「意識空間内分裂者が読むドストエフスキー」連載1〜8までを読んだ感想(2)

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「文芸批評論」受講生のレポートを紹介します。
「意識空間内分裂者が読むドストエフスキー」を読んで
小島 梨沙

 意識空間内分裂者とは何だろうと思いながら読んでいた。連載3回目になって、ようやくそれがわかるような内容が書かれていたわけだが、哲学者が語っているようでいまいちよくわからなかった。鍋の話はわかりやすかったが、人間に置き換えると少しややこしい。どの具材も“我”の一部だけど、混ざり合うこともなく磁石のように常に真逆にいるわけでもなく、変な具合に組み合わさりながら頭の中を行き来しているということだろうか。嘘つきでもなく多重人格者でもない何者かの存在はいまだに頭の中を占領してしまっている。
 外国の本を読むときに、訳は誰がやっているとはあまり考えたことがなかったが、そんなにも違うものだったのかと思った。たしかに訳にも上手い下手がいると言うし、江川卓は翻訳者ではなくミステリー作家のようにも見える。
 『罪と罰』を読んでいるときも思ったが、ドストエフスキーもまさか日本で読まれるとは思わなかっただろうから、キリスト教をあまり知らない私にとっては想像できないところが多々あった。注釈でキリスト教についてちょこちょこ入れておいてもらえるとすごく助かるのになと思った。聖書の最後に信じない者のために書かれた言葉があるが、そもそもキリスト教を信じない人間が聖書なんて読まないんじゃないかとも思った。そうやって考えると『罪と罰』のように聖書について触れられている本と言うのは、聖書の入門編に見えなくもない。また、時代や国が違うので仕方がないが、「信仰なきことは罪である」と書かれては、現在の日本は罪人大国だなと思った。
 『罪と罰』のロジオンは、他のよくあるどうしようもない若者が紆余曲折を経て大きな成長を遂げて成功を手にするようなわかりやすい話ではなく、見た目もよく結構なエリートコースを歩んでいた青年がうっかり道を踏み外してしまい最後にあっさり復活してしまう話だから同調しにくい。どうしても極端すぎて「こんな人間いないだろ」と思ってしまう。そこで、ロジオンが全く非難されないのは、そのあまりにも現実離れしすぎた描かれ方をしているからではないかと思う。ラスコーリニコフ家は計算高い家系で、そこがある意味人間的だと思うが、徹底的に違うのは計算し尽されていて隙が見えないところ。ロジオンもそれを自覚していたとしたら、ものすごく恐ろしく見えてしょうがない。
 また、人の見方は人それぞれだと日常的にかなり思うことが多いのだが、ロジオンはマルメラードフの話を聞いただけで、ソーニャを踏み越えの告白の相手に選んでしまった。マルメラードフは真実しか語らないと信じきっているのか、会ってもいないソーニャが聖女のような女だと決めつけてしまっているなんて、思い込みが激しすぎると思う。あれだけずっと自分の頭の中でいろんなことを考え込んでいたロジオンが、当たり前のようにマルメラードフの話を飲み込んでしまうとは納得がいかない。
 先生の謎解きはただの仮説ではなく、その可能性をもとに次の闇にはこういう真実が隠されているとつながるから面白い。さらに次々見つけていくから考古学者の発掘みたいだと思った。ただドストエフスキーには隠された性的描写が多いと言うけれど、実際は隠したかったんじゃなくて、ただ単に経験がなかっただけではないのかとは思う。

