清水正の文芸時評 上田榮子の「海鳥のコロニー」

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第7回

上田榮子の「海鳥のコロニー」
清水 正


魂のミットに剛速球を投げ込んだ小説
〈純文学〉雑誌に発表されている大半の小説を読んで感じるのは、読者の魂にまで届く剛速球を投げられる投手がきわめて稀ということだ。たいていの球がキャッチャーのミットまで届かぬやわな球ばかりだ。これじゃ、球を打とうにも打てない。バッターボックスに立っているのがアホらしく感じるほどだ。が、それだけにミットに届く球が投げられたときの感動は大きい。
 わたしは自分の眼で小説を読んでいるから、それが巻頭に置かれようと、小さな活字で組んであろうと、そういったことはいっさい考慮しない。大家だろうが新人だろうがまったく関係ない。わたしが佐藤洋二郎や南木佳士を日常深淵派の作家として高く評価するのは、彼らが人間の生きてあるその姿を厳しく直視し、そこから言語表現を模索し格闘しているからに他ならない。どんなに技術を磨き、文章がうまくなっても、その作品に魂がこもっていなければ読者を感動させることはできない。今回、わたしの魂のミットに球を投げ込んだ作家は上田榮子、その作品は「海鳥のコロニー」(「文學界」六月)である。
 語り手は外資系大手広告代理店を定年退職したばかりの鍵谷協子、五十八歳、独身。協子は上司の男と同棲した経験はあるが結婚はしなかった。いつの間にかペンギン体型になってしまった協子は「羽が痕跡器官になってよちよち歩きの飛べないペンギン、波打ち際には泡が立ち、果てしもなく海が広がっている。そう、ペンギンは絶滅危惧動物のレッドリストに入っている。若い女性たちは伸びやかにしたたかにやっているのに、生殖にも子育てにも励まず子宮を痕跡器官にしてしまったわたしのようなひと昔前の独身女は、レッドリスク入りなのだろうか」と思う。協子は〈独り者の後始末を引き受ける女性の互助団体〉を創ろうと、友人の丹羽容子に相談する。容子は協子より五歳下のフランス料理の研究家で、息子(潤)が一人いる未婚の母である。相談の結果、会長には著名人の三枝女史を担ぎだすことにする。協子は会の名前を「飛ぶペンギンの会」はどうかと思うが、結局、女史の提案したドイツ語の「ゲヴォーント」に決まる。これはゲーテの詩「ゲヴォーント・ゲタァーン」(女史の説明によれば「慣れ親しんできたことを新しい気持ちでやり直して行こう!」という意味)から採ったもので、〈新生〉という意味合いで使うことになる。彼女たちがわざわざドイツ語から採ったのは、容子の「会の名前はあまり露骨でない方がいい」、女史の「あからさまでない方がいい」という考えに基づいている。会の内容は「葬送に関する一切の相談と代行、遺したいこと一切の相談、法律相談の手伝い、いざという時の金銭管理、法的相続人への伝言、新しい仲間づくりのための行事、勉強会、シンポジウム」等である。第一回目の出席者は二十一名。協子は出席者の不安を隠した表情を見ているうちに、彼女たちの姿がコロニーに取り残された〈換羽期に空腹に耐えているペンギン〉のように見えてくる。協子は「こんな会に参加するのは行き詰まった自分を抱え、独りの時間に耐えている人たちに違いない。おしゃれで社会性も備えた女性、こんな人たちこそが自立の果ての行きつく場、自分の落ち着き場所を学びたがっているのだ」と思い、自分の想いは外れていなかったと確信する。
 しばらくして容子が入院、胃の手術をする。協子は担当医から容子が末期の癌であること、余命は三、四ヵ月、よくて半年と告げられる。女史は「余命告知は、せめて半年か一年の人よ。それくらい間がないと告知の意味はない」と言い、協子もまた「死は頭で知るよりも自らの身体が緩やかに教えて暮れる方がいい」と考え、容子には末期癌を告げず、抗ガン剤もホスピスも拒んで在宅治療を選ぶ。容子は息子の潤に父親のことについては何も話していない。潤は容子と喧嘩して家を出てしまったが、容子はその事情を誰にも話さない。協子も女史も、友人とは言え、容子の内部に踏み込むことはしない。彼女たちは「飲み喰いをし、喋りあって多くの時間を過ごし、あけすけに冗談を言いあってはいるが本心を言うことはない」そういった関係を保持してきた。なぜなら「本心を言えば、お互い困惑してしまうばかりか、関係も壊してしまうのをよく知っている」からである。
 協子は潤の所在を知っているかも知れないと、喫茶店のマスターのギッちゃんに電話する。協子は、潤は同棲していた女と別れ、アメリカ旅行に発ったまま連絡はないことを知る。ある日、協子は退院してきた容子を訪ねるとそこに衣類の山がある。拾い上げて見ると、「むちゃくちゃな鋏の跡があるものや引き裂かれたもの」がある。協子は陽気に「ああ、勿体ない」と言いながら、「彼女は自分の過去を切り刻みたいのだ」と思う。この場面は背筋がゾッとするほど戦慄的だ。身近な人、愛する人の余命告知を受けた者なら、この場面に言葉を失うだろう。〈自立の果ての行きつく場〉・・一人息子の潤から何の音沙汰もない容子はその孤独に耐えている。協子もまた自分の人生を振り返り、「怠けはしなかったけれど、いま残っているものはなにもない」現実に耐えている。
 再入院した容子。容子を車椅子にのせて散歩。陽を浴びた顔を眩しげにして、容子は協子を見上げる。「飛べ、ペンギンよ」容子は手を差し出す。「飛ぼう、飛ぼう。元気を出そう」協子は容子の肩掛けを直し、芝生の囲みを回る。「小首を傾げ両手を膝に置いた容子さんの姿勢に、氷山の一角に立ち尽くしていたペンギンが一気に飛ぶ清々とした情景が重なった。涙が溢れてきて辺りが霞んでしまう」。再入院から四週目に入ろうとした日、容子は息を引き取る。
 「死はいつでも不意打ちをかけてくる」・・親友を失った協子の苦い思いだ。この小説は協子、容子、三枝女史、三人それぞれの〈孤独〉を大袈裟ではなく、静かにしみ入るように描き出している。死は死で完結するのではなく、再生(新生)を孕んでいる。その大きなテーマを〈あからさま〉でなく、分かる者にだけ分かるように、抑制された筆致で描いている。潤を最後まで登場させなかったのもいい。ひとは自分にしか分からない秘密を抱いて死んでいく。友人といえども、その秘密に踏み込むことは許されないのだ。そういった距離感覚をしっかりと保った自立した大人の女たちのドラマである。わたしは読みながら、自分の体験を重ね合わせ、涙の流れるままにまかせた。ひとはみな〈孤独〉で、〈死〉に対して無力であるが、そんな孤独な人間が死んでいく、その傍らにそっと寄り添うことはできる。「ゲヴォートの会」は確かに〈独り者の後始末を引き受ける女性の互助団体〉(ペンキンの会)を超えた。容子を密かに愛していたギッちゃんも、一人息子の潤もまた、この会に参加できるのだ。作者は自立した女たちの行き着く場をしっかりと見据えることで、女や男といった性別を超えた人間の孤独と死を微塵の感傷もまじえず描き出した。生を見つめることは死をみつめることであり、愛する者の死に立ち会うことは〈新生〉を切に願うことである。
(「図書新聞」2002年6月8日)

