『熊谷元一〜一年生〜』齋藤響 

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四六判並製160頁 定価1200円+税

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ドラえもん』の凄さがわかります。
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日芸図書館企画の展示「写真家 熊谷元一」は六月二日より十六日まで日芸アートギャラリーで開催されています。詳しくは日芸図書館(℡03-5995-8306)にお問い合わせください。


熊谷元一写真集『黒板絵は残った』(D文学研究会発行・星雲社発売)は五月三十日に刊行されました。

定価は1800円+消費税

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四月三十日の読売新聞夕刊15面に芥川喜好氏の「時の余白」で紹介、また五月二十一日に長野朝日放送で十分ほど特集番組として放映されました。

『熊谷元一〜一年生〜』
 齋藤響 映画学科3年 

 自分が初めて描いた絵を、果たして覚えているだろうか?
 日芸のアートギャラリーにおいて『黒板絵は残った』と題して、展示された熊谷元一の写真を眺めながら、その疑問が頭に飛び込んできた。写真には熊谷元一が自分の小学校で撮影した、生徒たちの絵が写っていた。それは生徒たちが自由に、何の制約もなく描いたものだ。
 子供たちの絵は、多種多様だ。誰も絵に関して特別な知識を持っているわけではない。だからこそ生まれる自由な発想、それが詰まった黒板となっていた。ある子どもは、おそらく自分の家であろう日常を描き、またある子どもは、ファンタジーのように現実から逸脱した絵を描く。絵の隣に日記のように字を添えたり、平面の中で奥行きを描こうとした痕跡もあったりした。今、大人になった私たちが絵を描いたなら、こうも十人十色な黒板は生まれないだろう。私たちは年を重ねる過程で、正確に物を描写する技術、対象に奥行きや陰影をつける知識を得てしまっている。その結果、描かれる絵は一つの方向に向かい、同化する。
 子供だけが持つことを許された自由な発想の土壌、これを耕すのが子供の仕事だとしたら、その土壌を塀で囲い、死守するのが大人の仕事になるだろう。その点、熊谷元一の仕事は偉業と言える。
 当時この黒板に絵を描いた子供たちが、大人になってから集まったインタビュー映像がある。その中で、一人の女性が「自分の描いた絵が不安で人に見られるのも嫌だった。しかし、熊谷先生はその絵を気に入ったと言い、とても褒めてくれた」と語っている。絵の上手さという誘惑から子供たちを守るには、自信や賛美を与えなければならない。そうでなければ、子供たちは忽ち筆をおいてしまう。
 また写真の中には子供たちが実際に絵を描いている時の様子も収められていた。子供たちはカメラには目も向けず、一心不乱に黒板と対峙していた。この一枚を撮影するだけでも、数多くの苦労と時間を有したはずだ。なぜなら人は自然とカメラを意識してしまうからだ。江戸時代、映画のカメラが発明されたばかりの頃、日本の風景を映像に撮った西洋人がいる。その映像には、人々がもの珍しそうにカメラを見て通り過ぎる姿が残っている。あまりに露骨なため、滑稽ですらある。熊谷元一が撮ったのは、ましてや子供である。カメラを意識の外へと運ぶには、より多くの知恵や工夫が必要になる。
 さて、ここで本文冒頭の問いに戻る。正直に告白すれば、私は自分が初めて描いた絵など思い出せない。いや、幼稚園の頃ですら記憶にない。だが、熊谷元一が撮影した『一年生』の写真を見ながら、自分がどんな思いで絵を描いていたか、それだけは少しだけ思い出せた気がする。子供の絵というものは、描いた本人以外には到底理解できないもので、それ故、親たちの笑いの種になってしまうのが常である。しかし、そこには当時の現状が、悩みが、想いが必ず反映されており、私は、今となっては欠落してしまったその記憶が呼び起される瞬間を、その写真の内部に見つけ出したのだ。

「文芸批評論」平成24年度夏期課題「ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフについての考察」小谷はんな

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[f:id:shimizumasashi:20120816101244j:image]
 『世界文学の中のドラえもん』 (D文学研究会)

全国の大型書店に並んでいます。
池袋のジュンク堂書店地下一階マンガコーナーには平積みされていますので是非ごらんになってください。この店だけですでに?十冊以上売れています。まさかベストセラーになることはないと思いますが、この売れ行きはひとえにマンガコーナーの担当者飯沢耕さんのおかげです。ドラえもんコーナーの目立つ所に平積みされているので、購買欲をそそるのでしょう。
我孫子は北口のエスパ内三階の書店「ブックエース」のサブカルチャーコーナーに置いてあります。
江古田校舎購買部にも置いてあります。

