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モーパッサン『ベラミ』を読む(連載16)

──『罪と罰』と関連づけながら──

清水 正

 

 さて、肝心の主人公ロジオンはどうだったであろうか。ロジオンもまたラズミーヒンと同様、〈女たらし〉に間違いはないが、ただ女に対する好みは異なっている。描かれた限りで見れば、ロジオンの最初の女は、アパートの女将、未亡人プラスコーヴィヤの一人娘ナタリヤである。ナタリヤは不具者(この日本語は差別語として使用されなくなっているが、ロシア語のуродには宗教的聖性の意味が込められている)であったが、ロジオンはペテルブルクに上京してすぐに彼女と婚約している。ナタリヤは一年前に流行の腸チフスに罹患して死んでしまったが、ロジオンの女の好みはナタリヤに体現された〈урод〉(聖性を秘めた異形の者)に集約されている。

 ところで、修道院への出家を願っていたナタリヤとロジオンの関係をきれいごとの次元だけで見るわけにはいかない。〈女たらし〉のラズミーヒンに言わせれば、ナタリヤには〈いいところ〉があったということになる。これは形而下なことを言っているので、ラズミーヒンはロジオンとナタリヤの特別の性的嗜好(俗的な言葉で言えば変態)をほのめかしているのである。性的側面に関するドストエフスキーの描き方は暗示的な言葉や世間に流布している噂話などを利用することはあっても、その現場に直接カメラを持ち込んで誰にでもわかるように映し出すことはない。したがってテキストの表層をスケーティングしているだけの読者には、描かれざる〈性的場面〉を見ることはできない。

 ロジオンは〈四日目〉、すなわち殺人を犯した翌日、警察署からの呼び出しに応じる。一度は逮捕を覚悟するが、呼び出しは女将プラスコーヴィヤからの借金の件であった。ロジオンは一気に不安と恐怖から解放され、訊かれもしないのにナタリヤとの婚約について次のように語る「ぼくは最初から、主婦さんの娘と結婚しようと約束したんです。もっとも、それはぜんぜん自由な口約束だったんですが……その娘は……もっとも、ぼくはその娘が気に入ってたくらいなんです……もっともほれていたわけじゃありませんが……一口にいえば、若かったんですね。いや、つまり、ぼくが言いたいのはこうなんです。主婦さんはそのために、当時多額に信用貸しをしてくれたので、ぼくは多少その、気楽な暮らしをしていました……ぼくはじつに軽はずみだったんです」と。

 大げさな言い方をすれば、このロジオンのセリフは〈非凡人〉の思想や〈アレ〉以上に重要と言ってもいい。ここでロジオンは婚約までしたナタリヤにたいして別に惚れていなかったと明言している。しかもロジオンは悪知恵のはたらく確信犯のように、婚約はあくまでも〈自由な口約束〉(つまり婚約不履行でも法的な裁きを受けることはないということ)であったことを強調している。

 これではロジオンは最初から女将からの信用貸しをあてにして、世間の男たちがだれも近づかないような不具のナタリヤを利用したとしか思えない。否、もう一つ理由があった。それは下宿の娘と結婚の約束をすることで、ただで性的関係を結べたということ、さらにナタリヤにはロジオンの性的嗜好に適う〈気に入っていた〉点があったということである。

 ロジオンは街裏の娼婦たちがたむろするいかがわしい場所に通っていた節がある。声をかけたドゥクリーダという女に、ロジオンは六コペイカをねだられて気前よく十五コペイカ(五コペイカ硬貨三枚)を与えている。この時は何もせずにその場を離れているが、ナタリヤの死後、ロジオンが何度かこういった娼婦街に、こういった場所に相応しい目的を遂げるために足を踏み入れていたにしても別に不思議ではない。

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モーパッサン『ベラミ』を読む(連載15)

──『罪と罰』と関連づけながら──

清水 正

 

 それでは次の場面を見てみよう。

 

  ジョルジュ・デュロワは、大通りまでくると、どうしてよいかわからなくなって、また足をとめた。そして、シャン=ゼリゼからブーローニュの森の並木道へいって、木の下で少しは涼しい風にあたろうかとも思ったが、が、ある欲望が彼の心にまつわっていた。つまり粋な女に出あいたかったのだ。

  その女がどういうふうにしてあらわれてくるか、見当もつかなかったが、彼は三月まえから、夜も昼も、待っていた。もっとも、時には、例の美貌としゃれた身ごなしのおかげで、ちょいとした恋を、あちこちで盗みはしたが、彼はいつももっと多くを、またもっとましなのを望んでいた。