先生のブログに掲載されている『意識空間内分裂者が読むドストエフスキー』第1回〜8回を読んで
原崎 絵理

 読んでいて、私自身ドストエフスキー作品の読み込みが足らないので、理解しきれない部分もあったが、ドストエフスキーの一言では語りつくせない深さが少しだけ分かった。先生は本文で≪作品の〈読み〉は限りなく開かれたものであったほうがいいと思っている。批評は作品に描かれた人物や思想や世界とどこまでも対話的に関わっていくことで〈再構築〉される。それがわたしにおける〈読み〉であり〈批評〉である。小さな遊園地の子供用のブランコに乗って牧歌的な遊びに満足する〈読み〉も内包するが、その時点にとどまることなく、ディズニー・シーのジェットコースターにも乗るし、想像力で宇宙の果てまで遊泳するのもわたしの〈批評〉なのである。≫と仰っている。だから中途半端に読み進めたり、ある一部分に特化して、偏った読み方をしていると、先生の批評はなかなか理解できないだろうと思った。数多くいる批評家がそうであるが、ある一面に特化して、面白く、分かりやすく批評した方が読者受けは良い。しかしその作品の本質、秘め隠されたものは、簡単に求められるものではなく、永遠の課題である。現在進行形でそれを再構築し続けているのが清水先生なんだなぁと思った。
≪わずかに書かれたことから、描かれざる場面をどのように想像するかで全く違った光景が浮かび上がって来ることになる。≫

〔意識空間内分裂者〕とはどういうことかよく分からなかったが、本文を読んで分かった。≪無数に分裂した〈我〉を抱え込んでしまった人間存在。どの人物にも自分自身とぴったり重ね合わせることができない。『カラマーゾフの兄弟』で言えば、神の存在を信ずるというアリョーシャと、神の存在を信じないというイヴァンの両方を共に抱え込んでしまったのが意識空間内分裂者で、にもかかわらず狂気に陥らないのは、分裂した様々な〈我〉を統治する意識(いわば映画における監督のような存在)が働いて無数の〈我〉を統治しているからである。
〈我〉のうちの一つが他の〈我〉を圧倒的に押さえこんでしまえば、意識空間内分裂者と唯一絶対の《我》を保持している者との区別は傍から見ればないということになる。二つの〈我〉、例えば神を信ずる者と信じない者が強烈に〈自己〉を押し出して来れば、その時、監督者としての統治的役割を担った〈我〉がその統治に失敗すれば、実存の均衡を崩して狂気に陥る可能性もある。≫

一般に、作品を読み進める際に、〈我〉のうちの一つが他の〈我〉を押さえこんでしまえば楽であるし、モデル像(これぞ正しい!とされるもの)があった方が安心できる気がするし、潜在的にそのように読み進める傾向があると思う。
しかしドストエフスキー作品に限らず、作品を読む時に例えば、‘正義は絶対に正しい’という〈我〉が、他の我を押さえこんでいたら、場合によっては危険なことになる可能性もある。何を以て正義となすかということもある。綺麗ごとを言っていても、それでは済まされないことが往々にしてある。それを知っておかないと、危険だということだ。人間は正義だけではなく、誰しも“悪”の部分を持っているし、あらゆる可能性は開かれているということだ。
誰しも持っているそうした隠された闇の部分も、先生はきちんと掘り下げようしているのだと思う。『罪と罰』の登場人物に関してもそうだ。浅く読んだ限りによってついたロジオンやソーニャ、ドゥーニャをはじめとして、あらゆる登場人物のイメージが見事に覆される。
例えば≪今までドゥーニャは兄思いの、自己犠牲的な、高潔で誇り高い美しい女性と見なされてきた。しかしドゥーニャはわずかの期間中に三人の男と深く関わった。淫蕩漢スヴィドリガイロフの倦怠に彷徨う魂を誘惑し、敏腕な実業家ルージンに結婚を決意させ、そして女たらしの好青年ラズミーヒンの心を奪った。スヴィドリガイロフを自殺に追い込み、ルージンに赤恥をかかせたこの魔性の女が、ラズミーヒンという平凡な男とどんな結婚生活をしていくのかみものである。ドゥーニャはルージンとの結婚を一度は承知した、打算的な女である。この〈打算〉はラスコーリニコフ家の人々に共通している。≫と先生は述べている。
神聖なイメージのあるソーニャの処女異論説もだ。
登場人物の隠されたどんな面をも追求する。例えば善と悪の両方をもっているとしたら、その両者を対等にみなす力が必要ということか。


