図書館長室にしりあがり寿さん、東陽片岡さん、手塚能理子さんたちが集まり談笑。


本日は「文芸特殊研究」の授業後、図書館長室にしりあがり寿さん、東陽片岡さん、手塚能理子さんたちが集まり談笑。

清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。
ここをクリックしてください エデンの南   清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室  
   グッドプロフェッサー

京都造形芸術大学での特別講座が紹介されていますので、是非ご覧ください。
『ドラえもん』の凄さがわかります。
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp
[f:id:shimizumasashi:20120816101244j:image]
http://www.youtube.com/user/kyotozoukei?feature=watch

『世界文学の中のドラえもん』を読んで・吉田紗耶香

清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。
ここをクリックしてください エデンの南   清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室  
   グッドプロフェッサー

京都造形芸術大学での特別講座が紹介されていますので、是非ご覧ください。
『ドラえもん』の凄さがわかります。
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp

http://www.youtube.com/user/kyotozoukei?feature=watch

「マンガ論」平成二十四年度夏期課題
 『世界文学の中のドラえもん』を読んで
吉田紗耶香
 私はアニメで『ドラえもん』の世界に親しみました。マンガも全く読んでいないわけではないですが、何巻のどんな話を読んだのか、頑張っても頭が痛くなるくらいで、とんと思い出せそうにありません。
今の子供たちは水田わさびさんの声で『ドラえもん』を楽しんでいますが、私の世代はまだ大山のぶ代さんの声でした(声優さんが変わる時は寂しさを覚えましたが、私はどちらの『ドラえもん』もそれぞれの良さを持っていると思います)。『ドラえもん』にハマったのは、映画『ドラえもん のび太の南海大冒険』を観てからで、それからテレビシリーズの方も好きになりました。
ファンである私なりに、『ドラえもん』にはいろいろと疑問を抱く箇所があります。たとえば、「歴史を変える行為を取り締まるタイムパトロール隊が、どうしてセワシを逮捕しないのか」だとか、「セワシはなぜ四次元ポケットだけでなく、ドラえもんごと連れてきたのか」とかです。また、映画ではよく「タケコプター」の電池が切れて飛べなくなることがありますが、「タイム風呂敷」で電池が切れる前の状態に戻せば問題ないのにと、もどかしく思ったこともあります。しかし、私は「そういうことには触れないお約束なのだろう」と暗黙のルールに逆らうことはせず、疑問は脇に置いて、作品は作品で楽しんでいました。私は批評というものはよくわかりませんが、今回清水先生の「世界文学の中の『ドラえもん』」を読んで、「敢えてその暗黙のルールを打ち破ってこそ、今まで見えなかったものが見えて来る」という批評の面白さに気づくことが出来ました。マンガの場合小説と違って、視覚から先入観を植え付けられてしまいますが、だからこそ隠れている意味に気づいた時の喜びは大きいと思います。その喜びを得るためには、清水先生がやっているように、一コマ一コマを丁寧に「見読」することが必要ですが、私がそれをやったところで色々なものを見逃しそうです。
『世界文学の中のドラえもん』の中でとくに印象に残っているのが、一二三頁のドラえもんの位置についての話です。十三頁の一コマ目ではセワシとのび太の間にいたドラえもんが、三コマ目でセワシの左脇にいると書かれています。私はこのドラえもんの位置の変更に違和感を覚えたものの、それが何を意味するのかまでには考えが及びませんでした。だから、「ドラえもんはセワシの論理に賛同していることを示している。」という先生の文章を読んで納得しました。立ち位置で立場まで表現できるのは、小説にはないマンガの特権だと思います。

 ここからは清水先生に影響されて、私自身も頭を使ってみたくなったので、前述したいくつかの疑問について考えていきたいと思います。先生が著書の中で述べたことの重複のような箇所もありますが、自分なりに噛み砕いて消化したいので、あえて書くことにしました。

【タイムパトロール隊の謎――どうしてセワシを逮捕しないのか】
 二十二世紀の法律では、タイムマシーンに乗って過去の事実を変えることは禁止されています。その不正を取り締るのがタイムパトロール隊です。
 ところで、セワシの目的は「のび太を悲惨な運命から救い、自分が貧乏から脱すること」です。二十二世紀の法律に照らし合わせれば、セワシのやっていることは違法となります。そうなると、ドラえもんは共犯者ということになります。にもかかわらず、タイムパトロール隊はドラえもんやのび太と接触していながら、彼らの行為を取り締まることはおろか、注意すらしません。もちろん、ドラえもんは大量生産された子供のおもり専門ロボットなので、セワシの命令に背けなかったとも考えられますから、お咎めなしかもしれません。しかし、セワシは確実にペナルティーを科せられるはずなのです。
それでも彼が逮捕されない理由は一つです。その理由とは「彼が過去を変えてはいない」というものです。すると、最低でも二つの時間軸が平行して存在していることになります。一つはジャイ子とのび太の結婚の果てにセワシという孫の孫が生まれる世界で、もう一つは「セワシがのび太のところに彼の運命を変える目的でやってくる世界」です。のび太のところにセワシがやってくることは元からの決定事項だったので、タイムパトルール隊も逮捕する必要がないというわけです。