[f:id:shimizumasashi:20120829170256j:image]
四六判並製160頁 定価1200円+税

「文芸批評論」平成24年度夏期課題
ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフについての考察
小谷はんな

 ロジオンの〈アレ〉を考察するにあたって、まずはロジオンという青年について考えてみようと思う。
 彼は「軽薄で、虚栄心が強く、不断に自己を正当化」する「変種の詐欺師」もしくは「悪党の相貌」が窺える人物であると、先生は著書『ドストエフスキー論全集5』で述べられている。故に、彼はアリョーナやルージンを嫌悪するのだ。自分の中にあるそういった憎むべき〈もの〉を、彼らの中に見てしまったから。
 しかし、本当にそれだけだろうか。
 『ドストエフスキー論全集5 『罪と罰』論余話』第三部に、こんな一節があった。
 ――彼は自分が非凡人であるのかそうでないのかといった〈個人的関心〉にとらわれ、「おれにあれができるだろうか」という〈妄想〉にとり憑かれていた。もし彼が、自分を過剰な〈革命家〉として認識していれば、ネチャーエフの言う「彼のうちにあるすべては、ただ一つの関心、一つの思想、一つの情熱、つまり革命によってしめられている」の〈革命〉の箇所に〈あれ〉を当てはめることができたであろう。(中略)ラスコーリニコフには、ネチャーエフに見られた革命家としての認識も覚悟もない。『罪と罰』の出だしの部分から彼は深く思い惑っており、未来に対する確信がない。
 そう、ロジオンには、未来に対する確信がない。確信がないまま、彼は己の理論に基づいて、高利貸しの老婆・アリョーナを殺してしまったのだ。
 その行動はどこか、先のことは考えない間違った刹那主義を思わせるし、何より現実と夢想の線引きを上手く出来ていない妄想家としての面が強いように感じられる。
 昔、こんな事件があった。中学生くらいの男の子が、同級生を私刑の末に殺してしまったのだ。その時、彼が「ゲーム感覚だった」と言った言葉を今でも覚えている。その少年とロジオンが同じだとは言わない。彼は、曲がりなりにも元・法学部の人間であり、成人している一人の立派な青年である。だが、現実とゲーム…空想との世界が入り混じり、大きな事を起こしてしまうあたり、彼らはどこか似通っている。
 ロジオンは、母プリヘーリヤからラスコーリニコフ家の再建を過度に期待されている存在であり、また、父親亡き後の一家の大黒柱となるべき長男である。彼の重荷はいか程のものだろう。都会へ出て、所謂“はっちゃける”気持ちもわからないでもない。その心は、現代の若者にも通じるだろう。“高校デビュー”“大学デビュー”といった言葉が存在するように、人は、環境が変われば自分も変われると思い込む生き物である。
彼も、恐らくその類だったのではないだろうか。いくら思想を巡らせていようと、深い悩みを抱えていようと、ロジオンだって若者である。都会へ出て、母親から解放された新しい自分を楽しみたい。そんな願望を持っていても不思議ではない。
 しかし、彼は“大学デビュー”に失敗した。金銭問題だったり、婚約者の死だったり、理由は様々だし決して彼一人が悪いわけではない。だが、彼が悪くないわけでもない。こうして彼は屋根裏部屋で、今でいう“引きこもり”生活を始めざるおえなくなり、今でいう“ネットサーフィン”の代わりに自分の殻に閉じこもって妄想を始めた。
 そして今回の論点でもある、「おれにあれができるだろうか」に行き着くのである。