私たちは人間の、何を信じたら良いのだろうか。あまり期待せず、美化しすぎず、でも騙されたと思ってみるのも良いかもしれない。
色々述べてきたが、私自身どうやって生きているかと振り返ってみると、時に意識空間内分裂者になったり、時には唯一絶対の《我》を保持している者であるかのように弁をふるったり、潜在的に、その場に応じて都合良く入れ替わっているような気もする。何が本当の自分かというとよくわからない。前述したことからいくと、とりあえず善も悪も持ち合わせている。

最後に、私が本文で印象的だった部分を抜粋して終わりたい。清水先生の生きざまは困難も多いだろうが、泥くさくてアツくて何だかカッコイイ。

わたしのように十七歳でドストエフスキーの「地下生活者の手記」を読み、地下男の自意識に洗脳された者は、否応もなく意識空間内分裂者として生きていかざるを得ない。意識空間内分裂者とは言っても、この地上世界においては身体存在としても存在しているから、時と場合によって一義的な〈我〉として振る舞うことを不断に要請されている。ある時は〈ニンジン〉として、またある時は〈ジャガイモ〉としての〈我〉を演じなければならない。各々の〈我〉は唯一絶対の《我》ではないので、いつも自分は演技している、今はたまたま〈ジャガイモ〉であるかのように振る舞っているだけだという意識にまとわりつかれる。尤も、近頃はそんな面倒くさい意識にとらわれることもなく、ごく自然に〈ジャガイモ〉であったり〈ニンジン〉であったりしている。
 チェーホフの作品を読んでいるとそこに「どうでもいいさ」(フショー・ラヴノー=всё равно)という言葉が出てくる。ドストエフスキーは、神の存在に関して一生涯苦しんだ作家である。ところが、チェーホフのフショー・ラヴノーは、神が存在しようがしまいがどうでもいいさ、といった虚無の底から静かに響いてくる。ドストエフスキーの人物の中には、こういったけだるい感じの虚無の声を発する者は見あたらない。なぜ今、唐突にチェーホフの言葉を持ち出したかと言えば、ドストエフスキーディオニュソス的世界と関わり続けて来た意識空間内分裂者の純粋意識の耳にこの言葉が心地よく響いてくるからにほかならない。わたしは「どうでもいい」「どうでもいい」と呟きながらドストエフスキーを読み、そして書き続けているのである。意識空間内分裂者は文字通り意識空間内においては分裂しているわけだが、明晰な意識、演出家としての純粋意識を保持している限りは狂気に陥ることはない。

「意識空間内分裂者が読むドストエフスキー」連載1〜8までを読んだ感想

「文芸批評論」受講生のレポートを紹介します。
意識空間内分裂者が読むドストエフスキー 連載8回までを読んで
武田美穂
意識空間内分裂者が読むドストエフスキーというタイトルの連載なのに、意識空間内分裂者についての説明が連載3回目にして初めて語られたことと、山城むつみの「ドストエフスキー」から思いつくままにと書かれているのに、山城むつみさんの著書について書かれているのはたった二行と引用だけというのが面白いと思いました。

連載の特に罪と罰について書かれているところを重点的に読みました。が、これを読んでも先生が何をおっしゃりたいのかはいまいちわかりませんでした。罪と罰の解釈は、先生が文芸批評論の授業の中でお話ししてくださったことと内容が重なる部分があったので、改めて文字で読み、授業の言葉だけでは理解できなかった部分を、こういう風に読めるのかと納得しながら読みました。しかし、先生が何をおっしゃりたいのか、特に意識空間内分裂者についての説明諸々は、これを読んだだけでは理解できませんでした。ですので、意識空間内分裂者についての感想ではなく、この連載と、先生が今まで授業でお話してくださったことを中心に感想を書きたいと思います。
この連載を読んでと、先生の授業を受けた率直な感想は、先生のお話は、絵の具を垂らしてストローで吹く、ドリッピングのようだなと思いました。色々な方向に吹き飛ぶけれど、先生の核心的な部分は色濃く、飛んだ話に流されない。という印象を受けました。

