文芸批評の王道    夏目漱石から清水正へ 連載2 此経啓助

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ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

ドストエフスキー曼陀羅」9号に掲載した此経啓助氏の原稿を連載します。

文芸批評の王道
   夏目漱石から清水正
 連載2

 
此経啓助

「自己本位」の原点
  清水先生の処女評論集『ドストエフスキー体験』は、先生 の「感謝祭」に出版された雑誌『ドストエフスキー曼陀羅   特別号』添付の「清水正の「ドストエフスキー論」自筆年譜」 によれば、「十九歳から二十歳にかけて憑かれるようにして 執筆したドストエフスキー論。『罪と罰』『白痴』『悪霊』『カ ラマーゾフの兄弟』論を収録」したものだ。同書の「あとが き」で、「私はドストエフスキー作品を読んだ時の感動をそのまま表現したかった。けれどもエッセイを書くことは、私 にとって躓きであった。偉大な作品を分析しようとする試み は常に失敗せざるを得ないのだし、それだからこそ偉大な作 品と言えるのだろう」と述べている。感動の率直な体験記述 とそこから距離をおいた作品分析(エッセイ)との間の溝を、 どのように架橋していくか。
  先生のデビュー当時、溝は広かった。「自筆年譜」に、先 生のはじめての講演(「ドストエフスキーの会」の講演「『罪 と罰』と私」)での先生が「会衆の毒気を抜いた」様子が載っ ている。
  「居心地が悪い。ズカズカ人の居間に土足で上り込まれた ようで苛立たしい。ルール無視の話し方だ。(中略)個性的 である。数多く頒布されている評論解説の影響と模倣がみら れない。裸の肉体をドストエフスキー御本尊にぶっつけて得 た紛れもない自分の言葉で語り続ける」(近藤承神子「第九 回例会印象記」)
  五〇年後の先生は、こう振り返っている。

  「この近藤氏の例会印象記は当時のわたしのドストエフス キーに憑かれていた姿をよくとらえている。わたしはわたし のドストエフスキーをわたしの言葉で語ったまでだ。が、そ の言葉はある種の人にとっては常軌を逸した熱狂的な言葉に 聞こえ、苛立ちを覚えるのだろう。わたしの批評はテキスト に揺さぶりをかけて一度テキストを解体し、再構築をはかって作品化するという試みである。テキストが〈人間〉である 場合、揺さぶられて解体されてはたまらないと感じ、はげし く抵抗するのもとうぜんということか」(「自筆年譜」に付け られた「自註」より)
  一方、漱石は待望の「語学研鑽でなく文学研究も可とする」 という文部省からの一札をとってロンドン留学をはじめたの だが、留学には漱石の「文学」とは何かという問いへの熱い 思いがあった。漱石は『文学論』の「序」で、こう述べる。
  「大学を卒業して数年の後、遠きロンドンの孤燈の下に、 余が思想ははじめてこの局所に出会せり。(中略)余がこの 時はじめて、こゝに気が付きたるは恥辱ながら事実なり。余 はこゝにおいて根本的に文学とはいかなるものぞといへる問 題を解釈せんと決心したり」(角川書店刊『夏目漱石全集 14 』 所収)
  この問題の回答が前述の三部作に込められている訳だが、 それらは漱石が帰国後、東京大学で講義したテキストでもあ る。帰国後、最初に講義したのが「英文学形式論」で、もと もとの題目は「英文学概説」だった。次が「文学論」で、漱 石本命の講義だった。続けて「文学評論」を講義した。『文 学評論』にまとめられた内容は十八世紀のイギリス文学史だ が、講義のガイダンスに相当する「第一編   序言」で、文学 研究の手続きをめぐって長々と自説を展開している。要点は こうだ。(『同全集 15 』より)
  まず漱石は私たちが作品に「対する態度は大別して二とな す」という。「一は自己の好 こうしょう 尚をもってこれに対するもの、 すなわちあるものを見るのに面白いとか詰 つま らないとかいう態 度である。しばらくこれを称して鑑賞的( appreciative )と いっておこう。他の一つは自己の好尚があるないにかゝわ らずしてそのものの構造、組織、形状等を知るための態度 で、すこぶる冷静なるものである。しばらくこれを称して非 鑑賞的( non-appreciative )または批評的( critical )といっ ておこう」。しかし、この二つの態度を作品解釈の手続きと して詳細に見れば、「最初は面白かったから面白かったとい う感情から出立する。この点においては鑑賞的な態度であ る。しかしいったん出立した後は分解をやるのみである。と ころがこの分解は批評的な態度ではじめてできるものであ る。してみるとこの手続はまるで感情的ばかりではない。す なわち双方の混じたものである。吾人の物に対する態度の 第一を鑑賞的と名づけ、第二を批評的と名づけたが、この 三は中間にあって双方を含むものだから批評的鑑賞( criticoappriciative )とでも名づけてよかろうと思う」とまとめている。
  もちろん、漱石はこれが理論上の手続きであって、実際の 「批評的鑑賞」がどれだけ混沌としているかをよく承知して いる。「外国文学を研究している者は言語の相違という障害 物に迷わされて」とか。
  「しからば吾人が批評的鑑賞の態度をもって外国文学に向う時は、いかにしたらよかろう。余はこれに二法あると思 う。一は言語の障害ということに頓 とんちゃく 着せず、明瞭も不明瞭も 容赦なく、西洋人の意見に合うが合うまいが、顧慮するとこ ろなく、なんでも自分がある作品に対して感じたとおりを遠 慮なく分析してかゝるのである。これはすこぶる大胆にして 臆 おくめん 面のない遣 や り口 くち であると同時に、自然にして正直な、詐 いつわ り のない批評ができる。しかしてこの批評が時とすると外国人 の批評と正反対になることがある。しかし西洋人と反対にな るということが、あながちに自己の浅薄ということの証明に はならない。これを浅薄と考うるのは今の世の外国文学を研 究する者の一般の弊であって、吾人は深く省みてある程度ま でこの弊を矯 きょうせい 正しなくてはならん」
  「批評的鑑賞の態度についていま一つの方法は西洋人がそ の自国の作品に対しての感じおよび分析を諸書からかり集め て、これを諸君の前に陳列して参考に供するのである。これ は自己の感ではなく、他人の感である。他人がある文学上の 作品に対する感は自己の感ではないが、自己の感を養成もし くは比較するうえにおいて大なる参考となる」
  漱石は後者も教育の現場ではそれなりの意義があると考え ていたが、講義では前者を選び、私たちはその成果を『文学 評論』を含む三部作に読むことができる。清水先生の『ドス トエフスキー体験』も前者の態度で書かれている。漱石のこ とばを借りれば、「自己本位」の態度で書かれている。近代文学研究者の吉田精一は『同全集 14 』の「解説」で、『文学論』 をこう評している。
  「(「文学論」は)英文学に対して、日本人の立場から、自 己の思想感情に即した、独特の解析と追求を加えようとした ところに出発する。いわゆる「自己本位」に立脚して、他人 の受け売りでもなく、紹介でもない、明白に自己の著作とし て後世に伝えうる独創の学説を樹立しようとしたものであっ た」
  また、『文学評論』をこう批評している。(『同全集 15 』「解説」)

  「「文学評論」は十八世紀前半の英文学史に相違ないが、あ くまで著者漱石の個性がみなぎっている点で、かいなでの文 学史とは、はっきり選をことにしている。彼のいわゆる「自 己本位」の立場をつらぬいて、犀利な評論をほしいままにし ているのである」
  漱石は晩年、学習院の講演「私の個人主義」において、学 生時代・留学時代の不安や迷いを述懐して、「自己本位」と いう立場を見出すことによって強くなれた、と語っている。 この「自己本位」の原点が『文学論』にあり、『文学評論』「序 言」の前者の態度にあることは断るまでもないが、「自己本位」 の意味自体は「利己」一辺倒でなく、「利他」とも上手に折 り合いをつけた哲学的な深さと広い世界観を持っている。後 世の吉田精一はこの漱石晩年の「自己本位」を使うことで、『文 学論』や『文学評論』がそうした意味を宿した未来の漱石学につながる作品に位置づけることができた。
  同様に、清水先生の『ドストエフスキー体験』もまた、先 生自身の「自註」が説明しているように、「自己本位」と同 等の哲学的な深さと広い世界観(「解体と再構築」)を持った 未来の清水文学につながる作品だといえよう。

文芸批評の王道 ── 夏目漱石から清水正へ──(連載1 此経啓助

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文芸批評の王道
   夏目漱石から清水正
 連載1 
此経啓助

はじめに
  清水正先生の「ドストエフスキー論執筆 50 周年」を祝って、 昨年(二〇一八年)の一一月二三日(勤労感謝の祝日)に「清 水正先生大勤労感謝祭」が開かれた。私は先生の執筆開始時 代からの長い縁で、短い挨拶をさせてもらった。先生の五〇 年の文芸批評人生を振り返ると、作家・夏目漱石の出発点の 記念碑『文学論』が思い起こされる、といった話をした。清 水先生は近年、ドストエフスキーは当然として、宮沢賢治林芙美子も「世界文学の地平」から論じられなければならな い作家だ、としばしばいう。夏目漱石はロンドン留学時代、 「世界文学の地平」から「文学」とは何かについて考え、苦 悩した。それを強くしのばせる作品が『文学論』だが、清水先生の「ドストエフスキー論」執筆開始時代の記念碑『ドス トエフスキー体験』もまたその苦悩を核としてなった作品だ。 私は恥ずかしながら近年まで、つまり先生が「世界文学の地 平」を口にされるまで、先生の仕事を「ドストエフスキー論」 を柱にした狭義の文芸批評と考えていた。
  しかし、私は最近、漱石が作家デビュー時に考え抜いた 「文学論」「文学評論」「英文学形式論」三部作を紐解いて、 清水先生の文芸批評を出発点から「世界文学の地平」におい て考え直さねばならない、と反省した。たとえば、漱石の 「自己本位」は漱石の文学世界を貫くキーワードだが、私は 清水先生の『ドストエフスキー体験』もまた「自己本位」に ついてよく考えられており、漱石も先生も「自己本位」の立 場からそれぞれの文学世界を切り開いて、「世界文学の地平」 に到達したように思う。
  清水先生は「世界文学の地平」とか「世界文学の次元」と しばしば述べるが、本当いえば、私は先生が「世界文学」に どんな意味を込めて述べているのかよく理解していない。私 はとりあえず、「世界文学」を「多義性の象徴を生み出す原 思想」を宿すもの、と考えている。実は、このことばは哲学 者・鶴見俊輔民俗学者谷川健一の対談のタイトルだ。そ こで鶴見は「世界小説というのは、世界を一つのものとして とらえる感覚で貫かれているもの」ともいっていて、それも 「世界文学」の定義に付け加えたい。
  この小文は思いついたことを思いつくままに書き連ねたも ので、清水先生と漱石の比較はアナロジーの域を出ない仮説 のようなものだが、清水先生が文芸批評の王道を歩み続け て、「世界文学の地平」に到達したことを明かせれば幸いだ。

『あしたのジョー』を読む ーー矢吹丈の「ゆめの大計画書」をめぐってーー連載4  清水正

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あしたのジョー』を読む
ーー矢吹丈の「ゆめの大計画書」をめぐってーー

連載4

清水正

 鬼姫会との乱闘事件で留置所に入っていたジョーは釈放されると、丹下段平の誘いに乗ってボクシングの練習を始める。これはジョーが本格的にプロボクサーを目指して、その第一歩を踏み出したということではない。サチは「あんた、あれほどボクシングをきらっていたのに、どうして急に本気でやる気になったの?」と訊く。さすが、一目でジョーに惚れたサチである、質問も本質を突いてくる。ジョーは答える「ふん、べつにボクシングをきらっていたわけじゃないよ。もともと興味がなかっただけの話さ。だいたい、いまもって本気でやるつもりはないね。固定収入を得るためのたんなる手段にすぎない。〔サチ「固定収入‥‥?〕ああ、あのおっさんはおれにボクシングを教えたくてしかたがねえらしいんだ。コーチをうければおれの生活のめんどうをすっかりみるってねいうのさ、いい話じゃねえか‥‥こづかいもくれるっていうしさ。ま、おれはのったね。ちょっと練習するふりをすれば三度三度のめしにはこまらねえんだ。おっさんが徹夜ではたらいてかせぎだしてくれる。そして、おれはこうして毎日あそんでくらせるって寸法さ」(一巻93p)と。

 ジョーのセリフには、純粋にボクシングに賭ける若者の内心の思いの発露はない。ジョーが熱心にボクシングの練習に励んでいたのは、丹下段平との〈契約〉による。段平はどんなことがあってもジョーを手放したくはない。ジョーはやっと見いだした殺人パンチの持ち主で野性味のある少年である。これから鍛えれば、世界チャンピオンを狙える逸材である。段平はジョーの生活を保証する代わりに、メニュー通りの練習をこなすことを命じる。それまで売血までして酒を飲みくらっていた段平が、ボクシングジムを一日も早くつくるために懸命に働き始める。それもこれもすべてはジョーと共に未来の栄光を掴むためにである。ところが、肝心のジョーはボクシングに命を賭ける気などさらさらない。ジョーは段平から金をくれなければ〈契約〉を解除すると脅して六百円を奪い取り、子分にしたちびっ子どもを引き連れてパチンコ屋に入って大もうけする。ジョーはちびっ子どもの心をすっかり鷲掴みにして、彼らのヒーローとなる。
 段平の熱い思いにジョーは何一つ応えようとはしていない。ジョーはパチンコ屋で不当にかせいだ大量の景品をふうてんの寅さん並の巧みな口上で売りさばき、警察官に追われれば必死に逃亡する。まさにジョーはちびっ子ギャングのボスよろしく振る舞って得意になっている。が、ある時、ちびっ子どもを代表して太郎がジョーに疑問をぶつける「おらたち、どうしてこんなことばっかしやってんだ?」と。ジョーは怒気を込めて「こんなことたあ、なんだ。まじめに商売やって金をかせいでるんじゃねえか」と答える。ジョーの説明に太郎は納得できない。太郎は勇気をだしてさらに問う「しょ‥‥商売はわかるけどよ‥‥金もうけしてなにをやるつもりなんだよ」と。ジョーのやり方に不満を抱いているのは太郎ばかりではない。チュー吉もキノコもトン吉も同じである。太郎は「毎日あぶねえ思いをして金をかせいだって、なににつかうのかわからないんじゃはりあいがねえや」とぼやき、サチは「ねえ、おしえてよジョー」と言い放つ。ジョーは「ようし、それほどまでにいうのなら、この矢吹丈さまのゆめの大計画書を見せてやる」と言って、ちびっ子どもを壊れかけた高層ビルの一室に連れ込み、そこで「ゆめの大計画書」を読み上げる。
 
 計画の一「この広い川っぷちの両岸一帯におとなも子どももあそべるでっかい遊園地を作ること!」
 計画の二「このドヤ街の西のはずれにりっぱな総合病院をぶったてること!」
 計画の三「東のはずれには、年をとってはたらけなくなった人たちのために養老院をたてるっ」
 計画の四「南のほうに、小さい子どものための保育園!」
 計画の五「北のはずれにしずかなアパートと、なんでも買える大マーケット!」
 計画の六「このドヤ街のど真ん中にでっかい工場をたて、仕事にあぶれているれんじゅうがひとりのこらずその工場ではたらけるようにするんだっ」

 これがジョーの口から読み上げられた「ゆめの大計画書」の内容である。ジョーの計画そのものは文字通り立派なものであり、誰も反対できない。問題は手段である。ジョーは「新しい金もうけの方法」を考えている。それはちびっ子どもが養護施設を追い出された里子と嘘をついて、世間の同情を煽って寄付金をせしめるという方法である。電話でビルに集まった新聞記者たちは、ジョーの嘘話を信じて大々的に報道する。「〈町角にさく美談〉ーー養護施設の子どもたちを守ってーー死んだ母の志をつぐ丈。丈くんをしたってあつまる子どもたち〔ジョーを囲んで笑顔で撮影に応じる子どもたちの写真〕」この新聞を読んだ読者から百万ほどの大金がジョーのもとに寄せられる。もはやパチンコ屋を相手にした〈賭場あらし〉の次元に収まる話ではない。チュー吉が「ジョーってのは意外に悪だね」と太郎にささやき、太郎はそれを受けて「おれたちより上手だぜ」と言っていたことを忘れてはならない。ジョーはおでん一くしどろぼうのサチに対して「どうせやるんなら屋台ごとかっぱらうんだ屋台ごと。人間たるものすべてにでっかくいかなくちゃいけねえ」と言っていた。
 ジョーの語る「ゆめの大計画書」をさらに国家規模に拡大すればどうなるか。それは容易に「目的のためには手段を選ばず」の革命思想と直結することになろう。ジョーが計画した「遊園地」「総合病院」「養老院」「保育園」「大マーケット」「工場」などの建築は、いわばドヤ街(地上世界)に人類の楽園を実現させようとする願いから発している。この理想を実現するためにジョーのとった手段は、道路交通法違反法、恐喝、脅迫、詐欺、横領、窃盗、器物破損といった、すべて法に背く行為であった。ジョーの違反行為は、ますますエスカレートし、子どもの悪ふざけの次元を越えたものになっていく。描かれた限りで見ても、ジョーの乱闘シーンは常軌を逸しているが、マスコミを利用した詐欺行為に至っては誰の目にも立派な犯罪である。

あしたのジョー』は「少年マガジン」に連載されたが、子どもたちだけに読まれたのではない。当時、漫画は「ガロ」の白土三平水木しげるつげ義春滝田ゆうなどの諸作品によって大人の読者にも支持されていた。「少年マガジン」も中・高校生はもとより大学生にも読まれつつあった。『あしたのジョー』は革命志向を抱いた青年たちにも広く支持された。その一つの証として「よど号ハイジャック事件」(1970年3月31日、共産主義者同盟赤軍派が羽田発福岡行きの351便・日本航空ボーイング727型機よど号を乗っ取り、北朝鮮行きを成功させた事件)の首謀者田宮高麿が、ハイジャックの前日30日に残した犯行声明文がある。田宮はそこで「我々は明日、羽田を発たんとしている。我々はいかなる闘争の前にも、これほどまでに自信と勇気と確信が内から沸き上がってきたことを知らない。最後に確認しよう。我々は『明日のジョー』である」と書いている。
この言葉は『あしたのジョー』が赤軍派のリーダーであった田宮ばかりでなく、当時の多くの革命志向の青年達に深く影響を与えていたことを端的に語っている。
 当時のテレビや新聞は、ヘルメット、マスク、鉄パイプで身をまとった革命青年達のデモ行進や、機動隊と火炎瓶や瓦礫投擲で闘う姿を連日伝えた。彼ら全共闘学生や革命戦士達は本気で暴力革命の成功を信じていた。ジョーは国家に対する不満や反逆の意志を示すことはなかったし、喧嘩相手にパイプや瓦礫、火炎瓶などを使用することもなかった。が、ジョーがまず第一に〈暴力〉に頼っていたことは紛れもない事実である。サチが鬼姫会のチンピラに連行されてきた時にも、サチの〈盗み〉の真実を確かめることなどはいっさいしていない。チンピラがサチや段平に暴力を振るえば、暴力によって応える。これがジョーのやり方であり、これは最後まで一貫して変わっていない。つまり、ジョーの問題解決の手段は暴力意外にはないのである。相談、話し合い、しかるべき場所に訴えるといった穏便な手段はいっさい使わない。ただひたすら、立ちふさがった壁に対しては暴力によって破壊し突破することしか考えていない。ジョーには暴力を疑う微塵の心の動きも見られない。段平と喧嘩し、太郎と喧嘩し、チンピラと喧嘩し、警察官とも喧嘩して、ついには鑑別所に送られることになる。ジョーには反省がないから、鑑別所から少年院、それも特等少年院へと送られることになる。
 ジョーのやっていることを見ると、本当に思慮の足りない、単純なバカ、不良少年のそれでしかない。殺人パンチで段平の野心を目覚めさせ、太郎をぶちのめしてちびっ子どもを自分の支配下に置くことは可能だが、鬼姫会のチンピラはもとより、国家の飼い犬を叩き潰すこともできない。つまりジョーの〈暴力〉などたかがしれている。が、『あしたのジョー』に熱狂した多くの読者はジョーの〈暴力〉を批判的にとらえることはなかった。この単純な直情径行型浮浪少年の凄まじい喧嘩っぷりに共鳴し陶酔した。注目すべきは、ジョーのこの単純さが暴力革命志向の若者たちの共感を呼び起こしたことである。喧嘩に勝てば事件はすべて解決すると思いこんでいるジョーの単純さ、その直情径行さと、暴力革命志向の若者のそれが見事に合致する。彼らに明確な将来のビジョンはない。現体制破壊の後にどのような未来社会を建設するのか、その具体的なビジョンを彼らは示すことができなかったし、あったとしてもジョーの〈ゆめの大計画書〉と五十歩百歩であったろう。当時の革命戦士のうち、おそらくドストエフスキーの作品を読んでいる者などいなかったであろう。
 ドストエフスキーは『地下生活者の手記』で「賢い人間は本気で何かになることはできない、ただ馬鹿が何かになるばかりだ(略)性格を有する人物、即ち、活動家は専ら浅薄な存在でなければならない」と書いている。ドストエフスキー反革命的書物と喧伝された『悪霊』中の一人物、「現存のものに代わるべき未来の社会組織の問題研究に精力を費やしてきた」シガリョフの口を通して「私の結論は、私がそもそもの出発点とした当初の理念とまっこうから矛盾するにいたったのです。無制限の自由から出発しながら、私の結論は無制限の専制主義に到達したのであります」(江川卓訳『悪霊』新潮文庫 下101p)と語らせている。シガリョフは無制限の自由と平等が実現された未来社会の究極の形態は一部の人間が大多数の人間を家畜化して支配する専制義体制にならざるを得ないと覚って革命運動から離脱した。

 描かれた限りでのジョーは、地下男に言わせれば馬鹿で浅薄な存在ということになろう。何でも暴力で片づけてしまえると思っているジョーはどう見ても賢い存在には見えない。
 ところで、『悪霊』の主要人物ピョートル・ステパノヴィチ・ヴェルホヴェーンスキー(秘密革命結社の首魁を装った二重スパイ)のモデルであったネチャーエフは革命家のカテキズム(教理問答)の第一条に「革命家は死を宣告された人間である。彼は、個人的関心、事情、感情、愛着物、財産、さらに名前すらももたない。彼のうちにあるすべては、ただ一つの関心、一つの思想、一つの情熱、つまり革命によってしめられている」(松田道雄編『ロシア革命史』1972年10月 平凡社 106-107p)と書いている。
 またルネ・カナックはネチャーエフの革命家のカテキズム第一条を「革命家とは社会の絆であれ、家族の絆であれ、友人の絆であれ、彼を結びつける絆の一切を自ら断ち切る人間のことである。どんな激しい感情が湧き起ろうと、それは革命というただひとつの目的に向けられる。彼はこのために、自己の利益、愛情、恋愛を犠牲にする」(佐々木孝次訳『ネチャーエフーーニヒリズムからテロリズムへ』1964年10月 現代思潮社 53p)と端的に紹介している。
 このネチャーエフの革命家のカテキズムにジョーの姿が重なって見えるのは、決して私だけではないだろう。ジョーはたった一人ふらっとドヤ街に現れた流浪者であり、社会、家族、友人の絆を断ち切る必要もないほどに、あらゆる絆から予め解放されていた。まさにジョーはネチャーエフの望んでいた〈革命家〉の鑑のような存在である。〈革命〉という言葉に抵抗を覚える者も、〈革命〉を〈完全燃焼〉に置き換えれば誰もが納得するであろう。まさにジョーは〈完全燃焼〉のために「自己の利益、愛情、恋愛を犠牲に」した青年であるのだから。

 「労働者たちは語っている。おれたち働く人民大衆は、黙々として働けるだけ働いてきた! おれたちは金持ちのために精いっぱい働いてきたが、自分自身はいつまでたっても貧乏暮らしだ! おれたちはもう、収奪されるのはいやだ! おれたちは団結したい。全労働者を一大労働者同盟〔労働者の党〕に統一させ、力を合わせてよりよい生活をかちとりたい。おれたちは、新しい、よりよい社会を築きたいんだ、と。/この新しい、よりよい社会には、金持も貧乏人もいてはならない。だれもが働かなければならない。一握りの金持ではなくて、働く者みんなが、共同労働の成果を受け取るようにしなければならない。機会の導入やその他の改良は、みんなの労働を楽にするためのものでなくてはならない。それらは、何千万という人民大衆を犠牲にして、少数の人間を富ませるためのものであってはならないのだ。/この新しい、よりよい社会が、社会主義社会と呼ばれる。これに関する学説が、社会主義である。この、よりよい社会制度を目ざして闘う労働者の同盟が、社会民主主義者と呼ばれる。」(56p)
「政府は軍隊を繰り出し、労働者に向かって発砲することまでやっている。(略)しかし労働者たちは、こんなことではへこたれない。彼らは闘争をつづけている。/彼らは語っている。どんな迫害だって、監獄だって、流刑だって、懲役だって、死刑だって、おれたちをおどかすことはできない。おれたちのやっていることは正しいんだ。おれたちは、働く者みんなの自由としあわせのために闘っているんだ。おれたちは、何億という人民大衆を、暴力や圧迫や貧乏から解放するために闘っているんだ。」(57p)

 これらの言葉はレーニンの『貧農に訴えるーー社会民主主義者は何を志しているかを農民に説明する』( 世界の名著52 江口朴郎責任編集『レーニン』1966年5月 中央公論社)からの引用である。
 レーニンは『国家と革命』(前掲書『レーニン』)では「プロレタリア国家がブルジョア国家にとってかわること、つまりプロレタリアートの独裁の創出は(略)暴力革命によって初めて可能である。そしてエンゲルスが暴力革命にささげた讃辞は、マルクスの再三にわたる言明とも完全に一致しているのである」と書いている。
 ジョーの「ゆめの大計画書」にこういったレーニンの文章が添えられていても別におかしくはないだろう。ジョーはあらゆる手段を駆使して金を集め、「ゆめの大計画」を実現しようとしていたのだから。ちばてつやはドヤ街にちびっ子どもを集め、棒やシャベルや鍬を持たせている。見ようによっては権力に立ち向かう被抑圧民の反逆の姿にも見える。が、『あしたのジョー』を読んで、ちびっ子どもを権力に立ち向かう戦士のようにみた者はいない。少なくとも、意図的に革命を扇動するようなセリフもないし、思想もない。現にジョーの「ゆめの大計画」は話が展開するにつれすっかり忘れ去られてしまう。
 原作がほんの一部しか残っていないので、ちばてつや作画の『あしたのジョー』で判断するほかはないが、ジョーは喧嘩好きの野生児から、元ボクサーの丹下段平力石徹と出会うことで、一直線にプロのボクサーへと向かっていく。もし、ジョーの前に丹下段平ではなく、ネチャーエフが出現していれば、ジョーが正真正銘の革命家へと成長していく物語も十分に可能であったはずである。が、ジョーの前に革命家はもとより、文学者も思想家も芸術家も現れることはなかった。ジョーの〈単純〉〈直情径行〉を揶揄するドストエフスキーの地下男も、それを最大限に利用する革命家ネチャーエフも登場することはなかった。その結果、ジョーは「ゆめの大計画」を思想的に深めることもできず、それを実現するためにどのような闘いを進めていくべきかも考えることができなかった。ジョーの「ゆめの大計画」は『あしたのジョー』において永遠に停止したまま放り出されている。

 レーニンは書いている「人民の貧乏に終止符を打つただ一つの手段は、国家全体のいまの制度を根本的に変革して、社会主義制度をうち立てることだ。つまり、大地主からその所有地を、工場主からその工場を、銀行家からその貨幣資本を没収し、彼らの私有財産を廃止して、これを、国じゅうの働く人民全体の手に引き渡すことだ。」「わが国の農村では、貧乏は、都市におとらないどころか、おそらくもっとひどい。農村の貧乏がどんなにひどいものか、ここでは述べまい。農村に行ったことのある労働者ならだれだって、また、農民ならだれだって、農村の窮乏、飢え、寒さ、零落のことはみ、じゅうぶん知っている。けれども農民は、なぜ自分たちが貧乏し、飢え、零落してゆくのかを知らない。そして、どうしたらこの窮乏から抜けだせるかを知らない。これを知ろうとするなら、何よりもまず、都市と農村を問わず、あらゆる貧窮と貧乏がどうして起こっているかを理解しなければならない」(前掲書『貧農に訴える』)と。ちびっ子どもの前で「ゆめの大計画」を打ち明けたジョーにレーニン並の革命思想を賦与すれば、ドヤ街は革命運動の処点ともなったであろう。
 描かれた限りで見れば、ドヤ街を支配しているのは鬼姫会の連中であり、そこに流れ着いた労務者たちは彼らに対抗できる力は持っていない。日雇い仕事でわずかな金を得ても、それはたちまち酒代に消えていく。丹下段平がボクシング界を追われてドヤ街のアル中に落ちていたように、彼らには生きるよすがとなる明日がない。彼らの多くは安い宿泊所にさえ身を横たえることができず、路上に酔いつぶれる者も少なくなかった。段平も川の橋の下にボロ小屋を立てて住んでいた。どういうわけか、段平はこのボロ小屋の撤去も立ち退きも迫られていない。この橋の下の掘っ建て小屋はまるで合法であるかのように扱われている。
 ジョーも段平も警察官に対して露骨に反逆的な態度をとることはない。むしろ段平などは警官たちと親和的な関係を保っている。段平は現体制に対して不満を抱いていない。段平は自分が売血までして酒を飲んでいること、ドヤ街で醜態を晒している、その責任を社会のせいなどにしていない。段平はドヤ街の連中と団結して社会を変革しようなどという考えは微塵もない。段平はボクシング界での返り咲きを望んでいる。もちろん片目になってしまった段平に現役ボクサーは務まらない。段平は世界チャンピオンを狙える若者を必死の眼で探していた。段平は本物のボクサーの発見とその育成に賭けていた。そこへ突然現れたのが殺人パンチを持ったジョーである。段平はジョーと組んでボクシング界への復帰を実現しようとする。

 つまり、段平はボクシング界で成功することによってドヤ街からの脱出を願っている。ジョーも段平の野望に沿って練習に励み、結果としてドヤ街のヒーローになっていく。ヒーロー・ジョーの誕生によって、ドヤ街の人々に連帯意識も芽生える。が、その連帯感は革命家のそれとはまったく違う。段平、ジョー、ちびっ子どもはもとより、ドヤ街の住人たちや労務者の中にも、現体制の矛盾を告発したり、糾弾したりする者は一人もいない。『あしたのジョー』の舞台は紛れもなく東京三谷のドヤ街に設定されているが、作者は路上生活者の惨めな姿そのものにスポットライトを当て、そうすることでドヤ街が抱えている政治的、社会的な問題をあぶり出すことはしなかった。サチの父親は中風で寝ているとは知らされても、その生活の実態は何一つ具体的に描かれていない。
 先にも指摘したが、ちびっ子どもはこの漫画世界において成長を止められた存在である。しかも、彼らの年齢さえ不詳である。いったいサチは何歳として設定されているのか。サチと同じく大人の男用のゲタを履いてホルモン焼屋を仕切っている少女チエは小学五年生として設定されている。この長編漫画『じゃりン子チエ』において、チエもまた小学五年にとどまり続けている。チエは新学期を迎えても進級することがない。その理由を作者のはるき悦巳は「マンガだから」と説明している。ひとを喰ったような説明だが、それなりに説得力がある。童話においては犬、猫、貍、狐、虎などの動物、バラ、ひまわり、ひなげし、百合などの植物、その他太陽、月、星から道ばた転がる変哲もない石など、すべての存在物が人間と同じように考えたり言葉を発したりすることができる。なぜかと問われれば「そりゃ、童話ですから」と応えておけばいい。『じゃりン子チエ』は漫画であるから、主人公のチエが現実時間の制約から免れていても、小鉄やアントニオやジュニアと名付けられた猫たちが人間のように振る舞っていても〈漫画〉ということで許容されるのである。
 『あしたのジョー』がいくら〈純文学〉を主張しても、〈漫画〉の域を越えることはできないし、また越える必要もない。作品の中でちびっ子どもが成長しない子供として設定されていること自体が、この作品の非純文学性を露呈しているし、逆にそういった設定が許容されることで作品に大いなる幅を与えることにもなっている。

 

  私たちは、山谷労働者を呪縛する「差別」「搾取」の二重のクビキを、部落差別と連鎖して捉える。“人間外の人間”(非人)を、“社会外の社会”(部落)に隔離する、階級社会の身分差別は、戦後部落である山谷に、もっとも顕著に露出している。それは、一貫して、下層プロレタリアートにくわえられてきた侮蔑である。

  大正十三年(一九二四)、『特殊部落一千年史』を世に問うた、雑誌“前衛”の編集員高橋貞樹は、「……無産の部落民を産業的に団結せしめ、戦闘的な労働組合の形態に結束させよ」と主張している。当時十九歳、そ論旨は客気にみちて、語気するどく人民の下層から触発し得る革命の可能性を弁証している。高橋は、“すべての虐げられた人民の階級闘争の共同の戦線”を、部落民の反逆のエネルギーを核として結集し、「米騒動」の群衆蜂起を再現して、一挙に国家権力を打倒する“窮民革命”を夢想した。「吾等はいま……、吾等が流血の闘争を以て自らの解放を叫ばざる限り、次のジェネレーションも、またその次のジェネレーションも永遠に鉄鎖より放たるる日のなきを想ふ。若しも吾等の闘争途上に於て暴力が行使されることがあるならば、それは正義と自由を守るための暴力、倫理の暴力である」(79p)

 深川区富川町の木賃宿に起居していた、テロリスト難波大助は、大杉栄の虐殺に憤激して、ただちに摂政の狙撃を計画した。ーー予審陳述、「私ドモ共産主義者ハ、銃剣ニ対シテモナオ思想デ闘ウホドノ、オ目出タイ信条ヲ有スルモノデハアリマセンーー、大震災以後、一部権力者中反動諸団体ノ者ドモガ社会主義者、労働者、鮮人労働者、支那人労働者ノ多数ヲ惨忍野蛮ナル方法ニヨツテ虐殺セシコトハ、私タチ主義者ノ憤激憎悪、措カザルトコロデアリマス……、故ニ私ハ反動団体ノコノ上ノ暴虐ナル行動ニ対シ、私タチノ向ウトコロヲ示ス手段トシテ、彼ラノ絶対神聖ト看做シ、尊信措クアタワザル皇族ニ対シテ、“テロリズム”ヲ遂行スルモノデアリマス」(90p)

  部落民、凶作農民、朝鮮人、沖仲士、土方人足、坑夫、工場労働者、失業者、さらには売春婦、浮浪者、犯罪者に至るまで、都市と農村にみちあふれる下層窮民の人間回復ーー自立への熾烈な欲求を、反乱に組織することだけが、天皇制支配の下における“革命”を唯一可能とする道でなくてはならなかった。これをルンペン・プロレタリアートと切り捨てる倨号那傲な錯誤を、今日も日本の“前衛”は継承している。(103p)

 いま、私たちは“解放”の旗標を、真正なプロレタリアートの街=山谷に高く掲げる。私たちの革命は、ようやくはじまったばかりである。だが、山谷の労働者はかならず人間解放の巨大な反乱を、「差別」と「搾取」の地底から、生起するであろう。(106p)

