『清水正・ドストエフスキー論全集』紹介・第1巻

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第1巻

 

・『清水正ドストエフスキー論全集1 萩原朔太郎ドストエフスキー体験』
ドストエフスキーが近代日本文学に与えた影響は計り知れない。著者は、最もドストエフスキーに「肉薄」した近代日本文学の作家として「萩原朔太郎」を挙げ、萩原朔太郎の「ドストエフスキー体験」に対する実証的な考察、並びに埴谷雄高の「ドストエフスキーの摂取」に対する理論的な考察を立脚点とすることで、自身の「ドストエフスキー体験」について語る。本書は、著者が執筆した全ての「ドストエフスキー論」に対する「橋渡し」となると同時に、著者の「ドストエフスキー論」の「核」ともなるべき「珠玉の一冊」である。

«Масаси Симидзу - полное собрание работ о Достоевском. Том 1 - Сакутаро Хагивара и Восприятие Достоевского»
Влияние, которое Достоевский оказал на современную японскую литературу, огромно. Автор отметил Сакутаро Хагивара как писателя современной японской литературы, который наиболее приблизился к Достоевскому. Автор сравнивает эмпирическое “Восприятие Достоевского” Сакутаро Хагивара и теоретическое “Усвоение Достоевского” Ютака Ханья, и на этой основе излагает собственное “Восприятие Достоевского”. Данная книга является связующим звеном всех “работ о Достоевском”, а также драгоценным краеугольным камнем “работ о Достоевском” Масаси Симидзу.

清水正講師担当講座課題案内・第9回

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https://www.youtube.com/watch?v=Gb5qmul0blg&t=745s

ドストエフスキー文学に関心のあるひとはぜひご覧ください。

清水正先生大勤労感謝祭」の記念講演会の録画です。

https://www.youtube.com/watch?v=_a6TPEBWvmw&t=1s

 

www.youtube.com

 

 「池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

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清水正講師担当科目に関するお知らせ・第8回目

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清水正講師担当科目に関するお知らせ・第8回目

「雑誌研究」受講者必読

「どんぐりと山猫」は「文芸特殊研究Ⅱ」や「マンガ論」でも題材として使っています。わたしの受講者はぜひ読んでください。これはマンガ家で版画家でもあった畑中純の絵本「どんぐりと山猫」についての批評ですので、できれば畑中氏の作品も読んで欲しいと思います。畑中氏のマンガは宮沢賢治の影響を深く受けています。

 