罪と罰を読んでいたときは特に思わなかったのですが、先生のお話しを聞いているうちに、先生がおっしゃる通り、罪と罰は「書かれていない部分」が本当に多いと思いました。罪と罰に書かれていることは、ほんの一部分にすぎず、そして表面だけであると認識しました。
先生は罪と罰について、ドストエフスキーが「語っていない部分」特に性的関係について書かれていることが多かったように見受けました。それは罪と罰で性的関係が描かれる場面がなかったということと、先生の罪と罰の解釈には性的関係が重要であったからだと思いました。
ソーニャの下着の話が出て来たときは驚きましたが、確かに、この物語からはソーニャが娼婦である事実の他は、どんな格好でどんな人とどんな風に…何も書かれていないということに気付かされました。
先生のお話ですと、性的関係を中心に話が進んでいるような気がしてしまうのですが、当時はこんなに体資本な世の中だったのでしょうか。女性が働ける世の中ではないとは思うのですが、体を売る商売に就かなくても、体を売らなければ生きて行けないような世の中なのでしょうか。

罪と罰では実際には書かれていない先生の解釈だけで進む物語があったら面白そうだなと思いました。まずロジオンの生い立ちから始まり、ペテルブルクに出て来るまで、その後は主にプリヘーリヤとドゥーニャに焦点を当て、その後はリザヴェータとソーニャの話など、一つのお話にできるくらい、先生の解釈は広範囲であり、奥が深いと思いました。
1年間授業を受けさせていただいて、先生は今まで知らなかった小説の読み方や捉え方をされていてとても勉強になりました。1年間ありがとうございました。

「人の中に潜むもの」と「デスノート
原佳乃子 

 「空間意識内分裂者が読むドストエフスキー」第一回連載から第八回連載までを拝見させていただきました。一通り読み終えた後、自分の中に残っているキーワード的なものは「人の中に潜むもの」「デスノート」でした。
 「人の中に潜むもの」と言うキーワードが思い浮かんだのはロジオンの家族における考察からでした。ドゥーニャやプリヘーリヤが魔性の女だとか、ロジオンの打算的な部分とかそういった人間の汚い部分といいますか、負の部分を見ると“人間は誰しも悪魔的な面を持っているのだな”と思いました。表面だけでは人の裏なんてわかりません。しかし、あえてそういう部分の考察を見ると私は本の中の人物たちが急に現実味を帯びてくるように思うのです。様々な本の中の人物はやはりどこか現実とは違う異世界の話として捉えている部分があります。いくら現実の設定を本に練り込んでも“違和感”は拭いきれません。その理由は多分、本の中の人物たちがあまり現実的ではないからなのではないかと思います。書かれているのは表面だけの人物像。はっきり言うと、人間のドロドロした感情や汚い部分が見えないのです。そういった人間臭さが私は本の中の人物に現実味を持たせるのだと思います。全てが全て、現実味を持った方がいいと言う訳ではないです。もちろん現実離れした設定で、まるで夢のような本も好きです。しかし、こういう類の本はそういった裏の部分を考察することでますます面白くなると個人的には思っています。汚い部分ももちろん誰しも持っているもので、それをロジオンたちが示してくれました。ソーニャにおいては“人間にも天使のような面がある”と言う事を示された気がします。それが偽善かあるいは本物かどうかはわかりませんが、この考察から人間は相反する二つの側面が必ずあるものなのかなと思いました。
 「デスノート」と言うキーワードはブログを読んでいる中でロジオンがやはり夜神月と同じなのだと思ってしまった事から思い浮かびました。頭脳明晰、容姿端麗、正義を信じ自分の自信を信じる青年。ロジオンもそうだが、夜神月もいい性格しているなと思った。偽善者ぶっているというか、善良な市民を演じていおいて裏では人を殺める殺人者。夜神月も充分ドロドロした汚い部分があって面白いなと私は感じました。イケメンで頭が良くて性格もいい、そんな完璧な人間いるわけがないですし、そんな人間に興味なんてわきません。人を惹きつける何かはきっと汚い部分があるからこそ生まれるものだと思います。ロジオンも夜神月も性格がよかったらまず人を殺したりはしない、そうすると物語が展開しないしつまらない。だから読んでいる人を惹きつけるには人間のドロドロした汚さが必要なのだと思います。本と人間の汚い部分は切っても切れないものなのではないかと考えさせられました。自分が思ったことや先生の考察を思い出しながら、卒業までに「罪と罰」を読めるよう努力したいと思います。