【セワシはなぜドラえもんごと送ってきたのか】
 のび太に便利な道具だけが必要ならば、四次元ポケットさえあれば事足ります。しかし、セワシは「四次元ポケットをつけたドラえもん」をのび太のもとに寄越します。もちろん「ドラえもん抜きのポケットのみ登場」だと、作品としての面白みもなくなってしまいますから、そこは作者の判断が働いているのでしょう。ただ、作品の中で考えてみると、セワシがのび太に四次元ポケットだけを持たせたくなかったと考えられます。
 そもそも、ドラえもんには案外物騒な道具も多数登場します。嫌いな人を消すことが出来る「独裁者スイッチ」、受験制度を脅かす「暗記パン」、世界のルールを変更できる「もしもボックス」などがそれです。また、ドラえもんがネズミを退治しようとしてミサイルを取り出したこともあります。そんな物騒なものをのび太に持たせたら大変なことになるのは目に見えています。
 ここで考えたのは、欲望の象徴が四次元ポケットなら、理性の象徴が『ドラえもん』なのではないかということです。また、四次元ポケットさえあれば不可能なことはないはずなのに、タケコプターの電池切れで移動が出来なくなったりするのは、ドラえもんが「おっちょこちょいな面を持つ」という設定を背負っているからです。ドラえもんがいる限り、のび太の際限のない欲望が暴走して彼を滅ぼすことはありません。

【番外編:のび太の何が一番かわいそうなのか】
 『世界文学の中のドラえもん』を読むと、マンガのほうののび太の母は、アニメのほうの母よりも優しい(甘い)印象を受けます。アニメの母はいつも小言ばかり言っています。のび太の一番の悲劇は、勉強が出来ないことでも、運動が出来ないことでも、何かの才能を持ち合わせていないことでもなく、彼と本気で向き合ってくれる大人がいないことです。小言を言うのは、彼の学力を上げることより簡単です。マンガのほうはマンガのほうで、彼のSОS信号を「こわいゆめを見たのね」で済ませてしまって彼の問題と向き合うことをしません。のび太は「たとえどんなのび太であろうと受け入れてくれる存在」を必要としていながら、ある意味母親不在の状況に置かれています。そこへ、いくら(のび太が)駄目な面をさらけ出しても見捨てない、子供のおもり専門ロボットのドラえもんがやってくることで、のび太の救いの物語が始まるのではないでしょうか。


 最後に、前述した疑問の、先生の解釈を授業などで聞けると幸いです。また、時間があったら、「1」が死の数字で「13」が再生の数字だということについて、授業で詳しく解説していただけると嬉しいです。

『世界文学の中のドラえもん』を読んで・松原悠生

清水正への原稿・講演依頼・D文学研究会発行の著作購読希望は
 qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。

ここをクリックしてください エデンの南   清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室  
   グッドプロフェッサー


京都造形芸術大学での特別講座(清水正『「チーコ」「ドラえもん」の読解』)が紹介されていますので、是非ご覧ください。
『ドラえもん』と『チーコ』をダイナミックに解体・再構築しています。
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp
 『世界文学の中のドラえもん』 (D文学研究会)

全国の大型書店に並んでいます。
池袋のジュンク堂書店地下一階マンガコーナーには平積みされていますので是非ごらんになってください。この店だけですでに?十冊以上売れています。まさかベストセラーになることはないと思いますが、この売れ行きはひとえにマンガコーナーの担当者飯沢耕さんのおかげです。ドラえもんコーナーの目立つ所に平積みされているので、購買欲をそそるのでしょう。
我孫子は北口のエスパ内三階の書店「ブックエース」のサブカルチャーコーナーに置いてあります。
江古田校舎購買部にも置いてあります。