 では、〈あれ〉とは何なのか。
〈あれ〉とはとても多様性のある言葉である。読み手次第で、いか様にも解釈できるのだ。そしてそれは、先生が『ドストエフスキー論全集5』で仰っていたように、「〈あれ〉を単なる老婆殺しと見ていたのでは、『罪と罰』の深層に分け入ることはできない」、とても重要な言葉として描かれている。
確かに、表層的に見ると〈あれ〉とは〈老婆アリョーナ殺し〉である。そして、それに続く、盗んだお金で立ち上げる慈善事業であり、その成功でもあると言える。
だが、それはあくまで表層的な話だ。
ロジオンが生きていた1865年当時のモスクワは、ネチャーエフのように革命運動に燃える若者でひしめき合っていた。彼らが目指すものは新しいロシアであり、そのために、ロジオンの「おれにあれができるだろうか」の〈あれ〉に〈皇帝殺し〉を当てはめ、現にそれを見据えることのできる人種の人たちだった。
 しかし、先にも述べたように、ロジオンは未来に確信を抱いていない青年である。当時の革命家たちのように、手に入れたい未来があるわけでも、叶えたい世界があるわけでもない。
 第五部に、このようなことが書かれていた。
 ――ロジオンは表層意識の次元で高利貸しの老婆アリョーナ殺しを〈あれ〉と見なしていたが、革命家たちは明白に、諸悪の根源は〈皇帝〉の存在にこそあると見なしていた。〈社会のしらみ〉は、一人の老いた高利貸しではなく、専制国家君主の皇帝であると明確に認識していた。(381ページより)
 ロジオンは革命家ではない。彼に、皇帝殺しは不可能である。
 著者であるドストエフスキーは、ロジオンの言葉に含みを持たせたのかもしれない。だがしかし、ロジオンはそんなこと考えもしなかったのではないだろうか。
 先ほど、彼と母プリヘーリヤについて少し触れた。彼女は、一人息子に過度な期待を寄せ、うざったいほど重い愛情を捧げる母親である。そう、“母親”なのである。どんなに息子の人生を押しつぶそうと、彼女はロジオンの“母親”なのだ。これほど重い愛でロジオンを縛り付けるプリヘーリヤのことだ、彼が実家にいる間、猫可愛がりしていたであろうことは想像に容易い。ロジオンは、そんな愛情に包まれて生きてきた青年である。どんなに重苦しかろうと、彼は母の愛に浸って、育ってきた。
 そんな青年が、いきなり一人で都会へ出てきたのだ。プリヘーリヤは子離れできない親である。だが、それと同じくロジオンも、親離れできていないのではないかと私は思う。確かに彼は法学部の学生で、自分の理論を持っていて、何やらいつも難しいことを考えているような気配がする。現に、彼は独自の犯罪理論を打ち立て、それに沿って行動した。しかし、彼の精神年齢はどうだろうか。母親に対するどこか子供じみた反抗的態度、先を考えずに起こした老婆殺し、私には、ロジオンが幼い少年のように思えてならない。彼は、体ばかりが成長してしまった、母親離れできない少年なのではないだろうか。
 だからこそ、改めて思う。彼に〈皇帝殺し〉を思いつくことはできない。それを…革命を思い描くには、ロジオンの心は幼すぎる。

 ならば、〈あれ〉とは何なのか。やはり表層的な〈老婆殺し〉でしかないのか。
 『ドストエフスキー論全集5 『罪と罰』論余話』第三部には、このようなことも書かれている。
 ――〈あれ〉とは、表層レベルでは〈老婆アリョーナ殺し〉であり、隠された深層レベルでは〈皇帝殺し〉と言えるが、究極的には〈復活〉を意味している。屋根裏部屋で生きながらにして死んでいるような生活を送っていた〈一人の青年〉が、何よりも望んでいたのは〈復活〉なのである。
 ここでいう〈復活〉とは、何もイエスキリストのように本当に一度死んで生き返ることを指しているのではない。それは、彼が無神論者であると同時に、ここまで通して見てきたロジオンという青年が、自殺まがいなことを考えるような人物ではないことから明らかである。
 彼の望む〈復活〉とは、彼の人生が再び輝くこと、彼が彼の人生を歩むことを指しているのではないか。ラスコーリニコフ家再建を期待され、母プリヘーリヤの敷いたレールの上を歩いてきたロジオンは、自分の足で人生を歩いているという認識が乏しかったのではないか、と私は思う。故に、心が成長…自立できないまま大人になってしまったのではないだろうか。そして、「おれにあれができるだろうか」と思い悩み、やがて殺人を犯してしまった。
 ロジオンが最終的に求めていたものとは、一体何だったのか。私は、彼は〈生きているという感覚〉が欲しかったのではないかと思う。妄想と現実の狭間に生き、どこか地に足着かない生活を送っていたロジオン。そんな自分を現実に連れ戻す〈切っ掛け〉。それを求めていたのではないだろうか。だから、殺した。
 物語的には矛盾があるかもれない。だが、私はそう思うと、このロジオンという青年が普通の男の子のように感じられ、どこか親近感が沸くのだ。
(3355字)

