日芸図書館企画・清水正監修『日本のマンガ家゜畑中純』が刊行

清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。


清水正が薦める動画「ドストエフスキー罪と罰』における死と復活のドラマ」
https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk

これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。


京都造形芸術大学マンガ学科特別講義(2012年6月24日公開)
ドラえもん」とつげ義春の「チーコ」を講義

日芸図書館企画・清水正監修『日本のマンガ家 畑中純』が刊行されました。
わたしが図書館長に任命されたのが平成22年12月1日、それから五年十か月経過、今年の9月24日退任することになった。日本のマンガ家シリーズも今回の畑中純によって幕を下ろすことになった。日芸ライブラリー三冊、日本のマンガ家五冊、林芙美子研究雑誌二冊、日芸図書館案内では日野日出志つげ義春林芙美子の特集を組んだ。


表紙デザインは森嶋則子さん。

採用できなかった表紙デザインを紹介します。

松原寛との運命的な邂逅ーー日大芸術学部創設者・松原寛の生活と哲学を巡る実存的検証ーー

清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。

清水正監修『日藝ライブラリー』3号 特集「日大芸術学部創設者 松原寛」(日藝図書館刊行 2016年7月7日)が刊行された。


『日藝ライブラリー』3号に掲載した批評の最初の部分を何回かにわたって再録する。

平成27年1月15日(金)
松原寛との運命的な邂逅ーー日大芸術学部創設者・松原寛の生活と哲学を巡る実存的検証ーー

清水正日大芸術学部図書館長・日大芸術学部文芸学科教授)

江古田での神秘体験

わたしが江古田の地に初めて降り立ったのは、昭和四十三年三月一日であった。一年間の浪人中、受験勉強はそこそこに、ひたすらドストエフスキーの『罪と罰』を読んでいた。失恋の痛手もあって体重は四十三キロにまで落ちていた。よく生きていたという状態で、わたしが最後に選んだ大学が日芸の文芸学科であった。三月に入って受験できる大学と言えば日芸くらいしかなかったのかもしれない。どうしても日芸を目指すなどという志とは無縁であったが、運命がわたしを江古田へと向かわせたことは確信できる。
 江古田駅南口の階段を降りてすぐ、日芸校舎に向かう途中で突然背中がゾッとした。何か霊的なものにつかまれた感じで、わたしはその感覚を忘れたことがない。場所も明確に覚えている。江古田駅を降りるたびに、わたしはいつもその奇妙な、神秘的な感覚を思い出していた。
 入学してすぐに大学紛争が勃発したので、まともな授業は各講座一回位だったので、その授業内容も明確に記憶している。特に印象に残っているのは千何百人かがぎっしり詰まった大講堂での一般教養科目の授業、見事にだれ一人として聞いていない。雑談、週刊誌を読むものばかり、老教授の講義を聞いていたのはわたし一人だったのではないかと思うほど、質の低い授業であった。講義はノートをただ読むだけの形式的なもので、学問に対する情熱も、学生に対する熱意も何も感じなかった。はっきり言って、まあこれは大学ではないな、という拭いがたい思いを抱いた。大学改革を求める学生がたちあがるのはごく当たり前ということだろう。