賢治童話『どんぐりと山猫』で遊ぶ
ーー解体と再構築批評と畑中純の版画表現ーー

清水正


 わたしが集中して宮沢賢治の童話について批評を展開したのは四十歳から五十歳までの十年間である。一九八九年五月に『宮沢賢治ドストエフスキーーー「銀河鉄道の夜」と「カラマーゾフの兄弟」における死と復活の秘儀ーー』(創樹社・一九八九年)を上梓してから十年の間に共著・編著を含めて三十冊ほどの賢治論を刊行した。が、賢治童話の九割方を批評し終えて、とつぜん批評衝動が消失した。
 賢治童話の批評は、わたしが主宰するD文学研究会の機関誌「Д文学通信」に掲載してあるが、単行本に未収録のものも多い。今年は宮沢賢治生誕百二十年である。それで単行本未収録の批評を『清水正宮沢賢治論全集』の第二巻として刊行することにした。この全集は『清水正ドストエフスキー論全集』と同時に企画されたが、二〇〇七年一月にD文学研究会から第一巻『童話集「注文の多い料理店」を読む』を刊行したまま中断していた。ドストエフスキー論全集は第八巻まで刊行したが、宮沢賢治論全集の方までは手が回らなかった。過去に書いたものを刊行する場合、もっとも時間をとられるのが校正で、これが面倒なのでついつい後回しになってしまう。今回、刊行を決意したのは、まず第一に宮沢賢治研究の衰退・後退を痛切に感じたことがある。わたしが精力的に賢治童話論を発表していた十年の間にも感じていたことだが、宮沢賢治の作品はほとんど理解されていないということであった。中には熟読するに値する論文もあるが、中には驚くほど幼稚な読みの次元にとどまっているものも多い。一人の傑出した天才に何百の凡才が集まってワイワイガヤガヤやっているような感じであった。
 当時、わたしはワープロで原稿を打っていた。データはフロッピーで保存しておいたが、今やワープロ機は販売されておらず、手持ちのワープロ機二台も故障ぎみで正常に機能しない。それでも書斎や研究室を探し回って賢治童話論を保存したフロッピーを捜し当て、時間をかけてワードに移し替えることができた。当初五百枚ぐらいと思っていたが、三倍の千五百枚ほどあった。これらの批評は「Д文学通信」に発表はしてあるが、少部数発行で、宮沢賢治研究家といえども実際に手にした者はまれであろう。その意味でも今回の宮沢賢治論全集の第二巻刊行は意義があると考えている。
 さて、『どんぐりと山猫』論であるが、これはまず『宮沢賢治・童話のエロスーー「どんぐりと山猫」をめぐって』というタイトルで、Д文学研究会刊の手作り私家本全七冊として各二十部ほど作成した。表紙絵も自分で描き、色もつけたので同じ本は一冊もない。池袋西武のポエムパロールに置いてもらったがよく売れた。この批評は次に多少手直しして「江古田文学」26号(宮沢賢治特集第四弾・一九九四年)に一挙掲載した。さらにこれに手を入れ、章だてを一部変えるなどして刊行したのが『宮沢賢治・童話のエロスーー謎とき「どんぐりと山猫」ーー』(一九九五年七月 D文学研究会)である。
 『清水正宮沢賢治論全集』第一巻は、宮沢賢治が生前刊行したイーハトヴ童話『注文の多い料理店』(大正十三年十二月 杜陵出版部・東京光源社)に収録した全九編の童話(「どんぐりと山猫」「狼森と笊森、盗森」「注文の多い料理店」「烏の北斗七星」「水仙月の四日」「山男の四月」「かしはばやしの夜」「月夜のでんしんばしら」「鹿踊のはじまり」)についての批評を収録することにした。装幀は原孝夫に頼んだ。
 原孝夫は日芸美術学科卒業のグラフィックデザイナーで、石ノ森章太郎萬画館の総合プロデューサー、マンガジャパンの初代事務局長として知られていた。彼はわたしより七歳年下であったが、その風貌は貫禄があり、
いつも野性的、野心的なオーラを発していた。彼が時おり見せる会心の笑みは抜群にすてきであった。江古田の小料理屋「美登里」の女将に紹介されて出会って以来、所沢校舎で特別講義をしてもらったり、文芸学科の非常勤講師として後身の指導にもあたってもらった。彼が年一回、デザイン事務所の二階で開催する納涼祭では、マンガ界の大御所たちとも親しく言葉を交わすことができた。畑中純夫妻との出会いもこの納涼祭においてであった。
 原孝夫は高校生の時に手塚治虫の門下生としてマンガ修行に励んだが、才能に限界を感じ、グラフィックデザイナーを志したという。この話は、特別講義で拝聴した。原孝夫は終生、夢追人であったが、自分の夢に厳しく対していた。わたしは今、学生たちに夢を持つことの大切さを熱く語っているが、同時に夢を捨てることの潔さも語っている。腐った卵を、それと知っていながらいつまでも胸懐に抱いていてはいけない。見栄や虚栄にこだわって自己欺瞞に陥ってはならない。原孝夫は不断に闘い続けているデザイナーであった。わたしが彼に初めて自著の装幀を依頼したのは『つげ義春を読め』(二〇〇三年七月 鳥影社)であった。この本は限定百一部豪華版(二〇〇三年8月 鳥影社)も作った。後から知ったが、当時原孝夫はスランプ状態にあったが、この装幀の仕事で復活したということであった。
 原孝夫の仕事にかける情熱は半端ではない。装幀は謂わば本の顔であり衣装である。できあがると、会心の笑みを浮かべて「いいでしょう」と言う。出産したばかりの我が子を抱くように、できあがった本を眺めては二、三日至福の時を過ごすということであった。以来、わたしの本の装幀は原孝夫に一任するものが増えた。『志賀直哉ドストエフスキー』(二〇〇三年九月 鳥影社)、『チェーホフを読め』(二〇〇四年四月 鳥影社)、『志賀直哉ーー自然と日常を描いた小説家』(二〇〇五年十一月 D文学研究会)、『清水正ドストエフスキー論全集』第一巻『萩原朔太郎ドストエフスキー』(二〇〇七年三月 D文学研究会)『清水正ドストエフスキー論全集』第二巻『停止した分裂者の覚書』(二〇〇八年五月 D文学研究会)、『清水正ドストエフスキー論全集』第三巻『「罪と罰」の世界』(二〇〇八年九月 D文学研究会)、『清水正ドストエフスキー論全集』第四巻『手塚治虫版「罪と罰」』(二〇〇九年4月 D文学研究会)などがそれである。
 原孝夫は『清水正宮沢賢治論全集』第一巻『童話集「注文の多い料理店」を読む』のカバー表紙に53頁、カバー裏表紙と扉に27頁の版画を畑中純の『木版画 どんぐりと山猫』から採用した。畑中純の版画は墨一色で刷り上げているが、原孝夫はカバー表紙の山猫の二つの瞳と、前脚のあいだにあるどんぐり一個のみを墨刷りで残し、あとは茶刷りに変更している。
わたしは「文芸特殊研究Ⅱ」という講座で毎年『どんぐりと山猫』を取り上げている。江古田文学45号(平成十二年十月)では「『どんぐりと山猫』を読み解く」と「『どんぐりと山猫』の授業」の二編を掲載した。この作品に関しては何度もとりあげているのでもはや付け足すことはない。今回は畑中純の版画表現とわたしの再構築批評の違いを明確にするために最小限必要な点についてのみ記しておきたい。
 『どんぐりと山猫』といっても、テキストは複数存在する。この作品は宮沢賢治が生前刊行したイーハトヴ童話『注文の多い料理店』(以後、賢治版)に収録されているのだから、このテキストを採用するのが当然と考えるが、出版社は独自の編纂方針に従ってテキストを作成している。筑摩書房刊行の校本宮沢賢治全集の編纂に関わっている天沢退二郎は、筑摩文庫、および新潮文庫において校本全集とは異なったテキスト『どんぐりと山猫』を作成している。これは編纂というよりは改竄でありテキストに対する冒涜である。まずタイトルであるが賢治版で「どんぐりと山猫」とあるのを天沢版では「どんぐりと山猫」としている。賢治版の第一行目「おかしなはがきが、ある土曜日の夕がた、一郎のうちにきました。」は天沢版では「をかしなはがきが、ある土曜日の夕がた、一郎のうちにきました。」と改竄されている。一目瞭然、天沢退二郎は賢治版には付けていないルビ「やまねこ」をわざわざ付け、賢治がわざわざ付けているルビ「どえうび」「ゆふ」「いちらう」をはずしている。宮沢賢治に対する崇敬の念があるならこういったテキスト改竄はできるはずもない。天才宮沢賢治がテキストに仕掛けた遊び心がまったくわかっていない。ここでは詳しく語らないが簡単に、一行目のルビの重要性について触れておく。