  ポケットがからで、血が煮えたぎっていた彼は、町角で、客をひく女たちから、「ちょいと、いい男のお兄さん、家へいらっしゃいよ」と声をかけられても、金が払えなかったので、あとについていくことができなかった。だから、彼はそんなのとはちがった、別の、もっと品のある接吻を待っていた。

  だが、彼は街の女のうようよしている場所や、彼女らの網をはっている、ダンス・ホールやカフェや街路が、好きだった。彼女らとすれちがったり、立ち話をしたり、親しげな口をきいたり、その強い香水のにおいをかいだり、そばにこびりついていたりするのが好きだった。そうした連中も、要するに、女、恋のための女だ。彼は彼女らにたいして、身分のいい男たちのような、生れながらの軽蔑を、別段感じなかった。(292)

 

 ここにきてジョルジュの欲望、すなわち〈粋な女〉に出会いたいという欲望が彼の心を支配していたことが分かる。人間には様々な欲望が存在する。出世欲、名誉欲、権力欲など社会的野望を抱いている青年ならこれらの欲望に無縁な者はいない。しかしジョルジュの欲望は今のところ、女への欲望が何よりも優先している。出だしの場面で、ジョルジュは安レストランの常連客(女たち)を〈投網のまなざし〉で瞬時に捕らえていたことを忘れるわけにはいかない。ジョルジュが頼りにできるのは、女たちを虜にする生まれながらの美貌であり、彼はすでにこの武器が例外なく強い力を発揮することを体験的に知っている〈女たらし〉なのである。今、ここでジョルジュが〈女たらし〉としての欲望を素直に表明しても、それはごくあたりまえのことで、べつに驚くことではない。

 ところで『罪と罰』の人物たちはどうだろうか。〈女たらし〉ですぐに連想するのはドウーニヤを誘惑したスヴィドリガイロフである。が、彼だけが〈女たらし〉(色魔)であったわけではない。ロジオンの友人ラズミーヒンは苦学生で、友達思いの闊達な好青年の印象が強いが、しかし同時に女にたいしては盛りのついた雄犬のように振る舞っている。

 ラズミーヒンはロジオンの新しい住居を探し出すと、そのアパートの女将プラスコーヴィヤとその日のうちにハーモニーを奏でるような、すなわち性的関係を結ぶような、まさにジョルジュも顔色を失うような〈女たらし〉なのである。しかもラズミーヒンは三年振りに兄ロジオンを屋根裏部屋に訪ねてきたドウーニャに一目惚れしてしまい、邪魔者となったプラスコーヴィヤを彼と同じく〈女たらし〉の医師ゾシーモフに巧言を弄して押しつけようとする。ラズミーヒンは結果として、スヴィドリガイロフの手から逃れ、弁護士ルージンとの婚約を破棄したドゥーニャを口説き落として結婚する。

 

 『罪と罰』の読者で、登場人物たちの形而下的実態に注目した者はいない。『罪と罰』は形而上学的側面、思想・哲学・宗教などの側面からは数々の考察を積み重ねられたきたが、人物たちの生身の部分に関しては特別の関心を向けられることはなかった。わたしも十代の頃は、もっぱら観念的次元で『罪と罰』を読み続けてきた。『罪と罰』の中に出てくる女性と言えばソーニャしか眼に入らなかった。それがやがて美女ドウーニャ(この女性は男を惑わす魔性の女でもある)に移り、今では女中のナスターシャに最も魅力を感じる。

 女中ナスターシャは、屋根裏部屋で日がな一日ごろごろしているロジオンが〈仕事〉は〈考えること〉だと口にしたとき、からだ中をふるわせて笑い転げている。ロジオンの殺人に至りつくような思想や観念を笑い飛ばせる健全な常識を体現しているのがナスターシャで、わたしは彼女にロシア民衆の本源的な姿が賦与されているように思えた。この飾り気のない笑い上戸のナスターシャの心をも引きつけたのが雄犬ラズミーヒンである。ラズミーヒンが口説けば、ナスターシャもすぐにハーモニーを奏でたかも知れない。

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モーパッサン『ベラミ』を読む(連載14)

──『罪と罰』と関連づけながら──

清水 正

 

 モーパッサンはジョルジュの目にカメラを張り付けたような視点からパリの町を映し出しているが、そのカメラがジョルジュの内部世界に向けられることはない。従ってカメラは別にジョルジュの目に張り付けられる必要がないとも言える。ところが『罪と罰』のロジオンの場合は、彼の目に張り付いたカメラは外界に向けられると同時に、しょっちゅう彼の内部世界にも向けられている。読者は歩くロジオンの眼差しでペテルブルクの街を眺め、同時に彼の内部世界をのぞき見る。比重はどちらかと言えば、外界よりはロジオンの内部世界に向けられているので、当然のこととして読者はまるで自分がロジオンと一体化したような気分になって作品を読み進めることになる。