 全共闘の連中が動き出し、連日、校舎前ではデモ行進が行われた。わたしは大講堂の二階から彼らの熱い行動をひたすら見ていた。わたしには彼らと行動を共にする情熱も理論的な支柱もすでに崩壊していた。わたしは十七歳でドストエフスキーの『地下生活者の手記』を読んで以来、行動する理論的根拠をなくしてしまったのだ。
 やがて江古田校舎は全学連の革命戦士たちによって占拠され、授業はすべて休講となった。わたしは彼らの活動を傍目に、平凡社版世界文学全集『悪霊』を小脇に、江古田駅から歩いて三十分ほどの所にあった段ボール工場に通った。バイト料金一時間百円、勤労時間は自由で、ひまな時にでかければよかった。当時、わたしは完璧な夜型人間で、夜はドストエフスキーを読むこと、批評することに費やした。朝方に二、三時間睡眠がとれればいいほうで、不断に自意識が働いてとげとげしい気分に支配されていた。朝食はとらず、昼にほんの少し、夜もほとんど満足に食事したことはない。当時、口にしていたのは煙草のニコチンとコーヒーくらいで、何を食べたのか具体的に思い出すことさえできない。
 大学が封鎖され、貧困な授業に煩わされることなく、わたしはドストエフスキーに没頭することができた。まず書いたのが『白痴』論、これは七十枚ほど書いた。次に書いたのが『悪霊』論でこれが九十枚、続いて『カラマーゾフの兄弟』論、これは百三十四枚、原稿用紙百枚を越えたときの手のふるえを未だ忘れることはない。最後に『罪と罰』論七十枚。こうしてわたしの最初のドストエフスキー論三百七十枚は完成した。わたしはこれを出版したいと思っていたので、江古田のダンボール工場で痩せたからだにムチ打って働き続けた。一時間働いて百円だったが、労働時間は拘束されなかったので一年間続けた。が、その費用だけでは印刷製本費に足らず、所沢のゴム工場でもバイトすることにした。ここは一時間二百五十円で当時破格のバイト料金であった。我孫子の自宅から、所沢のゴム工場まで往復六時間かかった。仕事の内容はトラックで運ばれたカットされた鉄パイプをひたすら数えること。わたしはここで一日八時間働き、ようやく本の出版にこぎつけた。タイトルは『ドストエフスキー体験』、発行元は清山書房と名付けた。刊行年月日は一九七〇年年一月二十日。わたしの二十歳の記念となった。
 わたしの大学一年間は、ひたすらドストエフスキーを読むことで終わり、全共闘の過激な活動は、いわば強大な国家権力の行使によって押さえ込まれた。連合赤軍事件としてあまねく世に知られた群馬県榛名山中における凄惨な内ゲバの実態が発覚、連日、テレビ・新聞が報道し、ここに日本における革命運動はその生命線を絶たれた。日本の知識人たちの間で、この事件と『悪霊』が関連づけられ、ドストエフスキーの文学の予言性など語られた。が、彼らのうちの誰一人として『悪霊』の本当の意味での凄さを理解していた者はいない。ふたつだけ例としてあげておけば、彼らが素朴に信じて疑わなかったに違いない、秘密革命結社五人組の首魁ピョートル・ステパノヴィチ・ヴェルホヴェーンスキーが、実は社会主義者など最も愚かな人間の部類に属すると嘲笑愚弄していた二重スパイであったこと。もうひとつは『悪霊』の作中作者アントン・Gだが、アントンは自由主義者ステパンの元に国家から派遣されたスパイであったということ。つまり『悪霊』は国家から派遣されたスパイ(アントン)と二重スパイ(ピョートル)が重要な位置を占めているが、連合赤軍当時の評論家やドストエフスキー研究家でこのことをきちんと認識していた者はいない。
 大学紛争が一段落して、江古田校舎の封鎖も解け、授業は再開された。とは言ってもまともな授業などされるはずもなく、臨時措置としてレポート提出で受講科目の単位は与えられた。再開後に、わたしは国文学を担当されていた松原博一教授を知った。わたしは書き終えた『悪霊』論の原稿を松原教授に託した。おそらく松原教授の、教室での言葉に何か熱いものを感じたのだろう。ある日、江古田駅を降りてすぐ、例のゾッを感じたあたりで、松原教授にぐうぜんお会いした。松原教授は駅前の喫茶店にわたしを誘い、ホットコーヒーをごちそうしてくださった。
 わたしはこのとき、常日頃思っていた芭蕉について語った。「静かさや岩にしみいる蝉の声、この俳句に芭蕉という生身の俳人は存在せず、彼は自然そのものとなっていますね」これに対して松原教授は「芭蕉はかなり人間臭かったです」と一言。腑に落ちることもあり、わたしは改めて人間芭蕉に対する興味をそそられた。松原教授は缶ピーをひたすら愛する喫煙家で、この日は切らして、しかたなくショートピースを吸っているということであった。わたしはハイライトオンリーのヘビースモーカーだったが、松原教授はわたしにピース一箱を譲ってくださった。わたしはうれしくて一ヶ月ほど机の上に飾っておいた。何週間後に松原研究室を訪れ、『悪霊』の原稿を返してもらったが、内容に関する教授からの感想はなかった。
 二年次になって、わたしは日芸の授業にはきっぱりと見切りを付けた。それでも卒業するつもりはあったので単位だけは取得した。中学と高校の国語教員免許の資格も取った。わたしは今でもつくづく思うが、大学は学問研究・創造機関であるのだから、学生に自由に研究・創作に励める十分な時間を与えるべきで、それが日本大学が掲げる自主創造の理念にかなっていると考える。