 一九四六年冬ーー、私は、東京・上野駅の引揚者仮泊所(在外同盟救出学生セツルメント)で働いていた。そこの光景は、悲惨などという月並みな形容を通りこしていた。じめじめと湿った、底冷えのするコンクリートの床に、着のみ着のまま引揚げてきた人びとは死んだように横たわっていた。ところ構わず撒きちらすDDTの粉塵と、すえた体臭とが混合して、けものの檻のような異様な臭気が立ちこめていた。ソ連国境から引揚げてきた女性は、髪をザン切りにしていた。ソ連兵の暴行から身を守るためであった。粉だらけの坊主頭が、裸電球の陰惨な光の下で、赤児に乳をふくませている姿は、むざんで正視するすることができなかった。子供たちを駅の構内につれていって、裸にすると、アバラ骨がぎろぎろと隆起して、小さな体にシラミの喰った痕が無数の斑点をつくっていた。こすると、垢がよれて、足もとに積もるのだった。目の前で両親を殺されて、そのショックで痴呆のようになっている子供もいた。ある日、ソ連兵に輪姦され唖(失語症)になった少女が、たった一人で引揚げてきた。仮泊所の片隅に死んだ表情で、うずくまっているかの女を、私はもてあました。そばへ行くと、おびえて後ずさりして、壁にぴったりハリついてしまうのだった。少女は、手とり足とり、施設に収容されていった。そうした現実の修羅との触れあいから、私は“革命の思想”に傾斜していったのである。フランス大革命が、サン・タン・トワーヌの暴動からはじまったように、最暗黒の東京から、……ニコヨン、立ちん坊、浮浪者、売春婦までをふくめた“地の群れ”から、ダイレクトアクションで反乱を、革命をおこすことを、私はゆめみた。いちばん貧しいもの、虐げられたものこそが立ち上がらなくてはならない、立ち上がるはずだ、私はそう信じた。(124~125p)

  オリンピック工事にしても、霞ヶ関のビルディングにしても、地下鉄、高速道路、橋梁架設、ありとあらゆる都内の工事現場に山谷労働者がはたらいている。岡林信康という、山谷出身の歌手が「山谷ブルース」という唄をうたっているが、その文句の通り、ーーだけど俺たちいなくなりゃビルも道路もできゃしねえ、のである。が、それらの諸建造物は、完成したとたんに山谷労働者から遙かに遠いものになり、俺たちが近づくことを冷たく拒絶する。(142p)

 山谷こそ、真正なプロレタリアートの街であり、そこに生存する労働者は、まったく市民的日常性を奪われているがゆえに、「秩序か混乱か!」という擬制の恫喝からまったく無縁であるがゆえに、もっとも果敢な反乱の尖兵たり得るのだ。(148p)

 日本資本主義の根本的な矛盾としての地下足袋ゲットーである山谷は、資本主義そのものを廃絶しない限り、みずからを廃絶することはできない。したがって……、山谷は革命をめざす。必然的に、革命を志向しなくてはならないのだ。プロレタリアート革命なくして、山谷の解放ーー自立はあり得ないという認識を持つとき、結論は明瞭である。山谷解放闘争は、目下の混迷した左翼戦線の突破口、橋頭堡となり、全般的プロレタリアート階級闘争有機的に連けいし得るものとして展開されねばならぬ。(151~152p)

  山谷全体が土建港湾資本の「タコ部屋」なのである。立ちん坊たちを無保障、無権利状態におくことで、高度成長経済下の建設業界は肥えふとっていく。私たちが調査したところでは、山谷の労働者たちは、霞ヶ関の三十六階ビルをはじめ、東京都内のビル建築現場、高速道路、京葉工業地帯埋立て、団地造成、夢の島の塵芥処理、ベトナムへの爆薬輸送の荷役にいたるまで、京浜、京葉のあらゆる作業場、港湾で労働している。とりわけ、一九六四年オリンピックの際、山谷はブームをむかえたけ。こんにち、私たちが見る競技場、体育館、武道館等々は、立ちん坊の文字通り下積みの労苦でつくられたものなのである。これは、あまり知られていない事実だが、日雇人夫ヨセバ(労働市場)は、山谷ばかりではなく、錦糸町高田馬場等に点在する。立ちん坊の労働力をぬきにして、都市の建設はあり得ない。それほど重要な役割りを果たしているにもかかわらず、労働者たちは法律の保護の外におかれ、不当に差別され収奪されている。(170p)

  山谷労働者は暴動を“お祭り”と呼び、あるいは「ヤマのストライキ」と称する。私たちは、山谷の夏の暴動が、ドヤ制度の抑圧を根底としながら、状況としては解放感にもとづいて生起されることに、とりわけ注目しなくてはならない。つまり暴動は、山谷労働者が人間回復の行動に立ち上がるに充分なエネルギーをたくわえた時点において、一挙に爆発するのである。裏がえしていうなら、山谷労働者は「暴動をおこしている情態」こそ、もっとも人間として正常なのであり、「抑圧に耐えている日常」のほうが異常なのである。(190p)

  六八年七月から現時点に至る、山谷闘争を概括していえば、転変につぐ転変の一年間であった。若い活動家の足は、また地についたばかりである。山谷二万の労働者は、全体としてこれを見れば、暴力のエネルギーを秘めながら、明確な反体制・反権力の志向に結集してはいない。山谷には、“左翼”の仮面をかぶった反革命が跳リョウし、右翼暴力団、公安も牙をといで、解放闘争を圧殺しようとしている。労働者を縛る「差別」「搾取」の二重の鉄鎖は、永遠にとけないように見えるほどである。だが、私タチは山谷の労働者が一つの意志に団結して、怒濤のような革命の進撃をおこす日を確信し、その日にむかって走らねばならない。この暗黒の街に、解放の太陽が輝きわたり、湿ったドヤのベッドをさわやかな自由の風が乾き上らせる、その日まで、私たちは闘いをやめないだろう。(227p)

  山谷労働者を日々に収奪し、非人間的な生活に囲いこみ、暴利をむさぼるドヤ主は、人間の正当な怒りによって報復され、一切の所有を剥奪されるであろう。労働者の要求をうけ入れぬ場合には、労働者は山谷を焼き、全都を焼いて、下層プロレタリアの生き地獄を、資本主義社会の虚栄の市を、灰燼とするだろう。そのとき、山谷労働者は決して素手では闘わず、武装して立ち上がるだろう。マイトで、手鉤で、スコップで、ぶくぶくと肥えふとった資本家どもを吹きとばし、その腐ったハラワタをひきずり出し、墓穴に放りこむであろう。(227~228p)

  むろん、山谷労働者の真の解放は、プロレタリア日本革命、世界革命の達成によって、はじめておとずれる。だが当面、この無階級共同社会にむかう、革命的過渡期において、私たちは山谷全地域の占拠、コミューン化を目ざして闘うであろう。その過程に奮迅し、その過程に斃れることがあっても、私たちは悔いるものではない。(228p)

  おそらく、今後、多勢の若者たちが、人間として、革命家としての自己を貫徹するべく山谷に来住するであろう。かれらは、労働に従事しつつ、活動し、“部隊”を級数的に拡大して、最強の反乱軍をつくるであろう。山谷労働者が革命地平に登場するとき、釜ケ崎もむろん起つであろう。一点の炎が燎原を焼くように、全国労働者スラムに暴動は飛火し、至るところにゲリラ戦の火ブタは切られるであろう。山谷は、それらの反乱と呼応して、ルンペン・プロレタリア、「非行」の汚名を着せられて、階級底部に沈澱する無告の人民大衆、青少年の蜂起を誘発し、野火のごとく革命の炎を拡げ、その紅蓮の裡に国家権力を死滅させるであろう。
  ……そしてまた、山谷は、全世界の被圧迫人民、被差別人民と連帯する。とりわけて、アメリカの黒人大衆と固く連帯する。“第三世界”の夜明けは、旧世界の破滅によって、もたらされねばならぬ。日本の革命はアジア革命を約束しなくてはならず、三大陸人民を団結して、アメリカ・ヨーロッパ文明の呪縛から全世界を解放する“世界革命”にむかわねばならぬ。山谷はーー、しんに革命を志す労働者、青年、学生に呼びかける。
   叛逆せよ! 蜂起せよ!
   人間を回復せよ!
   都市反乱の原点、山谷は諸君を待つ。
   労働によって、自己を変革せよ!
   革命の脈打つ心臓である山谷に、結集せよ!(351~352p)

 

 ここに引用したのは竹中労『山谷ーー都市反乱の原点』(一九六九年九月 全国自治研修協会)に拠る。
 『あしたのジョー』が赤軍派の田宮高麿が愛読した漫画であったということは、この漫画が“革命”的要素を多分に含んでいたことの一つの証ともなっている。『あしたのジョー』が連載された時期の日本は、まさに熱い政治的季節であった。そしてこの漫画の舞台は山谷であり、竹中労の『山谷』は漫画では直接的には描かれなかった“革命”的暴動の実態とその思想を明確に打ち出している。
 ちばてつやは東京の片隅に打ち捨てられたように佇むドヤ街と様々なゴミが流れ着いたどぶ川の光景を重ねている。行き場所を失ってどぶ川にその無惨な姿をさらしているゴミは、まさに山谷のドヤ街に流れ着いた無産者、日雇い労務者たちの醜悪な姿をシンボリックに描き出している。竹中労の『山谷』には「山谷労働者は、人生の落伍者であり、ルンペン・プロレタリアートであり、塵芥のように社会の吹き溜りに掃きよせられた生活無能力者の群である」という言葉も見られる。まさに、この言葉が当時の山谷ドヤ街に生きる人々に対する一般的な見方であった。彼らの暴動が竹中の言うような革命思想、革命エネルギーに基づいた計画的闘争と見る者はほとんどいなかった。ましてや、山谷暴動を世界革命に結びつける者もほとんどいなかった。革命運動が渦を巻いて何らかの社会的影響を与えていた『あしたのジョー』連載時からほぼ半世紀が過ぎ去った。竹中が夢想した“革命”は徹底的に壊滅したかのように見える。今日の山谷に往時の活気はなく、革命的気運は微塵もない。山谷の宿泊所は生活保護受給者と外国人旅行者によってその大半が占められるようになった。
 先に指摘したように、ドヤ街に流れ着いたジョーの前に、拳キチの丹下段平ではなく、ネチャーエフやレーニンが現れれば、否、十九世紀のロシアの革命家を出すまでもなく、世界革命を夢想する竹中労が現れれば、ジョーは正真正銘の闘う革命家に成長したかも知れない。ジョーのような直情径行の喧嘩っ早い若者に革命思想が付与されれば、まさに山谷ドヤ街は革命暴動の処点足り得たかもしれない。少なくとも、現『あしたのジョー』よりははるかに幅と深さを持った漫画作品となったであろう。
 『あしたのジョー』では、山谷に巣くう日雇い労務者の実態にスポットライトが当てられることはない。彼らの大半は闇の中に佇んだままであり、読者の目に触れるのは何人かの路上生活者にとどまる。彼らの誰一人としてやくざや警察に反逆の牙を剥く者はない。暴力はジョーと丹下段平、ジョーと太郎、チンピラと丹下段平、ジョーとチンピラの間で生起するだけで、そこに“革命”に繋がる要素は欠落している。ドヤ街で元気があるのはちびっ子どもだけである。が、このちびっ子どもは〈成長しない子供〉という枠内に閉じこめられている。彼らは漫画という虚構内虚構であり、虚構内の現実を現実として生きていくことができない。彼らは団結し、武器を持って闘うことのできる存在であるが、彼らの闘う相手はジョーでしかなかった。彼らはジョーに立ち向かった時と同じエネルギーを持って鬼姫会のチンピラたちに闘いを挑むことはなかった。太郎がジョーに屈服した後には、ジョーの子分に収まって、ジョーの〈悪〉に加担するが、そのしみったれた反社会的行為は“革命”に結びつくような行為とは言えない。ジョーの前に「ゆめの大計画」に執拗にこだわり、鋭い質問を浴びせるような、明晰な頭脳を持った〈ちびっ子〉が現れてこなければ、ジョーが内在させていた革命家の可能性は忘却の彼方へと押しやられてしまうのである。
 『あしたのジョー』において垂直的な掘り下げは無意識のうちにタブーとなっている。太郎に許されたジョーに対する質問は一回限りで、さらなる質問は用意されていない。ジョーの「ゆめの大計画」は竹中労の革命闘争を必要とするのかしないのか。そういった物騒な質問は発することすら許されていない。ジョーの「ゆめの大計画」はちびっ子どもに付与された性格と同様に成長し発展することを禁じられているのである。

 ジョーはちびっ子どもの〈親分〉格として振る舞うが、ドヤ街の民衆と団結して資本主義体制を覆すという革命運動のリーダーとして演説し行動することはない。ジョーはドヤ街に宿泊、ないしは路上生活に甘んじているルンペン・プロレタリアートをまとめ上げ、彼らと共に国家権力に立ち向かおうなどという思想もなければ情熱もない。描かれた限りでのジョーは、やさぐれた流浪者であり、喧嘩っ早い直情径行型の若者でしかない。逮捕されたジョーを救うべくちびっ子どもが警察署に押し掛けたり、ジョーが多数の警察官を殴り倒して脱走するなどという出来事は、現実ではまず起こらない〈漫画〉ならでは出来事である。『あしたのジョー』は〈純文学〉と見なすには、あまりにも荒唐無稽な漫画的設定が多すぎる。
 ちびっ子どもが年齢不詳で、読者は描かれた姿格好で推測するしかないが、太郎は中学生、ほかの子供たちはどう見ても小学生ぐらいにしか見えない。ジョーとの関係において最も重要な人物であるサチもまたその年齢が不明確である。じゃりン子チエと同じに見れば小学五年生で十歳か十一歳となるが、六歳か七歳にも見える。作画者ちばてつやは彼らの学校生活についていっさい触れていない。読者は彼らが学校に通っているのか否かさえ分からない。ちびっ子どもは不登校なのか、学校で差別されているのか、描かれた限りでは何一つ分からない。

 『あしたのジョー』はドヤ街の人々の非差別問題を抉る社会漫画でもないし、ましてや革命漫画でもない。武器(スコップ、棍棒、鍬など)を持ったちびっ子どもがジョーに立ち向かうことはあっても、国家権力側の警察に襲撃をかけることはない。あってもジョー救出のための投石ぐらいにとどまっている。
 『あしたのジョー』が革命思想を持った若者に支持されたのはいったいどういう理由によってなのか。この問題に関しては何度でも検証する必要を感じる。田宮高麿をはじめとして、当時の革命家はジョーの孤高な闘う姿に共鳴したのであろうか。両親に幼くして捨てられ孤児として成長したその生い立ち、流浪の身をドヤ街に寄せて、段平と共にボクシング世界チャンピオンを目指して必死に努力するその姿に我が身を重ねていたのだろうか。あらゆる絆を断ち切って革命運動に没頭しなければならない革命家にとって、〈孤児〉であることは必須条件である。ジョーは幼くして革命家の資格を得たエリートとさえ見なされよう。革命を実現するために日々闘争に明け暮れていた当時の若い革命家にとって、虚構世界に生きるジョーこそが最大のヒーローであり憧憬の的であったのかもしれない。
 それにしても、あまりにも単純過ぎはしないか。描かれた世界で見れば、ジョーは不可避的に山谷ドヤ街を生み出す資本主義体制をまったく批判していないし、むしろその世界で成功することを夢見ている若者である。ジョーが丹下段平と組んだその時から、彼は革命家が否定する資本主義の舞台に積極的に乗ったと言える。ジョーの暴力は子供っぽい次元を一歩も越え出ていない。ジョーの過激な暴力はボクシングに繋がることはあっても、過激な社会改革運動には繋がっていかない。ドヤ街に颯爽と現れたジョーの前に元ボクサーの丹下段平の他に、ネチャーエフやレーニン並の革命家、それにイエス並の救世主が登場すれば、『あしたのジョー』はまさにドストエフスキー並の〈純文学およびエンターテインメント〉作品になったであろう。
 〈イエス並の救世主〉はひとまず措くとしても、〈ネチャーエフやレーニン並の革命家〉は是非とも登場して欲しかった。その時はじめてジョーは〈革命〉か〈金〉の二者択一の前に深く佇むことになったであろう。単なる暴れん坊のジョーではなく、思索し苦悩するジョーの誕生である。そこまできてようやくジョーは『罪と罰』のロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフの姿を獲得することになる。ドストエフスキーの『悪霊』さえ読まなかった日本の革命家の〈革命〉など、微塵の説得力も持たないのである。もちろん彼らはそのことに関してはまったくの無知であり、暴れん坊のジョーの域を一歩も脱していない。
 ジョーの〈喧嘩=暴力〉は〈革命〉と結びつくどころか、それとはまったく逆の反革命的な〈ボクシング〉へと突き進んでいった。ジョーとボクシングの結びつきは、まず丹下段平との出会いに始まるが、決定的だったのは力石徹との出会いである。特等少年院での力石徹との出会いがなければ、ジョーが本気でプロボクサーを目指す気にはならなかったであろう。その意味でもジョーと力石徹の出会いは宿命的であったが、この出会いは別の意味でも決定的であった。


あしたのジョー』の読者なら誰でも知っていることだが、力石徹白木葉子の子飼いのボクサーである。そして白木葉子は政財界の大物白木幹之介の孫娘である。つまり、革命家が打倒しなければならない資本主義のシンボル的存在が白木家であり、その子飼いとなっているボクサーが力石徹である。ジョーはルンペン・プロレタリアートが集まるドヤ街のヒーローとして、力石徹は資本家の代表として闘っている。が、力石徹が政財界の大物・白木幹之介の子飼いのボクサーであることに注意を向けた読者がはたして何人いたのだろうか。力石徹バンタム級のジョーと闘うためにボクシングの常識を越えた凄まじい減量を自らに課した、その凄絶でストイックな姿に魂を直撃されない者はいないだろう。まさにこの無理な減量がたたって力石徹はジョーとの試合後に命を失うことになった。もし力石徹がプロボクサーとしての名声や金が欲しかっただけなら、ジョーとの試合に臨むことはなかったであろう。

 ジョーの〈完全燃焼〉を理解する為には、力石徹との出会いと死闘を検証する必要がある。注目すべきは高等少年院での最初のグローブをつけた試合である。そもそもこの試合の切っ掛けとなったのは、ジョーが旅芸人の娘エメラルダを熱演する白木葉子を〈茶番劇〉と揶揄したことにある。怒り心頭に発した力石徹はジョーを追い、決闘を仕掛ける。が、そこへ葉子が現れ大声でストップをかける。瞬間、葉子の方へ振り向いた力石徹の顎をジョーの左ジャブが連続でヒット、続いて強烈な右ストレート、左ボディ、左ジャブ三連発、右フック、ストレート、ジャブ、ジャブ、右ストレート‥‥。葉子、必死の形相で「おやめなさいといってるのにきこえないのっ」とジョーに向かって左拳を振りかぶる。瞬間、葉子の背後で力石徹が力尽きて崩れ落ちる。予期せぬ事態に動揺した葉子は「力石くん‥‥しっかりして、力石くん!」と力石に寄りすがって叫ぶ。ジョーは闘いのポーズをくずさず「へへ‥‥ど、どうしたい力石‥‥もう、まいっちまったのかよ」と侮蔑的な言葉を発する。
 瞬間、切れた葉子は「ひきょう者!」と叫ぶと同時にジョーの右頬に思い切り平手打ちをくらわす。白木家の令嬢の思い切った激しい行為に、周りを囲んでいた高等少年院の猛者たちも驚きの表情を隠せず、みんなうめき声のような溜め息を発し、大口を開けたまま呆然と立ち尽くしてしまう。ジョーもまた一瞬、呆然として殴られた頬に両手をあて、殴った葉子を大きな眼を見開いて凝視する。怒りの収まらない葉子は、両手を固く握りしめて「ひ‥‥ひきょう者!」とジョーを罵る。
 ジョーは思いもよらぬ言葉を投げつけられて、一瞬とまどいの表情を浮かべ「ひきょう者‥‥だと?」と確認するように小さく呟く。葉子は激しい感情に駆られたまま「そうじゃないの! ふりむいたすきにおそいかかるなんて、ひきょう者よ、あなたは!」と大声で叫ぶ。この葉子の感情の爆発にジョーの感情が呼応して爆発する。ジョーは「ふ‥‥ふざけんなっ。たがいに男どうしが挑戦したあと、ちょっと声をかけられたくらいで、気をゆるめるなんざ、ぶったるんでる証拠なんだ! ぶったるんでるやつをなぐってなにがひきょう者だ!」と叫びながら、葉子の首を両手で強くしめる。
 高等少年院の教官が三人がかりで引き離すが、ジョーは激しく抵抗し、両手両足を激しくばたつかせながら「は‥‥はなせっ。あんちくしょう! あの冷血女をしめ殺してやるっ」と怒鳴りまくっている。

 

 さて、ここで少しばかり立ち止まることにしよう。この場面だけに限っても、ジョーと力石徹の闘いには白木葉子がかなり深く介在していることが分かる。白木葉子力石徹がどこでどのように出会い、どのような会話を交わし、お互いにどのような思いを抱いていたのか。その詳細は描かれていないので読者が推測するしかない。学生劇団を主催している白木葉子の正確な年齢さえ詳らかではないが、仮に高校生だとすればこの時、十六、七歳ぐらいであったのだろうか。
 いずれにしても白木葉子は、暴力沙汰で高等少年院に入っていた元プロボクサー力石徹の有力なスポンサーであり保護者である。退院後、力石徹は白木ボクシング事務に所属してプロボクシングに復帰することになっているのだから、彼は白木葉子には頭があがらない。それに、力石徹白木葉子に恋心を抱いているのは明白である。
 ジョーはそんな白木葉子の舞台公演にいちゃもんをつけ、侮辱的な言葉を面と向かって投げつけた。力石徹が黙って見逃すはずはない。それで力石徹は会場を出て行ったジョーを追いかけ、決闘を申し込むに至ったということである。余りにも分かりやすい原因と結果である。
 ジョーも力石徹も絵に描いたような単純で直情径行型の若者で、なんでも喧嘩で解決できると思っている。この単純で激しい喧嘩っぱやい若者に白木葉子はどういうわけか魅力を感じている。こういった若者を好きになる女はべつに白木葉子に限ったわけではないが、彼女の場合はその感情に、大げさな言葉を使えば統治の感情が蠢いている。同世代のジョーと、おそらく年上である力石徹を君づけで呼ぶ、この高飛車な令嬢の支配欲は半端ではない。なによりも自由を求め、いかなる束縛にも激しく抵抗するジョーが、白木葉子のやることに反発するのは当然である。むしろ力石徹白木葉子に対する従順さが異様に見える。
 力石徹はジョーに言う「おめえはいま‥‥やっちゃならねえことをやったな。ぶじょくしちゃならねえ人をぶじょくしたな。いつぞやはほんのなでるだけですませてやったが‥‥こんどはそうもいかん」と。この言葉の中に力石徹白木葉子に対する立場が明確に表れている。力石徹にとって白木葉子は絶対に侮辱してはならない人、つまり女神のような存在だった。格闘寸前、突然発せられた「おまちなさいっ、力石くん!」の言葉(命令)に力石徹パブロフの犬のように反応してしまう。結果、ジョーに徹底的に打ちのめされてしまうことになる。白木葉子力石徹の関係は、主人と飼い犬のそれであり、力石徹はどんな場合でも白木葉子の命令に従う忠犬ということになる。白木葉子はジョーを〈ひきょう者〉と罵るが、男同士の闘いに口を挟む自分のおせっかいを反省する視点は見事に欠落している。
 ジョーはエスメラルダを演ずる白木葉子の欺瞞を直観的に看破し、それを公衆の面前で大声で告発する天性的な純粋無垢を持っている。ジョーのスキャンダラスな言葉は、まさに彼の殺人パンチと同様、相手の欺瞞の核心部を直撃し大打撃を与える。「エスメラルダは愛にみちたやさしい娘‥‥か。へっ、エスメラルダそのものは愛にみちているかもしれないが、役者がいけないね、そのなんとか葉子って女がよ。とんだミス・キャストだ!」このジョーの言葉に葉子は呆然と立ち尽くす。が、この時点では未だ葉子はジョーの言葉を真に理解していない。葉子は〈慈善の愛〉の偽善を明晰に認識する段階には至っていない。
 注意すべきは、ジョーは白木葉子の〈幻想〉に惑わされていないことだろう。力石徹は完全に葉子の飼い犬に甘んじて、彼女の企てる路線に忠実に従っている。葉子の命令にどこまでも忠実であろうとするのが力石徹で、いつも反逆的な態度を崩さないのがジョーである。つまりジョーと力石徹は葉子に対して全く逆の接し方をしている。葉子は力石徹に対してはいつも主導権を握って高飛車に振る舞っているが、ジョーからは遠慮会釈のないストレートな常軌を逸した乱暴な言葉を浴びせられている。
 祖父の白木幹之介に可愛がられ、自由奔放に生きてきた葉子にとって、ジョーという男は単に物珍しい無礼な存在の枠を越えて魅力的な、のっぴきならない存在へと変容していく。未だはっきりとは認識できていないが、やがてジョーに対する思いは募っていくばかりとなる。
 白木葉子はまだ若いがボクシングのプロモーターとして確実に実力を増していく。政財界の大物・白木幹之介の力が背後にあったことはまちがいないが、幹之介の血を引いた葉子の天性的な力が大きく働いていたことは確かである。葉子は男同士の関係に分け入り、そこに隠然たる影響を与えたいと思っている野心家である。

 プライドの高い美貌の持ち主で権力欲の強い女の前にひれ伏す男がおり、反逆する男がいる。前者が力石徹で後者がジョーである。力石徹にとって白木葉子は絶対的な存在で、反逆の牙を剥くことなど考えられない。力石徹は女神葉子を崇め奉る存在で、彼女に対して自立した存在とは言えない。力石徹の自由は白木家の子飼いの犬としての自由であって、独立した人間の自由とは言えない。ジョーは自由を奪われることを最も嫌う。孤児院を何度も脱走したこと、高等少年院に入ってもまず考えるのは脱走である。
 力石徹はジョーの脱走を拒む存在で、退院後は白木家の世話になることを喜んで承諾している若者である。こういった力石徹に共感を覚えて「我々は明日のジョーである」などという声明文を書き残す赤軍派の革命思想とはいったいなんなのだろうか。打倒すべき資本家の飼い犬力石徹に憎悪を感じるのならまだしも、どうやら彼らは心の底から力石徹に感動していたらしい。
 描かれた限りで見れば、ジョーも力石徹も自分の腕力(パンチ力)にしか頼めない直情径行型の若者で、彼らの精神性に惹かれる要素はほとんどない。ジョーは葉子に侮辱的な言葉を発する程度において、相手の心理心情の無意識の領域へ届く矢を吹き放つ若者で、まさに矢吹という名前に相応しい皮肉屋ではある。が、力石徹もジョーも、結局はプロボクサーとして資本家の興行に加担しているのだから同じ穴の狢であることに違いはない。

 

時代を超えた『あしたのジョー』 連載3  清水正

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ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube


時代を超えた『あしたのジョー
ーーちびっ子サチに捧げる死闘(テキストへの参入)ーー 

連載3

清水正


 ラスコーリニコフは棺桶のような屋根裏部屋に始終閉じこもっていたのではない。『罪と罰』の読者、特に若い読者はラスコーリニコフを世間から孤立した文学青年、単独者のように思いこんでしまいがちだが、客観的な眼差しを注げば、この青年は軽薄なお調子者の相貌を多分に持っていることが分かる。ラスコーリニコフは上京そうそう、下宿の娘ナタリヤといい仲になり結婚の口約束までしている。年金百二十ルーブリでかすかすの生活をしている母のプリヘーリヤは亡き夫の友人アファナーシイの〈いい人〉ぶりに頼って、年金を抵当に入れてまで金を仕送りしているというのに、ラスコーリニコフはドイツ製の山高帽子などをかぶって、まるで高貴な紳士気取りでネーフスキー通りを闊歩したりしていた。大学も途中退学し、下宿の女将には百十五ルーブリの金を借りていたが、バイトにもでかけずぶらぶらしているような青年である。
 こういった主人公が、明治・大正・昭和の若者たちの魂を鷲掴みにしたのは、彼が悩める青年であったからだろう。ラスコーリニコフは十九世紀ロシアの知的青年たちが例外なく当面していた〈革命か神か〉の問題に悩んでいた。この問題は『罪と罰』で先鋭的に浮き彫りにされることはなかったが、いずれにせよ、ラスコーリニコフが深くものに感ずることのできる青年であり、すべての人間の苦悩の前にひざまずくことのできる青年であったことは間違いない。
罪と罰』は三人称小説の形式を採っているが、実際はラスコーリニコフを主体とする一人称小説と言ってもいい。無防備に読み進めていく読者は、いつの間にかラスコーリニコフの内面と同化してしまう。ラスコーリニコフの悩みはわが悩みとなっていくのである。主人公〈私〉と読者〈私〉の同一化現象が進めば、危険な領域へと踏み込むことになるが、主人公ラスコーリニコフに取り憑いたデモーニッシュで神秘的な力が働かなければ、殺人という第一の〈踏み越え〉もなければ、従って最終的な〈踏み越え〉(復活)もない。

 手塚治虫は主人公ラスコーリニコフの内面に深入りすることはない。原作『罪と罰』において、カメラはラスコーリニコフの両目に張り付いていて、世界は彼の主観に彩色されて現象している。また、このカメラはラスコーリニコフの内部世界にも向けられている。従って読者は、まるで自分がラスコーリニコフと同一化したように世界を見、彼の内部世界を生々しく生きることになる。ひとたび、ラスコーリニコフの内部世界と合体化したような読書体験を持つと、なかなかラスコーリニコフの観念から抜け出すことは難しくなる。手塚治虫はこういった観念にとり憑かれるタイプの読者ではなかったらしい。手塚はマルメラードフの通夜の場面で、カチェリーナと家主アマリヤの、貧しい店子たちを巻き込んでの烈しいやりとりを思う存分に描き切っている。

 日本の近代の小説家や批評家はドストエフスキーの文学を観念的、思想的、神学的次元で深刻に受け止めた。人間いかに生きるべきか、自由とは、愛とは、神とは‥‥。十七歳のドストエフスキーは兄ミハイル宛の手紙で「人間は神秘です。その謎は解かなければなりません。そしてそのために一生を費やしたとしても、時間を空費したとは言えません。ぼくはこの謎に取り組んでいます、なぜならぼくは人間になりたいからです」(一九三九年八月十六日)と書いた。まさにドストエフスキーの全作品は人間の謎を解くために書かれたと言っても過言ではない。
 シェイクスピアに悲劇、史劇があると同時に喜劇もあるように、ドストエフスキーにも喜劇的な作品が存在する。と言うよりは悲劇的な作品のうちに喜劇的要素が埋め込まれていると言った方がいいかもしれない。が、ドストエフスキー文学における喜劇的側面は文学畑の人たちにはあまり重視されてこなかった。そんな中にあって漫画家手塚治虫は『罪と罰』におけるグロテスクなカーニバル空間にスポットライトを当てた。手塚はマルメラードフの告白場面を省略しても、マルメラードフの法事の場面には多くの頁をさいた。手塚は実に全11頁40コマを費やして、法事の場面をハチャメチャなドンチャン騒ぎとして描いている。この場面は圧巻である。

※  ※  ※
 新谷敬三郎訳『ドストエフスキイ論ーーー創作方法の諸問題』(一九六八年六月 冬樹社)は小林秀雄以来、人間主体的批評が主流であった日本の文学界に一つの大きな揺さぶりをかけたが、その著者であるミハイル・バフチンは「それぞれに独立して解け合うことのない声と意識たち、そのそれぞれに重みのある声の対位法を駆使したポリフォニイこそドストエフスキーの小説の基本的性格である」と書いている。
 バフチンドストエフスキーの文学を〈真面目な茶番というジャンル〉(ソクラテスの対話やメニッポスの風刺)でとらえ、その際だった特質性としてカーニバル的世界感覚に貫かれていることを指摘した。その上で、メニッペア(メニッポスの風刺)の特徴を次のように説明している。

  メニッペアに大変特徴的なことはスキャンダル、エクセントリックな行為、場違いなことばと話の場面である。それはことばをも含めて行為や礼儀作法の一定の基準、事件の普通一般の進行のあらゆる破壊である。(略)スキャンダルやエクセントリックな行為は世界の叙事詩的、悲劇的統一性を破壊し、人間の行為や事件の不動でノーマルな(《お上品な》)進行に穴をあけ、既製の基準や動機づけから人間の行為を解きはなつ。(略)《場違いの言葉》ーーシニカルな露骨さ、あるいは聖物冒涜とか礼儀作法の容赦ない破壊という点で場所柄をわきまえぬーーもまたメニッペアの特徴である。
  メニッペアは鋭いコントラストと矛盾した組み合わせとに満ちている。貞淑な遊女、賢者の心の自由と奴隷身分、奴隷となった皇帝、道徳的堕落と清純、贅沢と貧窮、高潔な盗賊等々。それは急激な移行、転換、倒錯、向上と堕落、遠く離れていたものの突然の接近、身分違いの縁組みを演ずることを好む。(174~175p)

 

 バフチンはカーニバルに関しては次のように書いている。

  カーニバルとはフットライトなしの、演技者と観客の区別のない見世物である。そこではみんなが積極的な参加者であり、カーニバルの正餐を享けるのである。カーニバルは観るものではなく、厳密にいうと、演じるものでさえなく、そのなかで生きるもの、その法則に働きかけられながら、それにしたがってカーニバル的生を生きるものなのである。カーニバル的生とは常軌を逸した生であり、なんらかの程度において《裏返しの生》《あべこべの世界》(《monde a lenvers》)である。
  日常の、つまりカーニバルの外の世界の体制や秩序を規定している法則やタブーや制約はカーニバルの時には取り除かれる。なによりもまずヒエラルキー的体制とそれに結びついている恐怖、畏敬、敬虔、礼儀といった形式がすべて取り除かれ、社会的・ヒエラルキー的、その他(例えば年齢など)の不平等によって決定されているもろもろのものが取り除かれる。人と人のあいだの距離がすべて除かれ、カーニバル独特のカテゴリーである自由であけすけな接触が力をえてくる。これはカーニバル的世界感覚の非常に重要な因子である。生活のなかで見透しのきかないヒエラルキーの柵で隔てられている人びとがカーニバルの広場では自由なあけすけな接触をもつ。あけすけな接触というこのカテゴリーによって群集劇独特の組織や自由な身ぶりや露骨な言葉が生み出される。(略)人間の行為や身ぶりや言葉は、カーニバル外の生活では全くあらゆるヒエラルキー(身分、位、年齢、財産)の状況によって左右されていたのが、その支配から解放される。それ故日常生活の論理から見るとエクセントリックで場違いなものになる。エクセントリックはカーニバル的世界感覚独特のカテゴリイで、あけすけな接触と密着している。それは人間性の隠れた面として、具象的感覚的な形をとって露わにされ、表現される。(180~181p)

 

 手塚治虫は漫画版『罪と罰』、特に〈マルメラードフの法事〉の場面においてドストエフスキー文学の特徴である《真面目な茶番》、そのメニッペアとカーニバル的世界感覚を見事に描いている。詳細は拙著『清水正ドストエフスキー論全集』第四巻(2009年4月 D文学研究会)にまかせるとして、今回、わたしがここで強調しておきたいのは、『あしたのジョー』におけるちばてつやの作画法がまさにバフチンの言うメニッペアやカーニバル的世界感覚に貫かれているということである。
 『罪と罰』は「七月初旬、異様に熱い夕方、一人の青年がS横町の借家人から又借りしている小部屋から通りへ出て、ゆっくりと、思いまどいながらK橋の方へ歩いていった」で始まる。カメラは主人公の〈一人の青年〉を間近からとらえている。三人称小説であるから、当然、カメラは主人公を客観的にとらえている。が、先に指摘したように、この小説は実に一人称小説的なのである。つまり、この出だしの文章を「七月初旬、異様に熱い夕方、私はS横町の借家人から又借りしている小部屋から通りへ出て、ゆっくりと、思いまどいながらK橋の方へ歩いていった」と読み替えても一向に不自然ではないということ、むしろその方がリアリティが増すかもしれない。