「文芸批評論」平成二十三年度最後の授業

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本日、柏で人身事故があり一時間ほど遅れて快速が発車。ニ時四十分から始まる「文芸批評論」は四十分ほど遅刻となった。それでも熱心な受講生が教室に集まっていたので、最後の授業を雑談風に展開。この授業はドストエフスキーの『罪と罰』を中心に進めてきたが、三島由紀夫志賀直哉宮沢賢治つげ義春藤子・F・不二雄、ソポクレスなどの作品も扱った。アットホームな雰囲気の中で一年間を過ごしたので、受講生の名前と顔もしっかり覚えた。最後にみんなで仲良く記念撮影。

文芸批評論は『オイディプス王』の朗読・演技

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本日の「文芸批評論」は演劇学科学生による『オイディプス王』の朗読・演技。「マンガ論」を受講したことのある学生が今年の「文芸批評論」には何人かいるので、朗読・演技にもすぐに対応、熱演してもらった。

「文芸批評論」で(オディプス王」を講義

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「文芸批評論」はドストエフスキーの作品を主に題材にして授業を進めているが、当ブログでは「マンガ論」の授業内容は紹介しているが、この授業はまったくと言っていいほど取り上げていない。ただし、今年は「マンガ論」「雑誌研究」とこの「文芸批評論」の授業はすべてビデオ撮影してある。今年最初の「文芸批評論」は十二月十日に行ったが、ソポクレスの「オイディプス王」をとりあげた。十六年前に七百枚近くの『「オイディプス王」を読む』を刊行したが、これについて授業でとりあげることはなかった。昨年、大地震津波・原子炉爆発と続いたので、その関連で「オイディプス王」をとりあげようと思った。昨年暮れから本格的にこの作品を取り上げたのは、実は『ドラえもん』にある。ベトナムでこの作品が大人気であること、ベトナムの日本料理店「どらえもんかか」に三度も足を運んだことなど、もあって、まずは『ドラえもん』論を書き始めて、今は『アポロンの地獄』を批評することになった。『ドラえもん』をドストエフスキーの文学やソポクレスの『オイディプス王』などと関連づけて『世界文学の中の「ドラえもん」』を刊行する予定で進めている。

「意識空間内分裂者が読むドストエフスキー」連載1〜8までを読んだ感想(4)