清水正の文芸時評 井村恭一の「睡眠プール」

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第6回

井村恭一の「睡眠プール」
清水 正


今やすべての人間が睡眠中
 読んですぐに批評したくなる作品と、味わっていたいだけの作品がある。後者の一つにつげ義春の「ほんやら洞のべんさん」があった。「ねじ式」や「ゲンセンカン主人」などはどんなにしつこく解読しても許されるが、「峠の犬」や「紅い花」などはそっと味わって読んだ方がいいと長いこと思っていた。そんなわたしがつげ義春のマンガ批評の本を四冊も出してしまった。それだけでも足りず、今秋刊行のマンガ論集に何編かのつげ論も収録する予定である。その中に「ほんやら洞のべんさん」論もある。実はこの作品に関しては、何度か批評を試みたのだが、そのつど断念した。読む行為が〈批評〉を退けてしまうのだ。今回、一コマ絵ごとに解読をすすめたことで、このマンガに隠されていた重要なことを発見した。読んで味わっていればいいと思うその作品が、実は批評を深く要請しているということもある。
 町はずれにある鄙びた商人宿の主人であるべんさんは、半年近くも客が来ず、やけになって酒を呑んでいる。べんさんは客が訪れたその日、一度も目を開けない。読者が見るのは、両目を瞑ったまま客と話し、酒を呑みつづけるべんさんである。「酒を飲め、こう悲しみの多い人生は/眠るか酔うかして過ごしたがよかろう」と歌ったのはペルシヤの詩人オマル・ハイヤームであるが、まさにべんさんはその通りに生きている。このマンガの最終コマで「お前さまはべらべらとよくしゃべるね」と言ったきり、背を向けて寝てしまったべんさんが翌日立ち上がってくる保証はどこにもない。東北越後の鳥追い祭の日に展開された叙情性溢れるマンガ世界が実は主人公の再生不可能な絶望を深く抱え込んでいる。つげ義春はコマ絵の細部にこだわり、分かる者だけに分かるように、この作品を解く重要な鍵をさりげなく描いている。
 井村恭一の「睡眠プール」(「文學界」8月号)は二回読んだが、はっきりとした像を結ばない。テーマは題名に端的に表れているように〈睡眠〉(母胎回帰)であるが、このテーマに付随する〈父殺し〉を曖昧にするために敢えて肝心の場面をぼかしたのかも知れない。養殖のトッカリ(体長二十センチ、高温の水域に生息。弱った豚や犬を食べることもあるので「温水の貪食者」とも呼ばれる)に〈父〉を食べさせる儀式、そのトッカリを〈眠り協会〉の連中が食べるシーンなど、鮮明に描かれているにもかかわらず、今一つはっきりとしたイメージに凝集されないのはどうしたことか。本文中に「父も母も、温室のトッカリもはっきりとした像をもっていなかった。眠り協会もそうだった。記憶のなかで、わたしはひどい近眼状態だった」という記述がある。そう、この小説は〈近眼状態〉の〈わたし〉が小説を書いている、そのために作品の光景に靄がかかってしまうのだ。ただ一つはっきりしているのは「弱い、歯ごたえのない宗教」である〈眠り協会〉のメンバーたちが、老若男女を問わず「なにもかも捨ててさっぱりと消え去りたい」「眠ったまま、きれいさっぱりと消え去りたい」と願っていること、この願いが〈眠り協会〉会員のみならず大半の現代人の願いでもあるということである。ほんやら洞のべんさんの眠りは、今再びの覚醒など望んではいない。しかし、この心的状態を〈ニヒリズム〉や〈絶望〉という言葉に置き換えることもできない。作者に言わせれば、今やすべての人間が意識するしないにかかわらず、実は〈睡眠プール〉につかっているということになろうか。
 同じく文學界に発表された松野大介「非常階段」は読む者の胸にせつなくも涼風を吹き込んでくる。〈私〉こと高原は、上司である宮下の口利きで化粧品会社に勤めている。若き日の高原はサラリーマンになることを鼻で笑い飛ばし、音楽活動に集中するために大学を中退する。が、バンドブームは瞬く間に消滅、高原はゲームセンター、牛丼屋などでアルバイト、三十を過ぎて粗大ゴミ処理工場に、その後居酒屋で働いている時に宮下と再会する。現在の上司宮下は大学時代の友人で、高原の恋人であった恭子と結婚する。高原は宮下を校舎の屋上に呼び出し血が大量に流れるまで殴り続けた。高原はそんなこともあり、宮下は自分を部下にして復讐しているのではないかと疑っている。宮下は浮気がばれて、恭子とは別居状態にある。彼は中学生の娘里美が自分をどう思っているのか、その様子をさぐらせるため高原を恭子のアパートに行かせる。高原は恭子に里美のホームページ作りを指導する仕事を頼まれ、週に一回、里美と会うことになる。三十七歳の高原は、やがて〈非常階段〉という非難場所で一人、高速道路に向かってサックスの練習をする里美に特別な感情を抱くようになる。彼は里美の無防備な後ろ姿に、なぜか十代の頃の自分が蘇るような気がし「私は少女を擦り抜けて吹き込む風の中に埋もれたくなった」と記す。彼はいつの間にか、夕暮れ迫る非常階段でサックスを吹く里美を思い浮かべて心の安らぎを感じるようになる。若い頃の夢に挫折し、最も軽蔑していたサラリーマンとなった中年男が、中学生の里美に寄せる初恋のようなうぶな感情は読む者に苦く切ない風を送ってくる。この小説は〈青春の終焉〉を自らに刻印しなければならなかった者が、夢を追う〈青春〉の直中にある者の〈純粋〉に魅了されていく、その心の微妙な抑制された甘苦い感情を見事に描き出した傑作である。作品の中で吐露されなかった里美の透明感溢れる悲しい抑制された内面の声も、読者の胸にせつなく響いてくる。里美という多感な女の子は、浮気して別居中の〈あの人〉(父親)や、非常階段で接吻した高原の〈悲しみ〉を受入れ、知らんぷりできるほどに〈成熟〉している。里美は言わば精一杯背伸びした菩薩(母性)であり、この菩薩によって厳しい現実世界を生きる宮下も高原も救われたと言えようか。
 一気に読ませたのは原田宗典の「劇場の神様」(「新潮」8月号)である。盗癖のある須賀一郎は二十一歳、「近藤幸夫ショー」の舞台に出演している。大部屋で最年長の役者角南源八は礼儀やしきたりに煩いので皆から嫌われている。部屋頭の城之内オサムは座長の近藤からもらった贋のローレックスをそれとも知らずに仲間に自慢している。一郎は劇場の神棚に毎日「どうか盗みませんように」と祈願していたが、「ようやっと初日が出そう」なある日、城之内のローレックスを盗み、それを角南のせいにしようと謀る。作者は「公演中最高の舞台」が繰り広げられる場面を息もつかせぬ達者な筆捌きで描きだしている。初日が出た日の役者たちの喜び、その感動がリアルタイムでひしひしと伝わってくる。それだけでも十分に読み応えがあるが、そこに一郎の〈盗み〉を絡ませることで、作品世界に緊迫感を漲らせることに成功している。〈盗み〉を目撃していた角南は、芝居が終わった後、一郎に「おふくろは何度でも許すけどな、仏の顔も三度まで。劇場の神様の顔は一度きりだ。よく覚えとけ」と言い残して去っていく。この小説そのものが、〈劇場の神様〉が降りてきたような密度の濃い、テンポのある〈芝居〉になっていた。最後の場面ではホロリとさせられた。読みごたえのある、読後さわやかな気分になる、エンターテインメントとしてもすばらしい作品であった。
(「図書新聞」2002年8月10日)

