随想 空即空(連載67)内村鑑三の再臨説を巡って#ドストエフスキー&清水正ブログ# 清水正

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有即無 無即有 有無即空 空即空 空空空 正空 (清水空雲)

随想 空即空(連載67)内村鑑三の再臨説を巡って#ドストエフスキー清水正ブログ#

清水正

 近代知性の洗礼を受けた者の常識は死者の復活など認めることはできない。復活はそれを求める者の切ない幻想でしかない。しかし内村鑑三はキリストの再臨、愛する者の復活を信じた。キリスト者の信仰は願望とは違って確信である。白鳥はこの鑑三の確信に向けてシニカルな眼差しを向けている。知性の側に立てば信仰(神への絶対帰依)は畢竟、不合理であり、素直に受け入れることはできない。問題は、なぜ知性の人である鑑三がこの背理に突入することができたかである。

 疑惑の眼差しを注げば、鑑三はキリスト再臨を信じた〈つもり〉、愛する死者の復活を信じた〈つもり〉になっていたということであり、内部精神の諸相を冷徹に観照すればそれは自己欺瞞ということになる。熱狂、感激、心酔の傾向を持つ者は、時に冷静な内省から離れて感情に落ちることがある。願望の強さが、背理的な信仰と結びついて、知性では幻想でしかない復活を認容することになる。信者にとってこの認容は絶対であり、相対化されることはない。もし相対化の荒波に襲われて信仰が揺らげば、キリスト教から離れる他はないが、鑑三は欺瞞を徹底的に押さえ込み、〈つもり〉を超克したつもりになって信仰の座を死守することになる。

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清水正研究」No.1が坂下ゼミから刊行されましたので紹介します。

令和三年度「文芸研究Ⅱ」坂下将人ゼミ

発行日 2021年12月3日

発行人 坂下将人  編集人 田嶋俊慶

発行所 日本大学芸術学部文芸学科 〒176-8525 東京都練馬区旭丘2-42-1

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表紙

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目次

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有即無 無即有 有無即空 空即空 空空空 正空 (清水空雲)

随想 空即空(連載66)内村鑑三の再臨説を巡って#ドストエフスキー清水正ブログ#

清水正

 正宗白鳥は「田舎の老伝道師などに、自分の子供が死んだのを、文字通り、神に召されたと信じて、悲しみもしないものがある」と書いているが、はたしてそんな親がいるのだろうか。「神に召されたと信じて」まではいいとして、「悲しみもしないものがある」というのはどうか。悲しみもしないように見える悲しみ、苦しみがあるのであって、白鳥の「悲しみもしないものがある」という言い方には抵抗を覚える。続いて白鳥は「非人情のようだが、そこまで徹してこそ信心甲斐があるのである。それに比べると、内村の復活観を読むと、感傷的で詩人的で、強いて夢を語っているらしく思われ、田舎伝道師などに比べると、所信が危かしく思われないこともない」と書いている。我が子を神に召されて「悲しみもしない」田舎伝道師の〈信心甲斐〉を評価して、鑑三の復活観を〈感傷的で、詩人的〉と評して所信の危うさを指摘している。

 わたしは〈悲しみもしない〉田舎伝道師よりも、強いて夢を語る鑑三の危うさに心打たれる。白鳥に子供はなく、従ってその死に立ち会ったことはない。世の中には我が子を虐待し、死に追いやる親もある。我が身かわいさに子を売ってまで故国に逃げ帰った親もいる。わたしはかつてグリム童話ヘンゼルとグレーテル』を批評したことがあるが、この表層的には子捨ての物語がその深層に子殺し、子喰いの恐るべきドラマを隠していた。だから、今更、親だからといって我が子を無条件に愛しているなどとは思わないが、それでも我が子に先立たれた親の果てしない苦しみと悲しみは、同じ体験を持たない者にはついに理解されないことだと思う。白鳥は鑑三の文章に滲む感傷的で詩人的なニュアンスを読みとるが、その表現に込められた悲しみを共有してうち震えることはできない。鑑三の魂の震えに、常識に立つ白鳥の魂が共振せず、ここに発せられた言葉はクールでイロニーを含むものと化している。

 正宗白鳥は「愛兒に早く死なれた者なぞは、来世に於て、復活している彼に会いたくてたまらないだろう」(376)と書いている。無難な想像である。この白鳥の言葉はわたしの胸に響いてこない。わたしはキリスト教信徒ではないから、〈来世〉〈復活〉をその教義上から考えることはない。わたしは我が子の〈復活〉を何度も考えたが、復活の時の〈肉体〉を具体的に思い浮かべることはできなかった。〈肉体〉と一言で言っても、何歳の時の肉体なのか、それは裸体なのか、それとも衣装のようなものを纏っているのか。現実に生きていた時の肉体存在とは関係なく、出会えば一瞬にしてその存在を確定できるものなのか。いろいろと思いを巡らしてはみたが、わたしの心を鷲掴みにする思念に打たれることはなかった。別に来世などを持ち出さなくても、我が子は思い出の中に住んでいて、いつでも思い起こすことができる。来世ではなく、現に生きている今生において生者は死者と共にあることができる。わたしはそれ以上のことは求めない。死を内包した生という観念に生きる者にとって、来世での復活は幻想であり、残された者の切ない願望でしかない。