※  ※  ※
 ところで、『あしたのジョー』の出だしはどうであったろうか。わたしがテキストにしている講談社文庫版では、第1頁は全スペースをとって天空から大都市東京を俯瞰的にとらえている。初出「少年マガジン」ではこの第1頁の絵はなく、もう少し接近した上空からの俯瞰図となっている。
 いずれにせよ、カメラ(視点)は天空から降りてきた形になっている。つまり『あしたのジョー』は、カメラの視点にのみ注目すれば、神の視点から描かれていることになる。わたしの目には、この天空からのカメラと共にジョーがこの世界に降臨してきたかのようにも見えるのだが、この点に関しては今は触れない。
 手塚治虫の漫画版『罪と罰』もまた、カメラ(鳥)は時空を超えて二十世紀現代から十九世紀ロシアの首都ペテルブルクへと飛んで行き、まずは上空から都市ペテルブルクを俯瞰していた。この手塚版カメラは原作版カメラとは違って、主人公の内部世界を執拗に映し出すことなく、或る一定の距離を保って、人物たちが織りなすメニッペア的、カーニバル的生の現場を見事に再構築した。
 ちばてつや版カメラ(鳥)は東京上空を自在に飛び回った末に、都会の片隅のドヤ街へと至りつく。カメラ(鳥)は一泊百円の安宿や風呂屋や居酒屋などが立ち並ぶドヤ街の一角を上から映し出す。主人公のジョーはまだ名前も明かされない、まさに〈一人の青年〉として、ほこり舞う通りを歩いて来る。まさに、この青年は〈ドヤ街〉へとやって来た。カメラ(鳥)は通りの向こうから歩いて来る青年を小さくとらえている。つまり、この時点でジョーは未だ主人公としては扱われていない。むしろ東京の片隅にある〈ドヤ街〉そのものが主人公格としてその存在感を醸し出している。
 次頁(8p)1コマ目でカメラは青年に接近、服装や肩に担いだずだ袋、顔の表情などをとらえている。画面右から上部にかけて、リヤカーに積まれた新聞、庇に立てかけられた板戸、中の暗がりにはドラム缶が見える。ドブ板にはバケツや竹籠やトタン板などが置かれ、通りには新聞紙が埃風に吹かれて舞っている。

 さて、このドヤ街の光景や青年の表情をとらえているのは誰か。カメラはここで〈鳥〉から〈猫〉へと移っている。手塚治虫の漫画版『罪と罰』においても、時空を超えて飛翔したカメラは〈鳥〉の目から〈猫〉の目へと変換している。ちばてつやがどこまで意識していたかどうかは別として、まさにカメラは天空を飛翔する〈鳥〉からドヤ街に生息する〈猫〉の目へと移行している。
 この猫カメラは原作『罪と罰』の一人称的カメラとは違って、青年の内的世界を映し出したり、また青年に関する説明をいっさい加えない。読者は、猫カメラがとらえた青年の外的相貌によってしか青年を理解することができない。厳密に言えば、録音付き猫カメラは、その姿を消して自在にその立ち位置を変えることができるから、いわば神的偏在する視点と言えようか。
 いったいこの一人の青年はどこから来たのか、何のためにこのドヤ街へとやって来たのか、これから彼はどこへ行こうとしているのか。猫カメラでとらえられた青年は、そういった読者の誰もが知りたいと思う、いっさいの情報を伝えない。
 読者が分かるのは、公園での丹下段平との闘い、舞台をドヤ街の通りへ移してのちびっ子どもとの闘い、ボス格の太郎をぶちのめして一見落着かと思った途端、サチを連行した鬼姫会のチンピラが登場、チンピラと丹下段平の闘い、そしてチンピラとジョーの闘いと続く。まさに喧嘩に次ぐ喧嘩の連続である。鬼姫会のチンピラがジョーにこてんぱにのされ、一応〈格闘シーン〉は幕を降ろす。
 ところで、この一連の格闘場面がまさに先に引用したメニッペアの諸特徴を体現している。ジョーと丹下段平の突然の出会いと無礼な言葉のやりとり、格闘‥‥それらはまさに「スキャンダル、エクセントリックな行為、場違いなことばと話の場面」であり、続くドヤ街での一連の格闘シーンもまた「それはことばをも含めて行為や礼儀作法の一定の基準、事件の普通一般の進行のあらゆる破壊であ」ったことを見事に証明している。ドヤ街の公園や通りは、ジョー、丹下段平、ちびっ子ども、チンピラども、野次馬たちが織りなす文字通りのカーニバル空間と化している。
 バフチンは「カーニバルとはフットライトなしの、演技者と観客の区別のない見世物である。そこではみんなが積極的な参加者であり、カーニバルの正餐を享けるのである。カーニバルは観るものではなく、厳密にいうと、演じるものでさえなく、そのなかで生きるもの、その法則に働きかけられながら、それにしたがってカーニバル的生を生きるものなのである」と書いていた。
 ジョーが現れたことによって、ドヤ街の通りは、ほこり舞うしけた日常の暮らしを支える一本の通路から、突然、異様に活気のある祝祭空間へと変貌したのである。アル中で廃人同様の丹下段平を生き返らせ、太郎を中心にまとまっていたちびっ子どもの秩序に緊張を走らせ、ドヤ街で絶対的な力を誇示していた鬼姫会のチンピラどもは徹底的にぶちのめされる。まさにジョーは丹下段平の〈死〉を〈再生〉へと導き、ちびっ子どもの秩序の再構築をはかり、鬼姫会の権威を根底から打ち崩してしまう。
 今までの日常を支配していた規律、秩序は大きく揺さぶりをかけられ崩壊してしまった。ジョーはカーニバル時空の王として立ち現れたのである。丹下段平はジョーにボクシングの世界チャンピオンを夢想し、闘争心に燃えていたちびっ子どもは太郎がぶちのめされて恐怖のどん底に落ち、チンピラがのばされた光景に接して戦慄を覚える。この戦慄は、ジョーに対する畏怖の念を呼び起こし、彼を英雄として崇めることになる。

※  ※  ※
 さて、わたしが執拗にとりあげ照明を与えたいのは、格闘シーンが一段落した後のジョーとサチである。サチはジョーの後頭部めがけて下駄を投げた。その後、ちびっ子どもが止めるのもきかず、ジョーに向かって遠慮のない激しい言葉を吐き続ける。
 まさにサチの言動は「日常の、つまりカーニバルの外の世界の体制や秩序を規定している法則やタブーや制約」を取り除かれて、「恐怖、畏敬、敬虔、礼儀といった形式がすべて取り除かれ、社会的・ヒエラルキー的、その他(例えば年齢など)の不平等によって決定されているもろもろのものが取り除かれ」ている。サチはカーニバル空間において十分に主役を張っている。丹下段平、太郎、チンピラと相次いで倒したジョーであったが、唯一勝てなかった相手がちびっ子のサチであった。
 ジョーが口ずさんでいる歌「風が泣いている」の一番の歌詞に「誰を追いかけて行く どこへ 何が そんなに悲しいのさ」、二番の歌詞に「どうせ帰らない恋ならば 早く忘れたほうがいいぜ」という文句がある。
 ジョーに好きな女との別れの体験があったとしても、別に不思議ではない。そして、この歌詞が切なく響くのは、未来のサチの気持ちを先取りしているからである。
 誰よりも力強く、精一杯駆けてジョーの後ろ姿を追ったのはサチであった。追い越して、ジョーの前に立ったのはサチであった。からかわれて、下駄を投げつけたのはサチであった。サチはジョーの伴侶に最も相応しい〈レディ〉であり〈お姫さま〉として彼の前に立ったのに、ジョーは「はっはっはっはっはっ」と思い切り大声で笑いとばしながら「あばよ、おしめさま!」と行って駆け去っていく。サチは悔しさいっぱいで空き缶や石を投げつけるが、もはやジョーには届かない。ついにサチは道路に膝を崩し、「あ~~ん あんあん あ~~ん あんあん」と手放しで泣き崩れる。
 このサチの泣き声は、本当に、からだの芯からの悔しさ、悲しさ、切なさの迸りなのである。ちばてつやは本当に悲しいときの子供がどういう泣き方をするかを知っている。サチは年齢などを超えて、本当に泣いているのである。白木葉子も、紀子も、サチのように本気の本気で泣くことはできなかった。

 昼間の仕返しにドヤ街へとやってきた鬼姫会のチンピラどもが、ジョーと丹下段平を囲む。ジョーは一人でチンピラどもを叩きのめすが、本気になったチンピラの親分格の男が、子分たちにドスでやっつけちまえと命令する。丹下段平はジョーにパンチを食らわせ、気絶したジョーに自らの身で覆って必死に守る。と、そのとき警察のパトカーが現れ、チンピラともは逃げ出す。しかしジョーと丹下段平は正当防衛を認められず、逮捕され、警察の留置所にぶちこまれる。ここで、ジョーと丹下段平は二人だけの時間をもつことになる。この時、二人が交わした会話と、丹下段平が語った過去の断片を言葉だけで引用しておこう。

 

ジョー「どうだい、おっさん。すこしはらくになったんかい」
段平「ああ‥‥だいぶいたみはなくなったよ。さっきまではこのまんま、死んじまうかとおもったが‥‥」
ジョー「‥‥おれは、おっさんという人間がわからないぜ‥‥なんだって命を張ってまで他人のおれをかばおうとするんだい」
段平「ふふふ‥‥いまとなりゃあ、おめえはわしの生き甲斐みてえなもんさ。そのパンチにぞっこんまいっちまったんだ。その野獣の目にすっかり魅せられちまったんだ。わしゃあ、なんとしてもおまえと組んで」
ジョー「やめてくれっ。おれはボクシングなんぞに興味はないんだ。なんどいったらわかるんだ! ほっといてくれっ」
〔段平、ベッドに身を横たえたまま、ため息をつく〕
ジョー「それにしても、さっきのおっさんのパンチきいたぜ。さすがはむかしボクサーだったというだけはある。いっちょう退屈しのぎに、はなやかなりしむかし話でもきかせてくれないか、おっさん‥‥」
〔段平の見開かれた純粋な左目から涙が流れ落ちている。しばし沈黙が続いた後で、やがて段平は「ふ‥‥ふふ ふふふ」と自嘲的な笑いを漏らしながら静かに過去の一場面を語り始める〕
段平「この‥‥このわしくらい、徹底してついてねえ男もいねぇだろうな‥‥まあ、こんなことはじまんにもなんにもなりゃしねえが‥‥。おめえのいうとおり、わしはもとボクサーだった‥‥現役時代‥‥ようやく日本タイトルに挑戦ってときに、目をやられちまって、やむなく引退ーー。ちっぽけなボクシング・ジムの会長におさまるにゃおさまったが‥‥。きいてるのかジョー」
ジョー「ああ、きいてるよ。会長におさまってどうした?」
段平「‥‥‥‥つまり、なんとか会長におさまったと思えばだ、またまたつぎのようなざまよ」
【回想・ボクシング会場での試合場面】
段平「ええいくそっ。なにやってやがんだっ。打て、打て、打てぇっ。ちっ、かっこばかりつけやがって。打ちこまねえか、このうすらとんかち! ばっきやろーーっ、拳闘はなぐりあいだぞっ。にらめっこたあちがうんだぞっ。ほれ、このやろう、つっこまねえかーーっ」
〔ゴングが鳴り、ボクサーがコーナーに戻ってくる。段平は彼の首根っこを掴んでリングから引きずり出す〕
段平「こ‥‥こ、このどあほ。こいっ。さっさとひきあげるんだっ。だれが見たっておまえの負けにきまってる。もたもたして相手の勝ち名のりをおがむこともあるまいっ。けっ‥‥。〔段平、選手を足蹴りして控え室に入れる〕ええい、さっさとひかえにはいらねえかっ。このふぬけめ!」
〔控え室での選手とのやりとりの〕
選手「いいかげんにしてほしいな、会長」
段平「なにいっ」
選手「いいかげんにしてほしいといってるんだよう。くそみそにわめいたり首根っこつかんだり‥‥。ことわっとくが、おらあねこの子とはちがうんだぜ」
段平「こっ‥‥この‥‥‥‥」
選手「おれの恋人だってテレビ中継を見ているんだ。まったくかっこわるいったらありゃしねぇや!」
段平「ふ‥‥ふ‥‥。〔段平、机を思い切り蹴り上げ〕ふざけんなーーっ。おまえさえもっとまじめにやれば、おれだってすきこのんでどなりゃせんわいっ。〔段平、バケツを選手に向けて蹴り飛ばす。選手は身をかがめて避ける〕ポイントではあきらかに負けとわかっている最終ラウンド、逆転の方法はすでにK・Oしかないとわかっているのに、なぜ打ちこまねんだ! なんだってすて身の戦法に出んのだっ」
選手「〔グローブの紐を歯で解きながら〕へたに打ちこんだら敵さんも全力で打ちこんできまさあ。ぎゃくにK・Oでもされたら、判定負けよりさらにかっこわるいからね」
段平「〔段平、怒りに頭から湯気をたてながら〕う‥‥う‥‥そ‥‥それも、それもテレビで見ている恋人の手前か?」
選手「まあね‥‥正直いって、おれはもともとテレビにうつりたいためにボクサーになったんだ。会長の期待にそむいてわるいけどよ」
段平「‥‥世もすえだ‥‥二言めにはかっこいいだのわるいだの。すっかりタレント気どりでいやがる。飢えきった、わかい野獣でなければ、四角いジャングル‥‥つまりリングで成功することはできないっ。むかしからの格言どおりだ。勝たなけりゃ‥‥‥‥相手をたおさなけりゃ、あすのめしにありつけん。そこまで追いつめられなければ、四角いジャングルの弱肉強食弱にたえられんのだ!」
選手「〔グローブをはずし、ズボンをはき、シャツを着ながら〕ふふ‥‥この丹下段平のわかいころこそ、まさに飢えた野獣とでもいいたのでしょうが、〔ネクタイを締めながら〕むきになってなぐりあって‥‥その結果なにがのこりました。つぶれた片目と顔じゅうのきずのほかに‥‥」
段平「だ、だまれ‥‥〔右拳を振り上げながら〕だまれこぞう!」
選手「おっと〔左手で段平の右パンチをガード、続いて右アッパーを「ズバン」と段平の顎に決める〕」
段平「〔段平、後ろの壁に激しくぶつかり、前に倒れる。両腕で上半身を支えながら〕へへ‥‥お‥‥おいぼれだと強いんだな。〔鼻から血が流れ落ちる。よろよろと立ち上がって〕か‥‥片目ってやつは、攻撃も防御もまるで見当がくるいやがる。でなけりゃ、まだまだきさまごとき青二才に」
選手「〔すっかり着替え終わり、右手にはバッグを下げている〕あんたとの縁もこれまでだぜ。〔開けた扉を手で押さえながら〕かねがね、さそわれていたんだ。もっと科学的で合理的な大きいジムの会長からね」
段平「‥‥〔相手の言葉にハッとして立ち尽くす。扉は「バシーン」と大きな音で閉められ、段平を見切った選手が鉄の階段を降りて去っていく足音だけが「カツーン カツーン カツーン カツーン」と段平一人が取り残された部屋に空しく響いてくる」

【回想場面から戻る】
段平「あんな選手でもーーーーあそこまで育てるには、わしは借金を山ほどせおっていた‥‥バラック作りのちっぽけなジムをたたき売ると、拳闘ひとすじにうちこんで、いまだ妻も子もない片目の負け犬が、あとにたった一ぴきぽつんとのこった。そんな負け犬が、自分にふさわしいねぐらをもとめてたどりついたのが、このドヤ街ってわけさ。だが‥‥もちろんわしは、負け犬のままでおわるつもりはない。いまにきっと‥‥〔いつの間にか眠っていたジョーに気づき〕ジョー‥‥〔と、呟く〕」


 わたしは原作と作画の関係について関心があるので、ここに引用した場面などは特に興味がある。まず、ジョーと丹下段平のセリフや回想場面など、どこまで原作に忠実なのかに興味がある。現在残っている十四枚の原作と作画を見ても、ちばてつやが原作をかなり脚色していることが分かるので、この場面も原作通りに描いたとは思えない。
 ちばてつやは次のように語っている。

  原作では、唐突に激しいボクシングのシーンから入っていたんですが、僕としては、それだとどうしても気持ちが入っていけませんでした。いきなりアクションから始まって“なんだこれは?”って引いておいて、後から状況を説明する演出もあると思うんですけど、僕はちょっと馴染めなかったで、ゆったりと俯瞰から、その街の雰囲気や季節感を表して、それで(世界観)入っていったんです。
  梶原さんの原作はとにかくどんどんたたみかける感じで、グッとつかんでおいて、グイグイ読者を引っ張っていく。それがまた一つのパワーになっていくわけですけど、僕は何かそれだけだと描いていても息が詰まるし、読者としても疲れるんじゃないかと感じたんです。だから僕なりに考えて、ジョーがドヤ街にふらりと現れるシーンから入っていったわけです。(ちばてつや・豊福きこう『ちばてつやとジョーの闘いと青春の1954日』2010年1月 講談社

 ちばてつやはここで梶原一騎の原作の特徴を十分に理解しながら、彼独自の作画法を駆使したことを明確に語っている。ちばてつやという作画者を得て、初めて梶原一騎の垂直軸的な緊張世界に水平的な幅(弛緩)をもたせることができたということになうか。それはそれでいいのだが、問題は原作が残っていないことだ。これは正直言って驚くべきことだ。『あしたのジョー』の原作、それも出だしの場面すら残っていないというのは、やはり原作軽視の誹りは免れないであろう。
 ちばてつやの証言で、原作が「唐突に激しいボクシングのシーンから入っていた」ことは分かるが、それが段平の回想シーンにあったように段平会長の弟子の試合であったのか、それとも段平自身の試合であったのかも原作に照らし合わせて確認することはできない。すべては原作を見たことのある人たちの証言に頼るほかはない。しかし、わたしの知る限り、作画者のちばてつやも担当編集者の宮原照夫もこういった点については触れていない。原作は残すべきだが、梶原一騎ほどの売れっ子大物の原作さえ残さなかった商業主義の功罪の罪をしっかりと受け止めなければいけないだろう。原作さえ残っていれば、複数の漫画家に作画させる可能性は開けていたはずだし、それでこそ原作独自の価値がある。原作者梶原一騎と作画者ちばてつやの葛藤を、単なるエピソードの次元で片づけてはいけないし、大きなトラブルにはならなかったなどという言葉で処理してはいけない。
 丹下段平はなぜボクシングにこだわるのか。段平にとってボクシングは何だったのか。私が知りたいのはそれだ。段平は言う「なんだってすて身の戦法に出んのだっ」と。この言葉に魂が震える。段平はすて身で生きる、その生き方にあらん限りの情念を、マグマを注ぎきることができる。が、段平はその説明がまったくなっていない。段平は勝つこと、四角いジャングルで成功すること、そのためには四角いジャングルの弱肉強食に耐える〈飢えた野獣〉でなければならないと言う。要するに、段平は〈飢えた野獣〉の目的を〈成功〉に置いている。ではその〈成功〉とはなんなのだ。段平の考えている成功とは金、名声、権力を得た生活である。段平がジョーにぶちのめされた後に発したセリフは「どうだい‥‥いっちょうおれと組まねえか? なあに組むったってどろぼうやこそどろをやろうってじゃねえ。おめえ拳闘をやってみる気ははないかい、拳闘をよ。お‥‥おれがコーチしてやるぜ。おれがコーチすりゃあ、おめえなんざ日本一のボクサー‥‥いや世界一のボクサーにしたててやるぜっ。なあよ、ふたりで組んで一旗あげようじゃねえか! そうすりゃ、こんなうすぎたねえドヤ街にくすぶってることなんざねえんだ。でっかい車のりまわして、でっかいプールつきの屋敷に住めるんだっ。なあよう! わるいようにゃしねえ。どうだ、このからだおれにあずけねえかっ」である。ジョーは段平のセリフに対して「ことわっとくが、おれあよっぱらい相手に話をするのはだいっきらいなんだ。ましてや、でっかい屋敷だの、一旗あげるのだってゆめみてえな話きいてるとへその奥がかゆくなってくるぜっ」と返している。
 ここで段平が夢に描いている〈成功〉が世界バンタム級チャンピオン、ホセ・メンドーサの豪勢で幸せな生活に合致していることは明白である。そしてジョーもまた、段平の言う〈ゆめ〉を否定してはいないことも押さえておく必要がある。
 段平は分かっていない。自分が口にしている〈すて身の戦法〉で〈飢えきったわかい野獣〉が求めている何かがまったく分かっていない。段平は「テレビにうつりたいためにボクサーになった」選手を責めることはできない。段平のイメージしている成功した生活と、捨て身になれずに判定負けする選手が目指す生活は五十歩百歩で、彼らは同じ穴のむじなである。
 段平はジョーと組んで成し遂げようとしていることが分かっていない。段平にとってジョーも、この選手も同一次元に存在している。選手になくてジョーにあるのは〈飢えきったわかい野獣〉性であるが、段平の目的は四角いジャングルでの〈成功〉であって、ジョーが果たした〈完全燃焼〉ではない。ジョーもまた、段平と出会った頃はボクシング自体に興味はなかったし、〈完全燃焼〉するしかない自分の生き方の終末を予感することさえできないでいた。

時代を超えた『あしたのジョー』連載2 清水正

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ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube


時代を超えた『あしたのジョー
ーーちびっ子サチに捧げる死闘(テキストへの参入)ーー 

連載2

清水正


※  ※  ※

 ホセ・メンドーサとの壮絶な第7ラウンドが終わった後、丹下段平は「ジョー‥‥もうよそう。あ‥‥あの偉大なチャンピオンを相手にここまで、しかも片目だけでこんなにりっぱに戦ったんだ。もうこのへんでおしまいにしよう。わしは‥‥わしゃあ、もうこれ以上見ちゃいられねえ。もうたくさんだ」と言う。ジョーはそれに対し「待ってくれよ、おっちゃん‥‥おれは‥‥まだまっ白になりきっていねえんだぜ」と言う。段平はその言葉に立つすくみ「まっ白‥‥‥‥? まっ白たあ‥‥どういう意味だジョー」と聞き返す。
 先刻までの第7ラウンドの観客の歓声と壮絶なパンチの打ち合いの場面を言葉だけで再現しておこう。墨文字、白抜き文字、その他様々なヴァリエーションで手書きされているジョーのパンチ音は[]、ホセのパンチ音は「」、体の俊敏な動きは{}、ゴング音とレフリーの声は【】、観客の歓声と言葉は〔〕、ジョー陣営のセコンドの声は《》、ホセ陣営のセコンドの声は〈〉、ジョーの内心の声と呼吸音、呻き声は『』、ホセの内心の声は“ ”内に引用し、その他注意事項は()内に記した。


 【カァーン】(開始ゴング)〔ワー ワー ワー〕『ホセは5・6ラウンドのダメージが まだはっきりのこっている‥‥早いうちになんとかしなくちゃな‥‥』『いくぜ』[シュッ](当たらず){ビュッ}『おっと』『そう かんたんに 死角へばかり逃げこまれてたまるかね』『こうだっ』「バクッ」『ぐっ』〔ワーッ〕「ガスッ」《う うおっ‥‥》「ズシッ」「ピシ バキッ」「バキッ」『う‥‥ふ』「バーン」(ジョーがリングロープに打ち飛ばされた時の音)〔ウワーッ〕〔ワー ワー〕「ズバーーン」「ビシッ ドカ バン」〔ワァーッ〕[ビッ][シュ シュッ][ブン]「ビシッ」(ホセのガード音)「バキッ」「バン ドカ ドカッ」「ガスッ」「ベキィッ」(強烈な右アッパー)「ビシッ ドカ ドカッ バン ガスッ」【ス‥‥ストープ!!】〔ワーッ〕「ズル‥‥ドスン」(ジョー、ダウン)【ワン ツー スリー】〔ワー ワー ワー〕《ジ‥‥ジョー‥‥‥‥》【フォー】【ファイーーブ】【シーックス】【セブーン】〔ワーッ ワーッ〕【エイーート】〔ワー ワー〕〔ええい くそじれってえな‥‥!〕〔どうした矢吹 しっかりしろーーっ〕〔おめえのパンチ まるっきりあたらなくなっちまったじゃねえかっ〕〔ワー ワー〕【パン ファイト】〔ワー ワー〕〈ヘイ ホセ! 時間ハ マダ二分以上アルゾッ〉〈ジックリ 時間ヲ カケテ 的確ナ フイニッシュヲ キメロッ〉【ファイトだ チャンピオンッ】『はあ‥‥ふう はあ はあ』〔ワー ワー ワー〕〔や‥‥矢吹 がんばれっ 相手から目を はなすんじゃねえ! 5・6ラウンドの調子でつっかけるんだっ〕「シュッ シュッ」(当たらず)「ビッ」(当たらず)[ブン](当たらず)[ビュッ](当たらず)[シャッ](当たらず)「バン」「ベキッ」「ドカッ」「ビシッ」「バキィッ」「ズダーン」(ジョー、ダウン)〔ワーッ〕【ス‥‥ストーーップ!!】《お‥‥お(丹下段平)》[‥‥](白木葉子)〔あーー‥‥〕〔‥‥〕〔つ‥‥強え‥‥‥‥!〕【ワン】〔ワー ワー〕【ツー】【スリー】【フォー】【ファイーーブ】【シーックス】【セブーン】「ワー」【エイーート】〔ワー〕『よう‥‥かまえてるぜ もう』【ちょっと‥‥ちょっと待って‥‥】【傷を‥‥】『よせよ‥‥』『これっばかしの傷‥‥へでもねえ‥‥』【フ‥‥ファイトッ】〔ワー〕「バァン」「ガシッ スバッ」「ビシッ」「バキィッ」(強烈なパンチ)〔ワーッ〕《フィニッシュ‥‥‥‥!!》『うおお‥‥』「ビッ」「ガッ」(ジョー、ホセにクリンチ)「ダダダッ」(ジョー、ホセにクリンチしたままロープに駆け寄る)〔ワーッ〕【ブ‥‥ブレイク!】【ブレイク! ブレイクッ!!】【おい 矢吹 ブレイクだ はなれてっ】〔ワー ワー〕(ジョー、レフリーの腕をすり抜けて)[ブン](当たらず)[ベキッ](ジョーの強烈な右アッパー)〔ワーッ〕[バン バン]〈オオ‥‥〉[ドカッ](当たらず)[ビシッ](当たらず)「ガスッ」(強烈な右ストレート)「バシッ ドカ ガスッ」「ピッ」「ガシッ」「バン」「ビュッ」(当たらず)「ドスン」(ジョー、ホセに抱きつく)『は‥‥はあ ふう はあ』〈ホ‥‥ホールドダ レフェリー ホーールド!!〉〈レフェリー ヒキハナセーーッ〉【ブレイク! 腕をほどけ 矢吹っ ブレイク!!】(白木葉子の顔のアップ)【カァーン】(第12ラウンド終了ゴング)(第12巻280~302p)

 以上、言葉だけで引用、再現してもジョーとホセ・メンドーサの闘いは壮絶を極め、セコンド陣はもとより、観客の熱狂、興奮が直に伝わってくる。死闘場面を再現していて改めて感じるのは、ちばの作画力の凄さである。ちばはジョーと共に闘っている。そうであるからこそ、この死闘場面は異様な迫力とリアリティを獲得している。
 ちばてつやの作画力のうちには、コマ割、コマの形と大きさ、歓声・パンチ音のデザイン、頁構成など、映画における美術、音響、撮影、監督、編集などのすべての役割が含まれている。ちばは漫画家本来の絵を書く能力、脚本力(『あしたのジョー』の場合は高森朝雄の原作があるので、原作の解釈力と脚色力)、編集力が優れており、映画以上のリアリティを作り出している。
 熱狂・興奮の坩堝と化した第7ラウンドが終わった直後、画面は一挙に静謐な時間に支配される。観客のざわめきは無音に処置され、観客の姿にも薄幕が掛けられる。そんな静謐なリングにスポットライトが当てられ、読者は丹下段平とジョーの会話を間近に聞くことができる。熱狂の動的時空から瞬時に静謐な時空への変換、ちばの演出・編集力は卓抜である。  
※  ※  ※
 ジョーは丹下段平に問いただされて〈まっ白〉の意味を語る。試合の最中に、それも死闘の第7ラウンドを終わったばかりの、わずかな時(一分)の間にそれを回想シーンを交えて語るという、この演出が凄い。真に迫るリアリティは、ただ現実の法則に従っていたのでは描き出せないことをちばは知り尽くしている。
 
 〔リング上〕
 ジョー「いつだったかなあ‥‥。たしかあれは‥‥後楽園球場でカーロスと一戦をまじえたあとだったと思うが‥‥なんとなく目標をうしなってぼんやりしていた時期があったんだよ。そのとき‥‥あの林屋の紀ちゃんに、もうボクシングはやめたらどうか‥‥といわれてね。」
 〔回想シーン〕
【不自然なほど距離を置いてコンクリート塀に身を屈めて、暗い川面に視線を落としているジョーと紀子の後ろ姿をやや俯瞰的にとらえている。紀子の傍らに小さな風呂敷包みと傘が置かれている】
 紀子「矢吹くんは‥‥さみしくないの? 同じ年ごろの青年が、海に山に恋人とつれだって青春を謳歌しているというのに」
 ジョー「‥‥」
 紀子「矢吹くんときたら、くる日もくる日も、汗とワセリンと、松ヤニのにおいがただよう、うすぐらいジムにとじこもって、なわとびをしたり、柔軟体操をしたり、シャドー・ボクシングをしたり、サンドバッグをたたいたり、たまに、明るいところへ出かけるかと思えば、そこはまぶしいほどの照明に照らされたリングという檻の中ーーたばこのけむりがたちこめた試合場で、よっぱらったお客にヤジられ、ざぶとんを投げつけられながら、闘鶏や闘犬みたいに血だらけになってなぐりあうだけの生活‥‥しかも、からだはまだ、どんどん大きくのびようとしているのに、体重をおさえるために食べたいものも食べず、のみたいものものまず。みじめだわ、悲惨だわ。青春と呼ぶにはあまりにもくらすぎるわ!」
 ジョー「ちょっとことばがたらなかったかもしれないな‥‥。おれ、負い目や義理だけで拳闘やってるわけじゃないぜ。拳闘がすきだからやってきたんだ。紀ゃんのいう、青春を謳歌するってこととちょっとちがうかもしれないが、燃えているような充実感はいままで、なんどもあじわってきたよ‥‥血だらけのリング上でな。そこいらのれんじゅうみたいに、ブスブスとくすぶりながら不完全燃焼しているんじゃない、ほんのしゅんかんにせよ、まぶしいほどまっかに燃えあがるんだ。そして、あとにはまっ白な灰だけがのこる‥‥燃えかすなんかのこりゃしない‥‥まっ白な灰だけだ。そんな充実感は拳闘をやるまえにはなかったよ。わかるかい、紀ちゃん。負い目や義理だけで拳闘をやってるわけじゃない。拳闘がすきなんだ。死にものぐるいでかみ合いっこする充実感が、わりと、おれすきなんだ」(第12巻303~308p)

 この場面は、ジョーと紀子のいわば〈真剣勝負〉の場面である。ジョーも紀子も自分自身の人生観、価値観を微塵の妥協もなく口に出している。ジョーと紀子の価値観が折り合うことはない。紀子はジョーに好意を寄せているが、ジョーと生活を共にすることはできない。ジョーの完全燃焼はリング上での〈死〉を意味しているのであるから、紀子の望んでいる〈生活〉とは少しも重なる面がない。二人は川面を眺めていても、その距離が縮まることはないし、二人で道を歩いても肩を並べることはない。二人は腕を組んだり、手をつないで歩くことができない。彼らの口は自分の人生観を語るのみで、相手の心と結びつく言葉を発することはない。
ちばは、手の届く場所にいる二人の距離の遠さを、さりげなく、しかし的確に描いている。紀子は言葉を発している時に、両手で傘をいじりまわしている。紀子の傘は、開かれてジョーの方へと向けられることはなかったし、〈生活〉そのものを象徴しているかのような風呂敷包みをジョーが共に手にすることもなかった。二人は各各の孤独を確認して去っていくほかはなかった。

 紀子はジョーとの距離を縮めることはできない。紀子は丹下ジムの掃除、洗濯、食事など、甲斐甲斐しく尽くしても、ジョーの心をつかみきることができなかった。紀子はジョーを愛している。しかし、ジョーは紀子の包みを持ってはくれない。紀子の肩を抱いてはくれない。紀子の手に触れてもくれない。ジョーは紀子の顔をじっと見つめ、その手をとって最後の別れの言葉を口にすることもない。ジョーに見えないようにそっと涙を拭いて、ひとり、別れを決断するしかなかった。
 ジョーは自分の〈完全燃焼〉に紀子を巻き込むことをしなかった。甘い言葉を発して、紀子を自分に引きつけ、自分の支えになることを願いもしなかった。ジョーの孤独に、紀子は入り込むことはできない。ジョーの孤独は他者の支えを拒むほどに峻烈であり、紀子の孤独は他者の支えを必要としている。
 紀子の第一声は「矢吹くんは‥‥さみしくないの?」であった。紀子はさみしいのだ。求めても求めても答えてくれないとき、恋する人間はどんなにかさみしいであろうか。紀子の〈さみしさ〉に、ジョーの〈さみしさ〉が重なれば、二人は確実に結びつくことができた。しかし、ジョーの〈さみしさ〉は紀子のそれに重なることはなかった。紀子の〈さみしさ〉は、まるで竹トンボのように胸の内から飛び出して、相手の胸に届かぬままに黄昏時の中空を舞っている。
 この竹トンボは〈生活〉の圏内へと落ちていく。拾ったのはマンモス西こと西寛一である。西は鑑別所でジョーと闘い、やがてジョーと共にプロボクサーの険しい途を歩むが、途中で断念し、乾物屋の一人娘紀子と結婚し、ジョーとは真逆の人生を歩むことになる。西の途は大半の人間が歩む堅実で平凡な人生である。ちばてつやが描く西には、平凡な生活にこそ価値はある、と言った人生哲学がにじみ出ている。

※  ※  ※
 わたしは批評の醍醐味はテキストの解体と再構築にあると常々言ってきた。批評はテキストとの格闘でもある。いっさいの妥協は許されない。『あしたのジョー』にはまず高森朝雄の原作があり、それに基づいたちばてつやの作画がある。原作と作画の共同製作が『あしたのジョー』である。ちばてつや自身の証言にもある通り、原作通りに作画しなかったその結果、『あしたのジョー』は多くのファンを獲得したとも言われている。 わたしは原作と作画を丁寧に検証しようという衝動にもかられたが、高森朝雄の原作はその大半が消失してしまったらしい。わたしが見ることができたのは、連載終了40周年記念完全保存版として刊行された「あしたのジョー大解剖」(2013年12月14日 三栄書房)の付録「限定特典」に収録された14枚のみである。これだけを見ても、ちばてつやは原作の言葉を変えている。原作の短い言葉を、わかりやすく説明的な言葉に変えている。言葉を変えられることは、高森朝雄に限らず、原作者にとって最も嫌なことである。が、原作通りに描かないことは最初から了承していたことであり、高森朝雄は妥協せざるを得なかったのであろう。それにちばてつやの作画は説得力があり、原作には登場しないマンモス西をさりげく登場させて場面に膨らみを与えたりしている。ちばは高森原作の骨格をもとにして、実に想像力豊かに肉付け作業をしている。
 もし原作通り、一時一句変更せずに作画したとすれば、今の『あしたのジョー』とはまったく異なった作品となったであろう。原作がすべて揃っていれば、様々な漫画家に『あしたのジョー』を作画してもらいたいとさえ思った。複数の作画によって、原作と作画の関係性はより明確に浮き彫りされるに違いない。
 作画は原作の〈読み〉の問題であり、批評(わたしの言う解体と再構築批評)と共通する面がある。つまり、漫画『あしたのジョー』は、作画者ちばてつやによる原作『あしたのジョー』の解体と再構築と言える。わたしは、このちばてつやによって再構築された漫画『あしたのジョー』をさらに解体・再構築したいと思い、現にそうしているわけである。