 当時、ドストエフスキーは熱狂的に読まれていた。江川卓、新谷敬三郎、木下豊房等ロシア文学関係者が発起人となって「ドストエフースキイの会」を組織し、一般のドストエフスキー愛好家たちを集めて研究会・報告会を開いていた。わたしはぐうぜん新聞の紹介欄でこの会を知り、東京厚生年金会館で開催されていた第九回例会(1970年4月27日)に参加した。講演者は早稲田大学ロシア・フォルマリズムの研究者として知られていた水野忠夫で題目は「『カラマーゾフの兄弟』をめぐって」であった。わたしは『ドストエフスキー体験』(1970年1月1日)を持参、講演後の水野氏に一冊さしあげた。この時、拙著をお譲り願えないかと申しこまれたのが近藤承神子であった。近藤氏はわたしの本を誰よりも先に高く評価し、全面的な応援者になっていただいた。彼はわたしに坂口安吾、秋山駿、つげ義春滝田ゆう、そして当時あまり注目されていなかった大友克弘の存在までも教えてくれた。わたしが後につげ義春漫画の批評を展開するきっかけを作ってくれたのも近藤氏、『ドストエフスキー体験』を彼の行きつけの古書店、赤羽にあった豊島書房の主人に刊行を推薦したのも近藤氏であった。近藤氏は当時、郵便局員として働いていたが編集者としては先見の明を持っていた人で、豊島書房の岡田富朗には『内部の人間』の著者秋山駿の著作刊行を強く勧めていた。岡田富朗は秋山駿の本はついに出さなかったが、わたしの『ドストエフスキー体験』の増補改訂版を出版することを承諾した。
 二年の時、わたしはアルベール・カミュを研究していた大久保敏彦専任講師のゼミに所属し、ドストエフスキーと同時にカミュ文学の世界に参入することになった。その成果はゼミ雑誌「アルベール・カミュ」に「不条理の世界ーーアルベール・カミュドストエフスキー」として発表した。増補改訂版には一年時に執筆し終えてなかった『未成年』論とこの論文を増補して出そうと思っていた。二年時中には刊行されると甘く考えていたが、豊島書房からは何の連絡もなく、この話は没になったのかとさえ思ったが、大学四年時に刊行されることになった。タイトル「ドストエフスキー体験」に関して、すでに椎名麟三に『私のドストエフスキー体験』があるので変更したいという要請があった。それで不本意ながら最初サブタイトルにしていた「停止した分裂者の覚書」をタイトルに、タイトルに考えていた「ドストエフスキー体験」をサブタイトルにした。これではまるで精神病者の手記と勘違いされるのではないかと懸念したが、別にその理由ばかりではなかろうが、この本はさっぱり売れず、書評にもとりあげられず、みごとに商業出版として失敗した。
 『ドストエフスキー体験』を池袋西口にあった芳林堂書店仕入部担当者は、この店だけで百冊以上を売ってくれた。『停止した分裂者の覚書』刊行の折り、彼は、新人の本を売り出すのに、有名な作家、評論家の推薦文ひとつ付いていないのは異例中の異例と言っていた。それまでそんなことを気にしてもいなかったが、言われてみればもっともなこと、豊島書房ではドストエフスキーに多大な影響を受けている近代文学派の埴谷雄高荒正人などの本も刊行していたのだから、ふつうに考えれば彼らに推薦文を書いてもらうとか、そういう商業戦略もとうぜんあってしかるべきだろう。だがさらによくよく考えてみれば、そういった商業戦略などを考える社主であれば、わたしの本など刊行することはなかったであろう。近藤氏によれば、荒正人はわたしに会いたい旨、豊島書房社主に伝えてあったそうだが、それを聞いた近藤氏はおそらく清水さんにはそういう気持ちはないだろうから断っておいたということであった。むろん当時のわたしもそんなことは当たり前と思っていたので、近藤氏の断りに関しては、この人はよくわたしのことがわかっていると思っただけであった。とうぜん、近代文学派の著名人からの推薦もなく、タイトルもタイトルなので、この本はいわば刊行はされたが社会の表層で流通することはなかった。
 豊島書房は出版を兼ねた古書店でもあった。『停止した分裂者の覚書』は神田の古本屋「三茶書房」の割引定価のコーナーに平積みされることになった。三冊百円とかいったゾッキ本の箱に入れられていたわけではいが、定価千円の本が半額の五百円で売られていた屈辱は未だにわすれられない。誇り高き著者の心に烈しい怒りが生じた。わたしは自分の力で、この屈辱をはらすしかないと一人誓った。やがて『停止した分裂者の覚書』は定価の千円になり、それ以上の価格を獲得することになるが、定価通りになるまでに二十年以上の歳月がかかった。わたしのドストエフスキー体験は死ぬまで続くのだ。「ある時期、ドストエフスキーを熱心に読みました」とか、したり顔で口にする者と一緒にされては迷惑至極なのである。
 わたしは、荒正人ばかりではなく、埴谷雄高にも小林秀雄にも実際に会ってみたいと思うことはなかった。わたしが大学一年時、憑かれたようにドストエフスキー論を書いていたとき、日本の批評家で読んだのは小林秀雄ドストエフスキー論で、これは参考にしたとかいうのではなく、文字通り決闘であった。とうぜん、小林秀雄の影響も受けたには違いないが、小林秀雄の批評からの脱出も必死になって模索していた。ドストエフスキーの文学は小林秀雄の批評では太刀打ちできないということを、わたしは実際にドストエフスキー山の素人登山者として体験していたので、それは体でわかっていた。数年後、宇波章が小林秀雄の批評は人間主体的な批評で作品自体を論じていないという、まさにロシア・フォルマリスト風の理論を連続して発表し、日本の文芸批評界に新風を巻き起こした。
 当時、早稲田大学文学部の教授だった新谷敬三郎がミハイル・バフチンの『ドストエフスキイーー創作方法の諸問題』(1968年6月10日)を冬樹社から翻訳刊行し、これまた文芸界に衝撃を与えていた。かく言うわたしも、初めてこの本を読んだときの衝撃は生々しいものがあった。それまで読んでいた小林秀雄や、ドストエフスキー論者としても知られる哲学者ベルジャーエフの著作を通してドストエフスキーの文学や思想や人生を考えていた者にとって、バフチンの作品自体を分析解釈するその方法は、突然、太平洋上にその巨大な姿を現した白鯨を目にした者のごとき衝撃を受けたと言っても、決して大げさではない。ロシア留学中に、バフチンドストエフスキー』の初版本を読んでいたという小沼文彦は、どういうわけかドストエフスキーが味噌糞にけなすローマ・カソリック教の信者で、バフチンの言っていることは別にドストエフスキーでなくても適用できると言っていた。一見、バフチンなど評価していないという口ぶりであったが、彼が主宰していた「日本ドストエフスキー協会資料センター」(当時、渋谷道玄坂を登り切って何分か歩いたマンションの一室)のガラス張りの立派な書棚にはなんと新谷訳の前掲書が五冊も置いてあった。