  一人称で書かれた『罪と罰』は、カメラがロジオンの目から離れて客観的な視点に立つことが希なので、読者はよほど気をつけていないとロジオンにからめ取られることになる。わたしは若い頃、まるで自分がロジオン・ラスコーリニコフであるかのように思い、殺人事件こそ起こさなかったが、心の底からソーニャを求めたりもした。『罪と罰』の読者の心を虜にするその叙述力は悪魔的でさえある。ついでに言っておくが、『罪と罰』はロジオンの目に内外世界を映し出すカメラを取り付けたばかりか、ロジオンの鼻には臭覚機器を、耳には聴覚機器を取り付けている。読者はロジオンの全感覚器官を通してペテルブルクの異常に暑いペテルブルクの街を、独り言をつぶやきながら歩くことになる。

 まさかジョルジュはロジオンのように独り言などつぶやきはしないだろう。ロジオンには彼に取り憑いた悪魔の観念とも言うべき〈アレ〉が存在したが、ジョルジュには陰鬱な独り言を促すような悪魔の囁きはない。この色男、美男子ということだけが唯一誇れるようなジョルジュには、彼の実存を脅かすような観念・思想は無縁である。ジョルジュはただただ貧乏な〈美男子〉として、今、蒸し風呂のようなパリの夜を特別な目的もなく歩いている。ジョルジュには、ロジオンの〈アレ〉と同じような、実存の危機を招くような〈目的〉は遂に見いだせないままに終わるのであろうか、それとも……。

 モーパッサンはパリの夏(六月二十八日)を歩くジョルジュの眼差しにカメラを張り付けて、彼の見る光景を映し出す。人間の眼差しは外界のすべての事象を記憶にとどめるわけではない。見たいものを選別し、その中から特に印象深かったものを記憶に残す。蒸し風呂の夜を歩くジョルジュは休んで一服したいと思っているからこそ、藁椅子にまたがってパイプをくゆらす門番の姿が目にとまるのである。次の、帽子を脱いでむき出しの額をさらして歩く疲れ切った通行人はどうだろうか。ジョルジュは伊達男だから、どんなに暑く、疲れても、帽子を手に持ったり、上着を脱いだりはしない。蒸し風呂の夜をやせ我慢して歩き続けるジョルジュと、本能に素直にしたがって歩く通行人のこの対蹠的な姿が面白い。

 さて、先に引用した箇所だけでも、移動するジョルジュの眼差しがとらえた光景であることが分かる。モーパッサンはある地点に固定されたカメラで歩くジョルジュを映し出しているのではない。よくよく注意して読めば、ジョルジュは暑い蒸し風呂の夜を休み休みして(少なくとも一度は立ち止まっている)歩いていることが分かる。歩きながら目にとどめた光景と立ち止まってみた光景を作者はきちんと描き分けている。

 

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随想 空即空(連載6)

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有即無 無即有 有無即空 空即空 空空空 正空 (清水空雲)

随想 空即空(連載6)

 さて、正宗白鳥に興味を持ったので、彼の書いたものを何冊か読もうと思ったのだが、自宅の書斎は倉庫化していて探すのがまず不可能。たしか講談社版日本文学全集の一冊を所有しているはずだが、探すのが面倒。ネットで検索するとアマゾンでもヤフオクでもすぐに何十冊もの著作や正宗白鳥論が出てくる。先日、部屋中本だらけになるので購入を控えようと決意したばかりなので、とりあえず青空文庫を覗いてみることにした。何編かの記事を読んだが、その中で最も興味深かったのが「論語とバイブル」であった。この記事は読売新聞(1904年10月15日)に発表されたもので、白鳥がまだ二十五歳の時である。「畢竟《ひっきょう》論語もバイブルも吾人が恐れ入るにも当らない凡書である」で締めくくった、この大胆不敵、痛快な記事を載せた読売新聞も面白いが、やはり白鳥がなんと言っても一番面白い。今なら、こんな面白い記事を若い記者が書いても自己保身のサラリーマン化した上司にボツにされるだろう。のんきな時代であったのかも知れないが、常識の枠にとうてい収まらない記事が百年以上も前に新聞に載って、今では青空文庫で無料で読めるというのは有り難い。

 この記事はどこを取っても面白いが、まずは山上の垂訓に関する白鳥の意見に耳を傾けてみることにしよう。

 

