってテレビカメラの前で喜びの記者会見に応じ
たが、3ヵ月後には婚約を解消した。りえママと憲子の確執など様々な憶測が
飛んだ。平成7年(一九九五)初場所横綱に昇進した貴乃花は同年5月に元
フジテレビ局の人気女子アナであった河野景子と結婚したが、すでに景子夫人
は懐妊していた。

兄・若乃花は平成6年(一九九四)に日本航空スチュアーデスの栗尾美恵子
と結婚し、四年後に横綱に昇進、史上初の兄弟横綱誕生に日本中が沸いた。が、
私生活では女性問題がつきず、ついに平成19年(二〇〇七)10月に夫人と離婚
した。元夫人にも不倫問題が発覚、バラエティ番組専属の芸能レポーターたち
の恰好の餌食となった。

若貴兄弟の確執は兄弟対決の無気力相撲からはじまり、それはやがて父親
(二子山親方)と貴乃花、親方と憲子夫人の確執へと発展、その後親方夫妻は
離婚、親方と憲子夫人双方に愛人の存在が発覚したりと泥沼の様相を帯びた。
親方の死後は部屋相続をめぐって若貴兄弟の確執はより深まり、一言も言葉を
交わさない2人の仏頂面がテレビを通して全国に放映された。

若貴兄弟の伯父にあたる初代若乃花は現役時代は土俵の鬼と言われ、栃錦
共に相撲人気を支えた立役者であった。引退後は春日野理事長(元横綱・栃
錦)の後を受け、協会の理事長として相撲界の発展に務めた功労者であるが、
平成19年(二〇〇七)に韓国妻の息子・花田河成(韓国名・朴祐賛=パク・ウ
チャン)に『花田家の隠し子』(主婦と生活社)を出版され、私生活でのスキ
ャンダルが暴かれた。

昭和における「栃若時代」、名大関貴ノ花の活躍、平成の若貴・兄弟横綱
出現など、日本中を沸かせた大相撲の名門・花田家は土俵の内外で数々の醜聞
にまみれた。

・○引退後の横綱の身の振り方・

横綱の品格〉を云々するのであれば、現役横綱ばかりではなく、引退後の
横綱の身の処し方も見直す必要があろう。引退後、丸い土俵から四角いリング
の上で生活の道を切り開こうとした横綱は意外と多い。

東富士は昭和24年(一九四九)1月に新横綱の土俵を踏み、戦後の混乱期に
全盛期を送ったが、引退後はプロレスラーに転向している。日本プロレスの王
者・力道山は現役力士時代に東富士と7回対戦し2回しか勝てなかった。

学生相撲出身の横綱(第54代)として名をはせた輪島(初土俵は昭和45年1
月場所、最終場所は昭和56年3月場所)は引退後、花籠部屋の親方として後進
の指導に当たっていたが、年寄株を借金の担保にしていたことが問題となり、
角界を去った。昭和61年(一九八六)にジャイアント馬場全日本プロレス
入門し、タイガー・ジェット・シンなどと対戦、一躍人気者となったが2年ほ
どで引退している。

北尾光司(第60代横綱双羽黒)は昭和62年(一九八七)12月に師匠の立浪
親方とのいさかいから部屋を出て廃業、その後スポーツ冒険家の肩書で活動し
ていたが、平成2年(一九九〇)2月10日の東京ドーム大会で新日本プロレス
からプロレスラーとしてデビューする。が、まもなくしてマッチメイカーの長
州力と対立して契約を解除され、天龍が創設したSWSへ参戦するも、ジョン
・テンタ(元幕下・琴天山)を「この八百長野郎」と罵倒するなどプロレスフ
ァンからも顰縮を買った。SWSを解雇された後、平成4年(一九九二)に総
合格闘家としてリングに登場したが、高田延彦との試合ではKO負けを喫して
いる。平成9年(一九九七)に引退を表明、平成15年(二〇〇三)の9月には
古巣の立浪部屋に戻りフリーのアドバイザーに就任している。

