帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載27) 師匠と弟子

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載27)

師匠と弟子

清水正
 イエスは弟子たちの無理解に対していらだちの感情を押さえ込むことはない。イエスは弟子たちと同じ時空を生きているが、彼らと実存の同時性を生きることができない。もし、弟子のうちの一人でもイエスと実存の同時性を獲得していた者があれば、イエスの孤独は解消されたであろう。が、同時にイエスは選ばれし者としての単独性を失うことになる。単独者が二人以上存在するとなれば、イエスの単独者としての聖性や権威はただちに相対化されてしまうことになる。
 弟子たちは生前のイエスと実存の同時性を獲得することはできなかった。裏切り行為やつまずきは、実存の異時性を生きざるを得なかった弟子たちにとって不可避的なことであった。もちろんイエスに表面上つき従っていただけの弟子たちは、実存の同時性も実存の異時性も理解していない。ペテロに限って言えば、彼はイエスをキリストと見なす以上に、新しい宗教上の仲間、友の一人として考えていたのではないかと言うことである。預言者は故郷に受け入れられないとはよく聞くが、同時代を生きた同じ年頃の青年たちにとっても、預言者がカリスマ性を存分に発揮することは難しいのである。ましてや衣食住を共にした共同生活を続けていれば、カリスマ性や威厳を保つことはより困難となる。福音書に描かれたイエスから、〈神の子〉の衣装を容赦なく剥ぎ取れば、ユダやペテロの裏切り行為も、仲間うちのそれとなる。この文脈で見れば、ユダの自殺、ペテロの泣く行為は、イエスをキリストの次元で再構成するための粉飾とさえ見えてくる。
  もう一度、ユダがイエスに口づけした直後の場面を見てみよう。

  すると人々は、イエスに手をかけて捕えた。

  そのとき、イエスのそばに立っていたひとりが、剣を抜いて大祭司のしもべに撃ちかかり、その耳を切り落とした。(マルコ福音書14章46~47節)

 大祭司の耳を切り落とした者がだれであったのかマルコは記していない。マタイ福音書とルカ福音書では次のように書かれている。

  すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。
  そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。
  それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。
  だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」(マタイ福音書26章51~54節)

  イエスの回りにいた者たちは、事の成り行きを見て、「主よ。剣で撃ちましょうか。」と言った。
  そしてそのうちのある者が、大祭司のしもべに撃ってかかり、その右の耳を切り落とした。
  するとイエスは、「やめなさい。それまで。」と言われた。そして、耳にさわって彼を彼を直してやられた。(ルカ福音書22章49~51節)

  マルコ、マタイ、ルカの三福音書においてしもべの耳を切り落とした者の名前は伏されている。名前が明確に記されているのはヨハネ福音書のみである。

  シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。
  そこで、イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」(ヨハネ福音書18章10~11節)


 ペテロはイエスを守ろうとして剣を振るっている。が、すぐにイエスによってとめられる。なぜかペテロの行為はイエスの意に沿ったものとはならない。ペテロのやることなすことすべて裏目にでる。イエスはユダの裏切りによって逮捕されるが、ユダの裏切りの前に自ら出頭する気はない。かといって、敵側の者たちと徹底的に戦う姿勢を見せるわけでもない。こういった指導者の下につくものは、自分の行動を一義的に決定することができず、真剣に考え始めたらノイローゼになってしまうだろう。
 いずれにせよ、ペテロは大祭司のしもべの耳を切り落としてしまったのだから、彼の立場は明確である。イエスがペテロの行為をたしなめたことは、ペテロにとっても他の弟子たちにとっても理解不能であったろう。ユダはイエスを銀貨三十枚で売り飛ばし、いけしゃあしゃあとイエスの前に現れて接吻する。はたしてユダ以外の十一弟子たちは、この時、ユダの裏切りをはじめて知ったのであろうか。それとも、ユダが最期の晩餐の直後、姿をくらました時点で彼の裏切り者であることを確信していたのか。いずれにせよ、ユダが再び現れたのを見て、イエスの弟子たちの間に動揺が走ったのは確かであろう。弟子たちのうち誰もユダを撃とうとする者はなかったのであろうか。
 イエスはペテロに向かって「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」と言う。それならなぜイエスは弟子たちに剣を持つことを許していたのかという疑問が起こる。進言すればサタン呼ばわり、イエスの身を守ろうとして剣を振るえばたしなめられる。イエスが逮捕されると弟子たちは逃げ出してしまうが、逃げ出すほかに何か手だてがあったであろうか。
 ペテロは逮捕されたイエスの後を追っていくが、すでに見たようにイエスの仲間であることを三度にわたって否定する。このペテロの三度の否定をどのように受け止めたらいいであろうか。もし、ペテロが素直に認めていればどうなったのか。彼もまたイエスと同様に逮捕されるのか。否、パリサイ派の者たちが狙っていたのはあくまでもイエス一人と言っていいだろう。自分たちが守ってきた教義、儀礼、慣習を根底から脅かすのはイエスであり、彼を処刑にすることが、彼らの第一の目的である。

