清水正の文芸時評 車谷長吉の「贋世捨人」

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「文芸批評論」の受講生、大学院の受講生は下に貼り付けた「文芸時評」で取り上げた小説家に関する批評を読んでください。
第5回

車谷長吉の「贋世捨人」
清水 正


人間の生きてある現実を容赦なく暴く
 先日、二十年振りに友人と会った。彼は高校時代の一年後輩であるが、今は四国のさる大学に教授として奉職している。久しぶりに会った彼の口からとつぜん奥さんの死が告げられた。三年前、検査の結果、脳の中央部に癌が発見された。担当の医師は、彼と奥さんに、手術の成功率は60~70%、もし手術しなければ一年半の命と宣告した。帰り、二人はコンビニに寄って食材を買い求めた。奥さんは小学生の娘と息子に食事を与え、子供たちが寝静まった後、一晩中ずっと泣いていた。熟考の末、手術を決意。手術は失敗、植物人間になった後、息を引き取った。彼はそれから朝五時に起き食事の支度をした。洗濯、掃除、今まで奥さんがしていた仕事を彼は全部背負い込んだ。夜は夜で、講義の準備に追われた。ある日、奥さんの死を知らされたドイツの友人が飛行機でかけつけた。彼女は子供たちに向かって「このままではお父さんが病気になってしまう。あなたたちも自分でやれることはやりなさい」と諭した。その日から子供たちは自分のことはぜんぶ自分でやるようになった。彼は涙を流し、とつとつと語った。わたしもまた泣いた。池袋の居酒屋で、二十年振りに会った二人は、泣き虫のオジサンになっていた。わたしは上田榮子の「海鳥のコロニー」(「文學界」6月号)を取り上げた図書新聞のコピーを彼に差し出し、帰りの飛行機の中ででも読んでくれと言った。彼の語りは現実に基づいていることもあり、わたしの心を震わせずにはおかなかった。彼の語りと同様の魂の震えがなければ文学とは言えまい。上田榮子の作品を取り上げたその月に、彼の辛い話を聞くことになったその因縁を感じたりもした。
 今回はまず「新潮」7月号に発表された車谷長吉の「贋世捨人」を取り上げたい。この生島嘉一を主人公とする〈私〉小説は四二0枚だが一気に読んだ。作者は読者の襟首を掴み、自分の方に引きつけ、俺の顔を見ろ、目をそらすとぶん殴るぞ、これぞ文学魂の宿った顔だ、分かったか、と言わんばかりの迫力で書きすすめている。この小説を二度、三度読み返して感慨にふけることはないだろうが、この小説には作者の情念(怨恨)がたっぷり込められており、読みはじめたら途中で放棄できない力を備えている。
 この小説には多くの人物が登場する。田中角栄児玉誉士夫小佐野賢治ら大物の政治家や黒幕から「現代の眼」の鬼頭院社長や編集部員、作家の大江健三郎、文芸評論家の川村二郎や小林秀雄、高校時代の同級生や大学時代の親友、関係した女たち、父母や弟妹、板場の親方や仲間たちなど、それらすべての人々がきちんと名前と簡単な略歴、性格まで記されている。まるで作者は自分と係わったすべての人間ひとりひとりを歴史に刻印したいかのようだ。意外とくどいという印象がないのは、作者が人物に対し、きちんと一定の距離を保っているからであろう。
 生島は先天性蓄膿症で、手術は中途半端に失敗、その頃から人を殺したい欲望を抱く。小説でも書かなければ人の二人や三人は殺していても不思議ではない。それが文学というものだ。彼は〈こけた人〉〈狂言回しの猿〉〈世の中の落伍者〉〈人から馬鹿な奴と後ろ指指される奴〉〈いったん死んだ男〉〈くすぼり〉(世の中の底辺を這いずり廻り、いつも燻っている奴)〈その場その時の虚栄心だけで生きて来た人非人〉〈業を背負った人間〉である。彼は〈はみ出し者の怨念〉を抱きながら小説を書きつづける。「新潮」編集者土方寧男との偏執狂的関係は圧巻である。「桁外れな運命的な才能がある」と褒め殺した土方は、生島の原稿を連続十三回もボツにする。生島は「美しい女に性的に思いッ切りいじめて欲しいという欲望がある」と告白しているが、このマゾ的傾向は〈美しい女〉に限っていなかったのではないか。いずれにしてもマゾ的執念、血なまぐさい怨念が彼の深部にマグマのように息づいていることだけは確かだ。
 生島が初めて女郎屋で買った女は出島泰子、小学時代の貧しい同級生であった。以来、彼は「女に対する恥辱と恐れと罪悪感が、真っ赤に焼けた烙印を捺されるように、心に刻印され」二度と女は買うまいと思う。彼は美人の雑誌編集者笹田悦子や飲み屋の手伝いをしていた大上晶子などに惚れるが失恋する。一見、無頼に生きているように思える生島だが、この小説で抱いた女は泰子だけである。彼はこと女に関してはストイックであり、ロマンチストである。「泰子は私の魂の原罪である」と書く生島は、世捨人・西行や破壊僧・一休の生き方に憧れつつも、世を捨てきれず、破壊者に徹しきれない。が、彼は紛れもなく求道者である。自分を〈贋世捨人〉と厳しく規定した生島は、〈世捨人〉として名を残した者たちの欺瞞を嗅ぎつけている。彼は小説を書きつづけることで、人間の生きてある現実(その深い闇)を容赦無く、厳しく暴いていくことであろう。
 作家は〈血腥い怨念〉が、〈宿縁〉が、〈業〉がなければ勤まらない。小説を書くとは「風呂桶の中に釣糸を垂れて、魚を釣り上げようとすること」「瓢箪で鯰を捕らえようとすること」である。生島は、小説を書くことは「広告と同様、騙しである。併し広告の騙しは商品を売り付ける手段であるのに対し、小説の場合は、嘘を書くこと、つまり騙しそのものが目的である。その意味で、小説を書くという悪事には救いがない」とも書いている。生島にとって救いようのない〈悪事〉とは、泰子との関係、つまり〈私の魂の原罪〉を描くことだろう。「女の存在理由は、一つしかない。男に押し倒されて、股を開くことである。ほかに何があろう」と言い切ってしまう生島が、はたして〈魂の原罪〉に届く釣糸をどのように垂らすのであろうか。
 同じ「新潮」に発表された岩阪恵子の「雨通夜」は味わい深い短編である。夫昌男の育て親である伯母の通夜での出来事を妻史子の視点からスケッチした小品であるが、岩阪らしい繊細な神経が怪しく行き届いている。史子は夫の身内とはうまくいっていないらしい。通夜の場で史子は孤立している。遺体の伯母と体面し、白布を元通りにしようとしたとき〈黒褐色のなにか小さなもの〉が目の隅をよぎった気がする。史子は夫の頭の向こうの壁を、また〈なにか黒っぽいもの〉が動いた気がする。食卓の上のスーパーの袋を持ち上げようとしたとき、とつぜん〈黒褐色の大きなゴキブリ〉が現れる。史子はさらに、夫の頭のすぐ上の天井にじっと貼りついている〈ゴキブリ〉を目にして「さっき伯母の遺体のある部屋で見かけた小さな黒い影は、伯母の侘しい魂なんぞではなく、ゴキブリだったのかもしれない」と思う。しかし、この叙述の直後には死んだ伯母の言葉が挿入されている。作者は史子が見る〈小さな黒い影〉を死んだ伯母の〈魂〉、〈ゴキブリ〉、そして史子の内部に根深く潜んだ〈悪意〉〈憎悪〉〈狂気〉の隠喩としても描いている。通夜の席では、ふだん現れない親族間の確執が浮上する。史子は日常の中で精一杯正気を装っているうちに、いつの間にか治癒不可能な狂気を招き寄せてしまったかにも見える。岩阪はこの作品においても日常に潜む狂気を、さりげなく、静かな筆致で見事に描きだしたと言える。
(「図書新聞」2002年7月6日)

清水正の文芸時評 玄月「おしゃべりな犬」

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第4回

玄月の「おしゃべりな犬」
清水 正


現代〈在日韓国〉版の『罪と罰
 今、在日韓国人の小説家が注目されている。柳美里の「命」「魂」「生」「声」の四部作はベストセラーになっており、とくに「命」は映画化の効果もあって多くの人に読まれている。この時評では梁石日の「終りなき始まり」、李良枝の「由熙」をとりあげたが、今回は玄月の「おしゃべりな犬」(「文學界」九月号)について書く。この作品が発表されてから二ヵ月たつが、どの文芸雑誌もとりたてて注目した様子はない。が、わたしはかなり興奮して読んだ。すぐに時評でとりあげようとしたが、書きはじめた批評は百枚を越えてしまった。
 この五百枚の問題小説の中にはさまざまな問題がごった煮のように投げ込まれている。劇画風の場面に抵抗を覚える読者もいるかと思うが、わたしはそこに作者の果敢な実験精神をくみとった。随所にドストエフスキーの影響も感じたが、作者はそれを自分なりに消化している。作品の完成度という点に関しては芥川賞を受賞した「蔭の棲みか」(「文學界」平成十一年十一月号)が上であるが、構成の破綻を覚悟してまでさらに新たな世界を切り開いていこうとする作者の挑戦する姿勢を高く評価したい。
 主人公の〈おれ〉は在日韓国人、名前は姜信男(カンシンナム)、日本名は永山信男、仲間からはシンと呼ばれている。大阪の朝鮮人集落チンゴロ村に生まれ育つ。父親はチンゴロ村を支配する実業家(靴工場を経営)で、後に市会議員に立候補するが落選し続ける。シンは高校を卒業するとチンゴロ村を出て茜と同棲、茜を五人の男にレイプさせ、子どもを設ける。茜と結婚したシンは再びチンゴロ村に戻り、父親の事業を手伝う。チンゴロ村ではさまざまな事件がおこるが、ここではシンの妻となった茜と契約愛人にした風俗嬢ドールの関係をめぐって言及するにとどめる。
茜はシンを性的に満足させてくれない。シンもまた茜を性的に満足させられない。ドールの前でもシンは依然として不能だが、尻の穴に舌を入れられる事で射精はできる。シンがドールに求めているのは根源的な癒しであろうが、彼はそれを認めない。シンは自分の行為を分析されたり論理化されたりするのを嫌っている。なぜなら、そんなことで自分が抱えた混沌をどうすることもできないのを、彼自身がよく知っているからだ。茜はシンの混沌の前に無力である。シンは自分が茜から見放されたという孤絶感を抱いており、無意識のうちにドールに〈母性〉を求めている。ドールに「どこ行くん?」と聞かれて「海」と答えているのは暗示的である。シンが必死に求めているのは「海」(大いなる母)である。根源的な存在根拠と言ってもいい。シンには実際の母親がいるのに、彼はその母親に「海」を感じることはできなかった。シンが本当に求めているものを、母親は感じ取ることができない。シンは苛立つ。そして暴力を振るう。
 シンはチンゴロ村を離れ、母に替わるべき存在を求めた。それが茜であった。しかしシンは勃起しない。シンの不能は、彼が母親離れをしきっていない証でもある。茜は母親の代理でしかなく、シンはその代理の母を抱くことができない。つまりシンはチンゴロ村の支配者である父親を殺すことができない。オイディプス的野望の文脈で言えば、シンの内部には父親殺しの願望が渦巻いている。シンが父親を突き飛ばす場面があるが、それは単なる反抗の真似事に過ぎない。シンは再びチンゴロ村にとりこまれ、父親の支配下に落ちる。
 シンの意識下の願望を体現してくれたのが、インチキ牧師カラヴァンを信じ、父親に反逆した若者である。が、この若者は父親の鋭い籠手をくらい、井戸の石畳に後頭部を打ちつけて死んでしまった。この若者が父親に立ち向かったとき手にしていたのが〈小刀〉であったことは象徴的だ。〈小刀〉は〈ペニス〉であり、父親が籠手をきめて若者の手首を粉々に朽ち砕いてしまったのは、父親に反逆する息子の〈ペニス〉を去勢することを意味する。たまたまシンはこの現場を目撃するだけの傍観者にとどまっているが、この若者の運命こそ、シンの内部のオイディプス劇の本質を浮き彫りにしている。
 シンは、この若者のように直接的な〈反逆劇〉を展開することはできない。彼の場合はもっと込み入っている。彼は誰よりも母を求めながら、母を拒まずにはおれない。なぜこんな事態になってしまったのかと言えば、彼が自分の母親に欺瞞を感じ続けていたからである。母親は、自分が在日でありながら、チンゴロ村の女たちに韓国語で話しかけたこともない。彼は母親のみならず、出雲のスニ伯母や彼女の一人娘京子に対しても同じような欺瞞を感じている。彼は自分の存在根拠を大真面目に問おうとすればするほど、深い闇を覗くことになる。掴み所のない深い闇、それは自分がどんなに努力して意志的になっても、自分の無力をさらけ出すことしかできない、解決不能の闇なのだ。
 シンがいつの間にか抱え込んでしまったニヒリズムは、ニヒリズムと名付けられる前の混沌であり、彼はこの混沌とともに生きるほかはない。彼はこの混沌をもちろん論理化できない。だからこそ彼は、数彦が言うような「目をそむけたくなるような滑稽」を演じてしまう。
 〈論理〉を代表するような意志的な人物である茜から見放されたと感じたシンは、糸を切られた凧のように暴走する。彼はドールとともに「海」へと向かう。その途中で彼は、ドール殺しという〈滑稽〉を演じてしまった。彼の頭に刻印されたのはチンゴロ村の広場で父親に反逆した若者が死んだとき、インチキ牧師カラヴァンが口にした「神はそれを望んだのか?」である。
 神を信じていないシンがドール殺しをカルヴァンに告白する。彼は〈殺し〉を隠して穏便に生きる欺瞞に堪えられない。神の正体を暴くためには、まずは自らの犯罪を暴いてみせなければならない。シンは、二人の女の頭上に斧をふり下ろしたラスコーリニコフと同様、ドール殺しに〈罪〉を感じることはできなかった。否、ラスコーリニコフは〈罪〉の意識に襲撃されないことに苦しんだが、シンはそんなことに苦しむことはなかった。
 では、なぜシンは〈告白〉の衝動を押さえることができなかったのか。彼はカラヴァンを相手にしているのではない。カラヴァンを代理の相手として〈神〉を問題にしているのだ。神の存在は認めないが、〈神の手〉を信ずるというシンの告白の仕方にはニコライ・スタヴローギンの匂いがつきまとっている。詳しく語ることはできないが、玄月がこの小説でドストエフスキー的な問題(神の問題)を追究していることは確かである。「神はそれを望んだのか?」。まさに神はシン(ノブオ=信男=信ずる男)の信仰を望んだのだ。この小説は現代〈在日韓国〉版『罪と罰』と言ってもいい問題作である。
(「図書新聞」2002年11月9日)

清水正の文芸時評 綿矢りさ「蹴りたい背中」

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 第3回

綿矢りさの「蹴りたい背中」を語る。
2004年6月3日清水 正


2004年5月28日(金曜)
 去る2004年5月14日、我孫子にある白樺文学館の面白倶楽部で綿矢りさの「蹴りたい背中」の座談会をやるというので、文芸学科助手の山下聖美さん、大学院生の栗原隆浩君、芸術学部の学生6人(福永恵妙子、石川彩乃、小沼章子、渡辺陵平、浅野茜子、福岡尚志)ばかりに声をかけて行ってきた。我孫子高校の生徒たちも来るということだったので、現役の高校生がこの小説をどのように読んでいるのか、そういった事も興味があって行ったのだが、どういうわけか地元の高校生はおろか、若い人は司会をつとめた二人の女子学生しかいなかった。
 わたしがこの「蹴りたい背中」を読んだのは前日の13日で、一気に読んだ。十九才で芥川賞を受賞したということで、いやでもこういったニュースは耳に入ってくるし、いずれ読もうかとは思っていても、ほかに読む本はたくさんあるし、書かなければならない原稿はあるやで、なかなか読むことができなかった。それに、十九才の二人の女の子が芥川賞を同時受賞したという事は、何か文芸ジャーナリズムの商業戦略のような気もして、それに安易に乗るようで嫌だな、という感じもあった。しかし、白樺文学館には学生を何人か連れて参加する事を約束していた手前、とにかく読み終えなければならなかった。
 最初の一行に「さびしさは鳴る」とあって、おやこれはあんがいいけるかもしれないと直観した。一昨年、遠藤周作の「沈黙」を批評していて思ったのは、彼が実に耳のいい小説家という事だった。この地上の世界は不条理に満ちている。にもかかわらずなぜ神は沈黙し続けるのか。これが主人公ロドリゴの最大の疑問である。もちろんこの疑問は作者遠藤周作の疑問でもある。主人公も作者も神の〈沈黙〉の声を聞こうとしている。そのためには限りなく耳をすましていなければならない。こういった人間は孤独である。
 「蹴りたい背中」の女主人公ハツもまた孤独だ。ハツは決して他者や世界に対して心を閉ざしているのではない。極端な言い方をすれば、全開している。心を他者や世界に対して全開しているにもかかわらず、ハツは一人きりなのだ。
 高校に入学してからまだ二ヵ月しかたっていない時点から小説は動き始める。ハツは中学時代の絹代からも見捨てられ、クラスの中で疎外された位置にある。しかし、一読してハツがその疎外に苦しんでいるようには思えない。ハツが望んでいるのは、まさかクラスの仲間とうまくやっていこう、などという事ではないだろう。
 ハツはにな川という、もう一人の〈余り者〉と仲良しになる。にな川は「脱け殻状態」の猫背で雑誌を見ていたり、「魂も一緒に抜け出ていきそうな、深いため息をついた」り、「がらんどうの瞳」でハツを見たりする。このにな川がハツを自分の部屋に招待する。ハツはなぜ招待されたのか分からない。絹代は「ほれられたのかもね」と呑気に笑ったが、ハツはそんな事を真面目に信じてはいない。
 にな川はオリチャンというファッションモデルの大ファンで、「死ぬほど好き」とハツに打ち明ける。ハツは「にな川にとって、私は“オリチャンに会ったこと”だけに価値のある女の子なんだ」と思う。ハツはにな川にだけは「気楽に声をかける」事ができる。二度目ににな川の〈離れ部屋〉を訪れた時、ハツは「ここは時間を忘れさせるタイムカプセルのような部屋だ」と思う。にな川はオリチャンのラジオが始まるとCDラジカセの前に座ってイヤホンをつける。ハツはにな川の背中を見ながら「彼の社交は幼稚園時代くらいで止まっているのかもしれない」と思う。


  この、もの哀しく丸まった、無防備な背中を蹴りたい。痛がるにな川を見たい。いきなり咲いたまっさらな欲望は、閃光のようで、一瞬目が眩んだ。
  瞬間、足の裏に、背骨の確かな感触があった。(60)


 蹴りたいと思った瞬間に蹴っている。これがハツだ。にな川はオリチャンのラジオに夢中で、ハツには何の配慮もない。ハツとにな川は同じ部屋にいても一人と一人で、心と心が繋がっていない。が、今、ハツがにな川の背中を蹴り、足の裏に背骨の確かな感触をおぼえ、にな川が背中に痣がつくほどの痛みを感じた事で、二人は繋がったのだ。
 夏休み前の授業中、ハツは頬杖をついて「背中を蹴った時のあの足裏の感触を反芻しながら」教壇のすぐ前の席に座っているにな川を見つめる。ハツは目だけは冷静ににな川を観察しているが、身体は熱くなってくる。この“冷えのぼせ”状態でにな川を見つめる事にハツはなんとなく罪悪感を感じる。
 にな川が四日ほど学校に来ない。ハツは「お見舞い」ににな川の部屋を訪ねる。登校拒否の噂もあったが、単なる風邪だった。にな川は相変わらずオリチャンに夢中だ。ハツは「心がかすかすになっていくような急激なむなしさ」におそわれる。ハツはにな川から盗んだオリチャンの〈つぎはぎ写真〉を畳の上に置く。にな川は、ぱっと顔を輝かせる。


  ちぐはぐな反応。こんな物を見られて恥ずかしがりもしない、盗った私を怒りもしない。ファンシーケースまで這っていき、洟をすすりながらつぎはぎ写真を慎重にスクラップブックに挟む彼を見て、ぞっとした。まるで私なんか存在しないみたいに、夢中になって写真を眺めて、もうこっちの世界からいなくなっている。こんなことを繰り返していたら、いつかこっちに戻ってこられなくなるんじゃないか。思わず彼の腕を掴んだ。(98)


 〈おたく〉と言われている人種がいる。何か一つの事に夢中になっていて、他の事には目もくれないような人達の事だ。自分に関心のある事に関しては異様に詳しいし、金にも糸目もつけない。こういった青年を前にすると蹴っ飛ばしてやりたいと言った参加者(石川彩乃=文芸学科三年)もいた。わたしは冗談半分に、日芸の文芸学科に入ってくるような男子学生の背中はみんな「蹴りたい背中」を持っているし、女子学生はみんなハツのようにこういった背中を蹴りたい衝動に駆られるんじゃないかと言った。
 なぜ、ハツはにな川の背中を蹴ったのか、なんて聞いたって、ハツはそれを論理的に答える事はできないだろう。言葉ではよく説明できない感覚をハツは生きている。それは高校一年生ぐらいの女の子なら、だれでも体験するふだん抑制されている性的な衝動の発露と言っていいかもしれない。


 小さい桃のかけらを口に含むと、舌を包み込むような甘さが口に広がった。
 「痛。」桃を食べたにな川が、顔をしかめた。
 「どうしたの。」
 「桃の汁が唇に染みる。乾燥している唇の皮を剥いたんだった。」
  鼻がつまって口呼吸をしているせいか、にな川の唇は乾燥してひび割れていた。さぞかし、染みるんだろう。唇に親指をあてて眉をしかめている彼を見ていたら、反射的に口から言葉がこぼれた。
 「うそ、やった。さわりたいなめたい、」ひとりでに身体が動き、半開きの彼の唇のかさついている所を、てろっと舐めた。血の味がする。
  にな川がさっと顔を引いた。
 「痛い。何? 今の。」
  怪訝な表情をして、親指で唇を拭く。さらにパジャマの袖でも拭いている。その動作を見ているうちに、やっと自分のしたことが飲み込めてきた。顔は強張り、全身の血がさーっと下がっていく。どんな言い訳も思いつかない。(101 )