外国人力士初の横綱・曙(第64代)は11回の幕内優勝を飾って、若貴兄弟と
並ぶ相撲人気の立役者であった。平成13年(二〇〇一)に引退した後、曙親方
として東関部屋で後進の指導に当たっていたが、平成15年(二〇〇三)11月に
日本相撲協会を退職、同年12月31日に格闘技K−1に参戦、すでにテレビで異
常な人気者となっていたポブ・サップと対決し、1ラウンドKO負けを喫した。
以後、K−1で8回対戦したが角田信朗に一勝しただけのぶざまな戦績に終わ
っている。テレビで観戦した日本人の多くが元横綱の不甲斐なさに呆然とする
結果となった。曙は総合格闘技戦に4回出場し、全敗した後、プロレスラーに
転向し現在に至っている。

・○力士の給料・

大相撲は日本の伝統文化であるが、興行でもある。現役力士たちは相撲をと
ることで生活をしていかなければならない。現在、十両以上の関取には給料が
支給されているが、序の口、序二段、三段目、幕下力士に給料はなく、本場所
ごとに交通費、場所手当て、奨励金が支給される。元時津風部屋の親方が時太
山の逃亡を許さなかった理由の一つに弟子手当の支給を指摘する解説者もいる。
親方は強い力士を育てるために弟子を入門させるわけだが、部屋の経営のため
に弟子を確保する必要性にもせまられている。

土俵上で全力を出すことを要請されている力士たちは思わぬ怪我や病気に襲
われる確率が高い。致命的な怪我によって現役を引退せざるを得なかった力士
も多い。十両にまであがって関取になる力士の数もかぎられており、ましてや
大関横綱へと昇進して一世を風靡する者などごく稀である。途中で廃業して
別の職業につかなければならない者の方が圧倒的に多いし、関取になっても現
役で土俵にあがれる年数は短い。要するに相撲取りは現役を引退してからの人
生の方が長いのである。

・○力士の第二の人生(勝負師からショーマンへ)・

外国人力士で引退後、部屋の親方となったのは高見山(東関親方)だけであ
る。大関になった小錦KONISHIKI と名前を変えてタレントに、横綱にまでな
った曙はプロレスに第二の人生を見いだすほかなかったということは、大相撲
がはたして本当に外国人力士に後進の指導者としての役割を求めているのか疑
問視されるところである。

引退後、親方として大相撲協会に所属し生活を保証される者はごく限られて
おり、大半の力士は他の職業につかなければならない。力道山、東富士、天龍、
輪島、北尾、曙といった現役時代に実力を思う存分発揮した力士たちが、引退
後プロレスラーとして四角いリングで活躍できるのはどうしてなのだろうか。
力道山天竜のように現役力士として上り坂の者が心ならずも廃業してプロレ
スに転向した場合と違って、輪島や曙は力士としては燃焼した末に引退したは
ずである。力士としては闘えないが、プロレスラーとしては十分に闘えるとい
うのであれば、とうぜん〈戦い〉の中身が違うことになる。

今やプロレスがショーであり、試合内容の段取りすら決められているという
ことは、少なくともプロレスファンの間では常識となっている。しかし力道山
シャープ兄弟の試合に熱狂した当時の観客で、それが予め仕組まれたもので
あることを知っていた者はごく少なかったし、知っていてすら力道山の空手チ
ョップに熱狂したのである。黒人レスラーで頭突きを得意としたボボ・ブラジ
ル、噛みつきのフレッド・ブラッシー、四の字固めを必殺わざとしたデストロ
イヤーVS力道山の試合を、日本人の大半はショーというよりはやはり四角いリ
ング上の真剣勝負として手に汗を握って観戦したのである。