「マンガ論」平成二十四年度夏期課題

『世界文学の中のドラえもん』を読んで
松原悠生
 ドラえもんというと日本だと誰もが知っている。
十年以上前になるが、インターネットを使い始めた小学生の頃、“どらえもん”と打ちこむと、“ドラえもん”と、“ドラ”はカタカナで“えもん”はひらがなでしっかり変換され感動したのを思い出す。
その後、携帯電話でメール文章を使いは始めたとき、ふとしたときに予測変換に“ドラえもん”と出てきたときにも驚いた。
何が基準となって予測変換が登録されるのかは全く不明だが、間違いなく浸透しているということだけは窺える。
 『世界文学の中のドラえもん』を読み、ドラえもんという<生き物>は一体何なのだという問いかけが強いテーマになっていると感じた。
そこで私は一つ仮定してみる。ドラえもんはただ、適当で軽薄な未来人なのではないか、と。
「三十分後には首をつる。」「四十分後に火あぶりになる」といきなり正体もわからないまま言いだす。脈絡がなさすぎて理解できない。
現実的に考えて首をつるということはそうそうない。ましてその十分後に火あぶりなど尚更ありえない。
著書の中で時間についても触れていたが、首つり状態の四十分後に火あぶりになるとも、このセリフだと受け取れるが、それを加味したとしてもまずこんなことはないだろう。
不安を煽るだけ煽っといて、登場したら「ぼくはきみをおそろしい運命からすくいにきた。」と言う。こんなのまるで子供ではないか。幼すぎではないか。
小学生が友だちに見栄を張りたいが為に口から先に出てしまった虚言のよう ではないか。
 実際にこの後、のび太が事故で首つり状態になり、事故で暑い湯の中に入ってしまった。
しかし、これは火あぶりになるのか?いやならないだろう。のび太が「これも一種の火あぶりだ」と言っているが私にはこじつけに思える。
無理に当たったことにして、これを真実にしているのは他ならぬのび太自身である。
 未来人故に、ひどく苦しい思いをのび太はするが絶対に死なないとわかっているからなのか、ひどく軽い態度である。
もちのことを知らないのに何の警戒心もなく「うまいもんだなぁ。」と、相当なリラックス状態で呑気なものである。
これは、十分適当な未来人であるという証拠になり得る。
 こんな自分の暗い未来に対して 軽い対応をするやつの言うことを、人はそうすぐに信じられるであろうか。私は信じることはできない。
しかしのび太は警戒心満載ではあるが信じ始めている。のび太が単純に頭が足りないのんびり屋ということもあるだろう。けどそれだけではない。
 そこにドラえもんの丸々としたフォルムが関係してくるのではないか。平和・幸福・調和・安心などを意味し、不安や恐怖を与えないと著書の中に記してある通りだ。
このドラえもんがドラえもんたる由縁の丸いフォルムでのび太はドラえもんを信じてしまった訳だ。
 このドラえもんをについて、思うことはもう一つある。このマンガは母性が強すぎる。ドラえもんの丸々した姿が無意識に母性を感じさせるのもそうだ。
次に、両親が「よけいな心配しないで、のびのび育ってね。」「のび太はきっとしあわせになれるよ。」と言ったり、第一話に出てくる両親の描写を見ている限りだとどうも甘い印象を受ける。
息子が突飛なことを言い出しても、マンガ家になれるなと空想力を褒めだす始末だ。
中流家庭の子供は、猛勉強して一流大学に入り、一流企業に就職するということを望まれているというがこの家庭にはあてはまらないだろう。
のび太の周りには母性と母性しかなく、父性が圧倒的に不足している。
 この第一話時点ではこのドラえもんをという作品が人気が出て、アニメ化し何年にもわたる国民的長寿アニメになって世代をまたぐことになるとは思っていなかったかもしれない。
しかし、こういうマンガであればこそ、父性を表して欲しかったと思う。
ではその父性というのは何かということになるが、私はそれを見守る愛だと思う。口うるさく言わない。手助けを細やかにする訳でもない。しかし最後の最後にダメなものダメと決断してくれるという存在だ。
そんな存在こそが、勉強もスポーツもできない、芸能関係の才能がある訳でもない劣等生なのび太を救ってくれるのではないかと思う。
 これは今の世にも通ずるような気がする。
マンガ規制条例ができたり、テレビで何かあると本当に些細なことでもクレームになり不適切だと問題になる。口うるさい且つ馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
こういう時代だからこそドンと構える父性が欲しくなる 。しかしそれも難しいのだろう。
単純に規制したり、うるさく言ったりするほうが楽だからだ。人は好んで苦しいほうを選んだりはしない。
そういう人間の心理があるから、ドラえもんはヒットしたのだろう。
自分は何もしなくても欲求は満たしたい。楽したい。という“夢”のあるマンガだからこそ。