 山上の垂訓は耶蘇の道徳観を述べ尽したのであるが、不条理の点が多い、第一「貧しき者は幸なり。」とは会得出来ぬ言だ。自殺するのも、人殺しをするのも、泥棒をするのも貧乏の結果たることが多い。耶蘇教信者とても会堂を建てたり伝道をするにも先立つ者は金ではないか、或いは貧乏しなければ天に手頼《たよ》る気にならぬとコジ付ける人もあれど、金がないから止むを得ず、神様に縋って慰めようというのならば、其の反面には、金があれば神や仏はどうでもよいという意を含んで来る。金の方が神よりも尊く見えて来る。悲む者はよいとか、病気するはよいとか、七ツの祝福《ピアチチュード》何れも常識のある人間の首肯し難い者のみである。「我れ世に来るは平和を齎《もたら》さんとに非ず、子を親に背かせ……。」は恕《ゆる》すべからざる不埒な言である。正義の為には夫婦離反してもよいというかも知れぬが、世に親子夫婦睦まじく笑って暮すよりも重んずべき主義があろうか。生中《なまなか》宗教がある為に宗旨争いで家庭の不和が生ずることは随分ある。「一里行けと命ぜらるれば二里行け。」とか「上衣を取らるれば下着を与えよ。」とか、行うべからざる教えである。いかに耶蘇崇拝家でも癇の虫があるからこれには全然従われぬと見え、様々にこれを曲解しているが、無心に見れば、個人を蔑視した暴論である。姦淫の訓戒も人間固有の性に背いている。全章只一つ吾人の気に入る文句は、「明日は明日の事を思い煩え、一日の苦労は一日にて足れり。」と今日主義、酔生夢死主義を鼓吹した事である。

 

 白鳥が「貧しき者は幸なり」と書いてあるのはルカに拠る。マタイ福音書では「心貧しき者は幸いなり」とある。キリスト者でない日本人にもよく知られた垂訓であるが、しかしその意味を正確に把握している者は稀であろう。ふつうに考えれば〈心貧しき者〉がどうして〈幸い〉なのか理解に苦しむ。経済的に貧しくても、心豊かであれば幸いである、という教えなら納得がいく。心が貧しいというのは、文字通り受け取れば負のイメージがつきまとう。心が〈貧しい〉を〈謙遜〉〈謙虚〉と解釈すればそれなりに理解できないこともないが、それならそれでそのように訳せばいいということになる。原文に即して訳すと「霊において貧しい」ということだそうだ。これはこれですぐに理解できる言葉ではないが、神に救いを求める霊の渇きと受け止めればそれなりに理解できる。キリストの垂訓は、虐げられ辱められた者、弱い者、不治の病に苦しむ者たちに救いを約束している。しかし救いが成就されるためには、天界に存在する神を信じ、神に救いを求めることがれば絶対条件となっている。

 キリストの垂訓は、虐げられている現実を自ら闘うことによって打破せよとは教えない。貧しさを解決するために政治制度の変革を目指すとか、病気を直すためには医学の進歩発展のために尽くすとか、そういった現実世界での解決を促す言葉ではない。革命家がキリスト教から離れるのは当然である。しかし、神を信じるのと革命を信じるのは、そこに共通することもある。その姿を見たこともない、その声を聴いたこともない神を信じなさいというキリストと、未だ革命後の世界を誰も経験していないのに革命を絶対化した革命家は同じような性格を持っている。今や革命のユートピア性を信じている者などごく稀であろうが、ソ連が崩壊してすら、共産党一党独裁や独裁者の存在を支持している国家や国民がいる。彼らはドストエフスキーの『悪霊』ぐらいは熟読したほうがいい。最も一度くらい読んだだけで『悪霊』を理解できる者はいない。専門の文学研究者ですら、『悪霊』の表層をスケーティングして分かったつもりになっている者ばかりと言っても過言ではない。

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──『罪と罰』と関連づけながら──

清水 正

 

  さて、作者はジョルジュを〈通俗小説の女たらし〉と書いているが、わたしの想像裡ではそれとはまったく異なるイメージも広がっていく。口髭は別として、濃いブロンドの髪、青く明るく澄んだ目からわたしがまず第一にイメージしたのはキリストである。西洋絵画に登場するキリストのイメージと重なり、もしかしてモーパッサンはこの女たらしの美青年にキリストを重ねていたのではないかとも思ったのである。今のところ、これはわたしの先走りした根拠のない妄想、幻想の域にとどまっているが、しかしまったくあり得ないことだとも言い切れない。ドストエフスキーは『虐げられた人々』の中で悪の怪人ワルコフスキーの息子にアリョーシャ・ワルコフスキーという純粋無垢な〈悪党〉を描いている。ドストエフスキーは純粋、無垢、軽佻浮薄といった言葉でくくられた青年に潜む自覚されることのない〈悪〉を剔抉してみせた小説家である。モーパッサンがジョルジュという一人の〈女たらし〉を描ききれば、キリストと重なる恐るべき純粋が浮上してくるかもしれないではないか。