清水正の文芸時評 

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清水正の文芸時評 車谷長吉の「贋世捨人」

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第5回

車谷長吉の「贋世捨人」
清水 正


人間の生きてある現実を容赦なく暴く
 先日、二十年振りに友人と会った。彼は高校時代の一年後輩であるが、今は四国のさる大学に教授として奉職している。久しぶりに会った彼の口からとつぜん奥さんの死が告げられた。三年前、検査の結果、脳の中央部に癌が発見された。担当の医師は、彼と奥さんに、手術の成功率は60~70%、もし手術しなければ一年半の命と宣告した。帰り、二人はコンビニに寄って食材を買い求めた。奥さんは小学生の娘と息子に食事を与え、子供たちが寝静まった後、一晩中ずっと泣いていた。熟考の末、手術を決意。手術は失敗、植物人間になった後、息を引き取った。彼はそれから朝五時に起き食事の支度をした。洗濯、掃除、今まで奥さんがしていた仕事を彼は全部背負い込んだ。夜は夜で、講義の準備に追われた。ある日、奥さんの死を知らされたドイツの友人が飛行機でかけつけた。彼女は子供たちに向かって「このままではお父さんが病気になってしまう。あなたたちも自分でやれることはやりなさい」と諭した。その日から子供たちは自分のことはぜんぶ自分でやるようになった。彼は涙を流し、とつとつと語った。わたしもまた泣いた。池袋の居酒屋で、二十年振りに会った二人は、泣き虫のオジサンになっていた。わたしは上田榮子の「海鳥のコロニー」(「文學界」6月号)を取り上げた図書新聞のコピーを彼に差し出し、帰りの飛行機の中ででも読んでくれと言った。彼の語りは現実に基づいていることもあり、わたしの心を震わせずにはおかなかった。彼の語りと同様の魂の震えがなければ文学とは言えまい。上田榮子の作品を取り上げたその月に、彼の辛い話を聞くことになったその因縁を感じたりもした。
 今回はまず「新潮」7月号に発表された車谷長吉の「贋世捨人」を取り上げたい。この生島嘉一を主人公とする〈私〉小説は四二0枚だが一気に読んだ。作者は読者の襟首を掴み、自分の方に引きつけ、俺の顔を見ろ、目をそらすとぶん殴るぞ、これぞ文学魂の宿った顔だ、分かったか、と言わんばかりの迫力で書きすすめている。この小説を二度、三度読み返して感慨にふけることはないだろうが、この小説には作者の情念(怨恨)がたっぷり込められており、読みはじめたら途中で放棄できない力を備えている。
 この小説には多くの人物が登場する。田中角栄児玉誉士夫小佐野賢治ら大物の政治家や黒幕から「現代の眼」の鬼頭院社長や編集部員、作家の大江健三郎、文芸評論家の川村二郎や小林秀雄、高校時代の同級生や大学時代の親友、関係した女たち、父母や弟妹、板場の親方や仲間たちなど、それらすべての人々がきちんと名前と簡単な略歴、性格まで記されている。まるで作者は自分と係わったすべての人間ひとりひとりを歴史に刻印したいかのようだ。意外とくどいという印象がないのは、作者が人物に対し、きちんと一定の距離を保っているからであろう。
 生島は先天性蓄膿症で、手術は中途半端に失敗、その頃から人を殺したい欲望を抱く。小説でも書かなければ人の二人や三人は殺していても不思議ではない。それが文学というものだ。彼は〈こけた人〉〈狂言回しの猿〉〈世の中の落伍者〉〈人から馬鹿な奴と後ろ指指される奴〉〈いったん死んだ男〉〈くすぼり〉(世の中の底辺を這いずり廻り、いつも燻っている奴)〈その場その時の虚栄心だけで生きて来た人非人〉〈業を背負った人間〉である。彼は〈はみ出し者の怨念〉を抱きながら小説を書きつづける。「新潮」編集者土方寧男との偏執狂的関係は圧巻である。「桁外れな運命的な才能がある」と褒め殺した土方は、生島の原稿を連続十三回もボツにする。生島は「美しい女に性的に思いッ切りいじめて欲しいという欲望がある」と告白しているが、このマゾ的傾向は〈美しい女〉に限っていなかったのではないか。いずれにしてもマゾ的執念、血なまぐさい怨念が彼の深部にマグマのように息づいていることだけは確かだ。
 生島が初めて女郎屋で買った女は出島泰子、小学時代の貧しい同級生であった。以来、彼は「女に対する恥辱と恐れと罪悪感が、真っ赤に焼けた烙印を捺されるように、心に刻印され」二度と女は買うまいと思う。彼は美人の雑誌編集者笹田悦子や飲み屋の手伝いをしていた大上晶子などに惚れるが失恋する。一見、無頼に生きているように思える生島だが、この小説で抱いた女は泰子だけである。彼はこと女に関してはストイックであり、ロマンチストである。「泰子は私の魂の原罪である」と書く生島は、世捨人・西行や破壊僧・一休の生き方に憧れつつも、世を捨てきれず、破壊者に徹しきれない。が、彼は紛れもなく求道者である。自分を〈贋世捨人〉と厳しく規定した生島は、〈世捨人〉として名を残した者たちの欺瞞を嗅ぎつけている。彼は小説を書きつづけることで、人間の生きてある現実(その深い闇)を容赦無く、厳しく暴いていくことであろう。
 作家は〈血腥い怨念〉が、〈宿縁〉が、〈業〉がなければ勤まらない。小説を書くとは「風呂桶の中に釣糸を垂れて、魚を釣り上げようとすること」「瓢箪で鯰を捕らえようとすること」である。生島は、小説を書くことは「広告と同様、騙しである。併し広告の騙しは商品を売り付ける手段であるのに対し、小説の場合は、嘘を書くこと、つまり騙しそのものが目的である。その意味で、小説を書くという悪事には救いがない」とも書いている。生島にとって救いようのない〈悪事〉とは、泰子との関係、つまり〈私の魂の原罪〉を描くことだろう。「女の存在理由は、一つしかない。男に押し倒されて、股を開くことである。ほかに何があろう」と言い切ってしまう生島が、はたして〈魂の原罪〉に届く釣糸をどのように垂らすのであろうか。
 同じ「新潮」に発表された岩阪恵子の「雨通夜」は味わい深い短編である。夫昌男の育て親である伯母の通夜での出来事を妻史子の視点からスケッチした小品であるが、岩阪らしい繊細な神経が怪しく行き届いている。史子は夫の身内とはうまくいっていないらしい。通夜の場で史子は孤立している。遺体の伯母と体面し、白布を元通りにしようとしたとき〈黒褐色のなにか小さなもの〉が目の隅をよぎった気がする。史子は夫の頭の向こうの壁を、また〈なにか黒っぽいもの〉が動いた気がする。食卓の上のスーパーの袋を持ち上げようとしたとき、とつぜん〈黒褐色の大きなゴキブリ〉が現れる。史子はさらに、夫の頭のすぐ上の天井にじっと貼りついている〈ゴキブリ〉を目にして「さっき伯母の遺体のある部屋で見かけた小さな黒い影は、伯母の侘しい魂なんぞではなく、ゴキブリだったのかもしれない」と思う。しかし、この叙述の直後には死んだ伯母の言葉が挿入されている。作者は史子が見る〈小さな黒い影〉を死んだ伯母の〈魂〉、〈ゴキブリ〉、そして史子の内部に根深く潜んだ〈悪意〉〈憎悪〉〈狂気〉の隠喩としても描いている。通夜の席では、ふだん現れない親族間の確執が浮上する。史子は日常の中で精一杯正気を装っているうちに、いつの間にか治癒不可能な狂気を招き寄せてしまったかにも見える。岩阪はこの作品においても日常に潜む狂気を、さりげなく、静かな筆致で見事に描きだしたと言える。
(「図書新聞」2002年7月6日)