『世界文学の中のドラえもん』を読んで・高野璃奈

京都造形芸術大学での特別講座(清水正『「チーコ」「ドラえもん」の読解』)が紹介されていますので、是非ご覧ください。
ドラえもん』と『チーコ』をダイナミックに解体・再構築しています。
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp
 『世界文学の中のドラえもん (D文学研究会)

全国の大型書店に並んでいます。
池袋のジュンク堂書店地下一階マンガコーナーには平積みされていますので是非ごらんになってください。この店だけですでに?十冊以上売れています。まさかベストセラーになることはないと思いますが、この売れ行きはひとえにマンガコーナーの担当者飯沢耕さんのおかげです。ドラえもんコーナーの目立つ所に平積みされているので、購買欲をそそるのでしょう。
我孫子は北口のエスパ内三階の書店「ブックエース」のサブカルチャーコーナーに置いてあります。
江古田校舎購買部にも置いてあります。

「マンガ論」平成24年度夏期課題
わたしの知らない世界
 高野璃奈
わたしは「世界文学の中のドラえもん」をよみました。その中には、私の知らないドラえもんの世界が広がっていました。まず、この本を読んだ感想を述べる前にマンガ論の講義を受けてわたしが得たものを話したいと思います。
 わたしは幼い頃からマンガが大好きです。なぜなら小説のように字がいっぱい列になって並んでいるだけではなく、マンガは絵がありよむだけでなく絵をみているだけでも楽しめる本だからです。わたしはそんな大好きなマンガを題材としている授業が大学にもあることを知ったとき、心が躍るようにワクワクしたのを覚えています。ですが実際に講義をきいてみたら、今まで気がつかなかった見方や考え方を知ると同時に自分の読解力のなさ、考え方の甘さなどを思い知らされました。清水教授は1つのマンガの作品の内容を丁寧に1コマ1コマ細かく読解したものを説明してくれます。今までわたしはそんなに1コマ1コマを重視してマンガを読んだことがありませんでした。マンガ論では1つ1つの作品を掘り下げて教授の持論を講義していくのだろうなと思っていました。けれども、何をどう掘り下げていくのかということを具体的には考えていなかったので、こんなに1コマを丁寧にみていくことが、何回も同じ作品を読んでみても毎回違う作品を読んでいるように楽しめる方法なのだと実感することができ、マンガについて今までよりマンガというものの見方のレパートリーか増えたことをうれしく感じました。今までのわたしは面白いマンガを面白いと思った見方でしかみていませんでした。「こうなっているから面白いのだ!」と勝手に決めつけていました。そのマンガの面白さを一方からみて決め付けていました。けれどもマンガには一方からではなくまた違う方向からみても同じマンガを読んでいるはずなのに違うマンガを読んでいるような面白さがあり、一見よんだだけではわからない世界が存在することを知りました。知れたことでやっと本当の意味でマンガをよむということのスタートラインに立てた気がしました。そんなわたしが「世界文学の中のドラえもん」をよみはじめたのです。
 「世界文学の中のドラえもん」をよんで、わたしはさらにドラえもんというマンガが好きになりました。ドラえもんは最早日本人なら知らない人はいないというくらい日本のマンガ界で大きな存在のもの。ですがそんなドラえもんを第一巻第一話の1コマ目からこんなに細かくのび太の状況をよみ解いた人は世界中でもどれくらいいるでしょうか。わたしはドラえもんというマンガの世界を、この本を読み進めていくに連れてどんどん今までみて知っていたドラえもんは間違っていたような気分になってしまいました。わたしが一番興味を持って読んで覚えているところはP16の[第一貢第一コマの衝撃]の論文です。清水教授の批評衝動を強く感じるマンガは、たいてい第一貢第一コマが全編を予告している、と書かれていました。このことばにわたしはすごく興味をそそられました。まさかマンガの一番最初のたった1コマが物語の結末までをにおわせているなんて考えてもみなかったからです。ここをよんだからこそこの本をよみ進めていきたいと興味深く思いました。
 わたしは清水教授の講義がすきです。ドラえもんに限らず色々なマンガ作品の、わたしがよんだ第一印象的な真実が、教授の研究の積み重ねから得た真実によってまた違った世界が生まれてくることに感動しています。まだまだ色んなところで学ぶ機会がたくさんあって、わたしが知らない世界がまだまだたくさんあることに、いますごくワクワクしています。近頃のわたしは自分の好きなものにしかあまり興味を持って学ぶことができなかったのですが、マンガ論の講義を受けて、いままで読んだことのないようなジャンルのこの課題の本を読んで、よみはじめたら面白いもの、興味が出でくるものもあるんだなと思いました。今まで読んだことのないような種類の本をよんでみたい。これは恥ずかしながら中学生の時以来の意欲のように思います。なので「罪と罰」も今まで読むことに抵抗があったのですが、読んだら、この「世界文学の中のドラえもん」をもっと深くよみこめるだろうし、マンガ論の講義ももっと楽しく受けられるかもしれないと思ったので読んでみようとおもいました。そう思わせてくれたのがこのドラえもんが出てくる本でした。