 「おかしなはがき」は四行から構成されている。この四行に様々な謎が仕込まれている。そのうちの一つに〈う〉抜けがある。〈よろしいほ〉は〈よろしいほう〉、〈けつこ〉は〈けつこう〉、〈めんど〉は〈めんどう〉、〈とびどぐ〉は〈とびどうぐ〉というわけだ。この〈う〉抜けの文章を、第一行目の「かねた一郎さま 九月十九日」に適用すればどうなるかである。「かねたいちろさま くがつじゅくにち」となる。種明かしをすれば何てことはないが、しかし受講学生でこのように〈う〉抜けで朗読する受講生はいない。みんな例外なく「かねたいちろうさま くがつじゅうくにち」と、きちんと〈う〉を発音する。〈う〉抜けの文章なのに、なぜ漢字の箇所だけ〈う〉を発音してしまうのか。それは賢治が最初の一行目の文章にわざわざルビを振っていたからにほかならない。読者は賢治の指示通り「おかしなはがきが、あるどようびのゆうがた、いちろうのうちにきました」と読む。読者は作者の仕掛けなど意識せずにテキストに接しているから、とうぜんのこととして第一行目の、ルビの振っていない〈一郎〉を〈いちろう〉、〈十九日〉を〈じゅうくにち〉と読むことになる。まんまと賢治の仕掛けに乗ってしまうことになる。
 ここまで説明すれば十分にわかっていただけると思うが、生前の宮沢賢治が発表したテキストを編纂などという美名のもとに改竄することは許されることではない。賢治の童話にあっては〈ルビ〉〈ひらがな表記〉は重要な意味を持っている。一郎の苗字〈かねた〉は〈金田〉とも変換できるし、彼が何かを〈兼ねた〉存在であったとも解釈できる。一郎は〈めんどなさいばん〉に招待された存在であると同時に、被告として裁判所に出頭を命じられた存在でもある。「とびどぐもたないでくなさい」の〈くなさい〉は〈きてください〉というお願いでもあり、〈きなさい〉という命令でもある。要するに〈くなさい〉という言葉は依願と命令の両義を含んだ言葉(造語)なのである。最初の一行目の〈おかしな〉は〈奇妙な、不思議な〉〈可笑しな〉〈お菓子な〉、一郎の〈うち〉は〈家〉〈内〉などと解釈することができる。
 このようにざっと取り上げただけでも、賢治童話のテキストには愉快で深遠な謎が仕掛けられており、読者を不断に挑発してやまない。わたしは十年間、賢治童話を解体し再構築してきたが、その間痛感したのは、賢治の大多数の読者がテキストの表層をスケーティングしているだけで、テキストに仕掛けられた様々な謎を発見することさえできていなかったということである。さらに、賢治童話に内在する悪、力、エロスの側面に関してもほとんど関心が寄せられていなかったし、『オツベルと象』『ポラーノの広場』『貝の火』『グスコーブドリの伝記』などの作品に見られるユダヤキリスト教との関連性などに深く踏み込んだ研究もなかった。
 宮沢賢治の作品は〈童話〉ということで、子供にも読める工夫も必要と考える編集者によって安易な編纂が今でも行われている。漢字表記をひらがなにしたり、ルビを振ったりしいる。わたしはこれをよしとしない。角川文庫版『注文の多い料理店』(平成七年六月十五日 改版初版発行)はカバー裏表紙に「すでに新しい古典として定着し、賢治自身がもっとも自信に満ちて編集した童話集初版本の復刻版であり」云々と明記してあるにもかかわらず、『どんぐりと山猫』のタイトルで〈山猫〉に〈やまねこ〉のルビを付け、第一行目の〈土曜日〉の〈どやう〉、〈夕がた〉の〈ゆふ〉のルビをはずし、はがきの一行目の〈一郎〉に〈いちろう〉のルビを付けている。〈復刻版〉と強調しておきながら、このテキスト改竄はいったいどうなっているのか。ほかの岩波書店版、ポプラ社版のテキストなど、生前の賢治版に忠実なテキストはない。賢治童話の豊穣さを、テキスト編纂の時点で台無しにするようなことは回避しなければならないはずなのに、現在の出版界は売らんかな主義に陥って、テキストに対する崇敬の念を失っている。
 賢治童話に秘められた謎を発見するためには、読者はテキストに様々な疑問をぶつけることで、テキストに揺さぶりをかける必要がある。テキストを破壊するのではなく、一度徹底的に解体し、その上で再構築すること、そのことによって批評はダイナミックな創造性を獲得することになる。こういった批評は原作者の創造の場を奪いかねないので、わたしは現役の作家の作品は極力とりあげないことにしている。わたしの『どんぐりと山猫』の解体と再構築に興味のある方は『宮沢賢治・童話のエロスーー謎とき「どんぐりと山猫」』(一九九五年七月 D文学研究会)を是非読んでいただきたい。
 畑中純の『木版画 どんぐりと山猫』(一九九七年五月 筑摩書房)には、わたしのようなテキストの解体と再構築はない。畑中純は複数存在するテキストのうちからどのテキストを使用したのか。彫られたテキスト文字をみれば、賢治版、校本版でないことは確かである。
まずはカバー表紙を見てみよう。タイトルの〈どんぐりと山猫〉は茶色で、文字と絵は黒一色で統一されている。山猫の全身像が画面下部に大きく描かれている。顔は読者の側に向けられている。眼は大きく丸く、口は三日月型で歯は木琴風に、腹部にはグランドピアノが埋め込まれ黒と白の鍵盤として描かれている。後ろ脚の方に一郎少年が学帽・学生服姿の一郎少年がチェロを弾いている。一郎少年のイメージは宮沢賢治の子供時代を反映させているのであろうか。山猫の尾は美しい三日月の西洋琴を丸く抱え込んでいる。その尾には尖ったラッパ口の魚が☆型の音色を絶え間なく吹き出している。どんぐりたちは猫歯の月型木琴を叩き、両手を広げてピアノの腹部鍵盤を奏で、ある者はヴァイオリンを弾き、ある者はハーモニカを吹き、ある者はシンバルを鳴らし、ある者は大太鼓を叩き、ある者はラッパを吹き鳴らしている。猫の頭には指揮者のどんぐりが指揮棒を振っている。要するに、このカバー表紙絵はどんぐりと山猫と一郎による管弦楽(オーケストラ)として描かれている。『どんぐりと山猫』に畑中純管弦楽を聞き取ったのであろうか。
 閑話休題。わたしが初めて畑中純宅を訪れた時、眞由美夫人に案内されるままに、応接間を兼ねた〈仕事場〉に入った。生前の精力的な創造活動の現場がそのままに保存されているような生々しさを感じた。畑中純の仕事に打ち込んでいる時の異様な熱気が部屋中に漂っている。畑中純は死んでも、ここでは紛れもなく生きている、そんな感じである。わたしは冷静に部屋の隅々を凝視した。特に注目したのは書棚である。そこには伊藤整全集が鎮座していた。わたしが書棚に探していたのはドストエフスキーであった。が、残念ながらドストエフスキーの本は一冊も発見されなかった。眞由美夫人に確かめると、どうやら畑中純ドストエフスキーは読まなかったらしい。つげ義春宮沢賢治と好きな漫画家や作家が共通しているのに、畑中純ドストエフスキーを読んでいなかったことは意外であった。ところでわたしは伊藤整の作品をきちんと読んだことがない。二十歳前後の頃、『若い詩人の肖像』を読み始めて、そこにわたしの考える〈詩人〉を見いだすことができず、それ以来まったく関心の外にある。畑中純宮沢賢治伊藤整、わたしはドストエフスキー宮沢賢治、ここに二人の共通点と相違点があるのかもしれない。
 話を元に戻そう。畑中純は『どんぐりと山猫』を一枚絵で表現した時、管弦楽に構成した。畑中純の耳に様々な管弦楽器の音色が響きわたったということであうろう。カバー表紙絵には〈どんぐり〉〈山猫〉〈一郎〉しか描かれていなかったが、この交響楽はその他の登場人物(〈すきとおった風〉〈栗の木〉〈笛ふきの滝〉〈白いきのこ〉〈栗鼠〉〈せいの低いおかしな形の男〉〈山猫〉)などもとうぜん参加資格がある。であるから、畑中純はすべての登場人物を管弦楽のメンバーとして描くこともできたはずである。が、畑中純は登場メンバーを三人に絞った。畑中純は版画制作において、『まんだら屋の良太』の九鬼谷温泉における様々な男と女の入浴図とは一線を画して、大胆かつシンプルに構成した。畑中純の横溢する創造のマグマは、版画創作においては強く抑制をきかしている。
 ドストエフスキーの作品はロシア・フォルマリズムを代表するミハイル・バフチンによってポリフォニックな構成を持っていると指摘された。バフチンは「それぞれに独立して溶け合うことのない声と意識たち、そのそれぞれに重みのある声の対位法を駆使したポリフォニイこそドストエフスキイの小説の基本的性格である。多くの性格や運命がひとりの作家の意識の光に照らされて展開するが、そこではそれらの世界と等価値の多くの意識たちが、その性格を保持しつつ、連続する事件を貫いて結び合わされる」(バフチン著・新谷敬三郎訳『ドストエフスキイ論ーー創作方法の諸問題ーー』一九六八年六月 冬樹社 13頁)と書いている。