 今までのところ、読者に報告されているのはジョルジュの外貌と所持金、かつて騎兵隊に勤めていたということぐらいである。また舞台時間の設定も〈六月二十八日〉が明示されているだけで西暦何年なのかは記されていない。読者は漠然と『ベラミ』が刊行された一八八五年当時を想定するしかない。『罪と罰』ではロジオンの住んでいる場所(五階建てのアパートの屋根裏部屋)は最初から明示されているが、ジョルジュの場合、彼がどこに住んでいるのかは今の時点では分からない。これからどのように明らかにされていくのか楽しみだが、ジョルジュの住まい、職業、給料、家族、友人、生い立ち、学歴など、これらすべてが霧の中である。特に彼が身につけている三つ揃い〈六十フラン〉の安い・高いを確定するためにも、彼がもらっている給料はぜひ知りたいものである。おそらく作者はこういった情報を徐々に読者に報告すると思われるが、その仕方にも注意しながら先に進むことにしよう。

 

  折りしも、パリに風の子もかよわない、夏の夕であった。町は、蒸し風呂のような暑さで、息づまる夜のなかに汗をかいているといった格好だった。下水は花崗岩の口から、臭い息をはき、地下の調理場は、低い窓から、皿を洗った水やすえたソースの、胸がむかつくような臭気をふきだしていた。

  家番たちは、上衣をぬいで、藁の椅子にまたがり、正門の下でパイプをふかしていた。通行人は、帽子を手にもち、額をむきだしにしたまま、げんなりした足どりで歩いていた。(292)

 

 『罪と罰』の愛読者なら、こういった描写を読めばすぐに次のような叙述場面を想起するだろう。

 

  通りは恐ろしい暑さだった。そのうえ、息ぐるしさ、雑踏、至るところに行きあたる石灰、建築の足場、れんが、ほこり、別荘を借りる力のないペテルブルグ人のだれでもが知りぬいている特殊な夏の臭気――これらすべてが一つになって、それがなくてさえ衰えきっている青年の神経を、いよいよ不愉快にゆさぶるのであった。市内のこの界隈にとくにおびただしい酒場の、たえがたい臭気、祭日でもないのにひっきりなしにぶっつかる酔漢などが、こうした情景のいとわしい憂鬱な色彩をいやが上に深めているのであった。深い嫌悪の情が、青年のきゃしゃな顔面をちらとかすめた。ついでにいっておくが、彼は美しい黒い目にくり色の毛をしたすばらしい美男子で、背は中背より高く、ほっそりとしてかっこうがよかった。けれど、彼はすぐに深い瞑想、というよりむしろ一種の自己忘却におちたようなあんばいで、もう周囲のものに気もつかず、また気をつけようともせず先へ先へと歩きだした。どうかすると、いましがた自分で自認したひとり言の癖が出て、何かしら口の中でぶつぶついう。この瞬間、彼は考えが時おりこぐらかって、からだが極度に衰弱しているのを自分でも意識した――ほとんどもう二日というもの、まったくものを食わなかったのである。(4)

 

  ここに引用した前半部分などは、『ベラミ』のそれとほぼ同じと言ってもいいだろう。〈蒸し風呂のような暑さ〉と書かれたパリの夜と、〈恐ろしい暑さ〉と書かれたペテルブルクの夜、それに〈胸がむかつくような臭気〉と〈特殊な夏の悪臭〉――まるで『ベラミ』の夏のパリと『罪と罰』の夏のペテルブルクが重なり合っているような印象を受ける。もしかしたら、モーパッサンは『罪と罰』の主人公である〈一人の青年〉(οдин молοдοй человек)ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフを十分に意識して〈一人の青年〉ジョルジュ・デュロワを描き出そうとしたのではないかと思えるほどである。しかし、異様に暑い都市の夏を生きるロジオンとジョルジュは外面的には共通する部分を持ちながら、その内部世界は明らかに異なっている。モーパッサンはさし当たり、ジョルジュの内面に立ち入ることをさけて、その外面的な姿に照明を当てるにとどまっている。