『世界文学の中のドラえもん』を読んで・佐藤亮太

清水正への原稿・講演依頼・D文学研究会発行の著作購読希望は
 qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。
ここをクリックしてください エデンの南   清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室  
   グッドプロフェッサー
「マンガ論」平成24年度夏期課題
世界文学の中のドラえもん、私の中のドラえもん
 佐藤亮太
清水先生の「世界文学の中のドラえもん」を読んで、まずは感想として今までの授業で説明された情景やセリフなどが更に事細かく、わかりやすくまとめられていて何度もなるほどと深く共感した部分も多く、
とても面白かったです。
私達の世代だと、生まれた頃にはすでにドラえもんという作品はこの世にあって、気がついた時には私達の生活の中に完全に浸透していました。漫画やテレビはもちろん、今では教材などにも登場するほど、娯楽という枠組みを越えその姿を見ない日はありません。私は幼少の頃海外で生活をしていましたが、私の住んでいた国でも、ピカチュウに並ぶ人気キャラクターツートップで、その知名度は凄まじく、今では様々な言語に訳されたドラえもんまで刊行されています。
そうやって、私達もドラえもんの世界ののび太たちと同じように、なんの疑いもなくその青くへんてこりんなロボットを、当たり前に受け入れて生活をしてきました。そうして今回この本を開いてみると、父殺しや、のび太死亡説、新たな神、この世でもあの世でもない別次元の存在など、恐らく日本中のひとがドラえもんと聞いてもこれらのイメージは浮かばないであろうものがこれでもかというぐらい事細かく綴られていました。本にも書いてあったように、今まで「ぼくドラえもん」などに代表される、ドラえもん大百科のような本や雑誌などはこれまでたくさんあり、僕も実際に購読していましたが、今回清水先生が刊行された本のようなものは一冊も見たことがありませんでした。そういったこともあって今回読んだこの本は読み応えもありとても楽しんで読むことができました。特に48ページ目の作者の戦略の部分はとても納得できました。確かに拍をとったり、ギャグ要素などを織り込みつつ、緊張の場面、弛緩の場面へのシフトの仕方そして最後のオチの部分へと、とてもナチュラルに作られているなとこれを読んで初めて納得できました。これがドラえもんが読みやすく、面白い部分、そして先にも述べたようにのび太たちと同じ感覚でドラえもんをうけいれることのできる、根幹の部分だと私は思いました。
これに似たケースとしてこち亀の愛称で親しまれている「こちら葛飾区亀有公園前派出所」でもテーマの提示、具体的な内容、ギャグ、オチなどしっかりと織り交ぜテーマについて言及しつつ、その上で読者を楽しませる手法が取られていて、作者の秋本治がドラえもんをリスペクトしていることも、作品を読んでいて伺うことができます。
これは私達演劇学科か、演劇好きな人だけかもしれませんが、ドラえもんと演劇作品との比較、とくにオイディプス王のような有名人気作品との比較はとにかくわかりやすかったです。ひとつ違う点はオイディプス王は最終的に悲劇で終わってしまうことに対して、未来の国からはるばるとは「悲劇という結末」の予定であったこの物語がドラえもんの登場によって喜劇へと生まれ変わること。私もこの第一話を読んだ時に、首吊りや火あぶりなどのワードが出てきて、どう話が動くのか、そもそも主人公が死んでしまったらストーリーとして成り立つことすらできないのにどうなるのか、など元々ドラえもんは知っていたので、死んでしまう、どうしようといった危機的感情で読むことはなかったものの、これもなるほどそういうことかと、ジグソーパズルを埋める感覚で、重複してしまいますがドラえもん自体は知っていたので、逆再生という形でこの第一話を読んでいました。
時間や空間、物体の概念を超越した、もはや神をも超えた存在であるドラえもん、これがもし宗教的神としてこのキャラクターが崇められていたらどうなっていたのだろうと考えると、最悪の場合宗教戦争まで起こしかねなかったかもしれません。逆に、そんな末恐ろしい存在が世界中で愛されているキャラクターとなっていると考えても、なかなか恐ろしいなとも思います。しかも、このドラえもんですらまだ完全体ではないのです。いったいこのドラえもんを超えた完全体のロボットとはどんなものなのでしょう、神を超える存在を超える存在。多神論者のような話の展開になりそうですがしかし、私達の世界で、実際に何かしらの宗教団体に所属し彼ら自身の神を崇めている人たちでも、その根本を大いに覆す存在であるドラえもんを嫌悪したり、禁止しているといったことはなく皆同様にドラえもんを愛してくれています。例外として、のび太のようにぐうたら人間にならないようにとドラえもんを禁止している学校がオランダにあるそうです。
宗教同士の対立や戦争が、過去にも世界中でたくさんあり、今ももちろんなくなってはいませんが、世界中でドラえもんが愛されているということは、もしかしたら敵対している者同士でもドラえもんが好きという共通点があるかもしれません。ドラえもんだけに限ることはありませんが私達が人間である以上、わかちあい、共有するためのきっかけが必ずどこかにあると私は思います。この、我らがドラえもんを筆頭に世界中で愛され、共有されいつの日か本当に「神をも超えた神的存在」として、聖書より世界にこの作品が普及し人々の思いを共有させるためのきっかけとなったらとても素敵だと思いました。私はそういった意味で、ドラえもんは清水先生の本にもあったように永遠に「神をも超えた神的存在」であってほしいと思います。