 「さわりたい」「なめたい」なんて実に露骨な言葉だが、句読点を付けずに書くことで、その露骨さが消えている。それにしても、ハツは思った時には行動を起こしている、衝動性のかった女の子である。
 面白いのはにな川の反応である。彼は「長谷川さんの考えてることって全然分からないけど、時々おれを見る目つきがおかしくなるな。今もそうだったけど。」おれのことケイベツしてる目になる。おれがオリチャンのラジオ聴いてた時とか、体育館で靴履いてた時とか、ちょっと触れられるのもイヤっていう感じの、冷たいケイベツの目つきでこっち見てる。」と言う。ハツは「違う、ケイベツじゃない、もっと熱いかたまりが胸につかえて息苦しくなって、私はそういう目になるんだ」と胸のうちで呟く。思春期の男と女の生理感覚の違いと言おうか。ハツの中に生まれた〈熱いかたまり〉をにな川はきちんと受け止める事ができない。生理感覚の次元でのすれ違い。男と女はいつもこのすれ違いによって悩み傷つき、出会いと別れを繰り返す。
 にな川はオリチャンのライヴに一緒に行かないかとハツを誘う。ハツは絹代を誘ってライヴに行く事を承知する。ライヴ当日、にな川は今まで見せた事のない情熱で舞台に近づこうと人ごみを押し退けて進む。観客が舞台上を見ているなか、ハツは息を呑んでにな川を見つめている。にな川は自分が消えてしまいそうになるくらいにオリチャンを見つめている。ハツはにな川の耳もとで「あんたのことなんか、オリチャンはちっとも見てないよ」と囁きたくなる。絹代は明るい声で「にな川ばっかり見てないで、ちょっとはステージも見たら?」「ハツは、にな川のことが本当に好きなんだねっ。」と言う。ハツは、絹代が口にした〈好き〉という言葉と、〈にな川に対して抱いている感情〉との落差にゾッとする。
 ライヴが終わって外に出ると、すっかり夜になっている。オリチャンを出待ちするファンが楽屋口に走る。にな川も彼女達を追って全力で駆けだす。にな川の目は血走り、ひたすらオリチャンを待つ。ついにオリチャンが出てきた。熱狂的な歓声が上がる。にな川は彼の前に立ちふさがっている女の子を強い力で押しのけながら前に進む。ハツは「自分の膜を初めて破ろうとしている」にな川を遠くに感じ、足がすくむ。にな川はスタッフに人だかりからひっぱり出され、厳重な注意を受ける。にな川は〈がらんどうの目〉をして放心している。ハツは「もっと叱られればいい、もっとみじめになればいい」と思う。
 電車には間に合ったが、もうバスはない。ハツと絹代はにな川の部屋に泊まる。にな川は「ベランダに寝る」と言って外に出る。絹代は風呂に入り、ハツもシャワーを浴びる。絹代は冷蔵庫を開けてヨーグルトを食べる。蒸し暑いのでクーラーをオンにする。絹代は「にな川がオリチャンのところに走っていった時のハツ、ものすごく哀しそうだったよ。」と言う。ハツは「私の表情は私の知らないうちに、私の知らない気持ちを映し出しているのかもしれない」と思う。午前三時半、ハツは眠いのに眠れない。にな川はまだベランダから戻ってこない。クーラーがきき過ぎて、足の裏が冷たい。ハツはリモコンを探してオフのスイッチを押す。稼動音が止まり、絹代の寝息だけがかすかに聞こえる。裸足でペランダに下りると、にな川は「何かから逃れるように身体を小さく丸めて、ぐったり」している。クーラーの室外機の羽根がまだくるくると回っている。ハツは「夜から今までの間、ずっとここから強烈な熱風がにな川に吹きつけていたんだ」と気づく。ハツはにな川の隣に座り、黙って外を眺める。ハツは「同じ景色を見ながらも、きっと、私と彼は全く別のことを考えている。こんなにきれいに、空が、空気を青く染められている場所に一緒にいるのに、全然分かり合えていないんだ」と思う。
 にな川は「オリチャンに近づいていったあの時に、おれ、あの人を今までで一番遠くに感じた。彼女のかけらを拾い集めて、ケースの中にためこんでた時より、ずっと。」と言い、ハツに背を向けて寝ころぶ。ハツの内部に「いためつけたい。蹴りたい」という、愛しさよりも強い“あの気持ち”が立ち上がってくる。足をそっと伸ばして爪先を背中に押しつける。親指の骨がぽきっと鳴る。背中をゆるやかに反らしながら、「痛い、なんか固いものが背中に当たってる」。「ベランダの窓枠じゃない?」。
  にな川は振り返って、自分の背中の後ろにあった、うすく埃の積もっている細く黒い窓枠を不思議そうに指でなぞり、それから、その段の上に置かれている私の足を、少し見た。親指から小指へとなだらかに短くなっていく足指の、小さな爪を見ている。気づいていないふりをして何食わぬ顔でそっぽを向いたら、吐く息が震えた。(140 )
にな川はオタクで、石川彩乃さんはこんな男は殴ってやりたいと言って場を笑わせた。確かににな川は煮え切らない男で、こんな男をはなから相手にしないしない女の子も案外多いだろう。しかしオタクとはいったい何なのだろう。かつて革命幻想に酔って内ゲバを繰り返した革命戦士も、何かに夢中になっていたという点では同じであろう。否、決定的に違うのはにな川に見られるオタクは革命戦士などよりはるかに覚めた〈視点〉を内に抱えこんでしまっている事である。
 にな川は机の下にオリチャンの雑誌や写真をため込んでいたし、ライヴでは人の群れをかき分けて乱暴に前に進み、スタッフから手厳しく注意された。にもかかわらず、わたしの目には彼はオリチャンに熱中している〈ふり〉をしているように見える。そればかりではない。にな川はハツが自分の背中を蹴った事も知っていて、知らない〈ふり〉をしているように見える。にな川は一見、自分の意志がないように見えるが、オリチャンに熱中して見せる〈意志〉はあるし、知らんぷりをして見せる〈意志〉もある。クーラーの室外機からもれる熱風に一言も文句を言わない〈意志〉も持ち合わせている。にな川の性格は、我慢強いとか、男らしくない、とかいう言い方では括れない。何か、生まれた時から途方もない〈虚無〉を抱え込んでしまっているようにさえ思える。
 ほんの少しばかりものを考える力や想像力があれば、現代に起きている様々な事象(世界各地で起きている紛争、戦争を含めて)に虚無的な眼差ししかおくれないのは余りにも当然である。現代においては、何が〈正義〉であり、何が〈悪〉なのか、さっぱり分からなくなっている。小学校の教師が弱ったウサギを穴に埋めるのは〈悪〉であり、製薬会社が目薬の開発にウサギを実験用に殺すのは〈正義〉なのだ、などと説明される事ぐらいバカバカしい事はない。
 第二次世界大戦後に生まれたわたしですら、ベトナム戦争湾岸戦争、そしてイラク戦争を経験している。もちろんこの〈経験〉は生の経験ではなく、様々なメディアを通しての間接的経験であるが、しかしそれにしても人間は絶え間なく〈殺し合い〉を続けながら、同時に〈愛と平和〉を声高く唱える存在でもある。まったく飽き飽きするしうんざりだ。
 ハツもにな川も、今さら革命幻想に酔う事はできないし、サリン事件の後では新興宗教に没入する事もできない。そんな白けきった時代の中で、精一杯夢中になれるのが、オリチャンであったりするというのが、実に泣けるところである。にな川はハツに背中を蹴られても、その押された力でどこか新しい世界へと踏み出していけるわけでもない。ハツもまた初めからにな川にそんな〈建設的な事〉を期待しているわけではない。二人はかろうじて、相手の背中を蹴る足の指と、蹴られる背中を持ち合わせていたに過ぎない。彼ら二人が、かろうじて信じられるのは蹴った足の指が感ずる背中の骨の感触であり、蹴られた背中が感じる相手の親指の感触だけである。
 ハツは自分の蹴りたい衝動を誰にもうまく説明する事はできないだろう。うまく説明された感情などいつも信用がおけない。ハツはにな川に説明しないし、にな川はハツに説明を求めないだろう。そんな事を求めたりするのは〈詩〉の何たるかを解さない愚か者だけである。
 にな川の背中を蹴るハツの気持ちがまったく分からない、という年配の人がいる。今の若い者の考えている事は分からない、という次元の話はいつの時代でも繰り返されてきた。しかし、若いとか年寄りとか、男であるとか女であるとか、そういう事を超えたところに文学や芸術作品はある。三才の女の子が泣いている。この子供の悲しみを五十才の男性が理解できないというのであれば、文学や芸術の存在価値はないだろう。ハツのような女子高校生を嫌いだというのならまだ分かる。しかし理解できないというのは問題である。
 世の中には、歳をとるに従って感性が鈍くなり、ひとの気持ちが分からなくなってくる者がある。わたしはそういった人達を〈魂の肝硬変〉にかかった者と言っている。尤も、歳に関係なく、もともと感性の鈍いひとはいる。「戦艦ポチョムキン」を観て感動のあまり大声を発する者もあれば、寝入ってしまう者もある。感性の違いはどうしようもない。
 「がらんどうの瞳」で「何もない所をじっと見つめている猫のように無表情」なにな川と、そんなにな川になんとなく惹かれていくハツ、二人は並んで同じ世界を見ていても、本当には分かり合えない。お互いに向き合って黙って強く抱き合えば、「世界はふたりのために」なんて幻想に酔えた時代はとっくに過ぎた。「気づいていないふりをして何食わぬ顔でそっぽを向いたら、はく息が震えた」・・その震えたハツの〈はく息〉を、にな川が〈気づいていないふり〉をして、蹴った足指の、小さな爪を見つめている。
 「蹴りたい背中」は一篇の詩である。強く抱きしめ、溶け合いたい、そんな気持ちをストレートに行動に移せない。にな川を強く抱きしめたからって、彼の〈がらんどうの瞳〉に光が射すわけではない。にな川とハツは少女漫画の世界を生きているわけじゃない。にな川とハツの間にある、蹴っても、蹴っても、決して縮まらない絶対距離、読者もまたこの絶対距離を縮める事はできない。
 白樺文学館での座談会を終え、わたしたち日芸一行は夜道を我孫子駅へと向かった。散歩気分で賑やかに話をしながら歩いたが、わたしはにな川とハツの間にある〈距離〉を彼ら学生諸君のうちにも感じた。「ひとり ひとりで ひとり」・・この孤独の直中からひとの魂を震わす作品は生まれてくる。

 

清水正の文芸時評 早坂類の「ルピナス」

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「文芸批評論」の受講生、大学院の受講生は下に貼り付けた「文芸時評」で取り上げた小説家に関する批評を読んでください。かつて「図書新聞」に連載したものです。

第2回

早坂類の「ルピナス(「群像」4月号)
2004年5月26日清水 正


 彼は死後の世界に魂の存在を認めず、人間の死に復活の可能性を認めなかった。にもかかわらず彼は「何かが自分を殺さなかった」と書いている。〈何か〉とはなんなのだ。彼を電車に跳飛ばさせながら、なお生かさせている〈何か〉とは。彼は人知では計り知れない〈何か〉を感じながら、死後の世界も復活も信じない人知に従っている。それでいながら彼はそのことの矛盾には気づかない。彼は、自分の存在を大きなものとして認めたがっている。しかし彼はその保証をいかなる他人にも求めない。彼は「自分には仕なければならぬ仕事がある」と思っている。その仕事は、ここでははっきりと書かれていないが、おそらく人類の歴史に残るような大きな仕事として考えられている。自分がこの世でなし遂げなければならない使命、それを感じているのは自分であり、自分が思えばそれでよいのである。彼が「何かが自分を殺さなかった」と言う時、その〈何か〉とは自分の存在を超越した存在というより、それもまた自分の中に潜んだ〈何か〉としてとらえられていたような感じがする。彼は世界の事象に眼に見えぬ神秘を感じて畏怖を覚えるような男ではなく、あくまでも自分の力を頼む自惚れ屋である。
 否、習ったロード・クライヴの本の中に書いてあったことだ。彼はこのクライヴの言葉を思い出し「実は自分もそういう風に危うかった出来事を感じたかった。そんな気もした」と書くに止まっている。彼は神秘家ではない。彼は言わば一人の常識人であり、分別や理性的判断を越えた神秘をそのまま認めるようはことはしない。ただ「そんな気もした」だけである。しかし彼が「自分には仕なければならぬ仕事があるのだ」と思っていたことに間違いはない。彼は怪我の後養生にのみ但馬温泉に逗留していたわけではないだろう。〈読むか書くか〉これが彼の仕事である。彼は小説家としての仕事をしなければならない。自分が一命をとどめたのは或る〈何か〉の働きではなく、単なる偶然であったとしても、彼が〈仕なければならぬ仕事〉を深く自覚していたことは言うまでもない。
 「然し妙に自分の心は静まって了った」と彼は続ける。彼は、自分を殺さなかった〈何か〉、人知では量り知れぬ神秘、人間を超越した或る何かを感じて現実から遊離することはない。彼は瞑想に耽るような宗教家のタイプではない。彼は人間は誰もが死んでしまうというその事実を冷徹に認めるだけである。その冷徹に見据えられた〈死〉に彼は〈親しみ〉を感じている。「祖父や母の死骸が傍にある」・・つまり彼にとって〈死〉は〈死骸〉という純粋な〈もの〉であって、それは永遠に滅びることのない魂とか、復活を約束するものではない。死に対して潔い態度と言えるかもしれない。生きてこの世にある者は、死後の世界を知らず、死んで蘇ってきた者を知らない。キリスト教に関心のある者で、イエスが起こした前後未曾有の一大奇跡、死後四日もたって死臭を放っていたラザロの復活を知らない者はいない。しかし、その復活したラザロも今日の世に生き続けているわけではない。イエスによって蘇生して来たラザロもまた再び死の淵へと呑み込まれて行ったのだ。元内村鑑三の弟子(なまぬるい基督信徒)であった志賀直哉は、小説の中で〈罪〉を〈罰〉を〈復活〉を真っ正面から取り上げることはなかった。イエスの言葉「わたしは命であり、復活である。生きて私を信ずる者は永遠に死ぬことはない」を文字通り信ずるキリスト者にとって、死はもちろん単なる死ではない。〈姦淫の罪〉に躓いて内村鑑三の元を離れた志賀直哉は、以後〈罪〉や〈魂の永世〉について掘り下げることはなかった。彼は死は死でしかないという考え、先に死んだ者の死骸の傍に自分の死骸が置かれるだけだという考えを〈淋しい〉と感じるが、しかし同時に「それ程に自分を恐怖させない考えだった」とも書いている。

「文芸時評」で取り上げた小説家

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第1回

2004年5月26日清水 正
時評家は、とにかく小説を読まなければならない。その小説がとりあげるに値するかどうか、読んでみないことには判断がつかない。
なぜこんな小説とも言えないような駄作が巻頭に載っているのかと、腹立たしくなることもある。しかも、その作者が新人賞や芥川賞を受賞している〈作家〉だというのであるからあきれる。
文芸誌の背を摘んで、五、六回振るとそこに印刷されている文字がどしどし落ちていく、そんな光景すら思い浮かべた。
 
佐野眞一の『人を覗にいく』ちくま文庫)の中に「近頃の若手の作品には、舶来の文学理論をまぶしたスナック菓子の軽さと猪口才さしか感じられなかった」云々とある。まさに〈猪口才な奴〉がうろちょろしている感は否めない。〈純文学作品〉など売れないのが当たり前なのだから、売れる〈純文学〉を書こう、書かせようなどという猪口才な輩はさっさと商売替えをした方がいい問題は、見るからに猪口才な奴と違って、いつも六、七十点クラスの作品を書いている小説家である。敢えて、作品名も作家名もあげないが、こういった小説家に共通しているのは、〈無限〉〈永遠〉を見つめる眼差しの欠如という、作家としては致命的な弱点を抱えていながらも、達者にストーリーを展開していることだ。人物たちもそれなりに気のきいたセリフを発している。しかし、それは読者の心に響かない〈おしゃべり〉の次元に留まっている。こういった不可ではないが、特別にすばらしくもない、優等生的小説を読む暇があるなら、寝そべってテレビドラマでも見ていた方がましである。南木佳士は『ダイヤモンドダストのあとがきで「足が大地に根づき、厚い岩を割る。そんなところに見えてくる人と風景を書きたい」と記している。わたしが小説に求めているのは、南木がここで言う〈人と風景〉であり、頭だけで構築したような作り物の人物や風景ではない。どのように人間は生きているのか、どのように人間は死んでいくのか、それを無限の底を見極めるような眼差しを持って表現するとき、はじめて作家はひとの心を震わすことができる。
佐藤洋二郎の「箱根心中」(新潮)は、〈男〉と〈おんな〉の出会い、同棲、そして心中に至るまでが淡々と描かれる。〈男〉はかつて投資顧問会社に勤め、大手の証券会社の人物と組んで利鞘を稼いでいた。五年前、バブルがはじけ、資金繰りに困った仲間の男が彼の金を着服する。それを知った顧客のキャバレー店主が〈男〉を監禁し、六割安の労賃で働かせる。数時間前、〈男〉は店主から二十万の金を借り、〈おんな〉の待つ部屋へと向かう。〈男〉は夜の街を歩きながら、キャバレー嬢にからかわれたこと、五十近くの売春婦と寝たこと、じっと自分の帰りを待っている〈おんな〉と初めて会った頃を思い出したりする。例によって佐藤洋二郎の小説は、主人公の〈現在〉に様々なレベルでの〈過去〉が挿入される。〈男〉の生をかろうじて支えているのは過ぎ去った過去の思い出であり、彼の〈将来〉は閉ざされている。〈男〉にはやがて呑み込まれていくであろう〈死〉という未来しか残されていない。「死ぬときは一緒」という同じ思いに溶けた〈男〉と〈おんな〉の濡れ場は、死とエロスの濃厚な臭いを発散させている。腹の中央から性器にむかって蚯蚓腫れの傷跡がある〈おんな〉、おんなのくるぶしを握って両足を広げ、じっと脚の付け根を見続けながら、声もたてずに泣いている〈男〉・・・二人は各々のどうしようもない過去と孤独を抱え込みながら、心中によって〈二人でひとり〉の至福を得ようとする。彼らは生に絶望しているというのではない、死に望みを託しているのでもない。重い過去も、現在の生活も、富士山の見える所で心中する決意をした二人には、もうどうでもいいことだ。この小説には、人間の孤独やせつなさ、善悪を超越した男と女のあり様が、骨の髄を抉るように描かれていながら、ふしぎと爽やかな透明感に溢れている。抑制の効いた文体が、全編に緊張を与え、読者の想像力を心地よく刺激する。この小説は、佐藤洋二郎文学の一つの頂点を飾るに相応しい作品である。
 湯本香樹実の「西日の町」文學界)は〈僕〉と〈母〉と、母の父親〈てこじい〉の三人をめぐる物語である。語り手の〈僕〉は現在四十二歳で医科大学に勤務、英語教師の妻がいる。〈僕〉の両親は七歳の時に離婚。以来〈僕〉は〈母〉との二人きりの生活を送る。〈僕〉が十歳のとき、とつぜん〈てこじい〉が現れる。〈てこじい〉は風来坊の寅さんよろしく、とつぜん家を出たかと思うと、また予期せぬ時に戻ってきたりする。〈母〉は〈てこじい〉に対して一種独特のアンビヴァレントな感情を抱いて、夜更けに爪を切る。作者は、〈母〉と〈てこじい〉のこじれた関係を、十歳の〈僕〉の視点から鮮明に浮上させている。〈母〉が妊娠して、〈僕〉の弟を孕んだときの〈てこじい〉とのやりとり、堕胎、〈てこじい〉がとつぜん姿をくらました翌日、たくさんの赤貝をバケツに入れて帰り、三人して腹いっぱい食べたときのことなど、この小説には〈深刻〉をさらっと描いて、読者の心に深い感動を与える場面が随所にある。〈母〉と〈僕〉の間の〈愛〉、〈母〉と〈てこじい〉の間の〈愛〉、それを小説家は死んでも〈愛〉などという言葉で表現してはならない。〈母〉が夜更けに爪を切り、〈僕〉もまた七歳まで一緒に暮らしていた父親が三十年ぶりに入院先から電話をかけてきた、その夜に爪を切る。小説は何もかもを描く必要はない。省略された空白に、もう一つのドラマが隠されており、読者はその描かれざる場面をも味わっている。〈てこじい〉が息を引き取る場面は戦慄的である。「長いこと、お疲れさま」と、そっと呟く〈母〉の言葉に胸が詰まる。物語も終わり近く、作者は「東京での生活が落ちついてしばらくすると、母は、ときどき夜に爪を切るようになった」とさりげなく記している。作者は〈爪を切る〉という行為の多重性を指示しながら、いっさいの説明を加えない。舞台となった北九州のKという〈西日の町〉は、紛れもなく普遍的な〈西日の町〉となった。読者は「夢見の悪いことをたくさんしてきた」という〈てこじい〉を、「寒い谷底から吹き上げてくる風みたいな声」を出して悪夢のような悍馬を調教していた〈てこじい〉を、家畜の豚を納屋の裏で密殺し手際よく解体していた〈てこじい〉を、怪我をした左の人指し指でモールス信号みたいに畳をトントン叩いていた〈てこじい〉を、堕胎した娘の体を気づかって赤貝をバケツ一杯採ってきた〈てこじい〉を忘れることはないだろう。多くの謎を残して死んだ〈てこじい〉は、〈母〉や〈僕〉だけでなく、読者の〈喚びだし〉をも拒んではいない。解き得ない〈謎〉を前にして、一歩も退かず、〈謎〉を〈謎〉として描きだすこと、それが小説家に課せられた使命である。
紙数が尽きたので、今回詳しく語ることはできないが、早坂類の「ルピナス(群像)には、背筋が冷たくなるような感動を覚えた。この小説には、なにものかに作品を書かされている者の天才性を感じた。早坂の研ぎ澄まされた感性と想像力は、狂気すれすれの地点で小説創造を果たしている。人間の精神世界の摩訶不思議さ、人間と人間の宿命的な出会いと別離、そして奇跡的な再会、天才的な人間の生と死のドラマ、自然の荘厳で神秘的な姿……久しぶりに小説世界の中に引きずりこまれる快楽を堪能した。

 

清水正担当講座の課題案内10 稲葉真弓 岩阪恵子 南木佳士 吉本ばなな 林真理子 

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 「雑誌研究」の受講者は下の動画を観て感想を書きなさい。400字。 

https://www.youtube.com/watch?v=yVvfjVxXX90

わたしの講座を受講する大学院生は下に掲載した批評を読んでください。

稲葉真弓(元日大芸術学部文芸学科教授)、角田光代日芸文芸学科出身の吉本ばなな林真理子の作品についての批評です。

静かに耳をすますほかない、稲葉真弓、岩阪恵子の作品
末期の目を備えた南木佳士の短編
現代小説の可能性はどこにあるのだろうか

清水正


 現代小説の可能性はどこにあるのだろうか。「新潮」2月号に一挙掲載された小田真の長編「深い音」を読みながらつくづく思った。わたしはこの〈小説〉を小説としては読めなかった。小説の概念を巡ってここで議論を展開するつもりはない。ここに書かれているのは〈おしゃべり〉、それも繰り返しの多い〈おしゃべり〉である。〈主張〉はあるが表現はない。読者の心にしみ入るように伝わってくる小説としての表現になっていない。くどい、しつこい、うるさい、まるでオバサンの井戸端会議を二時間も三時間も聞いているようでうんざりする。すでに破綻しきっている〈主張〉、してもらわなくてもいい解説、ついに最後までタイトルになっている「深い音」が聞こえてくることはなかった。
 
〈深い音〉が聞こえてくるのは、むしろ同じ「新潮」に載っている稲葉真弓の短編「どんぶらこ」である。露天風呂で足を滑らせ、意識障害のまま病院に運ばれた老女八木トクの内心のドラマを淡々と描写している。トクは七十八歳、岡山生、アメリカに渡った姉が一人いるが所在は不明、結婚歴はなく、子供もいない。解体作業現場の手伝いや賄い婦をして生きてきた。銭湯が唯一の楽しみで、他にこれといった趣味もない老女が、死に直面して自らの人生の断片を思い起こす。母親のこと、父親のこと、姉のこと、戦後土建屋の社長の愛人になったこと、土建屋に勤めていた若い男と駆け落ちしたこと、その男とも別れて阪神から東京に流れてきたこと、小さな建設会社や解体業者を渡り歩き、いきあたりばったりに男と寝たこと。作者は「根なしに生まれてきたとトクは思った。根をはやし、生きることと縁のない場ばかりにいた。それでもトクは何かを待ち続けていた」と書く。トクは切り倒され川に流された一本の大木を追って川に飛び込んだ昔話の村の娘のように、人生という川を「どんぶら どんぶら どんぶらこ」と流れてきた。いったい〈どんぶらこのおトク〉は何を追って生きてきたのだろう。いったい何を待ち続けていたのだろう。「トク、トク、と自分を呼ぶ声と一緒に、ざあざあと体の中を水が流れる音がした。もうずいぶん前から、体の中を流れる音に耳を澄ますようになっていた」。いったいトクを呼んでいるのは誰なのだろうか。作者は解答など記さない。ましてやいっさいの解釈や説明もしない。七十八年の人生を生きてきた老女が耳にするその〈音〉に、読者もまた静かに耳を澄ますほかはない。哀しさ、せつなさ、どうしようもない孤独……どんな言葉も七十八年のどんぶらこを生きてきた老女を語ったことにはならない。そのことをよく自覚した上で作者はこの小説を書いている。おそらくこの小説は何度読み返しても、読者の胸に深く響くものを持っている。トクという一老女の存在の姿は小説という表現をとらなければ浮上してこない。稲葉真弓はまがいものではない本物の小説家である。
 「新潮」新年号に掲載された十六編の短編小説の中で、一見地味ではあるが注目した作品に岩阪恵子の「掘るひと」があった。一読、これはただものではないぞ、と思った。派手な身振り手振りはまったくないが、この作家は的確に相手の急所を突いてくる一流のボクサーのような作家である。否、ボクサーというよりは、剣を捨てた名剣士のような静謐な気配を漂わせた作家と言えようか。庭に穴を掘る嫁の心理や感情をいっさい説明しないで、姑との確執を見事に浮上させるその洗練された技と研ぎ澄まされた感性はただごとではない。こういった珠玉の一編に出会うことは時評家にとってはなによりも嬉しい。「群像」二月号に岩阪の「マーマレード作り」を発見した時は、まさにとっておきの極上のおやつを出された子供のような喜びを感じた。独り暮らしをしている四十歳を過ぎようとしているひな子の所に、二十年一緒に暮らして別れた康平から電話がかかってくる。実家にみのった夏みかんを送るからマーマレードを作ってくれないかという依頼である。ひな子は「いいわよ、少しなら」と引き受ける。もと夫のあつかましい依頼を受けてしまったひな子は、康平との過去の断片を思い返しながら、マーマレード作りに励む。ただそれだけの、たわいもない話であるが、この作品は読者の想像力を無限に解き放つ。それは、真夜中「耳の奥から低く地鳴りのような音が聞こえてくる」ひな子が抱えている途方もない〈孤独〉と〈不安〉の力による。「掘るひと」も「マーマレード作り」も大げさな表現ではなく、淡々とした日常の描写そのもののうちに、人間が生きてある孤独の姿をさりげなく浮上させている。稲葉真弓も岩阪恵子も、人間存在の深部に響いてくるかすかな〈音〉に耳をすましている作家と言えよう。
 男性作家の作品で最も注目したのは「文學界」に発表された南木佳士の「底石を探す」である。この小説は語りの主体が表記されないまま幕を閉じる。主人公でもある語り手は病院に勤める医者で、アユ釣りが趣味である。彼はいつも同じ場所の同じ石の上に立って釣りをする。ある日、彼はその石に鑿で〈17〉の数字を彫る。一週間後、彼は強烈なパニックに襲われ、うつ病になる。十数年後の暑い土曜日の夕方、彼は発作的にアユ釣りに出かけ、〈17〉と彫った底石を探しまわる。「釣れたかやあ」と車椅子の老人が声をかけてくる。昔の釣り仲間である。老人は家からカンテラ付きの本格的な水面を持ってきて彼に渡す。ついに彼は底石を発見し、その上にあがる。筋だけ追えば、これまたたわいのない話であるが、この小説が描きだしている世界は不気味なほど透明で、人間が生きてあることのはかなさが切々と伝わってくる。また、この小説がわたしの胸に響いてくるのは、作者が言葉の重さをしっかりと意識して使っているからである。南木の眼差しはかぎりなく優しく、きびしい。この小説が末期の目を備えた作家によって書かれた作品であることは確かだ。〈底石〉という〈墓石〉の上に立って堤防の老人にカンテラを大きく回す彼は、「白い影がわずかに揺れながら闇に溶けてゆく」のを見る。
 現代日本の小説の可能性は、今回とりあげたような短編小説にあるのではないかと思った。中途半端な青臭い議論や、小説の形式を借りなくてもいいような主張はもううんざりである。小説家は読者の感性と想像力を信用して、無駄な表現はしない方がいい。(「図書新聞」2002年2月2日)