清水正の文芸時評 玄月「おしゃべりな犬」

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第4回

玄月の「おしゃべりな犬」
清水 正


現代〈在日韓国〉版の『罪と罰
 今、在日韓国人の小説家が注目されている。柳美里の「命」「魂」「生」「声」の四部作はベストセラーになっており、とくに「命」は映画化の効果もあって多くの人に読まれている。この時評では梁石日の「終りなき始まり」、李良枝の「由熙」をとりあげたが、今回は玄月の「おしゃべりな犬」(「文學界」九月号)について書く。この作品が発表されてから二ヵ月たつが、どの文芸雑誌もとりたてて注目した様子はない。が、わたしはかなり興奮して読んだ。すぐに時評でとりあげようとしたが、書きはじめた批評は百枚を越えてしまった。
 この五百枚の問題小説の中にはさまざまな問題がごった煮のように投げ込まれている。劇画風の場面に抵抗を覚える読者もいるかと思うが、わたしはそこに作者の果敢な実験精神をくみとった。随所にドストエフスキーの影響も感じたが、作者はそれを自分なりに消化している。作品の完成度という点に関しては芥川賞を受賞した「蔭の棲みか」(「文學界」平成十一年十一月号)が上であるが、構成の破綻を覚悟してまでさらに新たな世界を切り開いていこうとする作者の挑戦する姿勢を高く評価したい。
 主人公の〈おれ〉は在日韓国人、名前は姜信男(カンシンナム)、日本名は永山信男、仲間からはシンと呼ばれている。大阪の朝鮮人集落チンゴロ村に生まれ育つ。父親はチンゴロ村を支配する実業家(靴工場を経営)で、後に市会議員に立候補するが落選し続ける。シンは高校を卒業するとチンゴロ村を出て茜と同棲、茜を五人の男にレイプさせ、子どもを設ける。茜と結婚したシンは再びチンゴロ村に戻り、父親の事業を手伝う。チンゴロ村ではさまざまな事件がおこるが、ここではシンの妻となった茜と契約愛人にした風俗嬢ドールの関係をめぐって言及するにとどめる。
茜はシンを性的に満足させてくれない。シンもまた茜を性的に満足させられない。ドールの前でもシンは依然として不能だが、尻の穴に舌を入れられる事で射精はできる。シンがドールに求めているのは根源的な癒しであろうが、彼はそれを認めない。シンは自分の行為を分析されたり論理化されたりするのを嫌っている。なぜなら、そんなことで自分が抱えた混沌をどうすることもできないのを、彼自身がよく知っているからだ。茜はシンの混沌の前に無力である。シンは自分が茜から見放されたという孤絶感を抱いており、無意識のうちにドールに〈母性〉を求めている。ドールに「どこ行くん?」と聞かれて「海」と答えているのは暗示的である。シンが必死に求めているのは「海」(大いなる母)である。根源的な存在根拠と言ってもいい。シンには実際の母親がいるのに、彼はその母親に「海」を感じることはできなかった。シンが本当に求めているものを、母親は感じ取ることができない。シンは苛立つ。そして暴力を振るう。
 シンはチンゴロ村を離れ、母に替わるべき存在を求めた。それが茜であった。しかしシンは勃起しない。シンの不能は、彼が母親離れをしきっていない証でもある。茜は母親の代理でしかなく、シンはその代理の母を抱くことができない。つまりシンはチンゴロ村の支配者である父親を殺すことができない。オイディプス的野望の文脈で言えば、シンの内部には父親殺しの願望が渦巻いている。シンが父親を突き飛ばす場面があるが、それは単なる反抗の真似事に過ぎない。シンは再びチンゴロ村にとりこまれ、父親の支配下に落ちる。
 シンの意識下の願望を体現してくれたのが、インチキ牧師カラヴァンを信じ、父親に反逆した若者である。が、この若者は父親の鋭い籠手をくらい、井戸の石畳に後頭部を打ちつけて死んでしまった。この若者が父親に立ち向かったとき手にしていたのが〈小刀〉であったことは象徴的だ。〈小刀〉は〈ペニス〉であり、父親が籠手をきめて若者の手首を粉々に朽ち砕いてしまったのは、父親に反逆する息子の〈ペニス〉を去勢することを意味する。たまたまシンはこの現場を目撃するだけの傍観者にとどまっているが、この若者の運命こそ、シンの内部のオイディプス劇の本質を浮き彫りにしている。
 シンは、この若者のように直接的な〈反逆劇〉を展開することはできない。彼の場合はもっと込み入っている。彼は誰よりも母を求めながら、母を拒まずにはおれない。なぜこんな事態になってしまったのかと言えば、彼が自分の母親に欺瞞を感じ続けていたからである。母親は、自分が在日でありながら、チンゴロ村の女たちに韓国語で話しかけたこともない。彼は母親のみならず、出雲のスニ伯母や彼女の一人娘京子に対しても同じような欺瞞を感じている。彼は自分の存在根拠を大真面目に問おうとすればするほど、深い闇を覗くことになる。掴み所のない深い闇、それは自分がどんなに努力して意志的になっても、自分の無力をさらけ出すことしかできない、解決不能の闇なのだ。
 シンがいつの間にか抱え込んでしまったニヒリズムは、ニヒリズムと名付けられる前の混沌であり、彼はこの混沌とともに生きるほかはない。彼はこの混沌をもちろん論理化できない。だからこそ彼は、数彦が言うような「目をそむけたくなるような滑稽」を演じてしまう。