「意識空間内分裂者が読むドストエフスキー」連載1〜8までを読んだ感想
岡本名央
【「罪と罰」の闇鍋的要素】
 一年を通して文芸批評論の講義を受けて、また「空間意識内分裂者が読むドストエフスキー」の第一回連載から第八回連載までを読んで、私は「罪と罰」という一つの物語に「闇鍋」的な要素を感じました。
 闇鍋というのは多人数が自分以外には不明な材料をもちより暗中で調理をする鍋料理です。料理というには持ち寄った材料によってはとても危険でスリルがあまりにもありすぎるイベント的なものです。また、ルールや作法は様々ありますが参加者は大概それを重視します。私も高校生の時に親しい身内で一度やったのですが、最初にルールや作法を厳しく取り決めてそれを遵守しなければ楽しくないのです。まず鍋内の汁に溶解する具はだめだとか、箸をつけたものは必ず口にするとか、ローカルルールも存在するはずですがおおよその闇鍋はこのような作法が取り決められています。ちなみにそのとき私が箸をつけたのは、猫の餌を固めてつくった団子でした。これは美味しかったです。
 世界的な文学である「罪と罰」をつかまえて闇鍋などと称したのは、この物語には表面だけさらって読んだだけではけして見えてこない部分が沢山あり、またその見えず隠された部分にこそ本質があり、その本質がとてもどろどろとして暗く、けしてきれいごとでは済まされないようなものだと思ったからです。
 この物語を最初に読んだ時はロジオンの<踏み越え>による苦悩とそれを救うソーニャの神聖さ、それがこの物語の主軸的な部分なのだと思っていました。ですが文芸批評論の講義を受けて更にブログの記事を読んで、それがあまりにも表面的で何も見えていなかったということを思い知らされました。
 人二人を殺しておきながら他人を卑劣間と呼び何も恥じることがなく、神を信じている<我>と神を信じない<我>を器用に使い分けそれぞれに成りすましている。そもそもナタリヤと婚約したのも娼婦を買う金がなく彼女を性的な欲求の捌け口としてのことだったという点ですでに下劣。「ぼくはきみの前にひれ伏したのではない。人類のすべての苦悩の前にひれ伏したのだ」などという台詞はまさしく何を言ってるんだこいつは、といった感じです。先生が授業内で仰ったとおり、暴力とセックスのない文学はない、人間においてもそうだと思います。性的な欲求は人間からはけしてきり離せない、だけどそれを表面からだと綺麗にしか見えないように隠している、それが何よりも卑劣に感じました。
 ソーニャに関しても同じように思いました。彼女は人を責めず、裁かない。信心深く、高潔。家計を助けるために銀貨30枚で、処女を売った。そこに悲劇性があるわけですが、考えてみるとソーニャがそれまで処女だったとはどうしても思えないのです。初めて男に身体を開いたというわりには、あっさりと行って帰って来すぎている。それにソーニャほどの美しい娘がこの歳になってまで言い寄らなかった男がいたとは思えない。
 ロジオンの妹のドゥーニャにしても同じようなことがいえます。彼女が短期間で関係を結んだ男は3人。表面的に描かれている兄思いも自己犠牲的な女性という表現だけで片付けるには、彼女の高潔性はあまりに疑わしい。
 ソーニャの母親のカチェリーナもそうである。彼女は精神を害しているが、その前にほとんど身売りのような形でマルメラードフに嫁いだという過去がある。そんな過去があるからこそ、ソーニャに売春を促すようなことを平気で言えたのでしょう。
 この物語には他にも深く考えてみなければわからない、主に性的な関係に対する「描かれていない部分」が多すぎると思いました。もし文芸批評論の授業も受けず、先生のブログの記事を読んでいなかったなら、そんなことも見えないまま「いいお話でした」で私の「罪と罰」は終わっていたことでしょう。
 ただ終わらず、その裏側を考える機会を得て、私は「罪と罰」という闇鍋に箸を突っ込みました。何を掴んで、何が出てくるかわかりませんが、出てきたものは真実で、そして作法に則って私はそれを必ず食べなければなりません。それが美味しいと思うか、また吐き出してしまいたいほどまずいと思うか、それも人それぞれだと思います。それでも一度でも闇鍋に対する楽しさ、言い換えれば興味を見出してしまったからには、これからも一人でその闇鍋を続けていきたいと思っています。

「意識空間内分裂者が読むドストエフスキー」連載1〜8までを読んだ感想(3)

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「文芸批評論」受講生のレポートを紹介します。


「意識空間内分裂者が読むドストエフスキー」を読んで
齊藤 功
 連載第一回目から第八回目までを読ませていただきました。「意識空間内分裂者」とは一体なんなのだろう、とタイトルを確認するたびに思い、そのことについて触れたのが第三回目でした。状況、場面によって顔の違う、様々な面を持つ人間が狂気に陥らないのは、その様々な面を統治する意識があるからだ、ということだと思うのですが、そういったこと自体考えたことがない(そういった発想すら持つことはありませんでした)ので、やはり、僕自身が理解に至っていません。
 他人についてはわかりません。親でさえ、僕が目にしているのは親の一面にしか過ぎず、家を一歩出たとき、どのような面を見せているのか知りません。
 しかし、僕自身について言えば、確かに様々な面を持っているのだと思わざるを得ません。意識的にしろ無意識的にしろ、こうして平面で文を綴っているときの僕と現実世界で動き回っている僕とで、すでに二つの面が出ています。普段の僕からして見ますと、文面の僕は饒舌ですよ。また、家の中と外でも違う面を持っていると思います。
 僕が考えることが出来たのはここまでです。その先の、これらを統治する意識については考えられませんでした。思いもよらないものです。
 今回、清水先生のブログを読ませていただいて、そこで初めて“分裂した様々な〈我〉を統治する意識”というものを考えました。が、詰まりました。それが一体なんなのか、わかりませんでした。僕の中にある様々な面の一つなのかもしれない、とも思いましたが、どうも、それとは違うような気がしてなりません。僕自身ですら知り得ない、唯一の面がそれなのかもしれないとも考えました。ともすると、それはなんなのか。真の僕なのか、と自分でも良くわからない考えに至り、わからなくなります。
 第一回目にも書かれていますが、改めて“謎”という言葉を思い出しました。僕にとって、“分裂した様々な〈我〉を統治する意識”こそ“謎”です。
 一年のときに清水先生と出会い、「罪と罰」に出会いました。そして、ようやく読み終えたのが去年の暮れです。カミングアウトです。清水先生の批評を聞いたのは、実はマンガ論の「ピーコ」が初めてだったのですが、あの時の驚きは忘れられません。一読したときは面白くなかったのですが、清水先生の批評を聞いて読み返しますと、本当にそのように見えてしまい、さらには、そのようにしか見えなくなりました。
 そこから一年間「罪と罰」の批評を聞き、そしてまた、この一年聞かせていただきました。先のカミングアウト通り、「罪と罰」を読み終えたのは去年の暮れです。それまで、中巻の半分くらいまで読むことはあっても、読破していませんでした。しかし、清水先生の批評は聞きたいと思いました。第五回目のブログで“何回も批評しているので、繰り返しも多いが、その繰り返しにも飽きない”と先生自身書かれていますが、僕も飽きないですね。それほど面白いし、強く影響を受けます。本当は読んでから聞くべきなのですが、わからなくても聞きたい、と言った心持でした。
 しかし、第六回目のブログを読んで、少し揺らぎました。清水先生の批評は本当に影響力があると思います。現に、「罪と罰」を読んでいきますと、描かれざる部分が浮かび上がってきます。
 女子学生が「処女だって……」と口にしたその真意はわからないのですが、その呟きで先生がハッとしたと書かれたように、僕もハッとしました。影響を受けているだけではいけないのだ、と。言葉がおかしいですが、これが今回ブログを読ませていただいた一番の収穫なのだと思います。
 最後に、一年間ありがとうございました。