 

角田光代の小説「だれかのいとしいひと」をめぐって
清水正

 角田光代の小説「だれかのいとしいひと」を読むと浮かんでくるイメージは真空の世界を浮き沈むするクラゲだな。だが、このクラゲはつかもうとするとすぐに消えてしまう。実体のない浮遊物のようだな。
 日芸文芸学科の卒論制作は小説、詩歌、戯曲、絵本、マンガなど多彩だが、今回担当した十五編のうち論文は二編、ほかはすべて小説であった。文芸学専攻の修士論文林芙美子研究とドストエフスキー研究の二編。これらを読み、講評し、面接試験をして採点。学部で担当する専門科目の「マンガ論」「雑誌論」「文芸批評論」の後期レポート百五十本を読んで採点。図書館長としての職務遂行。執行部会議・学部運営協議会・人事委員会・入試委員会・教授会・分科委員会・大学院委員会・学科会議・図書委員会などの諸会議。共同研究会での打ち合わせ、一年間の研究業績記入、学部・大学院の担当講座のシラバス作成、それに各種の入試が数度ある。一月から二月にかけて大学教師は目の回るような日程のただ中にある。研究のための読書や執筆の時間は大学にいる時はほとんどまったくない。原稿執筆は電車の中と喫茶店、たまにビールを飲みながら居酒屋のカウンターに決めている。
 去年も鼎書房から「よしもとばなな」の作品に関して執筆依頼を受け、批評を展開したのが三月であった。今年は酒を飲んで夜遅く帰ると「角田光代」についての執筆依頼の封書がテーブルの上に置いてあった。
 わたしが去年の十二月から書いているのは「世界文学の中の『ドラえもん』」で、今はその第二部としてソポクレスの『オイディプス王』について、パゾリーニ監督の映画『アポロンの地獄』やドストエフスキーの『罪と罰』などと関連づけて批評を展開している。『ドラえもん』はひとまずおくとして『オイディプス王』や『罪と罰』は世界文学を代表する作品で、人間の謎を徹底的に追求している。そこでは人間と神の問題が垂直的に掘り下げられている。必然と偶然、神の意志と人間の自由の問題などがとりあげられ、これらの作品を読んだ者は、この無限の深さをもった巨大な穴から抜け出すことができなくなる。
 わたしは十代の後半からずっとドストエフスキーを読み続けてきたが、二十代の頃は何回挑戦してもトルストイを読むことができなかった。トルストイを読めるようになったのは三十歳をすぎてからで、そのときは『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』を文字通り寝食を忘れて読んだ。チェーホフはさらに遅く、四十代も後半に入ってから読んだ。ドストエフスキーの怒濤のような精神の荒波に揺られることに慣れた脳髄に、チェーホフの文体が入り込む余地はなかった。ドストエフスキーの作中人物たちは神があるかないかを常に問題にしている。彼らは顔をつき合わせては口角泡をとばして饒舌な議論を戦わせたりする。が、チェーホフの場合はそんなことは「どうでもいいさ」と軽くかわして、虚無の川を平然と泳いでいく。
 ところで角田光代の「だれかのいとしいひと」を一読した印象はチェーホフよりもはるかに軽かった。ドストエフスキーの『悪霊』のニコライ・スタヴローギンはいわば虚無の権化であるが、彼は神の存在をめぐってのたうちまわっている。チェーホフの人物たちは虚無の世界をさまよっているが、神の存在も含めて「どうでもいいさ」(フショー・ラヴノー)という気分が根底に流れている。いずれにしてもチェーホフの人物たちの胸には「虚無」という名札が似合う。
 ところで角田光代の「だれかのいとしいひと」であるが、この作品に登場する人物たちには「虚無」を「キョム」「きょむ」と表記しても、そこからスッとぬけでてしまう、どうにも名付けることのできない浮遊するものを感じる。「いとしいひと」はかろうじていとしいひととしてせいりつしているのであって、誰か特定の「愛しい人」になりえない。それは石鹸水につけたストローに軽く息を吹き込み、玉になったものが何秒間か宙をさまよって消えていくものに似ている。このはかなく消えていくシャボン玉には「愛しい人」という確固たる表記は似合わない。それは名付けられないもの、名付けたくないものであり、しかたなくつけるとすれば「いとしいひと」となる。しかもこの「いとしいひと」は「わたしの」でもなく「あなたの」でもなく、あくまでも「だれかの」というあいまいな言い方でしか表現できないものなのである。
 「だれかのいとしいひと」はギタギタの油絵ではもちろんなく、かといって淡い水彩画ともいえない。強いて言えば、霧が薄くたちこめた部屋に飾られた水彩画のように見える。が、近づけば輪郭がはっきり見えてくるといった水彩画ではない。
 ドストエフスキーの諸作品やソポクレスの『オイディプス王』などは、人物の輪郭がはっきりしているし、彼らが問題にしていることもはっきりしている。彼らは神と人間の問題に苦しんでいる。彼らの顔の表情は沈痛であり、憂いに満ちている。彼らの額には「苦悩」とか「悲痛」の札がよく似合う。が、「だれかのいとしいひと」の人物の額にはどのような札もはりつけられない。貼ってもすぐにはがれてしまう。たとえばひらがな表記で「むなしい」「かなしい」「せつない」「はかない」などという札を作ったとしても、このひらがな自体がすぐに溶けて消えてしまいそうである。
 朝靄のなかを飛び交う蝶々のイメージもある。が、この蝶々は決して捕虫網でとらえることはできない。とらえようとしても、とらえた瞬間に姿を消してしまう。が、次の瞬間にはなにごともなかったかのように再び宙を飛んでいる。この類の蝶々は捕まえて、解剖したり、分類したりできないもので、見ているよりほかはない。
 泣いたり、わめいたり、叫んだり、はしゃいだりといった青春期によくある過剰な感情の発露がない。そんなものは自分たちが生まれてくる前の、とうの昔に存在した人間にみられたものである、といった感じである。ドストエフスキートルストイの人物になら精神内部の暗い闇を探るといった批評も可能だが、角田光代の「だれかのいとしいひと」に登場する人物には、そもそも闇をはらんだ厚みのある精神が存在しているように見えない。針でプスッと腹を刺してもなんか得たいのしれない気体がほんの少し漏れ出てくる感じで、いな、その気体さえ出てこないかもしれない。
 ヨハネ黙示録には「熱いか冷たいかどちらかであってほしい。おまえは生ぬるいのでわが口から吐き出そう」という言葉が記されている。こういった分類を当てはめれば角田光代の人物は「生ぬるい」ということになるが、しかし実はどうもかれらはその範疇からも漏れ出てしまう。かれらは熱くも冷たくもないが、さらに生ぬるくもない。いったい食べてみたらどんな味がするのだろうか。
 ところで角田光代の小説は、わたしが長年親しんできたドストエフスキーの文学とはまったく違うが、しかしはっきり言えばこういう小説はきらいではない。わたしは生理的に反応する人間で好き嫌いがはっきりしているが、この小説は気にいった。半端な理屈がないのがいい。理屈を展開するならドストエフスキー並に限りなく徹底してやってくれなくては話にならない。読み終わって、主人公のおんなを抱きしめたくなる感情もわいたが、空気を抱きしめるような滑稽な事態になることは目に見えている。
 わたしのなかでは、両目をつぶして闇の世界をさまようオイディプスも、ある神秘的でデモーニッシュな力の作用に支配され二人の女の頭上に斧を打ち下ろしたロジオンも、「確固とした関係性を持つ」ことのできない「私」も同等の存在感をもって浮遊している。前二者に対しては、蛸の執念をもって迫るが、「だれかのいとしいひと」の〈私〉とは重力から解放された真空でともに浮遊していたい。
 わたしが読んだテキストは文春文庫『だれかのいとしいひと』に所収のもので、角田はあとがきで「恋愛、だとか、友情だとか、幸だとか不幸だとか、くっきりとした輪郭を持ったものにあてはまらない、あてはめてみてもどうしてもはみでてしまう何ごとかがある。その何ごとかの周辺にいる男子と女子について書いた。それは、夢と現実のごっちゃになった記憶の掘りかえす作業と、どことなく似ていて」云々と書いている。まさにその通りで、異論はない。ここ五、六年とくに感じることだが、今の学生にリアリティを感じない。「青春とは青い春だぜ、心底から怒ったり、泣いたり、わめいたり、もだえたりするのが青春だぜ。きみらは今、青春しているか」などといくら熱く語っても、その挑発にのってくる学生はいない。妙に冷静で、まさに熱くも冷たくもないのだが、生ぬるくもないのである。かつて団塊世代の後に新人類と称される若者たちが現れたが、この新人類の子供たちが今の大学生にあたる。
 よく考えてみれば、新々人類のような若者たちに共通しているのは、あえて言えば誠実かもしれない。連合赤軍オウム真理教ホリエモンの末路をしかと見てしまったかれらは、革命も宗教も金も信じていない。金や権力はほしいだろうが、それでもってなにか偉大なことが可能だなんてまったく思っていないだろう。しかもそのことを大きな声で主張する根拠もないので、聞いたようなポーズはとり続けるがイエスともノーとも言わない。まさに角田の言うように、かれらには「くっきりとした輪郭を持ったもの」がないので、主張するに値するものもないのである。かれらの話を聞いていると、まさにたわいもないおしゃべりといったもので、確固たる目的に向かって努力精進する精神のかけらも感じられない。かれらははじめから善悪観念の摩滅した世界に生み出され、その世界で生きているから、世界を荒野と感じることもないし、絶望したり、苦悶したりすることもない。悩み事といえば、就職が決まらないとかいった程度のことで、それが彼らにはなによりもしんこくななやみなのである。わたしは文章を続けるてまえ、「〜である」などと書いたが、おそらくかれらには「である」で閉められる精神の扉はない。扉はそもそもないか、あっても開けっ放しの扉で、その扉に注意を払うものもない。
 「私」は姪のチカ(千夏)には「しいちゃん」と呼ばれている。チカは自分が「マフェット」と呼ばれることを望んでいる。「私」のこいびとらしい男は「ツネマサ」という名前だが漢字でどうかくのかはわからない。「ツネマサ」は「私」を「コンドウ」と呼んでいるが、彼女の苗字も漢字表記されることはない。漢字で表記されるのはペットショップで売れないまま成犬になってしまった雄犬の「山本」、父親の恋人だった「長岡昌子」ぐらいだが、長岡は「ナガオカマサコ」とカタカナ表記もされている。長岡は「私」の父親を「コンドウくん」と呼んでいる。「コンドウくん」は家父長制時代の父親からはるか遠くの野原にけ飛ばされたマリのように軽く、四、五歳であった「私」の目にも「おとうさん」ではない。「私」は父親からナガオカマサコの前では「パパ」と呼ぶように言われるが、この父親は父親らしい姿をなにひとつ「私」の心に刻むことはなかった。幼稚園の年長か小学一年くらいのころ、「私」はひとりで長岡昌子のアパートをたずねる。すると「いつも父が座っていた場所」に「知らない男の人」が座っている。長岡は「知らない男の人」を「私のお兄さん」と紹介し、男は長岡を「ぼくのスウィート・ハニー」と言い、言われた長岡は男の肩を何度もたたいて「ばか笑い」する。
 小さな子供は、その時、自分の目の前で展開されたおとなたちのやりとりを理解できなくても、その場面をしっかりと覚えてさえいれば、後からその関係の内実を的確に知ることができる。「私」は成人してすべてを了解するが、そのことをあえて分析したり批評したり、ましてや裁いたりはしない。長岡と愛人関係にあった「おとうさん」が家庭のなかで母親とどんな暮らし方をしていたのか、どんな事情で長岡と別れることになったのか、長岡と「男」はどこで出会い、どんな関係を結んでいたのか……。「私」はなにひとつ言及しない。「私」は人の心理や感情の動きに無関心ではないが、あえて詮索しようとはしない。成人した「私」はツネマサとどこで出会い、どんな関係を積み上げてきたのかについて説明しようとしない。「私」は過ぎ去った過去を断片的に想起して現在の時空に重ね合わせたりはするが、過去を冷静に客観的に把捉して現在と未来に結びつけようとはしない。「私」がツネマサとの関係についてコメントするのは、たとえば

  もうそろそろ終わるんじゃないか、と数か月前から私は思っていて、きっとツネマサもそう思っているとほぼ確信している。終わる、の主語がなんなのかはよくわからない。私たちのつきあい、といえばそうなんだろうし、関係、という言葉もぴんとはこないが間違ってはいない。いや、主語は不明だがとにかく終わる、私とツネマサは近いうちにまったくの無関係になる。超能力者みたいにはっきりわかる。
  どうしても性格ーー生活習慣でもいいし金銭感覚だっていいーーがあわない、ある一言やある喧嘩が発端であいてをどうしても許せなくなる、ほかに好きな人ができてしまう、あるいはもっと単純にあきた、そういうことならよく知っている。けれど私とツネマサの場合はどれもあてはまらない。理由は思いあたらない。胸の奥の、だれにも触れさせない部分にこっそり訊いてみても、やっぱり思いあたらないのだ。
  もし神さまというだれかがいたとして、私たちのいろんなことを決定しているとして、その人に急にある時点で「はい、そこまでね」、と言い渡された感じ。それがもっとも近い。

 である。
 男と女の関係を描く方法はさまざまだが、出会いと別れの間の出来事を描写することを抜きにすることはできない。この小説においてもその枠を越えてはいない。が、ここに引用した言葉は神の断定に似て、二人の関係の終わりはあっさりと決定されてしまった。変更はきかない。読者は「私」のコメントを神の言葉として聞き入れるほかはない。悲痛なまでの未練、殺傷事件にまで発展しかねない執着など、どこを捜してもない。コップ一杯のジュースを二人で飲み干したといった関係の終焉、賞味期限の年月日を二人がそれとなく目にしてしまったという感じで、そのことに逆らう感情はどこからもわき上がってこない。

 さて、タイトルの「だれかのいとしいひと」の〈だれかの〉に注意してみよう。この〈だれか〉は主人公の〈私〉でもあり姪の〈チカ〉でもある。〈いとしいひと〉とは〈私〉にとっての〈ツネマサ〉であり、〈チカ〉にとっての〈ツネマサ〉である。と同時に「だれかのいとしいひと」は〈おとうさん〉にとっての〈ナガオカマサコ〉であり、〈私〉にとっての〈長岡昌子さん〉だったり〈知らない男〉(長岡昌子の家に居た「すっきりした顔立ちの、背の高い、痩せた、指の長い男の人」)でもある。さらに〈ナガオカ〉にとっての〈コンドウくん〉や〈私のおにいさん〉、〈ツネマサ〉にとっての〈コンドウ〉や〈チカ〉であったりもする。
 一人の誰かが一人の相手をかけがえのない〈いとしいひと〉と言っているのではない。人物の名前がさまざまに表記されることで明らかなように、人物は関係する相手によって異なった貌を見せる。〈私〉の父親は〈おとうさん〉であり〈パパ〉であるが、〈ナガオカ〉にとっては〈コンドウくん〉である。人物間の関係性は不動ではなく、不断に生成流動している。四、五歳で父親の愛人との関係に立ち会っていた〈私〉、小学生になってひとりで訪れた長岡昌子さんの部屋に居た〈知らない男〉などを通して、〈私〉は関係性の危うさを体感的に知る。この世になに一つとして確固不動のものごとは存在しない。この思いはしかし、諦念という重い表記と重なることはない。この小説に登場する人物を捕虫網でとらえることはできない。
 この小説を読んで人物間の関係性をアナログ的、連続的に追跡し検証しようとする思いにかられることはない。この小説に描かれる場面はデジタル的に映像化され、消去される。読者はその断片的な画像をつなげて、生きてあることのはかなさやせつなさを感じるが、その思いをギュッと抱きしめようとすると、その画面自体がどこかへと消えてしまう。否、パソコン映像を映し出す堅い表面にツルッとかわされてしまう。〈私〉は消えてしまった画像に執着することはない。画像(過去の場面)は思い起こす主体の意志によって操作されるというよりは、画像自体の気まぐれによって主体の意識のなかにフワッとした感じでよみがえってきたりきえていったりする。
  遠く、巨大なもみの木の下で、小さな子どたちが落ち葉をかき集め、それをまき散らして遊んでいる。風はないのに、両腕を広げたような銀杏の木から、はらはらと黄色い葉が落ちていく。雪みたいに。涙みたいに。
 画像は現れ出たり消えたりするが、しかしけして消えることのない光景もある。ここに引用した光景は散文家のまなざしというよりは、かなしみの原質をかかえた詩人のまなざしがとらえた光景といえようか。

小さな子どもも恋をする
 この小説のひとつの魅力にチカの存在がある。チカは千夏と書くが、その説明が一度あったきりで、あとはチカと表記される。現在は七歳で、一年半前から〈私〉とツネマサのデートに同伴するようになる。読み進むに連れて、チカ同伴の理由や、チカのツネマサに対する〈恋心〉の内実がわかってくる。〈私〉は醒めたまなざしでチカのこと、ツネマサと自分との関係などをみつめている。
 女の子は七歳にもなれば大人顔負けの恋心を抱く。チカの初恋のひとは〈私〉の恋人ツネマサである。〈私〉のまなざしはチカのツネマサにたいする感情をよく理解している。それは〈私〉自身にもそういった経験があるからだ。
 
  私は長岡昌子さんの部屋で男の人に会ったことがある。兄よ、おにいさん。長岡昌子さんはそう言った。
 〈私〉の父親を〈コンドウくん〉と呼ぶ、父親の愛人〈ナガオカマサコ〉を〈私〉は〈長岡昌子さん〉と書いている。ふと、わたしの脳裡をよぎったのは『罪と罰』のソーニャが継母のことを決して〈お母さん〉とは呼ばずに〈カチェリーナ・イヴァーノヴナ〉と名と父称で呼んでいたこと。〈私〉は父親の愛人〈ナガオカマサコ〉を他人行儀に〈長岡昌子さん〉と書いて、そこに微妙な娘心ともう一つの決して描かれることのなかった〈知らない男の人〉にたいする感情をひそませている。小学校にあがったばかりの、「学校のすべてになじめず、そこから逃げ出すことばかり考えて」いた〈私〉が久しぶりに訪れた長岡昌子さんの家で出会った〈知らない男の人〉にたいする思いを〈私〉は具体的にはなにも書いていないが、しかしその〈男のひと〉は「すっきりした顔立ちの、背の高い、痩せた、指の長い男の人だった」と書かれることで、微妙な〈女〉心は伝わってくる。今、〈私〉はチカを醒めたまなざしで観察することで、七歳の頃におぼえた〈男の人〉にたいする感情をよみがえらせているとも思える。
 〈私〉は過去の思い出に執着しない。過去のある場面は現在の光景と関連づけられてよみがえってはくるが、その場面に執着しない。これはなんだろう。〈私〉は自覚もないままに断念することを身につけてしまったのだろうか。〈私〉は父親の愛人のことを母親には言わない。〈私〉は父親と共犯関係を結んで母親をあざむきつづけてきた少女だったのだろうか。
 
  夜になって、近くのバス停まで長岡昌子さんが送ってきてくれて、どのような手筈が整えられていたのか、会社帰りのおとうさんに引き渡された。長岡昌子さんとおとうさんはあんまり言葉を交わさなかった。家に向かうバスのなかで、おとうさんは私に何も訊かなかった。その日はすばらしい一日だったけれど、もうあの場所へははいっちゃいけないんだとなぜだか私はまっすぐに理解した。
 「まっすぐに理解」する少女に疑惑もなければ詮索もない。こういう少女のまなざしは半端な絵描きなどよりはるかにデッサン力が身に備わっている。この少女がとらえた父親と長岡さんの姿だけで、あとはなんの説明もいらない。〈コンドウくん〉と〈ナガオカマサコ〉の間で取り交わされたであろう別れ話や、新しい男の出現をめぐってのごたごたなど、なにひとつ描かなくても読者は丸ごとわかってしまう。小説に説明はいらない。必要なのはたしかな描写だけで、小説家に求められるのはそのデッサン力である。〈私〉のまなざしがこのデッサン力を備えているので、作者がしゃしゃりでてくる隙間はない。
 相手の気持ちがすぐにわかって、その気持ちにさしでがましい分析的な言葉を投げかけることのないひとのまなざしは、しずかに自然の風景に向けられる。この小説で読者の心に迫ってくるのは、そういった光景である。
 たとえば、〈私〉とツネマサがベンチに腰かけ、公園で遊んでいるチカを眺めながら……〈私〉が見る自然の光景を
  公園内の銀杏の木はかろうじて黄色い葉を残し、まばらな黄色い点々の向こうに澄んだ高い空がある。雲はなく、風もない。首を傾けてじっと頭上を見ていると、黄色い葉はぴたりと動かず、まるで世界すべてが静止してしまったように思える。
 たとえば、長岡さんの家で〈知らない男の人〉と出会ったその日、
  おもては晴れていた。長岡昌子さんの部屋には大きな窓があって、ずいぶん立派な木が見えた。桜の花はとうに散って、薄緑の葉が陽を受けてちかちか笑うみたいに光っていた。
 時、もはやなかるべしの時空、に陽が注いでいる光景、こんな光景をみてしまう〈私〉のまなざしに注意すれば、この小説の出だしを改めてみてみたくなる。
  休日の午前中だというのに駅のホームにあまりひとけはなく、陽の光は金のリボンみたいに幾筋も静かに降りそそいでいる。電車はいってしまったばかりで、あと十分は待たなくてはいけないらしい。私はベンチに腰かけて、自分の格好と、隣で脚をぶらつかせているチカの格好をときおり見比べてみたりする。
 〈私〉はベンチに腰かけて自分とチカの姿を見ている。見ているのは確かに〈私〉だ。が、はてしてそうなのか。この最初の叙述場面は先に引用した自然の光景描写を通過してみると、〈私〉の視点によるものだとばかりは見えない。〈私〉という人間(被造物)を超えたあるもののまなざしが重なっているように見える。描かれている〈現在〉のすべてが〈過去〉とも言える。つまり〈現在の場面〉を未だ到来していない未来の視点から眺める視点を備えている。これはまさにチェーホフ的なまなざしと言っていい。それだけではない。〈私〉のまなざしには、超越者のまなざしが重なっている。この次元でこの小説をとらえれば、「だれかのいとしいひと」の〈だれか〉とは〈神〉となり、〈いとしいひと〉とはすべての神による〈被造物〉となる。角田光代という名前を持つ小説家のまなざしはかぎりなくやさしい。このまなざしは西洋の神とはちがってけして裁かない。生きてある人間たちの諸相にかぎりなくよりそい、ともに呼吸するかみである。
 この〈かみ〉のまなざしで〈私〉は七歳の少女チカをながめている。