 〈論理〉を代表するような意志的な人物である茜から見放されたと感じたシンは、糸を切られた凧のように暴走する。彼はドールとともに「海」へと向かう。その途中で彼は、ドール殺しという〈滑稽〉を演じてしまった。彼の頭に刻印されたのはチンゴロ村の広場で父親に反逆した若者が死んだとき、インチキ牧師カラヴァンが口にした「神はそれを望んだのか?」である。
 神を信じていないシンがドール殺しをカルヴァンに告白する。彼は〈殺し〉を隠して穏便に生きる欺瞞に堪えられない。神の正体を暴くためには、まずは自らの犯罪を暴いてみせなければならない。シンは、二人の女の頭上に斧をふり下ろしたラスコーリニコフと同様、ドール殺しに〈罪〉を感じることはできなかった。否、ラスコーリニコフは〈罪〉の意識に襲撃されないことに苦しんだが、シンはそんなことに苦しむことはなかった。
 では、なぜシンは〈告白〉の衝動を押さえることができなかったのか。彼はカラヴァンを相手にしているのではない。カラヴァンを代理の相手として〈神〉を問題にしているのだ。神の存在は認めないが、〈神の手〉を信ずるというシンの告白の仕方にはニコライ・スタヴローギンの匂いがつきまとっている。詳しく語ることはできないが、玄月がこの小説でドストエフスキー的な問題(神の問題)を追究していることは確かである。「神はそれを望んだのか?」。まさに神はシン(ノブオ=信男=信ずる男)の信仰を望んだのだ。この小説は現代〈在日韓国〉版『罪と罰』と言ってもいい問題作である。
(「図書新聞」2002年11月9日)

清水正の文芸時評 綿矢りさ「蹴りたい背中」

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 第3回

綿矢りさの「蹴りたい背中」を語る。
2004年6月3日清水 正


2004年5月28日(金曜)
 去る2004年5月14日、我孫子にある白樺文学館の面白倶楽部で綿矢りさの「蹴りたい背中」の座談会をやるというので、文芸学科助手の山下聖美さん、大学院生の栗原隆浩君、芸術学部の学生6人(福永恵妙子、石川彩乃、小沼章子、渡辺陵平、浅野茜子、福岡尚志)ばかりに声をかけて行ってきた。我孫子高校の生徒たちも来るということだったので、現役の高校生がこの小説をどのように読んでいるのか、そういった事も興味があって行ったのだが、どういうわけか地元の高校生はおろか、若い人は司会をつとめた二人の女子学生しかいなかった。
 わたしがこの「蹴りたい背中」を読んだのは前日の13日で、一気に読んだ。十九才で芥川賞を受賞したということで、いやでもこういったニュースは耳に入ってくるし、いずれ読もうかとは思っていても、ほかに読む本はたくさんあるし、書かなければならない原稿はあるやで、なかなか読むことができなかった。それに、十九才の二人の女の子が芥川賞を同時受賞したという事は、何か文芸ジャーナリズムの商業戦略のような気もして、それに安易に乗るようで嫌だな、という感じもあった。しかし、白樺文学館には学生を何人か連れて参加する事を約束していた手前、とにかく読み終えなければならなかった。
 最初の一行に「さびしさは鳴る」とあって、おやこれはあんがいいけるかもしれないと直観した。一昨年、遠藤周作の「沈黙」を批評していて思ったのは、彼が実に耳のいい小説家という事だった。この地上の世界は不条理に満ちている。にもかかわらずなぜ神は沈黙し続けるのか。これが主人公ロドリゴの最大の疑問である。もちろんこの疑問は作者遠藤周作の疑問でもある。主人公も作者も神の〈沈黙〉の声を聞こうとしている。そのためには限りなく耳をすましていなければならない。こういった人間は孤独である。
 「蹴りたい背中」の女主人公ハツもまた孤独だ。ハツは決して他者や世界に対して心を閉ざしているのではない。極端な言い方をすれば、全開している。心を他者や世界に対して全開しているにもかかわらず、ハツは一人きりなのだ。
 高校に入学してからまだ二ヵ月しかたっていない時点から小説は動き始める。ハツは中学時代の絹代からも見捨てられ、クラスの中で疎外された位置にある。しかし、一読してハツがその疎外に苦しんでいるようには思えない。ハツが望んでいるのは、まさかクラスの仲間とうまくやっていこう、などという事ではないだろう。
 ハツはにな川という、もう一人の〈余り者〉と仲良しになる。にな川は「脱け殻状態」の猫背で雑誌を見ていたり、「魂も一緒に抜け出ていきそうな、深いため息をついた」り、「がらんどうの瞳」でハツを見たりする。このにな川がハツを自分の部屋に招待する。ハツはなぜ招待されたのか分からない。絹代は「ほれられたのかもね」と呑気に笑ったが、ハツはそんな事を真面目に信じてはいない。
 にな川はオリチャンというファッションモデルの大ファンで、「死ぬほど好き」とハツに打ち明ける。ハツは「にな川にとって、私は“オリチャンに会ったこと”だけに価値のある女の子なんだ」と思う。ハツはにな川にだけは「気楽に声をかける」事ができる。二度目ににな川の〈離れ部屋〉を訪れた時、ハツは「ここは時間を忘れさせるタイムカプセルのような部屋だ」と思う。にな川はオリチャンのラジオが始まるとCDラジカセの前に座ってイヤホンをつける。ハツはにな川の背中を見ながら「彼の社交は幼稚園時代くらいで止まっているのかもしれない」と思う。