  『ベラミ』の読者は作品の出だしにおいてジョルジュの美貌、その美男子であることを知らされるが、『罪と罰』ではここに引用したようにロジオンの〈すばらしい美男子〉ぶりは〈ついでに〉語られている。ジョルジュはまず何よりも〈美男子〉が強調されている。片やロジオンの美貌はついでに語られるほどのことであって、彼にあって重要なのはあくまでも内部的な問題にある。モーパッサンはロジオンから内部的な深刻な思想をすっかり取り除いた〈一人の青年〉を実験的に設定したのかも知れない。換言すれば、ロジオン的思想や哲学、さらに宗教がすでに無化された虚無の世界をモーパッサンは生きており、彼はそれをジョルジュに投影していたのかも知れない。舞台をペテルブルクからパリへと代え、そこに生きる〈一人の青年〉ジョルジュを通してモーパッサンは〈現代〉を生きる人間の姿を赤裸々に描き出そうとしたのかも知れない。神と革命の狭間で思い惑う〈一人の青年〉ロジオンは、神なき世界を生きる〈一人の青年〉ジョルジュに変身して、〈現代のパリ〉にその姿を現したのかも知れない。

 

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発行日 2021年12月3日

発行人 坂下将人  編集人 田嶋俊慶

発行所 日本大学芸術学部文芸学科 〒176-8525 東京都練馬区旭丘2-42-1

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モーパッサン『ベラミ』を読む(連載12) ──『罪と罰』と関連づけながら──

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有即無 無即有 有無即空 空即空 空空空 正空 (清水空雲)

モーパッサン『ベラミ』を読む(連載12)

──『罪と罰』と関連づけながら──

清水 正

 

 すでにお気づきのかたもあろうかと思うが、わたしは今回、作品を現在進行形で読み進め、そのつど立ち止まりながら批評を展開している。ふつう批評や研究は、対象とする作品を読み終え、その作品に関する先行研究を読破した上で、自分独自の見解を示さなければならないとされている。が、わたしはそういった批評や研究をする気はない。テキストに対して、いつでもわくわくはらはらする新鮮な気持ちで立ち向かっていきたいと思っている。これは一つの実験的な批評であり、今後どのような発見があるのか、まずは自分自身がいちばん楽しみとしているのである。

 わたしは今回『ベラミ』の邦訳を何種類か用意し、とりあえず日本語だけで作品世界に肉薄していきたいと考えている。同一言語でも訳者によって訳語はことなる。原典に当たればすぐ解決がつくような訳語もあるだろうし、そうは簡単に行かない場合もある。先に〈百スー銀貨〉に言及したが、木村庄三郎(角川文庫)は〈五フラン金貨〉と訳している。今のところ〈百スー銀貨〉の存在を確かめていない。〈20スー〉が〈1フラン〉に相当するということで〈百スー銀貨〉が〈五フラン金貨〉に化けても不思議はないが、もし原語で〈百スー銀貨〉と書かれていたなら、なぜ作者モーパッサンは現実に流通していない硬貨を敢えて作中に出現させたかが問題となるだろう。もっとも、ネットで調べた範囲では〈百スー銀貨〉の存在はない。もしあったとすればそれはそれで面白い。わたしの常識で推測すれば、〈百スー銀貨〉は〈五フラン金貨〉ないしは〈五フラン銀貨〉の別称として使われていたのかも知れない。

 まずジョルジュの帽子から見ていこう。田辺貞之助訳〈かなり古びたシルクハット〉は〈かなり色のさめたシルクハット〉(杉捷夫)、〈色のあせたシルクハット〉(木村庄三郎)などと訳されている。そうとう使い古した帽子にはちがいないが、ジョルジュはそれを新品で購入して、長いあいだ自分の頭にのせていたものなのか、それとも古着屋で安く入手したものなのか、そういった事情は分からない。

 帽子と言えば『罪と罰』のスヴィドリガイロフやピョートル・ルージンもまた、〈紳士〉に相応しいシルクハットを被っていた。ラズミーヒンの被っていたのはありふれた学生帽で、注目すべきはロジオンの帽子である。ロジオンの被っていたのはドイツの青年紳士が被るようなチンメルマン製の山高帽子である。年金で暮らしをたてている貧しい母親からの仕送りがなければ学生生活を送れなかったロジオンが、よりによってドイツ製の山高帽子を購入している。帽子だけではどう見ても不自然で調和しないから、外套、ズボン、靴まで新調して、まるで青年紳士気取りでペテルブルクの街を闊歩していたかも知れない。