 バフチンは、ドストエフスキーが描き出すグロテスクなカーニバル空間、そのポリフォニックな世界を的確に理解するためには、読者もまたポリフォニック的思考法を身につけなければならないと言った。畑中純がシンプルに描き出したポリフォニィ的世界を、ポリフォニック的思考法を身につけた読者がみれば、白いキャンバスの余白上に次々と他の人物を登場させ、より豊穣な、深遠な、不気味な、畏怖を感触する管弦楽を指揮・演奏することになろう。畑中純の描く表紙絵は、奥行きを秘めた表紙絵で、この表層の管弦楽をさらなる管弦楽へと構成するのは読者の想像・創造力にかかっている。畑中純の表紙絵(特に画面上部の真っ白な余白部分)は、その意味で読者を不断に挑発しているとも言える。
 生前の畑中純とはほんの少し、挨拶程度の言葉しか交わしていない。それでも印象に残った言葉はある。「畑中さんは一日にどれくらい仕事するんですか」と聞いた時、彼はすかさず「起きている間中」と答えた。またわたしが「大いなるマンネリズム」という言葉を発した時、彼は体全体でうなずいた。『まんだら屋の良太』を十年間休むことなく描き続けた畑中純にしかわからない「マンネリズム」があり、ドストエフスキーを半世紀にわたって批評し続けている、わたしにしかわからない「マンネリズム」がある。からだでわかってしまう会話だから、当然会話は続かない。酒でも飲めばいろいろ突っ込んだ話もできたかもしれないが、若い頃肉体労働で生活費を稼いでいた、筋肉質で野性味のある畑中純がなんと酒を一滴も飲めないというのだから、人生いろいろ、まことにおもしろいものである。
 宮沢賢治について、『どんぐりと山猫』について、畑中純と話したことは一度もない。畑中純の『木版画 どんぐりと山猫』が筑摩書房から刊行されたのが一九九七年五月、わたしが『どんぐりと山猫』論を上梓したのが一九九五年七月である。刊行は二年ほどわたしの本が早いが、おそらく畑中純はわたしの本を読んでいないだろうから、お互いに何の影響も受けていない。わたしはわたしのやり方で『どんぐりと山猫』の世界に参入して解体と再構築の批評を展開し、畑中純畑中純木版画で『どんぐりと山猫』の世界に踏み込んで行っている。 
一枚目、畑中純は「おかしなはがきが、ある土曜日の夕がた、一郎のうちにきました。」を画にしている。画面中央に文字、読点、句点をテキストに忠実に縦書きで彫ってあるが、ルビに関しては特別の配慮はない。また原作で四行で表現されたはがきの文面は六行に変更されている。畑中純が採用したテキストは、「おかしな」を「をかしな」と変更している天沢・ちくま文庫版でないことは確かである。にもかかわらず、この木版画の本の最後に「この作品の本文は「宮沢賢治全集8」(ちくま文庫)を参考にしました。」とわざわざ記している。
 一郎の家は瓦屋根の立派な二階建ての家に描かれている。画面右下には自転車に乗った郵便配達夫がはがきを郵便受けに入れようとしている。これで畑中純は〈一郎のうち〉を〈家〉と解釈したことが分かる。一郎の〈内部世界〉に舞い込んできた〈おかしなはがき〉(不思議な、可笑しな、お菓子な)という多様な解釈の世界はここで閉じられたことになる。一郎は二階の部屋から顔をだして、はがきが届けられたことを確認している。右画面には茅葺き屋根の隣家も描かれており、一郎の家は野原の一軒家といった風ではない。わたしのイメージでは一郎の家は山の麓にある一軒家であったので、畑中純の描く家は意外であった。
 テキストを読む限り、一郎の両親や兄弟姉妹は登場していない。登場していない人物たちを描けば、その時点で原作から離れることになる。ここで畑中純は両親、兄弟姉妹は描かなかったが、原作に登場していない郵便配達夫を描いた。さらに原作で表現されていない〈瓦屋根の二階家〉〈茅葺きの家〉〈自転車〉などを描いた。文字で表現された童話の場面を画で描く場合、原作に限りなく忠実であろうとすれば、文字表現されていない事物を描くことはできない。畑中純はその意味で、原作に忠実であろうとはしていない。文字は変更していないが、原作からイメージしたものを彼なりに自由に表現している。
 〈瓦屋根の二階家〉は、一郎の〈うち〉が豊かであったことを示している。一郎ひとりが二階の部屋から顔を出していることは、彼が〈単独者〉〈絶対者〉であることを象徴的に指示している。〈一郎〉という名前は、彼が〈かねた家〉の嫡男であることを示しているが、彼は自分を山猫と秘密で交信できる〈絶対者〉と見なしていたことは明白である。はがきを受け取った一郎は、そのことを誰にも話さず、うちじゅうとんだりはねたりして喜んでいる。畑中純はそんな一郎を片手で逆立ちした姿に描いている。
 なぜ一郎は山猫から届いた〈おかしなはがき〉を秘密にしていたのか。〈秘密〉を守ることが交信の条件であったのだろう。一郎と山猫の間には、彼らにしか分からない交信内容があって、四行で書かれたはがきの文面だけでは分からないことがある。その一つが、〈めんどなさいばん〉が行われる場所と時間が書かれていないことである。この最重要な情報が抜けているのはどういうことか。つまり、この〈はがき〉が一郎以外の誰の手にわたっても、山猫が指定した〈めんどなさいばん〉所にはいけないということである。
わたしは『どんぐりと山猫』のテキストを一郎の秘められたオイディプス的野望(父親殺しと母親との合体)とその挫折、及びエロスの側面から徹底して解体・再構築した。一郎はね床にもぐってからも〈山猫のにゃあとした顔〉や〈めんどうだという裁判のけしき〉などを考えて、おそくまでねむることができなかった。〈猫〉が〈女性器〉の隠喩であることを思えば、一郎が興奮してねむれなかったこともよく理解できる。畑中純の画はもっぱら〈めんどうだという裁判のけしき〉に重点をおいて描いている。タイトル「どんぐりと山猫」は「ペニスと大きなカント」「男根と女性器」と置き換えることができる。まさに賢治童話はエッチで危ない童話であるのだが、長い間、テキストの深層にまで肉薄する読者がおらず、かなり牧歌的な読み方がされてきた。
 翌日、一郎が目にする「うるうるもりあがって」いる〈まわりの山〉はエロスと異界の文脈で見れば〈豊満な女体〉そのものであり、〈谷川に沿ったこみち〉とはまさに女性の深部(女陰)へと続く股間に沿ったみちなのである。わたしのイメージに最も叶っていたのはアンドレ・マッソンが一九三九年に描いた「エロティックな大地」である。暗い洞窟のような女陰に必死になって潜り込もうとしている男の姿は一郎のそれとぴったり重なるのである。一郎は女陰にもぐり込み、膣を通過して子宮へとたどり着く。
 ここで一郎が〈かねた〉姓であったことを想起すればいい。一郎は〈ペニス〉〈スペルマ〉などを兼ねた存在でもあった。はがきには「とびどぐもたないでくなさい」とあったにもかかわらず、一郎はまさに〈とびどぐ〉(ペニス)そのものとして〈子宮〉へと至りついてしまったのである。しかし、胎内回帰という母との合体を真に成就するためには、父と闘い、それに勝利しなければならない。この父親の隠喩として登場してきたのが片目で、足が山羊のようにまがった〈馬車別当〉である。一郎はこの男と戦わなければならない。しかし『どんぐりと山猫』だけではなく、賢治童話においては、父と子の決定的な闘いは巧妙に回避され曖昧なままに処理される。
 一郎は、〈谷川に沿ったこみち〉を〈かみの方〉へのぼって行った。〈かみ〉は現実的には〈上流〉を意味するが、象徴的な次元では〈女陰〉であり〈神〉である。一郎は〈神〉を目指している〈単独者〉〈絶対者〉であるから、山猫裁判長が解決できないことでもすぐに解決できると思っている。山猫は表向き一郎をたてて「これほどのひどい裁判を、まるで一分半でかたづけてくださいました。どうかこれからわたしの裁判所の、名誉判事になってください」とまで慇懃に申し出ている。が、山猫は同時に「そしてこれからは、葉書にかねた一郎どのと書いて、こちらを裁判所としますが、ようございますか」「はがきの文句ですが、これからは、用事これありに付き、明日出頭すべしと書いてどうでしょう」とも言っている。山猫は一郎の〈神〉にもなろうとする傲慢を裁く側にも立っている。まさに一郎は〈被告〉をも〈兼ねた〉存在として、裁判所から出頭を命じられる時もあるということだ。が、テキストに仕掛けられた様々な謎が発見できなければ、『どんぐりと山猫』を多義的な意味をはらんだ豊穣な世界として再構築することはできない。