  この、もの哀しく丸まった、無防備な背中を蹴りたい。痛がるにな川を見たい。いきなり咲いたまっさらな欲望は、閃光のようで、一瞬目が眩んだ。
  瞬間、足の裏に、背骨の確かな感触があった。(60)


 蹴りたいと思った瞬間に蹴っている。これがハツだ。にな川はオリチャンのラジオに夢中で、ハツには何の配慮もない。ハツとにな川は同じ部屋にいても一人と一人で、心と心が繋がっていない。が、今、ハツがにな川の背中を蹴り、足の裏に背骨の確かな感触をおぼえ、にな川が背中に痣がつくほどの痛みを感じた事で、二人は繋がったのだ。
 夏休み前の授業中、ハツは頬杖をついて「背中を蹴った時のあの足裏の感触を反芻しながら」教壇のすぐ前の席に座っているにな川を見つめる。ハツは目だけは冷静ににな川を観察しているが、身体は熱くなってくる。この“冷えのぼせ”状態でにな川を見つめる事にハツはなんとなく罪悪感を感じる。
 にな川が四日ほど学校に来ない。ハツは「お見舞い」ににな川の部屋を訪ねる。登校拒否の噂もあったが、単なる風邪だった。にな川は相変わらずオリチャンに夢中だ。ハツは「心がかすかすになっていくような急激なむなしさ」におそわれる。ハツはにな川から盗んだオリチャンの〈つぎはぎ写真〉を畳の上に置く。にな川は、ぱっと顔を輝かせる。


  ちぐはぐな反応。こんな物を見られて恥ずかしがりもしない、盗った私を怒りもしない。ファンシーケースまで這っていき、洟をすすりながらつぎはぎ写真を慎重にスクラップブックに挟む彼を見て、ぞっとした。まるで私なんか存在しないみたいに、夢中になって写真を眺めて、もうこっちの世界からいなくなっている。こんなことを繰り返していたら、いつかこっちに戻ってこられなくなるんじゃないか。思わず彼の腕を掴んだ。(98)


 〈おたく〉と言われている人種がいる。何か一つの事に夢中になっていて、他の事には目もくれないような人達の事だ。自分に関心のある事に関しては異様に詳しいし、金にも糸目もつけない。こういった青年を前にすると蹴っ飛ばしてやりたいと言った参加者(石川彩乃=文芸学科三年)もいた。わたしは冗談半分に、日芸の文芸学科に入ってくるような男子学生の背中はみんな「蹴りたい背中」を持っているし、女子学生はみんなハツのようにこういった背中を蹴りたい衝動に駆られるんじゃないかと言った。
 なぜ、ハツはにな川の背中を蹴ったのか、なんて聞いたって、ハツはそれを論理的に答える事はできないだろう。言葉ではよく説明できない感覚をハツは生きている。それは高校一年生ぐらいの女の子なら、だれでも体験するふだん抑制されている性的な衝動の発露と言っていいかもしれない。


 小さい桃のかけらを口に含むと、舌を包み込むような甘さが口に広がった。
 「痛。」桃を食べたにな川が、顔をしかめた。
 「どうしたの。」
 「桃の汁が唇に染みる。乾燥している唇の皮を剥いたんだった。」
  鼻がつまって口呼吸をしているせいか、にな川の唇は乾燥してひび割れていた。さぞかし、染みるんだろう。唇に親指をあてて眉をしかめている彼を見ていたら、反射的に口から言葉がこぼれた。
 「うそ、やった。さわりたいなめたい、」ひとりでに身体が動き、半開きの彼の唇のかさついている所を、てろっと舐めた。血の味がする。
  にな川がさっと顔を引いた。
 「痛い。何? 今の。」
  怪訝な表情をして、親指で唇を拭く。さらにパジャマの袖でも拭いている。その動作を見ているうちに、やっと自分のしたことが飲み込めてきた。顔は強張り、全身の血がさーっと下がっていく。どんな言い訳も思いつかない。(101 )