罪と罰』の純潔について
 山野目 麗
 “チーハヤ・ソーニャ“という言葉はもう何度、文芸批評論の授業で飛び交ったことだろう。今回、清水正ブログの連載記事をテキストとする課題が出ていなければ、私はずっと黙っておくつもりであったが、そのチャンスを与えられた。
 私の考えでは、ソーニャは春を売って金を稼ぐ以前に、間違いなく処女を喪失しているはずである。考えられる点は、どう考えても売春の手際が良すぎるのだ。
ソーニャは母から冷たく突き放された言われ方をされながら、その日のうちにショールをかぶり外に出て、たた3時間ほどで銀貨30ルーブルを手にすぐに帰ってきている。
はっきり言おう。もしも当日、処女膜が破れていたとしたら、そんなに早く帰ってこれるわけがないのである。
そもそも家から出て、たったの3時間。行為にかかった時間をどんなに短くても2時間弱と想定しよう。ただ動物のように繋がるだけならば短時間で容易ではあるが、人間のSEXはどんなに不自然な間柄だとしても、会話から始まるはずだ。緊張をほぐすためにしばし男女は話す。不意に我慢しかねた男の手がソーニャの唇、もしくは頬に触れる。ソーニャも覚悟を決め、脱がされていく。
そして、行為の時間を差し引いた後、銀貨を受け取るなどの取引が行われて、かつ自宅との行き帰りの往復時間が1時間以内というのは、どう考えても短すぎる。そもそも処女であったとしたのなら、行為の前後に強い不安や激しい羞恥が身体を覆い、しばらくその場から動けなかったはずである。
以上のことから、ソーニャは処女であるにしては、すべての想像しうる作業を、淡々とこなしすぎているのだ。
また、私はソーニャの非処女説と併せて、ラスコーリニコフの持っていたであろう下卑た期待こそが彼女を辱めている正体なのではないかと思う。マルメラードフによる話で、一種「幻」のように不幸で可憐な娘の姿を思い浮かべたラスコーリニコフの脳内で、果たしてソーニャは何を着ていただろうか。おそらく、男が「身体を売っている不幸な娘」というワードを他人から聞かされた際、思い浮かぶ娘の姿はどう考えても裸体のはずなのである。ラスコーリニコフは、こうした最も人間くさい下卑た感情を潜ませていたのではないか。
これまで色々と語ってはきたが、正直な話、ソーニャに処女膜が貼ってあろうがなかろうが、もはやこのドストエフスキーの大鍋のなかにおいては何の差し障りもない些細なことだろう。ラスコーリニコフの男性としての欲望があったとしても、それは善悪すべてが溶け込まれたドストエフスキーの世界観において、なんら恥ではないのだから。