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令和三年度「文芸研究Ⅱ」坂下将人ゼミ

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発行人 坂下将人  編集人 田嶋俊慶

発行所 日本大学芸術学部文芸学科 〒176-8525 東京都練馬区旭丘2-42-1

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四方田犬彦『大泉黒石――わが故郷は世界文学』を読む

 四方田犬彦大泉黒石――わが故郷は世界文学』を読む

清水正

 四方田犬彦大泉黒石――わが故郷は世界文学』(2023年4月 岩波書店)が上梓された。帯文には「コスモポリタン文学の先駆者、百年を経てついに蘇る!」とある。大泉黒石はロシア人外交官アレクサンドルと旧士族で下関税関長の娘本山ケイの混血児として一八九三年十月二十一日、長崎県に生まれた。黒石の戸籍名は清。ロシア語を習っていたケイはニコライ二世の侍従として来日していたアレクサンドルと知り合い結婚し、十六歳で清を生んだが産褥死した。黒石のその後の波瀾万丈の人生を象徴するような誕生劇であった。
 わたしが大泉黒石に興味を持ったのは、林芙美子の研究を進める中で黒石の娘大泉淵さんと親しく交流することになったことがあげられる。当時(2013年)、わたしは日芸図書館長の任にあり、様々な刊行物、展示の企画を進めていた。その一つに日大芸術学部芸術資料館に於ける《生誕一一〇記念「世界文学の中の林芙美子」展》(2013年6月25日~7月26日)があった。この展示会に「大泉黒石コーナー」を設け、彼の全集本、著作、写真などを展示した。その準備もあり、わたしは大泉黒石全集を読破し、〈日本のドストエフスキー〉と言われた大泉黒石の作品を批評するつもりでいた。また大学院の講座「日本文芸特論」の受講生大谷明子さんに大泉黒石論のレポートを提出してもらったりした。わたしは毎日、時間を見つけて大泉黒石の作品を読み続け、いずれ黒石論を書くつもりでいたのだが、どういうわけかその仕事にとりかかることができなかった。ひとつ考えられることは、当時わたしが最も力を入れていたのが林芙美子の『浮雲』論執筆で、それに相当時間をとられたことがある。この『浮雲』論は十年かけて完成した。もう一つ考えられるのは、2015年末に日大病院に入院、三ヶ月ほどの入院期間中、『罪と罰』論と松原寛論の執筆に専心したことがある。松原寛の入手し得た全著作を読みながら病院の待合室で連日執筆した。帯状疱疹後神経痛の痛みと戦いながらの執筆であったが、退院前に五百枚ほど書き上げ、日芸図書館企画の「日藝ライブラリー」三号の「松原寛特集」に掲載することができた。
 わたしは大泉黒石の作品を全集で読んだが、次々に読み進めていったので、一つの作品に立ち止まることがなかった。わたしは通常、批評衝動に駆られた作品を徹底的に分析考察するのだが、大泉黒石に対しては一つの作品に時間をかけて立ち止まることをしなかった。もし作品批評に踏み込んでいればそうとうな時間を費やすことになっただろう。大泉黒石の娘淵さんとも林芙美子研究で知り合いになり、さらに大泉黒石はわが日芸の創設者松原寛と長崎の鎮西学院中学の同窓生であることも分かった。であるから、わたしが大泉黒石論を書く必然性はあったのだが、どういう運命の巡り合わせか、日芸芸術資料館で「大泉黒石コーナー」を設けるだけに終わってしまった。しかしそれから十年たった今年2023年は林芙美子生誕一二〇年にあたる。ひとと時を得て『大泉黒石』が刊行されたのを心から喜んでいる。
 今まで『大泉黒石』に関するまとまった研究書や評伝が一冊もないというのも不思議であるが、本書は実に丁寧にわかりやすく大泉黒石の生涯と作品を紹介している。この一冊があれば読者は白人(外国人)の容貌をもって生まれてきた混血児黒石が酷い差別を受けながらも必死に生きてきたその道程を鮮やかに見ることができよう。著者は最後の章「二十 黒石の文学」に「虚言家として謗られ迫害された黒石。言語という言語を横断して実験的饒舌に賭けた黒石。水の夢想に導かれ、老子の徒として無為自然を求めた黒石。さまざまな映像が現われては消えていく。百年前、一世を風靡したベストセラー作家の存在は、今日、公式的な文学史にはまったく痕跡を残さず、その著作はほとんど忘れ去られている」と書き、続いて「彼が遺したテクストをつぶさに読み進んでいくにつれ、わたしの内側に生じてきたのは、黒石の文学を大正時代という狭小な時間から解き放ち、より大きな時間のなかに羽搏かせてみたいという気持ちであった」と書いている。著者の願いはかなえられたであろう。本書をひとつの契機として今後さまざまな角度から大泉黒石の文学と生涯は考察の対象となるに違いない。わたしは二日ほどかけて本書を読み終えたが、著者の丁寧な解説と考察ぶりに、時間をかけたテキスト熟読を感じたし、新しい読者を獲得しようという努力も感じた。本書を読めば誰でも大泉黒石に多大な関心と興味を抱くだろう。
 わたしは大泉黒石ドストエフスキーをどのように読み、評価したのか知りたくて『露西亜文学史』を手にしたが、残念ながらこの書は中断し、十九世紀の大作家たちの言及はなかった。大泉黒石は本書でも触れられているようにトルストイ老子から影響はあっただろうが、はたしてドストエフスキーの影響はあったのかどうか。全集を読んだ限りにおいては、わたしは〈日本のドストエフスキー〉と言われた大泉黒石の文学にドストエフスキーの影響をそれほど感じなかった。本書を読んで、〈荒唐無稽な祝祭〉〈衒学趣味〉〈言語の「雑多煮」であり、饗宴〉などという言葉から、ドストエフスキーの〈グロテスクなカーニバル空間〉との共通性にも思いを馳せたが、何かそこには根本的な違いがあるように感じた。
 本書を読んで思うところは数々あるが、特に興味を持ったのは「十八 戦時下の著作」でとりあげた『ひな鷲わか鷲』である。「軍国主義賛美の少年物語」を「生活の資のために執筆」した大泉黒石はこの本の著者名を本名の大泉清として発表している。著者は「これは黒石の著にあらずという意志表示とみるべきだろう」という解釈をくだしている。
 大泉黒石は戦後、進駐軍の通訳官として九年数ヶ月に渡って働くことになる。その間、黒石は作品のペンを取っていない。黒石は進駐軍に職を得て嬉々としていた。黒石は進駐軍において〈異人〉ではなく〈白人〉と見られていた。著者は語る「来歴をめぐる無関心は、黒石を緊張から解放するのに充分であったと推測できる。日本社会においてつねに有徴markedの存在であったこの混血児は、ここで初めて無徴unmarkedであることの自由を、身をもって感じることができたのだった」と。改めて人間という存在を深く感じさせる指摘である。母を全く知らず、白人顔の混血児として幾多の差別を受けながら、小説家として名をあげ、文壇から追放され、生活のために軍国主義に迎合した作品まで書き、晩年は一通訳官として文学から離れ、一九五七年十月二十六日、脳溢血で倒れ、六十四歳の生涯を閉じることになる。本書を読んで大泉黒石という男は文学者としても人間としてもかなり規格外の魅力的な人物であると改めて思った。
 わたしは林芙美子の『浮雲』批評を通して、林芙美子を世界文学の地平において再確認しなければならないと提言したが、本書『大泉黒石――わが故郷は世界文学』はサブタイトルに示された如く、大泉黒石を間違いなく世界へと羽ばたかせることになるだろう。