 もし、畑中純が『どんぐりと山猫』のエロス的ファンタジー世界をマンガ『まんだら屋の良太』のように奔放自在な描方で描いたならば、さぞ圧巻であったろう。木版画『どんぐりと山猫』は敢えて象徴的多義的世界を封印し、一義に抑制することで骨太の原初的、野性味溢れる世界を開示したと言えようか。畑中純が版画化した世界は、謎ときされたテキストの版画化ではなく、あくまでもさまざまな謎や仕掛けが封印されたままのテキストをもとにしたものである。わたしが豊満な乳房をもった女体と見たうるうるともりあがった山を、畑中純は男性的な雄々しいものとして描いている。さまざまなかたちを誇り、言い争うどんぐりたちも、その〈ペニス〉的側面は押さえ込まれ、表情は様々だが一律の〈どんぐり〉(その大きさはほとんど同じ、まさにどんぐりの背比べ)として描かれる。
 山猫は一郎を招待した〈めんどなさいばん〉のいっさいの秘密をあかさず、最後までおとぼけを決め込んでいる。一郎は、未だ〈被告〉を〈兼ねた〉存在であることを認識できていない。畑中純が描く山猫は秘密を隠し通した〈おとぼけの山猫〉であり、一郎は、未だ裁かれることを知らない〈純朴な一郎〉である。
 今回『日本のマンガ家 畑中純』を刊行・監修するにあたって、わたしは担当する専門講座「マンガ論」「雑誌研究」「文芸批評論」「文芸特殊研究Ⅱ」の受講生に対し、畑中純に関する課題レポートを提出してもらった。「文芸特殊研究Ⅱ」は一年間を通して宮沢賢治の童話を取り上げ、朗読、演技、講義をダイナミックに展開している。『どんぐりと山猫』の講義を受けた学生たちが、畑中純木版画『どんぐりと山猫』をどのように受け止めるか、二千字ほどの感想を寄せてもらうことにした。受講生は畑中純のマンガを知らないまま、木版画『どんぐりと山猫』の感想を寄せてきた。畑中純の版画に素直に新鮮な驚きを覚えたようだ。どれもが概ね好意的な感想であった。
 畑中純の版画はまず何よりも迫力が漲っている。原初的、野性的な生命力が横溢している。見るものに、いきなり破壊的なアッパーカウントを食らわせてくるような、凶暴なエネルギーを発散している。畑中純は白いきのこたちの変な楽隊ぶり、ぶなの枝々を軽やかに飛翔するりす、自己自賛するどんぐりたちの喧噪ぶりなどを丁寧に大胆な構図に彫り上げている。と同時に、山や笛ふきの滝、一郎、馬車別当、そして山猫を画面いっぱいに大きく彫り上げることで迫力を出している。
 畑中純は文字を彫り、一郎を彫り、馬車別当を彫り、山猫を彫りながら、『どんぐりと山猫』の世界に参入している。この参入の仕方は〈謎とき〉や〈解体〉の方法とはまったく違う。畑中純は迷うことなく、直観によって導かれるままに『どんぐりと山猫』の世界を彫りこんで行った。畑中純が彫る線は男性的で断定的で、そこに迷いや懐疑はない。確信を持った者のみが彫ることのできる、一回性の線である。この線はやり直しがきかない、一本一本が真剣勝負の線である。山猫や一郎、それに馬車別当は主に顔と上半身が大きくアップで彫られている。そこに彫られた肖像が、畑中純がとらえた紛れもない一郎であり、山猫であり、そして馬車別当である。先に指摘したように、山猫は〈かねた一郎〉に対する秘密を最後まで抱え込んで、おとぼけを決め込んでいるが、畑中純はそんな山猫の海千山千の一筋縄ではいかない表情を無意識のうちに彫り上げている(28~29頁。58頁参照)。
 52~53頁の見開き画面いっぱいに山猫が野原(天空)を飛翔する姿が彫られている。この山猫は、どんぐりどもに対して「このなかで、いちばんえらくなくて、ばかで、めちやくちやで、てんでなっていなくてあたまのつぶれたようなやつがいちばんえらいのだ」と最終判定を下した後の姿である。判定時の山猫は、まるで絶大な権力を掌握した独裁者、容赦なく試み裁く旧約の神のごとき者として、その顔が恐ろしげに大きく彫られている。槍の穂先のように鋭くとがった両耳、大きく見開いた瞳は砕け、口は大きく開かれて鋭い歯を剥き出しにしている。次の54~55頁は見開き画面いっぱいに、この絶対者・山猫の両目と上歯だけをアップで大胆にデフォルメをきかして彫り上げている。本来、畏るべき独裁的絶対者の山猫が、どんぐりを真ん中から断ち割ったような両目、ピアノの白鍵盤のような歯に彫られることで、圧倒的な恐ろしさの中にもユーモアと優しさが感じられる。
 この迫力満点の山猫画の後に野原を飛翔する山猫の全身像が現れる。わたしが見るところ、この山猫は宇宙をも自在に飛翔することのできる絶対者であり、試み裁き、そしておとぼけを決め込む異形なる者である。畑中純の彫った山猫のくるくると〈の〉の字に形に彫られた尾に注目しよう。これはハートの形に見える。畑中純にとって山猫は、試み裁く恐ろしい山猫以上に、裁きの後に愛と赦し体現する新約の神のような存在としてとらえられていたのかもしれない。否、どんな言葉でもとらえきることのできない、山猫の異形性を、その異形性のままに彫り上げたのが畑中純の山猫と言えようか。
 畑中純の版画『どんぐりと山猫』でわたしが最も異様な躍動感を覚えたのは、〈黄金のどんぐり一升〉をお礼にもらった一郎を、山猫と別当が馬車で送り届ける画面である。〈白い大きなきのこでこしらえた馬車〉には〈ねずみいろの、おかしな形の馬〉がついている。馬車は一挙に草地を離れ、一郎の家を目指して飛ぶように駆ける。山猫や別当が存在する異界から、一郎の住む現実の世界へと駆け走る。62~63、66~67、68~69頁で描かれた飛翔する馬車は、見る者を異世界へと招き入れる怪しいエネルギーを発している。感性豊かな子供はこの異世界へと拉致されてしまうかもしれない。その意味では、畑中純木版画『どんぐりと山猫』は危険な魅力を持っている。
 一郎が、谷川に沿ったみちを〈かみ〉の方へ踏み込んでいく場面では、まだ異界の光景というよりは、現実世界を引きずっていたが、大きな白いきのこの馬車で送り届けられる画面に至っては、紛れもなく一郎が招待された場所は異界であったことがわかる。別当の振り上げた鞭と馬の脚は、山猫の尾のように〈の〉の字形に渦を巻いているが、これは蛇の尾にも見える。この渦巻模様は世界の中心点をめぐる永遠の旋回運動でもある。一郎がたどり着いた〈異界〉は宇宙の中心点にある。この〈異界〉から〈一郎の家〉までの距離はゼロであり、ここには物理的時間は働いていない。ゼロの異界から一郎の家までにかかる時間はゼロである。畑中純の彫り上げた画面は、このゼロ地点からゼロ点までの無距離、無時間の馬車の飛翔を体現したかのように感じられる。畑中純は無距離、無時間の馬車の飛行を、あたかもそこに現実時間が作用しているように描いている。賢治童話の世界に版画家畑中純がいきなり参入して体現した世界は、まさに賢治童話の異様な恐る(畏る)べき世界であった。
 「馬車が進むにしたがって、どんぐりはだんだん光がうすくなって、まもなく馬車がとまったときは、あたりまえの茶いろのどんぐりに変わっていました。」ーー家の前で茶色の〈どんぐり一升〉の升を両手にもった一郎が呆然とした表情で立ち尽くしている。山猫裁判長ですら解決のつかなかった〈めんどなさいばん〉を一分半で解決に導いた一郎は名誉判事になってくださいとまで言われたが、お礼にもらった黄金のどんぐりは、ふつうの茶色のどんぐりへと変わってしまった。これが、山猫が一郎に下した判決である。つまり自分を〈神〉にも匹敵すると思っている傲慢な一郎は、山猫によってふつうの人間という判決を受けたのである。これが了解できれば、一郎はもはや山猫が主宰する裁判所から〈出頭すべし〉というはがきを受け取る必要はない。すでに一郎は裁かれた存在として〈家〉に送り届けられたのであるから。
 最後に畑中純の版画『どんぐりと山猫』を見読しながら、ふっと連想したことを書いておく。18~19頁の見開き画面、一郎が谷川の南の、まっ黒な榧の木の森の方へと向かう場面は、『銀河鉄道の夜』のジョバンニ少年が配達されなかった牛乳を町はずれの牧場まで取りに行くために、外灯のついていない暗い坂道を降りていく場面を想起させる。74~75、76頁の画面はつげ義春の『初茸狩り』の場面を想起させる。畑中純つげ義春の愛読者であり、住まいもつげ義春と同じ調布である。木版画『どんぐりと山猫』の世界につげ義春作品をさりげなく取り入れているというのもおもしろい。
 さて、この論もそろそろ幕を下ろすことにしよう。原孝夫や畑中純が生きてさえいれば、宮沢賢治の童話に関してもいろいろと意見を交わし、新たな解釈を盛り込んだ賢治本も刊行できたと思うが、残念ながらそれは叶わぬ夢となった。