【己も分裂者であるが故】-意識空間内分裂者が読むドストエフスキー感想-
濱田茜葵
●自身の意識空間内分裂者的見解
 私自身、実はここ半年程、自分が何者なのかわからなくなってしまった事がある。それはハッキリとした実態のあるものではなく、漠然とした地に足のついていないような不安であった。私の実態とはなんなのであろう。この疑問に未だに悩まされ続けているのは事実である。家族の前にいる<我>、大学にいる<我>、高校時代の友人といる時の<我>、アルバイト先での<我>……もっと言えば、大学の友人Aといる時の<我>とBといる時の<我>などなど……考えれば考えるほど、私の中の分裂した存在は数えきれない程にいる事をふと悟ったのである。知り合う人間の数が増える程、<我>も無限に浮かび上がってくる。その事を漠然とした不安として感じていた時、ふと気がついてしまった。「では、無数に枝分かれした<我>の根源はどの<我>なのであろうか?」。ようするにそれは、清水先生のブログで言う所の“分裂した様々な<我>を統治する意識(いわば映画における監督のような存在)”を私自身が見失ってしまっていると言う事なのではないか。どんなに考えても、むしろ考えれば考える程、“私の中の統治する<我>”の姿は闇に包まれて行った。むしろそれは悪化の意図を辿り、そちらに思考を奪われていたせいか、私の意識空間内の分裂者達も混乱を始めた。その場に応じた意識の中の<我>を正しく選択できなくなって来たのである。これは私の精神内は大問題の大事件であった。統治している<我>を模索しすぎた故の代償だったのかもしれない。元々統治する<我>は漠然とした物で、意識内でひっそりとしていなければならなかったのに、その実態を探ろうとした<我>(いわゆる反乱者)がその領域に足を踏み入れてしまったからこそ、混乱を招いたのかもしれない。
 先生のブログ内で話されている意識空間内分裂者とは、そう言った意味合いではないかもしれませんが、私のその精神状況もそのような事なのかもしれないと、一種の共鳴するような感情を身勝手にも感じた事もまた事実でした。均衡が崩れて崩壊してしまわない為にも、その精神をストップさせる<我>が区切りをつけ、新たなる統治する<我>を作り出してなんとかそれ以上の侵食を食い止めましたが、今でもふと考える事があります。私の中の統治する<我>はいったいどれなのだろう?と。だが、そこに区別をつけようと言う考えが、そもそもの間違いなのかもしれない。ですが、文献などにおいて、その人物の意識空間内分裂者を紐解いて行くのも、また面白いかもしれません。しかしこの行為は、狂気と背中合わせであると言う事を、私は無視をして考える事はできません。
 「意識空間内分裂者は文字通り意識空間内においては分裂しているわけだが、明晰な意識、演出家としての純粋意識を保持している限りは狂気に陥ることはない。」とブログで仰っていましたが、裏を返せばその明晰な意識が混乱に陥った時に、初めて人は狂気に陥ると言う事です。ですが、バフチンが言うように、ポリフォニック的思考法を身につければ、それら全てが迫害され読者自身が<無>のような、台所で言う所のスポンジのようにならなければいけない。私自身、いくつもの<我>を意識空間内に住まわせているのに、それを一気に排除しよう物なら、いったいどんな末路が待ち受けているのであろうか。それは恐ろしくもあり、しかし並々ならぬ興味を感じずにはいられませんでした。いつ何時でも演じ続けている自意識。「神を信じる」と演じた<我>がいるのならば、演じる前の<我>はいったい何者なのだろうか?いったいどのような思想を持ち合わせて最終的に“演じる”事を選んでいるのか。この答えは、命が尽きて火葬され灰になって海に捲かれた後も、解明されない謎であり、謎のままでなければいけないのかもしれない。