 

次に当ブログに掲載された大泉黒石に関する記事を何本か再録する。

 

大泉黒石は<日本のドストエフスキー>

 

 

2013年3月24日「清水正ブログ」より

 本日は喫茶店「世界文学の中の林芙美子を執筆した後、大泉黒石全集の第一巻「人間開業」を読む。大泉黒石は前から気になっていた小説家であったが、先日、大泉淵さんにお会いして本格的に読む気になった。大泉全集は文芸学科の資料室に全九巻揃っていたが、日藝図書館には四冊しかなかった。資料室にあった第一巻を借りて読み始めたが、実にこれが面白い。先日、図書館課長と神田に出かけた折、田村書店に全巻が揃っていたので図書館購入ではなく、個人で購入してきた。今日、午後九時に読み終えたが、今、私は黒石との出会いに抑制した興奮を覚えている。改めて、購入した全集を出して見ると、帯文には「文学史の闇に輝く日本のドストエフスキーが、対話と告白で現代小説の方法を構築し、宇宙の中の生存の謎を追求して現代人の彷徨える心に啾々と訴える名作群!!」とある。
大泉黒石は<日本のドストエフスキーと称せられていたのか。ならばやるしかないな、というのが正直な思い。淵さんと話している時にも何か運命のようなものを感じた。林芙美子を世界文学の中に位置づけるというのが、今のわたしの大きな仕事だが、この林芙美子の隣に引っ越してきた黒石の娘を芙美子が特別に可愛がったというのも面白い因縁だ。林芙美子は『放浪記』で「私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。私は雑種でチヤボである」と書いている。大泉黒石はロシア人のアレキサンドル・ステパノヴィッチと日本人の本山恵子の間に生まれた混血である。母恵子は黒石(本名清)を生んで一週間後に亡くなっている。黒石は母方の祖母に引き取られた。日本名は清だが、ロシア風にキヨスキーとも呼ばれた。黒石は日本とロシアの間を行き来したまさに<放浪者>であった。第一巻を読んだだけでも黒石の文学はスケールが大きく、日本の小さな文壇におさまるしろものではないことが分かる。祖父はトルストイの領地ヤースナヤ・パリャーナの近くに住んで親交もあり、十二歳の少年黒石もモスクワでトルストイと会っている。その時の描写が面白い。「途中で一人の見すぼらしい老人に出会った。この老人が路傍で拾った痩せ犬を引っ張っている。俺の伯父が、帽子に人差指を当てて挨拶しているから、不見識な真似をするもんだと思うと、これが、初めて聞いて、初めて見る、レオフ・トルストイだから可笑しい」世界の文豪トルストイも黒石のペンにかかるとかたなしである。文体はいわばぺらんべえで、落語のようなユーモアたっぷりで、とにかく読んでいて心地がいい。いっさいの権威を認めず、自分の眼と心で体当たりしている。大泉黒石全集は第一期九巻が刊行されたままに終わっているが、これから読み続けていくのが楽しみである。
なお、今回、改造文庫新潮文庫で『放浪記』を読んでいるが、改造文庫を読んでいると新潮文庫はまったくだめだ。作品は改訂すればいいってもんじゃない。林芙美子の意思だけで改訂したのか、それとも新潮社の編集サイドの思惑があったのか、もはや真実は闇のなかだが、いずれにせよ『放浪記』は初版のもので読まなければだめだ。改造文庫は初版を踏襲しているので、精神の緊張度、切迫したリズム感が横溢している。新潮文庫版は水割りしたようなテキストに化している。初版『放浪記』に対する冒涜である。