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載26) 師匠と弟子

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近況報告

五味康祐の『天の聲─西方の音─』(新潮社)を一気に読み終えた。モーツアルト、バッハ、ワーグナーの音楽を聴きながら。近ごろ、クラシック音楽を聴くことなどなかったが、今回は特別である。五味の音楽観には聞くべきものが多くある。五味の太宰治三島由紀夫に関する意見も面白かった。わたしは五味のこの本を読みながら、今書き続けている『罪と罰』の「ラザロの復活」場面を頭の中で交響楽的に再構成していた。わたしは十代の昔から作曲の才能があれば『カラマーゾフの兄弟』を壮大緻密な構成で作曲したいと思っていた。が、幸か不幸か作曲を勉強する機会に恵まれていなかったので、

文学作品(それは言うまでもなくドストエフスキーの作品群だが)を批評することに邁進することになった。わたしにとっての批評はテキストの解体と再構築で、それは役者、演出家または演奏家、指揮者の役割をも兼ねる。作者が「描かないで描いた世界」はもとより、作者すら想定しなかった場面をも観通したうえでの批評であるから、それはテキストを媒体とした独自の創造ともなる。この批評行為はもっぱら言葉によってなされるから、舞台、照明、衣装、演奏家・役者を必要としない。五味はいい音楽を聴くために、執拗にマニヤックにオーディオ装置にこだわったが、批評家のわたしにはそういった媒介装置に関する執着はない。テキストを創造的に読み込む想像力があれば事足りる。この力は単に努力すれば獲得できるものではない。わたしがドストエフスキー文学を批評し続けているのは運命であって、この運命を変更することはできない。ドストエフスキーに『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』を書かせている、あるなにものかとわたしは対話し続けているのであって、描かれた限りでのテキストを読み続けているのではない。

帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載26)

師匠と弟子

清水正

  神の子としての衣装を着せられたイエスに対して、弟子たちは限りなく人間としての弱さや卑小さを暴かれている。裏切り者ユダやペテロの内部世界に照明を与えれば、まさに一編の壮大な〈ドストエフスキー作品〉が創造されることになるだろう。

 ペテロは鶏が二度鳴く前に三度もイエスを知らないと口にした。イエスの言葉を思い出してペテロは泣いた。わたしが最初に福音書を読んだとき、ペテロの泣く姿に胸を熱くした。ペテロの慟哭が感染した。ペテロはこの時、イエスの言葉を理解したと思ったからである。わたしの言葉で言えば、この時ペテロはイエスとの実存の同時性を獲得したことになる。しかし、今回改めて読むと、ペテロの〈泣く姿〉はそうそう簡単に解釈するわけにはいかないと思った。イエスを裏切り続けるペテロのその〈裏切り〉は彼の内部世界に深く根を張っていて、本人の意志では排除しきれない性格を備えているように思える。

 ペテロはイエスから最初に「わたしについて来なさい」と声を掛けられた弟子である。ペテロにとってイエスは特別な存在であり、イエスとの関係性に絶対性を感じていたであろう。だからこそペテロはさしでがましい進言をしたりしてサタン呼ばわりされたりする。

 

 福音書に書かれたイエスの言葉は「わたしについて来なさい」である。この一言でペテロはイエスに従う。記者はイエスとペテロの関係についていっさい記していない。以前から関係があったのか、それともこの時が初対面であったのか。書かれた限りでこの場面を見れば、イエスの言葉には圧倒的な力がある。イエス新興宗教の教祖としての威厳があり、言葉を掛けられた者はその言葉に従う他はない。イエスとペテロの関係は教祖と信者、師匠と弟子といった関係に見える。が、後の弟子たちの愚かな言動を顧みると、これらとは異なった関係であったことも考えられないことはない。