●「罪と罰」における、描かれていない箇所への飽くなき魅力。
 毎度の事ながら、批評家としての清水先生の思考の底深さには圧倒されています。私自身、親だの友人だの教師だの公僕だのに叱咤される際に「挙げ足をとるな」だの「言うならもっとマシな考えをしろ」だの言われますが、清水先生の批評は既に“挙げ足を取る”だなんてオコチャマな思考ではなく、それは既に膨大な“深読みする”と言う領域を通過し、更なる底へと潜り続けているのだと感じます。
 「罪と罰」は授業の一環を機会に個人的に購入して読ませて頂いたのですが、清水先生に出会う前に読んでいたら、素直にそのまま「描かれている事」だけを鵜呑みにしたままで終わっていたのかもしれません。ですが私の場合、清水先生の深読みを少々聞いてから読んだもので(自分でも影響を受けやすい人間だなとは感じます)、読んでいる際に「描かれていない事」までもが見えてくる始末でした。そうなると、自分でもそこから深読みをしてみたくなります。そうする事によって、「罪と罰」の魅力にどんどん魅了されてしまいました。
 ブログを読ませて頂いた事においても刺激を受けました。例えばソーニャ踏み越えのシーンにおけるポーレンカの視点です。確かに、その場にポーレンカがいなかったはずはない。いやむしろいたはずであると考えたくて仕様がない。黙ってその様を見ていたポーレンカは何を思ったろう、それとも、ソーニャへ向けて一言二言言葉を発していたのか、そこで無力な自分を語ったのか、はたまたその裏側で見物者としての存在にホッとする自分を感じていたのか、はたまた、残酷にも無関心に別の事に思いを馳せていたのか……考えれば考える程に答えはでずに、仮説ばかりが積み重なって行くが、そのたびに私は「罪と罰」の底知れない魅力の沼に沈み込んで行ってしまうのです。
 プリヘーリヤはドゥーニャを犠牲にする以前に、すでに自らを犠牲にしていたと言う事。ソーニャの処女喪失の謎。おかまであったかもしれないポリフィーリィ。ふと思ったのですが、異性になるべく去勢をしっかりと終えた人間だったとしたら「私はおしまいになってしまった人間」と言うのでしょうか?望み通りの姿を得ていたなら、心に支える物があったとしても何かしらの希望を見出せるものでは?私の中ではそこから、「もしかしたらポリフィーリィは去勢はしたが手術に失敗して中途半端な物体となってしまったのではないか?」と言う考えも浮かびました。もしそうなら、今だに彼の精神は解離した浮遊状態にあるのかもしれない。
 清水先生のおっしゃる通り「罪と罰」は読み旅に新しい発見を見せてくれます。特に意識空間内分裂者についてもっと知りたい。「分身」も探して読んでみたいと切に思いました。

「文芸比評論」から福島泰樹氏の絶叫コンサートへ

ここをクリックしてください エデンの南   清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室   清水正の著作
「文芸比評論」(2010/6/29)はフランクフルト大学の学生で、暗黒舞踏研究のために日本滞在中のサーシャ(アレクサンドラ・イヴァーノヴァ)に参加してもらい、授業の終わり近く、『罪と罰』のソーニャによる「ラザロの復活」の場面をロシア語で朗読してもらった。初めてロシア人による生のロシア語を耳にした学生たちは、ロシア語の魅力も強烈に感じたようだ。サーシャの朗読がすばらしかったという感想も多かった。
この日は授業終了後、研究室にはサーシャの恋人ルーディをはじめ、受講生やゼミの学生が集まり、親交を深めた。五時過ぎに大学を出て江古田の蕎麦屋で夕食をとり、大泉学園駅からバスで吉祥寺駅まで。目指すは「スター・パインズカフェ」である。ここで福島泰樹 短歌絶叫40周年記念コンサート 遥かなる友へ 追悼 立松和平が開催されているのだ。