 早稲田の大熊会館で「ドストエーフスキイの会」の総会が開催された。1970年5月7日のことである。司会は代表を務めていた新谷敬三郎、参加者に小沼文彦、江川卓、木下豊房などロシア文学研究者、それに近藤承神子とわたしも参加した。その席で近藤氏が、次回の例会報告者としてわたしを推薦した。この突然の思いもよらぬ提案に、司会者の顔に一瞬とまどいの表情が見えたが、さすが会を取り仕切るバランス感覚で冷静を取り戻し、結局、近藤氏の提案が受け入れられた。この時、わたしが持参した『ドストエフスキー体験』を小沼文彦がなんと二冊購入してくれた。同じ本が、なぜ二冊も必要なのか。わたしは妙な気持ちであった。後に本人に聞いたところ「本は二冊買うものです」ということだった。
 この時、小沼文彦は「ドストエーフスキイの会」の会員だったが、蔵書寄贈の件で会とは袖を分かち、あらたに「日本ドストエフスキー協会資料センター」(東京都渋谷区神泉町25番8号渋谷マンションウェルズ401号)を主宰することになった。わたしは近藤氏に誘われ、一緒に渋谷のマンションを訪ね、以来、その協会員に所属することとなり、「ドストエーフスキイの会」には脱会届けを出した。が、完全に「ドストエーフスキイの会」との縁が切れたわけではなく、その後も頼まれれば原稿も書き、講演などもしてきた。
 小沼文彦主宰の協会では会誌「陀思妥夫斯基」を刊行、そこには「ラスコーリニコフと老婆アリョーナ」(No.2 1970年8月12日)「肖像画に見るドストエフスキー」(No.2 1971年1月15日)「三角関係に見るドストエフスキー」(No.10 1971年8月30日)などを発表した。専門のドストエフスキー雑誌の刊行の企画もあり、わたしは「回想のラスコーリニコフーー自称ポルフィーリイの深夜の独白」の原稿をあずけておいたが、これはついに刊行の運びにはいたらなかった。原稿も返してもらえなかったが、当時のわたしは生原稿を二部作成していたので、催促もしなかった。いったいあの、第二の死せる青春の煩悶の文字を刻印した生原稿はどこに身を潜めているのだろうか。
 わたしの「ドストエーフスキイの会」での報告「『罪と罰』と私」の模様を近藤氏は会報10号(1970年8月31日)で書いている。当時の会場の臨場感あふれる文章で今や伝説的なものとなっている。わたしは具体的に何を語ったのかほとんど記憶にないが、途中、初老の男性会員が手をあげて、話の中断を要請したことは鮮明に覚えている。わたしは今でこそ、ドストエフスキーの文学を題材にして漫談風に語る術を身につけたが、二十歳過ぎの青年に、それこそドストエフスキーの霊がそのまま憑依したようにしゃべり続けられたら、ディオニュソス的陶酔を知らないままにアポロン的整合性を生きてきたような者の思考は破壊の危機に晒されるわけで、その会員もやむにやまれず中断を申し入れたのであろう。まあ、彼の耳に、わたしの話は、今まで聞いたこともない、途方もない独断と偏見に満ちたものに思えたのであろう。これは、二十歳の昔に限ったことでなく、今でもそうである。今は教授だったり、図書館長だったりするので、その肩書きに遠慮してか、面と向かって反旗を翻すような者はいなくなったが、本心のところでは納得していない者が多いのも確かだし、内容が理解できない者は〈変人・奇人〉の部類に入れてすましている。人間、歳をとったからといってその本質が変わるわけではない。