新日本プロレスで長年レフリーを務めたミスター高橋の『流血の魔術 最強
の演技・・すべてのプロレスはショーである』(二〇〇一年。講談社)によっ
て、プロレスはすべてやらせであることが暴露された。プロレスはシナリオの
あるリング上の肉体演技、格闘技を装ったショーとなれば、もはや力道山時代
のプロレス人気を獲得することはできないように思える。リング上の勝負に込
める観客の熱く暗い情念は消えて、その代わりにリングショーを楽しもうとす
る、娯楽的余裕が生まれてくる。

尤も、人間は文学、映画、演劇など、すべて予め筋書きの決まっている作品
に感動することができる。今再び力道山のようなカリスマ性を帯びた大スター
が登場すれば、筋書きのあるプロレスといえども、〈真剣勝負〉とはちがった
ものとして、観客の心を掴むことは大いにあり得るだろう。

しかしプロレスがショーであることを認める多くの日本人が、はたして相撲
八百長を認めるであろうか。週刊誌が大々的に大相撲の八百長を糾弾して部
数をのばすことができるのは、日本人の大半が八百長を認めていないことの一
つの証となっているのではなかろうか。

・○朝青龍の魅力・
再び朝青龍の問題について考えてみよう。朝青龍は土俵外での常軌を逸した
言動・蛮行のみによってバッシングされているのではない。彼の土俵上での試
合内容もまた品格に欠けるものとして糾弾の的になっている。平成15年(二〇
〇三)5月場所10日目の旭鷲山との対戦では、負けの判定に腹をたて、土俵を
指さして抗議したが、それだけではおさまらずさがりを振り回して旭鷲山にぶ
つける暴挙にでている。

平成19年(二〇〇七)3月場所8日目の稀勢の里との対戦では、土俵に倒れ
た相手に向かって膝を落としている。モンゴルの先輩力士で、モンゴル出身者
に大相撲への道を開いた先達・旭鷲山に対する礼を失した無遠慮な言動や、格
下の力士に対する容赦のないエキサイティングで危険な行為に対して、日本の
相撲ファンは厳しく弾劾した。

しかし、問題はこれほど土俵の内外でスキャンダルを巻き起こす朝青龍が、
なぜ依然として人気を保っているのかである。答えは一つ、彼の喧嘩丸出しの
ような激しい相撲の取り口にある。もし朝青龍が弱い力士だったら誰も相手に
しないだろう。「週間現代」が朝青龍八百長疑惑を報道したこともあったが、
彼は土俵上で際立った強さを発揮することでそれらのスキャンダルをことごと
くねじ伏せてきた。日本の相撲ファン朝青龍をバッシングしながら、しかし
同時に圧倒的な強さを見せつける横綱朝青龍の魅力に酔ってもいるのである。

仮病サッカー疑惑でメディアの総攻撃をくらい、相撲協会から二場所出場停
止処分を受け、沈鬱の表情でモンゴルへ帰国した朝青龍が不死鳥のように復活
することをいったい誰が予想しえたであろうか。地方巡業地での相撲ファン
大方は朝青龍を好意的に受け入れていたし、平成20年(二〇〇八)1月場所で
の千秋楽優勝決定戦の大相撲は、相撲ファンのみならず日本人の多くの心を魅
了してしまったとも言える。

日本人はイエス、ノーをはっきりと表明しない、すべてに対してあいまいな
対応をする民族であるが、同時に白黒をはっきりさせたいという欲望にも支配
されている。この後者の欲望が、土俵上で勝ち負けをはっきりさせる相撲の人
気を長続きさせているのではないかと思う。モンゴルやロシア出身の力士が大
活躍する現在の大相撲が、再び鎖国して日本人力士だけで上品な相撲を取るわ
けにもいかないだろう。