※  ※  ※
 ちばてつや梶原一騎と組むことになった経緯とその後の確執と和解に関して次のように語っている。

  感性が似ていて、同じところに感動しないとやりにくいということはあります。
  僕と梶原さんでは、ちょっと違う感性でしたね。
  僕だけでなく、「少年マガジン」の編集部の中にも“まったくタイプが違う水と油のような二人だから、感動するところも違うことがあるだろう。気持ちに行き違いがあったらす、悪くすると空中分解することになるぞ”って、心配した人がいたようでした。
  でも、ひょっとしてうまく噛み合えば、凄いエネルギーが生まれて大爆発を起こしてくれるかもしれない、とも言っていましたから、冒険だったんでしょうね。
  ただ考えてみたら、それ以前に福本和也さんと組んだ『ちかいの魔球』でも、消える魔球だとか、ああいうアイデアは僕一人ではなかなか出ないですからね。原作があったから『ちかいの魔球』も面白くなったんだなあと思い返したりして。それで僕は料理に徹してみようと。新鮮な素材を集めてくるのが原作者、僕はそれをどう料理するか、どう皿に盛り付けるかってことで、やってみようと思ったんです。
  梶原さんには“原作で酔わせてください。酔えたらいい作品が描ける”と言いました。(ちばてつや・豊福きこう著『ちばてつやとジョーの闘いと青春の1954日』2010年1月・講談社。15p)

  原作では、唐突に激しいボクシングのシーンから入っていったんですが、僕としては、それだとどうしても気持ちが入っていけませんでした。いきなりアクションから始まって“なんだこれは?”って引いておいて、後から状況を説明する演出もあると思うんですけど、僕は、ちょっと馴染めなかったんで、ゆったりと俯瞰から、その街の雰囲気や季節感を表して、それで(世界観)入っていったんです。
  梶原さんの原作はとにかくどんどんたたみかける感じで、グッとつかんでおいて、グイグイ読者を引っ張っていく。それがまた一つのパワーになっていくわけですけど、僕は何かそれだけだと描いていても息が詰まるし、読者としても疲れるんじゃないかと感じたんです。だから僕なりに考えて、ジョーがドヤ街にふらりと現れるシーンから入っていったわけです。
  川の流れが淀んで、いつの間にかゴミが集まってしまったような街。  山谷っていう場所、いろんなこういう人間が吹きだまりみたいにいるんだよっていうことを、読者に紹介しながらジョーが現れる。そこで段平と出会う。そういう考え方をしました。
  どんな街に、どんな人が住んで、どのように暮らしているかを描いて、そこから、梶原さんのストーリーにつなげていこうと。そのほうが、ジョーと段平の絡みのうえで描きやすいし、梶原さんの原作の面白さを生かすためにも、そのほうが効果的だと思ったからです。
  だから表現方法は違ったけど、原作をまったく無視して使わなかった、ということではないんです。梶原さんが“こういう男を表現したいんだろうな”とか“こういう雰囲気を出したいんだろうな”ということは、もう頭に入れて描きましたから。この人物をどうやったら描けるだろうって、あれこれ考えているうちに、原作と違ういろんなエピソードが入ってきちゃうんですね。(ちばてつや・豊福きこう著『ちばてつやとジョーの闘いと青春の1954日』2010年1月・講談社。32~33p)

  実は最初の2、3話分は梶原さんの原作に触っていないんです。
  担当編集者も脅されていたみたいで。「原稿をくれと言うけど、俺の原稿なんていらないじゃないか!」って(笑)。間に立った人は大変だったでしょうね。そりゃそうですよ。僕に原作を渡しているのに、まったく使わないんですから。
  でも、それは原作を使わないのじゃなくて、より原作やキャラクターを生かすための演出でした。骨をもらって肉付けするという感じ。骨格の部分は変えていないんですよ。セリフも大事な部分は変えていないけど、会話の流れとか間とかあって、そのままというのはまずないんですよね。ここは、こういうことが言いたいんだってわかったら、できるだけセリフは短くして、わかりやすく。ですから、僕は原作が表現したいことには忠実だったつもりです。その点、他のどの漫画家よりも梶原原作を大事にしているつもりでした。
  ただ、最初はちょっと誤解を受けて、僕が直に聞いたわけじゃないんですけど、梶原さんが“俺はもう辞める”くらいのことは言ったみたいです。
  担当編集者も弱りに弱っているし、僕も原作どおりに描いていないことについて申し訳ない気持ちだったんで、担当者を通して梶原さんにお詫びをしました。僕はそういうつもりじゃない。この人物にホレこんで、どうやったら描けるかってことでやるんだから長い目で見てくれってね。
  担当者も僕の作り方というものがわかっていましたから、「梶原先生の原作を使っていないわけじゃないんです。より原作の面白さを引き立たせるために、話をふくらませているんです」と説明してくれてね。そしたら梶原さんはわかったって言ってくれました。(ちばてつや・豊福きこう著『ちばてつやとジョーの闘いと青春の1954日』2010年1月・講談社。36~38p)

  原作通りに段平が出てくるシーンを見て梶原さんがようやく「ああ、こういう入り方なら、わかる」と思ってくれたようです。
  梶原さんは頭のいい方ですから、徐々に自分のアイデアが出てきて、僕の考えがわかってくると何も言わなくなりました。
  いくら変えてもいいよ、ということですよね。それからは、原作をいじる僕のクセも認めてくれるようになりました。それまでは、梶原さんも原作者として組みにくい漫画家だと思ったでしょうね。
  僕もずいぶん生意気でした。原作を生かして面白くなるんだったら、いくら内容を変えてもいいだろうで、通していたんですから。(ちばてつや・豊福きこう著『ちばてつやとジョーの闘いと青春の1954日』2010年1月・講談社。40p)

 ここに引用したちばてつやの話を読むと、梶原一騎の原作とちばてつやの作画の関係が実によくわかる。原作に忠実であること、セリフの一字一句の変更も許さないという梶原一騎にしてみれば、ちばてつやの作画に不満であったこと、というより怒り心頭に発していたことは容易に想像できる。原作を渡してから最初の三回ほどまったく違った作画を見せられれば、その時点で梶原一騎が原作を降りても何の不思議もない。
 わたしは自分の文章を直されるのは嫌なので、梶原一騎の気持ちはよくわかる。わたしと梶原一騎の違いは、わたしは金にならない文章を書いているが、彼の場合は莫大な金を生み出す文章を書いているということである。個人の主張や意志だけではどうにもならない出版社や編集者の意向があり、作画者の考えがある。メジャーで作品を発表する書き手は、自分だけの意見を貫けない場合もあるということだ。
 もし、梶原一騎が自分の主張だけを貫こうとすれば、第一回の掲載時で降りていただろう。幕開けの場面が原作とまったく違うのであるから、自分の原作の独自性を尊重すれば降りるのが当然ということになる。雑誌を見て怒り心頭に発した梶原一騎の顔がまざまざと浮かんでくる。
 それにしてもふしぎなことがある。『あしたのジョー』は原作者に作画を見せないで雑誌に発表していたのか、ということである。もし、そうならその時点で原作者は軽視されていたということになりはしないだろうか。
 作画者は原作を原作者にいちいち断らずにいじることができる。現に、ちばてつやの証言によればそうしていたことは事実であり、それは残った14枚の原作と作画を見れば明白である。原作と作画の関係は、ひとによって異なるのであろうが、『あしたのジョー』の場合、ちばてつやが主導権を握っていたように思える。当時、梶原一騎は「少年マガジン」に『巨人の星』(作画者・川崎のぼる)も連載しており、雑誌の売り上げに多大の貢献を果たしていた。この梶原一騎にして、『あしたのジョー』の主導権を握れなかったということは改めて検証するに値しよう。
 漫画作品を一人の作者が描いて、何の妥協もなくそのまま発表するのであれば、まさに著者はその漫画家一人ということになる。ところが、原作付きで、しかも商業雑誌に掲載するとなれば、漫画家一人の意志だけで描けるものではなくなる。要するに力関係がものを言ってくる。原作者が力を持っていれば原作通りの作画を要求してくるだろうし、作画者が力を持っていれば原作はいじられるだろうし、編集者が力を持っていれば編集者主導型の作品が描かれることになろう。
 映画の場合などは、共同製作であるから問題はさらにややこしくなる。出資、企画、配給、監督、撮影、音響、衣装、音楽、照明、俳優、編集など、実に多くの人間が関わって作品が作られる。わたしなどは単純に、映画は監督のものだと思っているが、そう簡単には割り切れないらしい。しかし、カリスマ性を存分に発揮する監督のもとでしか名作は制作されないのではないかという思いは拭いがたい。
 監督が指示した通りに映さない撮影者との間のもめごとを聞いたことがあるが、これは一人カメラマンとの問題ではなく、映画製作に関わるすべての担当者に当てはまる。映画の場合は莫大な金を必要とするから、当然スポンサーや配給会社の意見も強くなる。監督がすべてを担当できれば何の問題もないが、現実的にそれは不可能である。作品の出来不出来を最終的に決定するのは編集であるが、監督が編集に参加できない場合、作品は監督のものであるとは言えなくなる。編集権を持たない監督など、もはや監督という名に値しない。
 さて、『あしたのジョー』であるが、ちばてつやは原作をいじっているが、原作からまったく離れているわけではない。まさに彼自身が言っているように、あくまでも原作=骨を尊重し、それに想像力豊かに肉付けするのが彼の作画法ということである。が、しかしここにもまったく問題が生じないわけではない。作画者の想像力が原作をはるかに凌賀してしまった場合は、原作者の気分を損ねることにもなりかねない。原作の骨組みを完璧に解体して、骨を砕き粉末にして作画者が自らの想像力をいかんなく発揮した場合、はたして原作者はそのことに耐えられるのだろうか。
 かつて北野武監督の映画『その男、凶暴につき』を批評した時、野沢尚の脚本を読んで吃驚した。脚本と映画はまったく別物で、わたしが脚本家だったらさっさと降りてしまっただろう。もし、映画脚本がこういうものだとしたら、脚本は独立した作品ではなく、あくまでも調理されるための材料ということになる。包丁でどんな切り方をされようが、ミキサーにかけられようが、焼かれようが煮られようが、材料は調理師に文句は言えないということだ。野沢尚に、自分の脚本が影も形もなく解体されたことに対してどう思っているか聞いたことがある。野沢はべつに腹をたてているようでもなかったので、わたしはまたそのことがふしぎであった。要するに、脚本家と監督が双方ともに納得ずくであるのなら、他人がとやかく言うことないか、と思ったが、わたしは野沢の脚本に作品としての自立性を強く感じていたので、敢えてきいたのである。
 野沢尚の場合は、その脚本が残っているので、映画との相違が明確に把握されるし、脚本としての自立性も保持される。が、『あしたのジョー』の場合、原作がそのままの形で残っていないので、原作の自立性は剥奪されてしまっている。なぜ、原作を残さなかったのか。原作者梶原一騎にも、編集担当者にも、作画者ちばてつやにも、原作をきちんと保存するという気持ちがなかったということだろう。つまり、梶原一騎を先生と呼んで奉っていても、その作品を尊重する気持ちがなかったということである。漫画の原作は、あくまでも漫画作品という料理の〈材料〉であって、材料自体を保存するという考えはなかったのである。
 当時、漫画はようやく市民権を得て
、〈たかが漫画〉の侮蔑的な領域から脱皮しつつあったが、しかし漫画は依然として文学作品と同等に扱われることはなかった。漫画は子供向けの一過性の娯楽的読み物の次元にとどまっていた。『あしたのジョー』を小学5、6年生で読み、熱狂的なファンになった者たちが中学、高校生になっても読み継ぎ、「少年マガジン」は青年漫画雑誌の性格を強く帯びるようになった。月刊漫画雑誌「ガロ」は白土三平つげ義春水木しげる滝田ゆうなどを輩出し、手塚治虫を中心とした「トキワ荘」の漫画家たちも代表作を次々に発表し始めていた。石ノ森章太郎赤塚不二夫藤子不二雄など錚々たる漫画家たちが活躍するに至って、もはや〈たかが漫画〉などと蔑む者はいなくなった。が、『あしたのジョー』の原作がほんの一部を残して紛失してしまっているという事実は、漫画原作の位置づけがきちんと確立していなかったことを明白に証している。原作原稿が紛失していることで、『あしたのジョー』の原作と作画の関係についての厳密な検証は不可能となってしまった。

※  ※  ※
 ないものねだりをしてもらちがあかないので、原作と作画の違いについてはちばてつやの証言によって検証するほかはない。

 
 以前、『ハリスの旋風』で主人公の石田国松が拳闘部に入って大暴れするというエピソードがあったんですが、ボクシングのサンドバッグやパンチング・ボールといった練習器具とか練習風景や雰囲気が全然わからなくて、後楽園ジムや下北沢の金子ジムに取材に行きました。資料だけでなく実際に自分の目で見るということは絵を描くうえだけでなく、いろいろとアイデアも膨らんできて、作品が生きてくるんですね。
  その時に、ボクシングにすごく興味をひかれたんです。(ちばてつや・豊福きこう著『ちばてつやとジョーの闘いと青春の1954日』2010年1月・講談社。10p)

  だいたい僕の、主人公顔って決まっているんですよ。今回の主人公のキャラクターも最初は、『ハリスの旋風』とそんなに変わらない。国松という少年の、2、3年後のイメージで、まだふっくら子供っぽい顔をしています。やや大人っぽい、ただ少し寸を伸ばしてマジメな顔をさせた、くらいの意識しか僕にはないんですけどね、絵を描く段階では。ただ、思い入れは違います。こいつの性格はこういう影の部分とか‥‥ということを考えて、そういう顔になるわけで。髪型も勢いで描いたから、ああいう髪型になったけど‥‥。右を向いても左を向いても同じですからね。僕の中ではあれは、なんとなく伸び放題にしている、というイメージなんです。床屋にも行かない、櫛も入れないというね。(ちばてつや・豊福きこう著『ちばてつやとジョーの闘いと青春の1954日』2010年1月・講談社。17p)

ジョーが『ハリスの旋風』の石田国松と似ていることは、ちばてつやの愛読者なら誰にでもわかっていたに違いない。外見ばかりでなく、その暴れん坊の性格もまた共通している。わたしが注目したいのは、主人公のキャラクターがちばてつやの漫画世界から誕生していたことである。このことが、『あしたのジョー』の主導権をちばてつやが握った最大の理由ではないかと思う。
 それに最初の場面の変更である。原作においてはいきなりボクシングの格闘シーンだったのを、ちばは高層ビルが林立する日本の首都・大都市東京を上空から俯瞰する場面に置き換えた。カメラは上空から徐々に降下し、今度は下から東京タワーを見上げるアングルへと移行する。さらにカメラは「そのはなやかな東京のかたすみ」へ、さらに「ある‥‥ほんのかたすみ」へとアングルを絞っていく。
 読者が目にするのは「道ばたのほこりっぽいふきだまり」や「川の流れがよどんで、岸のくぼみに群れあつまる色あせた流木やごみくず」である。次頁は一頁丸ごとのスペースで、一泊百円の宿や風呂屋、居酒屋などが軒を連ねるドヤ街の殺風景な、ほこりっぽい通りを歩く一人の少年を俯瞰的にとらえ、「この物語は、そんな街の一角からはじまる」とコメントされている。その後、カメラはジョーの傍らを一時もはなれずに物語は展開していく。
 まさにちばてつや流の構成・演出によって物語は始まった。この時点で原作者梶原一騎ちばてつやの作画法に取り込まれたと言っても過言ではないだろう。『あしたのジョー』はジョーと力石徹、ジョーとホセ・メンドーサの死闘だけが描かれているのではない。舞台裏では原作者と作画者の死闘も演じられていたということである。
 『ハリスの旋風』から石田国松が飛び出して、ジョーとなって東京のドヤ街に現れた。あるいはジョーは天空から舞い降りて来たと言ってもいい。ジョーの経歴はほとんど明かされず、まさに彼は天空から孤児として舞い降りたヒーローなのである。
 ドヤ街には太郎をボスとするちびっ子軍団がいるが、彼らは『あしたのジョー』における永遠の子供たちとしての性格を付与されており、作品内の時間経過に支配されない、つまり成長しないキャラとして登場している。おそらくこのちびっ子軍団もまた梶原原作には登場していないのではないかと推測される。ちばてつやの証言をもとに考えると、乾物屋の一人娘紀子やマンモス西も原作には登場していなかった可能性が高い。ドヤ街に群れるちびっ子や下町娘紀子、紀子と結婚して平凡な暮らしに生き甲斐を見いだす西寛一などは、ちばてつやが独自に舞台に登場させ、膨らませていった人物と見ていいのではないかと思う。
 ボクシング一筋に生きるジョーの直線的な生き方はスピーディで熱く烈しい。こういった生き方で三十路を越えて生き続けることは難しい。ジョーは夭折する運命に逆らわずに生きた。この火のような運命に油を注ぎ続けたのが白木葉子であり、この運命にストップをかけようとしたのが紀子である。
 原作にはジョーの熱い直線的な生き方にブレーキをかけるような人物は登場してこなかったのではなかろうか。ちばてつやはちびっ子軍団や紀子を登場させることで、ジョーのヒーロー的直線に庶民的幅を与えたと言えよう。幅が広すぎれば、ジョーは非日常を生きるヒーローから普通人へと変容せざるを得ないし、原作通りの熱い直線のみでジョーを描けば読者に切迫感のみを与えることになったかもしれない。
 落語が緊張と弛緩によって笑いを生じさせるように、漫画も緊張だけでは読者を疲労させてしまう。梶原一騎が緊張でくれば、ちばてつやはそこに適度な弛緩を交えながら物語を展開していくという手法を採った。結果として、この手法が成功を収めたと言える。
 ジョーの顔が『ハリスの旋風』の石田国松のそれを受け継いでいたのも成功の一因であろう。ジョーの顔は要するに漫画顔の典型である。もしジョーの顔が、リアルなボクサーの顔であったら、ボクシングの試合場面など、あまりにもリアル過ぎて漫画的誇張をしずらかったと思う。ジョーは少年漫画の主人公にふさわしいイケメンでなければならず、その外貌からして多くのひとの憧れの的でなければいけないのである。『罪と罰』のラスコーリニコフがペテルブルグ随一の美男子であったように、ジョーもまたボクシング界のみならず、東京で一番の美男子でなければならないのである。

※  ※  ※
 原作脚色で最も注目すべきは、やはり最終場面であろう。

  原作ではジョーがホセ・メンドーサとの激闘の後に、僅差の判定で負ける。リングサイドで段平がジョーに「お前は試合に負けたが、ケンカに勝ったんだ」と慰める。数日後、パンチドランカーになったジョーが、白木葉子の屋敷のテラスで、ボンヤリ日向ぼっこをしている‥‥というのが、ラストシーンでした。(ちばてつや・豊福きこう著『ちばてつやとジョーの闘いと青春の1954日』2010年1月・講談社。250~251p)

  5年半も描き続けて、いろいろなライバルと熾烈な戦いを繰り返し、最後に完璧な王者と死闘を繰り広げた末に、試合には負けたがケンカには勝った、という一言では、どうにも僕は腑に落ちなかったんです。(中略)
  どうにも仕方なくて電話で梶原さんに、「このままでは、ちょっと幕がおろしにくい。ラスト、変えさせてください」とお願いしました。
  そうしたら梶原さんは「今まで散々変えてきたくせに今さらなんだ! 任せる!」って(笑)「考え直す」って言うのかと思ったら「任せる」って(笑)
  でもその時、すでに締め切りは過ぎていて‥‥。任せてはもらったものの、じゃあどうすればいいのか、まったくわかりませんでした。(ちばてつや・豊福きこう著『ちばてつやとジョーの闘いと青春の1954日』2010年1月・講談社。251~252p)

  ラストでジョーが負けることはわかっているけれど、僕は『あしたのジョー』の一つのテーマが見つからなかったんです。苦しみながら、がむしゃらに、純粋に生きてきたジョーのラストシーンをどういうふうに締めくくるか‥‥。
  最後は、正直言って僕の好きな“生活している、ジョー”の姿って想像もできなくなっていました。まさに“リングで白く燃え尽きるジョー”、理屈のつかないものに追いたてられて、とうとう、もうあの穏やかな“生活するジョー”には戻れなくなったジョーしか、あそこにはいませんでした。(中略)
  少年誌の連載なので、死というイメージは出したくありませんでした。多くの子供たちが読んでくれていることですし、あからさまに“死ぬ”なんていう設定にしたら、子供たちはどう感じるだろう。僕自身、あまり悲劇的なラストは好きではありません。(中略)
  時間はどんどん過ぎていく。ここまで盛り上げて、読者はもちろん、「ジョーが終わる」って予告をしている編集部、任せてもらった梶原さん、全部が納得できるラストにしないといけないじゃないですか。
  そんな時に、担当編集者がゲラの束を持ってきて、「以前こんなシーンを描いてましたよ。これがこの漫画のテーマじゃないですか?」と、指摘してくれたんです。それはカーロス戦の後、紀子がジョーに、ボクシングばかりの人生に疑問を投げかけるというシーンでした。
  でもそれっきり忘れていました。そのシーンに、まるで灰をすくうかのような仕草の手のアップを描いたコマがあって、それを見た瞬間、あのラストがパッと脳裏に浮かんだんです。
  そうだ、確かにそうだったんです。燃えかすなんかまったく残らない、真っ白い燃焼が、ジョーの戦いのすべてだったんです。そして、ジョーは完全に燃焼し尽くした。
  担当編集者もネームを読んで、「うまいですっ!」って言ってくれて、後は2日徹夜して一気に描きました。(ちばてつや・豊福きこう著『ちばてつやとジョーの闘いと青春の1954日』2010年1月・講談社。255~257p)

 ラストシーンに関しては、原作とは明らかに違うものを考えたということになる。しかも、川辺での紀子とジョーのデートの場面は、ちばてつやの創作だとすれば、そこから導き出されたラストシーンはまさにちばてつやの独創ということになる。
 ここに引用したちばてつやの証言を読むと、『あしたのジョー』は様々な人たちのアイデアが取り入れられていることがわかるが、最終的な決定権を握っていたのは原作者ではなく、作画者ちばてつやだったことは明白である。

  僕は本能的に描いているだけですが、ホセ戦では、僕の中でジョーのコーナーは右側、ホセは左側になっています。だから、最後の燃え尽きた場面も、ジョーは右側に座って左を向いているんです。
  相手のホセも凄まじい闘いと恐怖のために、頭が真っ白になる。で、少し下を向いて満足そうに微笑んでいるジョーを見て、大人はジョーが燃え尽きて死んでしまったんだと理解し、子供たちは、ジョーはただ目をつむって休んでいるだけで、明日はまたサンドバッグを叩いて世界タイトルを目指すんだろうな、と考えられるように描いたんです。大きくなって、ジョーの最後を理解しても、やれるだけやって満足したんだなとわかるように。何とでもとれるように描いたんです。僕にはあれしかありませんでした。(ちばてつや・豊福きこう著『ちばてつやとジョーの闘いと青春の1954日』2010年1月・講談社。257~258p)


主要人物のキャラクターが明確になりさえすれば、物語は自然に動き出す。しかもジョーの目的ははっきりしている。ボクシングで完全燃焼するまで戦い抜くというのであるから、そこへ至るまでの筋書きも決して複雑にはならない。次々と現れる個性豊かなボクサーとの壮絶な試合内容、試合と試合の間に展開される様々なレベルでの駆け引き、ドヤ街の子供たちとの交流、それに丹下段平白木葉子、紀子、西とのやりとりなどを描けば物語は自然に展開していくことになる。それをちばてつやの言葉で言えば「僕は本能的に描いているだけです」ということになる。
 創作技術も〈本能〉にまで高められなければ、人物に魂を注入することはできない。ちばてつやが描く力石徹やジョーはまさに虚構の域を超えて〈人間〉となっている。だからこそ、力石徹の死に際しては葬儀まで行われることになった。
 ところで、ジョーの〈完全燃焼〉の後で、力石徹のような〈葬儀〉が行われなかったのはどういうことなのであろうか。一つには、ちばてつやがここで話しているように、ジョーの〈死〉を明確にすることを避けたということがあろう。最後の絵は、それを大人は〈死〉と受け止めるが、子供たちには〈休んでいる〉と見えるように配慮した、その結果、ジョーの〈完全燃焼=死〉という見方は相対化されたということである。
 ちばてつやが子供たちに配慮せざるを得ないほど、『あしたのジョー』の人気は異様に突出していたという事情もある。が、そういった配慮を別にすれば、ジョーがリング上で燃え尽きたことは事実であり、ホセ・メンドーサとの死闘の後に、ジョーが再びリングにあがることはないし、日常の暮らしの中にその姿を見せることもない。
 原作では「パンチドランカーになったジョーが、白木葉子の屋敷のテラスで、ボンヤリ日向ぼっこをしている。それを少し離れたとろから、優しい眼差しで葉子が見つめている」のがラストシーンであったらしいが、これで納得する読者はいないだろう。リング上で完全燃焼したジョーに、パンチドランカーとなって生き延びる姿は最も似合わない。それはジョーにとって屈辱恥辱の最たるものである。ジョーは完全燃焼という紛れもない〈死〉に向かって死闘を繰り返してきたボクサーであり、どんな形での〈日常への回帰〉は許されていないのである。

※  ※  ※
 ジョーをパンチドランカーへと追いこんでいった張本人は白木葉子にほかならない。それでいて葉子はホセ・メンドーとの試合直前に、ジョーに愛を告白してまで試合をやめさせようとする。白木ジムの会長として、打倒矢吹丈のために次々と強豪を対戦相手として招聘し、試合を組んできた白木葉子が、よりによってホセ・メンドーサとの世界選手権の直前に、弱い女の側面を出してくる。
 わたしは、ぜひ、この場面の原作がどうなっていたのかを知りたい。原作通り、葉子はジョーに試合の棄権を迫ったりしたのか、ジョーは葉子に「ありがとう」の一言を発したのか。原作通りなのか、それとも作画者ちばてつやによる創作なのか、いずれにせよわたしには納得しかねる場面である。白木葉子はそんな柔な女(プロモーター)ではあってはならないし、「ありがとう」と言葉を返すジョーは想像もできない。
 葉子の「たのむから‥‥リングへあがるのだけはやめて‥‥一生のおねがい‥‥!!」とか「好きなのよ 矢吹くん あなたが!!」、ジョーの「ありがとう‥‥」はあくまでも彼らの内心の言葉にとどまるべきであって、絶対に口に出してはならないセリフなのである。こういったセリフは読者に想像させるべき性格のものであって、口にしてしまうと実に陳腐なセリフと化してしまうのである。葉子の陳腐なセリフは、むしろ乾物屋の娘紀子にふさわしいが、その紀子ですら自分のプライドを捨ててジョーに泣きすがるようなことはなかった。紀子はジョーに向かって、ボクシングをやめてとか、私と結婚してとかいうセリフは口が裂けても発することのない女なのである。 
 紀子はジョーと相合い傘をさして共に歩くことはできなかった。紀子がさりげなく傘をたたむシーンにはジーンと胸がいたくなる。ジョーに差し入れるはずの風呂敷包みを手に、ジョーの後ろを歩く紀子のけなげさと気丈夫さに胸が痛むのはわたしだけではないだろう。紀子はもう二度とジョーの方に視線を向けることはない。別れを決断した紀子の冷徹な表情は、ジョーからグローブを手渡された白木葉子の表情をはるかに超えて毅然としている。日々の暮らしに根付いた女の芯の強さに、白木家の令嬢葉子は敗北したとさえ言える。
 紀子がマンモス西こと西寛一と結婚した、その式の後「公民館」で開催された結婚披露宴での場面を見てみよう。指名されたジョーは「よう、西! そして紀ちゃん‥‥おめでとう。西‥‥おれたちがはじめて出っくわしたのは、わすれもしねえネリカンだったな。人里はなれたへいのなか~~この世に地獄があろうとは~~‥‥と歌にうたわれた東京少年鑑別所よ。そしておれたちふたりはずいぶんはでになぐりあったっけ‥‥そのなぐりあいが、こっちは商売になっちまって‥‥。‥‥おめえは、ふふふ‥‥ちんまりおとなしくおさまりやがって。模範青年、こんなかわいい嫁さんをものにして‥‥まあ、せいぜいしあわせになってくれや!」と言ってドスンと椅子に腰をおろす。紀子はジョーの言葉を黙って聞いている。その紀子の表情が尋常ではない。紀子にとってジョーはもはや過去の男ですらない。ジョーの言葉に動揺し、取り乱すようなことはない。
 思うに、結婚式以後、紀子はもとより、西もまたジョーとの関係を切ったはずである。もし、そうでなければ、この物語は骨を抜かれた煮魚のようにグズグズになってしまう。物語は肉は腐っても骨組みだけは毅然として立っていなければならない。ジョーと白木葉子の関係にわたしは一種のグズグズを感じるが、せめてジョーと紀子の関係だけはどんなことがあってもグズグスに煮くずれしないでほしい。

※  ※  ※
 ジョーとホセ・メンドーサとの試合会場に紀子と西寛一は姿を見せていない。紀子がジョーを結婚式に招いたのは一つの区切りをつけるためであって、それは以後の交流を保証するものではない。おそらく紀子は、西とジョーの交流をも許さなかったはずである。紀子がそういう女でなければ、これまたジョーと葉子のグズグズと同じことになってしまう。つまり、試合会場には姿を見せなかったが、テレビ中継からは目を離さなかったというのではダメということである。紀子と西はジョーの世界選手権に意地でも無関心を装うぐらいでなければ、紀子とジョーの別離の場面、結婚式の場面は愚弄されたも同然ということになるのである。

 ジョーがホセ・メンドーサと15ラウンドの死闘を展開していた時、会場に姿を現さなかった紀子と西は何をしていたのか。バンタム級世界選手権がテレビ中継されていなかったはずはない。ドヤ街の連中、ちびっ子たちがテレビの前にかじり付いていたことは容易に想像できる。乾物屋の林屋でも紀子の両親がテレビ観戦していても何ら不思議ではない。しかし、ちばてつやは彼らがテレビ観戦する場面を完璧に描かなかった。
 ジョーの苦戦にいたたまれなくなった葉子は試合会場を後にして車に乗り込む。試合の模様はラジオの実況放送によって知ることができる。会場以外での試合模様は、紀子が社内で耳にするこの実況放送のみである。ちばてつやはドヤ街の連中にも、林乾物屋の居間にもいっさい照明を与えなかった。

 ホセ戦の日本武道館の観客席にサチがいてゲタをはいてコブシをふりあげていたら、ジョーの完全燃焼のジヤマになる。要するに、子供たちとか、マンモス西とか、あたたかいキャラクターなんで、それを出すと話が生ぬるくなっちゃう気がしたんでしょうね。(ちばてつや・豊福きこう著『ちばてつやとジョーの闘いと青春の1954日』2010年1月・講談社。238p)

サチが会場に登場しなかった理由はわからないわけではない。しかしマンモス西に関しては説得力がない。西は結婚披露宴で、ジョーに何と言われたか。彼は親戚知人一同の前で「ちんまりおとなしくおさまりやがって模範青年」と言われたのである。これを野生児ジョーの愛嬌たっぷりの挨拶と受け止められれば何の問題もない。結婚披露宴での常識的な挨拶をジョーに求める方がおかしいとも言えるだろう。
 が、問題はジョーと西の関係だけにあるのではない。紀子は〈完全燃焼〉を宣言するジョーを振って、ちんまりおとなしくおさまった西を結婚相手に選んだ。西にとっては冗談ですまされる挨拶も、〈模範青年〉を選んだ紀子にとっては聞き捨てならぬ挨拶だったということになる。自分が選んだ男を、ちんまりとおとなしく乾物屋の花婿におさまった模範青年と揶揄された紀子が、プライドをいたく傷つけられたことは疑いようがない。西を結婚相手に選ぶまで、紀子が好きだったのはジョーである。そのジョーの言葉を冗談で受け流すことはできない。
 ジョーが〈完全燃焼〉して、まっ白な灰になった試合を、紀子が西と一緒にテレビ観戦している場面をわたしは想像できない。わたしの目には、ジョーが15ラウンド、死闘を繰り返している間、紀子と西は乾物屋の仕事に追われている、そんな懸命に働く姿が見える。平凡な日常の暮らしを通して〈完全燃焼〉する途がある。紀子と西はその人生を選んだのだ。ジョーの烈しく短い〈完全燃焼〉に、紀子と西の緩やかで平凡な日常を積み重ねていく〈完全燃焼〉が拮抗していなければならない。西と紀子は、別にジョーのような〈完全燃焼〉をムキになって拒む必要はまったくないが、ことホセ・メンドーサとの試合に関しては、敢えて無関心を装う、そういった意地を通さねばならない時もあるということである。
 わたしは紀子の顔に、平凡を生きる下町娘の意地も人情も感じている。紀子はジョーの〈完全燃焼〉に負けることはない。紀子は、非日常の〈完全燃焼〉を、大きく包む込む日常の〈完全燃焼〉に向けて着実に生きることを選択した女なのである。

 白木葉子に関してちばてつやは次のように述べている。

  葉子という人間はわからなかった。少年院の頃から最後まで、ずっとジョーにかかわってくる女性なんですが、最初の頃は、葉子という女性の心がまったく読めないし、二人が今後どう絡んでいくかわからなくって‥‥。
  いがみあっている以外の普通のセリフは書けなかったんです。美人ぶっていて傲慢でね。少年院を慰問するのも、海外からボクサーを連れてきてプロモーションするというのも、何か金にあかせてという感じで。だから彼女のことは好きになれなかったし、理解もできなかった。ずーっとそうでした。
  葉子は力石の死後、浮き草のように放浪するジョーを再びリングにひきもどす出会いあたりから、ジョーのボクシング人生に深くかかわってきます。
  最初はジョーを侮蔑していたはずなのに、野生を取り戻すためだとか言いながら、どうしてもジョーのことが気になって仕方がない。ジョーとしても“この女、イヤな女だな”と思いながらも何かどこかに触っている感じがある。お互いに、強く意識しあっている。その心情は二人の視線と表情で表現してきました。
  そういう感じでずっと進んできて、力石を死に追い込んでいったことへの負い目とか、責任の一端を感じるようなところが出てきたあたりで、初めて僕もなんとなく、葉子としてもいろいろと募るものがあったんだろうなということがわかってきたわけです。ジョーの体の状態を知った葉子はジョーを案じ、だんだん素直になり、本音を言い始めるんです。僕もだんだん葉子にかわいい女としての感情移入ができるようになってきました。
  ホセ・メンドーサ戦の直前、まず最初に、葉子が“行かないでほしい”と自分の本当の気持ちをさらけ出しました。ジョーを力石の二の舞にはしたくないし、このままいったら自分の大切な人を失ってしまうかもしれないと。それまで悪態をつきながらも、やっぱりジョーのことが気になっていた。それが愛情になるのは、ちょっとしたきっかけでガラッと変わるわけで。(ちばてつや・豊福きこう著『ちばてつやとジョーの闘いと青春の1954日』2010年1月・講談社。235~236p)