恋する少女(幼女)はおしゃれする。
  チカは白いもこもこしたコート、その下にピンク色のフレアスカートをはいて、黄に一列苺の絵柄が入った白いタイツをはいている。足元はアニメのキャラクターのズックだ。私はといえば、着古したスタジャンに、よれよれのジーンズで、しかも両方ともツネマサのお古である。
  もこもこコートの下にチカは襟にフリルのついたブラウスと、モヘアの花の縫い取りがたくさん施されたピンクのセーターを着ている。しかもセーターの内側にセーラームーンのペンダントをしているのを私は知っている。コートを脱いだとき、ピンクのセーターにピンクのスカート、という出立ちは多少やりすぎの感もあるが、彼女にとってこれほど気合いの入ったおしゃれはないのだ。しかも彼女はこの格好を獲得するために、数十分を母親とのバトルに費やさなければらなかった。

 チカは七歳、十分におんなである。〈私〉よりもはるかにおんなと言ってもいい。好きになって、将来お嫁さんになることをきめたツネマサにたいしてチカはおんなを全面におしだしてくる。チカを幼女と思ってみくびってはいけない。チカは全存在をかけてツネマサの前でおんなとして振る舞っている。ツネマサとのデートに一回として手抜きはしない。〈気合いの入ったおしゃれ〉をするために数十分もかけて母親とバトルすることも厭わない。これはツネマサとのデートに服装のことなど〈かまわない〉〈私〉と対照的である。チカは自己主張する子どもであり、相手がだれであっても妥協することはない。
 チカは〈私〉にママのいないところでは〈マフェット〉と呼んでくれと言い、〈私〉に爪をきらきらさせるものを持っていないかなどと訊いたりする。チカはママのいないところでは、ひとりのおんな〈マフェット〉として美しく着飾り、ツネマサにおんなとしての存在感をアピールしたいのである。
  待ち合わせの駅から目的地のK公園まで歩いて約十分、私の数メートル先を、ツネマサとチカは並んで歩く。チカはツネマサを見上げて夢中で何か話し、ツネマサはチカの声が聞きとりやすいよう斜めに腰を折り曲げてときおりうなずいている。あんな漫画があったなあ、と、片手にお菓子の入った紙袋、片手にどでかい保温ポット、背中に自分のリュックを背負って歩く私はぼんやりと思う。あんまり好きじゃなかったけれど恋人同士の漫画で、背の高い男の子と背の低い女の子はいつもあんな姿勢でおしゃべりしていたっけなあ。
 この短い叙述場面に、チカとツネマサと〈私〉の関係の実相が的確に現れている。ここではチカとツネマサが〈恋人同士〉であり、〈私〉は彼らについている侍女のような存在でしかない。舞台の中央にいて脚光を浴びているのがチカとツネマサで、〈私〉は舞台の袖に控えたマネージャーであり、よく言っても保護者的役割を演じているに過ぎない。思えば、〈私〉は父親に連れられていった長岡さんの家でも、一人で訪ねた長岡さんの家でも、その当事者になることはできず、いつも傍観者の立場にあってその部屋での光景をよく記憶にとどめている。〈私〉は〈しいちゃん〉として舞台上で強烈な個性を発揮する〈人物〉というより、照明、録音、撮影といった機能を備えた〈語り手〉としての役割を果たしている。〈私〉はいつも自分が生きている生の現場の傍らに、頭上に、何台ものカメラを設置している映像監督のように呼吸している。〈私〉は〈しいちゃん〉との間にも一定の距離を置いて接している。〈私〉は〈私〉をかなぐり捨てて、生きてある生の現場に没入することができない。
 〈私〉は生の現場にたいして謎のような言葉をきざむことがある。きざむとは言っても、実は空気壷のインクをつけた筆で記すようなやりかたなのであるが。
  チカはきっともうツネマサに会うことはないだろう。チカが彼をどんなに好きでも、自分からたずねていかないかぎりもう二度と会えない。けれどきっと、それを憂うより先にチカは忘れてしまう、ツネマサという名前も、おしゃれするために母親とくりひろげたバトルも、ツネマサの大きな掌の感触も、三人ですごした時間も。それであるとき、ーーだれかをどうしようもなく好きになったり、それでもどうにもならないということがあるんだと知ったあとで、土に埋もれた幼い宝物を見つけるように思い出すに違いない。ひどく短い時期、ともにときをすごしただれかと、そのだれかのいとしい人と、何も知らずにそこにいた自分自身を。
 ここで書かれている〈チカ〉を、七歳の頃の〈私〉と置き換え、〈ツネマサ〉を長岡昌子の家でぐうぜん出会うことになった〈知らない男の人〉と置き換えて読むこともできる。〈私〉はしゃいで、自分の感情を露骨にさらすことがないので、心の諸相が霧の中をただよう淡いシャボン玉のように感じられる。
 〈私〉はここで「土に埋もれた幼い宝物を見つけるように思い出すに違いない」と書いているが、前にも同じような文章を記している。「長岡昌子さん。子どものころに埋めたビー玉を土のなかに発見するときのような驚きで、私は長いこと思い出しもしなかったその名前を思い出す」。土に埋めた〈幼い宝物〉〈ビー玉〉は、まさか長岡昌子ではあるまい。長岡が父親の後に恋人にした〈知らない男の人〉にたいする淡い恋心を〈私〉は土に埋めたということであろう。小学校に入ったばかりの七歳の女の子が抱く恋心を〈幼い宝物〉〈ビー玉〉と表現する〈私〉のデリケートに好意がもてる。いな、わたしがこの小説を読んで最後に言いたかったことはそんなことではない。
 小説の終幕場面を見よう。


 ゴミをかたづけて、私たちは芝生をあとにする。芝生の向こうに水の広場があるんだって、そこにいく? それとも鳥の広場? えー鳥の広場って鳥がいるの? チカとツネマサは公園の地図を広げて言葉を交わす。チカはツネマサの手を右手で握りしめ、左手を伸ばしてきて私の手をとろうとする。私はそれをふりはらう。
 「私はチカとは手をつながない! 私もツネマサとつなぐ!」私はわざと声をはりあげて言い、チカの反対側にまわってツネマサの手を強く握った。ツネマサは驚いたような顔をして私を見る。かまわない。
 「えーずるーい、チカ、まんなかがいい!」
 「だーめ、まんなかはツネマサ! そうすればずるくないでしょ? 私たちは二人ともツネマサと手をつなげるでしょ?」
 「そうだけどおー、なんかずるーい」
 「ずるくないってば、マフェットちゃん」
 「なんだ、おまえら。ひょっとしておれもてもて?」私たちは笑う。手をつないだまま、惜しみのない陽射しを受けて、背をまるめ、声をあたりに響かせて、この一瞬、世界じゅうで一番幸福な家族みたいに笑い続ける。

 この微笑ましい場面の裏に空恐ろしい場面が控えているのではない。この微笑ましい場面そのものが空恐ろしいのだ。いったい〈私〉は、将来のチカに、すばらしい〈幼い宝物〉を土の中から発見させるために、チカの手をはらい、わざと声をはりあげてツネマサの手を強く握ったりしたのだろうか。掘り出された〈幼い宝物〉に鮮烈な思い出がよみがえるように。それにしても、「この一瞬、世界じゅうで一番幸福な家族みたいに笑い続ける」場面を演出した〈私〉に果てしのない悪意のようなものも同時にかんじる。「世界じゅうで一番幸福な家族」を演出、演じた〈私〉はツネマサと別れることを確信している。〈一番幸福な家族〉の演出家は次の瞬間の離散を前もって抱え持っている。
 〈私〉の父親と母親が離婚したのかどうか、長岡昌子と若い男がその後別れたのかどうか、〈私〉はそういったことに関してはなにも触れない。〈私〉は人間関係の具体的な諸相を事細かに描写しようとする意思はない。〈私〉は確固たる存在や確固たる人間関係(親子関係、夫婦関係、恋愛関係など)を信じてはいないし、「信じていない」と大声で叫ぶこともない。この〈私〉はたとえ男を熱烈に愛したにしても「あなたが欲しい」という叫び声のなかにどうすることもできない「むなしさ」の粉がまぎれこんでいることを知っている。ツネマサの手をぎゅっと握りしめても、それは愛の確認や持続を求める心の証とはならない。別離を確信した者だけが握りしめることのできる握りしめ方で、その一瞬の〈演技〉を生きるのである。
 「同じ色のマフラーを首にぐるぐる巻きにしたカップル」が自転車に二人乗りして奇声を発していた。長岡さんは知らない男の人におおいかぶさって馬鹿笑いをしていた。今、〈私〉とツネマサとチカは手をつなぎ、世界じゅうで一番幸福な家族みたいに笑い続けている。現在の中に過去が紛れ込み、現在は未来からのまなざしでとらえ返される。〈私〉の意識は過去・現在、未来の時空を気ままに浮遊し、現在を生きながら多様な時空の膨らみに遊泳する。〈私〉は〈 〉をはずした私として、喜怒哀楽の渦潮に全身をゆだねることができず、不断に明晰な〈意識〉が機能し続ける飛行風船にのって表現しつづける。
「この一瞬、世界じゅうで一番幸福な家族みたいに笑い続ける」その光景を俯瞰しているのは〈私〉で、その〈私〉をさらに背後から眺めて表現操作しているのは作者であるが、その作者は「角田光代」という名札をつけて現実社会で小説家としての役割をはたしながら生きている。小説家は現実の世界に生きて、同時に時空を超えるまなざしを獲得していなければならない。現実の場面を俯瞰することのできるまなざしは、世界を凍結させることも、世界の時空から逸脱することもできる。角田光代の「だれかのいとしいひと」を読むと、作者が死者のまなざしをもってこの世の出来事に寄り添っていることが伝わってくる。〈私〉のまなざしがこの世に注ぐ創造主の光と融合して世界をながめている。そんな場面が確かにあったが、あえて引用はしない。
 「世界文学の中の『ドラえもん』」を執筆し終え、引き続き『オイディプス王』論を書いていたわたしに「だれかのいとしいひと」論の依頼があったことは偶然だが必然のうちのことであった。

 

 

吉本ばななの卒業制作・論文を読んで
ーー東北関東大震災に直面してーー
清水正
 
 東北関東地方を突然襲った大地震とそれに続く巨大津波によって沿岸部の村や町は途方もない被害を被った。一瞬にして家、車、船が飲み込まれ、何万人もの被災者が出た。家族や友人を喪った人たちが、それでも悲しみを押さえ込んで必死に生きようとしている。
 今、地震津波によって福島原発は危機的状態にある。放射能被爆する不安と恐怖を感じながら、危険圏外へ脱出できない者も数多い。絶望と諦め、焦燥とストレスが蔓延してもおかしくない状況下にあって、日本列島に暮らしを定めた者たちの生きようとする強い意志を感じる。

 この小説の主人公さつきは、恋人の死を通して初めて、日常の平和がどんなにもろいもので、孤独や死や狂気がいつでも隣りにあったということを知り、ショックを受ける。
 本当の所、彼女は1日中ベットにもぐっていたいような心境であり、押されれば倒れてしまいそうに心細い。暗い思いが押してきて、息をするのがやっとというような、力のない状態である。しかし、彼女の中にはたったひとつゆずれないものがあり、本人もそれが何なのかわからないけれど、そのラインだけは守りたいと考える。そして毎朝走ったり、食べることや人に会うという日常的なことを大切にして、それにすがりながら、細々とチャンスを待つ。そして、直接的にではなくても、そのことによって救済される。
 ここに引用したのは吉本真秀子が昭和61年度文芸学科卒業制作「ムーンライト・シャドウ」に付した副論文の文章である。わたしは三月末までに、鼎書房の依頼によって吉本ばななの「虹」について書くため、二十四年も前に優秀論文審査のために読んだ彼女の卒業制作・論文を再読することにした。わたしは依頼された原稿にも書いたが、真秀子の小説に漂う透明感を改めて確認した。この透明感は生の世界に死の永遠の時をなだれ込ませたような感じで、「虹」の舞台となった世界(タヒチ)にも感じる。死をはらんだ生の世界は白、青、光に満ちていて、ゾッとするような静けさをたたえている。
  私は、人間がとてもデリケートであると同時に、タフなものであることを肯定的に言いたかった。
 この言葉に端的に表現されているように、「ムーンライトシャドウ」の主人公さつきは自らの生に対して前向きであり、タフであり、決して絶望の淵に落ち込むことはない。が、さつきが愛するかけがえのない恋人・等の喪失に立ち会った主人公であることは忘れてはならない。さつきという名前は死をはらんだ、復活蘇生を体現するものとしての〈五月〉である。
 デリケートであると同時にタフであるさつきの傍らに謎の女うららがとつぜん現れ、さつきの生を支える。うららに関して真秀子は次のように書いている。
  うららは、例えば柊がさつきの哀しみを等倍した人物だとしたなら、ちょうどそれを普遍化した人物である。強さということをつきつめていった人物である。彼女は「死なずに生き続けてゆく、時空を超えたエネルギー体」として設定した。愛や結婚や仕事、家、子供を産み育てるなどの、人が孤独を忘れることのできるすべての行事を取り去ったとしたなら、その人はどうやって生きてゆくのか。死がないのなら、何を前提に生きるのか。それは人間の永遠の憧れであると同時に、最も深い絶望である。うららにとって、人生は単に遠大なヒマつぶしである。ただ、興味の方向へと流れてゆき、留まり、また流れてゆく。それでも彼女はさつきに対して親切である。うららは、私にとって親切の概念そのものである。 
 わたしはこういった文章を読むと、うららの存在を『罪と罰』のポルフィーリイ予審判事に重ねてしまう。二人の女を殺害したロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフに向かって、あなたは太陽だとか、ためらわずに命(жизнь=イエスの言う命)へ飛び込みなさいとか言うポルフィーリイは、ロジオンに「いったいあなたは何者なんだ」と問われて、「私はまったくおしまいになってしまった人間です」などと答えているが、しかし彼が彼流のやり方でロジオンを救済しようとしていることは確かである。真秀子の言葉で言えばポルフィーリイはうららと同じように〈死なずに生き続けてゆく、時空を超えたエネルギー体〉であり〈親切の概念そのもの〉なのである。ポルフィーリイを辛辣で鋭利な分析力と直感力を備えた予審判事としてのみ見ていたのでは、彼の『罪と罰』における本来的で神秘的なその役割を認識することはできない。
 真秀子はうららに関してさらに次のように書いている。
 さつきの、本人にもわからない領域にうららは救いを与える。自分の人生に対する諦念や、つみ重ねた様々な体験をどう使えば他人が助かるのかを、他人ができる範囲で知りつくした存在として、自信と理性から来る思いやりをもって、うららはさつきに接する。他人から受け取るものに深い期待をよせることができない分、彼女にとってさつきは、ほんの通りすがりである。そのことを、いやというほど知りつくしていても、うららはさつきに対して親切であるのが自然であり、とめることはできない。あまりにたくさんの時間を持ち、あまりに深い絶望を知っていても、多分その分だけ、人はそうせずにはいられないのではないかと、想像したかった。
 うららは、ポルフィーリイと同時にわたしの内にソーニャを思い出させた。ソーニャはロジオンに大地への接吻、公衆の面前での罪の告白を命じたユロージヴァヤ(宗教奇人=聖痴愚)であり、ロジオンを復活の曙光へと導いたヴィデーニィエ(実体感のある幻)であった。わたしの内でソーニャは、一娼婦に化身して現れた〈キリスト〉でもあるが、まさに〈死なずに生き続けてゆく、時空を超えたエネルギー体〉としてのうららもまた〈ソーニャ=キリスト〉的存在の様相をまとっている。
 真秀子がここで言う、うららのさつきに対する〈親切〉が実に深い思いの果てに出てきているかに注意したい。二十歳を過ぎたぱかりの学生の文章とは思えないほどである。真秀子が想像したうららの〈親切〉こそは、ポルフィーリイのロジオンに対する〈助言〉やソーニャの〈指示〉に通じるものがある。〈人はそうせずにはいられない〉という言葉に、真秀子の前向きな、肯定的な、遠方に虹を見る希望の眼差しを見る。
 真秀子はさらにな書いている。
 さつきは、うららが本当はどういう人で、どこから来て、どこまで行くのかを全く知らないままだが、彼女のまなざしや言葉の端々からその孤独な深さを感じとる。うららはいつも楽しそうに生きているが、その裏にあるものを、さつきは見えるようになったばかりである。恋人を亡くした視点から見た世界に、うららはよく似ていて、その孤独が共鳴するので、さつきはひどく彼女に魅かれてゆく。それ自体が、さつきの生に対する貪欲な本能であり、死におかされた心の中に射しこむかすかな光に食いさがってゆく執念である。そして、うららはそれを知ると、できるかぎりの手助けをいとわない。そして、少女だったさつきはほんの少しだけ成長する。
 うららはさつきの中に潜む生に対する貪欲な本能を直観し、彼女を援助する。さつきの「死におかされた心の中に射しこむかすかな光に食いさがってゆく執念」こそが、さつきの新たな生を準備する。わたしは地震津波原発事故の三重の災難に遭遇して、なお生き残った人々が、諦めと絶望の淵に落ちず、逞しく生きようとしている姿を見ながら、吉本真秀子が卒論に記したこの言葉を反芻している。
 わたしが依頼された「虹」には次のような文章がある。
  潮の匂いのする風がこの小島に吹き始めると、夜は力を増して全てを飲み込み始める。怖くて甘くて、たちうちできない、死に似た深みが海のほうからやってきて沈黙と共に世界を満たし始める。
 「虹」の舞台は地上の楽園とも言われ、ゴーギャンがこよなく愛した南洋の島タヒチであるが、日本列島を震撼させた巨大地震、大津波、それに続く原発事故の危機的な状況下でこの文章を読むと背筋がゾッとする。
 吉本ばななの小説は単にありふれた日常に材を採った表層世界の日常を描いているだけではない。彼女の描く日常の世界には〈死〉という永遠の時間が覆い被さっている。もしこの光景を映像化するのであれば、東北関東沿岸部を襲ったあの巨大な黒い悪魔のような津波をも瞬時に追って、光の波が世界全体を覆い尽くすことになろう。吉本ばななの白、青、光に満ちた小説世界は永遠の時、死の時を内包した生の世界である。
 今、日本列島においては〈死〉が剥き出しのかたちでその冷酷な姿を突きつけている。この、突然襲撃してきた不気味なものは、生き残ったものたちに世界の不条理を見せつけているが、この人間にとっては不条理なことも、大いなる自然の運行の次元ではあるようにある、なるようになる摂理以外のなにものでもない。わたしは被災地を映し
だすテレビ画面を見ながら、「不条理に悲憤をもって乾杯」とつぶやいた。
 吉本ばななの作者の眼差しは高みにたつことはない。現実世界のありふれた日常を生きるふつうの人間の喜怒哀楽に限りなく寄り添っている。「ムーンライトシャドウ」の〈時空を超えたエネルギー体〉である〈うらら〉ですら高い所から垂直的に舞い降りてくるのではない。うららは、さつきの傍らに現れる。うららは、さつきの孤独と哀しみに限りなく寄り添う者として姿を現し、自らの超越性を誇示しない。主人公は幻想やファンタジーの世界へ逃げ込むことはなく、あくまでも地上の世界に足をしっかりと据え置いた上で、彼方に浮かぶ希望の〈虹〉へと眼差しを送る。〈死〉をはらんだ〈生〉の眼差しは決して生きることを諦めない。吉本ばななの作品において希望の〈虹〉が消えることはない。
2011年3月20日〜21日 