・○相撲の変遷・

相撲の内容や意味は時代と共に変わっている。五穀豊穣を願った儀式的な意
味を担っていた時代(縄文時代晩期から弥生時代にかけて)、宮中に取り入れ
られ諸社神前において相撲を奉納した神事相撲の時代(7世紀に始まり現在で
も全国各地の神社で行われている)、節会相撲の時代(8世紀末から12世紀末
まで。節会とは重要な公事のある日に天皇が諸臣を集めて行う宴会で、相撲節
会は重要な儀式の一つとなった。土俵と行司は存在しない。はじめは豊作祈願
の年占、ついで宮廷守護の兵士の育成から後に娯楽的な儀式へと変遷した)、
武家相撲の時代(鎌倉幕府は相撲奉行を置き、戦場での実戦的な組打ちの鍛練
になるとして相撲を奨励した)、勧進相撲の時代(室町時代末期に相撲を職業
とする者が現れ、江戸時代に盛んになった。はじめは神社仏閣の建造資金調達
のために見物人から金を集めたが、後に営利的な興行となった)、そして現在
の相撲を国技とする大相撲時代が到来する。

・○相撲の起源神話・

日本の相撲の起源を伝える文献としては必ず『日本書記』がとりあげられる。
垂仁天皇7年7月の条に「当麻蹶速(たぎまのくゑはや)と野見宿禰(のみの
すくね)と角力(すまひと)らしむ。二人は相対(あひむか)ひて立つ。各
(おのおの)足を挙げて相蹶(あひふ)む。即ち当麻蹶速が脇骨(かたはらほ
ね)を蹶(ふ)み折(さ)く。亦其(またそ)の腰を踏み折(くじ)きて殺し
つ」とある。

これを歴史的事実と見るか神話伝説と見るかについては諸説あるが、いずれ
にしてもここに書かれた当麻蹶速野見宿禰の戦いが壮絶を究めたものであっ
たことに間違いはない。宿禰は相手の脇骨を蹴り折り、さらに腰を踏み砕いて
殺している。現代の相撲のように相手を土俵の外に出すなり、土俵内に倒せば
勝敗がつくなどというなまやさしいものではない。

もし、この神話に相撲の起源を求めるのであれば、朝青龍がすでに勝敗のつ
いた稀勢の里に膝を落としたことなど、取るに足りない戯れごとということに
なる。言い方を変えれば、朝青龍の激しい、スピード感あふれる、ルールを逸
しかねない取り口こそが、野見宿禰の凄まじい相撲を今日に伝えているという
ことにもなるのである。

現代人の多くは大相撲に真剣勝負を求めているが、本来真剣勝負は負けたら
死ぬか致命傷を負って再起は不可能である。勝負師は勝ちつづけることによっ
て生き延びるが、一度負けたら死ぬのである。15日間を勝ったり負けたりの真
剣勝負などは本来あり得ないということを知らなければならない(興行日数は
大正12年から11日、昭和12年から13日、同14年から現在の15日となった)。つ
まり職業力士たちは相手に致命傷を与えない程度の〈真剣勝負〉を取らなけれ
ばならない。ここに八百長疑惑やスキャンダルがまとわりつく最大の要因があ
る。

・○国技館の建設(大相撲の近代化)・

勧進相撲の時代においては有能な力士たちは大名のお抱えとして生活が保証
されていたが、明治四年の廃藩置県によって大名は壊滅し、力士たちは生活基
盤を自分たちの手で作らなければならなくなった。明治22年(一八八九)に高
砂浦五郎が相撲改革にたちあがり、それまでの相撲会所を東京大角力協会と改
め組織を整備した。明治42年(一九〇九)には両国回向院境内に国技館を建設
した。これによって相撲は天候の影響を受けず、決まった期日に多くの観客
(従来の二千人位から一万六千人に増員)を動員することが可能となった。
国技館は大正6年(一九一七)の火事で全焼、再建された国技館大正12年
(一九二三)9月の関東大震災で壊滅し、協会は存亡の危機にさらされ、力士
たちの生活は脅かされることになった。大正14年(一九二五)に東京大角力
会は天皇賜杯を作製、大阪の相撲団体を吸収合併して財団法人大日本相撲協会
を設立した。