写真は林芙美子と大泉淵さん。この日、淵さんが持参して見せてくれた写真。

大泉淵さんと記念撮影。<日本のドストエフスキー>と称せられた大泉黒石の娘さんと記念撮影するのも、何かの縁なのだろう。

大泉黒石論(連載1)

編集

文芸学専攻一年の大谷明子さん(清水正担当「日本文芸特論」受講生)の大泉黒石論を連載します。


大泉黒石全集」第一巻を手にする大谷明子さん

大泉黒石論(連載1)
「国際的な居候」大泉黒石
──黒石の名の不安定さは恐怖であった──

大谷明子

2013年5月8日「清水正ブログ」より
 付いたあだ名はわりと多い気がする。本名をもじったものや、その場の勢いとノリでついてしまったものなど様々だ。「スヌーピー」のように好きなものがそのままあだ名になってしまったものもある。しかしどのようなあだ名になったとしても、大抵は気軽にその人を呼ぶために気軽に付けられたものであるため、例えそのあだ名が思いのほか自分の人生を占拠することになったとしても、甘んじて受け入れなければならない。真面目に考えられたあだ名というのも不自然だ。そうとは分かっていても、時々、高校の友人に「レッド」と呼ばれると、気恥ずかしさで視線がきょろきょろとしてしまう。高校生にもなって戦隊なんて若気の至りの中でもかなりのハイレベルな若気の至りだ。「レッド」では誰しもに明らかにリーダー格だと分かってしまうではないか。やはり少しでも考えてもらいたかった。

 人はその生涯に沢山の名前を持つことになる。芸能人の芸名や作家のペンネームなど、どこかある特定の人物が複数の名前を持つ印象が強いように思うが、それだけではない。プライバシーを守るために個人を特定出来ないようにするため、又は日常のコミュニケーションと遮断するために使用するニックネームなどなど。一人一人、複数の名前を引き連れて生きている。そしてその名前ごとにいろいろな思い出や環境が内包されている。過去に現在にインターネットに、そのあだ名ごとの様々な自分がいたるところに散らばっており、散らばったあだ名たちは、そのあだ名で一人の人間になっていった。「レッド」はアニメオタクの活動に青春を掛けていた高校生である。
 しかしどんなにあだ名が沢山あったとしても、全ては一つの名前へと還元される。SNS上の名前も、小説を書く時の別人のようなペンネームも、友人が呼ぶあだ名も、全ては一人の人間の派生である。その一人の人間の名前こそ、社会で生きる上で誰しもが登録しているであろう、戸籍の名前なのではなかろうか。ペンネームがあっても、芸名があっても、戸籍上の名前は一つしかない。例え、その名前を否定して別の名前で生きるとしても、その否定する名前がなくては新しい名は付かない。そう思うからこそ、大泉黒石の全集一巻を読んだ時に、ひどく不安な気持ちになってしまったのである。

 一巻「人間開業」の冒頭、黒石は自身のことを「国際的な居候」と言い表している。長崎、漢口、モスクワ、パリ、東京、京都など一カ所に留まらず幼少期と青年期を過ごした黒石はまさしく国際的な人間ではあるが、この国際的という言葉には、様々な場所に住んだという意味以上のものが含まれている。でなければ国際的という言葉の後に、居候という言葉は続かないのではなかろうか。では、いったいどういった意味で、国際的な居候なのであろうか。
 人の名前とカタカナが不得意な私にとって、大泉黒石の全集は天敵であった。横文字の外国の名称と沢山の人名。ひとつひとつメモを取りながら読んだ。でないと誰が誰だかさっぱり。そのメモを取っている時に、黒石の名前が気になった。
 大泉黒石は全集一巻の巻末によると、黒石は一八九三年長崎で生まれた。父はロシア人アレキサンドル・ステパノヴィッチ・ヤホーヴィッチ、母は日本人本山恵子で、本名を大泉清と言う。ロシア人と日本人のハーフである。全集一巻の表紙をめくると現れる若い黒石は彫りの深い、日本人離れした顔立ちをしている。黒石は自己を居候と表したのには、ハーフだということも深く関わっている。日本人でもなく、ロシア人でもない。そんなどちらの土地にも先天的に根付くことの出来ない身の上が「居候」という言葉に含まれているのである。
 生い立ちと見た目について書いたが一番注目したいのは名前である。大泉黒石には黒石と本名の清という名前を含めて、合計四つの名前を持っている。本名の「大泉清」を始め、「キヨスキー」、「アレキサンドル・ステパノウィッチ・コクセキー」、そして「大泉黒石」というペンネームの計四つである。一つ一つ見て行こう。まず「大泉清」という名前。大泉の姓は生後一週間で母を無くし身寄りのなくなった黒石を育てた母方の祖母のものだ。清という名前は、黒石が生まれた時にたまたま来合わせた肥後の浪人が付けたものらしい。つまり「大泉清」という名前に、母も父の要素も持ち合わせていないのである。「キヨスキー」という名前は、漢口の領事であった黒石の父が清という名を嫌って読んだ名前、即ち「清」のロシア風な名前のようである。巻末で由良君美が書いている通り、ロシアの血を意識している時はキヨスキーと名乗っていた。母の事を恵子ではなくKeitaと表記するように、幼少期をロシアの血を意識してキヨスキーと呼ばれで過ごしたためか、キヨスキーと呼ばれて過ごした日々はロシア人の意識が強かったように見える。「アレキサンドル・ステパノウィッチ・コクセキー」は黒石の父ゆずりのロシア名である。「人間開業」でこの名が出てくるのは、パリで結社に入った際に本当の名として名乗った一回のみであるため、日常的に使っていたようではなさそうだ。「大泉黒石」の名は、作家としての名前である。何故黒石なのかは本文中では語られていない。
 「清」という父母の影の薄い本名、「キヨスキー」という父からもらったロシア人としての名前、「アレキサンドル・ステパノウィッチ・コクセキー」というあまり使われていなかったロシア名、そしてこれらの過去を語る「黒石」という名前。これら四つの名前が、私の不安のきっかけであった。