 ちばてつやは正直に「葉子という人間はわからなかった」と述べている。この証言がわたしには実に興味深い。なぜなら、ちばてつやがわからないままに描いていた白木葉子が魅力的だからである。ちばてつやが理解できるようになった葉子は、それまでの秘密のヴェールに包まれたような神秘的な魅力が失せて、単なる恋する乙女へと変貌してしまう。ホセ・メンドーサとの試合前に、葉子がジョーに発する言葉のことごとくが「じつにやすっぽく見える」(ジョーの言葉)のである。
 葉子は涙を流しながら、ジョーの顔も見ずに言う「すきだったのよ‥‥最近まで気がつかなかったけど。おねがい‥‥わたしのために‥‥わたしのためにリングへあがらないで!!」と。ジョーは葉子の変貌ぶりに驚く。葉子は口が裂けてもこんなセリフを発する女ではなかった。ジョーは葉子の〈衝撃の告白〉に対して「女性週刊誌にそのネタを売ってみな。大よろこびでとびついてくるぜ」と返す。葉子はその言葉にひるまず「まじめに聞いて矢吹くん」と続ける。ジョーはベンチに腰掛けたまま両手指をきつく組み「よしてくれ。女がかるがるしく、そんなセリフをはくもんじゃねえ。じつにやすっぽく見えるぜ」と言う。葉子はひるまない。「やすっぽく見えようがどうだろうが、そんなこと問題じゃない‥‥この世でいちばん愛する人を‥‥廃人となる運命の待つリングへあげることはぜったいにできない!!」それに対するジョーのセリフは「リングには世界一の男ホセ・メンドーサがおれを待っているんだ。だから‥‥いかなくっちゃ」である。
 白木葉子は絶対に口にしてはならないセリフを発した。このりセリフは今まで葉子が築き上げてきた神秘的イメージを根底から突き崩すことになった。どうしてこういうことになったのか。ちばてつやの証言を読むと、要するにちばが白木葉子のわからなさ、その神秘性に耐えられず、自分の理解の範疇に葉子を落とし込んでしまったということである。ここに描かれた限りでの葉子は実に分かりやすい。まさにジョーの言う通り、女性週刊誌の読者にでも分かる、実に安っぽい女となっている。
 もちろん、ちばてつやはそのことを批判し非難する読者のあることを予め想定して、敢えて葉子を安っぽいセリフを口にする女として描いている。確かに葉子はそのことで、神秘の覆いをかなぐり捨て、どこにでもいる一人の恋する女になった。小中学生の読者ならそれでよかったかもしれない。が、わたしは神秘の覆いを自ら取り去った白木葉子を認めない。これでは白木葉子白木葉子を全うさせたとは言えない。力石徹に異様な減量を強いた白木葉子、ジョーに面と向かって「リング上で死ぬべき人間なのだ」(第6巻13p)と断言した白木葉子こそが、作品世界の中での白木葉子なのである。

※   ※   ※
燃え尽きてまっ白な灰になってしまったジョーに立ち会った者たちが、その後の人生をどのように生きるのか。ジョーに熱狂した多くの観客やボクシングファンは、ジョーの死をやすやすと乗り越えて自らの生活舞台へと舞い戻って行ったのであろうか。観客は次なるヒーローを求めるだろう。マスコミも同じだ。一世風靡したヒーローもやがては忘れられていく運命にある。
 『あしたのジョー』を愛読した多くの読者は、ジョーの死をどのように受け止めたのか。ジョーに入れ込んだ何人かの者は『あしたのジョー』論を書くことで、自らの思いを吐露したとは言えよう。が、問題はジョーの〈死〉後をどのように生きたかである。ジョーの〈完全燃焼〉を同時に体験した者、その代表者である丹下段平はどのように生き続けたのであろうか。ジョーと出会う前と同様、飲んだくれてドヤ街の藻屑と化してしまったのであろうか。丹下段平がジョー以上の天性のボクサーと出会う可能性はまったくないと言っていいだろう。ジョーの死後、丹下段平は生ける屍と化したに違いない。いくら想像を逞しくしても、丹下段平のまともな生の姿を思い浮かべることができない。白木葉子もまた、描かれた限りでの葉子であれば、もはやプロモーターとしての再起は不可能に見える。ジョーに愛を告白し、〈完全燃焼〉したジョーからグローブを渡された時点で白木葉子もまた生ける屍と化したのである。
 わたしが注目したいのは、西と結婚した紀子である。ちばてつやはジョーとホセ・メンドーサとの死闘の間、紀子と西に関してまったく照明を与えていない。先にも触れたように、わたしのイメージの中では、紀子はジョーの試合を観ていない。意地になっても観ないのが、ジョーと別れを決断した紀子の意地の通し方だと思うからである。結婚披露宴でジョーに「ちんまりおとなしくおさまりやがって模範青年」と揶揄されても黙って顔を赤くしている西が、結婚生活で主導権を握れないのは分かり切った話で、従って西もまた紀子と同様、ジョーの試合を観ていなかったに違いない。
 紀子がジョーの〈完全燃焼〉についていけないと判断した時点で、紀子は西との平凡な暮らしを選んだのである。わたしは、ジョーがホセ・メンドーサと死闘を展開している時、まさにその時に紀子は西と子作りに励んでいたとさえ思う。それぐらいに描かなければ、ジョーの〈完全燃焼〉に紀子の日常は太刀打ちできないのである。西は紀子の尻の下に敷かれた〈模範亭主〉としてその平凡な生涯を全うするであろう。ジョーのまっ白な燃焼の後にも、逞しく生きていけるのが紀子と西なのである。
 わたしの再構築批評では、白木葉子は世界選手権を前にしたジョーの控え室に入り込んで、試合をやめろとか、好きだとか、そんな安っぽいセリフを口にすることは絶対にあり得ない。
 もし、どうしてもジョーに試合をやめさせようとする女性を登場させようとするなら、ドヤ街のサチ以外にはいない。サチは〈永遠の子供〉〈成長しない子供〉として設定されているから、ジョーの控え室でいきなり大人ぶった少女として出現するわけにはいかない。が、サチならここで白木葉子が口にしているセリフを口にしても許容できる。サチがジョーのパンチドランカーに気づいた設定にすれば、無理矢理、控え室に入ることも、「すきだったのよ」「わたしのためにリングへあがらないで!!」のセリフも素直に感動的に聞くことができる。
 見方を変えれば、描かれた限りでの白木葉子はここで〈少女化〉してしまったということである。生き馬の目を抜くのが当たり前のビジネス界で、若くして敏腕を振るってきた白木葉子が、世界選手権の試合を控えたジョーに安っぽいセリフを吐くなどということはまずあり得ないのである。
 サチを〈永遠の子供〉の範疇から解放し、日々成長する女性として設定すれば、彼女こそがジョーの伴侶に最もふさわしい女性に思える。サチこそは格闘者ジョーの孤独も優しさも茶目っ気も、天性的に、体感的に理解している。無邪気で明るく、どんなことがあってもめげることなく、ジョーと共に行動できるサチは、描かれたジョーの〈完全燃焼〉とは違った形での〈完全燃焼〉へと導いていく力があったとさえ思える。
 紀子は日常の暮らしを何よりも優先したが、サチは何よりもまずジョーを優先している。白木葉子に女として対抗できるのは、成長していれば十五、六歳になっているだろうサチなのである。ジョーはグローブを渡す相手を間違えている。ジョーのグローブを悲しみいっぱいの小さな胸に抱きしめられるは、サチのほかにはいないのである。

※  ※  ※
 白木葉子、紀子、サチといったジョーをめぐる三人の女性のうち、一番最初に舞台に登場したのがサチである。
 突然、東京のドヤ街に現れたジョーは、出会ったばかりの丹下段平を足蹴り一発で倒してしまう。これに怒ったちびっ子軍団がジョーに立ち向かうことになる。が、丸太で襲いかかったボスの太郎もジョーのパンチと蹴りの前にあっけなくグロッキー、ジョーを丸く囲んだちびっ子軍団はジョーの強さにビビッて手も足も出せない。「けっ、ひねたつらがまえしやがって‥‥なんのことはない、そろいもそろって腰ぬけどものあつまりかい。話にもなんにもなりゃしねえや。おらあいくぜ!」ジョーはずだ袋を勢いよく肩にかけ、啖呵を切ってさっそうとその場を立ち去ろうとする、とその瞬間、背後から女の子の「は、はなしてえっ。おねがい、かんにんしてえっ」という悲鳴が聞こえる。ジョー、段平、ちびっ子軍団がいっせいに後ろを振り向く。彼らが目にしたのは、ドヤ街を仕切る暴力団鬼姫会の三人の男たちと小さな女の子である。この女の子がサチである。
 ちびっ子たちに「なにをやったんだ」と聞かれて、サチは「おでんをちょっとしつけいしただけだよう。たったの一くし‥‥」と泣きながら訴える。サチの手を強く引いていたチンピラが「な、なにがおでん一くしだ。売りあげ金をつかみどりしてにげやがっくせに!」と怒鳴る。サチは「うそよう、おでんだけよう。みんな、あたいを信じて!」と叫ぶ。チンピラは「ふざけやがって! あたいを信じてだとう!」と怒鳴りながら、右の平手でサチの顔を叩く。「おめえみたいなこそどろは、このドヤ街からたたき出してやるっ」チンピラはさらに何度もサチを平手で殴る。サチは悲鳴をあげて泣きじゃくる。頬に×印の傷を持ったチンピラが「おいおい、よさねえか、こんなところで」とたしなめ、さらに兄貴格のチンピラが「そんな小娘、とっちめたってはじまらねえ。そいつのおやじをとっつかまえて、ねじこんでやるんだ」と口にする。
 この三人のチンピラはその服装や履いているもの、口にする言葉などで明確にランク付けされている。三人共に暴力団員特有の〈虚勢〉(見栄と空威張り)と〈ダンディズム〉(薄っぺらで野暮ったい)を纏っている。
 チンピラにいじめられる小さな女の子、もうこれだけの筋書きで、『あしたのジョー』が子供向けの漫画であることが分かる。というより、これは原作者梶原一騎のものというよりは、作画者ちばてつやが作った筋書きと言えるだろう。なにしろ、最初の二、三話は原作になかったとちばてつや自身が証言しているのであるから。
 ちびっ子軍団やサチはちばてつやの創作で、原作には登場していなかった可能性もある。ところで、サチの言葉とチンピラの言葉のどちらを信じたらいいのだろうか。サチの言葉を信じれば、おでん一くし盗み食いしただけで、大の男三人がかりの連行は大げさ過ぎるし、チンピラの言葉を信じれば、子供とは言え、売上金を掴み取りして逃亡した罪は見逃せないということになる。
 いずれにせよ、「サチのおやじは中風で寝ているんだぜ。中風相手にねじこんだってしようがなかろ」という丹下段平の言葉が一番的を射ている。この理屈は子供の読者にだって分かるだろう。サチの父親が金持ちとか、ドヤ街で利権を握っている男だったら、チンピラたちのねじこみもそれなりに説得力を持つが、単なる中風の男だったら、まさに弱い者いじめの域を一歩も出ていないことになる。段平は屋根の上で酒を呷りながら「そんな小娘ひとりしょっぴいていくのに大の男が三人もかかってよ、大名行列でもあるめえし」とチンピラたちを挑発する。
 この挑発に乗ったチンピラのうちの一人(頬に×印の男)が、梯子から落ちた段平を木刀で叩きのめす。いっさいの手加減もなく、チンピラは段平のうつ伏せになった背中に木刀を打ち下ろし続ける。「バシッ」「ドカッ」「ビシッ」「ドスン」「バン」「ズバッ」「ピシー」この擬音語の連続だけで、チンピラの攻撃の凄まじさが生々しく伝わってくる。作画者は振り返るジョーの顔、ちびっ子三人、ちびっ子八人の恐怖に戦慄する顔の表情を三コマに描き分けて、暴力シーンのすさまじさをリアルに伝える。兄貴分がしたり顔で「おいおい、いいかげんにやめとけ。へたに死にでもしたらあとがうるさいぞ」と口先だけの注意をする。チンピラはこの忠告を無視して、「なあに、そんなかよわい男じゃないですよ。なんせ酒代がほしくなるとダンプ相手にでもあたり屋をやろうってほどのやつですから」と木刀を振り続ける。
 と、次の瞬間、「兄貴分がやめろといってるんじゃねえか、いうこときけないのか」と言って、チンピラの木刀を握った右手首を抑える場面がアップで描かれる。次コマ、「ぼうをすてろい」のセリフと共にジョーの顔がアップ。チンピラ、見知らぬ男の突然の出現に「な‥‥なんだ、きさまは!」と恐怖と怪訝な表情。反撃しようとしたチンピラの左腕を思い切り逆手にとって背中に捻りあげ「ぼうをすてろといってるんだよ、きこえねえのかっ」と大声で啖呵を切る。ジョーはチンピラの左腕を逆手に捻りあげたまま「あんたたち、ざんこくな人たちだな‥‥人になぐられるということが、どれほどいたいものか、ひとつあじあわせてやろうか?」と続ける。チンピラは弱々しい声で兄貴分に助けを求める。兄貴分はジョーの強さにビビりながらも「むむむっ、何者だ、貴様!」と大声を発する。次コマ、小さなコマ枠にジョーの得意げな顔のアップ、セリフは「ジョー‥‥」の一言。
 チンピラの兄貴分に「何者だ、貴様!」と訊かれて、ジョーは「ジョー‥‥」としか答えない。ラスコーリニコフに訊かれたポルフィーリイは「わたしはすっかりおしまいになってしまった人間でして」云々と答えていたが、ジョーの場合は単純に名前しか名乗っていない。次頁1コマ目、ジョーは「矢吹丈だ」と名乗りつつ、チンピラの顎に思い切り右ストレートをかましている。画面上に手書き白抜き文字で大きく「ズガッ」とパンチ音、画面下にこれまた白抜きで「げっ」とチンピラの呻き声が描かれている。
 チンピラの木刀攻撃よりも迫力のあるジョーのパンチが炸裂、今度は右ストレートがチンピラの顔面を「ビッ」と捕らえる。3コマ目、不敵な笑みを浮かべたジョーの顔のアップ。4コマ目、画面右に「ボスッ」「バキリッ」「ズン」といったパンチ音、画面左にその尋常でない暴力場面に恐怖の表情でたじろぐ二人のチンピラと、驚愕の表情で口を大きく開け、両目を大きく見開いたサチの顔が描かれている。5コマ目、殴られ続けたチンピラは意識不明で地べたに仰向けに延びてしまう。6コマ目、ちびっ子どもは驚きのあまり声も出ない。
 7コマ目、今までチンピラに叩きのめされ、地べたに這い蹲っていた丹下段平がおもむろに顔をあげ、右目を鋭く光らせて「や‥‥矢吹丈とかいったな」と口にする。8コマ目、立ち上がった丹下段平は右手を堅く握りしめ、左手を開いて、まるで魔に取り憑かれたような妖しくも厳しい表情で「あ‥‥あれだ、あの男だ! この丹下段平、長いあいだ、さがしにさがし、もとめていたのは。あの強烈なパンチ‥‥あ、あの殺人パンチだ!」と叫ぶ。

 ここに詳細に再現した場面には、ジョーとちびっ子軍団、ジョーと丹下段平、ジョーとチンピラどもとの関係、および『あしたのジョー』という漫画の〈お約束ごと〉が端的に表れている。ジョーは単独者、流浪者の相貌を持って、突然、ドヤ街へとその姿を現したが、姿を現した途端、すぐに丹下段平やちびっ子どもやチンピラたちとのごたごたの渦に呑み込まれてしう。もはやジョーは、このドヤ街を通り過ぎる一点と見なすわけにはいかなくなってしまう。ジョーはこのドヤ街の一角に居続けることを余儀なくされる。そのきっかけが、丹下段平との出会いであり、ちびっ子どもとの出会いにほかならなかった。

 ところで、今わたしが照明を当てたいのは、丹下段平ではなく、チンピラどもに連行されてきたサチである。サチはこの時、初めてジョーと会っている。ただ出会ったのではない。自分を平手で殴ったり、丹下段平を木刀でメチャメチャに叩きのめした鬼姫会のチンピラどもに、たった一人で素手で立ち向かい、容赦なく殴り倒したジョーに出会ったのである。
 ちばてつやの描くジョーの喧嘩っぷりは半端じゃない。延びたチンピラを再び立たせて、強烈な右パンチを顎に、左パンチを顔面に、腰を入れた足蹴りを腹部に、次の瞬間には相手の右腕をむんずとつかんで背負い投げを食らわしている。チンピラは宙で一回転して地べたに叩きつけられ、グーの音も出ない。
 ここまでの恐るべき攻撃を、ちばてつやは次頁五コマとさらにもう一頁二分の一のスペースを費やして描いている。チンピラ相手とは言え、ここまでやるかというほどの徹底した、まったく容赦のない攻撃で、その闘いっぷりには尋常でないものを感じるほどである。
 サチは自分の方へ投げ飛ばされたチンピラを見て「きゃっ」と叫び、両手で大きく開いた口を覆っている。ところで、このサチの「きゃっ」は、この瞬間、ジョーの闘魂魂から発せられた矢によって全身を貫かれたことをも意味している。サチはこの瞬間からジョーに魅了されてしまったのである。
 「ゴゴゴ~~ 風がないている ゴゴゴ~~」と歌って、肩で風を切って、粋に立ち去ろうとするジョーを必死で追っているのは丹下段平だけではない。見開き二頁を費やして描かれたこの場面(第1巻38・39p)を熟視すればいい。杖をつき、よろめきながらジョーを追う丹下段平の反対側の道を、大きなゲタを履いて懸命に駆けているサチの姿が目に入るだろう。


丹下段平がここでジョーと運命的に出会ったように、サチもまたジョーと運命的に出会ったのである。ジョーと丹下段平とサチを線で繋げば三角関係になる。まさに『あしたのジョー』はちばてつやの内では、この三人を中心として展開するはずだったのではなかろうか。が、サチは成長することのない〈永遠の子供〉の範疇に入れられてしまい、白木葉子や紀子のように一人の女としてジョーに関わることが封じられてしまった。
 もし、サチが成長していく女として『あしたのジョー』の舞台で生きることが許されていれば、サチこそがジョーの伴侶に最もふさわしかったと思うのはわたしだけではないだろう。
 サチはジョーとホセ・メンドーサとの闘いの場に観客として参加することも許されず、テレビ観戦する場面も描かれなかった。ちばてつやは前者に関しては「ホセ戦の日本武道館の観客席にサチがいてゲタをはいてコブシをふりあげていたら、ジョーの完全燃焼のジャマになる」云々と述べていた。が、それはサチをいつまでも成長しない子供として扱うということが前提になっている話である。サチが成長する子供であれば、彼女はもはやちびっ子どもの一員ではなく、ジョーの〈伴侶〉として試合を観戦できる〈少女〉になっていたはずである。

※  ※  ※
 サチに関してさらなる照明を与えるために、『あしたのジョー』初代担当編集者・宮原照夫のインタビュー記事に目を止めておこう。引用は「あしたのジョー大解剖」(2013年12月14日 三栄書房)に拠る。

  ーーーー原作のイメージは整った。いよいよ、ちばさんのご登場ですね?
  『ちかいの魔球』からの担当者として、千葉さんのとてつもない才能はずっと認めておりました。ただ、一連のちば作品は、登場する人物も物語も基本的にアットホームで、例えば、悪人が出て来ても、最後まで悪人として描ききれていなかった。つまり、“ニヒル”な主人公なんて、ちばさんの世界には存在しえなかったんです。
  ーーーーしかし、ちばさんに声をかけた。
  当時、ちばさんは30歳近くなっていました。そして、すでに少年誌の大スターであった。しかし、このまま同じような作品を描き続けていたら、やがて作風が固まり、結果、作品が飽きられ、一線から消えてしまうんじゃないか。実際、私はそうした作家を見てきましたからね、それは勿体ないと。今思えば誠にオコガマしい言い方ですが、こんな風に思っていて、今までと違う作品に挑んで欲しかったんですね。
  ーーーージョーはまさにピッタリだと?
  『ハリスの旋風』連載終了の一週間後に提案しました。もっとも、最初は原作付きとは言わずにです。つまり、ちばさんはオリジナルのボクシング漫画と思っておられたわけです。
  ーーーーやがて、梶原さんの原作付きだと明かした。
  え! って顔されてました。まったく乗り気ではなかったんですね。しかし、私も粘りました。ニヒリズムが描けてこそ、今後、より大きなヒューマニズムが描けるはずです‥‥こんなふうに何度も強引に口説きました。
  ーーーーそれにしても、過去、原作を一字一句変えたら激昂したという梶原さんと、ちばさんのコンビ。不安はありませんでしたか?
  無くはありませんが、まず、梶原さんもちばさんの才能はしっかりと認めていましたしね。だから、その上で、こう言った。ちばさんはオリジナルでも漫画を作れる人ですから、今までのように、原作を少しでも変えたらダメは通用しませんよと。
  ーーーー梶原さんはなんと?
  わかっていると言われました。そして、両横綱ががっぷり四つに組むんだから、頻繁に打ち合わせをしようじゃないかと続けてくれました。(24p)

ーーーーあしたのジョー連載第一回目は1968年1月1日号の少年マガジン誌上でしたが、当初、ちばさんは梶原さんの原作を使わなかったと?
  ちばさんから相談があると連絡を受け、馳せ参じると、梶原さんの原作だと話の導入部がつらい。人物がどうしても動かないから、新しいものを作りたいと提案されました。
  ーーーーいきなりですか?
  ええ。でも、話を聞いているうちに自分も納得をし、今度は梶原さんのところへ飛んで行った。そしたら、かなり微妙な顔をされたが、最後はわかったと承知していただいた。
  ーーーー諸説には激昂されて、連載をやめると言い出されたと?
  それはなかったですね。もちろん、喜んではおられなかったけど。でもね、梶原さんの原作って、すさまじい個性があって、並の漫画家じゃ、変えることなんかできないんですよ。それを変えて行けるちばさんもすごいと思いました。まさに異なった才能、個性がぶつかり合いながらも醸成した作品なんです、『あしたのジョー』は。
  ーーーー結果、連載当初から大ヒット作となりました。
  ファン層は主に大学生から若いサラリーマンでした。『巨人の星』とは違う層ですね。少年マガジンなのに、少年じゃなく大人がジョーの虜になった。ジョーに純文学のテイストを求めていた私にとってはしてやったりでした。
   (中略)
  ーーーー連載中の打ち合わせはどのようなものでしたか?
  私自身はあまり、打ち合わせに加わりませんでした。それほど、ちばさん、梶原さん、お二人は良いコミュニケーションを取っておられたんですよ。結局、第七話ぐらいまで、ちばさんは、原作をメインに使わなかったのですが、大きなトラブルにはなりませんでしたし。(25p)


宮原照夫がここで述べていることと、先に検証したちばてつやの話は概略同じである。改めて確認しておかなければならないことは、ちばはオリジナルなボクシング漫画を描くつもりでいたことである。原作の一字一句の変更も許さない梶原一騎、オリジナルで勝負したいちばてつやが、原作者と作画者としてタッグを組んだのだから、トラブルが起きない方がおかしいくらいのものである。ましてや、宮原照夫の証言によればちばてつやは第七話ぐらいまで原作を使わなかったというのであるから、梶原一騎でなくとも、原作者としては屈辱を感じて腹を立てるのが当たり前である。にも拘わらず、大きなトラブルにならなかったのは、宮原照夫が必死で梶原一騎を説得したことにあろう。宮原照夫は予め、ちばてつやは原作通りには描かない、オリジナルでも十分に通用する漫画家であることを伝えている。梶原一騎は不満ではあったろうが、承伏せざるを得なかったのである。
 ところで、梶原一騎の原作原稿は14枚しか残っていないので、『あしたのジョー』の出だしの場面が、原作と作画でどう異なっているのかを厳密に検証することはできない。それにしても、漫画原作者として巨匠であった梶原一騎の原作が14枚しか残っていないという、当時の漫画業界の〈常識〉に驚く。著者の梶原一騎、担当編集者の宮原照夫、作画者のちばてつや、三人のうちの一人でも原作を尊重する意識が強ければ、原作はすべてきちんと保存・管理されたはずである。当時、コピー機が普及していなかったとか、締め切りに間に合わせるためには原作原稿を書き写す時間などなかったなどという問題ではない。要するに漫画の原作に対する評価があまりにも低かったのである。梶原一騎を先生などと呼んでいても、彼の原作に対する扱いはまったくなっていなかった。やがて漫画は批評・研究の対象となるのだという認識がなかったというほかはない。
 ちばてつやは自分を調理師、原作を食材と考えていた。この考え方からは、食材を食材のままに保存しておくという発想は生じようがない。食材は調理師によって料理される運命にあり、原形をとどめることはない。一字一句の変更も許さない梶原一騎にとって、原作はそれ自体で作品なのだという、純文学作家なら誰でも思うことを思っていたに違いない。シェイクスピアの戯曲はそれ自体が独立した作品であり、その戯曲をもとに多くの演出家が独自の舞台を作り上げてきた。梶原一騎の原作もまた、本来、多くの作画者によって漫画化されるものだった。が、当時の梶原一騎にも、担当編集者の宮原照夫にも、そして作画者ちばてつやにも、そういった原作に対する認識はなかった。梶原一騎の原作は、ただ一人の作画者ちばてつやによって調理され、その原形は保存されなかった。
 原作はいきなりボクシングの試合から始まっていたということ、最初の第七話ぐらいまで原作を使っていないという証言に基づけば、ジョーが突然姿を現した東京下町のドヤ街、そこに住むちびっ子どもは、おそらくちばてつやが独自に設定した舞台であり人物であったと考えられる。もちろん、ちびっ子軍団の一人であるサチもまた、ちばてつやが創った人物であったに違いない。
 わたしがサチにこだわるのは、このサチこそがジョーにとって最も重要な、彼の伴侶にふさわしい女の子と思うからである。もし、ちばてつやがオリジナルなボクシング漫画を描けば、サチは〈成長しない子供〉の檻から解放され、白木葉子や紀子とは違った魅力のある美しい女性として登場したはずである。描かれた限りで見ても、サチはその〈子供の衣装〉を〈少女の衣装〉に着せ替えるだけで、ジョーに一目惚れしてしまった美しい〈恋する乙女〉へと大きく変貌する。

※  ※  ※
ジョーはドヤ街で丹下段平と運命的な出会いをした。読者の大半はこの二人の関係に目を引きつけられる。が、ちばてつやはジョーと丹下段平だけを描いていたのではない。ちびっ子軍団、鬼姫会のチンピラどもの群の中でジョーは丹下段平と出会っている。照明の当て方によっては、この群の中の誰もが主役級の光彩を放つのだ。例えば、鬼姫会のチンピラ三人の中で一番下っ端の男、サチにビンタをくらわした男に照明を当ててみようではないか。彼はなぜ、年端もいかないサチに平気で暴力を振るうことができるのだろう。なぜ、彼は鬼姫会に入ったのか。彼の生い立ちを調べれば様々な問題が浮上してくるだろう。ここで詳しく検証することはできないが、すべての人間ひとりひとりの人生に、逃れることのできない重い必然があり、浅薄な善悪観念で断罪することはできない。
 わたしが今、照明を与えたいのはサチである。この〈永遠の子供〉として設定されたサチは、年齢、家族関係などすべて闇の中に覆われている。父親が中風であるということだけは報告されているが、母親や兄弟姉妹の存在、暮らしの様態などは何一つ報告されていない。中風で寝たきりの父親と一人娘の家族構成だとすれば、生活保護でも受けていなければ生活できないだろう。が、ひもじさのあまり、おでんの一くしを盗み食いしてチンピラどもに連行されてきたのだとすれば、おそらく生活保護も受けていなかったのであろう。
 サチにとって盗みは、生きていくための一つの手段であったのかもしれない。サチの窃盗行為を、ジョーも丹下段平もちびっ子どもも非難しない。窃盗によってしか生きられない小さな命を誰が非難できようか。否、鬼姫会のチンピラどもだけが、サチの窃盗行為に〈罰〉を加えている。サチの窃盗行為にさえ因縁をつけて、それを糧にして生きていかなければならない連中がいる。このチンピラ連中に同情の眼差しを注ぐ者はいない。『あしたのジョー』の舞台で、彼らだけはその存在の必然に照明を与えられることはなかった。サチよりも〈小さな命〉を生きて行かなければならない、そのチンピラどもの生の必然は卑怯・卑劣・悪の烙印を押されて一方的に片づけられてしまう。ジョーの強烈なパンチと蹴りで助骨を二、三本折られたチンピラの痛みを体感的に受け止める読者はおそらくいないだろう。作品内でチンピラに同情する視点が完璧に設けられていないからである。
 サチの身なりに注目してみよう。大きな継ぎのあるミニの吊りスカートをはき、白い長袖のセーターを着ている。素足には大きな男用の下駄を履き、左足の脛には包帯を巻いている。頭髪はオカッパ風で髪を後ろで止めている。ジョーを追っていく駆けっぷりなどを見ると、サチは運動能力の高い元気溌剌な子供ということになる。
 それにしても、サチの履いている大きな下駄と脛に巻いた包帯は意味深である。まず下駄であるが、すぐに想起するのはゲゲゲの鬼太郎である。下駄を履き、目玉おやじを肩に乗せた鬼太郎は幽霊世界と人間世界の狭間にあって、両世界の仲立ち機能を存分に果たしている。サチもまた大人社会と子供社会を繋ぐ役割を果たしているように思える。否、そればかりではない。サチはジョーに体現された〈完全燃焼〉と、紀子と西に体現された〈日常〉を仲立ちする役目を負っていたように思える。そればかりではい。サチの包帯は、「脛に傷持つ」者の闇をさえ感じさせる。サチは〈闇〉と〈光〉の狭間にあって、両世界の仲立ちを果たす役目を負っていたも考えられるのである。
 先にも少し触れたが、中風で寝ているサチの父親を単なる貧しい病人などと思っていたのでは、鬼姫会のチンピラどもがサチを連行していく理由がわからない。サチの父親は鬼姫会と深い関係を持っていたと見る方が説得力がある。ジョーはサチを「おでんどろぼうのじょうちゃん」とか「おしめさま」とか言ってからかっているが、わたしの目には、サチは鬼姫会の〈お姫さま〉に見える。中風で寝たきりのサチの父親は、実は鬼姫会の親分であったが、なんらかの事情でその座を奪われたぐらいの裏設定があった方が、サチの存在感は増すのである。白木葉子は政財界の大物白木幹之介の孫だが、サチは闇世界のドンの娘であったとなれば、ジョーをめぐる葉子とサチの闘いにも深みが出てさらにおもしろい展開となったことだろう。


 下駄で想起するもう一人のキャラクターは『じゃりんこチエ』のチエである。『あしたのジョー』が「週間少年マガジン」に連載されたのは1968年1月1日号から、『じゃりン子チエ』が「漫画アクション」に連載されたのは978年10月12日号からである。
チエは小学五年生で年齢は十一歳ながら、ホルモン焼きの店を仕切っている。チエを中心にそこに集う庶民たちの暮らしが描かれている。サチもチエも男ものの大きな下駄を履いているが、決定的な違いはサチの家族が登場してこないのに対し、チエの場合は父親も母親も登場していることである。二人が履いている下駄は、彼女たちの男まさりの性格や背伸びの隠喩でもある。が、サチの履いている大きな下駄は、ジョーの短期間で烈しく燃え尽きるような〈完全燃焼〉と紀子に代表される平凡な日常の積み重ねで生涯を終えるような〈完全燃焼〉との間に横たわる深い淵を難なく渡っていける魔法の道具のようにも思える。
 ちばてつやの漫画において白木葉子はヒロインの座を保持することはできない。ちばは白木葉子のような政財界の大物の孫で、高慢な令嬢タイプが苦手で理解しがたいのである。ちばにとっては、庶民の貧しい暮らしのただ中から誕生してきたような、男勝りの、明るく、どんな苦難にも決してめげることのない、義理と人情に生きるサチのような女の子が最もヒロインにふさわしいのである。だが、ちばは梶原一騎の原作を生かすために、敢えてサチを〈永遠の子供〉の檻の中に封じ込めてしまった。サチはついにこの檻の中から脱出することかなわず、ジョーがホセ・メンドーサと死闘を繰り返している最中にも、その現場に姿を現すことができなかった。
 ちばてつやはサチの魂を白木葉子に移植したとも言える。サチを〈永遠の子供〉〈成長しない子供〉の檻の中から解放する代わりに、サチを白木葉子に移植した、その結果として白木葉子はそれまでの一貫性を剥奪されて、女性週刊誌の餌食となるような陳腐な言動をとらざるを得なくなった。ホセ・メンドーサとの対戦の前に、控え室で白木葉子がなした言動は、〈成長する〉サチがなしていれば何の問題もなかった。それはごく自然な言動であった。白木葉子のものは白木葉子に、紀子のものは紀子に、サチのものはサチにーーでなければならない。描かれた限りで見れば、紀子だけが紀子本来の姿で生きている。

※  ※  ※
 ここで、再び、丹下段平とサチがジョーを追っていく場面に戻る。ジョーが声に出して歌っているのは「風が泣いている」である。浜口庫之助が作詞・作曲、スパイダースの井上順が歌って大ヒットした歌である。時は1967年、『あしたのジョー』が発表された前年である。つまり、ちばてつやがこの場面を作画していたのは「風がないている」が流行っていた1967年で、ジョーはこの年に15歳であったということになる。,
 ジョーの年齢に関しては『あしたのジョー論』(1992年11月 発行・風塵。発売・パロル舎)の著者・吉田和明が第16章「ジョーはいくつで死んだのか?」、第17章「最後の日々にいたるまで!」で詳しく考察している。吉田の作成した矢吹丈年譜によれば、ジョーの誕生は1947年6、7月(13日まで)、ホセ・メンドーサとの世界選手権は1969年12月某日で、その試合後〈完全燃焼〉し、息を引き取ったことになっている。吉田は第17章の最後に「ジョーの死は、22歳の12月のある日のことであった‥‥。1エキジビジョンマッチを含めて26戦して19勝(おそらくすべてKO勝ちであろう)6敗(ホセ・メンドーサ戦における判定敗、力石戦におけるKO敗の他、2TKO敗、1反則敗、1失格敗)1分け、それがジョーの17歳から22歳にして「真っ白に燃え尽き」るまでの、6年強の期間にわたるリングでの成績であった」と書いている。
あしたのジョーの大秘密』(1993年12月 松文館)の著者・高取英と必殺マンガ同盟は吉田和明の説を踏まえた上で「基本的には「あしたのジョー」は『少年マガジン』の掲載の時と同時進行なのだ。/「矢吹丈ーー十五さい」と載っているのは1968年、3月3日号である。/すると、矢吹丈は、1953年の早生まれか、1952年生れということだ。(中略)吉田推論は、22歳の12月のある日、ジョーは亡くなるが、69年のことになっている。/「あしたのジョー」連載終了は、『少年マガジン』1973年5月13日号である。/いうまでもなく、ホセ・メンドーサとの世界タイトル戦終了の回である。この試合は、冬であった。試合決定を報じる新聞の日付は12月22日(金)で、72年(引用者注・73年の誤記)1月7日号だ。だから明けて1973年すぐのことだ。/ぼくたちは、ジョーを1952年生れだと考えているので、この発売号の時、すなわちジョーの死は、20歳か21歳ということになる」と書いている。

 ジョーの年齢に関しては高取英と必殺マンガ同盟の解釈に説得力がある。先に指摘したように、『あしたのジョー』の展開は時系列に忠実とは言えないし、まさに漫画的いい加減さもある。第一、ちびっ子どもが〈成長しない子供たち〉として設定されているのだから、『あしたのジョー』をすべて現実的に理解することには無理がある。わたしはこのことを踏まえた上で、敢えてサチを〈成長する子供〉と見なしてテキストの再構築をはかろうとしているだけのことである。
 サチはいったい何歳ぐらいに設定されていたのだろうか。六歳にも見えるし、十歳にも見える。ジョーが世界タイトル戦を戦った年、六歳のサチは十二、三歳、十歳のサチであれば十五、六歳になっている。サチを成長する子供として設定してあれば、彼女は葉子や紀子よりも、ジョーに相応しい少女として立ち現れてきたはずなのである。