 わたしは『ドストエフスキー体験』を刊行した時、もうドストエフスキーとはおさらばするつもりであった。わたしの文学的野望はドストエフスキーのみを研究することにあったのではない。わたしは古今東西の哲学者や文学者を一人物に見立てて、究極の真理を見極める一大戯曲の創造を意図していた。この野望はどこで頓挫したのか。一つの契機は、大学三年になってドストエフスキーの処女作『貧しき人々』論にとりかかったことにある。ドストエフスキーから離れるどころの騒ぎではなくなった。第二作目の『分身』に関しては大学四年時にとりかかり、卒業後大学に残ってからも、半年の中断を含め、書き終えるのに丸二年もかかった。第四作目の『おかみさん』もずいぶんと時間をかけた。わたしの二十四歳から三十一歳に至るまでの七年にわたる副手時代に関しては一冊の本が準備されなければならない。この時代に書いた初期作品論は沖積舎版『ドストエフスキー 初期作品の世界』(1988年6月28日 沖積舎)にまとめてある。

日芸魂の源流と、その発展継承


清水正監修『日藝ライブラリー』3号 特集「日大芸術学部創設者 松原寛」(日藝図書館刊行 2016年7月7日)が刊行された。

日本大学芸術学部創設者松原寛」刊行に寄せて
日芸魂の源流と、その発展継承

清水正日本大学芸術学部図書館長)