京都造形芸術大学での特別講座が紹介されていますので、是非ご覧ください。
『ドラえもん』の凄さがわかります。
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp
 『世界文学の中のドラえもん』 (D文学研究会)

全国の大型書店に並んでいます。
池袋のジュンク堂書店地下一階マンガコーナーには平積みされていますので是非ごらんになってください。この店だけですでに?十冊以上売れています。まさかベストセラーになることはないと思いますが、この売れ行きはひとえにマンガコーナーの担当者飯沢耕さんのおかげです。ドラえもんコーナーの目立つ所に平積みされているので、購買欲をそそるのでしょう。
我孫子は北口のエスパ内三階の書店「ブックエース」のサブカルチャーコーナーに置いてあります。
江古田校舎購買部にも置いてあります。

[f:id:shimizumasashi:20120829170256j:image]
四六判並製160頁 定価1200円+税

『世界文学の中のドラえもん』感想・藤田拓斗

清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。
ここをクリックしてください エデンの南   清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室  
   グッドプロフェッサー

京都造形芸術大学での特別講座が紹介されていますので、是非ご覧ください。
『ドラえもん』の凄さがわかります。
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp
 『世界文学の中のドラえもん』 (D文学研究会)

全国の大型書店に並んでいます。
池袋のジュンク堂書店地下一階マンガコーナーには平積みされていますので是非ごらんになってください。この店だけですでに?十冊以上売れています。まさかベストセラーになることはないと思いますが、この売れ行きはひとえにマンガコーナーの担当者飯沢耕さんのおかげです。ドラえもんコーナーの目立つ所に平積みされているので、購買欲をそそるのでしょう。
我孫子は北口のエスパ内三階の書店「ブックエース」のサブカルチャーコーナーに置いてあります。
江古田校舎購買部にも置いてあります。

[f:id:shimizumasashi:20120829170256j:image]
四六判並製160頁 定価1200円+税
[f:id:shimizumasashi:20120915130745j:image]


マンガ論 課題
『世界文学の中のドラえもん』感想 
二つの世界の救世主 

藤田拓斗 
 世界文学の中の『ドラえもん』を読んで全体的な感想を書こうとしたものの、どうにもうまくまとまらず、長くなってしまう。また、全体的な感想を書くことにより、私の読解力や教養の無さが顕著に見受けられてしまうため、私が理解しえた箇所を中心に感想を書きたいと思う。

 この本(世界文学の中の『ドラえもん』)で、『ドラえもん』というマンガに対しての一つの着眼点として挙げられるのが、「リアリズム」である。
 本来、半ギャグマンガとも捉えることのできる作風で、なおかつ児童マンガとして区分されているの『ドラえもん』。私たちはこういった作品に、リアリティを追及して読むことはあまりない。それをあえてリアリズムの観点から見ることにより、この作品に秘められた、面妖さ、不可解さ、そしてその隠されたメッセージを暴いている。
 