吉本ばなな
ーー卒業制作「ムーンライトシャドウ」から「虹」へと貫く希望と終末をめぐってーー
清水 正


 ひとりの小説家が社会的に認知されるということはどういうことか。文学に特別な興味や関心がないものでも吉本ばななという小説家の名前を知らない者はまれであろう。が、わたしにとって吉本ばななは、吉本真秀子という日芸文芸学科の一人の教え子であった。否、単なる一学生ではなく高名な思想家吉本隆明の娘でもあった。今でこそ、ばななの父親が隆明なのか、ということになったが、彼女が文芸学科に在籍していた昭和六十年代頃の吉本隆明は絶大な影響力を持っていた。わたしが学生時代に関わった文学青年の多くは〈共同幻想〉〈対幻想〉などと言った吉本固有の言語をまるで吉本教の信者のように口にしていたものである。そんなこともあって吉本真秀子はまずは隆明の娘としてわたしの脳裡に記憶された。
 わたしが担当する「文芸批評論」はもっぱらドストエフスキーの作品をとりあげているが、真秀子が受講したのは昭和六十年で、記憶によればほとんど出席することはなく、従って教室内での彼女の印象はまったくない。レポートは「貧しき人々」について課題を出したが、その内容も突出していたわけではない。
 わたしが吉本真秀子に注目したのは、彼女が提出した卒業論文・制作である。彼女は小説「ムーンライトシャドウ」と副論文「MAKING OF "MOONLIGHT SHADOW"」を提出し、ゼミ担当の教師の推薦を経て、文芸学科の選考会で学部長賞を授賞した。当時、わたしは「江古田文学」の編集長をしていて、この作品の掲載を考えていたが、その交渉をする間もなく、吉本真秀子は吉本ばななとして文壇に彗星のごとく出現し、みるみるうちに人気小説家として名をなしていった。
 わたしが卒業制作「ムーンライトシャドウ」を最初に読んだときの感想は、一口で言えば〈透明感〉であった。二十歳を過ぎたばかりの若い作者がどうしてこんな悲しい透明感が出せるのか不思議に思ったくらいであった。あれから二十四年の歳月が過ぎたが、今回、鼎書房に依頼されて「虹」を読み、「ムーンライトシャドウ」を読んだ時と同じ感想を抱いた。吉本真秀子が学生時代最後に書いた小説と、「虹」は、まるで名人の釣り竿職人が作った棹のように寸分のちがいなくぴったりとはまった。わたしは吉本ばななの特別の愛読者ではなく、彼女の膨大な作品のほとんどを読んでいないが、二つの作品の同質性を確認して、彼女が一貫して同じテーマを執拗に追い続けていることを確信した。
 「ムーンライトシャドウ」の死と復活のテーマはドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」や宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」に通じるものがあり、わたしは今回、最初の時と同じく一気に読んだ。わたしは吉本真秀子の具体的な愛する者の〈死〉の体験を知らないが、この作品を読む限り、作者はただならぬ愛する者の喪失に立ち会ったという思いが直に伝わってくる。
 〈息子〉イリューシャ少年を失ったスネギリョフ退役二等大尉の狂気じみた悲しみ、カンパネルラの喪失に立ち会ったジョバンニ少年の悲しみ、憤怒、慟哭と通底する何かを感じた。
 人間の悲しみ、怒り、喜びに経験の積み重ねがどれほど影響するものなのか。愛する恋人、妻、子供を失った者の悲しさと、そういった経験のない者の悲しさにどれほどの違いがあるのかは知らない。人間の喜怒哀楽の強さを数量化して示すことはできない。学生だった吉本真秀子に愛する者の喪失があったのかどうかも知らない。ただ、彼女の書いた小説の主人公さつきが恋人の等を事故で失った後の限りない喪失感は直に伝わってくる。
 事故の現場となった〈橋〉はこの世とあの世をつなぐ境界であり、死と再生の秘儀の場所ともなる。小説全編に〈白〉〈青〉の色彩がちりばめられ、深い悲しみが透明化されてしみわたっている。大声をあげての絶叫、怒りや悲しみの噴出があるわけではない。悲しみの感情は押さえ込まれ、ウォーキングという身体運動で、悲しみや怒りの感情は押さえ込まれる。
 悲しみいっぱいのジョバンニ少年に銀河ステーションの声が聞こえてきたように、さつきにもうららという謎の女性が現れ、死んだ等が蘇生する場面を用意する。一歩間違えば、小説のリアリティは即座にアニメ的虚構に転落する。が、吉本真秀子は敢えてその危険な橋を渡った。
 愛する者の喪失、その〈死〉という絶対喪失を、〈復活蘇生〉した姿で現出させることで、どうしようもない悲しみを乗り越え、新たな生をスタートラインに立たせる。主人公を悲しみと絶望の底に突き落としたままですますことはできない。
 吉本真秀子は副論文で「大人になることは、淋しいことだ。幼いころ信じていた幸福はすべてまやかしであり、人生は本当にひとりだけであることを人は知る。しかし、そのまやかしを再び、まやかしではない何かにするために、人はもう1度、努力することができる」と書いている。
 〈努力〉という言葉は、それだけではかなり陳腐な響きを持っているが、吉本真秀子の場合はそうではない。恋人を失ったさつきの〈生に対する貪欲な本能〉〈死におかされた心の中に射しこむかすかな光に食いさがってゆく執念〉をきちんと見据えた上での〈努力〉である。
 この副論文には吉本文学の本質をかいま見させる重要な言葉が散在している。そのすべてを今ここで紹介することはできないので一つだけ引用しておく。
「同じ設定で私はどろどろと落ちてゆく不毛な人々を描くことも、できたかもしれないと思う。その効用も確かにあると感じることもできる。それでも、私は、はうようにして生きている人の中にも、何かがあるということに目を向けたい。それは、人を強くする何かである。もしかしたら、それはとても宗教的なものなのかもしれない」
 わたしは今、林芙美子の『浮雲』論を書き続けているが、この小説の主人公幸田ゆき子と富岡兼吾はまさに「どろどろと落ちてゆく不毛な人々」に属している。しかし、この二人の中にも真秀子の言う〈何か〉はある。
 吉本ばなな林芙美子の小説の違いは、人物の描き方にある。芙美子は人物が抱え込んでいる闇の領域に容赦なく踏み込んでいくが、ばななはその闇の領域に敢えて踏み込んでかき回すような描き方はしない。
 人間をどこまでもリアルに追い続けていけば〈どろどろ〉は避けられない。真秀子が描いたさつきの視線は、闇の領域をどこまでも追っていく垂直的なまなざしでもないし、天空を仰ぎみるまなざしでもない。さつきは恋人を失った悲しみを紛らわす方法としてジョギングを選んだ。
 ジョギングする者のまなざしは水平的に遠くを見るまなざしであり、下方に対しても上方に対しても水平的な緩やかなカーブをともなったまなざしである。このまなざしにとらえられるのが蘇生した等である。
 吉本真秀子は副論文の最初に「私が、小説を書くということを始めてから最も深い影響を受けた作家は、スティーヴン・キングである」と書いているが、わたしは「ムーンライトシャドウ」を読んでドストエフスキーの『罪と罰』や宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を想い浮かべていた。
 さつきの前にとつぜん現れるうららは、シベリアに流刑されたロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフの傍らにとつぜん現れるソーニャや、ジョバンニ少年が乗り込んだ銀河鉄道の列車にとつぜん姿を現したカムパネルラを想起させる。
 ロジオンは早朝、丸太に腰掛けてイルティシュ川の向こう岸を眺めている。朝陽が川面にキラキラと輝いている。とつぜん、緑色のショールをかぶったソーニャが現れる。ある何か得体のしれないものがロジオンのからだに襲いかかり、彼はソーニャの前にひれ伏す。
 作者はロジオンが復活の曙光に輝いた瞬間を描いて『罪と罰』という小説の幕を降ろした。カムパネルラはコールサック(石炭袋)を指さし、そこにみんなが集まっている本当の天上世界があると言う。ジョバンニはいくら眼を見開いても真っ黒な闇の穴しか見ることができない。
 さつきの前に現出したうららは、等の復活蘇生を予告するような暗示的な言葉をささやく。読者は等の〈復活〉に期待を寄せながら小説を読みすすめることになる。吉本真秀子はどのようなかたちで等の〈復活〉を描くのか、それともそれは何の根拠もない妄想ごとなのか。
 作者はいわば自分の作品展開に関しては神的絶対者の立場にあるから、どのようにでも描くことができる。真秀子は絶望と諦念ではなく希望の方へと眼差しを定める。真秀子は垂直的に地獄へ落下することも、垂直的に天上の神への信仰を獲得することもない。
 さつきが見ているのは水平的な眼差しがとらえた等の〈復活〉であり、それは自らが新たに生きるための優しい断念でもある。〈虹〉はこちらから見られた二点を繋ぐ架け橋であり、こちらとあちらを繋ぐ架け橋ではない。愛する者とのかけがえのない体験を、こちらとあちらの関係でとらえている限り、新しいひととの、新しい第一歩を踏み出すことはできない。
 さつきは等との関係を遠方の空に浮かぶ虹の架け橋に置き換えることで自らの再生をはかった。うららはそのさつきの〈再生〉を促すもの、真秀子の言葉で言えば「死なずに生き続けてゆく、時空を超えたエネルギー体」として現れた存在で、役目が終わればさっさと舞台から姿を消す。
 今回依頼された「虹」を読んで、この作品が卒論制作の「ムーンライトシャドウ」のテーマとまったく同一であることを確認した。ドストエフスキーは一貫して神の存在を悩ましく問い続け、宮沢賢治は地上世界での万人の幸福の実現を願い続けた。
 吉本ばななは、一貫して〈虹〉に象徴される〈希望〉をテーマにして、日常を生きる人間の諸相を描いている。深淵に落下することなく、天上世界に飛翔することもなく、地に足をつけて生きている者たちのささやかな喜怒哀楽を透明感あふれる光景のうちに描きだしている。
 吉本ばななの文章は、油絵のような厚みもギタギタもない。どちらかと言えば水彩画のような軽いタッチで人間を描いている。敢えて深く踏み込まず、サラッと描いているにもかかわらず、主人公が見る〈虹〉が確固とした希望として読者に伝わってくるのは、吉本ばななの内に〈うらら〉が存在し続けていることの証であろう。
 ドストエフスキーは十七歳の時に兄のミハイルに宛て「人間は神秘である。その神秘を解き明かすために一生を費やすことに悔いはない」と書いた。
 吉本ばななは副論文で次のように書いている。
  私は、自分が普通の日常を大切にしながら女性として明るく楽しく美しく、気楽に淡々と生きてゆきたいと常に思っている。それは幼い頃から今に至るまで少しも変わっていない欲求や目標である。
  しかし、そのことと全く同時に私は、人間であることのつらさから救われたいと常に願っている。そのためには、どんなつらい努力をしてもいいと思う。それは、全く別の2つの流れとして私の中にある。それがあまりにちがいすぎて、緊張をゆるめるものがない苦しさが、私に文章をかかせているのかもしれない。 
 書き続けることが生きる証であるようなひとを作家と言うのであれば、吉本ばななもまた間違いなく一人の作家ということになる。人間は希望なくしては生きていくことはできない。逆説的な言い方をすれば、希望なくしては絶望することすらできない。吉本ばななはこれからもずっと〈虹〉を描き続けていくのであろう。
 わたしにとって吉本ばななは、小説家ばななである前に、日芸文芸学科に在籍した一学生真秀子であり、「ムーンライトシャドウ」を卒業制作として提出し、優秀作品として推薦され、学部長賞を受賞した学生であった。はっきり言ってそれ以上でも以下でもない。が、その作品を江古田文学に掲載できなかったことに関しては悔いが残った。今回、依頼があった作品「虹」を読んで、ばなな作品に改めて興味を抱いた。「虹」もまた「どろどろと落ちてゆく不毛な人々」を描いていない。おそらくばななの作品群はどこを切っても金太郎の顔が出てくる棒飴のように、どの作品にも〈虹〉という顔が出てくるのであろう。
 天性的な資質もあるのだろうが、ばななの作品に漂う透明感はただならぬものがある。実はこの「吉本ばなな」論を書いている最中に池袋で大地震に襲われた。宇宙に人工衛星を飛ばせても、現代の科学は正確に地震を予知することができない。たまたま東京のビル群は崩落を免れ、わたしも一命を落とすことはなかったが、しかし命が死と隣り合わせにあることを強く感じさせられた瞬間であった。
 ばななの作品は、不断に〈死〉を抱え込んだ〈生〉を描いている。つかの間の生の時間に死の永遠の時が流れ込んでいる。東北太平洋沿岸を襲った巨大な津波はたちまちのうちに船、車、家を呑み込み、町全体が廃墟に化してしまった。真っ黒な津波の先端はまさに悪魔の巨大な舌先にも見えた。
 わたしはテレビで津波が襲撃する凄まじい場面を見ながら、そこにばななの透明な〈死〉がなだれ込む場面を重ねていた。ばななの作品では〈死〉は黒い巨大な塊となって襲撃することはない。〈生〉の岸辺に〈死〉は果てしのない広大さで包み込んでくる。ばななの小説世界は、広大な死に覆われているからこそ、青く、白く、優しく輝いている。「ムーンライトシャドウ」で言えば、かけがえのない恋人を喪ったさつきの傍らにはいつも永遠の時を象徴するうららが存在しているようなものである。
 「虹」の依頼を受け取った時、わたしは宮内勝典の『魔王』を読み終わり、山城むつみの『ドストエフスキー』を読んでいた。時は卒業論文面接を控えて十五本の作品を読んで講評を書かなければならなかった。学生が春休みの期間、大学の教師は複数会の入試と諸会議に追われることになる。文芸学科の学生たちは将来、小説家や編集者になることを望んでいるから、彼らの書く小説はそれなりに読ませるものが多い。書き続けられるチャンスが与えられ、経済的に保証があれば、社会的にも認知されるであろう可能性を備えた者も決して稀ではない。
 わたしは今回、そんなことも考えながら吉本真秀子の卒業作品を読んだのだが、ひとつだけはっきりしたことは、真秀子の作品に誤字脱字がなかったことである。どんなに読ませる小説や論文であっても何カ所かは必ず誤字脱字は存在する。が、真秀子の作品にはそれがなかった。これは、真秀子が自分の作品を何回も読み直して予め訂正しつくしていることを意味する。自分の作品を大切にし、読み手のことを考えている結果である。こんなことは審査にかかる卒業制作を提出するにあたってあまりにも当然のことなのだが、この当然のことがなかなかできていないのが現状である。わたしは改めて吉本真秀子がその当たり前のことをきちんとしていることに感動した。
 今、否、いつの時代にあっても小説や芸術作品を客観的に評価する絶対的な基準などはない。わたしは小説を読むときに、心に残る、心に突き刺さってくるような文章や場面がどれほどあるかを評価の基準にしている。この基準ですら相対的なものでしかないが、わたしがわたしとして、わたしの魂に響いてくるものを評価の外に置くことはできない。
 次に「虹」の中でわたしの心に響いた言葉をいくつか引用したい。

  私には、自然な時間の流れに乗っていない、都会人のあわてた、欲深い行動、何もかもが有償であることがとても理解できなかった。
  波音がくりかえし耳に響いていた。鳥が空を越えて帰っていく。
 そこに住んでいる家族が「これからもずっと住んでいこう」と思っているあのなれあった、鳥の巣のように汚れてこんもりと暖かい、すっかりだらりとした気楽なものが、そこにはどうしても感じられなかった。
 まるで孤児のようにただ建っていて、ずっと誰かを待っているような感じだった。寂しい家はそこにいる人をただわけもなく寂しくさせる。
 簡単に犬や猫を捨てるという考え方は、ずっと動物を飼ってきた私にとってどうしてもなじめないものだった。それならまだ、夫以外の人の子供を宿す感情のほうを理解できるように思えた。
 彼の目には、まるで植物を見る時の私の目のように穏やかな表情が浮かんでいた。放っておいても大丈夫なものを優しい気持ちで見る時の目だった。
  黒い足、白いエイ。天高く響き渡るかもめの声。寄せては返す透明な水。遠くの空にははけでさっと描いたような白い雲が薄く広がり、光は刻一刻と強くなっていた。餌付けの女性はきれいな布でできたスカートをたくしあげ、きれいなふくらはぎを見せながら、水の中をゆっくりと歩いていた。たまにまぶしそうに手をかざして青い空を見上げた。
 明日もなく、将来もない、今日だけがあるそういう暮らしだった。
  そういう単純な暮らしこそが、私の夢見る暮らしだった。
  昔、家族で 紀州の海沿いをずっと走っていた時のことだった。あの時、午後の港町をいくつか通過し、その明るさと静けさに驚いたものだった。物理的に静かなだけでなく、もうひとつの時間がかぶさっているようだった。古代から続く、大地と海が隠し持っている雄大な時間の流れ……。
  ところがその沈黙は、少しもいやな沈黙ではなかった。空気の中に時間の粒がきらきらと光るのが見えるような、そんなおいしい空気を思い切り吸い込んで肺の中が美しいものに満たされているような、そういう味のする豊かな沈黙だった。
  バーには巨大な流木がたくさん飾られていて、その奇妙に丸く折れ曲がった様子に流木たちの長い旅を感じた。
  潮の匂いのする風がこの小島に吹き始めると、夜は力を増して全てを飲み込み始める。怖くて甘くて、たちうちできない、死に似た深みが海のほうからやってきて沈黙と共に世界を満たし始める。
  そう、深刻な気持ちさえ、この島ではいつでもそう長く持っていられなかった。何か深く考え込んでいることができなかった。ここでの毎日はその日のことで精一杯だった。熱すぎて、陽射しが強すぎて、まぶしすぎて、考えは立ち止まってしまう。夜は深すぎて、暗すぎて、風が強すぎて同じことだった。
 真っ暗な闇を抱えた夜が小さな浜にずどんと落ちてきても、私はたいていずっと中立の気持ちのままだったった。すごく明るくもなければ、暗くもない、今現在しか存在しない、心が麻痺している状態だった。
  すごいなあ、この緑と花の勢いは。そんなことを思っている場合ではないのはよくわかっているのに、とりつかれたかのようにそんなことばかり私は考えた。月明かりの下でも激しく生きている。海の中には気味の悪いくらい無数の生命がひそんでいて、夜の中でやはりうごめいている。人間なんてそういうものに取り囲まれてごちゃごちゃ何かしているだけだ、そう思えるくらい、この島では自然の勢いがちゃんとものを
言っていた。
  私は面倒なことが嫌いで、そして本当は情にもろい自分を律してただ仕事にうちこんできたことだけを支えに生きてきていて、いつでも面倒なことになると自分の心をしっかりと閉ざして、見えないふりをしてきた。
 お互いの体の匂いを知っていて、毎日のリズムを知っていて、肌でわかりあっていて、無頓着な……そういう人のいる空間に身をひたしたかった。
 私は動物を人間の都合でずさんに扱うのも、夫婦のもめ事を見せつけられるのも、血の通っていない形だけの家庭をきれいに掃除するのも、尊敬するご主人様の子供ではない赤ん坊を世話するのも、とてもいやだった。
  ステレオからは世にも悲しい音楽が流れていた。はりさけるようなボーカルと、美しいギターの音色と、絶望を描いた曲調と。それらは曇った窓に水がどんどん流れて外の景色が虹色に見える様子に奇妙に似合っていて、胸をしめつけられた。
 「人は、幸せになる権利がある、違いますか? 人生はすごく大変だし、面白くないこともたくさんある、でも何か高くてきれいなものを見ている権利は誰にでもある、そう思いませんか? ましてこんなに複雑に変になってしまった自分の世界を、もう一度シンプルなものに戻したいと思って、いけないのだろうか。」
 「私は、ずっと自分の人生を単純にすることに心をずいぶんとくだいてきたのです。私は、巻き込まれるのはいやです。夫婦の問題に。」
 「そりゃあ、そうですよね……。よくわかりました。」
  ご主人様は言った。音楽は終わり、雨音だけが車の中に入ってくるかのように響いていた。彼はじっと黙って、傷ついた心を抱え込んでいた。まるでさかりのついた猫のように、彼の全身から、私に対するどうしようもない、行き場のない欲望がにじみ出ていた。苦しげに彼は沈黙していた。
  痛いくらいに強い力で、私の手を押さえ体を押さえつけるご主人様の重い体の感触を、私はなぜかどこかで知っていた。(中略)彼の心臓の鼓動が私の耳に響いていた。ああ、同じだ、猫も犬も人間も、みんなひとつの心臓を持って生まれてきて、毎日を精一杯生きているだけだ、なのになぜ、人間だけがこんなにややこしくなってしまうんだろう……抵抗を続けながら私は思った。
 私のま下着の中に入ってきた彼の手の感じは、まるで割れそうな卵をなでるように、手の中に小さな虫を持ってそっと歩いている人のように優しく柔らかく、何かとても大切に思い畏れるものに触る時の感じだったからだ。
 彼の指の柔らかい動きに応えて私が濡れているのを知った時、彼は驚いて私の顔を初めて見た。とてもきれいな目だった。欲望に汚れていない目だった。
ひとはどのように小説を読むのか。「ムーンライトシャドウ」は日芸の教師として、学部長賞の候補作品の一つとして読んだ。「虹」は鼎書房の現代女性作家読本シリーズの第二期の一冊『よしもとばなな』の刊行企画のために依頼されたことで読むことになった。鼎書房が依頼状を送付したのは記された日付によれば平成22年11月30日、わたしがそれを大学で受け取ったのは12月2日である。11月29日に宮内勝典の『魔王』を読み終え、30日にブログに感想を書いた。依頼状が届いた12月2日に文芸学科の資料室から幻冬舎文庫の『虹』を借りだし、その日の夜に読み終えた。3日から山城むつみの『ドストエフスキー』を読みはじめた。
 時は年度末試験を控えて担当科目「文芸批評論」「文芸特殊研究Ⅱ」「マンガ論」「雑誌研究」「文芸研究」のレポートが続々と送付されてくる。担当する一年と三年のゼミ雑誌、顧問を務める自動車部の雑誌、「雑誌研究」の機関誌「日野日出志研究」の編集などで時間がとられる。一月に入ると卒業論文の講評・面接審査、優秀論文審査、大学院修士論文の講評などが続き、その間、数回に渡る入試と諸々の会議(執行部会・学部運営協議会・入試委員会・人事委員会・図書館長会議・図書委員会)がある。主宰するD文学研究会から今年二月に刊行した下原敏彦・康子共著の『ドストエフスキーを読みつづけて』の編集や印刷所との打ち合わせ、林芙美子の『浮雲』論の執筆と拙著『林芙美子屋久島』の執筆、編集、装丁と印刷所担当者との度重なる交渉がある。このほかに種々の展示会を訪れたり、ブログ記事などを書いて時が過ぎていく。
 こういった時を過ごしながら、わたしは『虹』を読み終えたその時に、今回、何を書くかのおおまかな構想を得ていた。
 宮内勝典の『魔王』の最後の場面は「筏が遠く消えてゆく水平線から、熱雲のようにキノコ雲がいっせいに湧きたってくる」である。
 今年三月十一日午後二時過ぎ、突然、東北関東地方を巨大地震が襲った。太平洋沿岸部を襲撃した大津波福島原発は機能を麻痺、不気味な爆発を繰り返し、放射能を日本列島上空にまき散らしている。
 吉本ばななは『虹』の中で「潮の匂いのする風がこの小島に吹き始めると、夜は力を増して全てを飲み込み始める。怖くて甘くて、たちうちできない、死に似た深みが海のほうからやってきて沈黙と共に世界を満たし始める」と書いている。
 この小説の舞台はタヒチだが、福島原発事故後の今の時点でこの文章を読むと、ゾッとするほどのリアリテイがある。『魔王』の〈キノコ雲〉、『虹』の〈死に似た深み〉、東北関東を襲撃した地震津波、それらに続く原発事故、何か不気味なほどの符号を感じる。
 三月十一日夜、原発事故を報ずるテレビ中継カメラが何度も繰り返し映し出した福島原発〈6〉号基の、その〈6〉が何か不気味なことを予告しているようにも感じた。
 昨日、被災地を報道するテレビを見ながら、ふと「世界の不条理に対して悲憤を込めて乾杯」という言葉が脳裡をよぎった。
 吉本ばななは『虹』の最後を次のように書いている。
 「これはきっと吉兆だ、できすぎているくらいに吉兆だ、この光景を目にやきつけて、あとはもう何も見ないで、ただ自然のままに」と私は祈るように思い、ただただいつまでも、その小さく確かに輝く虹を見上げていた。
 『魔王』の最終場面は世界終末の幻視的光景に見える。地上の楽園タヒチは永遠の時、死の時に包まれている。〈キノコ曇〉と〈輝く虹〉を重ねて視ながら、わたしは幸田ゆき子が死んだ後に富岡兼吾が見上げる〈浮雲〉をながめる。
 平成23年3月19日(土曜)五時六分完了。
(この「吉本ばなな論」を四百字詰め原稿用紙九枚にまとめたのが鼎書房の本『よしもとばなな』に収録されている)

 

林真理子「最終便に間に合えば」を読む
清水正


 日藝文芸学科出身の三大女流作家に林真理子群ようこよしもとばなながいる。三人共に、今やそれぞれ日本を代表する作家に育っていて、その影響力も大きい。
 林真理子の『ルンルンを買っておうちに帰ろう』がベストセラーになり、「最終便に間に合えば」(1984年7月号「オール讀物」)が直木賞を受賞した頃、文芸学科受験生の大半が面接で「林真理子のような小説家になりたい」と受験志望動機を語っていた。それほど林真理子は一世を風靡した売れっ子だった。
 ところで当方は、学生時代から小説家と言えばドストエフスキーで、彼以外の小説を本気で読んだことはない。ゼミで読んだアルベール・カミュが唯一の例外で、それもドストエフスキーとの関連で読んだ。三十歳を過ぎてようやくトルストイチェーホフも読めるようになり、今では読もうと思えばどんなものでも読めるが、ただし時間がない。
 今、私が最も力を入れて読んでいるのが林芙美子で、彼女の代表作『浮雲』を批評し始めて、今年でなんと七年目に入った。林真理子は大学の四年後輩で気にかかってはいたが、作品を読む機会はなかった。わたしは大学に残ったばかりの頃、学科事務室の奥に衝立をたて、そこに閉じこもってドストエフスキーを読んでいた。そんなわけで学生時代の林真理子と言葉を交わすことはなかった。
 林真理子と挨拶程度の言葉を初めて交わしたのは、彼女が芸術祭にゲストとして日藝を訪れたときである。三十年も前のことだが、その時の彼女の印象は忘れがたい。売れっ子らしく、若い二人の担当編集者と来ていたが、この二人がまるで生気を失った石像のようであった。当の林真理子もまた異様に静かで、眼が余りにも寂しかった。以来、わたしは林真理子と言えば、その時の寂しい眼がまざまざと浮かんでくる。この寂しい、孤独な眼はいったい何を見ていたのだろうか。
 「最終便に間に合えば」というタイトルは曰くありげだ。中身を読まずにタイトルだけを眺めていても、読む者のうちにさまざまな物語が生まれてくる。最終便に間に合えば、どうしたっていうの。最終便に間に合わなければどうなったの。最終便っていったいなんなの。次々に疑問がわいてくるという意味でも、このタイトルは挑発的だ。読者の心を挑発し、興味を抱かせ、購買力をそそらせる。林真理子が小説家になる前にコピー修行していたことも大きく影響していただろう。
 このタイトルで読者は予めそれぞれの物語を心の内に作り出す。それは必ずしも明確な像やストーリーを持つ必要はない。自分の人生体験や恋愛体験に重ねながら、小説「最終便に間に合えば」を読み継いでいく。謂わば、この小説は双方向性をしっかりと全面に打ち出している対話的小説と言えるかもしれない。
 「最終便に間に合えば」は「オール讀物」に掲載された。日本近現代の小説は批評・研究の対象となりやすい。ましてや評価が定着した小説家の場合は多くの研究者が様々な視点からのアプローチを惜しみなく展開する。〈読物〉となると、一過性の消費物のような印象があり、読む間だけ読者に楽しんでいただければいい、ということになる。エンターティナーとしての読物作家が第一に心がける事が、なるべく多くの読者に楽しんでもらうということであれば、〈読物〉はそもそも時代を越えて読み継がれていく永遠性を求めなくてもいいということになる。発表時にどれだけ多くの読者を獲得できるか、これが至上命令として読物作家(および担当編集者)にのしかかってくることになる。
 さて「最終便に間に合えば」はどうか。この作品が発表されたのは1984年であるから、すでに30年の齢を重ねたことになる。最後まで一気に読ませる筋展開で、直木賞受賞に値するプロの技を感じた。男と女の別れと再会のドラマを、時間(過去と現在)を巧みに交錯させながら、フィナーレまで持って行く。高みに昇らず、深みに踏み込まない。純文学が目指す垂直的なまなざしは見事に封印され、そんなことを目指すのはまだまだお若いというように題材が処理されている。恋愛物をいかに手際よくおいしく料理し、食してもらうか。そのための常套がある。お互いの心理に深入りしないこと、あいまいなものはあいまいなままに処理して、心理分析官のような心理解剖に手をそめないこと。零(厚みのないゼロ)の表層をスケーティングして物語を構築できれば、それは間違いなく言葉の魔術師・天才であるが、大衆小説とか中間小説の範疇に属する読物においてはほどほどの厚みをもった表層リンクを巧みにすべって見せなければならない。無様に転んでもいけないが、金メダリスト級のスケーティングを披露する必要もない。
 美登里も相手役の長原も特別な存在である必要はない。乱暴な言い方を承知で言えば、こういった女や男はどこにでもいる。野心も欲望もあり、プライドも高いが、それでいて男を見る目がない。描かれた限りでの長原は、男気のまったくない、しみったれた男で、何の魅力も感じない。二人の関係を成立させているのは肉と肉の繋がりだけである。男をその姿態や顔つきだけで評価する気ぐらいの高い薄っぺらな女がいる。そういった女が相手に求めるのは肉の悦楽だけで、別に精神的な次元での繋がりを望んだりはしていない。
 百枚に満たない中編小説で何もかも描くことはできない。当然、描く場面は限定される。読者は美登里と長原の経歴を知らない。二人がどこで出会い、お互いどう思っていたのか、その内的な関係のほとんどを知らない。話は、七年前に別れた男長原と札幌のレストランで食事している場面から始まる。