初出は「日本のマンガ家 畑中純」(日大芸術学部図書館刊行)

 

 ドストエフスキー文学に関心のあるひとはぜひご覧ください。

清水正先生大勤労感謝祭」の記念講演会の録画です。

https://www.youtube.com/watch?v=_a6TPEBWvmw&t=1s

 

 「池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

清水正講師担当科目に関するお知らせ・第7回目


清水正講師担当科目に関するお知らせ・第7回目

「マンガ論」の受講者は参考に下の動画を観てください。

「文芸特殊研究Ⅱ」の受講者は引き続き「カラマーゾフの兄弟」を読み続けてください。読み終えたひとはクラスルームで知らせてください。

 

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 ドストエフスキー文学に関心のあるひとはぜひご覧ください。

清水正先生大勤労感謝祭」の記念講演会の録画です。

https://www.youtube.com/watch?v=_a6TPEBWvmw&t=1s

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清水正講師担当科目に関するお知らせ・第6回目


清水正講師担当科目に関するお知らせ・第6回目

「マンガ論」「文芸批評論」受講生は下の動画を観てください。2015年の11月に録画したものです。入院前で、まだ元気があった頃の授業です。「罪と罰」における死と復活をテーマに話を進めています。このブログに常時張り付けてあるのでわたしの動画では最も再生数が多いものです。今まで誰も指摘していなかった新解釈を展開していますが、ドストエフスキー初心者には、何が革新的な解釈かも理解できないと思います。何十年もかけて読み続けてこなければ見えてこない世界というものがあります。「罪と罰」の中でソーニャがロジオンに請われて朗読する「ラザロの復活」の場面に関して、わたしは今も批評し続けています。この場面は驚くべき神秘的な場面で、何度読み返しても新たな発見があります。