 ペテロはイエスを本当に教祖あるいは師匠と思っていたのか。ペテロはイエスを先輩、仲間と思っていた可能性もある。ペテロの裏切り行為を見ると、彼が真にイエスをキリストと思ってつき従っていたとはとうてい思えない。イエスを三度知らないと言った後でペテロは泣くが、この泣く行為がペテロをさらなる自己欺瞞へと陥れていった可能性を否定することはできない。大胆なことを言えば、ペテロは最初から最後までイエスを裏切り続けた男でありながら、彼本人はイエスの教えに忠実であったと思いこんでいた節がある。あるいはその振りを全うしたとも言える。福音書を執拗にさまざまな角度から照明を与え続けると、イエスの弟子たちひとりひとりが生々しいリアリティを持ちはじめることになる。

 福音書記者は事実を端的に記して極力説明をしない。イエスもまた自分の発する言葉に対して、弟子たちにわかりやすく説明することはない。イエスは弟子たちの理解のなさを寛容に受け止めることはしない。

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載25) 師匠と弟子

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載25)

師匠と弟子

清水正

  わたしは現実を生きたイエスを知らない。イエスと共に生きて彼を裏切ったユダを知らない。無自覚のうちに裏切り続けるペテロを知らない。福音書記者マルコを知らない。知り得るのはマルコ福音書というテキストのみである。このテキストをもとに、そこに描かれたイエスとその弟子たちの肖像をわたしなりに浮上させるほかはない。

  わたしの人間観から言えば、首を吊って死ぬユダよりも、あつかましくふてぶてしく生きながらえるユダの方が面白い。そのことでイエスの生き方に対するユダの生き方が鮮明になる。イエスを人間とのみ見れば、彼はマリアから生まれ、戒律を遵守するユダヤ教徒から疎まれ、十字架刑に処せられた新興宗教の教祖ということになる。生前のユダにとってイエスが神の子と思えたことは一度もない。マルコは、ユダがどういうわけで十二弟子のひとりに選ばれたのかについていっさい触れていない。が、敵側に銀貨三十枚でイエスを売ったということは、ふつうに考えればユダがイエスに対して何か根深い恨みと不信を抱いていたことを意味している。それともユダは、イエスとの信頼関係以上に金を第一に考える男だったのであろうか。どの時代にあっても人間が人間である限り、生きてあることの意味を問わない者はいない。イエスにおける生の意味とユダのそれとを決定的に隔てているのは、前者においては生はこの地上の世界に限定されるのではないのに対して、後者は生をこの世に限定したことである。この世界にのみこだわれば、金、権力、地位名誉が何よりも尊重されることになる。

 福音書に描かれたイエスは、地上の価値観を超脱している。イエスの求めている生は、誕生し生きそして死んでいくだけの生ではない。

 

 

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載24) 師匠と弟子

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近況報告

近藤承神子さんから五味康祐の著書が二冊送られてきた。そのうちの一冊『西方の音』(中公文庫)を読み終えた。わたしは髭もじゃの五味康祐をテレビなどで見知っていたが、彼が剣豪小説家であるという以外のことはなにも知らなかった。つまり彼の存在はわたしにとって何の影響もなかったし、今回近藤氏がこの本を送ってこなかったらまったく無縁の存在に終わっただろう。

五味康祐はオーディオの飽くなき探求者であり、本の中身ももっぱら彼が聞き続けてきたクラシック音楽とオーディオ蒐集にまつわるマニアックな話で構成されている。鬼気迫る蒐集熱で読んでいて圧倒される。テレビで抱いていた通俗的なイメージはすぐに払拭された。

本書に三か所ほどドストエフスキーに関する言及があった。夫々興味深いので引用して紹介しておこう。

外国文学で、ドストエフスキーバルザックをのぞけば、もっとも深く感銘し繰り返し読みふけったのはリルケの著作である。(50)

ゲーテはワグナーに比べれば聡明すぎるし、バルザックは人間的な幅がまるでない。辛うじて、ワグナーに匹敵する感動を文学で現代にもたらしたのはドストエフスキーかと思う。(139)