 「さわりたい」「なめたい」なんて実に露骨な言葉だが、句読点を付けずに書くことで、その露骨さが消えている。それにしても、ハツは思った時には行動を起こしている、衝動性のかった女の子である。
 面白いのはにな川の反応である。彼は「長谷川さんの考えてることって全然分からないけど、時々おれを見る目つきがおかしくなるな。今もそうだったけど。」おれのことケイベツしてる目になる。おれがオリチャンのラジオ聴いてた時とか、体育館で靴履いてた時とか、ちょっと触れられるのもイヤっていう感じの、冷たいケイベツの目つきでこっち見てる。」と言う。ハツは「違う、ケイベツじゃない、もっと熱いかたまりが胸につかえて息苦しくなって、私はそういう目になるんだ」と胸のうちで呟く。思春期の男と女の生理感覚の違いと言おうか。ハツの中に生まれた〈熱いかたまり〉をにな川はきちんと受け止める事ができない。生理感覚の次元でのすれ違い。男と女はいつもこのすれ違いによって悩み傷つき、出会いと別れを繰り返す。
 にな川はオリチャンのライヴに一緒に行かないかとハツを誘う。ハツは絹代を誘ってライヴに行く事を承知する。ライヴ当日、にな川は今まで見せた事のない情熱で舞台に近づこうと人ごみを押し退けて進む。観客が舞台上を見ているなか、ハツは息を呑んでにな川を見つめている。にな川は自分が消えてしまいそうになるくらいにオリチャンを見つめている。ハツはにな川の耳もとで「あんたのことなんか、オリチャンはちっとも見てないよ」と囁きたくなる。絹代は明るい声で「にな川ばっかり見てないで、ちょっとはステージも見たら?」「ハツは、にな川のことが本当に好きなんだねっ。」と言う。ハツは、絹代が口にした〈好き〉という言葉と、〈にな川に対して抱いている感情〉との落差にゾッとする。
 ライヴが終わって外に出ると、すっかり夜になっている。オリチャンを出待ちするファンが楽屋口に走る。にな川も彼女達を追って全力で駆けだす。にな川の目は血走り、ひたすらオリチャンを待つ。ついにオリチャンが出てきた。熱狂的な歓声が上がる。にな川は彼の前に立ちふさがっている女の子を強い力で押しのけながら前に進む。ハツは「自分の膜を初めて破ろうとしている」にな川を遠くに感じ、足がすくむ。にな川はスタッフに人だかりからひっぱり出され、厳重な注意を受ける。にな川は〈がらんどうの目〉をして放心している。ハツは「もっと叱られればいい、もっとみじめになればいい」と思う。
 電車には間に合ったが、もうバスはない。ハツと絹代はにな川の部屋に泊まる。にな川は「ベランダに寝る」と言って外に出る。絹代は風呂に入り、ハツもシャワーを浴びる。絹代は冷蔵庫を開けてヨーグルトを食べる。蒸し暑いのでクーラーをオンにする。絹代は「にな川がオリチャンのところに走っていった時のハツ、ものすごく哀しそうだったよ。」と言う。ハツは「私の表情は私の知らないうちに、私の知らない気持ちを映し出しているのかもしれない」と思う。午前三時半、ハツは眠いのに眠れない。にな川はまだベランダから戻ってこない。クーラーがきき過ぎて、足の裏が冷たい。ハツはリモコンを探してオフのスイッチを押す。稼動音が止まり、絹代の寝息だけがかすかに聞こえる。裸足でペランダに下りると、にな川は「何かから逃れるように身体を小さく丸めて、ぐったり」している。クーラーの室外機の羽根がまだくるくると回っている。ハツは「夜から今までの間、ずっとここから強烈な熱風がにな川に吹きつけていたんだ」と気づく。ハツはにな川の隣に座り、黙って外を眺める。ハツは「同じ景色を見ながらも、きっと、私と彼は全く別のことを考えている。こんなにきれいに、空が、空気を青く染められている場所に一緒にいるのに、全然分かり合えていないんだ」と思う。
 にな川は「オリチャンに近づいていったあの時に、おれ、あの人を今までで一番遠くに感じた。彼女のかけらを拾い集めて、ケースの中にためこんでた時より、ずっと。」と言い、ハツに背を向けて寝ころぶ。ハツの内部に「いためつけたい。蹴りたい」という、愛しさよりも強い“あの気持ち”が立ち上がってくる。足をそっと伸ばして爪先を背中に押しつける。親指の骨がぽきっと鳴る。背中をゆるやかに反らしながら、「痛い、なんか固いものが背中に当たってる」。「ベランダの窓枠じゃない?」。
  にな川は振り返って、自分の背中の後ろにあった、うすく埃の積もっている細く黒い窓枠を不思議そうに指でなぞり、それから、その段の上に置かれている私の足を、少し見た。親指から小指へとなだらかに短くなっていく足指の、小さな爪を見ている。気づいていないふりをして何食わぬ顔でそっぽを向いたら、吐く息が震えた。(140 )
にな川はオタクで、石川彩乃さんはこんな男は殴ってやりたいと言って場を笑わせた。確かににな川は煮え切らない男で、こんな男をはなから相手にしないしない女の子も案外多いだろう。しかしオタクとはいったい何なのだろう。かつて革命幻想に酔って内ゲバを繰り返した革命戦士も、何かに夢中になっていたという点では同じであろう。否、決定的に違うのはにな川に見られるオタクは革命戦士などよりはるかに覚めた〈視点〉を内に抱えこんでしまっている事である。
 にな川は机の下にオリチャンの雑誌や写真をため込んでいたし、ライヴでは人の群れをかき分けて乱暴に前に進み、スタッフから手厳しく注意された。にもかかわらず、わたしの目には彼はオリチャンに熱中している〈ふり〉をしているように見える。そればかりではない。にな川はハツが自分の背中を蹴った事も知っていて、知らない〈ふり〉をしているように見える。にな川は一見、自分の意志がないように見えるが、オリチャンに熱中して見せる〈意志〉はあるし、知らんぷりをして見せる〈意志〉もある。クーラーの室外機からもれる熱風に一言も文句を言わない〈意志〉も持ち合わせている。にな川の性格は、我慢強いとか、男らしくない、とかいう言い方では括れない。何か、生まれた時から途方もない〈虚無〉を抱え込んでしまっているようにさえ思える。
 ほんの少しばかりものを考える力や想像力があれば、現代に起きている様々な事象(世界各地で起きている紛争、戦争を含めて)に虚無的な眼差ししかおくれないのは余りにも当然である。現代においては、何が〈正義〉であり、何が〈悪〉なのか、さっぱり分からなくなっている。小学校の教師が弱ったウサギを穴に埋めるのは〈悪〉であり、製薬会社が目薬の開発にウサギを実験用に殺すのは〈正義〉なのだ、などと説明される事ぐらいバカバカしい事はない。
 第二次世界大戦後に生まれたわたしですら、ベトナム戦争湾岸戦争、そしてイラク戦争を経験している。もちろんこの〈経験〉は生の経験ではなく、様々なメディアを通しての間接的経験であるが、しかしそれにしても人間は絶え間なく〈殺し合い〉を続けながら、同時に〈愛と平和〉を声高く唱える存在でもある。まったく飽き飽きするしうんざりだ。
 ハツもにな川も、今さら革命幻想に酔う事はできないし、サリン事件の後では新興宗教に没入する事もできない。そんな白けきった時代の中で、精一杯夢中になれるのが、オリチャンであったりするというのが、実に泣けるところである。にな川はハツに背中を蹴られても、その押された力でどこか新しい世界へと踏み出していけるわけでもない。ハツもまた初めからにな川にそんな〈建設的な事〉を期待しているわけではない。二人はかろうじて、相手の背中を蹴る足の指と、蹴られる背中を持ち合わせていたに過ぎない。彼ら二人が、かろうじて信じられるのは蹴った足の指が感ずる背中の骨の感触であり、蹴られた背中が感じる相手の親指の感触だけである。
 ハツは自分の蹴りたい衝動を誰にもうまく説明する事はできないだろう。うまく説明された感情などいつも信用がおけない。ハツはにな川に説明しないし、にな川はハツに説明を求めないだろう。そんな事を求めたりするのは〈詩〉の何たるかを解さない愚か者だけである。
 にな川の背中を蹴るハツの気持ちがまったく分からない、という年配の人がいる。今の若い者の考えている事は分からない、という次元の話はいつの時代でも繰り返されてきた。しかし、若いとか年寄りとか、男であるとか女であるとか、そういう事を超えたところに文学や芸術作品はある。三才の女の子が泣いている。この子供の悲しみを五十才の男性が理解できないというのであれば、文学や芸術の存在価値はないだろう。ハツのような女子高校生を嫌いだというのならまだ分かる。しかし理解できないというのは問題である。
 世の中には、歳をとるに従って感性が鈍くなり、ひとの気持ちが分からなくなってくる者がある。わたしはそういった人達を〈魂の肝硬変〉にかかった者と言っている。尤も、歳に関係なく、もともと感性の鈍いひとはいる。「戦艦ポチョムキン」を観て感動のあまり大声を発する者もあれば、寝入ってしまう者もある。感性の違いはどうしようもない。
 「がらんどうの瞳」で「何もない所をじっと見つめている猫のように無表情」なにな川と、そんなにな川になんとなく惹かれていくハツ、二人は並んで同じ世界を見ていても、本当には分かり合えない。お互いに向き合って黙って強く抱き合えば、「世界はふたりのために」なんて幻想に酔えた時代はとっくに過ぎた。「気づいていないふりをして何食わぬ顔でそっぽを向いたら、はく息が震えた」・・その震えたハツの〈はく息〉を、にな川が〈気づいていないふり〉をして、蹴った足指の、小さな爪を見つめている。
 「蹴りたい背中」は一篇の詩である。強く抱きしめ、溶け合いたい、そんな気持ちをストレートに行動に移せない。にな川を強く抱きしめたからって、彼の〈がらんどうの瞳〉に光が射すわけではない。にな川とハツは少女漫画の世界を生きているわけじゃない。にな川とハツの間にある、蹴っても、蹴っても、決して縮まらない絶対距離、読者もまたこの絶対距離を縮める事はできない。
 白樺文学館での座談会を終え、わたしたち日芸一行は夜道を我孫子駅へと向かった。散歩気分で賑やかに話をしながら歩いたが、わたしはにな川とハツの間にある〈距離〉を彼ら学生諸君のうちにも感じた。「ひとり ひとりで ひとり」・・この孤独の直中からひとの魂を震わす作品は生まれてくる。