清水正著『土方巽を読む』のチラシ     福島泰樹・絶叫コンサートのチラシ

チラシには「福島泰樹の短歌には、また彼の肉声が奔放に疾駆する絶叫コンサートには私たちの魂を揺さぶる根源的な力がある」(立松和平)と書かれている。久しぶりに魂が揺れ、全身の血が騒いだ。福島氏のコンサートにいくたびに感じるのが、メンバー一人一人のすばらしさだ。ドラム・パーカッションの石塚俊明、ギター・ボーカルの龍、尺八・横笛の菊池雅志、ピアノの永畑雅人。私とほぼ同年代のミージシャンたちであるが、彼らの発する音には色気というか、魂をくすぐるエロスが放出している。タマンネエナ、という感じがするのだ。しかも、この日は九州出身の舞踏家・白川麻衣子も出演し、魅惑的な舞で私の眼を奪った。暗黒舞踏の研究者サーシャの魂も激しく揺さぶられたようだ。第二部、龍の魂迸る歌唱は圧倒的な迫力であった。福島泰樹の絶叫コンサートは、出演者全員の「魂の共有体」を強烈に体感させる。福島さんの元気いっぱいの姿に接していると、改めて自分の仕事をきちんと続けようと思う。会場を出ると小雨が降っていて、火照ったからだに心地よかった。


清水研究室でサーシャとルーディ

清水研究室で親交を深める。

江古田の蕎麦屋で「たぬきそば」と「きつねそば」を食べる二人。

コンサート会場で。左はサーシャとルーディを福島泰樹絶叫コンサートに招待した山下聖美さん。

コンサート会場で話すサーシャと舞踏家の白川麻衣子さん。

福島泰樹 短歌絶叫40周年記念コンサート」のポスター。

「文芸比評論」はドストエフスキーの『貧しき人々』

ここをクリックしてください エデンの南   清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室   清水正の著作

「文芸比評論」はドストエフスキーの作品、特に『罪と罰』を重点的に扱う。最初の授業はドストエフスキーの一生を俯瞰し、『罪と罰』の現代性について触れた。この授業では汗をかくほど熱くなるが、今回は『貧しき人々』を取り上げる。この作品を読んで来た受講生は二人のみ。我と汝の対話的原理とその破綻。マルチン・ブーバーからフッサール現象学ハイデガー、ビンスワンガー、バフチンを概説し、『貧しき人々』と『カラマーゾフの兄弟』の共通性、バフチンの言うポリフォニック的思考法と唯一絶対の《我》の崩壊と、意識空間内分裂について講義。来週は『分身』を扱う。



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受講生の感想

今日の話を聞いて『貧しき人々』とっても読みたくなりました。
読んでみないとわからないけれど、今は貴族(ブイコフ)の人がいいです。
読んでから先生の話を聞いてもおもしろいと思うけど、
「先生の話」というとっかかりを持ってから読むのもおもしろいと思いました。
武田美穂・演劇三年)



印象として、ワルワーラはかなりしたたかな女と思います。
手紙の中でお金が必要と匂わせてマカールに貢がせるし、パシリにするし、
彼女はマカールがお菓子を送って来た時点で彼を弄ぶ気が満々だったように思えます。
やはり、台所のすみで暮らしはじめたこっけいな男としか、
彼女の目には映っていなかったのではないでしょうか・・・。
(秋田尭律・放送三年)


マカールのような男と付き合ったことがある。
彼は尽くす男としては非常に理想的ではあったが、
彼の愛に男性としての魅力はなく、あるのは奇妙な女々しさだった。
女が男を求めるとき、
そこにあるのはやはり、ブイコフのような身勝手な男らしさだと思う。
(山野目麗・演劇三年)


熟読していないのであまり書けませんが、〈愚鈍なマカールの悲劇〉というイメージ
がありました。
マカールにブイコフほどの財力があれば、もう少し違った態度をワルワーラにとれたのかな、と感じました。
次回からはきちんと読みます!
(名取和輝・放送三年)