ハンス・ホルバインの描いた『墓の中のキリスト』という絵がバーゼル美術館にあるが、ドストエフスキーはこの絵を見て「人々から信仰を奪いかねない」と叫んだそうだ。たしかにこれほど凄惨なイエス・キリストを私は見たことがない。同時代のドイツの今一人の画家グリューネバルトの『十字架のキリスト』をコルマール美術館で見たときも、これほどの凄絶さは受けなかった。

 ホルバインのは、言ってみればリアリズムである。一五二〇年代の作である。カンタベリーのアンセラムらにより、すでに神の存在の証明にリアリズムが顔を出しているとは言え、古くはギリシャやゴシック彫刻に神も人間的・現実的生体と肉感を付与されたと断ってみた所で、なんになるか。イエスがナザレの大工のせがれであることは分りきっている。十字架にかかったのは、だが、ナザレのイエスではなくてすでにキリストなのである。神に一つの理想化された生体美を与え、崇厳にこれを描くことこそが、他ならぬリアリズムではないのか。宗教心でのリアリズムとはそういうものだと私は思う。イエスが放尿している図を描くのはばかげていると同様、『墓の中のキリスト』のリアリズムを私は採らない。(173~174)

三番目の言及に関しては、引用だけではすまされない重要な問題提起を感じる。が、ここでは私見を述べることは控えよう。

もう一か所、紹介したい箇所がある。

 私は日本人だから、ノーベル文学賞といえば──川端康成三島由紀夫氏らを連想するが、このすぐれた日本人も、しょせんは井の中の蛙ではないか。全世界の人々に、救世主として待ち望まれる文業を本当に想定できるだろうか。日本でいうエリートとは、せいぜい東大出である。神を有たなくても彼自身痛痒は感じないし、ジャーナリズムもそんなことは気がつかない。そういう国に、私はいる。まぎれもなく私はそんな日本人の一人だ。大学はかつて神学を講義する場として建てられた。およそ神を抜きにした思想など西洋にあり得ない。神観念をもたぬ哲学はない。言葉も同様だろう。日本人だけが、神をほったらかしてヘーゲルを論じマルクスを語る。バッハやベートーヴェンを聴いている。断じて私もそんな一人だった。(292)

来年2021年は日本大学芸術学部創設100周年である。実質的な創設者松原寛は苦悶と求道の哲人であった。今、わたしは「松原寛&ドストエフスキー」特集の『ドストエフスキー曼陀羅』の編集と校正に従事している。松原寛の著作を読めば、彼の哲学がおつにすました机上の空論でないことはすぐに分かろう。松原寛は苦悶と求道の宗教的な哲学者であり、生涯を通じて神を求め続けていた。哲学、神学なき大学はもはや大学とは言えまい。いくら設備を整え、規模を拡大しても、大学人に哲学、神学がなければそれは就職予備校にすぎない。大学人はここに引用した五味康祐の言葉を苦く噛み締めなければなるまい。

帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載24)

師匠と弟子

清水正

 

    ペテロは、遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の庭の中まではいって行った。(14章54節)

 

    ペテロが下の庭にいると、大祭司の女中のひとりが来て、

  ペテロが火にあたっているのを見かけ、彼をじっと見つめて、言った。「あなたも、あのナザレ人、

あのイエスといっしょにいましたね。」

  しかし、ペテロはそれを打ち消して、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない。」と言って、出口のほうへと出て行った。

  すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、また、「この人はあの仲間です。」と言いだした。

  しかし、ペテロは再び打ち消した。しばらくすると、そばに立っていたその人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」

  しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません。」と言った。

  するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います。」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。(14章66~72節)

 ペテロはなぜ危険を犯してまで逮捕されたイエスの後を追って行ったのか。ペテロはイエスの弟子として、イエスの身を守る者として大祭司の庭に至りついたのではない。ペテロはいわば目撃者としての役割をはたすためだけにイエスの後を追ったに過ぎない。ペテロはすぐに大祭司の女中にイエスといっしょにいた者であることを見破られてしまう。この女中はかつてペテロがイエスと行動を共にしていたのを見ていたのか、それともペテロは肉体や衣装においてナザレ人としての特徴を備えていたのか。言葉を発すればナザレ人独特のなまりでもあったのか、いずれにせよペテロはイエスの仲間であることを看破されてしまう。イエスの預言通り、三度にわたってイエスを知らないとしらを切ったペテロは、その後、どのような扱いを受けたのか、マルコはいっさい触れない。