 高校の友人にどんな名前で呼ばれても、SNS上にいくつも名前が出来ても、どんなに自分とは掛け離れた名前のペンネームがあったとしても、全ては本名の私の分身である。アニメオタク全開であった「レッド」も私の一部だ。確固たる、大谷明子という名前があるからこそ、どんなに名前が増えても自分を失わない。しかし大泉黒石にはその確固たる自己があったのであろうか。ある特定の場所に留らない居場所の不安定さと、社会に帰属する上で必然的について回る名前でさえ、ハーフの身の上故のどっち付かずな不安定さを持つ黒石の環境では、明確な自己は生まれ難い。しかし全集の一巻を読む限り、「大泉黒石」こそ、「国際的な居候」の確固たる自己である気がしてならない。即ち「大泉清」という若い自己の名前が確固たる自己として機能しておらず、「大泉黒石」という作家に至ることでやっと確固たる自己を手に入れたのではなかろうか。
大泉黒石」という名に注目してみると、祖母の家督の大泉と、ロシア名である「コクセキー」をもじったような名前になっていることがわかる。ロシアと日本のハーフを体現したような名前だ。つまりこの名前には、ロシア人である自分と、日本人である自分を包括した、ある種の達観した黒石の自己への認識が現れている。故に、「大泉黒石」に至ることで、黒石は自己の立つ場所を得たのである。そして「国際的な居候」とは、黒石という名を手に入れた作者による、明確な名前のなかった自分への名前なのである。

 名前に縛られてきた私にとって、黒石の名の不安定さは恐怖であった。必ずついて回る名前を煩わしいと思っても、この名前がなくては明確な自己が分からない。ツイッターの自分もフェイスブックの自分も、創作サークルのペンネームの自分も、「スヌーピー」や「レッド」の自分も、一つの名の延長であるから私だと言うことが出来る。奔放で破天荒、だけれど明確な自己の見えない「国際的な居候」は、名前に捕われない自由さはうらやましいが、それでもやはり何だか怖いものとしか見えない。いや、でも少しだけ妬みたくなってしまう。
 一回でもいい。名前を逸脱してみたい。自分に帰ってきた時、私は何なのか、新たな視点が生まれるだろう。しかし黒石のようにはなれない。一巻に付属していた「黒石回廊」という書報に掲載されていた、黒石の次女淵がちらりと書いた黒石の晩年を思うと、勝手すぎる人間に対する憤りと、やっと開業することが出来た、人間「大泉黒石」という名が社会に認められなかった黒石の寂しさで、煮え切らない気持ちになる。とりあえず自分が身を寄せる環境と名前があってよかったと思ってしまう。新たな名前で新たな自分を切り開くことが出来ても、確固たる自己の名がもたらす安定感を手放すことは出来ない。そしてこの安心感を失ってしまう黒石の晩年に目を向けることが怖い。

『世界文学の中の林芙美子』展示会開催に際して
清水正日本大学芸術学部図書館長)

2013年6月25日「清水正ブログ」より

日芸図書館は一昨年、林芙美子没後六十周年・日芸創設九十周年を記念してアートギャラリーと図書館内での展示会、カタログ誌『林芙美子の芸術』を刊行いたしました。芸術学部八学科の先生方、卒業生、大学院生、学部生の力を結集したカタログ誌は幸いにして各方面から高い評価を得ることができました。

今年は林芙美子生誕百十年にあたります。日芸図書館はカタログ誌『世界の中の林芙美子』の刊行と、当展示会『世界文学の中の林芙美子』を企画しました。林芙美子の作品を日本近代・現代文学の狭い枠組みから解放し、世界文学の中に位置づける大胆な試みです。

林芙美子の作品はモーパッサン、フローベルなどのフランス文学、ドストエフスキートルストイチェーホフ、ゴーリキイ、アルツィバーシェフなどのロシア文学はもとより、聖書、漢詩、わが国の万葉などの影響を受けています。