 ジョーはチンピラを半殺しの目にあわせると、さっさと鼻歌まじりでその場を大股で去っていこうとする。ジョーの殺人パンチに魅せられた丹下段平はよろめきながらもジョーを追う。「や‥‥矢吹丈とかいったな‥‥おめえに‥‥おめえさんには‥‥話があるんだっ‥‥」。この時、サチは憧れの両目を見開いて、元気いっぱいにジョーを追っている。この場面からジョーと丹下段平だけを切り取ってみればいい。この構図は、まさに丹下段平がジョーの背後から従属的に追っていることが強調されている。
 ジョーはうるさく追ってくる丹下段平に向かって「ふん‥‥そっちに話があったって、おらあ酔っぱらいと口をきくなあまっぴらだよ。きえうせろっ」と大声で怒鳴りつける。段平はまるで土下座でもするような四つん這いの格好で「よ‥‥酔っちゃいねえ、もう酔っぱらっちゃいねえ」と言い、続いて右膝を立て、右手に強く握った杖を立て、上半身を上げ、左掌を大きく開いて腕をジョーの方へすがるように伸ばす。「目がさめたんだ。おめえのみごとなパンチを見て、すっかり酔いがさめちまったんだ。(ヒック)なあ、わかいの」と、口から唾を吐きながら一気に言う。ジョーは再び前を向き「けっ、なあにが酔いがさめただ! しつこいおやじ‥‥」と吐き捨て、急いで立ち去ろうとする。と、その瞬間、目の前にちびっ子サチが立ちはだかって、ジョーの顔を黙ってまともに見上げている。ジョーは思わず「あれれ」と漏らしている。この時のサチの顔の表情が実にいい。このサチの顔は、ジョーの本質を体感的に、直感的に見抜いて、信頼し切った〈恋する乙女〉のそれなのである。ジョーの帽子の上に何本もの短線が描かれている。言うまでもなく、それはジョーにとって、サチの出現がいかに意外であったかを示す線である。
 ジョーを恐るおそる取り囲んでいるちびっ子どもとは違って、サチは一瞬にしてジョーの本質的な優しさに感応している。画面右には、ジョーに警戒して大きなスコップを振り上げている子供までいるというのに、サチはもはや微塵の恐れも不安もなく、純朴な信ずる乙女の眼差しでジョーの前に立っている。


 ジョーはサチに向かって「なんでえ‥‥おでんどろぼうのじょうちゃん、まだそんなところにいたのかい」と笑顔で言う。サチは大きな声で「どろ‥‥」と言って前につんのめる。吉本新喜劇の定番のようなずっこけである。ジョーはサチの頭を右手でなぜながら「早いとこ家にかえってやんな。おまえのとうちゃん、中風で寝てるっていうじゃねえかよ」。サチは目をつぶり、ジョーに子供扱いされていることに腹をたて、両手の親指と人差し指を鎖状の輪にしてイライラしながら動かしている。ジョーはサチの心情を無視して「ほー、むずかしい顔してやがんなあ。もしや、おまえおトイレいきたいのとちがうか?」とからかう。
 サチはついに怒り心頭に発し、顔を真っ赤にして「かーっ」と叫ぶ。ジョーは「はははは、ま、いいや! こんどはおでん一くしだなんてけちなまねをするんじゃねえよ。どうせやるんなら屋台ごとかっぱらうんだ、屋台ごと。人間たるものすべてにでっかくいかなくちゃいけねえ。なあ! はっはっはっ、はっはっはっ」と豪快に笑いながら、怒りに歯を剥き出し右手に下駄を持ったサチを置き去りにして、大股でさっそうと立ち去ろうとする。サチはジョーに襲いかかる形相で後を追うが、他のちびっ子どもは必死でサチを止めようとしている。
 次コマは「でっかい~~ことはいいことだ~~! それっ」と、まるで酔っぱらいのように足を上げ、手を上げて大声で歌って去っていくジョーの後ろ姿を描いている。ジョーの歌っている歌詞は、当時、髭面の作曲家で有名だった山本直純がテレビコマーシャルでがなり立てていた「おおきいことはいいことだ」のもじりである。ジョーは喧嘩っ早い野生児の印象が強いキャラクターであるが、緻密に見読していくと、実に茶目っ気のあるユーモアに富んだ明るい性格の持ち主であることがわかる。
 しばし、ジョーとサチのやりとりを見ておこう。

 突然、ジョーの後頭部に下駄が勢いよく飛んできて、みごとヒット。下駄は画面右上に、帽子は画面左上に飛び、ジョーの顔はあまりの衝撃に歪んでいる。次の瞬間、ジョーは振り返りざま「だ‥‥だれだ!」と怒鳴る。ジョーは左手で帽子を押さえ(一度、飛んだはずの帽子がジョーの頭におさまっているというのは、ひとつの漫画的表現と見なそう)、右手は拳にして戦闘モードに入っている。このコマは41頁最終コマで、読者は興味津々、頁をめくることになる。もっとも、読者は三コマ前に下駄を右手に持ったサチを見ているわけだから、下駄を投げた相手がサチであることは分かっている。しかし、ジョーはサチに対して侮辱的な扱いをしたという意識が希薄であり、まさかちびのサチが攻撃してくるとは夢にだに思っていない。サチの背後からの下駄攻撃は、ジョーにとって予期せぬ出来事だったのである。
 頁をめくると、カメラはちびっ子どもの側に回り、振り返って頭を押さえているジョーの正面をとらえている。画面左側に描かれたちびっ子どもは確認できるだけで十五人(サチを除く)を数える。ジョーは「お‥‥おでんどろぼうか‥‥な‥‥なにしやがるんだ、いきなり!」と大声で怒鳴る。サチはまったく怯まず「なにもへったくれもあるかいっ。なにさ、おでんどろぼうだの、トイレいきたいのだの、失礼なことばかしいっちゃって! あたいはこう見えてもレディなんだよ!」とやり返す。ちびっ子どもは必死の形相でサチを押さえる。ズボンの後ろポケットにゴムパチンコを差し込んでいる子供は「こ‥‥こら、サチ、よさねえか!」と困惑の表情でたしなめている。画面左下には顔から大きな冷や汗を垂らし、大きな口を開けて「およしってば!」と言う子供の横顔も見える。

※  ※  ※
 注目すべきは、ちばてつやはジョーとサチとの烈しい喧嘩ごしのやとりをちびっ子軍団のただ中で描いていることだ。かつて手塚治虫の漫画版『罪と罰』を批評の対象にした時にも強く感じたが、手塚はドストエフスキー文学に魅了された文芸評論家や詩人、小説家とは違った視点から『罪と罰』を再構築していた。
 手塚治虫は『罪と罰』の漫画化にあたってドストエフスキー文学の根幹に関わるような重要な場面を省略した。○マルメラードフの告白の場面。○ソーニャがラスコーリニコフに請われて読み上げた「ラザロの復活」の場面。○流刑地シベリアでラスコーリニコフが復活の曙光に輝く場面である。手塚はこの重要な三場面を省略したばかりでなく、スヴィドリガイロフという重要人物を革命家スビドリガイロフに脚色したり、丸顔でぷくぷく太ったポルフィーリイ予審判事を鷲っ鼻で細身の体型に変えたりしている。
 手塚治虫ドストエフスキー文学の思想、信仰の神髄に触れることはできなかったが、注目すべきはドストエフスキー文学におけるグロテスクなカーニバル空間を見事に再現して見せたことである。詩人、批評家、小説家がドストエフスキーの文学をあまりにも深刻に受け止めた結果、ドストエフスキー文学の猥雑さ、そのグロテスクな祝祭空間を受け止めることができなかった。
 日本の小説家で憂鬱・深刻なしかめっ面のドストエフスキーではなく、明るく楽しいドストエフスキーを提唱したのは五木寛之で、ロシア文学者の江川卓が〈謎解き〉シリーズでそれを体現したと言える。が、それよりもずいぶんと早く、手塚治虫は漫画版『罪と罰』でそれを実現していた。因みに手塚治虫の『罪と罰』が東光堂より刊行されたのは1953年、江川卓の『謎とき「罪と罰」』が新潮社より刊行されたのは1986年である。

清水正 時代を超えた『あしたのジョー』

報告

自宅(清水正D文学研究会)の住所名が昨年下記のように変更になりました。

〒270-1151 我孫子市本町3-6-19

 

原孝夫七回忌

https://shimizumasashi.hatenablog.com/entry/20150702/1435848959


時代を超えた『あしたのジョー
ーーちびっ子サチに捧げる死闘(テキストへの参入)ーー

清水正


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あしたのジョー』について本格的に批評しようと思ったことは一度や二度ではない。ジョーが闘い尽くしてコーナーから立ち上がらない最終場面は、わたしの批評の根本にも関わることで、烈しい批評衝動にかられた。が、わたしは『あしたのジョー』論にとりかかることはなかった。それにわたしは『あしたのジョー』を全巻読み通したことはなかった。わたしにとって『あしたのジョー』は断片的なもので、ジョーがドヤ街に流れ着いた最初の場面と最終場面が強く印象に残っていた。つまり、わたしは『あしたのジョー』論を最初の場面と最後の場面だけで書こうとした。
 今回「わたしが魅せられた漫画」の企画をたてたのはわたしだが、どの漫画を選ぶかについてはそうとう迷った。つげ義春の漫画に関してはすでに何度もとりあげているし、最近では『「ガロ」という時代』(2014年9月 青林堂)でつげ義春の「チーコ」、日野日出志の「蔵六の奇病」、白土三平の「カムイ伝」、池上遼一の「白い液体」、勝又進四コマ漫画蛭子能収の「愛の嵐」、水木しげるの「白い旗」、滝田ゆうの「寺島町奇譚」などについて批評した。つまり関心のあった漫画についてはほとんど書いてしまった。
 そこで思いついたのが、「赤銅鈴之助」であった。わたしにとって「赤銅鈴之助」は最初に漫画の魅力を存分に味わわせてくれた作品である。父親が買ってきてくれた「少年画報」に掲載されていた「赤銅鈴之助」はわたしの脳裏に刻印された。特に印象に残っているのは、鈴之助が竹のしなりを利用して複数の敵と勇ましく敏捷に闘う場面であった。わたしは「赤銅鈴之助」というと必ずこの場面を思い出し、復刻版でその場面を探したのだが、どういうわけか見つけることができなかった。鮮やかに、カラーで記憶されている一場面が、わたしの記憶違いとも思えないのだが、当時、漫画雑誌は消耗品扱いで、読み終われば何ヶ月後かには捨てられる運命にあったので、未だに確認できずにいる。
 先日(2015年2月24日)、アメリカの俳優ポール・ニューマン主演の映画『暴力脱獄』がテレビで放映されていた。わたしは途中からではあったが偶然、この映画を観た。ほんの暇つぶしのつもりでテレビを観ていたのだが、この映像にはただならぬ緊張感がみなぎっており、眼をはなせなくなった。観終わって、これはぜひ批評しなければならないと思った。パソコンでこの映画について検索してみると、原題は『Cool Hand Luke』で、邦題『暴力脱獄』は日本の映画ファンをなめきった、まさに暴力的な題名である。作品の内容を無視した、商業主義を最優先した愚かな邦題である。これほどすばらしい問題作があまり話題にならなかったのは、この邦題に一因があったのではないかと思ったほどである。
 ところで、検索を続けていると映画評論家の町山智浩のコメントにめぐりあった。わたしは町山の存在を初めて知ったが、この映画に関する彼のコメントには深く頷くものがあった。彼によれば、この映画はアメリカ映画における最初の実存映画に位置づけられるもので、ポール・ニューマン主演のほかの映画はすべてゴミ、この映画だけでいいと断言していた。小気味のいい断言で耳に心地よく響いた。彼はさらに、この映画と『あしたのジョー』の共通性にも触れていた。梶原一騎が『暴力脱獄』(原作者:ドン・ヒアース。監督:スチャアート・ローゼンバーグ。1967年制作のアメリカ映画。日本での公開日は1968年8月24日)を観ていて、影響を受けていたのかどうかは不明だが、脱獄や強制労働や人物設定において共通する点はある。さらに町山智浩ポール・ニューマン演ずるルークは福音書記者ルカの名前をもじっており、ルークは現代のキリストなのだとまで指摘している。これは実に興味深い指摘で、改めて深く検証しなければならない問題である。
 ベトナム戦争体験者であるルークは、人間が生きてあることの意味を根源的に問うようになる。この世界に本当に信じるものはあるのか。ルークは虚無のただ中に突き落とされる。まさにルークはドストエフスキーの人物たちが直面し、のたうちまわった神の問題に行き着く。ルークは何をしていても常に神に問い続けている。神を失ったルークが誰よりも神を問うている、神と共にあり続けていると言ってもいい。
 アメリカはピューリタン清教徒)たちによって建国された国であるが、キリスト教徒とは言っても、彼らはドストエフスキーが苦しみ抜いたような次元で神を問うことはなかった。アメリカの代表的な漫画『スーパーマン』の主人公は自分の“正義”をただ一度として疑ったことはない。彼にとって自分の“正義”は絶対であり、敵側の“悪”はその正義の名において徹底的に滅ぼされなければならないのだ。アメリカの“正義”は相対価値の渦の中でもまれることはない。あっても自らの“正義”を根底から疑うことがないので、“正義”のための戦争や残虐な行為を反省することはない。アメリカのピューリタンたちにはヨブの苦悩、神に対する不信も反逆もない。彼らの多くは能天気に自分たちの神を信じて疑わず、敵に回った者たちの神を絶対に認めようとしない。
 ルークは刑務所に入って、どんなに不条理な扱いを受けても屈することはない。彼はまさに神を喪失した時代における〈キリスト〉のように、いかなる試みにも屈せず、不撓不屈の闘いを続ける。ルークのその闘いの姿に感動を覚えるのは、彼のまなざしが常に神に向けられていること、彼のその姿が或る確信に基づいているからである。ルークは神が存在しないのであれば、自分が〈キリスト〉としての生を全うしようという断固たる意志に従っている。この現代アメリカに降臨した〈キリスト〉が、神を問い続けたということ、ここに『Cool Hand Luke』がアメリカ最初の実存映画と言われる所以がある。
 『スーパーマン』は幕を下ろしたが、それはアメリカが自分たちの“正義”に幕を下ろしたことを意味しない。スーパーマンは一度としてヨブの懐疑と反逆を、ドストエフスキーの不信と懐疑を体験したことはない。彼は、ロダンの〈考える人〉の、頭を抱えて思考の淵にのたうち回る体験を理解できないままに姿を消した。彼は、未だに様々に姿を変えて登場するが、その基本的な能天気な性格は見事なほどに受け継がれている。
 いったいアメリカ人はドストエフスキーを真剣に読んだことがあるのだろうか。今、世界はまさに、ドストエフスキーが『罪と罰』で予告した〈理性と意志を賦与された旋毛虫〉に感染した者たちによる戦いが続けられている。ドストエフスキーの予言が的中すれば、人類は破滅の時を迎えなければならないことになる。
 脱獄したルークは、教会堂から出てきたところで、追ってきた係官の銃弾に倒れる。ルークを殺したのは、同じ地上世界に生きる人間だが、ルークのまなざしは人間に向けられてはいない。彼は、彼をそこへと追い込み、試み続けた神の方へ向けられている。ルークは神へ向けて微笑みながら息を引き取った。神なき世界において、自らが〈キリスト〉となって、最後の最後まで神に反逆し、自らの死を通して神をも超え出て行ったのがルークである。ルークの微笑みに体現された壮絶な反逆と信仰の姿が、彼の〈死〉によって永遠化された。

 わたしは『Cool Hand Luke』を観終えた時、『あしたのジョー』について書くことに決めた。『あしたのジョー』はわたしの青春期に大ヒットした漫画であるが、先に書いたように、断片的にしか読んでいない。発表誌「少年マガジン」を買ったことは一度もない。従って、夢中で〈つづき〉に期待し、ハラハラドキドキでページをめくったという経験はない。ドストエフスキーで頭を一杯にした青年が手にした漫画雑誌は「ガロ」一誌であり、文字通り少年マンガ雑誌などを読む暇はなかった。今回、『あしたのジョー』について批評することに決めたので初めて全巻を通読した。『あしたのジョー』は何種類も刊行されているが、批評するにあたっては、原則として講談社文庫本全12巻をテキストにし、適宜、他のテキストも参照することにしたい。

※  ※  ※
 タイトル『あしたのジョー』をわたしは『明日のジョー』と思いこんでいた。単純に〈あした〉を〈明日〉に重ねていたわけだが、作者(たち)はなぜひらがな表記にしたのか、と改めて考えれば、ことはそう単純に処理できる問題でもない。発表誌「少年マガジン」は、いわば子供相手の雑誌であるから、作者や編集サイドになるべく漢字を使用しないという思いが働いたのかもしれない。
 さて、〈あした〉は〈明るい日〉を意味する未来、ないしは将来を意味する。つまり、〈あした〉は未だ来ていないが、将に来るべき〈明るい日〉と、まずは理解することができる。ここで、なぜ〈まずは〉とことわったかと言えば、『あしたのジョー』は、必ずしも〈明るい日〉を約束していないからである。『あしたのジョー』の結末を知っている読者の誰が、そのラストシーンを無条件に〈明るい日〉と断定できるであろうか。つまり『あしたのジョー』は、決して〈明るい日〉を意味する『明日のジョー』ではないのである。すると、『あしたのジョー』の〈あした〉は単に子供向けのひらがな表記であったのではなく、深くこの作品の内容に関わった表記であったということになる。つまり〈あした〉は、過去、現在、未来の通俗的時空の次元を超えた意味が込められていたと言える。

※  ※  ※
 次に名前の〈ジョー〉について思いをめぐらすことにしよう。英語のジョー(jaw)は顎を意味する。ボクサーにとって顎は重要な身体部位の一つである。強烈なアッパーカットをくらえば一瞬でマットにしずむことになる。ボクシングにおいては自分の顎をどのように守り、相手の顎をどのように攻めるかは、きわめて重要な基本的な技術上の問題である。その意味ではボクシングに命を賭けた主人公の名前として実にふさわしいネーミングと言えるだろう。しかし、ジョーの名前はその次元にとどまるのであろうか。
 正式の名前は矢吹丈である。丈をジョーと表記することで、主人公は単なる日本人の域を超えて或る普遍性を獲得することになる。丈はジョーとなることで日本から世界へ、そしてさらなる世界を目指す者の象徴となる。苗字の矢吹は、ジョーのパンチが吹かれた矢のようなスピードを持っていること、およびジョーが或る何ものかの息によって吹かれた存在であることを意味している。ジョーはジョー一人で生きているのではない。彼は風に吹かれた落ち葉のように東京のドヤ街に流れつくが、この風は或る何ものかの息でもあるということ、つまりジョーは或る何ものかから選ばれた者としての運命を生ききらなければならない。
 矢吹丈は早くに両親を失い、孤児院に預けられるが脱走を繰り返したという経歴を持つ。そして十五歳になった丈が、いきなりドヤ街にその姿を現す。読者が丈について報告される経歴はこれぐらいなもので、その具体的なディティールはまったく知らされない。両親がどのような人であったのか、彼らは何が原因でなくなったのか、丈の孤児院での生活はどうだったのか、作者はそういった点に関して描く必要性を感じていない。丈はいわば、突然、首都東京の片隅にその姿を現している。丈は肉親や孤児院との絆を断ち切った存在であり、その意味で彼はある種、孤独なアナーキストの相貌を備えている。丈は世界に投げ出された孤児であり、安らぎの場所を持たない都市の漂泊者、流れ者として舞台に登場してきた。
 
※  ※  ※
ジョーの出で立ちに注目してみよう。 ジョーはハンチングを斜に被っている。黒のシャツにコートを着て、袋のようなショルダーバッグを肩に掛けている。まさに彼の出で立ちは漂泊者にふさわしい。斜に被ったハンチングは彼の社会に対する反抗や反逆の意志表示となっている。この帽子はオレンジ色で、もともとは赤色であったものがくすんでしまったのかもしれない。もし赤色だったとすれば、ジョーは現代の東京に現れた〈赤ずきんちゃん〉、すなわち〈お婆さん〉(山の神)に選ばれた供犠(犠牲者)ということになる。ジョーは定職を持たない〈浮浪者〉であり、反抗・反逆の牙をもった〈英雄〉であり、同時に選ばれし〈供犠〉なのである。

※  ※  ※
 わたしは『あしたのジョー』のジョーに『暴力脱獄』のクールをかぶせ、さらに天空から東京ドヤ街に降臨してきたイエス・キリストのイメージを重ねて批評したいと思っているのだが、おそらくこれはわたし独自の深読みとなるかもしれない。原作者・高森朝雄にも作画者・ちばてつやにもジョーと神を結びつける発想があったようには思えない。が、わたしはそこまでこのテキストを再構築してみせるのでなければ面白くないのである。

 『あしたのジョー』は東京のドヤ街に流れ着いたジョーが、そこで元プロボクサーであった丹下段平と出会い、ボクサーとしての修練を重ね、ついには世界バンタム級チャンピオンのホセ・メンドーサと死闘のタイトルマッチを展開した果てに、勝負には負けたが、全力を出し尽くして燃え尽き、コーナーの椅子から立ち上がれずにいる場面で幕を下ろしている。わたしは、初めてこの最後の場面に読んだ時に、強く批評衝動を感じたのだが、今までその衝動に従うことはなかった。今回は徹底的に批評したいと思う。
 ホセとリングで闘い続けたジョーの髪は最後まで黒々としていたが、最終頁に描かれたジョーの髪は一瞬にして真っ白になっている。闘い尽くしたジョーは、もはや二度とリングで闘うことはない。ホセとの闘いで、ジョーの闘うマグマは完全に消失してしまった。ジョーは命を燃焼し尽くして死んでしまった。が、ジョーの顔に苦しみは微塵もない。ジョーの俯いて両目を閉じた顔は穏やかな笑みを浮かべている。ジョーはここで死ぬことで永遠の命を得たのである。
 『あしたのジョー』という少年漫画雑誌に発表されたエンターテインメント作品は、この最終頁一枚の絵によって、永遠性を獲得した。わたしはこの作品が「少年マガジン」で完結してから42年後の2015年に全巻を読み終えた。今、『あしたのジョー』が読めるということは、この作品が時代性に寄りかかっていなかったことを証している。ドストエフスキーを五十年も読み続けているわたしが、『あしたのジョー』を飽かずに読めたのであるから、やはりこの作品の魅力については徹底して批評してみなければならない。
 批評は、『あしたのジョー』の最終頁の絵から始まる。

※  ※  ※
 闘いはもはや不可能と見た丹下段平は「あの偉大なチャンピオンを相手にここまで、しかも片目だけでこんなにりっぱに戦ったんだ。もうこのへんでおしまいにしよう。わしは‥‥わしゃあもう、これ以上見ちゃいられねぇ。もう、たくさんだ!」と吐き捨てるように言う。その時ジョーは冷静な口調で「待ってくれよ、おっちゃん‥‥おれは‥‥まだまっ白になりきっていねえんだぜ」と言う。段平に理由を聞かれたジョーは、カーロス戦の後で紀子に語った言葉を口にする。
「おれ、負い目や義理だけで拳闘やってるわけじゃないぜ。拳闘がすきだからやってきたんだ。紀ちゃんのいう、青春を謳歌するってこととちょっとちがうかもしれないが、燃えているような充実感はいままで、なんどもあじわってきたよ‥‥血だらけのリング上でな。そこいらのれんじゅうみたいに、ブスブスとくすぶりながら不完全燃焼しているんじゃない。ほんのしゅんかんにせよ、まぶしいほどまっかに燃えあがるんだ。そして、あとにはまっ白な灰だけがのこる‥‥燃えかすなんかのこりやしない‥‥まっ白な灰だけだ。そんな充実感は拳闘をやるまえにはなかったよ。わかるかい、紀ちゃん。負い目や義理だけで拳闘をやってるわけじゃない。拳闘がすきなんだ。死にものぐるいでかみあいっこする充実感がわりと、おれすきなんだ」と。
 ここに引用した言葉が、ジョーの側から説明された最終頁の回答である。〈まっ白な灰〉になるまで闘い尽くすこと、これがジョーの生きる意味のすべてだと言っても過言ではない。ホセは12ランドが終わった時に「イ‥‥イッタイ‥‥ジョー・ヤブキハ廃人ニナッタリ‥‥死ンダリスルコトガ、オソロシクナイノカ‥‥? 彼ニハ悲シム人間ガヒトリモイナイノカ‥‥?」と訝る。ホセには彼の帰りを待っている〈愛スル家族〉がいる。ホセはジョーに恐怖を覚えながら「アノ男ハワタシトハ、マルデベツノタイプの人間ダ‥‥!!」と呟く。
 ホセはジョーとの世界タイトル戦に勝利した。はたしてホセは今後もボクサーとしてリングにあがることが可能なのか。ホセもまたジョーとの闘いにおいて〈完全燃焼〉したのか。作者はどうとでも描くことはできるだろうが、ジョーの完全燃焼を描いた後で、この作品に付け加えるたった一つの言葉も、絵も必要とはしなかった。読者もまた、この最終頁と共に深い沈黙に沈むほかはない。

※  ※  ※
 『あしたのジョー』はリング上で〈まっ白な灰〉になったところで終わる。批評はこの〈まっ白な灰〉から亡霊のように立ち上がってくる。『罪と罰』のポルフィーリイは作中で予審判事としての役割だけを果たしていたのではない。彼はラスコーリニコフに対する辛辣な批評家であり、予言者ですらあった。ラスコーリニコフに「いったいあなたは何者なのか」と訊かれて、まだ35歳のポルフィーリイは「わたしはすっかりおしまいになってしまった人間です」と答えている。わたしは20歳の昔からこのポルフィーリイの言葉にこだわり続けてきた。ドストエフスキーは二人の女を斧で叩き殺したラスコーリニコフをエピローグで復活の曙光に輝かせた。最後の最後まで罪意識に襲われることのなかったラスコーリニコフを、ドストエフスキーは「愛によって復活」したと記して『罪と罰』の幕を下ろしている。こういった幕の下ろし方に関して、わたしは一貫して疑問を抱いている。
 わたしは「すっかりおしまいになってしまった」ポルフィーリイに復活の曙光に輝く瞬間はあるのかと訝った。ドストエフスキーラスコーリニコフに関しては「思弁の代わりに命が到来した」のだと書いて、主人公の復活を保証しているが、スヴィドリガイロフやポルフィーリイの復活問題に関してはまったく言及することはなかった。
 わたしは十四歳の時に世界が真っ白になったことを経験している。時間は繰り返すと考えたその瞬間、眼前が真っ白になった。すべては必然と覚って、地上世界の善悪観念が瞬時に消失した。後にニーチェ永劫回帰説を知ったが、ニーチェの「ならばもう一度生きよう」という必然と自由の一致感覚はわたしにとっては体感的な理解のうちにある。過去と未来は今という〇(零)に収斂し、その〇(零)からすべての事象が現象してくるという、有と無の一致の体感的了承を体験した者には、ニコライ・スタヴローギンの虚無などはこの本来的な虚無とはまったく性格を異にする。

 ドストエフスキーの人物たちには思想が賦与されている。その思想をめぐって多くのドストエフスキー論が書かれてきた。さてジョーであるが、彼に思想というほどの思想があるわけではない。もしあったとしても、先に引用した、紀子に語った〈完全燃焼〉程度のものである。それは熱血漢なら誰でも口にするような、実に通俗的な人生論であり、その熱い人生論に多くの読者が共鳴して、『あしたのジョー』は大ヒットしたのである。 敗戦後、日本の男たちはおしなべて腰抜けになった。日本全土は度重なる空襲で焦土と化し、そのあげくに広島と長崎に原爆まで落とされたのだ。元気が出るはずもない。が、この腰抜けたちに大いなる元気を与えたのが、空手チョップで大活躍した力道山であった。プロレスが興行である限り、シナリオがあるのは当然であるが、敗戦後の日本人の大多数は力道山の試合を真剣勝負と見て興奮していたのである。テレビの普及はこの力道山人気とアンテナにある。世間体を気にする日本人にとって隣家の屋根に取り付けられたテレビのアンテナは何よりも購買意欲に火を付ける効果があった。いずれにしても、力道山人気は急速にテレビを普及させ、戦勝国は西部劇、アメリカのホームドラマを放映して、日本民衆の意識を娯楽番組で羊化していくことに成功した。
 矢吹丈の闘い方は力道山のそれを踏襲している。相手に殴らせるだけ殴らせておいて最後に決定的な反撃に出て勝利を収める。この闘い方が最も観客をハラハラドキさせる。どのような闘い方をすれば場内が興奮の坩堝と化すか、それを体得していないプロの格闘家は大成しないだろう。セコンドは演出構成家として、ボクサーの闘い方を効果的に演出できなければならないし、ボクサーもまたその演出に応えるだけの実力とセンスをそなえていなければならない。
 丹下段平はセコンドとして一流とは言えないが、ジョーを見いだして育てた功績は大きい。ジョーがドヤ街で段平と出会ったことは宿命である。ジョーは段平以外の誰とも組むことはできない。彼らに共通しているのは、中途半端な地点にとどまっていられないことである。行き着くところまで行かなければすまない性分なのである。ジョーが勝ち進んでいくに従って、段平はいくぶん慎重になってはくるが、彼は本来、社会的規範や秩序に素直に従うような男ではない。段平はジョーの〈まっ白な灰〉になるまでの同伴者であり、同時に先導者ですらあったことを忘れてはならない。彼らは、ボクシングという四角いリング上の秩序からも不断に逸脱してしまう男たちであり、そのある種狂気的な性格が、秩序の中に生きるほかない多くのひとたちの潜在願望に訴えて支持されたのである。

※  ※  ※
 最終頁全一コマ絵の衝撃を超えた〈ボクシング〉を描くことは誰もできない。これでジョーのリング生命は幕を閉じたし、彼の人生そのものが終えた。が、そのことでまさにジョーは永遠の命を獲得した。この最終頁一コマ絵だけで、『あしたのジョー』は語り継がれていくだろう。
 漫画『あしたのジョー』以降、この作品を越えるボクシング漫画は出ず、現実の世界においてもジョーを超えるボクサーは存在しない。例え、リング上で命を落としてさえ、それはジョーの二番煎じでしかない。漫画界においても、ボクシング界においても『あしたのジョー』は酷な課題を残したと言えようか。
 批評とはポルフィーリイと同様に「すっかりおしまいになってしまった人間」がなす術であるから、一度、まっ白な灰になってしまった人間の眼差しで世界をさまようことになる。
 完全燃焼してニュートラルコーナーに坐り続けるジョーに、現実世界における〈今後〉はない。ジョーと死闘の末に髪を真っ白にしたホセにもボクサーとしての〈今後〉があるとは思えない。ホセもまたジョーと同様に完全燃焼して勝利を勝ち取った。ホセがたとえ今後、ボクサー生活を続けたとしても、ジョーとの試合以上の試合はできないだろう。それでは、この試合を観た観客および読者はどうだろうか。彼らに〈今後〉はあるのだろうか。もちろん、あるだろう。ジョーの最後の場面に衝撃を受けたにしろ、彼らが生きる日常の手強さもある。ジョーと同じような〈まっ白〉を体験した者でなければ、それがその時、どんな衝撃を与えようが一過性のものでしかないのだ。観客・読者の大多数はリング会場を出れば、本を閉じれば、相も変わらぬ日常の場を生きるほかはないのだ。世界チャンピオンのホセですら、妻のため、子供のためを思ってリング上で闘っていた。一つの試合に完全燃焼する者に死を通しての永遠化は達成されても、ビジネスとして闘う者には死もない代わりに永遠もない。
 ホセとジョーの闘いに、観客・読者は勝敗を超えたものを求めた。ホセの勝利に酔う者はいない。ジョーの〈まっ白な灰〉と化すに至る完全燃焼の闘う姿にすべての観客・読者が酔ったのだ。ジョーの完全燃焼は対戦相手のホセはもとより、すべての観客・読者に生きるとはどういうことかを烈しく、微塵の妥協もなく突きつけた。

※  ※  ※
 ジョーの完全燃焼型生き方に、彼に好意を寄せていた紀子はついていけなかった。紀子が選んだのは、ボクサーを止めて乾物屋の仕事を誠実にこなすマンモス西であった。いわば、紀子は愛ではなく生活を選んだ。
 ジョーの完全燃焼に、結果として寄り添うことになったのは白木葉子であった。葉子は、白木財閥の令嬢で、力石徹の後援者であった。葉子はジョーと会うまで、力石徹に心を寄せていた。その寄せる心を恋心と単純に結びつけることはできないが、しかし葉子が力石徹のような闘うキャラに牽かれていたことは確かである。これは若い頃にボクシングをしていた祖父白木幹之介の影響があったかもしれない。祖父に人一倍可愛がられて育った葉子には明らかに祖父コンプレックスがある。力石に昔の祖父のイメージを重ねて、彼に肩入れしていたことは間違いない。葉子の冷徹な表情には、強い男を、自分の統制下において庇護者として君臨したいという欲望がにじみでている。
 ちなみに、この漫画に葉子の父親は一回しか登場してこない。精神分析すれば、あまりにも強い祖父によって、その息子(葉子の父)はすでに殺されており、葉子はその敵である祖父を倒す為に、祖父以上の強い男を育成して、祖父に立ち向かわせようとしていたのだということにもなる。が、力石はジョーとの闘いに勝利はしたが、その後遺症によって死んでしまう。
 力石徹の体は大きく描かれた。これはボクシングを知らなかった作画者のちばてつやがそのように描いてしまったと伝えられている。ジョーはバンタム級、ジョーとリングで闘うために力石は常識を越えた減量を強いられた。二階級を越えた減量は医学的には死を意味する。力石は自らの死を覚悟してジョーとの闘いに臨んだことになる。この無謀な減量を強いた張本人に葉子がいる。力石が極度の減量に苦しみ、ついに発狂状態に陥って水を求めて暴れ出した時、すべての水道の蛇口を針金でしっかりと結んでいたのが葉子であった。いわば、力石を死へと誘導した張本人が葉子である。描かれざる、力石が抱え込んでいた闇も深かろうが、それ以上に深い闇を抱えていたのが白木財閥の令嬢葉子である。
 葉子は、ジョーがすでにパンチドランカーになっていたことを直感して、「ボクサーの健康管理研究における世界的権威」であるキニスキー博士に相談している。博士は、ジョーはパンチドランカーでないと診断するが、葉子の直感の方があたっていた。葉子は、愛を告白してまで、ジョーにホセとの闘いを止めるように懇願する。が、完全燃焼を願っているジョーに葉子の言葉は聞き入れられなかった。
 描かれた限りで読めば、ジョーもまた葉子を好きなことは明白である。ジョーは葉子が好きな男を知っている。葉子が好きな男は、紀子が結婚相手に選んだマンモス西のような男ではない。命を徹底的に燃焼する男、パンチドランカーの症状を自覚していてさえも戦い抜くことを選ぶジョーのような男を葉子は愛するのだ。闘い終えたジョーが、血で染まったグローブを葉子にプレゼントするのは、それが葉子に向けての何ものにも代え難い〈愛の証〉だからである。このグローブこそがジョーの魂、命であった。葉子は、ジョーから命の証を手渡されたのだ。葉子は敬愛する祖父が成しえなかった〈勝利の証〉(完全燃焼の証)を、愛するジョーから手渡された。葉子はこの時、ジョーと共に永遠の命を得た。葉子が真にジョーを愛していたなら、彼女にとっても〈今後〉はない。
 しかし、女は一筋縄ではいかない。白木葉子という女を『あしたのジョー』という漫画世界から解放すれば、葉子が次なるジョーを求めて生きることは明白である。葉子が男に絶対性を求めて、そこに殉教するような女であったならば、力石徹が死んだ時に自らの命も絶っていただろう。葉子は実業家として、興行者として、プロデューサーとして精力的に生き続ける女である。そのことでしか、葉子もまた完全燃焼できない女なのである。葉子は、〈リングに死んで永遠の命を獲得したジョー〉と闘えるボクサーを発見すれば全精力を傾けて育成しなければ気のすまない女である。葉子は、ジョーのグローブで完結するような女ではない。力石徹とジョーの亡霊を背負って、なお未来に向かって生きていく女である。が、『あしたのジョー』に、葉子が陰の主役となる続編が出現する余地はまったくなかった。