  その疑いは、男がサラダに手をつけ始めた時からすでに生じていた。
  男が生野菜をあんなふうにゆっくり食べることは、まずありえない。たとえそれがフォアグラ入りの贅沢なものだったとしても。

 恋愛映画の一シーンのようだ。カメラは美登里の眼に張り付いている。〈その疑い〉の眼によってとらえられた、男が生野菜をゆっくりと口にする場面で、いわゆる神の視点から公平にとらえられた客観的な食事場面ではない。この光景は男の真ん前に座った女の眼差しで捕らえられたもの、謂わば女の主観の色で染められた光景である。

  ねっとりと臙脂色に光る肉片をたったひと切れ残すと、長原はフォークとナイフを十字に組んだ。ゆっくりとグラスを口に近づける。それはフォアグラの舌に残る味を、赤ワインで混ぜ合わそうとする動作に傍目には見えたかもしれないが、美登里にはこのうえなく不自然な行為に思えた。彼女が知っている限り、長原はこれほど優雅にものを食べる男ではないのだ。

 ここで長原は、あくまでも美登里の視点から捕らえられおり、長原自身の内的世界にはまったく照明が与えられていない。読者はすでに美登里の視点に合わせて、つまり美登里の側に立ってこの場面を見ている。この読物は形式上は三人称小説の体裁を採っているが、美登里を〈私〉に変えて読むことができる。極端な事を言えば、長原は美登里の眼差しによってモノ化された存在に貶められており、美登里の〈主観〉の檻の中から最後まで解放されていない。長原は、美登里の演出に従順に従うペットのような存在として扱われ、美登里の〈主観〉に決定的な打撃を与える他者として登場していない。謂わば、長原は美登里の〈主観〉が構成した予定調和的な人物としての役割だけを付与された人物であり、その設定自体で長原はすでに充分美登里によって復讐されていたと言えよう。
 作者は美登里の〈主観〉に加担して、溜飲を下げていると言ってもいい。作者は、長原を美登里の〈主観〉から解放し、長原自身の存在を浮き彫りにしていく視点を獲得しているとは言えない。その意味で、長原は美登里の〈主観〉で捕らえられた役柄を忠実に果たしているのみで、彼自身は初めから自由な存在であったとも言えよう。美登里の〈主観〉に乗じて、この作品を読み終えた女性読者の大半が、美登里と同様の小気味よい復讐心を満足させたとしても、やはり長原は自由な存在として妻の待つ家へと帰って行ったことも確かなのである。この観点から見れば、長原がゆっくりと味わいながら口にした〈ねっとりと臙脂色に光る肉片〉とは、七年ぶりに会った美登里の〈肉片〉そのものだったとも言えるのである。美登里の〈主観〉で染められた長原の食事場面を、その〈主観〉から解放された視点で眺めれば、まったく違った光景としても映し出されるのである。
 美登里が長原と付き合っていた七年前は〈普通のOL〉、今は造花の人気クリエイターとしてマスコミでもてはやされている。美登里が成功した理由の一つは、上書きのセンスが抜群だったことと人と運に恵まれたことであろう。美登里は、外交官の未亡人が開発した〈鳥の羽と粘土を組み合わせてつくる造花〉に〈ファイン・フラワー〉という新しい名前をつけ、着色に工夫を凝らした。この造花に注目したのが〈新しがりやの雑誌〉記者で、その〈グラビア記事〉を見たテレビのプロデューサーがショー番組の背景に美登里のアレンジした造花を毎週使うようになった。波に乗った美登里は、いつの間にかワイドショーのコーナーを受け持つようになる。
 美登里はマスコミが要請してくる〈サクセスストーリー〉に何の抵抗もなく乗っていく。美登里は〈時代を読む目〉と〈文章を書く小才〉を存分に生かしてマスコミの寵児となっていく。美登里には時流に逆行して行く自我意識もこだわりもない。なにしろ、垂直軸がないのだから、文章を書く〈小才〉は瞬時に〈商才〉と結託する。目的は、何をするかではなく、どのようにすれば自己顕示欲を充足させるかにある。その目的を達するためには、「編集者がさんざん手を加え」ても、決して我慢できない屈辱ではないのである。限られた期間内にどれだけ多くのひとに読まれ、流通していくかが大衆小説や読物に求められており、それに失敗すれば担当編集者はもとより出版社の存亡にも関わることになる。営利目的の出版社はそれこそ必死で売れっ子作家の発掘と養成に励むことになる。経営を第一に考えれば文学上のきれいごとなど言っている暇はない。美登里はまさにそういったマスコミ要請の流れに身を任せることによって成功を勝ち得たのである。
 美登里のうちにマスコミの寵児になったことの後悔や忸怩たる思いはない。美登里は成功者としての貌を臆面もなくさらすことに、むしろ誇らしげな思いを抱いている。特に長原に対してはその思いが強い。長原は広告代理店の社員であり、マスコミの寵児になった美登里をまぶしい思いで見ている。要するに、この二人は同じ穴のむじなであるから、仕事上でも嫉妬、嫉み、僻みが生じやすい仲であったと言っていい。性別、年齢の違いを越えて、二人はいつでもライバル関係に陥りやすい。最初の食事場面のフランス料理のフォアグラやワインに端的に表出していたように、美登里と長原の価値観は共通しているのである。彼らは金、地位、身分とかを最上に置く価値観に支配されており、そんなものを歯牙にもかけない者にとってはどうでもいいことなのだが、しかしこの世を生きる大半の者たちにとっては、彼らの価値観の範疇からのがれることはきわめて難しいだろう。いい大学、いい会社を目指して子供の頃から勉強させられてきた者にとって、ひとより旨いものを食べ、高級な衣服を身にまとい、多くのひとの羨望の的になるような地位、権力、名声を獲得すること、これを完璧に否定できる者はごく稀であろう。
 美登里は自らの自己顕示欲、虚勢、見栄を恥じることなく存分に、あるいは慎ましさを装って発揮しているが、これを非難できる現代人はおそらくいないだろう。あらゆる欲望から解放された人間を私は見たことがない。生きてあること自体がすでに〈生きる〉欲望の中にあることを証している。美登里はその意味で、現代女性が望んでいる理想的な成功者であり、羨望の対象とすらなっている。長原は、こういった女性たちに鉄拳を食らわす力も価値観も持っていないロクデナシであるが、さらにどうしようもないのは長原自身がそのことに気づいていないということである。せめて美登里が抱えている虚無ぐらいは軽いタッチで包み込む男であってほしいが、彼は七年前に別れた女の乳房やわき腹を人差し指でなで回すぐらいのことしかできない。この指は美登里の悲しみや苦しみの髄に触れることはできない。
 美登里が長原に会って見ようと決心したのは、作者によれば「別れた、といえば聞こえはいいが、結局のところ自分に対して強い所有欲を持たなかった男に対して、はるかに美味になった自分を見せたかった」という「美登里の女らしい自己顕示による」ということになる。作者は美登里に寄り添って彼女の内面を表出する機能を果たしている。美登里の意識や心情は直接的に吐露されたり、また作者によって批評的に捕らえ直されたりする。が、作者の美登里に対する客観的な〈批評〉は美登里の自意識の次元を超えるものではない。その意味で作者は主人公美登里と一体化した役割しか果たしていない。この読物に第三者的な批評の機能を発揮する人物は登場しない。美登里の自己顕示の虚妄を根底から覆す眼差しはどこにもない。そのことが作者とこの読物の読者に、一種の自己満足と安らぎを与えることになる。
 美登里にとって長原との関係は〈愛〉に基づくものではない。少なくともソーニャとロジオンを結びつけた愛、コゼットに寄せたマリユスの純愛、あるいはコゼットに向けられた途方もなく深く潜行したジャン・ヴァルジャンの愛とは違う。愛は無償の行為で自己犠牲を伴うものだが、美登里と長原の場合は、愛というよりは、セックス絡みの〈かけひき〉〈とりひき〉、それもずいぶんとせこい次元でのそれでしかない。
 美登里は長原のどこに牽かれたのか。

  きつすぎるほど整った顎の線が昔から好きだった。(21)

  七年前、美登里は二十四歳だった。もちろん、長原が初めての男だったわけではない。短大時代、なかば好奇心から関係をもった男もいたし、自分では大恋愛をしていたと胸をはりたいような男もいた。けれども回数を重ねたという点で長原にかなう男はいなかったし、「快感」というものも、美登里は長原からあたえてもらったはずだ。(26)

  美登里は嬉しさと照れで、長原の肩に歯をたてる。長原は男にしては信じられないほど肌が美しかった。浅黒くひきしまった腹はなめらかで、触れると絹織物のようにかすかにゆれた。
  そしてその織物はいつのまにか美登里の上におおいかぶさり、激しい動きを見せるのだ。
  この世にこれほど素晴らしい男がいるのが信じられないような気がした。しかもその男は自分を愛してくれていて、その体の一部と、自分のからだの一部は完璧に合致する。(27~28)
 
 ここに引用した箇所で、美登里が長原に牽かれた理由は出尽くしている。美登里は長原の顔や体、セックスに魅力を感じていたのであって、長原に精神的なものをいっさい求めていない。性愛で結びついた男と女が、お互いに充足し合っていれば破綻を迎えることはない。では、なぜ美登里と長原は別れることになったのか。長原は空港に向かう車中で、美登里に「君は僕という男に見切りをつけて去っていった」と言い、美登里は心の中で「長原とのいさかいの原因は、ほとんど金か食べ物がからんでいた」と思う。美登里は七年前の〈金〉と〈食べ物〉に絡む出来事を思い出す。この過去の出来事がきわめてリアルで読み応えがある。「細部に神は宿る」ではないが、女の本音は金と食べ物に宿っている。金と食べ物に纏わる確執は性愛の絆にさえひび割れを生じさせるのである。
 作者はフラッシュバックの手法を駆使して〈現在〉と〈過去〉の金と食べ物に纏わる出来事を巧みに描き出す。長原は七年ぶりに再会した美登里にフランス料理をごちそうする。が、美登里は長原が払った勘定のことが気になって、車に乗り込むとすぐに「お勘定、どうなっているの。私、悪いわ」と口に出す。長原はふうっと笑ったように「そんなこと」と言った後、「オレだって一応勤めてるんだぜ。有名人にご馳走するぐらいできますよ」と続ける。美登里は「そう、ご馳走さま」と返す。その直後、作者は美登里の内面に寄り添いながら七年前の出来事へとフラッシュバックする。

  国産ではないワインを、赤と白、一本ずつ空けている。そう安い値段ではないはずだ。会社の金で落とすのだろうか。実は食事の間中、どうタイミングよく金を出そうかと、美登里はそればかりを考えていたのだ。すばやくクレジットカードを店の者に渡そうか、それとも長原が席を立ったついでにレジへ行こうか。男と食事をして、どう金を払うかを悩んだのは、最近ない経験だった。そして七年前、長原とつき合っていた頃も、そんなことを考えなかった。なぜなら長原は、どんな時でも金は美登里が出すものとはなから決めていたからだ。あの時食べていたものは、もちろんフランス料理ではない。定食屋の、魚と煮びたしのセット、スパゲティの上にハンバーグをのせたもの、タンメンに八宝菜。そしてなじみのスナックで飲んだ安酒。
  一度だけ美登里は尋ねたことがある。
 「ねえ、あなた女に払わせるの恥ずかしくないの」
 「別に」
  長原はわざとらしいほど目をしばたたかせて言った。
 「オレは金がある方が払うのはあたり前だと思ってるからね。ぜーんぜん恥ずかしいと思っていない」
  けれども長原がそれほど磊落なタイプでないことは、よく知っていた。
  その頃、全く売れない業界誌の編集部に勤めていた長原は、神経質すぎるほど自意識の強い男だった。(19~20)


 七年前、美登里は〈普通の会社の、普通のOL〉で、給料は十万五千円、家賃が二万八千円、積み立て定期が二万円で、長原と比べて〈金がある方〉ではない。問題は、長原にその認識がなかったことだ。自分が付き合っている女の経済状態も知らないで、金を出させていたのは余りにも無神経である。否、長原は美登里の生活の実態をよく知っていた上で甘えていたのかもしれないし、美登里がそのようにさせてしまったのかもしれない。いずれにせよ、〈全く売れない業界誌の編集部〉に勤めていた長原に余裕の金があるはずもなく、飲食代の支払いに関しては美登里に依存するほかはなかったのであろう。美登里は要するに、こういった男に惚れていたのであり、長原がヒモに徹して美登里を性的に満足させていれば別れることもなかったかもしれない。美登里にとって、初めてエクスタシーを与えてくれた自分好みの長原との性的関係は何よりも優先していたのであるから。

  男に抱かれた後で、その男のためにものをつくるという作業は、わずらわしさと同時に結婚への甘い予感もある。そして、男の常として、長原は女のそういうあつかましさを何より嫌っていた。自分のアパートの寝室へ誘い入れても、キッチンに立つことは許さなかった。(28~29)

 さりげなく書かれているが、この叙述だけを見ても、長原が美登里と結婚する気がなかったことは明白である。長原にとって美登里は、要するにただで性的欲望を満足させることのできる女であったに過ぎない。
 美登里は性的悦楽を与えてもらった後、長原に頼まれてスナックに出かけることになる。腹を空かした長原が、アパートから歩いて五分ばかりのところにあるスナックのママにおにぎりをつくってもらってきてくれと頼んだからである。作者は美登里がお使いに出かける直前の場面を次のように書いている。

  美登里は待った。人にものを頼む者が必ずそうするように、長原が紙幣を手渡してくれるのを待った。
  けれどもピンク色の毛布は動く気配がない。(30)

 この叙述場面は決定的な意味を持っている。つまりここに美登里と長原の破綻は揺るぎなく刻印されている。美登里は口にも出さないし、意識にのぼらせることもしないが、明確に〈破綻〉を感じている。本当に愛していれば、夜中に美登里一人を〈おにぎり〉の使いに出すはずもない。さらに決定的なことは、二人の金銭感覚の違いである。長原は美登里の金銭感覚に余りにも無頓着で、それは幼い子供の母親に対する甘えと同じである。美登里は長原の母親になりきれないし、長原に全身全霊で尽くす気もない。美登里はたいていの女がそうであるように、金に関しても細かい計算をしている。〈おにぎり代〉は長原が出すべきだと考えている美登里と、「金がある方が払うのはあたり前」と考えている長原とが、結婚生活などできるはずもない。金銭感覚のずれというよりも、価値観の決定的な相違と言ったほうがいい。
 
 肌を合わせたその後で、男は握り飯を食べ、その金を女が払った。その事実が、これほどまで美登里を悲しませということに、最後まで長原は気づかなかった。(36)

 描かれた限りで見れば、長原は余りにも美登里に対して無神経過ぎる。美登里は別におにぎり代が欲しいわけではない。〈おにぎり代〉に匹敵する思いやりが長原にあれば何の問題もないのだ。寒い夜中におにぎりを買いに行かせたり、お湯を沸かしても自分だけの湯呑みしか用意していなかったり、誕生日に何をくれるのと聞かれれば、金がないのを知っているのにバカなことを言うなとばかりの対応しかできない。要するに長原は美登里に対しての気遣いがまったくない。作者は、こういった些末なエピソードを積み上げて、読者を美登里の味方につけてしまう。林真理子の読者は圧倒的に女性が多いだろうから、美登里の心理心情はよく理解できるに違いない。
 〈おにぎり事件〉だけでも、美登里が長原と決別する理由は充分に成立する。が、作者はさらに決定的なエピソードを用意する。美登里は長原のアパートに一泊する予定でルンルン気分で出かける。途中、長原のために寿司の折詰めを作ってもらい、冷えた缶ビールを買って。ところが、長原はビールを飲み干した口で「オレ、もうちょっと原稿がたまっているんだ。悪いけど、今夜かえってくれないかなあ」と言う。美登里の甘い期待は見事に裏切られる。作者は「怒りで指先がふるえるのを感じた。しかしそれははっきりと口に出すことがはばかられる怒りだった」と書く。
 美登里は三つの途を考える。「怒り狂うこと」「あっさりとひき退がること」「長原の男としての本能に訴え出ること」。美登里は「上寿司を食べさせたのに、タダで帰ってたまるか」という〈功利的な考え〉にとらわれて三番目を選ぶ。が、巧妙な性的アプローチも失敗に終わる。「ちょっとだけ、ちょっとだけしよ、ね」という美登里の甘いあえぎ声に対する長原の応えは「やっぱりやめよ。な、今日のところはお互いに我慢しよ。オレ、悪いけどやっぱり仕事するわ」であった。確信していた性的期待が拒まれたとき、女はどのようなショックと怒りの感情を抱くのか。美登里はふてくされた微笑を浮かべて、帰りのタクシー代三千円を貸してくれと口にする。三千円は〈二人分の折詰めの寿司の値段〉と同じ額で、いちおう貸してくれとは言ったものの、〈もらっても当然の金〉だと思っている。とにかく小説においては、性的アプローチも金銭のやりとりも、その細部にこだわって描写すればするほどリアリティが倍加する。美登里の要求した〈三千円〉、長原が差し出した〈千円〉、もうこれだけで充分に二人の関係の実態は体感的に伝わってくる。美登里が要求した〈三千円〉はタクシー代だが、長原が差し出した〈千円〉は美登里という女自体の値段のように思える。この恐るべき〈恋人同士〉(その実態は情人同士)の思い入れの乖離が、〈タクシー代〉をめぐるまるで子供のような口喧嘩を通して明瞭に浮き彫りになる。
 作者はこの〈俗悪な場面〉をディティールにこだわりながら丁寧に描き出している。彼ら二人の功利主義的な性愛関係はたかだか〈三千円事件〉によって破綻を迎えることになる。

  後半、長原はあらぬ方を見ていた。美登里の問いかけにも彼は答えなかった。もはや、二人の間で問題になっているのは三枚の千円札ではなかった。それがわからないいらだちが、長原には憎悪、美登里には軽蔑となってあらわれていたのだ。
二人はテーブルをはさんでしばらくにらみ合っていた。(49)

  美登里が長原を〈軽蔑〉するのは、〈三千円〉に対する〈千円〉ではない。露骨な言い方をすれば、それは美登里の要求(性愛的欲望)に長原が応えてくれなかったことに因る。美登里が長原に求めているのは性愛的悦楽であるから、この欲求に応えてくれない長原は〈軽蔑〉の対象と化すのである。長原がしぶしぶ差し出した〈千円〉は、美登里の値段であり、もはや美登里の肉体は長原にとって魅力のある存在ではなくなっていたというその俗悪で低劣な、一つの確固たる証として提示されているのである。長原の〈千円〉が口をきけば「おまえのことなんか少しも愛していない」と言うだろう。が、美登里のプライドがその声を押さえ込んでしまう。にらみ合いの沈黙の内実を言葉にすることを恐れたのは美登里以上に作者であったのかもしれない。
 美登里は〈別れ〉を意味する〈さようなら〉の一言を口に出せない。長原が差し出した千円札には〈さようなら〉の文字が印刷されているが、美登里はその文字を決して読みとろうとはしない。
 美登里が〈自分でもぞっとするような声〉を出して口にしたセリフを覚えているだろうか。「わかったわ。じゃ、もう三千円はお借りしないわ。そのかわり、おたてかえしたお寿司の代金を払ってくださいな。あなた、さっき電話で言ったわよね。寿司を買ってきてくれって。だから私はそうしたまでよ。自分の分は私が払うわ。だから後、千五百円ください。あ、折詰め代が入るから千五百五十円」。〈三千円〉が〈千五百円〉になり、さらに〈千五百五十円〉にまで至る、この金銭のリアリズムは圧巻である。私などは『罪と罰』の高利貸しアリョーナ婆さんや、ロジオンの母親プリヘーリヤの細かな金勘定の場面を連想したほどである。
 美登里が口にした〈千五百五十円〉に込められた屈辱と悲しさは、彼女の功利主義をはるかに越えている。この金額には長原に対する未練がたっぷり込められていて、誇り高き女が激情に駆られて相手の頬を思い切り叩いて去っていくような潔さがない。美登里の怒りは軽蔑の念に裏打ちされていても、未だ未練を断ち切る強さと激しさを持っていない。確かに作者は「美登里は呆然とした。そしてはっきりと別れの時を決意した。これほど徹底して俗悪な場面を見せつけられると、何の未練もない」と書いたが、しかし同時に「それから半月後、四回ほど寝てから二人はもう二度と会わなくなった」とも書いていることを忘れてはなるまい。
〈何の未練もない〉と自分の心に宣言した美登里が、その後、四回も長原と寝ているのである。この〈四回〉が未練でなくてなんなのだろうか。もし、林真理子がこの〈四回〉を詳細に描き出したら、林真理子版『浮雲』となったかもしれない。永田美登里と長原武文の性愛で結びついただけの、欺瞞に満ちた〈腐れ縁〉を延々と描き続ければ、林芙美子が描き出した幸田幸子と富岡兼吾の〈腐れ縁〉とはひと味違った男と女の性愛の実態が浮き彫りになったはずである。
 林芙美子は『浮雲』で〈性愛の実態〉を通して、人間とは何かを徹底して探求し続けた。はたして林真理子はどのように人間を掘り下げて見せるだろうか。否、林真理子は人間存在をどこまでも深く掘り下げていくというよりは、ハイデガーの言葉で言えば、世界に退頽した現存在の非本来的な諸様態(好奇心・おしゃべり・曖昧)を的確に描き出すタイプの小説家と言えようか。
 にらみ合っていた〈沈黙〉の時に耐えられなかったのは美登里で、彼女は女友達に電話をかける。「もしもし私、寝てた? あたり前よね。いま午前三時‥‥ごめんなさい、こんな時間。ねえ、私、いまとても困っているの。友だちのうちにいるんだけど、うちに帰るお金がないの‥‥‥。ううん、その人も持っていないの。だからうちに帰れないの‥‥‥え、だめなの。その人、その人、泊めてくれないのよ」。この言葉のうちに美登里と長原の性格がグロテスクなまでに浮き彫りにされている。長原は〈とても困っている〉美登里を助けようとしない、というよりその原因を作った張本人である。美登里は長原を〈友だち〉と言い、〈その人〉とも言っているが、もちろん電話の相手はそれが美登里の〈彼氏〉であることを知っている。午前三時になって、タクシー代金も渡せない、泊めてもくれない〈その人〉を、いったいだれが〈彼氏〉などと認めるのだろうか。
 美登里の目からカメラをはずして客観的な眼差しを注げば、長原は幼児的な次元に止まっているエゴイストで、この程度の男が携わっている業界誌がまったく売れないことは当然とも言える。長原は美登里を性愛的な次元でしか扱っていない。これでは、美登里は長原のアパートに通ってくる、金のかからない、否、貢いでくれる、自分に都合のいいだけのダッチワイフでしかない。こういった男と関係を続けようとすれば、美登里はダッチワイフ的存在に甘んじるしかない。
 そもそも美登里は、長原の精神的領域ではなく、何よりも顔や肉体やセックス力に魅せられたのだから、それ以上のものを求めれば、うざったがられるのも当たり前ということになる。電話で、美登里は長原を〈その人〉と言っているが、これは美登里が長原を肉体的悦楽を与えてくれるだけのモノと見ていたことの証ともなっている。モノとモノが肉体的悦楽で繋がっているだけの関係であるから、モノ以上の、謂わば人間的思いやり、心遣いを求めることはルール違反ともなる。長原はくだらない、しみったれた男で、こういった男と付き合うためには〈おにぎり事件〉や〈三千円事件〉のような些末で煩わしい出来事を甘受しなければならない。世の中には、長原のようなくだらない男に、いつもイライラさせられながら、しかし関係を絶つことのできない女もいるだろうが、金には女らしいせこい計算をしつつも、プライドの高い、野心を胸に抱いた美登里ははっきりと〈別れの時〉を決意する。その〈別れの時〉に至るまでに、なお四回の肉の交わりを必要としたことに、女と男のグロテスクなまでの、きれいごとでは片づけられない性愛の姿がある。
 美登里と長原の別離はどのように描かれたか。作者は「それから半月後、四回ほど寝てから二人はもう二度と会わなくなった」と書いた直後に、まるで猫の尻尾のように「長原に女ができたからである」と書き足している。この尻尾のような文章にこだわってみよう。
 作者が美登里の心に寄り添って描いた〈おにぎり事件〉と〈三千円事件〉を、さらに冷静に客観的に見れば、すでにこの時点で長原には美登里以外の女がいたということになる。長原が、美登里の歯ブラシをすぐに捨てたり、夜中にタクシー代金も渡さずに帰らせたりしたのも、彼がほかの女に美登里の存在を気づかせないためだったとも言える。長原は彼の言葉によれば〈インランで男好きの女〉美登里を「ちゃんとイカしてやれ」た男だが、実は美登里以外のインラン女たちをもイカすことのできる〈十二分に女の体を熟知している男〉だった可能性が高い。
 美登里の目には、長原の寝室にある〈ピンク色の毛布〉、それは今や〈薄汚れて灰色〉になっているが、その〈むせるほど長原のにおい〉をしみこませた毛布が、実はほかの様々な女たちの体臭をも染み込ませていたということである。
 美登里は長原と自分の関係をそれなりに客観的に眺める視点を持っているが、その視点は長原を重層的に捕らえるまでには至っていない。美登里は自己評価の高いプライドに邪魔されて、自分を相対化する視点を持てない。言い方を変えれば、美登里は長原の内部視点に立って自分の姿を映し出すことができない。美登里は、長原によってどんなに屈辱的な扱いを受けても、下女的な行為を甘受しても、意識の上では長原を性的悦楽を与えてくれる〈モノ〉として見ている。長原もまた美登里を性的な〈モノ〉として扱っているわけだが、美登里はそのことを認めているようには見えない。自分は長原を性的満足を与えてくれる〈モノ〉と見なしているのに、その相手からは一人の女性として関わって欲しいと願っているのである。
 美登里と〈その人〉の関係を冷静に見ていたのは美佐子である。美登里より五歳年上で、辛辣で鋭い感性を持っている美佐子は「男がまるっきりあんたに惚れていないってことよ」ときっぱりと断言する。未だ男に未練を残している美登里に向かって「だってさあ、考えてもみなさいよ。女の子をひとり真夜中にほうり出すのよ。お金もあたえないし、送ってもいかない‥‥‥。ちょっとミーちゃん、あんた本当に好きなのね」