相撲協会は昭和2年(一九二七)にそれまで年2場所の興行に関西本場所
(春秋2回)を加えて4場所に増やし、同3年にはラジオの実況中継を開始し
た。それに伴い土俵の仕切り線を設けたり、幕内の仕切り制限時間を10分にす
るなどの諸改革を断行して大相撲の近代化を促進した。

昭和7年(一九三二)に入幕した双葉山は昭和20年(一九四五)11月場所で
引退するまで絶大な人気を誇り、前人未踏の69連勝を達成した大横綱で「双葉
の前に双葉なく、双葉の後に双葉なし」と言われた。昭和20年3月10日、国技
館はアメリカ軍の空襲によって被災、同年10月進駐軍に接収された。昭和25年
(一九五〇)に浅草蔵前に国技館を仮設した協会は、横綱審議委員会を設置し
た。

昭和27年(一九五二)9月に土俵の四本柱を撤廃して、吊り屋根の四隅から
四色(赤、青、白、黒)の房が吊るされた。黒は冬・玄武神、青は春・青竜神、
赤は夏・朱雀神、白は安岐・白虎神を意味している。この土俵上の改革は、翌
28年(一九五三)2月から開始されたNHKによる相撲実況中継と多いに関係
がある。四柱の撤廃によって観客と視聴者は相撲の取り口を何の妨げもなく見
られるようになった。街頭テレビが設置され、敗戦によって精神的にうちひし
がれていた国民は力道山プロレスに熱狂し、近代相撲を確立したという「栃若
時代」(昭和20年末から昭和35年)の到来に歓喜し、勇気をもらった。

昭和32年、協会は積極的に改革に踏みだし力士の給与を月給制に、相撲茶屋
を相撲サービス会社に、力士教育のための相撲教習所を設置した。場所数も6
場所、日数も15日間と定め現在に続いている。翌33年に協会は財団法人日本相
撲協会と改名した。昭和36年(一九六一)には年寄の定年制を実施、昭和43年
(一九六八)には役員選挙を導入した。昭和60年(一九八五)には両国に近代
的設備を誇る新国技館が完成した。

昭和の大相撲は柏戸大鵬の「柏鵬時代」、輪島と北の湖の「輪湖時代」を
経て、名大関と絶賛された貴ノ花(初代若乃花実弟)、優勝回数31回を誇り
国民栄誉賞を受賞した千代の富士小錦・曙・武蔵丸といったハワイ出身の大
型力士などを輩出、平成に入ると貴ノ花(年寄名は鳴門→藤島→二子山)の2
人の息子が横綱となり、「若貴兄弟」は相撲人気を超えて国民的ヒーローとな
った。そして今日の大相撲はモンゴル出身の両横綱の活躍によって、若貴兄弟
に続く平成第二期の隆盛ぶりを見せはじめている。

・○外国人力士の大躍進・

「平成二十年度大相撲力士年鑑」(ベースボール・マガジン社)によれば番
付記載力士712 人のうち外国出身の力士は60人、モンゴル出身者は33人を占め
ている。ロシアと中国は6人、グルジアとブラジルは3人、韓国とトンガは2
人となっている。その他、カザフスタンエストニアチェコハンガリー
ブルガリア出身の力士が1人ずついる。まさに外国人力士の数から言っても大
相撲の国際化は誰の目にも明らかである。

問題は外国人力士が上位を占めている現実である。幕頭以上に限ってみると
モンゴルは横綱朝青龍白鵬、関脇の朝赤龍、小結の安馬、前頭の鶴竜・時
天空・旭天鵬ブルガリア大関琴欧州、ロシアは前頭の露鵬白露山・若
ノ鵬、その他グルジア黒海エストニア把瑠都がいる。

注目すべきは吊り屋根の四隅から下がっている房の四色のうち、すでに白・
青・赤の三色がモンゴル勢のしこ名(白鵬朝青龍朝赤龍)によって占めら
れていることである。残りの黒もグルジア黒海がしこ名としている。四季節
と四神を象徴すると言われる四色を外国人力士に独占されている現状を考える
と、日本人力士の今後の奮闘を願わずにはおれない。