特に最晩年の『浮雲』の男性主人公・富岡兼吾はドストエフスキーの『悪霊』の主人公ニコライ・スタヴローギンの影響を強く受けていますが、単なる影響の域を脱して林芙美子独自のものとして血肉化されています。

日本の小説家で『悪霊』の影響を受けた小説家に葛西善蔵坂口安吾横光利一椎名麟三埴谷雄高などがおりますが、林芙美子は『悪霊』を熟読して和製スタヴローギン・富岡兼吾の造形を見事にはたしています。林芙美子ドストエフスキーの関係はさらに追求、検証されなければならない重要な課題です。邦訳された種々の『悪霊』を展示してありますので、是非ごらんになってください。

今回の展示会には『塵表閣コーナー』『手塚緑敏コーナー』『大泉黒石コーナー』なども設けました。塵表閣の小林美知子女将には、林芙美子縁の文机、飾棚、浴衣などのほか、芳名録や写真など貴重な品々をお借りすることができました。手塚博行さんと三谷喜久枝さんには手塚緑敏の絵画をお借りすることができました。

〈世界的の居候〉を自認した小説家・大泉黒石の四女・大泉淵さんには今年三月に鎌倉で取材に応じていただきました。黒石は日芸創設者・松原寛と長崎の鎮西学院という中学の同窓生であり、淵さんは林芙美子とは〈娘〉〈アシスタント〉〈秘書〉と三役をこなす濃密な関係を取り結んでおられます。〈日本のドストエフスキー〉と称せられた大泉黒石林芙美子と同様、世界文学の地平において見直されなければならない小説家と言えます。今回の展示で『大泉黒石コーナー』を設けられたことに不思議な縁を感じております。

今回の展示を通して、新しい林芙美子像が提示されることになれば幸いです。最後にご協力をいただいた関係各位に厚く感謝の意を表します。
二〇一三年六月二十五日

 

本日は鎌倉で大泉淵さんに林芙美子に関するお話しを伺う。

2013年3月1日「清水正ブログ」より

 十一時半に大船駅南口改札で待ち合わせ、タクシーで「鎌倉保養所わかみや」で食事をしながら二時間ほどインタビュー。その後、再びタクシーで大船駅近くの「メッツ」の会議室でさらに二時間ほどお話しをうかがった。林芙美子研究プロジェクトの山下聖美さんと、山下ゼミの入倉くんが参加。入倉くんにはビデオ撮影と写真撮影をお願いした。



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随想 空即空(連載65)内村鑑三の再臨説を巡って#ドストエフスキー清水正ブログ#

清水正

 松沢弘陽は「近代日本と内村鑑三」で、鑑三の心中に革命を引き起こしたのは愛する娘ルツ子の死(一九一二年)であったと指摘し、次のように続けている。

 

 内村はすでに、教育勅語不敬事件の迫害の渦中で愛する妻を失い、このころ数年の間に、母と父を次々に失っていた。しかし、内村がこのような思想的混迷と苦闘のさなかにいる時、愛娘が一七歳で世を去ったという出来事は、内村の信仰と思想に大きな影響を与えた。内村はもはや、現世への「野心」はいっさいなくなり、復活・永遠の生命・天国だけが関心のすべてになった、と告白するのである。(『内村鑑三』日本の名著38 中央公論社 58)

 

 ふだん人間は生活の中でとくべつ死について思いもせず、従って復活など真剣に考えもしない。生きている者で自らの死を体験することはできない。他者の死を通してのみ人間は死に関して思いをいたす。その他者が肉親であった場合、特に愛する子供の死であった場合、残された者の悲しみは尋常ではない。人間は例外なく死すべき存在であったとしても、そんな認識は何の役にも立たない。現代の医学をもってしても不治の病に苦しむ者は多い。我が子が絶対に助からないことを知っている親の絶望の顔を見ることは忍びがたい。しかもその絶望を我が子に覚られてはならないのである。

 わたしは息子の入院していた小児科病棟の光景を未だ語る気にはならない。祈りによって我が子が不治の病から救われるのなら、祈りに応えてくれた神の力を信じ、感謝の気持ちに溢れるかもしれない。が、現実は冷酷である。必死の祈りは叶わず、死を予め定められた宿命として受け入れるほかはない。神が存在するか、存在しないか、そんなことすらもはや問題ではない。死んだ子供が天国にいくか地獄にいくかなど、改めて問う気さえ起こらない。地獄があるとすればそれは現世にあり、天国があるとすればそれは現世にある。死んで天国で一緒になろうという、切ない幻想にひたることもしない。わたしを支えているのは死者と共にあるという考えだけである。我が子は死んだが、わたしの内で我が子はいつも生きている。忘れたことはない。わたしは書くことが祈りとなった。祈り続けるなかで我が子は永遠の生命を保持している。別に虚無主義に陥っているわけではない。ただ受け入れているだけである。ニーチェ的全肯定の恍惚感など微塵も感じないが、わたしは苦しみと悲しみと共にある存在であることに充足している。

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清水正研究」No.1が坂下ゼミから刊行されましたので紹介します。

令和三年度「文芸研究Ⅱ」坂下将人ゼミ

発行日 2021年12月3日

発行人 坂下将人  編集人 田嶋俊慶

発行所 日本大学芸術学部文芸学科 〒176-8525 東京都練馬区旭丘2-42-1

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表紙

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目次

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随想 空即空(連載64)内村鑑三の再臨説を巡って#ドストエフスキー清水正ブログ#