 この美佐子の言葉が最も鋭く的確に美登里と長原の関係を批評している。〈おにぎり〉と〈三千円〉に纏わる〈事実〉を冷静に見れば、長原が美登里に愛情を感じていたとはとうてい思えないし、にも拘わらず続いていた関係は美登里の性的欲望に因っていたとしか思えない。
 美登里と長原は愛情によってではなく、一種の〈契約〉によって繋がっている。この〈契約〉の内容を、美登里はよく読まずに、一人勝手な解釈をして苛立っていたと言える。描かれた限りで見ても、長原は美登里を一時的な性的対象としか見ていないし、結婚する気などはさらさらない。しかも長原には〈インランで男好きの女〉美登里を初めてイカせた男としての妙な自信がある。長原は、インラン女をイカせる彼に美登里が奉仕するのは当然だと思っている。これが暗黙のうちに取り交わされた〈契約〉であったはずだが、美登里の自己愛的ロマンチシズムは、長原が「自分を愛してくれている」と思いこんでしまったのである。
 セックスの最中に美登里は、長原を「この世にこれほど素晴らしい男がいるのが信じられないような気がし」て快感に身をゆだねているが、まさにこの時、長原は美登里に対して単なる〈インランな男好きの女〉をしか見ていなかったかもしれないではないか。イカせて腹を空かした男に、イカせてもらったインラン女が真冬の夜におにぎりを買ってくることなど、長原にとっては〈契約〉上、当たり前のことだったのである。が、美登里は長原の内的視点に立って自分を冷静に見ることができない。美登里は最後まで、〈インランで男好きの女〉はイカせた男に貢がなければいけないという、その〈契約〉の条項を読み逃しつづけた。ましてや長原がほかの女とも、そういった〈契約〉を結んでいたとは夢にも思わず、ひたすら自己愛的ロマンチシズムの生温い布団のなかに居続けようとした。こういった女が居心地のいい寝床から無理矢理引っ張り出された時に、現実をわきまえずに、屈辱を感じて泣いたりわめいたりするのである。
 長原は〈契約〉のことを改めて口にすることはないが、三千円が欲しいという美登里に、千円しか出さなかったその行為自体で彼の心のうちは明確に示されている。「二人はテーブルをはさんでしばらくにらみ合っていた」ーーこの時の沈黙に耐えられなかったのは〈契約〉違反をした美登里であるが、美登里の女としてのプライドは、この屈辱的な〈契約〉自体を絶対に認めることはしないだろう。否、美登里は〈契約〉の条項一つ一つを確認し直さずにはいられない女であった。
 辛辣な女・美佐子は「あの長原っていうの、あっちの方がすごくよくてさ。それであんたが離れられないと思っていたのよね」と言い、美登里は「そんなこと、ないと思う」と口ごもる。美佐子は「そうよね。そんな女だったら、わたしゃ、あんたを軽蔑するわ。ま、男にからだでひきずられる女っていうのもいいけどね、あんたや私には似合わないわね」と言い、その後、美登里をのぞき込むように念をおす「とにかくこれで、あの男とは終ったんでしょ。もうこんなこと二度とごめんよ。アホな男とケンカするアホな女のために、真夜中に起こされちゃたまんないもん」と。
 美佐子は〈男にからだでひきずられる女〉をそれなりに認めながら、しかしそんな女は軽蔑すると言う。はたして美登里はどうなのか。少なくとも、別れを決意できずにいた美登里は充分に軽蔑に値する女であったろう。もちろん、美登里は美佐子に軽蔑されたくないために長原との別れを決意したのではない。美登里は美佐子に指摘されるまでもなく、自分が〈男にからだでひきずられる女〉であることを知っていたし、それほど長原の肉体にのめり込んでいた。しかし、美登里は自分自身にも隠すようなかたちで、すでに長原が自分に飽きていたことを知っていた。これは要するに秘中の秘で、美登里はこの自分自身にさえ隠していた〈秘密〉の確認のために、別れを決意した後にも長原との逢瀬(セックス)を繰り返したのである。美登里は一筋縄ではいかないインラン女なのである。
 作者は、美登里が美佐子の部屋に泊まった三日後に、長原の電話番号をまわしていたことを記し、次のように続ける。

  さまざまなことを確認したかったのだ。
  まず自分が本当に長原と別れられるかどうか。長原は再び自分のことを邪険に扱うのかどうか、念のために。
  そしてなにより、長原とのセックスが、自分の中でどれほどのパーセンテージを占めているかということを、“体を張って”美登里は調べてみたかった。
  電話に出た長原は意外なほど屈託がなく、美登里がまた自分の部屋を訪れることになんの疑いもないようだった。
  次の時、誘ったのは長原の方だった。夜中から明け方まで、三回二人は交わった。朝陽がさし込む部屋で、長原は軽い寝息をたてていた。その傍で、美登里は裸の腕を何度も上下させた。ひどくのびやかな気持ちになっていた。
  あの時、あのまま別れないでよかった。心の底からそう思った。
  三回もしたーー。これでモトがとれた。
  確かにあの時、美登里はそんなことをつぶやいていたのだった。そんな残酷で、わい雑な言葉を言う自分に、たとえようもなく満足していたのは、なぜだったのだろうか。(53)

 美登里だけが別れの決意をしていたのではない。長原もまた美登里との別れを決意している。別れを決意した男と女が、そのことを互いに打ち明けもせずに、ゴールへと至りついたまでのことである。が、ここでも作者は長原の側には寄り添うことなく、もっぱら美登里の側についている。それでも明らかになったのは、美登里が〈契約〉の内容を自分の体で確認し、彼女なりに納得したということである。〈おにぎり事件〉と〈三千円事件〉の代償を、美登里は長原のセックスで支払ってもらったということである。
 『ルンルンを買っておうちに帰ろう』の中のエッセイ「バージンをあまりいじめてはいけない」に〈私の友人〉が発した言葉として「トルコに行くよりマシだもんね」がある。まさにこのセリフは、美登里と関係を続けていた長原の本音である。美登里が女として愛されているなどという自惚れを振り払って長原のこのゲスな次元に降りてしまえば、「高級ホストクラブに通うよりはマシ」ということになる。林真理子は上記エッセイで「男をしるというのは、“納得”ということであり、それ以上のものでも、それ以下のものでもないのだ」と書いている。この“納得”のうちには当然〈体の納得〉、すなわち男によって性的エクスタシーを得るということと同時に、美登里と長原の間に交わされた暗黙の〈契約〉の承認も含まれているのである。
 美登里は長原との別れを決意して、初めて冷静に〈契約〉の内容を吟味し、そして体の芯から“納得”し、遂に解約の印を押すことが可能となったのである。美登里はインランで男好きの女であるが、美佐子に応えたように、決して〈男にからだでひきずられる〉だけの女ではない。『ルンルンを買っておうちに帰ろう』所収のエッセイ「女だって、金、地位、名誉がほしいのだ」の中の言葉で言えば、美登里は〈セックスが大好きな女〉であると同時に「有名になりたい」「華やかな世界に入りたい」「お金がほしい」という途方もない野心を抱いた〈女〉なのである。美登里にとって、長原はたかだか性的エクシタシーを与えてくれただけの〈その人〉となり、〈契約解約後〉には、美佐子が口にしていた〈あの人〉にまで後退していったのである。
 場面は七年前の〈過去〉からタクシー内の現在へと戻る。

 「さっきのフランス料理、おいしかったわ」
  窓の外をスキー板をのせたワゴン車が走っていく。空港が近づくにつれ、車が多くなっていくようだった。
 「小牛のキョウセンっていうの、あれもおいしかったわ。キョウセンってどんな字を書くのかしら」
 「胸の線って書くんじゃないかな。たぶんそうだよ」
 「そう。信じられないぐらいやわらかいのね。あのお店、よく行くの」
 「いや、そうめったには行かないよ。内地から大切な客が来た時だけだ」
 「私って大切な客?」
 「もちろんですよ。あなたは有名人だし、それから昔からの知り合いだ」
  長原はまたやわらかく美登里の手を握った。

 フラッシュバックの手法が実に巧く使われている。「三回もしたーー。これでモトがとれた」という七年前の〈過去〉から〈現在〉へと蘇った場面に映し出されるのは、三十一歳で有名人になった売れっ子の美登里と三十六歳になった中年の長原である。彼らは今、先刻、味わったフランス料理の話をしながら最終便の待つ空港へと急いでいる。
 この場面が強く読者のうちに残るのは、車内という動きのない閉塞した〈静の現在〉に、激しい心情的・肉体的心理的〈動の過去〉がバランスよく配置されているだけにとどまらない。車内に据えられたカメラは美登里の横顔の表情、美登里の胸やわき腹に〈の〉の字や〈く〉の字の微妙な動きで攻める長原の人差し指を、そして空港へとハイスピードで走るタクシーの窓から見える光景、運転手の後ろ姿などをとらえながら、〈現在〉の限定された空間を豊かに多彩な彩りで描き出していることによる。〈過去〉には美登里の激しい感情の揺れ動きや、二人の肉の交わりが描き出され、〈現在〉には七年前の〈過去〉へと深く繋がっていく美登里の自信に満ちた優越的な心情、長原の人差し指の愛撫にからだの芯が微妙に疼く感覚が描かれる。
 長原は薄暗い車内で七年前に別れた女を人差し指でまさぐるが、人差し指では今の美登里を掴み取ることはできない。もはや美登里は夜中におにぎりを買いにでかける女ではないし、感情を荒だてて三千円を貸してくれとわめき出す女でもない。二人の間には、すでに越えられない差が生じている。駆け引きにおいても美登里の方がはるかに上を行っている。美登里は長原が胸に触れても、手を握ってもべつに拒むことはしない。が、本気で、長原に「口説き落とされ」てもいいと思っているわけではない。美登里は〈飛行機が間に合わなかった時のこと〉を長原にほのめかしながら、手を握り続けている彼を「もう少しいたぶって」みたいという感情に突き動かされる。

 「ねえ、長原さん。あの女の人、どうしたの」
 「あの女の人って誰ですか」
 「しらばっくれないでよ。どこかの広告プロダクションに勤めていた女性じゃなかった。ほら、私と両天秤かけていて、結局そっちをとった女性」(56)

 フラッシュバックした七年前の場面に〈あの女〉の存在はまったく触れられていなかった。長原に夢中だった美登里は、彼に別の女がいることを知らなかったのだろうか。描かれた場面で判断すれば、美登里は長原という男のほんの一面しか分かっていない。長原は精力の強い男で、美登里に初めて性的絶頂を与えた男である。美登里はそのことで長原が自分を誰よりも愛していると思いこんでしまうが、長原の精力はほかの女にも発揮されていたことは明らかである。おそらく美登里は、長原と別れた後で、〈あの女〉の存在を知ったのだろう。両天秤をかけられていたという〈事実〉を知った時の、美登里の思いはどんなであったろうか。その屈辱と怒りは〈おにぎり事件〉や〈三千円事件〉の時の比ではなかったろう。
 七年前の美登里は、長原にとってはセックスフレンドの一人でしかなかったのであり、かけがえのない恋人として接していたのではなかったということである。当然、美登里のうちに、この恨み晴らさずにはおくまいという復讐心が芽生えたであろう。美登里はこの復讐心をバネに、フラワーアレンジャーとして、またエッセイストとして華々しい脚光を浴びる存在にまでのし上がってきた。復讐心を野望達成のエネルギー源として使うことで、美登里は前向きに生きてきた。有名人になった美登里は、七年ぶりに再会した長原に対して、ストレートに復讐心を燃やすようなヤボはしない。
 続きの場面を見よう。

 「人聞きの悪いこと言わないでくださいよ。僕はあなたと別れた後、傷心いやしがたく田舎に帰ったんですよ」
 「嘘おっしゃいな。いいじゃない、もう時効なんだから。すごく綺麗な人だって噂に聞いたわ。どうしてその人と結婚しなかったの」
 「いやあ‥‥‥」(56~57)


 この対話場面を読む限り、長原は本当のことを言っていない。長原は七年前も現在もこと女に関しては美登里に嘘をつき続けていたと見て間違いない。美登里以外の女とも関わっていた長原は、美登里にそのことを打ち明けたりはしない。美登里は女らしい直感も批評意識も備えているが、長原に惚れた弱みと自惚れで長原の女関係を的確に読みとることができなかった。
 長原は七年ぶりに会った美登里とつかの間のアバンチュールを楽しむ欲望には駆られているが、妻と娘と別れて美登里と新しい生活へと踏み出す気など微塵もない。これは美登里も同じことで、長原を奪い返す気など毛頭ない。彼ら二人は昔も今も、嘘と虚飾に満ちた駆け引き的性愛の磁場で戯れているだけのことで、本来的な愛に生きようなどという志向性ははなからない。彼らは、痴話喧嘩の次元で苛立ったり悩んだりするが、それは性愛の次元のことで、本来的な愛の領域へと踏み込んでいくことはない。
 長原と美登里の性愛関係に、長原と〈あの女〉の性愛関係を絡めれば、美登里の長原に対する愛情の実態も、長原の複数の女たちに対する狡猾な立ち居振る舞いもさらに鮮やかに浮き彫りになったことだろう。が、作者は二人の〈過去〉の深みに立ち入ることはしない。

  雪が薄く反射する闇の中で、しばらく長原はためらっていたようだった。
 「女の人って誰でも同じだと思った」
 「私もその人も」
  長原はこっくりとうなずいた。
 「確かにあなたのことは好きだったし、愛だと思う時もあった。けれどもあなたも気づいていたと思うけれど、オレたちはケンカばかりしていて、もう駄目になるのを待つばかりだったでしょう。こう言うとわざとらしく聞こえるかもしれないけれど、お互いのために別れた方がいいと思った。けれども次の女の人も、そうあなたと変わりないんだ」
 「やっぱり嫌な女だった」
 「いや、素敵ないい人だったと思う。性格も感受性もあなたと違う意味でいい女だったと思う。だけど彼女はあなたと同じようなところで怒るんだ」
 「わかるわ‥‥‥」
 「それは怖ろしほど同じだった。そして彼女もあなたと同じようなののしり方をするんだ」
 「相手は変われど、主変わらずってことね‥‥‥」
 「オレは本当にわからなかった。そしてすべてのことがめんどうくさくなった。そして親父が死んだのをきっかけにうちに帰ったわけだ」(57~58)

 長原が美登里と両天秤をかけていた〈あの女〉のことに関しては、ここで長原が発している言葉によって集約されている。〈あの女〉は〈素敵ないい人〉だったが、美登里と同じようなところで怒り、ののしる女であったということ、それ以上でも以下でもない。美登里もまた、その長原の説明で納得して、それ以上詳しく訊ねることもしない。美登里はもはや長原に執着していないし、七年も前の過去に感情を荒立てるほどのこだわりもない。
 作者は〈あの女の人〉に関しては名前も年齢も、その容姿も、長原とどこで出会い、どのような関係を持つようになったのか、長原と美登里の関係を知っていたのかどうか、こういった基本的な情報さえ読者に知らせない。〈あの女の人〉に関して知る情報は美登里から与えられる。〈どこかの広告プロダクションに勤めていた女性〉で〈すごく綺麗な人〉、これが長原が両天秤を掛けていた女に関する外的な情報である。ごく少ない情報であるが、美登里の口から発せられていることで、そこに込められた美登里の内的な思いは痛いほど伝わってくる。
 当時、敗北した美登里はごく平凡な普通のOLであった。一方、勝利した女は広告プロダクションに勤める超美人である。いわば、〈あの女の人〉は美登里にとっても憧れの対象となるような女である。負けん気の強い美登里が、〈広告プロダクション〉以上の職業と〈美しい容姿〉を獲得するために異様な努力をしてきたのも、自分ではなく〈あの女の人〉を選んだ長原に対する根深い復讐心が働いていたことは否めない。復讐心をバネにして〈有名人〉になった美登里が、今、〈あの女の人〉以上の存在となって、自分を捨てた長原をいたぶっている。
 長原はここで、〈あの女の人〉も美登里と同じようなところで怒ったと言っている。ということは、長原はどの女に対しても〈おにぎり事件〉や〈三千円事件〉を起こしていたということである。そのことの原因が分からなかったというのであるから、長原はそうとう自惚れの強い、相手に対する思いやりのかけた男、つまり想像力のない男ということになる。まさに長原は美佐子が辛辣に批評した〈アホな男〉で、そんな男とケンカする女も〈アホな女〉ということになる。美佐子のまなざしで計れば、美登里も〈あの女の人〉も同じくアホということになるが、美登里はもう一人のアホな女に敗北したのであるから、その惨めさは相当なものだ。が、美登里はその傷に深入りすることを避けて、長原の〈く〉の字の愛撫に身を委ねている。
 「すべてのことがめんどうくさくなった」という長原のセリフに嘘偽りはないだろう。女からネチネチ責められる〈三千円事件〉のような煩わしさから、一刻も早く逃れたいと思う長原の心情は男一般に適用できる。面白いのは、そんな長原が結婚して、子供までいることだ。野心に満ちた情人との関係はめんどうくさくなっても、結婚生活の煩わしさは受け入れることができたのだろうか。
 美登里は過去にとらわれず、長原は妻子にこだわらず、空港へと向かうタクシー内の〈今〉を楽しんでいる。この〈今〉は意志によって支配された時ではない。最終便に間に合えば美登里は長原と別れて東京へと向かう。最終便に間に合わなければ、千歳で一泊する。彼ら二人の再会のドラマは、いわば二人の各々の意志を越えて道路事情という偶然に委ねられている。長原は偶然を断ち切る強い意志で美登里を自分の側に引き寄せることができない。美登里もまた自分の意志で長原の愛撫に激しく応えようとはしない。彼らは七年ぶりに会っても、駆け引きの次元を大きく逸脱して自分を主張することができない。相手の出方を慎重に踏まえて、次の一手を考える。相手に自分のカードを見せてはならない。勝負師の鉄則である。美登里の内には、不断にこの勝負師の意識が働いている。それは長原も同じである。彼らは恋の駆け引きにおいても同じ穴の狢で、自分が不利になるような大胆な言動を巧みに避けている。こんな二人のやりとりを作者は次のように描いてみせる。

 「後悔している?」
  私のことを、という言葉を、美登里は奥深く飲み込んだ。答えはわかっている。後悔しているとも。だから、さあ、飛行機はあきらめるのだと長原は言うに違いない。
  ありふれた結果になったと美登里は思った。後悔にさいなまれていたものを、とりもどせるのではないかという錯覚によって、たぶん明日の朝、二人は後悔をまたつくって別れることになるのだろう。それがわかっているというのに、美登里のからだの中でまた熱いものが動き始めた。長原の指は再び彼女の太ももをなぞり始めたのだ。
  行きずりの男に抱く欲望と全く同じものだった。共通の過去をいとおしむ気持ちよりも、すぐ未来のアバンチュールへとはやる気持ちの方が強かった。美登里はゆっくりと唇を噛みしめる。乱暴で原始的なものに身をゆだねさえすればいいのだ。(58)

 美登里は〈乱暴で原始的なもの〉に身をゆだねることができない。もはや長原は、七年前、美登里を絶頂に導いた男ではない。今の長原は、アバンチュールへと誘う〈行きずりの男〉でしかない。愛撫されればそれなりにからだは反応するが、美登里が身を委ねているのは〈偶然〉であって、長原の〈意思〉にではない。長原もまた、美登里が委ねている〈偶然〉を断ち切るほどの強い〈意思〉で口説きのセリフを発しているわけではない。
 長原は自分が責任を取らなければならないような言葉を口にすることはない。長原の発した言葉「君は僕という男に見切りをつけて去っていったんですからね」はよくそのことを示している。美登里は〈三千円事件〉の数日後、「あれはひょっとして自分と決着をつけるための長原の戦略だったのではないか」と思う。長原の〈戦略〉はすべて勘定ずくで為されているとは思えないが、要するに持って生まれた性格なのであろう。激しく言い合いをしても、決定的な言葉は相手に出させる。美登里のほかに両天秤かける女がいても、決してそんなことはおくびにも出さない。長原は、詰問されれば、愛しているのはおまえだけだよ、と平然と口にするような男である。美登里は長原を軽蔑し、愛想を尽かして去っていく。これを手慣れた〈戦略〉と見るか、〈優しさ〉と見るかで長原の評価は分かれるだろうが、いずれにしても描かれた限りでの長原に男としての、人間としての深みも魅力もない。こういったイケメンで、女をイカせる精力には充ちているが、精神的な次元では何ら魅力のない長原にひかれたのが美登里である。
 作者は〈三千円事件〉の場面で「美登里は呆然とした。そしてはっきりと別れの時を決意した。これほど徹底して俗悪な場面を見せつけられると、何の未練もない」と書いた。が、何の未練もなくなった女が、その後、いくらモトを取り返すためとはいえ、四回も寝るだろうか。もし、作者が書いた通りだとすれば、美登里も長原以上に俗悪な、勘定高いインラン女ということになる。作者は〈アホな男〉と〈アホな女〉の醜悪な関係を、上辺だけきれいに化粧し直して読者に提供しているということであろうか。少なくとも、美登里と長原の〈過去〉と〈現在〉に、女と男のきれいごとはいっさい描かれていない。
 林真理子のこの小説が多くの読者に読まれているとすれば、現代人の多くがすでに恋愛の純粋など信じていないということになるのかもしれない。恋も結婚も、計算ずくで、駆け引きで、巧妙な騙し合いでしかないとすれば、なんともさみしい現実である。
 が、美登里に演歌的感傷は微塵もない。
 美登里にとって長原は空港へ着くまでの、つかの間の性的マッサージ師のようなもので、例え一泊してもそれは欲望を満たすだけのアバンチュールでしかない。美登里はここで、長原に太ももを刺激されながら、原始的な激しい性衝動に身をゆだねさえすればいいのだと考えるが、そこには「トルコに行くよりマシ」という打算も働いていることは否めない。