江古田の地に集まれし日芸青年たちに告ぐ
煩悶せよ、求道せよ、創造せよ
哲学徒松原寛の苦悶と烈しい探求心を知れ
松原寛の宗教哲学、文化理念を知れ
松原寛の芸術に賭けた情熱を知れ
書斎派の哲学徒から街頭の哲学者となった松原寛の生きた哲学を知れ
歌舞伎を愛し、演劇を愛し、総合芸術を目指して
日大芸術学部を創始した松原寛の不断の闘争本能とその創造精神を知れ
松原寛に日芸魂の源流を探り、その発展継承を引き受け、独自の芸術を創造せよ。

日本大学芸術学部創立者松原寛の業績とその生涯を整え、全集を刊行する必要がある。西田幾多郎田辺元など著名哲学者の全集は刊行されているが、わが松原寛は現在、すべての著作が絶版状態である。松原寛の著作は、広く読まれなければならない。特に日芸の学生、卒業生はもとより、日芸に勤務する教職員、さらに日大関係者全員の必読書とさえ言えるだろう。
松原寛の闘争意識と崇高なる創造精神なくして今日の日本大学芸術学部の存在はない。研究と創造の精神がなくなれば大学はその生命を終えることになる。今こそ、松原寛の創部精神に立ち返り、その崇高なる理念に向かって総合芸術発信の基地とならなければならない。

清水正が薦める動画「ドストエフスキー罪と罰』における死と復活のドラマ」
https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk

清水正の講義・対談・鼎談・講演がユーチューブ【清水正チャンネル】で見れます。是非ご覧ください。https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%AD%A3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%AD%E3%82%8B

京都造形芸術大学マンガ学科特別講義(2012年6月24日公開)
ドラえもん」とつげ義春の「チーコ」を講義

https://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg

清水正ドストエフスキー論全集』第八巻が刊行されました。


清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。
清水正『世界文学の中のドラえもん』『日野日出志を読む』は電子書籍イーブックジャパンで読むことができます。ここをクリックしてください。http://www.ebookjapan.jp/ebj/title/190266.html


ここをクリックしてください。清水正研究室http://shimi-masa.com/

四六判並製160頁 定価1200円+税

ここをクリックしてください エデンの南 

日藝ライブラリー3号 特集「日大芸術学部創設者 松原寛」が刊行された。

清水正監修『日藝ライブラリー』3号 特集「日大芸術学部創設者 松原寛」(日藝図書館刊行 2016年7月7日)が刊行された。




日大病院に入院中に執筆した松原寛論450枚を一挙掲載した。
帯状疱疹後神経痛に襲われながらの執筆。神経痛は以来、半年以上経過しても続いている。

清水正が薦める動画「ドストエフスキー罪と罰』における死と復活のドラマ」
https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk

ホラー漫画の女王・犬木加奈子の展示会

ホラー漫画の女王・犬木加奈子の展示会が日大芸術学部芸術資料館にて開催されます。期間は六月
二十一日〜七月二十九日まで。犬木加奈子は実存ホラー漫画家・日野日出志の魂を継承する漫画家。日野日出志犬木加奈子に対して「私が認める唯一のホラー漫画家である」と断言している。今回の展示では二人のコラボ作品の原画も数点紹介する。


デビュー作品が掲載された雑誌を手にする犬木加奈子先生。図書館長室にて。




清水正が薦める動画「ドストエフスキー罪と罰』における死と復活のドラマ」
https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk

清水正の講義・対談・鼎談・講演がユーチューブ【清水正チャンネル】で見れます。是非ご覧ください。https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%AD%A3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%AD%E3%82%8B