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 講談社漫画文庫『あしたのジョー』第1巻のカバー表紙と扉には、ジョーが読者に背を向けたまま振り返っている上半身が描かれている。ジョーが身に付けている帽子、コート、肩に掛けたザックについてはここでは触れない。わたしが、今、ここで問題にしたいことは、ジョーが振り返っていることだ。振り返ったジョーの顔を見つめれば、彼の瞳はしっかりとこちらの瞳を見つめてくる。ジョーの振り返ったその顔は、彼を見る者に対して挑発的である。ジョーは黙って、読者に背を向けたまま過ぎ去っていくことはできない。この顔は読者を試している顔である。俺は完全燃焼する人生を生き切る、おまえはどうなんだい、といった顔である。
 ジョーはこの世界に〈孤児〉として投げ出された存在である。〈孤児〉は東京のドヤ街へと流れ着き、そこで丹下段平と出会う。ジョーは本来、漂泊者として一カ所に留まる存在ではない。ジョーはどこまでも流れ流れていく存在でなければならなかった。しかし丹下段平と出会うことによって、ジョーの漂泊者としての性格は変容を迫られる。否、ジョーの〈漂泊者〉としての性格が明確に浮き彫りにされたと言うべきであろうか。
 つまり、ジョーは丹下段平をも乗り越えて漂泊し続けることができなかったということ、ジョーは自分にふさわしい〈定着点〉を求めて漂泊していたということである。ジョーは行く手に障害物が現れた時に、それを無視して通り過ぎることができない。ジョーはその障害物を回避して自分の身の保全をはかることはない。ジョーはその障害物と闘わずにはおれない。ジョーはまず丹下段平と闘い、次にドヤ街のガキ大将太郎と闘う。ジョーは闘い、勝利を収めることで、自分の生きる場所を開拓していくタイプで、これは彼の持って生まれた性分である。
 舞台に登場したジョーは十五歳で無職である。ジョーはひとのものを盗んだり、喧嘩をしながら生きながらえている。漫画を読むかぎり、ジョーは自分の生き方をいっさい省みないし、将来の目標があるわけでもなく、ただ行き当たりばったりに生きている。まさにジョーはどぶ川の淀みに流れ着いたごみくずのような存在なのである。もし丹下段平と出会わなければ、そのまま朽ち果てていくような不良少年であった。
 ジョーの髪型は漫画のヒーローにふさわしい長髪でふさふさしている。その前髪は長く斜めに垂れているが、片目を隠すことはない。もし片目が隠されているようであれば、社会に対する拗ね者の側面が強調されることになる。ジョーは不良少年として登場してくるが、反社会的な刻印を押された存在ではない。ジョーは世を拗ねたニヒリストではない。カバー表紙に描かれた、振り返るジョーの瞳は汚れを知らぬ無垢な輝きに満ちている。ジョーはドヤ街に現れた〈純粋無垢〉な無宿者・漂泊者であり、やがて文字通り〈スター〉となっていく存在なのである。 
 わたしはドストエフスキーの愛読者であるから、ジョーの姿に『白痴』のムイシュキン公爵を重ねてしまいたい誘惑にさえかられる。ムイシュキンが十九世紀ロシアに降臨した〈真実美しい人間=キリスト〉として設定されていたように、ジョーもまた二十世紀日本の首都東京に現出してきた〈純粋無垢な存在=キリスト〉に見えないこともないからである。が、おそらく原作者高森朝雄と作画者ちばてつやに、ジョーとキリストを重ねる発想はなかったであろう。

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 ジョーは闘う不良少年で、喧嘩を売られれば必ず買う。その場から逃げ出したり、勝つために策を弄するようなこともしない。いわば、考える前に行動を起こす単純な少年であって、その単純さ故に多くの子供たちや若者の支持を集めたと言っても過言ではない。『あしたのジョー』が発表された期間(「少年マガジン」1968年1月1日~1973年5月13日)は、いわば学生運動や革命運動が盛んな時と重なる。暴力革命を正当化していた革命運動家たちにとってみれば、暴力を否定しないジョーは彼らの英雄的存在とも見なされる側面を持っていた。
 ジョーは暴力以外の方法で問題を解決しようなどと考えたことはない。ジョーは暴力に対してはいつも暴力で対抗する。ジョーにとって暴力は忌避するものではなく、正義とすらなっている。が、ジョーは思考する少年ではないので、自らの暴力を革命思想と結びつけるようなことはしない。ジョーはいわば〈思考停止〉したヒーローであって、読者もまたこの〈思考停止〉を共有することで、ジョーの暴力(やがてそれはボクシングの格闘に移行する)を共に生きることになる。
 『あしたのジョー』において、ジョーの〈暴力〉〈格闘〉を非難する者は一人もいない。〈暴力〉は前提として肯定されている。言い方を変えれば、登場人物や読者に許容される範囲で〈暴力〉が描かれているということである。漫画的誇張はあっも、作品内暴力の行使によって人間が死ぬことはない。ジョーがボクサーとしてグローブを付けるまで、彼は常に素手で喧嘩している。ナイフやピストルを使わず、あくまでも素手で相手と闘うことが、ジョーにおける喧嘩の美学である。おそらく、この喧嘩の美学は原作者高森朝雄梶原一騎)のものでもあったのだろう。彼はこの喧嘩の美学を根底から疑ったりはしない。彼がプロレスラーの力道山極真空手大山倍達に惹かれたのも、自らの美学に共通するものを見ていたからであろう。高森朝雄にとって男は肉体的に強くなければならない。喧嘩を売られて引き下がるような男は男ではないのである。少なくとも『あしたのジョー』において〈非暴力〉の強さなどは一顧だにされていない。
 高森朝雄は中途半端にブスブスとくすぶっているような生き方、マイホーム・パパに代表される小市民的な生き方を断固拒否して、闘い続ける男に最高の価値を置く。ジョーは原作者の理想の男像を体現している。が、『あしたのジョー』最終頁のコマ絵に体現された〈完全燃焼〉した姿は、原作者の後の生涯に深刻な影響を与えた。原作者は、作品内で自己完結したジョーと共に死ぬことはできなかったからである。生き続ける原作者は、自らが創作したジョーの言葉「あとにはまっ白な灰だけがのこる‥‥燃えかすなんかのこりゃしない‥‥まっ白な灰だけだ」に打たれ続けるほかはない。『あしたのジョー』が完結したのが1973年5月13日号、その時高森朝雄は37歳であった。高森朝雄(本名・高森朝樹)がなくなったのは1987年1月21日(享年50)、実に13年にもわたって彼はジョーの言葉に打たれ続けたことになる。

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 ジョーは不良少年であるが、完全なアウトローではない。斜めに被った赤いハンチング、肩に掛けたナップザック、半コート‥‥粋なマドロスさんの旅姿を思わせるこの出で立ちは、ジョーが社会と反社会の境界域を生きる者であることを語っている。完全なアウトローに社会復帰は閉ざされている。彼は社会秩序を支える掟によって処理され、まるで初めから存在しなかったかのように埋葬されてしまう。ジョーの出で立ちは、後に彼が批判した〈中途半端〉そのものを晒している。やくざ世界にあてはめれば、ジョーは要するに半端者であって、組組織の中枢に食い込むことのできないチンピラである。社会秩序の側にも属せず、やくざ世界にも属さない浮浪少年(不良少年)など、漫画世界以外のどこにおいても生きられないし、ましてやヒーローになどなれるものではない。
 ジョーがヒーローになれたのは、丹下段平の言葉を受け入れて、拳にグローブをはめたからである。この〈グローブ〉こそが、半端者のチンピラ浮浪者を社会秩序の側に引き入れた。拳で喧嘩していくら勝利を収めても、それは所詮、ガキ大将の延長でしかない。ドヤ街、少年鑑別所、高等少年院で、ジョーは次々にボス的存在を叩き潰して頭角を現すが、そんなことは社会秩序の側にとっては痛くも痒くもない。ジョーが社会の中で輝くためには、丹下段平の差し出した〈グローブ〉をはめ、厳しい練習を積み重ねて、リング上で勝利を収めなければならないのである。
 
 丹下段平は異形なる者である。右目はギョロ目、左目は失明して黒い眼帯をまるで海賊のようにつけ、額には大きな傷跡が刻まれている。頭はつるっパゲ、大きな口に大きな出っ歯、上唇の両端に剃り残した髭が張り付いている。黒いダブルの背広を着込み、杖をついている。幅広の帽子でも被せればまさに海賊の船長そのものである。大海原で海賊どもを仕切っているのが最もふさわしいような風貌の男が、今や、ボクシング界を追放され、ドヤ街のはずれの泪橋の下にボロ小屋を建てて住んでいる。日雇い労務で日銭を稼いでは酒に溺れている丹下段平ではあったが、ボクシングに掛ける夢だけは捨てずに生きていた。
 この丹下段平とジョーが出会い、組むことで、物語は展開していく。今、〈出会い〉と書いたが、この〈出会い〉の場面が面白い。ジョーは公園のブランコに乗ろうと思って、まるで子供のようにはしゃいで公園へと続く階段をのぼろうとする、とその瞬間、何かに蹴つまづいて倒れる。この〈何か〉が、酔いつぶれて階段に寝ていた段平であった。つまり、丹下段平はジョーが〈ブランコ〉(子供の世界)に行こうとするのを阻止して、〈ボクシング〉(大人の世界)へと導くために、〈階段〉(子供と大人の境界)に待ち伏せていたようなものである。
 『あしたのジョー』とは浮浪者ジョーが異形なる者丹下段平と組んで、社会秩序(ボクシング界)へと殴り込みをかけ、平らな段から、世界最高の段までのぼり詰めようとする壮絶な闘いのドラマであるが、その最初の出会いの場面は重要な隠喩を潜めている。ジョーにとって丹下段平に躓いたことが、彼の人生における栄光の始まりであったと同時に、まさに〈完全燃焼〉という死をもたらす最初の決定的な〈躓き〉でもあったことを忘れてはならないだろう。

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 『あしたのジョー』最終場面をどう評価するかによって、丹下段平とジョーの出会いは文字通り〈躓きの石〉ともなり、栄光の一契機ともなる。ジョーとホセとの死闘に酔いしれた観客、そして読者の大半は、ジョーの〈完全燃焼〉を自分の生き方の手本とはしないだろう。高森朝雄が最も嫌ったマイホーム・パパのような庶民が、同時に『あしたのジョー』の死闘に酔いしれるのだ。ジョーの死闘に共鳴し、憧れても、その死闘はあくまでも漫画世界のヒーローのなせる術であって、それ以上でも以下でもない。彼らに待っているのは、死闘とはほど遠い日常での労働であり暮らしである。作品の中でそれを体現したのが紀子であり、彼女と結婚したマンモス西である。
 ホセ・メンドーサは世界チャンピオンが目標であったのではない。ホセはチャンピオンとなることで社会的地位、名声、金を獲得し、幸せな家族に恵まれた。ホセはチャンピオンであり続けることで、その豊かな生活の維持を願っている。ジョーのように、たった一度のリングに〈完全燃焼〉する情念を持ち合わせていない。ホセにとってボクシングは金を稼ぐビジネスであって、生きるか死ぬかの真剣勝負ではなかった。しかし、ジョーとの死闘において恥も外聞もなく反則行為に走ったホセ、試合後に髪を真っ白にしたホセに次の試合は不可能であったろう。ジョーの〈完全燃焼〉は勝者ホセ・メンドーサをもリング上から葬り去ってしまったのである。
描かれた限りでの表層テキストを見れば、ジョーの〈完全燃焼〉と共に自らの命を燃焼させた者に丹下段平がいる。ジョーが〈完全燃焼〉した後に、丹下段平に残ったものは何もない。彼もまた〈まっ白な灰〉と化した。そしてもう一人、試合前のジョーに愛を告白し、試合後のジョーに血にまみれたグローブを手渡された白木葉子である。彼女もまた、ジョーと共に命を燃焼し尽くした人間である。が、先に少し触れたように、白木葉子には前科がある。葉子は力石徹を愛し、力石徹に賭けていたのではなかったか。力石徹の死に燃焼仕切れなかった葉子が、ジョーの〈完全燃焼〉を共にしたとは断言仕切れない。
 テキストで葉子は「すきなのよ 矢吹くん あなたが!! すきだったのよ‥‥最近まで気がつかなかったけど おねがい‥‥わたしのためにリングへあがらないで!!」「この世でいちばん愛する人を‥‥廃人となる運命の待つリングへあげることはぜったいにできない!!」と告白している、が、白木葉子という女は最後の最後までこういうセリフを口にしてはならなかったし、ジョーもまた葉子に向かって「ありがとう‥‥」などと口にしてはならなかった。
 ジョーが〈完全燃焼〉した後にも、ボクシングのプロモーターとして冷徹に敏腕を振るってこその白木葉子でなければいけない。そうであってこそ、葉子はジョーの永遠のマドンナ足り得るのである。「すきなのよ 矢吹くん」などと口に出したその瞬間、葉子はマドンナから相対的な女へと化してしまう。これでは相対的な判断のもとにマンモス西と結婚した紀子と同じ次元に立ってしまう。葉子は、テキストの流れからいっても、「すきなのよ」などというセリフは絶対に口にしてはならなかった女性なのである。白木葉子は〈完全燃焼〉したジョーにさえ君臨し続けなければいけない。
 描かれた限りで見れば、葉子は〈完全燃焼〉したジョーに敗北している。ジョーはすでに死闘の果てに〈まっ白な灰〉になってしまっているのに、葉子はその灰になってしまったジョーからグローブをプレゼントされている。つまり葉子はジョーと一緒に〈まっ白な灰〉になれなかった、その一点において敗北している。生き残ってしまった葉子にいったい何ができるのだろうか。まさかジョーのグローブを応接間に飾っておくわけにもいかないだろう。それとも矢吹ジョー記念館でも建造するのであろうか。そんな生活こそ死にながらの生でしかあるまい。

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不良少年ジョーの実態を検証しておこう。ジョーが舞台に登場して来るまでにどのような〈不良〉を犯してきたのか、その具体例を知ることはできない。が、容易に想像することはできる。かっぱらい、無銭飲食、暴力沙汰ぐらいのものだろう。ジョーの出で立ちは、彼が定職についた経験のないことを示している。漂泊者(浮浪者)に定職は最も似合わない。ところで、ジョーが普通の不良と決定的に異なっているのは、酒と女と煙草に手を出さないことである。プロボクサーになってからも、ジョーは特別の場合を除いて酒・煙草をやらず、女にちょっかいをかけることもない。描かれた限りで見れば、ジョーはストイックな禁酒家で、女に興味のない童貞ということになる。この点に注目すれば、ジョーは青春期の男性を悩ます女性、飲酒、煙草問題を予め免除された存在ということになる。
 盗みに関しても、その場面は省略されている。唯一許された不良行為は喧嘩である。先にも指摘したように、『あしたのジョー』において暴力が根底的に糾弾され非難されたことはない。この漫画においてジョーの暴力は、法的な裁きを免れることはないが、その暴力自体は肯定されている。売られた喧嘩を買うということが、ジョーの喧嘩の美学であり、男の美学なのである。
 ジョーが表層テキストにおいてアルコールと性愛の重力から解放されていることが、ジョーの喧嘩に潔癖性を与えている。しかし、観点を変えれば、ジョーの喧嘩にはアルコールと性のマグマがたっぷり込められているとも言えよう。ホセ・メンドーサとの15ランドにわたる死闘は、白木葉子との性愛的格闘に重ねて見ることもできる。ジョーが最後に葉子に手渡したグローブは、完璧に精気を抜かれた男根の隠喩ともなっている。
 ジョーは漫画世界で成長し、ヘヤースタイルは同一性を保持しているが、その顔つきや体は明らかに変容している。が、ジョーは〈十五歳〉から成長を続けても、酒に溺れず、女に性愛的欲求を感じて煩悶することもない。この意味で、ジョーはきわめて人工的な存在と言えよう。ジョーは酒・煙草・女そしてギャンブルに夢中になるような現実に生きる生身の青年をまったく体現していない。拳で闘う〈喧嘩〉からグローブをはめた〈ボクシング〉で〈完全燃焼〉するまで、ジョーはある意味、純血なヒーローであることを全うした人工的な存在であったと言えよう。

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 ここで改めて問題にしなければならないのは、『あしたのジョー』がエンターテインメント作品であるということである。この作品が「少年マガジン」に発表されたことは、主人公ジョーの性格をどうしようもなく規定することになる。この雑誌名が「少年マガジン」であるということは、出版社及び編集サイドが、読者対象を〈少年〉に置いていたことを示している。彼らは、読者層を小・中・高の生徒から上は大学生ぐらいまでを想定していたはずである。当時、ようやく漫画が市民権を得て、大学生や大人が漫画を読むことに抵抗がなくなりつつあった。手塚治虫とその門下たち(石ノ森章太郎藤子不二雄赤塚不二夫など)の諸作品、梶原一騎原作の『巨人の星』などによって、もはや漫画=子供の読み物という見方は完全に覆された。今や、漫画を一方的に〈悪書追放〉の対象とすることはなくなった。
 〈少年〉読者に酒、煙草、性、ギャンブル(競馬、競輪)大好きな主人公を設定するわけにもいかなかったろう。『あしたのジョー』は分類分けすればスポ根漫画(スポーツ根性漫画)ということになる。的を〈喧嘩〉(暴力)から〈ボクシング〉(格闘)に絞り、それにのみ邁進するストイックな男を主人公とすることで一貫している。乾物屋の紀子、白木財閥の令嬢葉子との関係などが発展して〈青春恋愛物語〉となることもない。ジョーは暴れん坊で、暴力で何でも解決しようとする単純・短絡的な性格の持ち主であるが、その〈暴力〉が相手に致命的な傷害を与えたり、死に至らしめるほど極端には発揮されない。少年鑑別所や高等少年院で酷いリンチにあったり、その倍返しをしたりして物語は進行するが、死に至った者は一人もいない。『あしたのジョー』において暴力は強烈な制御が働いており、設定された境界域を越えることはない。ジョーの顔はどんなことがあっても殺人者の貌に化すことはない。ジョーは『ハリスの旋風』の暴れん坊石田国松のキャラを継承している。国松が被っている学生帽をハンチングに変えて、少し大人っぽくすればジョーと瓜二つの顔ができあがる。ヘヤースタイルは全く同一である。ちばてつやの読者であれば、『あしたのジョー』を見たとき、すぐに石田国松の再来と思ったに違いない。
 つまりジョーは、少年漫画の主人公石田国松の性格を大きく逸脱できないという制約のただ中に誕生している。浮浪者からギャンブラー、暴力団員、殺人者といった経路は予め封鎖されている。ジョーは元ボクサー丹下段平と組んで、拳にグローブをはめる途を選ぶ。本物のアウトローへの途ではなく、グローブ一つで正規の秩序の中に生きようとした。ジョーに特別の人生観や哲学があったわけではない。ジョーは天性の能力、つまり喧嘩が強いという、その能力をボクシングに活かしただけである。
 『あしたのジョー』が多くの読者を魅了した最大の理由は、ジョーの壮絶なボクシングスタイルにある。それはホセ・メンドーサとの世界タイトルマッチで存分に発揮された。この試合に限ったことではないが、ジョーの繰り出すパンチはその一発一発が相手をマットに沈める威力をもって描かれている。現実にこのパンチをまともにくらったらすぐにノックアウトするだろうという強烈パンチを、ちばてつやは惜しげもなく何度も描いている。もちろん相手のパンチもジョーと同様に強烈である。観客は闘争本能を刺激され、夢中になって声援する。読者も観客と同様に興奮する。まるでその場にいるような臨場感を味わっている。ジョーとホセ・メンドーサの闘いだけに絞っても、彼らの繰り出す一発一発がサディズムの極地であり、打たれて歪み切ったその顔はマゾヒズムの極地である。特にジョーの場合は〈完全燃焼〉を願った試合であったから、それは〈死=エクスタシー〉に至る格闘そのものであった。家庭の幸福を願うホセ・メンドーサは〈死に至るボクシング〉をすることはできない。もし、ホセ・メンドーサを主人公としたボクシング漫画であったなら、いつまでも連載を続けることが可能であったろう。が、ジョーの〈完全燃焼〉は、それ以上の連載を許さない。ジョーのボクシングは、スポーツを、興行ビジネスを、恋愛感情を超えてしまった。
 こういった漫画を書いたしまった高森朝雄梶原一騎)、描いてしまったちばてつやはその後、いったいどのような作品を残したのか。興味のある問題だが、敢えてここでは触れないでおく。

※  ※  ※
 ジョーが舞台に登場した時、十五歳であることは記されているが、その後、ホセ・メンドーサとの闘いで〈完全燃焼〉するまでに何年経過しているかについては不明である。作者はジョーの年齢ばかりではなく、時代についても明記しない。ジョーが十五歳で舞台に登場したのは西暦何年何月のことであったのかはもちろん、あらゆる出来事がいつ起こったのか、その期日を明記しない。
 ジョーの年齢は曖昧だが、彼が漫画世界の中で成長していることは確かである。ところがドヤ街の子供たちはまったく成長していない。ジョーが来るまでガキ大将であった太郎はもとより、サチやキノコ、チュー吉、トン吉などのちびっ子たちが、数年経過してもまったく同じ姿形で描かれている。彼らは現実の子供と違って〈成長を止められた子供〉、すなわち〈永遠の子供〉として存在している。ジョーが最初から最後まで心を許したのはこの成長することのない〈永遠の子供〉たちであったことは注目に値する。
 ジョーもまた〈永遠の少年〉でありたかったに違いない。そうであればこそジョーは、いつまでも大人の社会や秩序に反抗的態度を取り続けられたからである。しかし、ジョーは両の拳にグローブをはめた時点で、大人社会に否応もなく組み込まれていくことになった。この点が、白木財閥の令嬢葉子と決定的に異なる。葉子は少女の頃から大人社会に組み込まれており、本来の少女性を喪失した存在としてジョーの前に現れている。葉子がジョーに惹かれたのは、彼が天性的に持っていた少年としての純粋性であったかもしれない。ジョーはその純粋性によって〈少年〉から〈大人〉へと脱皮することができずに完全燃焼した。葉子は〈大人〉から〈少女〉へと回帰できないままに、ジョーの完全燃焼に立ち会わなければならなかった。
 わたしは先にも記したように、ジョーに愛を告白する葉子は、葉子本来の性格から逸脱した偽装葉子にしか見えない。力石戦をはじめとして数々の試合をプロモートしてきた実業家葉子が、ジョーとの純愛の次元に生きることはできない。葉子は自らの内深くに封印されてしまった〈純潔な少女性〉を力石徹やジョーによってすらも解き放たれることはなかったのだ、とわたしは見ている。

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 ジョーはいったい〈何〉と闘っていたのか。漫画で描かれている対戦相手が〈誰〉であったのかは分かる。まず、ボクサーとしてリングにあがるまでの喧嘩相手は、丹下段平から始まって、ドヤ舞のガキ大将、黒姫会のチンピラ、少年鑑別所でボスを張っていたマンモス西、そして東光特等少年院で出会った運命の男力石徹ということになる。
 マンモス西まで負け知らずの暴れん坊であったジョーが、力石徹と戦って初めて屈辱的な敗北を喫することになった。力石徹は少年院に入る前は、ウェルター級のプロボクサーで13連続KO勝利を収めていた男である。いくらジョーが天才的に喧嘩が強くても元プロボクサー力石徹に勝てるわけがなかった。いずれにせよ、ここでジョーは最も得意な分野で最初の挫折を味わったことに間違いはない。
 十五歳になるまでのジョーは、すべての問題を〈暴力〉で解決してきた。従って力石徹に〈暴力〉に負けを喫したことは、ジョーの生きる価値、生きる規範を一挙に根底から突き崩すことになる。ここから立ち直るためには、丹下段平についてしっかりとボクシングの基礎を学び、必死の努力を重ねて強くならなければならない。以後のジョーの生の目的は、力石徹打倒に絞られる。
 『あしたのジョー』の主役は力石徹だと見なす熱狂的な力石ファンも 存在する。が、力石徹もまたジョーと同様にその過去は闇に包まれている。ジョーは十五歳で舞台に登場したが、力石徹はその年齢さえ定かではない。特等少年院に入っているからには未成年には違いないが、その年齢を特定することはできない。プロボクサーとしての戦歴が13連続ノックアウト勝ちということは分かっているが、何歳でデビューし、どれくらいの期間プロボクサーとして活躍したのか、何歳で少年院に入ったのか、運命的なジョーと力石徹の喧嘩はいつ(何年何月何日)行われたのか、そういったある意味基本的な情報が明確に記されていない。
 ジョーは鑑別所に送られる前、〈警察の者〉の口から「矢吹丈ーー十五さい。両親ならびに親族関係いっさい不明。数か月前ーーどこからともなくあらわれドヤ街に住みつく。鬼姫会のちんぴら数十名を相手にーー乱闘事件をおこすこと二度。その後‥‥もとボクサー丹下段平氏の保護のもとに風来橋の下で生活。生活費そのほかいっさいのせわを丹下氏よりうけ、また日に一度はボクシングのコーチをもうける。コーチをうけるとき以外の矢吹丈は、ドヤ街の子どもたち数十名をひきつれて町の各地に出没ーー○道路交通法違反をはじめ○恐喝○脅迫○詐欺○横領○窃盗○器物破損などの罪科をかさねる」という不明だらけの簡単な履歴と数々の罪状が報告されている。
 力石徹の罪状は、興奮してヤジをとばした観客を殴り重傷を負わせたということだが、こと履歴に関しては何も語られない。読者に報告されるのは、白木ボクシングジムの白木葉子が、少年院を出た後の力石徹の面倒を一手に引き受けているということぐらいである。葉子が力石徹にそれほど力を入れているのにはそれなりの理由があるわけだが、作者は〈恋愛感情〉の次元ですら沈黙を守っている。葉子が力石徹に一人の男として惹かれているのかどうかすらあきらかにしていない。描かれた限りで見れば、白木葉子はプライドの異常に高いお嬢様で、力石徹に君臨する女王的絶対者の冷徹な表情を保っている。
 ジョーは文字通り〈孤児〉であるが、力石徹とてジョーと五十歩百歩である。年齢さえ報告されていない点において、力石徹はジョー以上の〈孤児〉とさえ言えるだろう。〈孤児〉力石徹が欲していたのは金、名声、社会的地位といったものである。白木葉子力石徹の欲望を叶えてやることを条件に彼を支配下に置いている。白木葉子力石徹に〈純愛〉のパイプは繋がれていない。繋がれていたにしても、力石徹の前にジョーが出現したことで、このパイプは切断されざるを得ない。
 葉子は白木財閥の力を最大限利用して君臨しているが、本当の意味での君臨を知らない。力石徹はボクシングビジネスを発展させるための有力な材料であり道具である。葉子は力石徹に性愛的魅力を感じ、それに応じる用意もできていない。『あしたのジョー』という少年漫画雑誌に発表された少年漫画において、白木葉子は純潔な処女としての聖性を保持し続けなければならないという約束事に支配されている。葉子が力石徹と性的に結ばれていたという〈裏舞台〉が存在していれば、『あしたのジョー』は一挙に実存的なリアリティを獲得することになったであろう。が、この少年漫画においてはジョーや力石徹の激しいとどまることをしらない性衝動は、すべてリング上で繰り出すパンチによって代行されている。

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 ジョーは素人時代に三回、プロテスト一回、プロになってから二十四回のボクシング試合を行っているが、そのすべての期日は記されていない。ホセ・メンドーサとの世界選手権は新聞にも大きく報道されるが、その新聞も〈刊スポーツ〉と不完全に記され、刊行年月日は完璧にはずされている。わたしのように毎日、日記を付けている者にとって、このように物語の中で出来事の日付を記さないことにまず違和感を覚えたのだが、おそらくそこには商業戦略としての理由があったに違いない。『あしたのジョー』はまず「少年マガジン」(1968年1月1日~1973年5月13日)の読者を相手に描かれている。雑誌の発売を今か今かと待っている読者にとって、ジョーが漫画世界で展開する喧嘩やボクシングは、まさに発売日の出来事としてリアルに受け止められる。特にボクシングの試合は、読者が〈読む時〉に展開されていなければならない。試合期日が過去であったり、未来であったりすればリアリティは半減することになる。試合会場でボクシングの一瞬一瞬に心躍らせる観客と同じ時間を読者に共有させるためには、敢えて試合期日を伏せておく必要があったということになる。
 ところで、わたしは『あしたのジョー』発表時の熱心な読者ではなかった。完結から40年以上も経過した2015年3月に、初めて全巻を読み通した。それで気づいたのは、ジョーのボクシング試合は〈時〉を超えていたということである。わたしは『あしたのジョー』を批評するために、ホセ・メンドーサとの試合を再読した。再読に一時間をかけた。試合に熱中し、途中でやめることができない。ジョーの闘いはひとの目を釘付けにする。そこで改めてそのことについて書きたくなった。
 ホセ・メンドーサはコンピューター・ボクサーと称される近・現代ボクシングを体現する象徴的存在であり、ジョーはドヤ街の浮浪少年からのし上がってきたボクサーで原始的野生の象徴である。ホセはボクシングの権威であり体制側に属する。それに立ち向かうジョーは反抗者の貌を崩さない。ホセ・メンドーサとの闘いに勝利を収めることは、永遠の反抗者ジョーには相応しくない。
発表時、学生運動が盛んで、一部の学生は過激な革命運動に身を投じていた。体制に不満な若者たちは、鉄パイプ、石礫、火炎瓶などで闘った。日本における革命運動の終焉を告げることになった浅間山荘事件は1972年(昭和47)2月19日~2月28日に起きた。この事件から約一年後にジョーは〈まっ白な灰〉となって燃え尽きた。まさに革命運動の最盛期にジョーもまた活躍していたことになる。
当時の革命戦士や反権力を標榜する多くの若者たちがジョーの〈完全燃焼〉的生き方に我が身を重ねるようにして生きていたとは言えるだろう。が、連合赤軍内ゲバ事件が明らかになるにつれ、日本人の大半は〈革命幻想〉から覚醒したとも言える。以後、若者たちは〈宗教幻想〉をオウム真理教サリン事件によって、〈金幻想〉をホリエモンの逮捕によって打ち砕かれ今日に至っている。

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 『あしたのジョー』の最終場面は、ひとは〈まっ白な灰〉になって燃え尽きた後、どのように生きたらいいのか、という極めて深刻な問題を突きつけてくる。小林秀雄は「「罪と罰」についてⅡ」で「ラスコオルニコフを知ろうと思うものは、先ずポルフィーリイに転身し、希薄になった空気の中で、不思議な息苦しさを経験してみる必要がある。息苦しさのなかに、希薄な空気の中に批評の極限の如きものが漂うのを感知するであろう」と書いた。ポルフィーリイは作中で予審判事として設定されているが、辛辣な心理分析者としてラスコーリニコフの犯罪を物的証拠なしに看破している。この男はまだ35歳であるが、ラスコーリニコフに「いったいあなたはなんなのか」と訊かれた時に「私はおしまいになってしまった人間です」(Я поконченный человек)と答えている。小林秀雄は『罪と罰』論の最後でロマ書から「すべて信仰によらぬことは罪なり」を引いている。まるでキリスト信者であるかのような批評の閉じ方をしているが、同時に「すっかりおしまいになってしまった」ポルフィーリイに批評の極限を見ている。小林秀雄は〈信仰〉と〈批評〉の揺らぎのただ中で『罪と罰』論を書いたが、その分裂そのものには批評の眼差しを注がなかった。
 わたしは〈まっ白な灰〉になってしまったジョーに、〈すっかりおしまいになってしまった〉ポルフィーリイを重ねている。ジョーはおそらくホセ・メンドーサとの闘いに完全燃焼して穏やかに〈死〉を迎え入れている。すでにパンチドランカーの症状を呈していたジョーが世界チャンピオンとフルラウンドを闘って生きているとは思えない。ジョーがグローブをはずして葉子に渡したことは、彼のボクシング生命がここで閉じたことを意味している。ジョーにおける〈復活〉は〈死〉そのものに中に体現されている。ジョーは今再び立ち上がって、この現実の世界で生きる必要はない。ところが、ポルフィーリイは〈すっかりおしまいになってしまった〉人間であったにも拘らず、予審判事としての役割を存分に発揮して生きている。この違いをどのように受け止めたらいいのか。
 ボクシングに限らず、プロのスポーツ選手は引退後の第二の人生をいかに生きるか、というのが大きなテーマとなっている。ジョーのようにリングで完全燃焼するボクサーは極めて稀である。パンチドランカーであったたこ八郎でさえ、由利徹の弟子となって喜劇役者としての第二の人生を歩んだ。世界チャンピオンになったほどの実力者は、引退後にボクシングジムを経営するなり、解説者として活躍することも可能だが、多くの場合はマンモス西のように普通の仕事につくことになる。ひとによってはヤクザの世界に踏み入れるか、『あしたのジョー』でも描かれているようなドサ廻りの〈八百長ボクサー〉になる場合もあろう。しかし、ジョーのようにボクシングに命を賭けて完全燃焼してしまったボクサーに第二の人生は用意されていない。〈まっ白な灰〉になった時点で人生は完結し、そのことで永遠性を獲得したのである。

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 ジョーの完全燃焼の試合の後では、どんなボクシングも色褪せてみえてしまう。世界ヘビー級チャンピオンとなったマイク・タイソンの試合は〈凄い〉の一言に尽きるが、あまりにも強すぎて、タイソンが燃焼する前に相手がマットに沈んでしまう。その意味では、どんなに凄いタイソンの試合もジョーのそれを超えることはできない。日本では強い野性的なボクサーが現れると、すぐにマスコミはジョーの再来などと囃したてたり、テレビ局などもまるで子供だましのような演出をして盛り上げたりするが、結局はジョーのイメージを超え出ることはできない。もはや、ジョーは漫画世界にのみ存在するボクサーではない。ジョーは現実のボクシング界にも異様な影響力を及ぼしている。漫画世界に登場した虚構のボクサーが現実世界のボクサー以上のリアリティを獲得してしまったのである。
 どんな天才的なプロモーターもジョーを超えるボクサーを作り出すことができない。虚構がリアルであり、現実がチンケな虚構に化してしまったのだ。『罪と罰』のラスコーリニコフが、殺人者のリアリティを、現実の殺人者の誰よりも強く深く体現してしまったことと似ている。ドストエフスキーの全作品を読んだ者には分かるだろう、現実に起きている様々な事件や出来事の大半がすでに描かれてしまっているのだということを。極端な言い方をすれば、リアリティはドストエフスキーが描いた虚構の側にあり、今日のジャーナリストのペンやテレビカメラがとらえた現実の映像にはない。ジョーの〈完全燃焼〉を、現実のリングで体現できるプロボクサーはいない。だからこそジョーの〈完全燃焼〉は、誰によっても相対化されない永遠性を獲得しているのである。
 問題は、ジョーの〈完全燃焼〉に立ち会ってしまった者たちが、その後、どのように生きていくかである。丹下段平はもはや第二のジョーを育て上げる微塵のマグマも残してはいないだろう。彼もまたジョーと共に燃え尽きて灰となってしまったに違いない。段平の余生はまさに生きながらの死である。白木葉子はどうだろう。彼女は真にジョーと共に燃え尽きたであろうか。わたしには葉子が燃え尽きたとは思えない。葉子にはジョーの死に同化し切れない余剰を感じる。葉子には葉子の、ジョーが死んだ後のドラマが展開されるような気がする。力石徹の死後も生き延びた葉子は、ジョーの死をも跨ぎ越えていく力を備えているように思える。葉子は男を不断に相対化しながら〈絶対〉視するようなところがある。ジョーから血と汗にまみれたグローブを受け取った時、葉子はジョーと解け合った瞬間を体験したかもしれない。が、葉子はその瞬間を永遠化して生きていくことはできない。葉子はその瞬間をも相対化して、さらなる絶対を目指していく、そのような女に見える。