 わたしが最初に「罪と罰」に関して批評したのは二十歳の時、日藝文芸学科に入学した年です。大学紛争で授業はできず、わたしは江古田の段ボール工場で一時間百円のバイトをしながら「白痴」論「悪霊」論「カラマーゾフの兄弟」論と書き進め、最後に「罪と罰」論を書き終えて、それらを「ドストエフスキー体験」として一冊にまとめ、二十歳の時に自費出版しました。早稲田の大隈会館で「ドストエーフスキイの会」の総会が行われたとき、わたしはこの本を持参し、小沼文彦氏に二冊、江川卓氏に一冊購入していただきました。そんなこんなの縁でわたしは小沼氏が主宰する「日本ドストエフスキー協会資料センター」に一年ほど通ったこともあります。

わたしが大学に入学した昭和43年は熱い政治的季節で、学生たちはみなノンポリを含め、大学改革や社会改革の情熱にあふれていたように思う。江古田駅から校舎まで連日デモ行進が繰り返され、やがて校舎は封鎖されることになった。わたしは当時から革命幻想はなく、ひたすらドストエフスキーを読み続けていた。文学はひとりでなす革命だと思っているので、その戦いは今も続いている。ドストエフスキーは日本で革命運動が活発化する百年も前に「悪霊」を書いて革命の幻想性を鋭く剔抉していたにもかかわらず、当時の革命運動家にはそれが見えなかった。否、2020年の現在においても事情は変わらない。共産主義という怪物は資本主義の衣装をまとって日本の政界財界人をかどわかし続けている。

今の政治家や財界人に欠けているのは文学や哲学である。プーチンと外交交渉に臨む日本のトップがトルストイの「戦争と平和」やドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読んでいればどれだけ説得力のある顔つきになるだろうと思う。が、まったく期待していない。国家ヴィジョンを明確に打ち出せない、構想力、決断力がない。スピード感がまったく感じられない。

わたしは老人なので自粛政策に不満はないが、若い人たちが「おとなしい」のはどういうことだろう。知らぬ間に牙も爪も抜かれてしまったのだろうか。 

 

清水正講師担当科目に関するお知らせ・第5回目

 

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清水正講師担当科目に関するお知らせ・第5回目

「マンガ論」「雑誌研究」「文芸批評論」「文芸特殊研究Ⅱ」の受講生は上の動画を必ず観てください。4年前の2016年、最初の「雑誌研究」の授業ですが、日芸の学生全員に観てもらいたい動画でもあります。図書館長時代に刊行した「林芙美子の芸術」「世界の中の林芙美子」「日本のマンガ家 日野日出志」「日本のマンガ家 つげ義春」「〇型ロボット漫画」、「日藝ライブラリー」第一号特集・大学図書館、「日藝ライブラリー」第二号特集・大学図書館、さらに日藝創設者松原寛について語っています。この授業には間に合いませんでしたが「日藝ライブラリー」第三号は松原寛特集号を組んでいます。編集作業は三か月の入院中に行っています。「日藝ライブラリー」は図書館で無料配布していますので是非手に取って見てください。わたしは入院中に250枚の「罪と罰」論と450枚の松原寛論を執筆しました。日藝魂の源流は創設者松原寛の哲学・宗教に求めることができます。わたしは入院中に入手し得る松原寛の著作を読み、日藝魂は「苦悶せよ 求道せよ 創造せよ」という言葉に集約されると強く感じました。苦悶と求道なき創造活動はない。江古田に集まれし日藝諸君、どんな時にあっても日藝魂で創造活動に邁進してください。

 

https://www.youtube.com/watch?v=WRpu6m5lBX8 

清水正講師担当科目に関するお知らせ・第4回目

今回は「雑誌研究」課題テキスト「どんぐりと山猫」の読みに関して簡単に触れます。

簡単に触れる理由は、まず第一に受講生一人一人が自分の頭で考えてもらうことを大事にしているからです。テキストをいかに読み込んでいくか。たとえばタイトルの中の「どんぐり」とは何か、「山猫」とは何を意味しているのか、といったことに疑問を抱くことです。さらになぜ「どんぐり」はひらがな表記で「山猫」は漢字表記なのかと考えます。宮沢賢治の童話テキストは様々あり、タイトルからして違います。それを知るには入手し得る限りのテキストを実際に見る必要があります。そしてなぜそのように様々なテキストがあるのかを考えれば、一つのテキストが世の中に出てくるうえで、著者ばかりでなく、担当編集者や編纂者、出版社側の考えが大いに影響していることも分かってきます。一つの童話テキストに様々な角度から疑問の矢を放ち続けることによって、テキストは大きく変容していきます。こういった批評方法は、単に作品批評に限らず、現実の諸問題に関しても適用できます。とりあえず、自分でテキストに様々な疑問を投げかけ、謎ときに挑戦してください。

 

 

清水正講師担当科目に関するお知らせ・第3回目

「文芸特殊研究Ⅱ」の受講者は引き続き指定したテキスト「銀河鉄道の夜」と「カラマーゾフの兄弟」を読みすすめてください。読むだけで一か月以上かかると思いますのであせらずじっくり味わいながら読書してください。

夏目漱石門下の一人であった芥川龍之介は「カラマーゾフの兄弟」を三日で読んでいます。それも英訳のテキストでです。同じく漱石門下でドストエフスキーの愛読者であった森田草平は芥川に向かって「「カラマーゾフの兄弟」は一か月はかけて読まなければならない」と言ったそうですが、わたしはその草平に向かって「「カラマーゾフの兄弟」は一か月ばかりで読んではいけない。この作品は一生をかけて読まなければならない」と言いたい。それほどこの作品は巨大な作品です。若い時に偉大な作品に立ち向かうことが大事です。ドストエフスキーの深遠な世界でのたうちまわってください。

「マンガ論」の受講生も引き続き「罪と罰」を読み続けてください。

 

◎「罪と罰」のテキストは原則として江川卓岩波文庫を指定していますが、別の訳者のものを購入したひとはそれで読んでください。

 