京都造形芸術大学マンガ学科特別講義(2012年6月24日公開)
ドラえもん」とつげ義春の「チーコ」を講義

https://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg

清水正ドストエフスキー論全集』第八巻が刊行されました。


清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。
清水正『世界文学の中のドラえもん』『日野日出志を読む』は電子書籍イーブックジャパンで読むことができます。ここをクリックしてください。http://www.ebookjapan.jp/ebj/title/190266.html


ここをクリックしてください。清水正研究室http://shimi-masa.com/

四六判並製160頁 定価1200円+税

ここをクリックしてください エデンの南 

清水正監修『日藝ライブラリー』№2(2015-9-24 日藝図書館発行)

清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。

清水正の講義がユーチューブで見れます。是非ご覧ください。
https://youtu.be/KqOcdfu3ldI ドストエフスキーの『罪と罰
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp 『ドラえもん』とつげ義春の『チーコ』
https://youtu.be/s1FZuQ_1-v4 畑中純の魅力

清水正『世界文学の中のドラえもん』『日野日出志を読む』は電子書籍イーブックで読むことができます。ここをクリックしてください。http://www.ebookjapan.jp/ebj/title/190266.html


ここをクリックしてください。清水正研究室http://shimi-masa.com/

デヴィ夫人のブログで取り上げられています。ぜひご覧ください。
http://ameblo.jp/dewisukarno/entry-12055568875.html


清水正監修『日藝ライブラリー』№2(2015-9-24 日藝図書館発行)を紹介します。特集・展示。私は鷹尾俊一展と熊谷元一展について執筆しました。




『わたしが魅せられた漫画』刊行にあたって

清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。

清水正の講義がユーチューブで見れます。是非ご覧ください。
https://youtu.be/KqOcdfu3ldI ドストエフスキーの『罪と罰
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp 『ドラえもん』とつげ義春の『チーコ』


清水正『世界文学の中のドラえもん』『日野日出志を読む』は電子書籍イーブックで読むことができます。ここをクリックしてください。http://www.ebookjapan.jp/ebj/title/190266.html


ここをクリックしてください。清水正研究室http://shimi-masa.com/

デヴィ夫人のブログで取り上げられています。ぜひご覧ください。
http://ameblo.jp/dewisukarno/entry-12055568875.html


清水正監修『わたしが魅せられた漫画』(2015-9-20 日藝図書館)が刊行されました。レポートを採用された下記の学生は江古田校舎図書館へ取りに来てください。二冊差し上げます。

平成26年度「マンガ論」受講者
大西彩瑛(演劇学科) 箱田美優 (演劇学科) 飯塚舞子(文芸学科)新里和朗(映画学科) 梅津滉貴(文芸学科) 佐渡祐彦(文芸学科)飯塚侑里(文芸学科)矢口咲季(映画学科)津久浦真希(放送学科)清田鮎子(演劇学科)大庭彩音(演劇学科)相根美晴(文芸学科)齊藤 俊(文芸学科)土生あかね(演劇学科)千坂 光(文芸学科)大久保佳澄(文芸学科)小野日向子(放送学科 )大西笑生(美術学科)稲葉千誇里(文芸学科)横山翔(文芸学科)神崎千佳(文芸学科)谷 陽歩(演劇学科)遠藤光佑(文芸学科)長島瑞樹(文芸学科)池ヶ谷夕季(映画学科)吉野友規(文芸学科)木崎歩美(放送学科)太田彩香(文芸学科)山田優衣(文芸学科)山口隼(文芸学科)
平成26年度「雑誌研究」受講者
 小野寺莉子(写真学科) 小岩井杏奈(演劇学科) 山脇 智子(演劇学科)長岡璃歩(写真学科) 佐伯侑美 (演劇学科) 細川雷太(演劇学科)佐伯恵理子(音楽学科)

購読希望の方は日藝江古田購買部丸善にお問い合わせください。
連絡先電話番号は03-5966-3850です。
FAX 03-5966-3855
E-mail mcs-nichigei@maruzen.co.jp


B5判上製 本分339頁

『わたしがが魅せられた漫画』刊行にあたって
清水正日本大学芸術学部図書館長・文芸学科教授)