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 ジョーが両手をだらりと下げてリングに立つ、そのスタイルについて考えてみたい。この姿勢は相手に奇妙な感じを抱かせる。闘うためにリングにあがっているのに、まるで戦意喪失したかのような姿勢を相手にとられれば不安を覚えるのも当然である。まったく戦意喪失した相手に致命的なパンチを繰り出すことははばかれるし、同時に両手ぶらりは見せかけの戦意喪失とも考えられる。ジョーはもちろん試合放棄しているわけでもないし、戦意喪失しているわけでもない。これもまた試合上の駆け引きであり戦略の一方法である。現に試合は続行されるし、ジョーの戦略は功を奏している。が、わたしがここで問題にしたいのは、そういった戦略上のことではない。わたしはジョーのこの姿勢と最後の〈まっ白な灰〉になって燃え尽きた姿が重なるのである。両手を下げた立ち姿をそのまま静かに横たえれば、ジョーの完全燃焼して息を引き取った姿になるだろう。漫画はニュートラルコーナーに座り続けるジョーの姿を描いて幕を下ろしているが、わたしの脳裡には静かに横たわるジョーの姿が浮かんでくる。
 ジョーの両手は闘うために使われた。彼の両拳は相手の顎を、顔を、胸を、腹を打ち抜くために繰り出された。『あしたのジョー』はジョーの死闘に多くの頁を割いた。読者の大半もまたその凄まじい死闘を求めた。ちばすすむの作画も、まるでジョーと一体化したような異様な熱気、妖気を感じさせる。ちばは作画を通してジョーと共に闘い、ジョーと共に完全燃焼したと言っていいだろう。
 人間の手は、闘うためだけにあるのではない。愛する相手を抱きしめたり、愛撫したり、考えるために腕組みしたり、腰に両手を回してリラックスしたり、料理したり、食事したり、トランプ遊びをしたりと、さまざまな使い方がある。ジョーの両手はほとんど喧嘩とボクシングに使われ、葉子や紀子には指一本触れることがない。ジョーはこと女性に関してはきわめてストイックで、紀子とデートした時も彼らの距離は決して縮まることはなかった。
 ジョーが女性と親密な関係を結べないのは、彼が幼くして両親を失い、孤児院をたらい回しされていたことに原因するのかもしれない。幼少時に両親や身近な者たちの愛を十分に注がれたことのない者は、他者に対してどのように愛を表現していいのかわからないということも考えられる。ジョーにおける主感情は怒りである。あたかも怒りだけが、ジョーの生きる糧になっていたのではないかと思えるほどである。ジョーは罵り合い、殴り合うことでしか、相手とコミュニケーションがとれない。良くとれば、ジョーは肉体を賭けて、本気で相手にぶつかっており、いっさいの妥協がない。一途で純粋であり、欺瞞がない。こういった人間は長生きできない。
 ジョーと本気で闘った者たちは、勝っても負けても、その本気の部分で深く交流し、強い絆で結ばれることになる。この絆は闘った者同士でなければ本当には理解できないであろう。マンモス西力石徹などはその代表的な存在である。西は途中まではジョーと同じプロボクサーの道を邁進するが、最終的には紀子との結婚を選ぶ。力石徹はジョーとの死闘の果てに試合には勝利したが、常識はずれの減量が災いして試合後まもなくして死んでしまう。力石徹の死は『あしたのジョー』の愛読者にショックを与えた。寺山修治が葬儀委員長となって力石徹の告別式が行われた。漫画の、それも主人公ではない一人物の告別式が計画され、実際に行われたということは特記すべきことである。
 試合中、試合後に選手が死ぬというスポーツはボクシング以外にないかもしれない。死の危険性がある極真空手異種格闘技戦の場合においては、死を回避するための厳しいルールがもうけられている。プロの格闘家は死に至る急所を知り尽くしているから、急所攻めは回避する。ボクシングはグローブをつけることで、拳の衝撃を緩和する手だてがされているが、パンチ力のあるボクサーが本気で殴り合いをするのであるから、死の危険性は大きい。ましてやジョーのように打たれても打たれても立ち向かっていくようなタイプのボクサーはパンチドラッカーになりやすい。死なないまでも廃人同様になってしまうのは必然なのである。
 ジョーはガードを固めて闘う防御型のボクサーではない。なるべく肉体の衝撃を避けて、相手にダメージを与えようとするテクニシャンではない。ジョーは試合に勝つこと、勝利を重ねて莫大な金を獲得しようなどという欲望に支配されたボクサーではない。その意味でもジョーはホセ・メンドーサとは対極に位置するボクサーであり、商業主義的な興行主にとっては決して望ましい存在ではない。ジョーとホセ・メンドーサとの世界選手権は、観客にとって最高の試合展開であったことは間違いないが、この試合が後のボクシング界に与えた影響のデ・メリットは計りしれないものがある。ジョーや力石徹の模造品は作り出せても、彼らを越えるボクサーを育て上げることはできない。これは単にボクシング漫画界のことだけにあてはまるのではなく、現実のボクシング界にもあてはまる。
 先にも書いたが、世界最強のボクサーと言われたマイク・タイソンの試合はかなり刺激的で圧倒されるが、しかし余りにも強すぎてリング上でのハラハラドキドキ感はジョーのそれとは比較にならない。ジョーのホセ・メンドーサ戦にまさる〈ボクシング〉はもはや虚構と現実の両世界において不可能のような感じさえする。極端な言い方をすれば、『あしたのジョー』の最終頁でボクシングは終わってしまったのである。

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 ジョーの魅力は〈死闘〉にある。この死闘はエンターテインメントの作られた死闘ではない。ボクシング漫画は現実のボクシング試合やボクサーの人生からヒントを得、その影響を受けながら、誇張化やパロディの手法を駆使して創造される。が、『あしたのジョー』以降の現実界のボクシングはもはやジョーや力石徹の死闘を実践することができない。出来うることは、彼らの模倣、それも中途半端な模倣にとどまるほかはない。リング上で燃え尽きて、たとえ命をなくしても、それさえジョーの二番煎じにしかならない。興行主、放映権を持ったテレビ局、そしてボクシングジムのオーナーやボクサー自身がいくら、魅力のある、観客を興奮の渦に巻き込むような演出・構成を考えても、もはや『あしたのジョー』のボクシングを越えることはできないのだということである。
 ジョーの試合、特に力石徹ホセ・メンドーサとの試合は何度でも繰り返し読むことができる。虚構のボクシングが現実を越えてしまい、現実のボクシングが虚構の模倣にとどまっている。となれば、ボクシングよりはプロレスの方がはるかにエンターテインメント性において勝っているということになりかねない。が、プロレスが敗戦後の日本において熱狂的に受け入れられたのは力道山時代のそれであって、今日のプロレスではない。
 わたしは力道山時代のプロレス人気を体験的に知っている。街頭テレビに群がったことは、さすがにないが、テレビ観戦はかなり初期の頃から観ている。当時のプロレスファンの大半はプロレスがシナリオのある興行と認識してはいなかった。多くの観戦者が、プロレスを四角いリング上での真剣勝負と見ていたのである。ウブと言えばウブ、バカと言えばバカの次元で、敗戦後の日本人は力道山プロレスに熱狂したのである。興行主にしてみれば、赤子の手を捻るよりも簡単であったろう。何しろ、白人の巨人レスラーに痛めに痛められた力道山が、最後の最後に伝家の宝刀、空手チョップで相手を瞬時にマットに沈めてしまうというシナリオ通りに事を進めさえすればよかったのであるから。
 日本人の大半は、勧善懲悪的なシンプルな筋書きに涙を流したり熱狂したりする傾向を持っている。力道山プロレスのシナリオは、対戦相手がいくら変わっても、この基本的な構図を変更することはなかった。試合開始のゴングが鳴って、すぐに力道山が白人プロレスラーを空手チョップでなぎ倒しても、観客を熱狂させることはできない。プロレスは試合時間(力道山時代は61分三本勝負)に制限されており、その時間枠の中で魅力的なシナリオ構成を実践しなければならない。テレビ放映が一時間しかないのに、それを越えた試合時間を設定することはあり得ない。プロレス興行は放映権を握ったテレビ局、プロレス団体、選手、スポンサーなどの思惑を抜きにして成立しない。ふつうの社会人としての常識を備えていれば、力道山プロレスが〈真剣勝負〉などと思うことはまずあり得ないはずなのに、当時、テレビで観戦していた大人たちはその常識をかなぐり捨てて力道山プロレスに熱狂したのである。力道山プロレスの場合、時代性や興行の常識を超えて、観客に訴えてくる何かがあったのだと思わざるを得ない。
 力道山北朝鮮の生まれで、日本で育ち、大相撲部屋に入門し、関脇にまでなった、将来を嘱望された力士であった。親方との折り合いが悪く、力道山は力士を廃業して、ハワイに渡り、そこで沖織名と知り合い、プロレスラーとしての道を歩み出すことになる。生い立ちといい、大相撲からの離反といい、力道山の内部に蓄積された憤怒と悲嘆のマグマは尋常ではなかったであろう。差別と虐待に耐えて堪えて、最後に強大な怒りのマグマを噴出させる。この試合スタイルは、力道山であればこそ熱狂的な支持を得られたのではないかと思う。
 ヒーローとなるための必須条件がある。日本で活躍するスポーツマン、芸能人に在日韓国人が多数存在することでも分かるように、ヒーローには〈異人性〉が不可欠である。将来、銀行員や公務員になるような生真面目な性格者が大衆の注目を浴びるヒーローとなることは不可能に近い。既存の社会秩序から排除された者、あるいは境界領域に生きざるを得ない者たちが、秩序の中に参入する一つの手段としてスポーツや芸能がある。
 ジョーが、もし普通の家族の一員として生育していたとしたら、わたしたちが『あしたのジョー』で見たようなジョーは生まれようがない。ジョーのようなヒーローは、〈単独者〉として〈孤児〉として〈異端者〉として、突然、世界の内に投げ出されなければならない。ジョーは時系列的に順序よく描き出されてはならない。ジョーの〈過去〉は本来、完璧に抹殺されていなければならない。もしくは神秘に包まれていなければならない。両親は行方不明、預けられた養護施設からの度重なる脱走‥‥ジョーの具体的な経歴はこの程度で十分である。舞台に登場してきた時の年齢〈十五歳〉は推定であり、名前の〈矢吹丈〉も戸籍上の正式の名前であるかどうかは分からない、そういった曖昧な設定であればなおよかったのだ。
 ヒーローは、身元が分かっていてはならない。それは神の場合と同じである。イエスはマリアの子供であるが、キリスト教は処女マリアが産み落とした子供であると教える。神の子イエスが、大工ヨセフとマリアの子供であってはならないというわけである。ジョーの両親や兄弟の顔、養護施設の諸々の顔が浮かんできたのでは、ジョーのヒーロー性が希薄化してしまうのである。得体のしれない少年が、突然、フラッと日本の首都・東京のドヤ街(辺境)に現れなければ、ヒーローとしてのジョーは成立しない。
 ジョーの両親が行方不明ということは、ジョーが血縁関係から解放された存在であることを意味している。預けられた養護院は国家の管理下に置かれた施設であり、ジョーがそこから何度も脱走したということは、彼が不断に秩序からの解放を願っていた存在であることを意味している。言わば、ジョーは自分を束縛するものから果てしなく逃亡を試みる者である。ジョーに自分の行動原理を語らせれば〈自由〉という一語に尽きるかも知れない。はたして自由であることは可能なのか。
 わけも分からず世界の内に投げ出されてしまった人間にはたして自由はあるのか。ジョーは流浪者であるが、あらゆる束縛から自由であったわけではない。人間は生きている限りは社会の枠組みから解放されることはない。社会秩序から逸脱した行為を犯せば、法によって裁かれる。現にジョーは道路交通法違反、脅迫、詐欺、横領、窃盗、器物破損等の罪で逮捕され、鑑別所から少年院、さらに特等少年院へと送られている。丹下段平力石徹との出会いがなければ、ジョーの一生は刑務所で終わったかもしれない。体制側の秩序に反抗する者は、逮捕され裁判にかけられ、結局は体制内の刑務所に収容されることになる。社会秩序から限りなく自由であろうとする試みは、それが合法的に犯罪と見なされれば、より過酷な秩序の檻の中へと放り込まれることになる。要するに、世界内存在にとどまる限り、自由はあり得ない。人間は秩序の中でしか生存できない。ジョーは何でも暴力で解決しようとするが、これは彼がきわめて幼児的な段階にとどまっているからで、当然、本来的な解決とはならない。
 そもそもジョーは明確な人生の目標を持って生きていたわけではない。何しろジョーは、過去を持たない〈ヒーロー〉として登場しているから、彼が十五歳になるまでどのような教育を受けてきたのか、どのような人間とどのように関わってきたのかさっぱり分からない。従ってジョーを実存的に理解することは困難を極める。過去のない人間はいない。記憶喪失者やある種の精神病者は過去から切断された現在を生きるほかない。が、ジョーは別に過去の記憶を喪失しているわけでもないし、ビンスワンガーの現存在分析の用語を使用すれば、頽落世界化した現存在として過去と未来から切断された切迫した時性を生きているわけでもみない。
 『あしたのジョー』の主要人物たちはジョーをはじめとして、丹下段平力石徹白木葉子など、彼らの過去が明確にされていない。読者は彼らの生年月日を知らず、家族関係を知らない。葉子は政財界で活躍する白木幹之介の孫であることは分かっているが、彼女の両親はほんの一瞬しか登場しておらず、いないも同然の扱いしかされていない。つまり、彼らは程度の差はあれ〈過去〉から切断された〈現在〉を生きている。ジョーの〈現在〉とは、リング上でまっ白に燃え尽きる、将に来るべき、この世界での最終的将来に向かってのそれである。力石徹の〈現在〉もジョーと同様、ボクシングを通して完全燃焼する将来へ向かってのそれであった。
 それでは、白木葉子の〈現在〉とは何であったのか。彼女の〈現在〉は、ジョーの〈完全燃焼〉へ向かってのそれであったろうか。描かれたテキスト通りに読めば、葉子はジョーの〈完全燃焼〉を共にしたように見える。が、先にも書いたように、わたしは葉子がジョーの〈完全燃焼〉に立ち会った存在であることは認めるが、〈完全燃焼〉を共にした存在とは思わない。この見方は、テキストに対する異議申し立てでもある。
 力石徹の死体を前にして白木葉子は次のような言葉を口にしている。

  力石くんが死んだのは‥‥だれのせいでもない。わたしが‥‥わたしが力石くんを殺したのよ‥‥どんな手を打ってでも‥‥この試合はやめさせるべきだった。それが‥‥力石くんの「男の世界のことだ」‥‥というひとことでひきさがって‥‥ひきさがっただけでなく、白木ジムじゅうの水道の蛇口に針金をまきつけーー地獄の苦しみにのたうつ力石くんの減量に協力さえしたわ。なんてばかなことを‥‥なんとおそろしいことをわたしは‥‥(5巻279~280p)

 力石徹の死後、ジョーも葉子もそのショックから立ち直れない。二人が出会ったのは、葉子が悲しみを紛らわすために通い詰めていたゴーゴークラブ「バロン」である。葉子はジョーに向かって次のように言葉を発している。

  自分のことをたなにあげるつもりはないけれど‥‥わたしは女、あなたは男。いいかげんにあまったれるのはやめて、目をさましたらどうなの、矢吹くん! 【怒りにかられたジョーは両手で葉子の襟首を締め上げ、「いつ、おれがあまったれた!」と大声をあげる。葉子は少しもひるまず、ジョーの目をしっかりと見据えて、言葉を続ける】はっきりいいます。あなたはリングでウルフ金串アゴを割り、再起不能にし、そしてまた力石徹をも死に追いやった、罪ぶかきプロボクサーなのよ。こんなところで酒にひたり、ぐちをこぼし、おだをあげてる気楽な身分ではないはずだわ! 【ジョーは気が抜けたように、葉子を壁に突き放す。葉子は壁にもたれたままさらに強い口調で続ける】このままでは男として義理がたたないでしょう。あなたはふたりから借りが‥‥神聖な負債があるはず! いま、この場ではっきり自覚なさい。ウルフ金串のためにも、力石くんのためにも、自分はリング上で死ぬべき人間なのだと! あなたはいま、リングをすてるつもりらしいけど‥‥そうはさせないわ! おそらく力石くんも、ウルフさんもゆるしはしないでしょう。わたしもだんじてゆるしません!(第6巻12~13)


 この二つのセリフを聞いただけでも、葉子の性格は明確である。葉子は力石徹やジョーのようには完全燃焼しないタイプの人間なのである。もし葉子が完全燃焼する女であれば、力石徹が死んだ時に、ボクシング関係の仕事からいっさい手を引いたであろう。力石徹はジョーとの死闘の果てに完全燃焼したが、〈力石くん〉と共に戦ってきた葉子は燃え尽きていなかった。葉子は政財界でのし上がってきた祖父白木幹之介の血を受け継いだ経営者である。企画・広報の能力に長けた敏腕プロモーターであり、ボクシングの一選手に血道を上げるほどうぶではない。葉子のような女は力石徹が死んでも生き続け、ジョーが死んでも生き続けるのだ。そうでなければ白木葉子の存在意味は失われるのである。力石徹力石徹の運命を生ききった。ジョーもまたジョーの運命を生ききった。葉子が自分の運命を生ききるとは、ジョーの〈完全燃焼〉に重なることではない。葉子は、まだ自分を生ききっていない、彼女はまだ〈まっ白な灰〉になっていないのだ。
 『あしたのジョー』を読み終わって、わたしが興味を抱いた最大の人物が白木葉子であった。ただし、描かれた限りでの葉子ではない。
 
※  ※  ※
 力石徹が死んだとき、『あしたのジョー』は幕を下ろさなかった。葉子もジョーも、力石の死に衝撃を受け、なかなか立ち直ることができなかった。力石徹は漫画世界の中の一人物でありながら、彼の死に読者の多くがショックを受け、その葬儀まで行われた。が、しかし、力石徹と共に死んだ読者はいない。力石徹の死を無駄死にさせないためにもと、ジョーは再び過酷な再起の道を歩み始める。敏腕プロモーター・葉子は、ジョーの対戦相手を次々に招聘し、ついにバンタム級世界チャンピオンのホセ・メンドーサとの試合にまでこぎつける。
 力石徹の死と共に〈完全燃焼〉できなかった者たちは、その後のジョーの試合に熱狂する。ジョーの壮絶な死闘に観客たちは熱狂する。ちばてつやの作画は見事に観客一人ひとりの表情をデッサンしている。が、彼らの熱狂は、自らの思いを他者に仮託することであって、自ら引き受けることではない。力石徹の死をいたく悲しむことはあっても、彼の死を引き受けた者はいない。彼らはジョーの〈完全燃焼〉に立ち会うことはできても、その〈完全燃焼〉を自らのものとして引き受けようとはしない。
 観客の熱狂のうちには、応援の声ばかりではなく野次馬的罵声や叫声が入り混じっている。彼らの多くは、日常の煩瑣と苦労を忘れて、熱狂的な祝祭時空での開放感を満喫したいと願っている。そのためにこそ、金を払って会場にまで足を運ぶのだ。プロの格闘技者は、こういった観客たちの欲望を満足させるための様々な技を持っている。リング上で死んだり、殺したりすることは、プロの格闘技者にとってはどんなことがあっても避けなければならない。ボクシングは観客のまったくいない場所での果たし合いではない。体重差による階級、グローブの選別はもとより、厳格なルールのもとで試合は行われる。死を覚悟して試合に臨むことは必須条件ではあっても、限りなくそういった事態にならないように配慮されている。
 力石徹の過酷な減量が、ジョーとの試合後の死の要因となったことは誰しも認めるところである。〈力石くん〉の減量に積極的に加担した葉子のプロモーターとしての責任は重大である。が、ジョーも、丹下段平も、テレビ解説者も、観客も、ボクシング関係者も、マスコミも白木ジムの会長・葉子の責任を追求する者はいない。葉子だけが「力石くんが死んだのは‥‥だれのせいでもない。わたしが‥‥わたしが力石くんを殺したのよ‥‥どんな手を打ってでも‥‥この試合はやめさせるべきだった」と悔悟の思いを口にしている。葉子が、こう言っているので、ひとが彼女の罪を責めづらくなっていることは確かである。しかし、葉子のこの言葉が説得力を持たないのは、ジョーにおいても同じ〈罪〉を犯しているからである。
 葉子は力石徹の死に懲りていない。葉子はジョーを唆し、〈リング上で死ぬべき人間〉と断言している。葉子はまるで魔性の女のように〈男〉の闘争心や、〈男らしさ〉に火を焚きつける。そうしておいて、自分の罪深さをみんなの前で嘆いてみせる。言わば、葉子はどうしようもない女なのであるが、この女の妖術に登場人物も読者もみんなかかってしまう。葉子の妖術に原作者と作画者が加担しているのであるから、この妖術から免れる読者は極めて稀であろう。葉子が、ジョーに愛を告白して試合を止めさせようとしたり、ジョーが「ありがとう」の言葉を口にしたり、試合後、ジョーがグローブを葉子にあげたりすることは、彼ら二人の存在を安っぽいメロドラマ仕立てに改変したということにほかならない。
 白木葉子はあくまでも冷酷なプロモーターとして、力石徹とジョーの二人を栄光の死へと演出構成した女でなければならない。その苦悩と悲しみをやぼなセリフを発することで汚してはならない。白木葉子力石徹とジョーの二人の天才的なボクサーをリング上で〈完全燃焼〉させた悪魔的なプロモーターとして記憶すべき女であり、センチメンタルな〈愛〉の欺瞞になどおぼれさせてはならなかったのである。

※  ※  ※
 ジョーに好意を寄せていた女性は葉子の他に、乾物屋の一人娘紀子とドヤ街のちびっ子サチがいる。葉子と紀子は作品展開に沿って成長していくが、ドヤ街のちびっ子軍団はサチを含め成長しない。彼らは永遠の子供として『あしたのジョー』に登場している。サチは女の子として純粋にジョーに好意を寄せている愛すべきマスコット的存在である。
 紀子は、漫画世界の人物でありながら、もっとも現実的な女性として描かれている。紀子に虚勢はないし、現実離れした野望に支配されることもない。食事の世話から、手作りパンツをプレゼントするなど、ジョーのために献身的に尽くすが、ジョーの〈完全燃焼〉のための同伴者となることはできない。紀子は典型的な世話女房型の女性で、彼女が望んでいるのは慎ましやかで幸せな家庭である。紀子はジョーの激しい燃焼型のライフスタイルについて行くことができず、プロボクサーの途に見切りをつけたマンモス西との結婚を選ぶ。もし、ジョーが女性に対して優しい配慮を見せるような男であったなら、紀子の心も激しく揺らいだであろうが、ジョーはボクシング一辺倒で、女と性的関係を結んで事態を泥沼化させるようなことはなかった。
 『あしたのジョー』は様々な制約がかかった商業漫画であり、その一つに性的側面がある。発表誌「少年マガジン」はタイトルが端的に示しているように、読者対象を〈少年〉に絞っている。上は、高校生・大学生を含むが、下は低学年の小学生もいる。あまり露骨な性的場面を描くことははばかれたであろう。しかし、漫画が文学作品と同等の位置を獲得するためには性的要素を排除するわけにはいかない。『あしたのジョー』にエロ漫画雑誌並の性愛的場面を求めはしないが、人間ジョーを、人間力石徹を、人間マンモス西を、人間白木葉子を、人間紀子を‥‥描こうとすれば、とうぜん性的側面もさまざまな手法を駆使して描かなければならない。
 『あしたのジョー』を描かれた場面だけで読めば、ジョーは童貞であり、白木葉子は処女ということになってしまう。もちろん、そうであっても一向にかまいはしないが、しかしそれではジョーも葉子も人間としては深みに欠けた存在にとどまるほかはないだろう。ジョーも、葉子も誕生日は不明であり、ジョーと力石徹の対戦日、ジョーとホセ・メンドーサとの対戦日に彼らが何歳であったのかを性格に判断することはできない。しかし十五歳で登場したジョーが、〈完全燃焼〉した時点で二十歳を過ぎていたことは明白であり、その間に何らの性的関係をもたなかったというのであれば、それこそジョーに何らかの肉体的欠陥があったということになろう。
 ジョーに限らず、丹下段平力石徹マンモス西など、すべての男性登場人物がこと女性に関してはストイックである。ジョーは力石徹の死後、悲しみ苦しみを忘れるために酒を呷ることはあっても、ギャンブルや女に溺れることはなかった。ジョーは暴れん坊の衣装をまとってはいるが、ある意味きわめて〈品行方正〉な男なのである。

※  ※  ※
 ところで、描かれざる人物の性的側面に照明を当てれば、『あしたのジョー』は単なるボクシング漫画の域を越えて、まさに人間のドラマとなる。力石徹白木葉子の関係をボクシングジムの会長と有力選手の関係と見て、その間にいっさいの性的関係はなかったと見るか、そうではなく性的関係があったと見るのでは、二人に対する印象はだいぶ違ったものになるだろう。
 描かれた限りで見れば、力石徹は葉子に惚れている。葉子は力石徹に対して圧倒的に優位に立っており、まるで女王様のように振る舞っている。葉子は鞭こそ振るっていないが、基本的には〈力石くん〉に対してサディスティックに振る舞っている。ジョーとの試合を成立させるために、異様に過酷な減量を力石徹に強いているのは葉子にほかならず、葉子が存在しなければ力石徹は減量に失敗していただろう。
 なぜ、力石徹はみずからの命を削ってまで無謀な減量にのぞんだのか。そこまでしてジョーと闘い、決着をつけたかったというのが、表層テキストでの説明である。
 多くの読者が力石徹の男気に惚れ、無条件にしびれた。が、人間はそんなきれいごとだけで命を賭けたりはしない。力石徹はふつうの人間がだれでも抱く野望を胸に抱いていた。チャンピオンになって金と名声を獲得しようとしていたし、現にそれを口にもしている。口にしなかったのは葉子に対する性的欲望だけだと言ってもいい。
 ジョーとの闘いに勝利すれば、いずれは葉子を自分のものにすることができるという思いが、力石徹になかったとは言えないだろう。葉子は聡明で美人であり、プロモーターとしても敏腕を振るっているが、力石徹が試合に勝ち続け、世界チャンピオンにまでのし上がれば、葉子との関係もいずれは違ったものになったであろう。約束はしないまでも、葉子と力石徹の間に暗黙の了解があったにしても不思議ではない。が、『あしたのジョー』における葉子と力石徹の関係は女と男の関係の深みに落ちていくことはなかった。
 力石徹とジョーの壮絶な闘いは、男と男の熱い絆、渾身のパンチを打ち合ったものにしか分からない男同士の、なにものにも代え難い友情へと昇華される。この力石徹とジョー関係は神聖な領域へと押し上げられ、力石徹の死によって絶対化された。力石徹の現世的な欲望(金、名声、女)など、まるではじめからまったくなかったかのように、誰も改めて検証しようとしないし、そんなことをすれば神聖な領域を汚す者として激しくバッシングされかねない。が、人間の問題はきれいごとですまされないし、すましてはいけない。力石徹やジョーを〈神〉のごとく祭り上げて、自らの存在を厳しく問わずにすまそうとする単なるファン(愛好家)になってはならない。
 『あしたのジョー』に童貞・力石徹と処女・白木葉子の純愛(愛と誠)、童貞・ジョーと処女・白木葉子の純愛(愛と誠)の、ボクシングを真っ正面に据えたドラマを見ればそれでいいのだというファンは多いだろう。が、わたしは『あしたのジョー』を批評の対象として選んだ時点で、人間のドラマとして読んでいる。いっさいの妥協も遠慮もしない。批評もまた壮絶な死闘であり、テキストとの真剣勝負なのだ。
 わたしの螺旋批評において、白木葉子はこれからも繰り返し照明を与えることになると思うが、今は、マンモス西との結婚を選んだ紀子を徹底的に検証してみたい。

 

日露文化交流としての「清水正・ドストエフスキー論執筆 50 周年」記念イベント 連載3 ソコロワ山下聖美

近況報告

今年も今日で終わり。相変わらずの神経痛の痛みとともに過ごした一年でした。2016年2月に退院してから丸四年間、痛みはまったく変わらず、思うような研究活動もできない状態が続いているが、『罪と罰』については書き続けている。来年中には『清水正ドストエフスキー論全集」第11巻を刊行したいと思っているがどうなることやら。

動画「清水正チャンネル」

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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清水正の著作はアマゾンまたはヤフオクhttps://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208で購読してください。 日芸生は江古田校舎購買部・丸善で入手出来ます。

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

 ドストエフスキー曼陀羅」9号刊行

特集 「清水正ドストエフスキー論執筆50周年」記念イベントを振り返る

2019年12月24日に納品。執筆者に手渡しする。

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清水正  小沼文彦  江川卓日大芸術学部文芸学科清水正研究室に於いて 1986年11月14日」)

今回は山下聖美さんの原稿を何回かにわたって紹介する。

日露文化交流としての「清水正ドストエフスキー論執筆 50 周年」記念イベント 連載3

ソコロワ山下聖美


第 43 回国際ドストエフスキー研究集会


  この展示のもと、第 43 回国際ドストエフスキー研究集会が 行われた。初日には、日本におけるドストエフスキーの特集 が組まれ、私は「想像を超える現象としてのドストエフス キー─清水正の仕事─」を発表させて頂いた。大学院生の 坂下さんは自らの研究について発表を行った。この日のメイ ンは、清水正先生のドストエフスキー論全集全 10 巻の展示と 贈呈である。アシンバエヴァ館長が挨拶において何度も、清 水先生に是非、博物館にいらして欲しいとおっしゃっていた ことが印象的だった。
  ちなみにこの展示と研究集会は在サンクトペテルブクク日 本総領事館が主宰する「第 15 回サンクトペテルブルク日本の 秋フェスティバル」の一環として行われており、いろいろな 宣伝もして頂いた。だからであろうか、来場者も多岐にわ たっていた。インターネットテレビ局のインタビューも受け ることとなり、「なぜ日本人はドストエフスキーが好きなの ですか」という質問に清水先生になったつもりで答えさせて 頂いた。ドストエフスキーの専門家ではない私が、こうして 偉そうに振る舞えるのはひとえに、清水先生の存在の大きさであろう。まさに、「虎の威を借る狐」だ。日芸文芸生な らば避けては通れないドストエフスキーの作品。頭を抱えカ オス状態になりながらも、読んでて良かった!   と、今回の 私のように感じる瞬間が学生たちの長い人生の中にもきっと 訪れることであろう。日芸文芸学科で   清水正先生のもと、 四十年以上にもわたって行われているドストエフスキーの授 業は、いつか世界の舞台に立った時に役に立つ、スケールの 大きなものであるのだ。


清水正ドストエフスキー論執筆50周年  清水正先生大勤労感謝祭


  第 43 回国際ドストエフスキー研究集会での発表を終え、私 は一足先に日本に戻り、芸術資料館での展示搬入にいそしむ こととなる。一方で院生の坂下さんは会期の間中すべての発 表を聴講し、充実した時を過ごしていたようだ。後に坂下さ んはサンクトペテルブルクに留学することとなる。このイベ ントの準備を通して、日露の文化交流を担っていく人材が 育っていったことは何よりも嬉しいことである。 ちなみに私もまた、〈生きる日露交流〉のような状態で、東 京とサンクトペテルブルクの往復を繰り返していたが、私の 不在中、大学にてイベントの切り盛りをしていてくれたのが 先に触れた高橋由衣さんと伊藤景さんである。彼女たちのうな優秀な参謀がいなければ、この企画は成り立っていな かったと確信できる。また、夫であるアンドレイ・ソコロフ 氏の協力も絶大なものであった。東京とサンクトペテルブル クに彼らのような心から信頼できる人材がいたからこそ、こ のイベントは成功し、「日露文化交流」も可能になったので ある。
  さて、芸術資料館での展示は順調にすすみ、いよいよ、 十一月二十三日が訪れた。「勤労感謝の日」であるこの日、 展示の特別企画として「清水正ドストエフスキー論執筆 50 周年   清水正先生大勤労感謝祭」のイベントを行うことを発 案した時は、なんというグッドアイディア!   と自画自賛し たものだ。祝日であり、卒業生も来場することができる。ま た、祝日のその日、大学の正面にはまるで清水先生のために といわんばかりに、国旗と学部旗がはためいていた。
  感謝祭の第一部は「今振り返る、清水正先生の仕事」とし て、資料館にて展示の紹介を含む式典を行った。ロシアから は、多大な協力を頂いたマリナ・ウワロワ氏と、アンドレイ・ ソコロフ氏にかけつけて頂き、お祝いの言葉を頂戴した。
  第二部は場所を教室へと移動し、「清水正先生による特別 講演   『罪と罰』再読」を行った。現役の学生、卒業生、教 員、「ドストエフスキー全作品を読む会」の方々、情報を駆 使し清水先生のドストエフスキー講義を聞くために京都大学 からやって来た学生等などなど、聴講者ほぼ全員がドストエ フスキーと清水先生の論を読んだことがある方々であった。
こんな空間で行われる講義は、非常に質が高く、濃密なもの であった。
  式典と講義については、映像記録を残している。現在大手 映像会社で監督として活躍中の髙橋将人さんを中心に撮影 チームを結成し、朝早くからいくつものカメラを回した。一 つ残念なことは、式典と講義が終了した後、清水先生ゆかり の中華料理店「同心房」で行われた懇親会の撮影を予定して おらず、映像記録を残せなかったことである。
  店を貸し切り、それでも入りきれないほどの盛況ぶりで あった懇親会は、笑いと涙にあふれた最高の空間であった。 全員が「一言」自己紹介と挨拶をしたのであるが、これだけ の人数がいながらも最後まで飽きることなく、「次はどんな 人がどのようなことを言うのか」と、参加者の個性に魅了さ れた懇親会であった。
  以上が二〇一八年十一月に開催されたイベントの詳細であ る。清水先生を本場ロシア・サンクトペテルブルクへと飛翔 させるという目的の第一歩を少しでも果たせたのではないか と思っている。次なるステップに進むために、現在、ドスト エフスキー生誕二〇〇年に向けてさらなる計画を練っている 最中だ。清水先生に再びご活躍して頂きながら、日露文化交 流をさらに推し進めていきたい。乞うご期待

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清水正ドストエフスキー論全集」全10巻 ドストエフスキー文学記念博物館に展示

 

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ドストエフスキー文学記念博物館

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「想像を超える現象としてのドストエフスキー 清水正の仕事」を発表する山下聖美氏

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発表後、ロシアのメディアからインタビューを受ける山下教授

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サンクトペテルブルクにあるドストエフスキー文学記念博物館