・○大相撲の国際化・

外国人力士の初土俵を見てみよう。ハワイ勢では昭和39年(一九六四)に高
見山、昭和57年(一九八二)に小錦、昭和63年(一九八八)に曙、平成元年
(一九八九)に武蔵丸が、モンゴル勢では平成4年(一九九二)に旭鷲山、平
成11年(一九九九)に朝青龍、平成13年(二〇〇一)に白鵬安馬鶴竜、平
成14年(二〇〇二)に時天空がそれぞれ初土俵を踏んでいる。その他の国では
平成13年(二〇〇一)に琴欧州ブルガリア)、露鵬(ロシア)、白露山(ロ
シア)、平成16年(二〇〇四)に把瑠都エストニア)などが初土俵を踏み、
いずれも上位にくいこんでいる。外国出身の力士の活躍はもはや誰もが認める
ところである。

大相撲の海外公演は昭和40年7月にモスクワにおいて第1回公演を実施して
以降、北京、メキシコ、ニューヨーク、パリ、サンパウロ、ロンドン、ウィー
ン、メルボルンバンクーバー、ソウル、北京、ラスベガスなどで公演し、大
成功を収めている。また日本相撲協会は昭和37年(一九六二)からハワイを中
心とした海外巡業を押し進め(平成19年現在で12回を数える)、平成20年8月
にはモンゴル巡業を予定している。朝青龍白鵬二人の現役横綱を輩出したモ
ンゴルの地(ウランバートル)での巡業は、今までにない大フィーバーを巻き
起こすことであろう。

日本の相撲が広く世界の人々に愛し理解されるためにも、海外公演や巡業は、
外国人力士の活躍と相まって重要な役割を果たしている。日本人力士の奮起を
願うと共に、小さな土俵の内外で交わされる異文化交流の意義も改めて考えな
ければならないだろう。もはや大相撲は日本人だけのものではなく、様々な民
族の文化と伝統が混じり合う、世界に開かれた国際的な格闘技となっている。
そこにまた大相撲の未来に向けての発展があり、新たな魅力が生まれてくるに
違いない。

朝青龍の引退について

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平成の大横綱朝青龍がマスコミのバッシングによって引退に追い込まれた。日本相撲協会はマスコミに迎合するかたちで自分たちの宝である朝青龍を手放してしまった。

朝青龍が衰退化した日本の相撲界に果たした偉大な功績はどんなに評価してもしきれない。おそらく今後、朝青龍の評価は高まっても落ちることはない。

横綱の品格などというきれいごとをばかの一つ覚えのごとく口にして、朝青龍を引退に追い詰めたテレビ報道番組の司会者や解説者の責任は重いが、彼らは自分たちの正義とやらを少しは疑ってみたらいい。

朝青龍のいなくなった相撲はますます迫力と面白みに欠け、多くのファンが離れていくだろう。テレビ関係者の報道を観ていると、朝青龍ファンの声がほとんどまったく無視されている。

節操のない報道を垂れ流し、朝青龍を引退に追い込んだ者たちが、今度は朝青龍の擁護に回る可能性がある。日本のマスコミの節操のなさ、変わり身の速さはあきれるばかりだ。

モンゴルの地から日本へ来て、さまざまな苦労を克服して横綱になった朝青龍、この天才力士を、多くの凡人がきれいごとを並べて引きずりおろしたようなものだ。

バッシングする連中になにより欠けているのは平成の大横綱に対する尊敬と愛である。大横綱朝青龍はこじんまりとした日本式良識や縛りなどを超えた逸材であった。

笑ってしまうのは、マンガ家や物書きまでが、いわゆる体制側に寄り添ったキレイゴトをテレビ番組で何の恥じらいもなく口にしていたことだ。