赤塚不二夫を知っている人は手を挙げて」平成26年度の「マンガ論」でのこと。百人を越える授業で、手を挙げた学生は一人であった。私は眼を疑った。十年以上も前、同じ授業で「トルストイ」を知っている学生が一人もいなかったことがあり、それ以来、あまり気にしないようにしているが、大半の学生が赤塚不二夫を知らない現実にはやはり驚いた。
 私が「マンガ論」で重点的に取り上げる漫画家はつげ義春日野日出志で、両漫画家も一部の熱狂的な愛読者は別として、一般的に広く知られているとは言えない。「マンガ論」は文芸学科の専門科目であるから、文学性の高い、つげ義春の『チーコ』、日野日出志の『蔵六の奇病』などを取り上げる。手塚治虫などはドストエフスキー原作の漫画版『罪と罰』しか講じない。白土三平の『カムイ伝』なども取り上げたいが、あまりにも長編で学生が読み切れないということがある。

 さて、つげ義春の名前は知らなくても、手塚治虫の名前を知らない学生はいない。ましてや『天才バカボン』で一世風靡したギャグ漫画の大家・赤塚不二夫を知らない者はいまい。私は、あえて聞くまでもないと思って、冗談で聞いたのだが、その結果に冗談でなく愕然とした。もしかしたら、エンターティンメント漫画は流行が過ぎれば自然と忘れ去られていくものなのか、と改めて考えさせられた。団塊世代赤塚不二夫白土三平を知らない者はいないだろう。しかし、二十歳前後の若い学生にとって彼らはすでに過去の漫画家であり、関心の外にあるのかも知れない。逆に、彼らが夢中で読んでいる漫画を還暦過ぎた老人たちは何も知らないのかも知れない。そこで、学生たちが今、どのような漫画を読んでいるのか知りたくなった。さっそく、担当する「マンガ論」と「雑誌研究」の受講生に「私が魅せられた漫画」という課題レポートを提出してもらった。
 今日、どれくらいの漫画作品が発表され、読まれているのか。その正確なデータを持っている人がはたしているのだろうか。商業誌の他に同人誌などに発表された作品を含めれば、まさに膨大な数にのぼる。仮に専門の漫画研究家がいたとしても、おそらく物理的に読みこなすことはできまい。かつて「マンガ論」を引き受けた時、日本で刊行されている週間漫画雑誌四誌ほどを定期購読したことがある。しかし、これはすぐに諦めた。あっという間に、研究室が漫画雑誌に占領され、足の踏み場もなくなった。今日では電子書籍が普及しているので、保管場所に悩むことはないが、しかしそれでも読み時間の問題を解消することはできない。膨大な作品の中から、なんらかの基準を設けて選択しなければ制限時間内で〈読む〉ことはできない。
 今や漫画はアニメと並んで日本の文化を代表するまでになった。しかし、漫画作品は多くの人たちに読まれることはあっても、文学作品のように研究・批評されてきたとは言えない。漫画は読みっぱなし、読んでいるときだけ楽しければいい、と思っているひとは意外と多い。それに漫画は今や巨大産業化しており、漫画研究・批評における様々な制約もあって、今後解決していかなければならない問題も多い。漫画研究・批評が自由に伸び伸びと展開できる状況を作り上げていくことも必要であろう。
 本書は日芸図書館企画「日本のマンガ家」シリーズの第四弾にあたる。第一弾「日野日出志」、第二弾「つげ義春」、第三弾「○型ロボット漫画」(阪本牙城・森田拳次藤子・F・不二雄)に続くものである。今回の企画は特定の漫画家に絞らず、七十歳代の戦中世代から、六十歳代の団塊世代、五十歳代、四十歳代、三十歳代、そして二十歳前後の学生まで、日本の漫画愛読者たちがいったいどのような漫画作品に魅せられ、読んできたのか、それを客観的に知りたいという動機から生まれた。本書に掲載された課題レポート、エッセイ、論文を通して、日本の漫画作品の多様性が浮き彫りにされたのではないかと思っている。
 本書が一人でも多くのひとの目にとまり、読まれることを願っております。最後になりましたが、原稿依頼を快諾し、執筆に情熱を注いでいただいた本誌掲載者に心から御礼申し上げます。
 二〇一五年八月十一日