清水正

 正宗白鳥は執拗に内村鑑三について思いを巡らしている。白鳥はある時は完全な非キリスト教徒として、キリストの再臨説を断定的に否定している。が、この否定の言葉の内にも微妙なニュアンスが忍び込んでいる。もし白鳥が断固とした非キリスト教徒としての態度を貫いたとすれば、「内村鑑三」という批評は成立しなかったであろう。そこには青年期に鑑三の講演や著作に心酔した者の、単純に割り切れない複雑な思い、別れた女にいつまでも未練を残すような口吻がかいま見れる。白鳥の鑑三を巡っての文章は、角度を微妙に移行させながら対象を浮き彫りにしていく。白鳥の鑿は一義の彫像を構築するが、その鑿の柄頭を打つ力の違いや微妙な角度を見逃すことはできない。鑿の柄頭を打つ白鳥の右手に込められた様々の思いを受け止めながら、さらに鑑三論を見ていくことにしよう。

 

 内村は、古今の多くの識者の唱えているような霊魂不滅を信ずるばかりでなく、肉体そのまゝの復活を信じていたのであった。復活するほどなら、肉体を具えた復活でなければ意味をなさぬのである。肉体を離れて霊魂だけがふわふわと飛んでいるのでは、永遠の生命を願う人間の心の要求に添わない筈である。(376)

 

    復活の有無は人生の大問題であるが、復活して苛酷な審判を受けなければならぬとすると、肉体復活は有難迷惑である。私などは死後に復活して、地獄に於いてでも天国に於いてでも、知人の誰かに会いたいと思うことはないと云っていい。来世の復活なんかは信ぜず、現代的常識として人間は死して無に帰することを漠然と考えているに過ぎないのであるが、現代的常識などは甚だ浅薄空疎でありそうだ。内村などの肉体復活観を痴人の妄想として嗤う資格はないのである。(376)

 

  基督再臨とは異り、死後の復活信者は甚だ多いようで、単純にそれを信じて疑わないものも少なくないようである。田舎の老伝道師などに、自分の子供が死んだのを、文字通り、神に召されたと信じて、悲しみもしないものがある。非人情のようだが、そこまで徹してこそ信心甲斐があるのである。それに比べると、内村の復活観を読むと、感傷的で詩人的で、強いて夢を語っているらしく思われ、田舎伝道師などに比べると、所信が危かしく思われないこともない。(376)

 

 内村は、古今の多くの識者の唱えているような霊魂不滅を信ずるばかりでなく、肉体そのまゝの復活を信じていたのであった。復活するほどなら、肉体を具えた復活でなければ意味をなさぬのである。肉体を離れて霊魂だけがふわふわと飛んでいるのでは、永遠の生命を願う人間の心の要求に添わない筈である。(376)

 

    復活の有無は人生の大問題であるが、復活して苛酷な審判を受けなければならぬとすると、肉体復活は有難迷惑である。私などは死後に復活して、地獄に於いてでも天国に於いてでも、知人の誰かに会いたいと思うことはないと云っていい。来世の復活なんかは信ぜず、現代的常識として人間は死して無に帰することを漠然考えているに過ぎないのであるが、現代的常識などは甚だ浅薄空疎でありそだ。内村などの肉体復活は観を痴人の妄想として嗤う資格はないのである。(376)

 

  基督再臨とは異り、死後の復活信者は甚だ多いようで、単純にそれを信じて疑わないものも少なくないようである。田舎の老伝道師などに、自分の子供が死んだのを、文字通り、神に召されたと信じて、悲しみもしないものがある。非人情のようだが、そこまで徹してこそ信心甲斐があるのである。それに比べると、内村の復活観を読むと、感傷的で詩人的で、強いて夢を語っているらしく思われ、田舎伝道師などに比べると、所信が危かしく思われないこともない。(376

 

 彼は愛嬢ルツ子の死について述べ、その終りに、「幸福なる彼女」と題して、概括的感想を洩している。「生きて此世に残るは大なる恩恵であります。然し死に勝って此世を去るは更らに大なる恩恵であります。ルツ子は幸にして此最大の恩恵に浴しました」と云っている。彼女の両親は今日、愛する娘を天国に嫁入りさせたと云うのである。私などの感じ得ない境地である。死に勝ってこの世を去るというのも、言葉の綾でありそうだ。死に勝つような勇ましい気持で人は死ねるのであろうか。(370)

 

 内村鑑三は人間が死んでも復活すること、それも肉体そのままの復活を信じていたと言う。これに対して白鳥はどう思っていたのか。白鳥は「肉体復活は有難迷惑である。私などは死後に復活して、地獄に於いてでも天国に於いてでも、知人の誰かに会いたいと思うことはないと云っていい」と書いている。

 キリスト教の教義を信じない者にとっては、そもそも最後の審判もなければ天国も地獄もない。ましてや肉体そのままの復活など近代人にしてみれば妄想でしかない。しかしそれでは、白鳥は肉体そのままの復活を信じる鑑三に対して、全く正反対の立場を貫いているのかと思うと、「内村などの肉体復活観を痴人の妄想として嗤う資格はないのである」とも書いている。