まず、のび太について考察したい。彼の部屋は、広々とした机、大きな本棚、外から独立出来るような作りになっている間取り。どれをとっても勉強をするのにとても適した部屋のつくりになっている。
 しかし、彼は一向に机に向かった形跡がない。それは、その寸分の狂いもなく置かれたノートや椅子などで一目瞭然だ。
 なぜのび太は、ここまで勉強をするのに適した環境にいながら、勉強を拒むのか。それは当然彼に勉強の才能がないからだ。テストで毎回零点を取るなどということがあれば、誰でも勉強が嫌いになってしまうだろう。
 そういった勉強嫌いな子供は、他の才能を磨こうとする。たとえば、スポーツや芸能関係の才能を磨いて、他者との競争や自己の満足を保とうとする。しかし、のび太はその磨くためのスポーツや芸能関係の才能も持ち合わせていないのだ。要するに彼は「何もできない人間」なのだ。
 しかも、時代や一人っ子ということもあり、のび太は両親から大変な期待を抱かれている。「何もできない人間」が、唯一の拠り所であるはずの両親から期待されているとなると、それは彼にとって生き地獄だ。いや、本に書かれているように彼はすでに死んでいたのかもしれない。
彼は、希望を抱き、希望を信じる。しかし、自分では「何もできない屍」だったのかもしれない。そして、このまま彼は一生、屍のまま死んでゆく運命だったのかもしれない。
 この本で書かれているように、運命は変えることができない。過去も未来もすべて決まっていて、この世界には決してイレギュラーなことなど起きないのだ。しかし、この『ドラえもん』の世界では、運命を変えることができる。なぜならマンガだからだ。
 のび太は、おそらく空想の中だけでも自らの運命を変えようともがいていたことだろう。空想でしか変えられない運命を、作者である藤子・F・不二雄先生は、「このマンガ(空想物)の世界を作った者(神、もしくはそれ以上の力を持つ者)」として、のび太の運命を変える存在『ドラえもん』をこの世界に召喚したのだ。
 実際に自分がのび太の立場になって考えてみると、いきなり目の前に自分の願望を具現化した生物が現れた、ということになる。
 それは、この瞬間、のび太は「終わった人生(死んだ人間)」から「新しい人生(生きた人間)」に復活を遂げたということの証明でもある。

 では、なぜ願望機である『ドラえもん』は、ただの機械(物)ではなく、生きたロボットとして召喚されたのだろうか。
 それは、本でも書かれているとおり、のび太は外界との関わりを完全に遮断したかったわけではないからだ。自分を認めてくれる、支えてくれる仲間が、欲しかったのだ。
 全体的に丸く愛らしい容姿、自分の運命を変えてくれる不思議な道具、そして何より自分と対等でいてくれる生き物としてのドラえもん。それはまさに、のび太が理想とする願望すべてを兼ね備えた「者」だといえるだろう。

 世界中に愛されるマンガ『ドラえもん』の人気の秘密はそれだ。世界中の子どもたちは、日々苦しんでいる。自分の不甲斐なさや周りからの期待に圧迫死しそうになっている。それでも、我々の日常では決して現れることのない、運命を変えてくれる存在の本当の友達『ドラえもん』を信じ、求め、何より娯楽マンガとして楽しむことにより、救われているのだ。『ドラえもん』は救世主だ。それは、もちろんのび太の世界にとっても、我々が生きている現実世界にとっても。
だからみんな、『ドラえもん』が大好きなのだ。

 藤子・F・不二雄先生が出している作品に、「SF(少し不思議)短編」というものがある。「気楽に殺ろうよ」「ウルトラスーパーデラックスマン」など、人間の弱さや卑劣さを描いたブラックな作品も多いことで知られている。『ドラえもん』は、そういったブラックな「絶望」的マンガとは対極にある、「希望」的マンガだと個人的には解釈していた。しかし、世界文学の中の『ドラえもん』を読んで、そういった考えを改めなければならないと思った。『ドラえもん』は決して「希望」的マンガではない。しかし、「絶望」的マンガでもない。希望の根底にある絶望、そして死と生、現実である我々の深層心理にある願望、それを巧妙に、繊細に織り込んだ「運命」的マンガだと、今の私にはそう感じた。
 私は、この感想をもった瞬間に少しだけ、世界文学の中の『ドラえもん』が見えた気がする。