 

清水正の文芸時評 早坂類の「ルピナス」

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「文芸批評論」の受講生、大学院の受講生は下に貼り付けた「文芸時評」で取り上げた小説家に関する批評を読んでください。かつて「図書新聞」に連載したものです。

第2回

早坂類の「ルピナス(「群像」4月号)
2004年5月26日清水 正


 彼は死後の世界に魂の存在を認めず、人間の死に復活の可能性を認めなかった。にもかかわらず彼は「何かが自分を殺さなかった」と書いている。〈何か〉とはなんなのだ。彼を電車に跳飛ばさせながら、なお生かさせている〈何か〉とは。彼は人知では計り知れない〈何か〉を感じながら、死後の世界も復活も信じない人知に従っている。それでいながら彼はそのことの矛盾には気づかない。彼は、自分の存在を大きなものとして認めたがっている。しかし彼はその保証をいかなる他人にも求めない。彼は「自分には仕なければならぬ仕事がある」と思っている。その仕事は、ここでははっきりと書かれていないが、おそらく人類の歴史に残るような大きな仕事として考えられている。自分がこの世でなし遂げなければならない使命、それを感じているのは自分であり、自分が思えばそれでよいのである。彼が「何かが自分を殺さなかった」と言う時、その〈何か〉とは自分の存在を超越した存在というより、それもまた自分の中に潜んだ〈何か〉としてとらえられていたような感じがする。彼は世界の事象に眼に見えぬ神秘を感じて畏怖を覚えるような男ではなく、あくまでも自分の力を頼む自惚れ屋である。
 否、習ったロード・クライヴの本の中に書いてあったことだ。彼はこのクライヴの言葉を思い出し「実は自分もそういう風に危うかった出来事を感じたかった。そんな気もした」と書くに止まっている。彼は神秘家ではない。彼は言わば一人の常識人であり、分別や理性的判断を越えた神秘をそのまま認めるようはことはしない。ただ「そんな気もした」だけである。しかし彼が「自分には仕なければならぬ仕事があるのだ」と思っていたことに間違いはない。彼は怪我の後養生にのみ但馬温泉に逗留していたわけではないだろう。〈読むか書くか〉これが彼の仕事である。彼は小説家としての仕事をしなければならない。自分が一命をとどめたのは或る〈何か〉の働きではなく、単なる偶然であったとしても、彼が〈仕なければならぬ仕事〉を深く自覚していたことは言うまでもない。
 「然し妙に自分の心は静まって了った」と彼は続ける。彼は、自分を殺さなかった〈何か〉、人知では量り知れぬ神秘、人間を超越した或る何かを感じて現実から遊離することはない。彼は瞑想に耽るような宗教家のタイプではない。彼は人間は誰もが死んでしまうというその事実を冷徹に認めるだけである。その冷徹に見据えられた〈死〉に彼は〈親しみ〉を感じている。「祖父や母の死骸が傍にある」・・つまり彼にとって〈死〉は〈死骸〉という純粋な〈もの〉であって、それは永遠に滅びることのない魂とか、復活を約束するものではない。死に対して潔い態度と言えるかもしれない。生きてこの世にある者は、死後の世界を知らず、死んで蘇ってきた者を知らない。キリスト教に関心のある者で、イエスが起こした前後未曾有の一大奇跡、死後四日もたって死臭を放っていたラザロの復活を知らない者はいない。しかし、その復活したラザロも今日の世に生き続けているわけではない。イエスによって蘇生して来たラザロもまた再び死の淵へと呑み込まれて行ったのだ。元内村鑑三の弟子(なまぬるい基督信徒)であった志賀直哉は、小説の中で〈罪〉を〈罰〉を〈復活〉を真っ正面から取り上げることはなかった。イエスの言葉「わたしは命であり、復活である。生きて私を信ずる者は永遠に死ぬことはない」を文字通り信ずるキリスト者にとって、死はもちろん単なる死ではない。〈姦淫の罪〉に躓いて内村鑑三の元を離れた志賀直哉は、以後〈罪〉や〈魂の永世〉について掘り下げることはなかった。彼は死は死でしかないという考え、先に死んだ者の死骸の傍に自分の死骸が置かれるだけだという考えを〈淋しい〉と感じるが、しかし同時に「それ程に自分を恐怖させない考えだった」とも書いている。