 鑑三に対して白鳥は微妙な、あいまいな立ち位置を保っている。理性と知性に立脚する近代人の常識からすれば、肉体そのままの復活などは痴人の妄想でしかないのだが、白鳥はその〈常識〉に対しても確固たる根拠を持ち得ないでいる。常識の立ち位置から鑑三の復活説を見れば、そこに「感傷的で詩人的で、強いて夢を語っているらしく」思われるのだが、「人間は死して無に帰する」という現代的常識を甚だ〈浅薄空疎〉とも書いている。

 これらを読むと、白鳥は肉体復活説の〈痴人の妄想〉にも与しないが、同時に現代的常識の〈浅薄空疎〉にも与していないことになる。このあいまいさに白鳥自身がどれだけ自覚的であったかは分からないが、「内村鑑三」全編を読む限り、彼が鑑三の肉体復活説に肯定的でないことは明確である。しかし、白鳥の文章の厄介なところは、この〈明確〉を彼自身が明確なものとして読者に提示しないことである。白鳥は一見、鑑三の〈痴人の妄想〉に批判的なポーズをとりながら、この現代的常識が嗤って取り合わない〈妄想〉に、あいまいながらも親和的な感情をもぐりこませている。鑑三の復活説に最も遠い、あるいは対極に位置する言説を吐きながら、その言説に全面的な信頼を寄せることができずにいる。〈浅薄空疎〉な常識が、〈痴人の妄想〉を嗤い切れずにさまよっている。

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令和三年度「文芸研究Ⅱ」坂下将人ゼミ

発行日 2021年12月3日

発行人 坂下将人  編集人 田嶋俊慶

発行所 日本大学芸術学部文芸学科 〒176-8525 東京都練馬区旭丘2-42-1

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表紙

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 自らの罪を背負った人間イエス、自らの内部に悪魔を潜めたイエスといったことが正面から問題にされたことはない。キリスト教徒はもとより、ドストエフスキーですらこういった問題を露骨にとりあげることはなかった。わたしは『罪と罰』のロジオン・ラスコーリニコフを今再び〈幻想小説〉の圏内から呼び戻さなければならないと思っている。作者が用意周到に用意した〈エピローグ〉でのロジオンとソーニャを、シベリアの幻想地帯から現実のペテルブルクに復帰させたとき、そのとき初めて彼ら二人は肉体を備えた元殺人者、元娼婦として地に足の着いた新生活を生きることになるだろう。

わたしが見たいのは飽くまでもリアルな生活の現場であり、聖的夢想ではない。現実的視点に徹すれば、娼婦であったソーニャはスヴィドリガイロフはもとより、他の不特定多数の淫蕩な客の子供を身ごもっていた可能性もあるのである。生活のリアリティは聖的夢想によって超克されるわけではない。『罪と罰』という作品の凄さは、わたしのような読者による〈再構築〉をも許容するところにある。『罪と罰』を読み終えて、復活の曙光に輝いたロジオンとソーニャをすっかり忘れ果てて、俗なる現実社会に立ち戻っていく読者は多い。わたしは執拗に何度でも『罪と罰』を読み返すが、『罪と罰』の全登場人物の生をふまえた上でのわたしの生活をきちんと見据えたいと思っている。その観点から、今わたしは正宗白鳥を、内村鑑三を、岩野泡鳴を検証しようとしているのである。

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 ドストエフスキーは『白痴』のムイシキン公爵や『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャにもキリストのイメージを賦与している。ムイシキン公爵は〈真実美しい人間〉の具現化を目指して描かれたが、結局彼はナスターシャとロゴージンを破滅に追いやり、自身は白痴と成り終えた。ムイシキン公爵は善良な思いやりの深い人間として描かれたが、彼の内部には彼自身無自覚であった〈悪のカプセル〉が埋め込まれていた。アリョーシャの心の内には〈悪魔の子供〉が宿っており、彼はそれを明確に自覚している。アリョーシャはゾシマ長老に師事する見習い修道僧だが、彼は父フョードル、長兄ドミートリイ、次兄イヴァンなどから〈天使〉の如き存在と見られている。が、アリョーシャ自身は自身の内に巣くう〈悪魔〉の存在から眼を逸らすことはなかった。イヴァンは「大審問官の劇詩」の中で、反キリストの大審問官に黙って接吻するキリストを描いている。イヴァンはアリョーシャを〈キリスト〉のような存在と見なしている。だとしたら、イヴァンはキリストの内にも〈悪魔〉が宿っていたことを認識しなければならないだろう。しかしドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』の第一部を書き終えただけで他界してしまった。アリョーシャの内に潜んだ〈悪魔〉は書かれざる第二部において存分にその力を発揮しただろうが、その展開は読者が想像する他はない。『カラマーゾフの兄弟』第一部を書き終えたドストエフスキーのうちにどのような構想が用意されていたのかを具体的に知ることはできないが、アリョーシャが〈未熟な博愛家〉を脱して、活動的(革命的)な博愛家になったであろうことは多くの研究者も指摘している。『罪と罰』で〈革命か神か〉に深く思い惑っていたロジオン・ラスコーリニコフのテーマが、アリョーシャにおいて再び取り上げられることになるのは言うまでもない。が、これはもはや故人となったドストエフスキーに期待することはできない。この問題は読者各自が追究していく他はないのである。

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