奥が深かった『ドラえもん第一巻』・若林恵理香

  奥が深かった『ドラえもん第一巻』
                             
若林恵理香
今回清水先生の『世界文学の中のドラえもん』を読んで、まず思ったことはというと「ドラえもんの第一巻がよみたい!」だった。ドラえもんのアニメはもちろん幼いころに毎週と言っていいほど見ていて、漫画は当時読んでいた「小学4年生」「小学5年生」という漫画雑誌に時たま載っていたのだが、その雑誌に掲載されているドラえもんの漫画はわりと新しい話だったので、一話を読むことはないままだった。
 マンガ論の授業の中でもドラえもんを扱った講義を受けてきたが、その時にも清水先生が手に持っていた『ドラえもん』の第一巻をわたしは読みたくて仕方がなかった。
 ドラえもんの講義を受けた時に一番衝撃的だったのがやはり、90分の授業をすべてドラえもん第一巻の最初の見開き1ページに費やしていたことだろう。まずは一コマ目、のび太が部屋でくつろいでいるシーンについてだ。もしわたしがなにも知らずにドラえもんの第一巻を手渡され、読んでくれと言われたら特になにも気に留めずにのびたが部屋で寝転んでいるところを読み、のび太吹き出しを読んで次のコマへ移るだろう。しかし講義、そして『世界文学の中のドラえもん』の中ではのび太の部屋の家 具の配置、ポット、お茶、おもち、子供向けの人気漫画、石油ストーブの置かれ方によるのび太の深層心理、部屋の間取りによってのび太が現在不気味な危機的状況に置かれているということ、そして物のことだけでなくのび太の容姿や服装からたった一コマでのび太の性格も読みとっているのだ。
 まずは家具の配置とポットなどの小物の並べ方だが、それらがゆるやかな曲線で並べられていることからのび太をガードしていることを読みとっている。ドラえもんの第一巻を読んだことのある者はたくさんいるだろうが、まさかポットやお茶、おもち、漫画、石油ストーブの並べ方に注目して読んだ人は圧倒的に少ない、いやいるかどうかも危ういのではないだろうか。部屋の間取りもそうだ。ガラスの窓がしっかり閉められていて、カーテンがきっちり端に引き寄せられ、襖がぴったりと閉じられていることや、ノートのしまわれ方、机の上のものの配置具合から人物の神経質さを読みとるなど、並みの観察眼ではない。
そしてそのたった一コマでポットやお茶がゆるやかな曲線を描いていること、部屋の襖と窓がきっちりしめられ、密閉されていることからのび太が実存的な危機的状況に陥っていること、救いようのない状況に置かれていることを明白にしてしまうのだ。一度講義でも聞いたがとても印象深いと感じ、そしてまた本で読んでもやはり印象深かったのだ。のどかな正月の一コマが描かれているはずなのに、その奥底ではのび太の危機を示唆させているのだ。とても恐ろしく感じる。
しかしわたしがこの本を読んで一番に恐ろしく感じた項は「三から四への秘儀」である。のび太が〈30分〉後に首つりをして〈40分〉後に火あぶりになる。何気ないこの30と40という数字がのび太の男性的競争社会から女性的世界への移行を表すということを知った時、大変な驚きを覚えた。
『世界文学の中のドラえもん』を読み終わった後に、それを買ったジュンク堂へたまたま行く機会がありそこでコミックコーナーを見て回っていたときにふとドラえもんの第一巻のことが頭をよぎり、衝動買いをしてしまった。何回も耳にし、本の中でも何回も読んだドラえもん第一巻の見開き1ページだが、実際に目にするのは初めてだった。家に帰って本を開いて読んでみると、なるほど講義通りに「のどかなお正月だなあ。」「今年はいいことがありそうだ。」というのび太吹き出し。ポットとお茶とお餅と漫画と石油ストーブ。部屋の間取りも聞いた通りだった。もし『世界文学の中のドラえもん』を読まずにドラえもん第一巻を読んでいたらこのコマはさっさと読んでしまっただろうが、あまりにも本の通りだったので思わず長いこと一コマ目を眺めていた。このポットとお茶とお餅と漫画と石油ストーブの配列はのび太を守っているのだろうか、部屋の間取りは密閉された救いようのない状況を表しているのだろうか、こののどかに寝そべっているのび太は本当に死んでいるのだろうか、といったことを考えているとさすがに90分とはいかないが10分はすぐに過ぎてしまう。ジュンク堂ドラえもんコーナーに置いてあった『世界文学の中のドラえもん』の近くに置いてあったポップカードに「ドラえもん一巻と一緒に読もう!」といった内容のことが書いてあったが、まさにその通りだと思った。この『世界文学の中のドラえもん』はドラえもん第一巻と一緒に読んでさらに面白みをますのではないだろうか。またこの本の内容の中にでてきた宮沢賢治の童話、主に『どんぐりと山猫』や『銀河鉄道の夜』、他にも講義の中にもでてきたドストエフスキーの『分身』も合わせて読むと一層面白くなるに違いない。それらの本も読んでみたいと強く思った。『どんぐりと山猫』の中に巧妙に隠されてたという「父殺し」をドラえもんのび太の中に見出すには『どんぐりと山猫』を読むほかに方法はないだろう。機会があれば次はこれを読んでみたいと思った。