 ロジオンは『罪と罰』の読者に人類の全苦悩を背負ったような文学青年風のイメージを強く与えるが、何度も読んでいくうちに実はこの青年、かなり軽佻浮薄なところがあるなと思わざるを得なくなる。母親や妹の苦労を考えれば、ドイツ製の山高帽子をかぶって気取っている場合ではなかろうというわけだ。〈非凡人〉の思想などを書いたりしゃべったりするものだから、ロジオンという青年、なかなか思慮の深い青年だと勘違いしてしまうが、少し冷静になって考えてみれば、斧を胸懐に隠し抱いて、高利貸しの老婆を殺しにでかけるような青年がまともであるわけがない。ロジオンの〈踏み越え〉(犯罪)は、虚栄心の強い、軽佻浮薄な青年に仕掛けられた悪魔の罠とさえ言ってもいいのである。

 ジョルジュの色あせた古いシルクハットも、それを頭に斜にのせる当人の〈虚栄心〉をせつなく反映している。救われるのは、色あせたシルクハットにジョルジュがまったく気落ちしていないことだ。ジョルジュは貧しいなりに、おしゃれを楽しみ、彼なりのダンディ振りを存分に発揮している。獲物を瞬時に一網打尽にする、女たらしの〈投網のまなざし〉は健在である。

 作者はこの女たらしの美男子に〈一そろい六十フランの安物〉(田辺訳)を身につけさせる。この訳語は漠然としていて具体的イメージを喚起しないが、木村訳の〈上下で六十フランの安服〉、杉訳の〈六十フランの三つ揃い〉になるとかなり具体的である。仮にジョルジュの身につけている服を上着、チョッキ、ズボンの〈三つ揃い〉とみた場合、〈六十フラン〉が安いと言えるのかどうか、現代日本人の感覚からすると判断しにくい。〈1フラン〉を〈2000円〉とみれば十二万である。十二万を安いと見るか、高いと見るか、それとも妥当と見るか、なかなか判断は難しい。考えられるのは、この〈三つ揃い〉が新調ではなくて、古着屋あたりで安く入手したということかも知れない。

 いずれにせよ、ジョルジュは〈古物〉でも粋に着こなすダンディで、女たちの眼差しを自分に向ける手練手管に長けた女たらしであり、彼は自分が女から好かれる〈優美さ〉を備えていることをよく自覚しているのである。石原裕次郎軍団の男優たちの誰かひとりでも思い浮かべたらいいかも知れない。

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モーパッサン『ベラミ』を読む(連載11)

──『罪と罰』と関連づけながら──

清水 正

 

 ロジオンは精神の分裂を生きている。ロジオンの内には〈神〉と〈悪魔〉が同等の力を持ったものとして存在しており、まさにドミートリイ・カラマーゾフが言うように、永遠に決着のつかぬ闘いを続けているのである。ロジオンの精神分裂の特徴は、彼が〈神〉か〈悪魔〉のどちらかに寄り添うことはあっても、その両者が対等の存在として自らの精神内部に巣くっているという認識に達して、そこから精神内部の闘いを冷静に見つめる視点が欠如していることである。精神内界を冷静に凝視する視点、謂わば精神内部の各々自立し分裂した〈我〉(役者)を統治支配する演出家としての〈我〉がその機能を存分に発揮することができず、ある特定の〈我〉が演出家としての〈我〉の統治から逸脱して独自の力を発揮してしまうのである。その意味でロジオンの実存は絶え間なく正常と狂気の狭間にあって自己破綻の危機にさらされている。描かれた限りにおいても、ロジオンの実存は持続的な発狂状態にある。それはロジオンが〈神〉と〈悪魔〉双方に親和的な関係を取り結んでしまうような青年であったことによる。

  わたしのような、意識空間において〈演出家としての我〉の位置に居続けるような者にとって、我が身に屋根裏部屋の空想家ロジオンを引きつけて考えれば、殺人などという〈踏み越え〉を実行してしまう青年は非現実な存在に見える。しかし、ドストエフスキーは屋根裏部屋の思弁家に作家や研究者として自立できる将来の途を敢えて徹底的に閉ざし、人殺しという犯罪の途を用意周到に準備した。誰よりも残酷なのは作者ドストエフスキーと言えるが、彼はロジオンを殺人という〈踏み越え〉へと追いやることで、最終的には〈復活〉という〈踏み越え〉を用意した。

 

 さて、このへんで『ベラミ』に戻ろう。先に引用した場面の続きを見てみよう。ジョルジュが安レストランから往来へ出て、頭の中でしけた金勘定をしながら、ノートル=ダム=ド=ロレット街の方へおりていった場面の続きである。

 

  彼は軽騎兵の制服を着ていたときのように、胸を突きだし、馬からおりたばかりというふうに股をすこしひろげて、歩いていった。そして、こみあう街を、のしのしと進んだ。人の肩にぶつかったり、邪魔なものを押しのけたりした。かなり古びたシルクハットを、軽く片方の耳へかしげ、靴の踵で舗道をたたいた。そうした様子は、退役になった美男の兵士の癖で、いつもだれかに、道行く人や、家々や、町全体に、喧嘩を吹っかけようとしているみたいだった。(291~292)