  ユダの裏切りとペテロの裏切りではその性格を異にする。ユダの裏切りはあくまでも自覚的である。書かれてはいないが、ユダにはイエスを裏切る明確な理由があったはずである。ユダはイエスが神の子を僭称する不埒な者と思っていたのかもしれない。ペテロはイエスの何たるかを分かっていないが、イエスの圧倒的な力の前にはひれ伏すしかない無力な存在であった。ペテロはイエスに悪魔と罵られても反逆の牙を剥くことはできなかったし、最後の晩餐においてもイエスへの忠誠を誰よりも強く口にしている。にもかかわらずペテロはイエスの預言通りに行動してしまう。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません」と断言したペテロが、敵の陣営で三度もイエスを知らないと言い張ってしまうのである。

 イエスの預言の言葉に思い当たって、とつぜん泣き出したペテロは、はたしてこの時、真にそれまでの自己欺瞞に気づいたであろうか。欺瞞に覚醒して、さらなる欺瞞の底へと落ちていく者がある。ペテロの裏切りの構造は決して単純ではない。裏切りから脱する、さらなる裏切りというものがある。

 

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載23)

師匠と弟子

清水正

  福音書に描かれたイエスは、『罪と罰』のマルメラードフがラスコーリニコフに向かって説いた悪人正機的な、どんな卑劣な人間をも最終的には赦すといった優しい神様ではない。彼の言動を真に理解できない弟子たちにいつも苛立ち、激しく厳しい言葉を発していたのが福音書のイエスであり、その肖像は十九世紀の作家ドストエフスキーが思い描いていたような真に美しく善良な理想的なものとは異なっている。

 たとえば、ドストエフスキーがキリストの具現化を目指して描いたというムイシュキン公爵やアリョーシャ・カラマーゾフ福音書に登場するイエスとは明らかに異なっている。イエスは人間イエスから神の子キリストへと変容するその過渡期の姿を福音書記者によって描かれているが、ムイシュキン公爵やアリョーシャ・カラマーゾフはあくまでも人間の次元にとどまっている。ドストエフスキーは彼らを神秘のヴェールに包み込んで神聖化することはなかった。ドストエフスキーは処女作『貧しき人々』から最晩年の未完の大作『カラマーゾフの兄弟』に至るまで、あくまでも人間を主人公として小説を描き続けた。そこでは天使も悪魔も神も人間存在から超脱して独自の存在性を主張することはなかった。イワン・カラマーゾフにおける〈悪魔〉、アリョーシャ・カラマーゾフにおける〈天使〉は存在しても、悪魔や天使や神が主体性を確保して登場することはない。その意味でドストエフスキーはどこまでも近代の作家であって、理性や知性の次元をファンタスティックに飛び越えて、読者を空想、妄想、信仰へと洗脳するようなことはしなかった。

 ドストエフスキーは「人間の謎」を解こうとした作家であって、謎そのものに無条件に寄り添おうとした作家ではない。「何でもしてくださる」と無条件に神を信じていたのは狂信者ソーニャであって、決してドストエフスキーではない。ソーニャの信じる神に跪拝したのはエピローグにおけるラスコーリニコフではあっても、ドストエフスキー自身がソーニャとラスコーリニコフの〈信仰〉を共にしていたという証にはならない。ドストエフスキーは〈信〉と〈不信〉の間を永遠に揺れ動いたディオニュソス的な作家であり、この作家の内実を包みきれる存在をひとりイエス・キリストに求めることができるかどうかをこそ問わなければならない。

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載22)

師匠と弟子

清水正

 

 

  イエスはなぜすべての弟子たちによって裏切られたのか。生前のイエスには、彼を裏切らずにはおれない何かがあったに違いない。マルコ福音書によってはユダの内心はまったく触れられていない。それだけにユダは後生の詩人や小説家たちの想像力をいたく刺激することになった。ユダの裏切りはどのような意味を持っているのか。ユダはイエスに接吻し、敵側の者たちに彼の存在を示す。イエスはユダが彼を敵側に売った者であることを知っていて、敢えて接吻を拒まなかったし、最後の晩餐においてもユダを名指しで責めることもしなかった。