 「こりゃー、まいったなあ」
  突然、運転手が大きな声をたてた。高速の手前で車の流れは完全に止まっていた。家路へ向かうスキー客たちが、工事の道を避けていちどきに集中したらしいのだ。前の赤いファミリアはぴくりとも動かない。幾つかのスキー帽のシルエットが窓から見える。(58~59)

 この小説はフラッシュバックの手法を駆使して、美登里と長原の〈過去〉と〈現在〉を重層的に描き出しているが、さらに運転手の発する言葉も効果的に作用している。それは美登里の〈原始的なもの〉に身を委ねようとする熱い性的衝動に向けていきなり水を差す作用であり、それは同時にこの小説の揺るぎのない大きな流れへと連れ戻す働きをしている。
 運転手は美登里の指示に従って、最終便に間に合うように走っている。この流れを変えることはできない。美登里はあたかも〈偶然〉に身をまかせているかのようなポーズを崩していないが、彼女の意志は、この小説の筋書きを決定しているもの、すなわち〈最終便に間に合う〉筋書きを決定している作者の意志に沿っている。美登里はこの筋書きを覆す激しい内的衝動に襲われることはない。その意味で美登里は、作者の設定した檻の中に従順に納まっている存在と言えよう。長原も同じ存在であることは言うまでもない。
 運転手が突然発した〈大きな声〉は、一瞬にして美登里の〈乱暴で原始的なもの〉を打ち砕いてしまう。もはや、美登里は二度と再び、この原始的な衝動に駆られることはないだろう。それまで美登里の内的世界へと向けられていたカメラの視点は、運転手の〈大きな声〉で即座に外的世界へと変換される。見えるのは〈赤いファミリア〉であり、窓に映った〈スキー帽のシルエット〉である。カメラ視点の突然の変換によって、読者は美登里の内的世界から解き放たれ、瞬時に外的世界へと連れ出される。
 美登里と運転手の会話からより明確となるのは、美登里の最終便に間に合わせようとする意志である。

 「前の車、どうにかならないかしら。あれを越すともう少しスムーズに行くんじゃない」
 「ちょっと無理ですなあ。この流れで追い越しはねえ‥‥‥」
 「あら、七時四十分。あと少ししかないじゃない。千歳の空港っていうのは結構歩くのよねえ。私、ロビーをバタバタ歩く人ぐらいみっともないものはないと思っているの」
  美登里のいらだちが伝わったのだろうか、赤いファミリアはややあってまた動き出した。
 「お客さん、あの角を過ぎると案外ラクになるかもしれませんよ。函館の方へ行く車がみんな曲がりますからね」
 「本当にそうよ、みんな曲がっちゃえばいいのよ。嫌だわ。あのファミリア、空港まで行くのかしら。憎ったらしいわね」
 「抜いてみましょうか」
 「まあ、本当。ぜひぜひやってほしいわ」(59)

 この小説においては、タクシーがスピードをあげたり、一時停車したりすることはあっても、最終便に間に合うように、限られた時間内で空港へ着かなければならないということは絶対至上命令として働いている。美登里がその必然から離脱しようとしても無駄である。必然を行使する権力を作者は絶対に手放さないだろうし、美登里の意思に限りなく寄り添っている作者は、美登里の表層の偽装的な心理や感情に支配されることはない。〈赤いファミリア〉は交差点における停止信号、ないしは追い越し禁止信号の隠喩である。が、美登里は微塵の躊躇もなく、運転手が提起した「追い抜き」に強く賛同している。ここに美登里の、最終便に間に合わせようとする、誤魔化しようのない意志が表明されている。
 作者は、この小説で美登里と長原の男と女の関係を掘り下げようとしているわけではない。彼ら二人には、そろいも揃って垂直的志向性がないのであるから、例え最終便に間に合わずにホテルで一泊したところで、そこに新たな深みのある場面が構築される訳ではない。七年前と多少異なった濡れ場を描いたところで、それもまた欺瞞的な駆け引きの表層を越えでるものではない。美登里は長原と性愛的な次元でしか関わっていないから、性愛にまつわる駆け引きを越えた新たな関係など少しも欲していない。美登里が欲したのはつかの間のアバンチュールであるが、それも運転手の〈大きな声〉で瞬時に消え去ってしまう、その程度のものである。
 
  運転手はアクセルを踏んだ。前に見えていた青いトラックがぐんと近づいたかと思うと、赤いファミリアは後ろに遠ざかっていた。運転手は器用に、車をトラックと乗用車の間にすべり込ませた。この二つの車にはさまれて、タクシーはいい流れにのったようである。タクシーは徐々にスピードをあげ始めた。(59~60)

 〈赤〉いファミリアを追い抜くと、〈青〉のトラックがそれに代わる。この赤から青への変換だけで、読者はタクシーが間違いなく最終便に間に合うように空港へ着くだろうと確信を抱く。次に続く場面もこの確信を保証している。

  金属音がした。ふと顔をあげると、北の夜空を横切る銀色の翼が見える。
 「あら、空港もうじきね」
 「次の角を曲がると見えてきますよ」
 「間に合いそうね。よかったァ」
  美登里はもう一度深々とシートに腰をおろした。長原と目が合った。美登里はかすかに顔を赤らめた。
 「どうしたらいい。飛行機、間に合いそうよ」
 「間に合っても、間に合わなくてもキャンセルすればいい」
  長原はおだやかに笑った。その時初めて、美登里は彼の唇の端にシワが刻まれているのを知った。(60)


 果たしてタクシーは最終便に間に合うのだろうかという、ドキドキハラハラ感はもはやない。美登里も、読者もその点に関しては安心している。タクシーは確実に空港へ着くだろうし、美登里は確実に飛行機に搭乗できるだろう。それに美登里には「間に合っても、間に合わなくてもキャンセルすればいい」という選択肢がはじめからない。読者もまた、なんとしてでも美登里と長原の本当の意味での〈再会〉の場面を見たいという気持ちがない。深く愛し合いながら、事情があって別れざるを得なかった恋人同士が七年ぶりに会ったというわけではない。美登里は売れっ子になって全国を忙しく飛び回る〈有名人〉の姿を、かつて彼女を捨てて〈あの女の人〉に走った長原に見せつけたいという気持ちに駆られて電話をし、レストランで食事し、そして今、空港へ向かうタクシーの中に同席しているに過ぎない。長原にしても、美登里に対して〈乱暴で原始的なもの〉に駆られる熱情はない。長原は美登里の気持ちを十分に酌んで言葉を発している。長原のおだゆかな笑いがそれを表している。美登里は長原の「唇の端にシワが刻まれている」のを見逃さない。このシワが長原の七年間を端的に語っている。今や、長原は銀行に勤めていたおとなしい女と結婚し、二人の間にはかわいい娘がいるのだ。独身で二股をかけていた頃の長原ではない。夫であり、父である中年の男が、今さら、家庭の破綻まで覚悟して激情に走るなどということはない。あってもそれは美登里と同じく一夜のアバンチュールでしかないが、この小説の読者はそのアバンチュールなど少しも求めていない。美登里と同程度の期待を抱くことはあるにしろ、メインは駆け引きの妙である。長原はこの駆け引きにおだやかな笑いをもって応えている。美登里は「間に合っても、間に合わなくてもキャンセル」するつもりはないが、長原は「間に合っても、間に合わなくても」対応できる寛容な男となっている。長原のシワもだてに刻まれたのではないということか。
 タクシーは離陸十分前の全日空ロビーの前にすべり込む。カウンターの若い女が「職業的な悠然とした笑い」で対応し、航空券を美登里に渡す。美登里は期待通り、作者の意向にも沿って最終便に間に合った。その時の二人の姿を見よう。

  いつのまにか、ネクタイの結び目はきちんとなっていた。蛍光灯の下で、長原は青白く、そしてやや老けていた。それは美登里が東京でよく見知っている、これからも会い続けるであろう働く男の顔であった。決して暗闇で恋をささやくそれではない。
 「じゃあ」と言って、長原は握手を求めてきた。
 「本当に、ごめんなさい。どういうことかしら。えーと、せっかくここまで送ってくださったのにごめんなさい」
  歩きながら、早口で喋りながら握手をする。これは都会で美登里がよくやる動作だった。長原の口元に苦笑がうかんでいる。
 「じゃ、ここで僕は失礼しますよ」
 「でも懐かしかった。嬉しかったわ。本当よ。じゃ、長原さん、奥さんによろしく。東京にいらしたら電話をくださいね。じゃ、どうも、さようなら」
  にわかに饒舌になった美登里は、エスカレーターに乗ってもまだ喋り続けていた。下のロビーで目礼をかえす長原は、みるみる遠ざかっていく。
  もう二度と会うことはあるまい。
  だからこそ美登里は、最後に再びニッコリと男に笑いかけたのだ。(62)

 粋な別れということだ。深みにはまらず、感傷に流されず、お互いに節度を守って、再会と別れの場面を演じ尽くして、ほどほどの満足感に浸っている。まさに成熟した男と女の別れはこうでなければならない、といった筋書き通りの結末である。
 飛行機の窓際に座った美登里は、窓に目をやる。いつの間にか雪が降っている。美登里はそこに「まるで芝居の書き割りのような雪景色」を見ている。美登里にとっては、長原との七年ぶりの再会のドラマが、すでに結末の用意されていた芝居であった。窓枠の雪景色はその芝居の終わりに相応しい光景であった。この雪はやがて美登里と長原の〈過去〉をきれいに覆い尽くし、新たな舞台の幕開けを準備することだろう。野心に充ちたアグレッシブな美登里は、屈辱の過去をバネに力強く未来に羽ばたく途を躊躇なく選ぶ。長原との再会は、長原との過去を完璧に葬り去るためにこそ、半ば無意識のうちに企まられたのである。

  美登里はコンパクトを開いた。離陸前、機内の明りがいったん消された時だ。
  こんな暗さ、この程度の雪あかりだった。鏡をもう少し右に寄せてみる。それはさっき車の中での長原の視線の位置だった。ところどころ化粧がはげ落ちているとはいうものの、派手やかな顔立ちの、自信に満ちた女の顔があった。
 「そう悪くないじゃないの」
  長原はおじけづいたのだと思うことにした。
  そうして美登里は、暗い機内で、くすっと満足気な笑いをもらした。(63~64)

 美登里が開いたコンパクトは、彼女の自意識を忠実に反映する。美登里はなんの疑いもなく、鏡に映った自分の横顔(派手やかな顔立ちの、自信に満ちた女の顔)を長原の視点に重ねて確認する。美登里は〈再会ドラマ〉の演出家であり、主役であり、そして批評家の役割をも果たそうとしている。
 美登里は貪欲で、小説においても作者の地位を奪っている。先に指摘したように、この小説は形式上三人称だが、実は美登里を〈私〉に置き換えることのできる、実質一人称小説である。従ってこの作者は、美登里以外の他者を他者自体として描き出していない。長原もスナック・ミントのエミ子も美佐子も、要するに美登里の主観フィルターを通して描かれており、彼らが美登里を内心どのように思っていたのかを、神の視点から描き出してはいない。
 具体的に言えば、美登里がセックスの最中に「この世にこれほど素晴らしい男がいるのが信じられない」と思っていたその時、相手の長原は「こんなにインランでバカな女はいない」と思っていたかもしれない。なにしろ長原は当時〈すごく綺麗な人〉とも関係していたのだ。美登里の顔など見ずに、その〈すごく綺麗な人〉を頭に浮かべて美登里を抱いていた可能性を否定できない。また、美登里が長原の口の端に〈シワ〉を見ていた時、長原もまた美登里のはげた化粧のあとをまじまじと見ていたかもしれない。美登里が自信満々で長原に接していても、長原はそこに美登里の虚栄と焦燥を見ていたかもしれないということである。
 美登里と寄り添っている作者は、美登里を地獄へ突き落とすような残酷な描き方はできなかったとも言えるし、作者自身にそういった他者の視点がなかったのかもしれない。が、描かれた限りで見れば、作者は美登里の〈秘中の秘〉を知っていることは確かだ。もし、そうでなければこの小説は読み継がれていく水準に達することはできなかったであろう。

  自分も長原も、なんと意地汚い存在なのだろうか。
  一瞬、にぶい痛みは確かに走ったものの、美登里は何くわぬ顔で鏡を閉じた。雪はまだ降り続いていた。(63~64)

 美登里はいろいろな思いを心の底へと沈めている。自分と長原の〈意地汚い存在〉を根掘り葉掘り描き出せば、この小説は間違いなく長編小説になったであろう。が、枚数制限も含めて、作者はさまざまな制約の中でこの小説を書き上げている。一編の中間小説でなにもかもを描き出す必要はない。鏡を閉じた時、美登里は長原との芝居に幕を下ろしたのだ。ただ、雪は降り続いている。小林秀雄風の言い方をすれば、読者もまた美登里の眼差しで窓から見える降雪の光景を見るほかはない、ということである。
 美登里は札幌の空港から東京へと向かう。東京での売れっ子の生活は虚飾に満ちたものである。美登里が金、地位、名誉を望み続ける限り、その生活は続くことになる。一方、長原は空港から妻と娘の待つ家へとなにごともなかったかのように帰って行ったに違いない。まさか長原は妻に美登里とのことを語ることはないだろう。長原の一見、幸福そうな家庭には欺瞞の空気が漂っていると言えそうだ。が、長原にとってはその空気こそが必要なのかもしれない。清浄な空気のもとで生きることこそ困難な人間がいる。名声を求める美登里も、広告会社に勤める長原も、すでに十分に俗世の空気を吸っている。彼らはそのことに疑いを持ったり、悩んだりはしない。まさに彼らは俗世の戦場を生きている。その生き馬の目を抜く戦場で、本来的なことに目覚め、立ち止まることは敗北を認めることにほからない。
 この小説には、本来的な視点から美登里に揺さぶりをかける人物が登場しない。つまり、金、地位、名誉をひたすら望む人間の存在基盤を打ち崩す人物が登場しない。そのことで美登里の野心は、厳しく検証されることもなくそのまま肯定されることになる。現代人の多くが、世界に頽落し、好奇心とおしゃべりと曖昧の非本来的諸様態を生きている限り、美登里の野心を批判することはできない。批判どころか、むしろ美登里は彼らの憧れの的であり、理想とさえ映っている。その意味で美登里は現代女性の内心(野望)を体現した存在となっている。この小説が多くの女性たちに読まれる理由もまさにここにあると言えよう。
 私が注目したのは、美登里の心のうちを一瞬走った〈にぶい痛み〉である。美登里が〈何くわぬ顔〉で鏡を閉じ、読者が本を閉じれば、この〈にぶい痛み〉も同時に消え去ってしまうのだろうか。
 美登里という名前はこの小説の主人公に相応しい名前である。この名前には〈里〉(田舎)から東京に出て、さらに〈美〉に登りつめるという意味が込められている。ただし、美登里が求めた〈美〉は崇高なる美でもなければ純粋な美でもない。美登里は外交官の未亡人が五年をかけて完成させた造花に〈ファイン・フラワー〉という新しい名前をつけて流行らせた。美登里は〈時代を読む目〉とコーディネート力を存分に発揮して売れっ子となったわけだが、ここで何よりもまず注目したいのが〈造花〉である。美登里が目指していた〈美〉とは、あくまでも〈造花の美〉であって、要するに本物の花の美ではなかったということである。美登里には初めから本物の美を追求する姿勢が欠けている。美登里を支配しているのは金・権力・名声といった現世的な欲望の達成であり、美そのものを探求する欲求はない。美登里のイケメン男好みも、その関係も所詮は〈ファイン・フラワー〉の次元にとどまっている。空港まで送ってきた長原は、こういった美登里の寸法に合わせて、美登里の〈欲望〉(虚栄と自己顕示虚)に巧みに、優しく調子を会わせていたと見ることもできる。尤も、こういった見方を美登里はもっとも嫌うであろうが。
 小説で描かれた限りで言えば、「最後の土壇場で、長原が執拗に誘わなかったことが、気にかからないといったら嘘になる」という美登里の内心の言葉が、一瞬、彼女の心のうちに走った〈にぶい痛み〉と直結するだろう。しかし美登里も、そして作者もこの〈にぶい痛み〉に執拗にこだわることはしない。美登里は〈何くわぬ顔〉をして、間に合った最終便で、虚飾に満ちた東京へと戻るほかはない。この飛行機は天空(崇高なる高み)へと垂直的に飛ぶことはしない。地獄へと落ちることもない。美登里を乗せた最終便はゆるやかな水平的軌跡を描いて、無事、東京へと着くであろう。が、雪は依然として降り続いている。


参考
『ルンルンを買っておうちに帰ろう』は美登里の内心をよく代弁している。「ひがむ一方だった女からの反撃」3(まえがき)、
「ブスはものすごくねたみ深い」42「女には誰でも「愛されたい」「目立ちたい」「自己主張したい」という欲求があるけれども、ブスがやるとすべて目ざわりになるのはなぜだろうか」44(ブスはやはり差別されても仕方ない)、
「愛情、金、時間、ふたりがうまくバランスをとってこそ恋愛といえると思うのだが、私の場合、完全なこちら側の“持ち出し”である」50「泣いたり、わめいたり、機嫌をとったりしながら、なんとか元のサヤにもどそうと必死になる。それでまたなんとかつきあいがはじまるのだが、まあ立場はだんだん不利になってきますな。エラソーな口をたたかれたり、おごってくれていたものが割り勘となり、やがて私が払うのが当然となるという経過をたどります」51「私の男への終着というのは、小さな子どもが古びた毛布を絶対に話さないというのと同じ。いじきたなさにケチとマゾっ気がいりまじって、私をいい女からほど遠くしている」51「女は後の記憶のために生きるにあらず、いまさえよければ、髪の毛ふりみだしてもそれにしがみつくものなんですよん」52「私は非常に嫉妬深い女性である。嫉妬深いということは、同時に独占欲が強いということに他ならない。/だからめったにないことであるが、運よく恋愛生活に入ると。疑心暗鬼、しつこく電話をしたり、まわりの情報を集めたりするのがいつものパターンである。/この情報収集というのが、職業柄私はすごくうまい。敵のつい最近までつきあっていた女の名前を知るぐらい朝飯前だ」53「大の男が自分のために必死で嘘をつくのってたまらなくいとおしい」55「他の女の悪口をいわせてまで愛されている確信を得ようとする、この女というものの貪欲さよ。本当に罪深いものだと思います」55「よく「男の気持ちがわからない」と女たちは深刻そうにするけれど、あれは嘘ですね。あれだけ恋にかけては悪賢くて敏感な女たちがわからないはずはないのだ。ましてや、いっしょに“寝た”ことが一度でもあるのなら、その答えはとうに出てるはずである」55「大きな差がつくのは、コトが終ってからだ。後悔というでっかい焼印をおされて、どてっとベッドに横たわる肉塊となっているのか、いとおしさが倍加した恋人となっているのか、それはその時、男がなにをしたかでわかりますね。/毛布をひっかぶり、背を向けて寝てしまう男などというのは問題外だが、」56(アフターケアで、本当に愛されているかどうかわかる)

「私って男にモノを買ってもらえない身の上なのね」63「男にモノを買ってもらう女って、肩の薄い、きゃしゃなイメージがある」64(男にモノを買ってもらう女は、やはり……うらやましい)、

「男をしるということは、確かに私にとって昨日までのひとつの論理が百八十度転回することであった」68「私のところへ会いに来るのも、タダでセックスができ、しかも愛情つき。沸かしたてのお風呂があってビールもある。朝食だって場合によってはつく」70(バージンをあまりいじめてはいけない)、

「私ってお金と名声が大好きな女なんだ」107「「売り込みがうまい」とか/「押し出しが強い女」とかいわれて毎日をおくっている。けれども私は一言も弁解しようとは思わない(そうでもないか)。私がお金とか名声を手に入れたいとのぞむなら、そういうことをいわれる恥や屈辱とひきかえに手に入るものだと思っているから」109(女だって、金、地位、名誉がほしいのだ)、

「いまの私を見て、「知的な」という表現をつかう人はあまりいないと思うが、昔は確かにそういうコースをたどっていたのである。中学一年からトルストイとか、ドフトエフスキーを読んでいたし、大江健三郎とか高橋和巳など、いまでは本屋の棚に並んでいるだけでも、見苦しくてサッサと通りすぎるような方々も、少女の私にとってはおいしいお菓子みたいだった」118「当時はコンパという学生相手の安く飲む場所があった。そこで、/「三島由紀夫とラディゲの根本的な差は……」/などと酒を飲みながら、男に喋りつづけていたのである」119~120「モデルをしていたというのが自慢の、やたら背の高いカッコイイ男。軽薄、女好きを絵に描いたような男に、なぜか私は彫れてしまったのである」121~122(この頃私はバカになりつつある)

「私のような性格の人間にとって、優越感ぐらい心地よい感情はない」132(優越感のシーソーで、女の友情は揺れるのだ)

「自分と同じ電波をはなつ人間、つまりものすごく野心家だったり、強気だったりする人間は徹底的に避けて生きてきた」141(ぐっと年上の女友だちというのはいいものだ)

「私がいつもいちばんでいたい。/私より目立つ女は許せない。/私だけがひとにチヤホヤされたい。/売れてない頃には、「賞もらいたい」「第一線に出たい」という願望があるのみだった。「たい」がいつのまにか、許せ「ない」という憎悪に変わっている」148~149(天地真理とワタシ)

角川文庫6272 昭和六十年十一月十日初版発行 平成十二年二月二十日五十一版発行より引用。

 

ドストエフスキー文学に関心のあるひとはぜひご覧ください。

清水正先生大勤労感謝祭」の記念講演会の録画です。

https://www.youtube.com/watch?v=_a6TPEBWvmw&t=1s

 

www.youtube.com

 

 「池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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 清水正の著作はアマゾンまたはヤフオクで購読してください。https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208

 

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

「清水正・ドストエフスキー論全集」第2巻紹介

清水正ドストエフスキー論全集」第2巻紹介

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・『清水正ドストエフスキー論全集2 停止した分裂者の覚書』
「意識空間内分裂」という概念を構築・提唱することで、М.バフチンの「ポリフォニー理論」における限界を「脱却」し、ドストエフスキー研究を「深化」・「前進」させ、研究史に強烈な存在感を印象づけた処女作『トストエフスキー体験』は、著者の「ドストエフスキー論」の「原点」にして「頂点」である。本書は、著者の「解体と再構築」理論における「批評の成果」であると同時に、ドストエフスキー研究に一大旋風を巻き起こす「新星誕生の狼煙」でもある。著者十九歳時における「幻のドストエフスキー体験」、四十年の時を経て復刻!!

«Масаси Симидзу - полное собрание работ о Достоевском. Том 2 - Заметки статичного разделителя»
Автор предлагает концепцию «разделения пространства сознания», чтобы избавиться от ограничений “теории полифонии” М.М. Бахтина. “Восприятие Достоевского” - это первая книга автора, которая “углубляет” и “двигает вперед” исследование Достоевского и является одновременно высшей и исходной точкой “работ о Достоевском”. Книга оставила яркий след в истории исследований Достоевского. Эта книга является “результатом критики” автором теории “сегментации и восстановления”. В то же время она является вестником появления нового исследователя, который совершит революцию в исследованиях Достоевского. Легендарное “Восприятие Достоевского”, написанное автором в девятнадцатилетнем возрасте, по прошествии сорока лет возвращается в этой книге!!