「意識空間内分裂者が読むドストエフスキー」を読んだ感想 
 板谷絵理
一口にドストエフスキーの作品と言っても、翻訳者によって作品はがらりとかわるということがよくわかった。何人もの批評家たちが長い人生をかけて批評してもしきれない、ドストエフスキーの作品の奥深さが改めてわかった。
ドストエフスキーの作品はキリスト教ともつながりを持っており、教徒でないものに批評するのは難しい場面もある。小林秀雄は晩年、講演で自分はキリスト教がわからないのでドストエフスキー研究を断念したと語っている、と書いてあったが、文学作品にはその著者の人生観が関わっている場合が多い。国、時代が違えば各々の価値観、倫理観も違ってくる。それを考えれば小林秀雄の言うことはもっともだと思う。環境の違う時代、国の作品を批評することの厳しさがよくわかった。
ドストエフスキーの「罪と罰」では作中にはまったく性的な場面は描かれていないが、この記事を読むだけで実際はこうであったはずだ、という事実が見えてくる。描かれていないだけであり、作中の状況からおそらくこうであったと様々な憶測ができる。
例えば、ロジオンがナタリアと婚約したのは彼が彼女の中に永遠の伴侶にふさわしい高潔な何かを見いだしていたと見ることができる。しかし未亡人プリヘーリヤから仕送りされてくる金で、ドイツの青年紳士気取りで外套や靴や帽子を購入するような、気取りやのロジオンは金のかかるプロの娼婦代わりにてっとりばやく、しかもただで満足を得ることのできる下宿の娘、だれも相手にしないような不具の女に手を出したのである。後者の見方の方が自然に感じた。
罪と罰』の人物たちは描かれた領域と描かれざる性的な領域の二つを重ね合わして見ていかないと、とんでもないきれいごとになってしまうことになる、とあるが初めてこの作品を読んだ時にはなにも思わなかったのがまさにそれであった。
罪と罰は実質約一週間の物語であるがその内容は深く、作者によって語られることの無かった不透明な部分を解析し続けるには時間がいくらあっても足りない。何人もの人が何十年と時間をかけているのにも関わらず未だに新しい発見があるというのには感心するしか無い。
作家は人生をかけて小説を書き、批評家もまた、それに人生をかけているのである。
芸術一般に言えることであるが、作品そのもので芸術品であるわけではない。作品を鑑賞する人が芸術品をつくるのである。ドストエフスキーの小説にしてもそれを読むものや批評家が作品を名作にしているのである。
今回「意識空間内分裂者が読むドストエフスキー」を読んで、ドストエフスキーの作品の深さを再認識した。数多の名作を生んだドストエフスキー、批評家たちを賛美するしかない。