 うがった見方をすれば、イエスとユダは予めひとつの明確なシナリオのもとにそれぞれの役割を演じただけだということにもなる。ユダの裏切りによってイエスは逮捕され、裁かれ、十字架上で息を引き取ることになる。イエスの逮捕が長引けばながびくほどイエスの英雄性はその輝きを失うことになる。イエスの悲劇が栄光に輝くためには、しかるべく予定された時に逮捕されなければならない。そうでなければイエスは、単なるナザレの人にとどまる。ナザレ人イエスが神の独り子としての栄光に輝くためには是非とも劇的な逮捕と処刑が演出されなければならなかった。イエスを売ったユダはそのことをよく知った上で、あえて悪役を一身に背負った。このようにユダを見れば、イエスと弟子たちの関係は表層のテキストを超えて改めて再構築する必要が出てこよう。イエスは彼と共に「同じ鉢にパンを浸している者」ユダに向かって「人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです」と言い切っている。マルコはイエスを売ったユダのその後を描いていない。

 マタイ福音書には、イエスがピラト総督に引き渡された後のユダを次のように書いている。

   そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、

  「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言った。

  それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。(27章3~5節)

  この記述を読む限り、イエスとユダの間に特別の黙契があったとは思えない。ユダはペテロ以上に愚かな弟子のひとりに過ぎないことになってしまう。ユダが神殿に投げ込んだ銀貨は神殿の金庫には納められず、陶器師の畑を買う資金となり、その畑は旅人たちの墓地となった。マタイは、これらのことは預言者エレミヤの言われたことが成就されたのだと書いている。福音書記者はこのことだけに限らず、イエスの言動を旧約聖書に書かれたことが実現されたのだ、というような言い方を多用している。新約の神とされるイエスは、旧約の神の呪縛を背負った存在とも言える。イエスは旧約の神から完璧に解放された存在ではなかったということを決して忘れてはならないだろう。

 ユダの裏切りと首吊り一つをとってみても、彼のその行動のすべてが聖書に預言されていたわけではない。ユダの自殺が預言されていたとすれば、それは聖書によってではなく、最後の晩餐において発せられたイエスの容赦のない厳しい言葉「人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです」にこそあろう。マタイの記すように、ユダがイエスを裏切ったことを後悔したのであれば、彼はイエスの言葉に素直に従うほかはなかったであろう。イエスは裏切り者ユダを赦す言葉を発することはなかったことを忘れてはならない。ユダに限らず、すべての弟子たちに対してイエスは常に厳しい態度で臨んでいる。イエスは、人間は裏切る存在である、ということを厳しく告発することはあっても、そういった弱く卑小な人間を大きく包容し赦す言葉を持っていない。

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ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

 

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載21) 師匠と弟子

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載21)

師匠と弟子

清水正

   マルコは何者かである前に、語りの機能である。マルコはイエスの内部に侵入しない。『罪と罰』の語り手がラスコーリニコフやスヴィドリガイロフの内部深くに侵入して、その世界に隈無く照明を当てたようにはマルコはその機能を発揮しない。マルコは自らの運命に脅え嘆く人間イエスの心理心情に限りなく身を寄せるようなことはしない。マルコは人間イエスに神の子の衣装を着せたものを完璧に拒むことはない。人間イエスに対して人間マルコが正面切って対面することはない。

 が、マルコ福音書には人間イエスの真実を伝えようとする不屈の意志を感じる。マルコは裏切り者ユダを、裏切り者ペテロのありのままの姿を伝える。マルコはイエスの内部に侵入しなかったように、裏切り者ユダとペテロの内部に立ち入ることはない。マルコが伝えるのはユダとペテロの裏切りの事実の姿である。ユダの裏切りは師イエスを敵の側に売り渡すことであった。ユダはなぜイエスを裏切ったのか、マルコはその理由に対していっさい説明しない。

 マルコ福音書を読む限りにおいて、ユダは最後の晩餐において名前さえ出されなかったがイエスによって〈裏切り者〉として扱われている。この時、ユダがどのような思いであったのか、マルコは微塵も注意を向けない。マルコは裏切り者ユダの心理心情を完璧に無視する。無視されたユダの存在に余すところなく照明を当てようとするのは批評の眼差しである。

 

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