  一そろい六十フランの安物を身につけているとはいえ、彼には、なんとなく人目をひく、しゃれたところがあった。もちろん、ありふれた優美さにはちがいなかったが、否定できないことだった。背が高く、恰幅がよく、髪がブロンドで、それも多少茶がかった濃いブロンドで、口髭が、おこっているように、唇のうえでぴんとはね、目は青く明るく澄んで、ごく小さな瞳がのぞき、生れつきちぢれた髪が、頭のまん中に筋をひいて、ふたつにわかれていた。いわば通俗小説の女たらしにさながらだった。(292)

 

  作者は街を歩くジョルジュの姿を客観的に描き出す。まず、カメラはジョルジュの外形的姿を描き出すのであって、彼の内面世界ではない。ロジオンもまたペテルブルクの街を歩いてアリョーナ婆さんの住むアパートにたどり着くが、読者はロジオンの内面世界にずっとつきあわされる。読者の頭にしっかりと刻印されるのはロジオンが呟く「はたしておれにアレができるのだろうか?」と言葉である。この〈アレ〉が『罪と罰』全編を貫く根本的な〈思想〉と言っても過言ではない。

 はたしてジョルジュにロジオンに匹敵する〈思想〉が存在するのであろうか。答えは簡単である。作者が描くジョルジュの外的な姿だけで、彼が思想とか哲学とか宗教とは無縁な軽佻浮薄で虚栄心の強い青年に見える。若者の中には、未だ自分本来の才能を見いだすことができず、やたら虚勢をはって自己主張したがる者がある。ジョルジュもまたそんな若者の一人であるかのように、人並みを押し分けて大股で街を歩いていく。今のところジョルジュが自慢できるのは美男子ということだけで、三度の食事にも事欠くような貧しい暮らしを強いられている。虚栄心の強い若者が安レストランに通わなければならないことだけでも屈辱であったにちがいない。

 ポケットにわずかばかりの硬貨をじゃらつかせて、街をさも威厳ありそうに力強く歩くジョルジュの姿容貌を、ここにきて作者は具体的に描き出す。それまでのジョルジュは謂わばノッペラボウの美男子であって、読者がその姿を勝手に想像するほかはなかった。こういった点が、映画や演劇と違って小説展開のおもしろいところである。

 もちろん映画や演劇で目鼻のついていない美男子を登場させるわけにはいかない。しかし小説においては、極端なことを言えば、最後まで人物の容姿や服装など描写しなくてもべつにかまわない。ぜひどんなことがあっても人物の容貌を描かなければいけないなどというきまりはない。が、リアリズム作品において人物、特に主人公の容貌は重要な位置を占めることは確かである。

 『罪と罰』を読んでロジオンを描けと課題を出せば、美術学科の学生でなくともそれなりに描けるはずである。よほどユーモア精神溢れる茶目っ気のある学生ならともかく、ロジオンを短足のデブに描く者はいないだろう。貧しく、粗末な服装やぼろ靴をはいていても、ロジオンは陰気な文学青年風の痩せて背の高いイメージを備えている。ドストエフスキーはロジオンの外形的な姿に関しては簡潔に描いているが、それは外形よりは彼の内面世界を重要視しているからにほかならない。ところがジョルジュときたら、彼の存在は外形だけで十分だといったような描かれかたである。作者は、読者に向けてジョルジュの内面世界などに特別な興味を抱くことを予め禁じているかのようでもある。しかし、作者がジョルジュを〈通俗小説の女たらし〉と書いている以上、読者はその〈女たらし〉ぶりは存分に味わうことができるというわけである。

 『ベラミ』が通俗小説に属するのか純文学に属するのかは分からない。もともと〈純文学〉などという概念は近代日本文学研究者が作り上げたもので、要するに『ベラミ』も『罪と罰』も〈ロマン〉であり、その世界には当然、通俗的な出来事も描かれれば「人間とは何か」という本質的な哲学的宗教的な問題も含まれている。ロジオンも人間であれば、ジョルジュもまた間違いなく人間である。その生きた時代、場所、影響を受けた思想や宗教は異なっても、彼らは一人の人間として登場している。作品に主人公が設定され、その主人公を中心として物語が展開していく限り、読者はその主人公に寄り添って作品世界に参入していくほかはない。今や読者は、帽子、服装、髪型、髪の色、瞳、口髭など、容貌に具体性を帯びた主人公ジョルジュと歩調を合わせながら、作品を読み進んでいくことになる。

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