清水正講師担当科目に関するお知らせ・第2回目

「文芸批評論」の受講生はまず「罪と罰」のテキストを入手し、読み始めてください。ひとによって読む速度は異なりますが、最低一か月はかけてじっくり読み進めてください。ロシア人の名前は名・父称・姓からなっており、「罪と罰」の主人公の名前はロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフとなります。作品の中ではロジオンとかロジオン・ロマーノヴィチとか単にラスコーリニコフなどと表記されています。また愛称でロージャとも呼ばれています。ラスコーリニコフは23歳の青年ですが、母親のプリヘーリヤからは愛称で呼ばれています。名前の表記が複雑で、これが原因でロシア文学を敬遠するひともおりますが、慣れてくれば、名前一つの呼び方でその人間関係がわかって、面白く読みすすめることができます。

罪と罰」のような長編小説を読むためには、まず登場人物をきちんと把握する必要があります。面倒がらずにノートをとってしっかりと頭に叩き込んでおくことが肝要です。次に筋や人物関係をしっかりと認識する必要があります。この作品はわたしと江川卓氏は全13日説をとっていますが、未だ確定的な事実とは言えない点もあります。ひとの意見に左右されることなく、自分で確かめることが大事です。ぜひ試みてください。

わたしは「罪と罰」を50年以上にわたって読み続け、今も批評しております。「罪と罰」は過去の異国の文学というよりは、永遠に「現代文学」なのです。今、世界的に新型コロナが話題になっていますが、こういった人類を危機的状況に追いやる感染症の問題に関しては、アルベール・カミュが「ペスト」という作品で徹底的に追及しています。カミュが最も影響を受けた作家がドストエフスキーであり、「罪と罰」の中には、ラスコーリニコフの悪夢として「理性と意志を賦与された施毛虫」によって人類が破滅することが描かれています。

地上メディアでは連日新型コロナのことが取り上げられていますが、残念ながらドストエフスキーカミュの文学の次元には達していません。ドストエフスキーの文学は政治・経済・社会・心理・精神病理・哲学・宗教の問題がすべて含まれていると言っても過言ではない。青春期にドストエフスキーカミュの文学に触れることは、一過性ではない永遠の次元で「人間とは何か」を深く考える一契機、否、決定的な契機となるでしょう。ドストエフスキーは17歳の時に兄ミハイル宛の手紙で「人間は謎である。この謎を解くために一生を費やしても悔いはない」といった趣旨のことを書いています。

文芸学科に入学してきた者たちの使命は、言葉を通して人間の、世界の神秘に立ち向かっていくことです。神秘とは謂わば神が秘め隠したということで、単なる被造物である人間に神秘の謎が解けるものではありません。謎という言葉は、それを解こうとすれば言葉が迷うということで、時に天才的な数学者や芸術家を狂気の淵へと連れ込んでしまいます。しかし、わたしはいつも言っています。永遠に解けぬ「神秘」を眼前にして一歩も退かず、言葉によって表現し続ける者、それが文学者・詩人・作家である、と。

こういった厳しい、孤独な道を死ぬまで歩み続けること、それが文学者の使命である。

 

下記の動画は2016年の5月31日の「文芸批評論」の授業です。わたしは2015年の暮れに日大病院に入院、難病指定の水疱性類天疱瘡と診断され三か月ほど入院生活を余儀なくされました。治療中に帯状疱疹にかかり、今も帯状疱疹後神経痛に襲われ続けています。左腹部に電流のような痛みが数秒ごとに襲ってくるという実に厄介なものです。動画でもわかると思いますが、講義中ずっと痛みに襲われているので、声もよく出ず、思うような授業展開にはなっていません。聞きづらい点も多々あると思いますが、ご容赦のほどお願いします。「罪と罰」を読み終えた段階で観てもらってもいいし、途中の段階で観てもらってもけっこうです。興味のあるひとは「「罪と罰」の出だしを読む

」の2も観てください。

「「罪と罰」の出だしを読む」1

https://www.youtube.com/watch?v=GDoxSjWewt4&list=UUPjKs2BsVoPWC1qWghus1Ug&index=48

 

 

清水正の著作の購読申込、課題レポート、問い合わせなどは下記のメールにご連絡ください。
shimizumasashi20@gmail.com 

日芸文芸学科・

令和二年度は当分の間オンライン授業の形式で行うということで、担当科目の課題指示および当ブログの見方を簡単に案内しておきます。

まず清水正のプロフィールや著作等に関しては当ブログ画面右のプロフィールやカテゴリー内の「著作」の項を開いてください。

また授業や講演などを動画で観る場合は下記のわたしの肖像写真の箇所をクリックしてください。

 

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「文芸批評論」と「マンガ論」の受講生はまず第一に「罪と罰」を読み通してください。テキストはできるだけ江川卓岩波文庫を選んでください。一か月か二か月かけてじっくり味わいながら読んむこと、筋や人物名、足取りなどきちんとノートしながら読むのがよい。読み終えたら自分でテーマを探して感想や批評を書くこと。自分なりの考えをまとめたうえで、次に内外の思想家、小説家、批評家などが「罪と罰」をどのように読んだのかを確かめるのがよい。こういった読みと批評の作業は長い年月を要するのが当たり前で、二、三か月でできるものではない。文芸学科に入ったからには徹底して本を読み、その深遠なる世界に参入しなければならない。

「文芸批評論」は「罪と罰」の他に林芙美子の「浮雲」を読んでもらいますが、この作品は「罪と罰」を読んでからにしてください。やる気のある学生はさらにドストエフスキーの「悪霊」を読んでください。林芙美子の「浮雲」は「悪霊」の影響を受けています。

「マンガ論」は例年、つげ義春の「チーコ」から講義を開始しますが、本年はドストエフスキーの「罪と罰」と手塚治虫のマンガ版「罪と罰」に絞ります。とりあえずこの二作品を読了してください。課題に関しては後に指示します。

「雑誌研究」宮沢賢治の童話「どんぐりと山猫」から始めます。まずこの作品を読んで20ほど疑問点を見つけ、そのうちの3点に関して自分なりの意見を各々2000字でまとめてください。提出日や場所はいずれ指示しますのでそれに従ってください。

「文芸特殊研究Ⅱ」宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」とドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読んでください。テキストは特にこだわりません。読むだけでそうとう時間がかかりますが、とにかく挑戦してください。

わたしの著作で読んでもらいたいのは「文芸批評論」は「清水正ドストエフスキー論全集」第3巻、「マンガ論」は「清水正ドストエフスキー論全集」第3巻、第4巻、第5巻、「文芸特殊研究Ⅱ」は「清水正ドストエフスキー論全集」第10巻です。

第3巻4巻5巻は「罪と罰」論、特に第4巻は手塚治虫のマンガ版「罪と罰」に関して徹底して検証してあります。ただしこの巻は品切れ状態にあり、アマゾンなどでは高額になっていますので、定価3500円前後のものを入手するようにしてください。余談ですがこの第4巻はアマゾンで百万円で出品されたこともあります。

 

 池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube