山下聖美 日露文化交流としての「清水正・ドストエフスキー論執筆 50 周年」記念イベント 連載2

動画「清水正チャンネル」

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

 ドストエフスキー曼陀羅」9号刊行

特集 「清水正ドストエフスキー論執筆50周年」記念イベントを振り返る

2019年12月24日に納品。執筆者に手渡しする。

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清水正  小沼文彦  江川卓日大芸術学部文芸学科清水正研究室に於いて 1986年11月14日」)

今回は山下聖美さんの原稿を何回かにわたって紹介する。

日露文化交流としての「清水正ドストエフスキー論執筆 50 周年」記念イベント 連載2

ソコロワ山下聖美


  清水正と日本におけるドストエフスキー受容


  今年、ドストエフスキー執筆 50 周年記念の年にあたると いう清水正は、日本のドストエフスキー受容の世界におい て、ひときわ個性的な位置を占める存在である。清水は、 日本大学芸術学部において教鞭をとりながら、「翻訳」や「ロ シア文学」という分野からは距離を置き、あくまで「文芸 批評」の分野においてドストエフスキーについての論を書 き続けている。清水は、著作を通して、人間という不可思 議な存在や、信仰の問題に真摯に向き合いながら、想像力 豊かに、ドストエフスキー作品についての独自の解釈を生 み出してきた。ロシアから遠く離れた東の地・日本におい て、五十年にわたる地道な執筆活動の末に生み出されてき た清水の著作から読み取れるものは、私たちの想像を超え る、ドストエフスキー文学の恐ろしい深淵だ。


  清水の個性を支えたのは、小沼文彦(一九一六~一九九八)と江川卓(一九二七~二〇〇一)である。小沼文 彦は『ドストエフスキー全集』の個人訳を約三十年かけて 完成させた翻訳者である。一方で江川卓は翻訳も手がける ドストエフスキー文学者であり、『謎とき   罪と罰』など の著作がある。彼らとの交流が清水のインスピレーション に影響を与えたことは確かであろう。
  また、彼らの背後に連なるのは、内田魯庵(一八六八~一九二九)(英語訳の『罪と罰』日本語に訳す。前半部分のみ)、中村白葉(一八九〇~一九七四)(日本で初めてロシア語『罪と罰』 を日本語に訳す)、米川正夫(一八九一~一九六五)(日本で最 初に『ドストエフスキー全集』の個人訳を完成)などだ。いず れも、日本におけるドストエフスキー受容の黎明期を支え た面々だ。
 「僕が翻訳を行いますから、清水さんは、どんどん、ド ストエフスキーについての批評を書いてください。」若き 日、小沼文彦にこう言われていたという清水は、その個性 を、先人たちの築き上げた翻訳活動の果てに花開かせたの である。清水の五十年の仕事は、偉大な文学者・ドストエ フスキーを生んだロシアと、偉大な文学を受容しようと緻 密な翻訳活動を行ってきた日本の、共有文化であると言え るだろう。(「ドストエフスキー曼陀羅」展パネルより)


  そして最後に触れたい展示物が、小山田チカエ作「S氏の 肖像」だ。鉛筆で描かれたこの肖像画には、若かかりし日の 清水先生の異様とも言えるドストエフスキーに対する情熱が 込められている。こんな絵を描いた小山田チカエは、ドス トエフスキーの世界に精通する画家であり、彼女が描いた 「ソーニャの肖像」はドストエフスキー文学記念博物館に所 蔵されている。
  同じ作者によって描かれた清水先生とソーニャ。一方は日 本に、一方はロシアに、それぞれが保存されていたが、先 立って開催されていたサンクトペテルブルクドストエフスキー文学記念博物館の展示にて、ドストエフスキーの肖像の となりに、並んで展示されたのであった。時を超え、国を超 え、二枚の絵は出会ったのである。その後、清水先生の肖像 画のみが日本に「帰国」し、サンクトペテルブルクにおいて の展示体験を静かに伝えるかのように、無事、展示されて いったのであった。


「想像を超える現象としてのドストエフスキー」展


  「S氏の肖像画」も出品されたドストエフスキー文学記念 博物館における「想像を超える現象としてのドストエフス キー」展では、博物館で所蔵する日本語のドストエフスキー 文献と共に、『清水正ドストエフスキー論全集』全十巻が大々 的に陳列された。これらは第 43 回国際ドストエフスキー研究 集会の期間中展示され、多くの来場者の興味を引いた。世界 中から参加した研究者、とくに私の印象では若い研究者にい くつか質問を受け、また、翻訳をしたいという話も受けた。
  このすばらしい展示が開催される前日の十一月八日、私た ちは博物館を訪れた。明日から開催準備であわただしい中、 いくつかの契約書にサインし、全集展示のための説明パネル を手渡した。これらのパネル作成にあたっては、大学院生の 坂下将人さんが大活躍した。清水先生のドストエフスキー論 を読み込んでいる彼には、内容の要約を担当して頂いた。こ れらはロシア語に訳し、全集とともに展示をし、多くの人の 目にふれることとなった。

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サインによると1978年とある。わたしが小山田チカエさんのアトリエを友人たちと訪ねた時に、チカエさんからいただいたものである。わたしが29歳の時ということになる。

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 ドストエフスキー文学記念博物館に展示された小山田チカエ「清水正の肖像」
 

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画面右はドストエフスキー文学記念博物館に展示された「清水正ドストエフスキー論集」全10巻

山下聖美  日露文化交流としての「清水正・ドストエフスキー論執筆 50 周年」記念イベント 連載1

動画「清水正チャンネル」

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

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ドストエフスキー曼陀羅」9号刊行

特集 「清水正ドストエフスキー論執筆50周年」記念イベントを振り返る

2019年12月24日に納品。執筆者に手渡しする。

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清水正  小沼文彦  江川卓日大芸術学部文芸学科清水正研究室に於いて 1986年11月14日」)

今回は山下聖美さんの原稿を何回かにわたって紹介する。

日露文化交流としての「清水正ドストエフスキー論執筆 50 周年」記念イベント 連載1

ソコロワ山下聖美


  二〇一八年十一月、清水正先生とドストエフスキーをめぐ るいくつかのイベントが日本とロシアの両国で開催された。 日本大学芸術資料館で開催された「ドストエフスキー曼陀羅」 展、「清水正ドストエフスキー論執筆 50 周年   清水正先生 大勤労感謝祭」、第 43 回国際ドストエフスキー研究集会の期 間中にロシア・サンクトペテルブルクドストエフスキー文 学記念博物館で開催された「想像を超える現象としてのドス トエフスキー」展(在サンクトペテルブルク日本総領事館主宰「第15 回サンクトペテルブルク日本の秋フェスティバル」関連事業)だ。 これらのイベントの企画から準備に至るまでの道筋を、ここ では記していきたい。

はじまり


  定年を迎えられる清水先生の区切りとして何かを行うこと は、数年前からの教え子たちや弟子筋の課題であった。ホテ ルで豪華なパーティー?   または文芸ラウンジで学生たちに 囲まれて和やかなパーティー?   まだ授業ももたれるし、あ まりに大げさに行うこともはばかられるし……   いろいろな 案を検討したが、「中身の充実、区切りとさらなる発展」と いうことに焦点を合わせることにした。
  具体的に動き出したのは二〇一七年の春くらいであっただ ろうか。
  まずは、芸術資料館にて清水先生とドストエフスキーの展 示を行うことを企画した。清水先生が授業「雑誌研究」において長年作り続けている雑誌の名前からとり、「ドストエフ スキー曼陀羅」展と命名した。展示開催中に特別企画として 「清水正ドストエフスキー論執筆 50 周年   清水正先生大勤 労感謝祭」を開催することも予定した。重要なのは、清水先 生の功績を国内のみではなく、本場ロシア・サンクトペテル ブルクへと飛翔させることである。そのためにはロシア・サ ンクトペテルクのドストエフスキー文学記念博物館の協力を 得ることが必要であった。
  たまたま私の夫であるアンドレイ・ソコロフ氏がこの博物 館の学芸員マリナ・ウワロワ氏と、大学の同級生であったこ とが幸いし、話はスムースに進んでいった。二〇一八年九月 に館長ナタリア・アシンバエヴァ氏に直接依頼をし、全面的 な協力を快諾していただいた。さらに、五十年間もドストエ フスキーについて執筆し続け、『ドストエフスキー論全集』 全十巻を世に出した清水先生に対して、驚きと賛辞の意を表 して頂き、二〇一八年十一月に行われる   第 43 回国際ドスト エフスキー研究集会に是非、参加して欲しいと依頼されたの であった。
  しかし、清水先生はここ数年神経痛に苦しんでおられ、長 時間のフライトに耐えられないという。そこで、私が代理に 参加し、清水先生の仕事について発表するのと同時に、『ド ストエフスキー論全集』全十巻の展示を、ドストエフスキー 文学記念博物館にて行う運びとなったのである。
  日本とロシアをまたに掛けた、清水先生とドストエフスキーのイベントはこうして企画され、約一年にわたる綿密な 準備の後、開催されたのであった。
  後に館長は、展示の挨拶文で次のように述べ、日露文化交 流の一端としてこれらの企画を位置付けた。


  このたびは、日本大学芸術学部芸術資料館にて、「ドス トエフスキー曼陀羅」展が開催されますことを、 ロシア・ サンクトペテルブルクの地より、お祝い申し上げます。
  また、日本大学芸術学部文芸学科において、長い間、 ドストエフスキーについて個性的で創造的な教育を行って きた清水正教授が、本年、ドストエフスキーについて批評 をされ続けて五十周年にあたることに対し、お祝いと、心 よりの敬意を表します。
  サンクトペテルブルクにあるドストエフスキー文学記念 博物館は、一八七八年から一八八一年までドストエフス キーが居住し、「カラマーゾフの兄弟」を執筆した記念す べき家に設立されています。世界各地から研究者やファン が訪れ、ドストエフスキー文学の聖地として知られていま す。
   今回の展示では、当館が所蔵する資料が紹介されます。 ドストエフスキー、そして彼が生活し、文学を創り上げ た、十九世紀サンクトペテルブルクの様子が、二十一世紀 の日本においてあざやかに再現されるはずです。
  一方で、十一月九日から十三日まで、当館で開催される第 43 回国際ドストエフスキー研究集会において「想像を超 える現象としてのドストエフスキー」と名付け、清水正教 授の「ドストエフスキー論」全十冊を展示致します。
  日本大学芸術学部ドストエフスキー文学記念博物館と のこうした交流が、日本とロシアの文化交流 の一端とな ることを心より願っております。(「ドストエフスキー曼陀羅」 展パネル「挨拶」より)

 

下記の写真は「清水正ドストエフスキー論執筆50周年」について報告する山下聖美教授。画面右はナタリア・アシンバエヴァ館長。左は通訳を担当したエカテリーナ・エフセエワ氏。2018年11月9日・ペテルブルクのドストエフスキー文学記念博物館に於いて。

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ドストエフスキー曼陀羅」展


  二〇一八年十一月十三日から三十日まで、日本大学芸術学 部芸術資料館で開催された「ドストエフスキー曼陀羅」展の 展示は大きく二つのテーマに分かれている。一つは、ドスト エフスキー「罪と罰」の舞台となる十九世紀サンクトペテル ブルクの紹介、二つは、清水先生の五十年にわたる仕事内容 の紹介だ。
  一つ目に関しては、まずは現在のサンクトペテルブルクの 写真をところ狭しと並べた。十七世紀にピョートル大帝によ りつくられたヨーロッパを代表する古都の一つであるサンク トペテルブルク。ある人はここを「美しく、切ない街」と呼 んだ。この麗しい街並みを多くの人に見てもらいたかったの で、滞在時に写真を撮りまくったものだ。大判印刷、パネル の作成には研究事務課の五十嵐智一さんやゼミの学生に多くの協力を得た。
  また、サンクトペテルブルクに滞在するたびに骨董市に 赴き、十九世紀の日用品を収集してまわった成果は「ソー ニャの部屋」をイメージした庶民の住居の再現として華開い た。この展示には相当の労力と金銭を費やしたと自負してい る。展示のために、現地の歴史博物館に何度も足を運び当時 の雰囲気の再現につとめた。また、時代考証や細かな検証は ロシア科学アカデミーピョートル大帝記念民族学人類学博物 館研究員であるアンドレイ・ソコロフ氏にお世話になった。 ソコロフ氏には、あの大きなサモワールをペテルブルクから 背負ってきていただいたものだ。部屋の椅子に配置されるロ シア風のかわいいクッションは卒業生の中原美穏子さんの手 作りだ。彼女には、卒業生をとりまとめる役割を果たしても らった。
  ドストエフスキー文学記念博物館から借りた「罪と罰」の 挿し絵の展示も大変貴重なものであった。作品内容が理解で きるように、数々の挿絵をストーリー展開にそって展示する 一方で、舞台となった場所の現在の写真もちりばめた。ま た、目玉として、展示室の奥の壁一面に、センナヤ広場が一 望できる挿し絵を張り出した。まるで十九世紀のドストエフ スキーの世界に入ったかのような錯覚に陥るような迫力であ る。ちなみに、この巨大印刷が納品されたときに、いったい どうやって貼るんだ、という大問題に直面した。その際に、 大学院生の石嶺くんがその地頭の良さと力技で壁にはりつけ、私たちをうならせたものであった。
  うならせたと言えば、部屋全体の半分を占める清水先生の 仕事についての展示を担当した当時の助手・高橋由衣さんの 仕事ぶりだ。大学院生の伊藤景さんのサポートのもと、長い 時間をかけ、御本人さえもが全貌をつかみかねる膨大な量に わたる清水先生の著作リストと年譜を作成して頂いた。この 仕事は、現在、校正者として活躍する高橋さんの偉業であ る。また彼女の偉業は、展示のカタログ雑誌「ドストエフス キー曼陀羅」の編集においても成し遂げられている。多くの 著者たちとのコンタクトと校正作業は誰もが舌をまくもので あった。
  それにしても清水先生の著作の展示は、圧巻であった。誰 もがここで、ドストエフスキーに出会い、〈書く〉という仕 事に全うした一人の人間の人生を目の当たりにしたことであ ろう。〈文芸〉とはこういうことだ、とやかく言わずにとに かく書け!   と突きつけられているような感じでもあった。 一方で、清水先生が所有する日本における初期のドストエフ スキー翻訳本や関連本の展示も行った。ドストエフスキー研 究史において大変貴重なものである。こうした翻訳史、研究 史の最先端に、清水正という批評家がいるのである。私は 「清水正と日本におけるドストエフスキー受容」と題して、 次のような内容のパネルを作成している。

《芸術の核ミサイル》柳原義達氏の彫刻「風の中の烏」

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撮影は清水正
《芸術の核ミサイル》柳原義達氏の彫刻「風の中の烏」

 

今年に入って一番衝撃的な出来事は、日大芸術学部に設置された彫刻「風の中の烏」である。

授業を終え、西棟を出てすぐにそれはあった。なんだこれは! である。日芸美術学科の主任教授を務めた柳原義達氏の作品である。柳原氏の作品は日芸創設者松原寛の彫刻や学内に飾られていた作品で見知っていたつもりでいたが、この「風の中の烏」と名付けられた作品は別格の衝撃力を備えている。大げさではなく、わたしの魂を直撃した。

この彫刻は塊、極限にまで凝縮された塊であり、恐るべき破壊力を秘めた核爆弾に匹敵する、否、それをも超えた塊である。わたしは日芸の庭に《芸術の核ミサイル》が令和元年五月に設置されたと強く感じた。風は超越的なるものの息であり精神である。自由で広大深遠な魂の領域に舞う〈烏〉が、今、日芸の地に翼を休めている。この〈烏〉が持つ恐るべき破壊力と創造力に親近性を覚え、魂の戦慄を感じる者は、この〈烏〉と共に果てしのない天空を舞うことになろう。

破壊と創造の両翼を広げ、江古田の地に降り立った日芸同志諸君、広大無辺の自然世界を、深遠なる精神世界を思う存分飛び続けようではないか。

「ドストエフスキー曼陀羅」9号は今年中に刊行する予定

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 清水正   小沼文彦   江川卓

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近況報告

相変わらずの神経痛で大学に行かない日の大半は部屋で横になっている。

ドストエフスキー曼陀羅」9号は今年中に刊行する予定で作業を進めている。去年、日芸の芸術資料館で開催された「ドストエフスキー曼陀羅」展示会の特集を組んでいる。主な内容を紹介しておこう。

ドストエフスキー曼荼羅」9号
     目次

ソコロワ山下聖美
日露文化交流としての「清水正ドストエフスキー論執筆50周年」記念イベント/4

此経啓助
文芸批評の王道  ――夏目漱石から清水正へ/16

下原敏彦
清水正先生大勤労感謝祭に伝説をみた
 ――清水正ドストエフスキー論執筆五十周年祭に想う――/32

山崎行太郎
ロシアの大地に接吻せよ――清水正小論/44

伊藤 景
ドストエフスキー曼荼羅」が始まって/51

清水正先生大勤労感謝祭」の宴/124

飯塚舞子

清水正が起こした奇跡/55

船木拓馬
「ネジ式螺旋」の只なかで/66
清水正ドストエフスキー論全集」体験記/69

浅沼 璞

罪と罰』体験記述十韻/80

上田 薫
干し草と幻想の街サンクトペテルブルグ/82

坂下将人
清水正試論
――Ф・М・ドストエフスキー罪と罰』、『白痴』、『悪霊』における接続と発展に関する考察/85

清水正
文学の交差点
ドストエフスキー文学の形而下学/135

その他、写真を多く掲載する予定である。

 

動画「清水正チャンネル」

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池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

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清水正の著作はアマゾンまたはヤフオクhttps://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208で購読してください。 https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208 日芸生は江古田校舎購買部・丸善で入手出来ます。

 

清水正への講演依頼、清水正の著作の購読申込、課題レポートなどは下記のメールにご連絡ください。
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https://youtu.be/RXJl-fpeoUQ

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

YouTube革命の時代(中田敦彦・立花孝志)

YouTube革命の時代(中田敦彦・立花孝志) 

2019/09/29 16:03現在、中田敦彦YouTube大学はチャンネル登録者数123万、内容は日本文学では夏目漱石の「こころ」、三島由紀夫の「仮面の告白」、芥川龍之介の「羅生門・鼻・地獄変西方の人」、世界文学ではシェイクスピアの「マクベス」、ギリシャ神話、日本の神話「古事記」、経済界では世界を変えた天才スティーブ・ジョブズジョブズを超える天才イーロン・マスクamazon創業者ジェフ・ベソス、SoftBank孫正義などをとりあげている。その他、世界史、日本史、漫画・アニメなど教材は驚異的に豊富である。
 立花孝志は「NHKから国民を守る党」党首で今や時の人、YouTubeチャンネル「立花孝志」の登録者は49,8万人と参議院選挙当選後、急速な伸びを見せている。立花氏は各界の有能な人たちにコラボを呼びかけているが、特にホリエモン堀江貴文・チャンネル登録者数56,2万)、DJ社長(【レペゼン地球】公式・チャンネル登録者数204万)、メンタリストDaiGo(チャンネル登録者数163万)、ヒカル(チャンネル登録者数346万)などが注目である。有能な大金持ちと、若くて賢い人気YouTuberたちとコラボする効果は絶大である。政治に無関心、または政治家をバカにして投票しない知識人や若者たちに刺激を与えることは間違いない。
 立花氏は日本第一党党首の桜井誠とも対談している。政治的主義主張を超えて対談の場に顔を出す立花氏の姿勢を右翼保守陣営の人たちも見習ってはいかがかと思う。小さな各保守陣営が互いにののしり合っている現状では現体制に揺さぶりをかけることはできない。立花氏の精力的な日々の活動を見ていると、「NHKから国民を守る党」がやがて日本(NIHON)を代表する「N国党」に育っていくのではないかとさえ思えてくる。わたしは個人的にはヒカルが好きなので、彼には政治・経済の分野に関しても大局的な視野に立った活躍を期待している。立花氏がヒカルやDJ社長にいち早く注目する、その政治的センスと積極的なアプローチもすばらしいと思っている。
 わたしは長年、日芸で教鞭をとってきたこともあり、中田敦彦氏のYouTube大学には多大の関心をもっている。中田氏のYouTube活動は、単にYouTube界のみならず、日本の教育現場にも革命を起こすに違いない。中田氏の身振り手振りを効果的に交えた、情熱的な授業・講義は面白く飽きさせない。彼は一日に一本のペースで動画を発信しているが、これは尋常な情熱ではない。しかも彼の動画は毎日コンスタントに1万ずつチャンネル登録者数を増やし続けている。まさに教育界におけるYouTube革命をまざまざと見せつけている。
 大学の大講堂で授業をしても千人程度の受講者しか集められないが、YouTube大学の視聴者は何十万、ものによっては百万を超える。もはや数では、大学の講義はYouTubeにまったく太刀打ちできない。今後、多くの研究者や教育者がYouTubeで発信することになるだろう。わたしは五年前、本格的にYouTubeで講義内容を発信するつもりでいたが、予期せぬ難病におそわれ、その計画をはんば断念せざるを得なくなった。因みにわたしの「清水正チャンネル」の登録者数は89人(笑)である。主にドストエフスキーに関して発信しているが、この人数が意味する現実をしっかりと受け止めてはいるつもりである。
 ヒカルは島田紳助を尊敬し、彼の成功するためには「才能+努力」が必要だという言葉に、更に「時流」を加え、今YouTuberはその時流に乗っているのだと説く。これだけでもヒカルがいかに自分の成功を客観的に冷静に分析しているかがわかる。成功をおさめるためには、才能+努力だけでなく時流に乗ることが必要だということ、これは成功を目指す者にとって金言であろう。
 ところでわたしであるが、わたしは毎日のように原稿を書いて、著書も百冊以上刊行しているが、売れることを考えたことはない。つまりヒカルの言う〈時流〉に乗ることなど考えたこともない。むしろそういったことを軽蔑する傾向にあるので、売れないのが当然なのである。原稿を書くのはいいが、校正は嫌いだし、出した後の営業などはまったくする気がおこらない。従って、本は見事に売れないし、YouTubeの登録者も現在89人にとどまっている。先日、長年わたしの授業を取っている大学院生に確かめたら、出席者の半数にあたる二人が登録していなかった。冗談でそれを責めたら、さっそく2名の登録者が増えた。
 YouTube革命のまっただ中にあって、わたしはチャンネル登録者数が100名を越えることを願って、今度授業で受講者たちにお願いしてみようかと思う。多少は営業もしないとね(笑)。

動画「清水正チャンネル」

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

 

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

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『罪と罰』のソーニャの部屋について話す。七十歳にして志賀先生、初めて『罪と罰』を読むことになるかも。

近況報告

 夏休み明け最初の日藝文士會(9月24日)に漫画家の志賀公江先生久しぶりの参加。

罪と罰』のソーニャの部屋について話す。七十歳にして志賀先生、初めて『罪と罰』を読むことになるかも。

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清水正 志賀公江先生 此経啓助先生

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志賀先生 此経先生 山崎行太郎先生

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

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「動物で読み解く『罪と罰』の深層」の第五回連載を発表。

近況報告

江古田文学」101号が刊行される。

わたしは「動物で読み解く『罪と罰』の深層」の第五回連載を発表。

前半部分を紹介しておく。全編は「江古田文学」でお読みください。

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■〈旋毛虫〉(трихина)

 〈理性と意志を賦与された旋毛虫〉に感染した者は各々が誰よりも自分を正しいと思い、お互いに争いをはじめる。やがてこの〈旋毛虫〉(трихина)の威力は地上世界全般に及び、結局人類は破滅してしまう。この恐ろしい夢をロジオンは監獄の中で見る。
 〈旋毛虫〉は豚の筋肉に潜んでいて肉眼では見えない。顕微鏡が発明されて初めて人間の目にとらえられた。ドストエフスキーはこの肉眼では見えない〈旋毛虫〉に〈理性〉(ум=知能)と〈意志〉(воля=自由)を与えることで、自らの作品に取り込んだ。
 人類を凡人と非凡人の二つの範疇に分け、後者を〈良心に照らして血を流すことが許された存在〉と見なした思弁の人ロジオンはすでに十分〈旋毛虫〉に感染した青年であった。ロジオンはあたかも絶対的な善悪の基準(物差し)を持っていたかのように、アリョーナ婆さんを社会に有害な一匹の〈虱〉(вошь)と見なして〈斧〉(топор)で叩き殺すことを自らに許可した。ロジオンは自らの基準を相対化することはできなかったし、アリョーナ婆さんに対して慈悲のある想像力を発揮することもできなかった。ロジオンが望んだのは自由であり、知力であり、権力への意志であった。
 ロジオンは十九世紀ロシア中葉にペテルブルク大学の法学部へと進学したエリートであり知識人である。ロジオンの知性は論理的に不整合なもの、たとえばソーニャが信じている「なにもしてくれない」〈神〉(бог)を受け入れることはとうていできなかった。極端に言えば、ロジオンの求めたものは神を否定した自由であり、権力の意志である。自由と権力の意志に基づいて生きる最高のモデルとしてナポレオンがあった。ロジオンは非凡人の典型としてのナポレオンの生き方を認め、それを継承する〈英雄〉(иродион)として生きる途を選んだ。しかし、この選択に現実的な自己検証はいっさいされなかった。
 ロジオンは現実の世界において権力を握る〈実際的精神〉(деловитость)のかけらも身につけていなかった。ロジオンは政治や経済に関して初な素人の域を一歩も出てはいなかった。ロジオンは屋根裏部屋の空想家の延長線上において学者や評論家の途が開かれていなかったとは言えないが、実際的精神においてはピョートル・ルージンの足下にも及ばなかった。
 〈旋毛虫〉は様々な性格の持ち主に寄生してその力を存分に発揮するだろうが、真の非凡人ナポレンに感染した場合と、屋根裏部屋の空想家ロジオンに感染した場合を同一視することはできない。が、いずれにしてもロジオンが監獄で見た夢の中に出現する〈旋毛虫〉の効力に変わりはない。夢の中でこの〈旋毛虫〉はあらゆる人間に感染する力を持ったものとして登場している。
 さて、この〈旋毛虫〉は〈神〉(бог)を無条件に信じているソーニャに対してすら感染する力を持っていたのだろうか。ソーニャの淫売稼業は〈理性と意志〉(ум и воля)に基づくものではない。ソーニャが淫売稼業に堕ちなければ、アル中の父マルメラードフ、肺結核の継母カチェリーナ、そして彼女の連れ子三人が路頭に迷うほかはなかった。ソーニャが河に身投げせず、発狂すらできなかったのは、彼女が一家の暮らしを全面的に支えなければならなかったからである。おそらく、未だソーニャは淫蕩の味を覚えてはいなかっただろう。
 私見によれば、ソーニャが真に男と肉体的に結ばれたのはロジオンとの〈嵐〉(буря)の時においてである。淫売婦ソーニャは殺人者ロジオンとの最初のセックスにおいて霊肉一致のエクスタシーを得たということである。このセックスは〈理性と意志〉を超えている。まさにロジオンはソーニャとの霊肉一致のセックスによって〈理性と意志〉を賦与された〈旋毛虫〉の感染力を防いでいる。
 作者ドストエフスキーは〈旋毛虫〉によって人類が破滅したと書いたが、何人かの者は生き延びたとも書いている。その言わば選ばれた者たちは、新しい人の族と協力して血で汚された地上の世界を一新する使命を帯びていたと書かれている。選ばれたる者の中に「愛によって復活した」ソーニャとロジオン、さらに二人をシベリアにまで追っていくラズミーヒンとドゥーニャが含まれていることは容易に想像できる。
 問題は新しい人の族である。彼らは神の国に存在するものであるが、具体的にイメージすることはできない。いずれにせよ、『罪と罰』を書いたドストエフスキーのビジョンのうちに、地上世界における人類破滅後の新しい人間世界の誕生と建設があったらしいことはうかがえる。
 さて、ロジオンの夢の中では〈理性と意志を賦与された旋毛虫〉はその威力を存分に発揮して全人類を破滅させたことになっているが、それから百五十年以上過ぎた今日においても人類は依然として地上世界に生存している。ただし、この生存は核兵器を手にした人類のもとでかろうじて保たれているに過ぎない。大国間において核兵器が使用されれば、間違いなく全人類は破滅の淵に追いやられることになる。〈理性と意志〉は人類を破滅に導く核兵器を製造するまでに至ったが、同時にこの〈理性と意志〉が核兵器の使用を抑制していることも事実である。人類はかろうじて〈理性と意志を賦与された旋毛虫〉の働きをコントロール下に置いているが、いつ、どこでこの〈旋毛虫〉が暴発的威力を発揮するかは予断を許さない。
 人類は火を手に入れて以来、火の多大なる恩恵に授かってきたが、同時に火の破壊的な力に脅かされてきた。今、火は核兵器にまで成長し、一歩間違えれば確実に人類を滅ぼす怪物的存在となっている。核兵器廃絶が叫ばれて久しいが、その願いが国家権力の中枢部に届いているとは思えない。人類は集合的無意識の次元で、存続願望を装いながら実は決定的な破滅をこそ願っているのではなかろうか。
 すべてのドラマには初めと終わりがある。人間は幕の降りない芝居を見続けることはできない。劇場に集まった観客の誰もがドラマの終焉を願っている。人類がこの地上の世界において永遠に生存し続けることが善とは言い切れない。自然は人類を誕生させ、そして終焉をぬかりなく用意している。人類が〈理性と意志を賦与された旋毛虫〉に感染するのが必然であれば、破滅もまた必然ということになる。ドストエフスキーはこの〈旋毛虫〉の感染を逃れた数人が生き延びたとしているが、この数人は果たしてどのような新世界を造り上げていくのだろうか。
ところで、〈理性と意志〉のない人間を、はたして人間と呼べるのだろうか。人間が人間として生きるとは、地上世界での喜怒哀楽を享受することであって、人間社会から悲しみ苦しみを排除してしまえば、もはやそこに人間のドラマはない。『罪と罰』に限っても、この世界にはソーニャのような信仰者が、理性と意志に支配された思弁家ロジオンが、すっかりおしまいになってしまったポルフィーリイ予審判事が、故妻マルファの〈幽霊〉(привидение)を視ることのできる〈現実に奇跡を起こす人・神〉(чудотворец・провидение)スヴィドリガイロフが、愛と赦しの神を信じる酔いどれマルメラードフが、熱くも冷たくもない金勘定優先のルージンが……各々の生を生きている。良いとか悪いとかの問題ではなく、各々の人間が自分の与えられた役割を存分に発揮して生きているということである。
 人類が滅びた後、再び人類が誕生したしても、人類が人類である以上は、同じような世界を構築するに違いない。わたしは、愛によって復活したというロジオンの新生活にいかなる〈幻想〉も抱くことはできない。ロジオンもまた〈現実〉を生きるべきであって、〈幻想〉に生きるべきではない。ロジオンとソーニャの〈愛による復活〉を用意したのは〈奇跡を現実的に起こした人〉(чудотворец)スヴィドリガイロフであったことを忘れてはならない。作者ドストエフスキーはロジオンを〈現実〉から〈信仰〉(вера)という〈幻想〉(фантазия)へと飛躍させたが、この飛躍そのものが〈幻想〉に見える。
 生きるということは地道なものだし、〈理性と意志〉に基づく堅実な生き方がある。この日常的な堅実な生の現場から、〈旋毛虫〉について考えてみる必要もあろう。
〈旋毛虫〉に感染すると〈理性と意志〉が本来の力を発揮することができず、宿主を発狂状態に追い込み、その結果、宿主が自分を誰よりも正しく優れた者と思いこみ、他の者を徹底して排除する。――ロジオンが監獄で見た夢の中の〈旋毛虫〉はこういった類のものではない。
 ロジオンの〈旋毛虫〉(трихина)は飽くまでも〈理性と意志を賦与された旋毛虫〉であり〈精霊〉(дух=魔)なのである。果たしてこの〈旋毛虫〉〈精霊〉は今までどこにも存在しなかった、あるいは発見されなかったものなのであろうか。豚の筋肉の中に潜む〈生物〉(существо)としての〈旋毛虫〉は十九世紀になって発見された。その意味ではこの〈旋毛虫〉は一微生物の域の中におさまるが、〈精霊〉(дух=魔)となれば異なった意味を持つ。
 自分を唯一正しい存在と見なすのは一神教の神にほかならない。この神は異教徒の殲滅を命じる絶対者であり、自らの唯一絶対性を微塵も疑わない。その意味ではロジオンの〈旋毛虫〉は一神教の神と同じ力を宿主に促していると言えよう。異なる点は、一神教の神は異教徒に対して容赦なく殲滅を命じるが、〈旋毛虫〉の場合は自分以外のすべてのものの殲滅を促すことにある。しかし、同じ神を敬い信じるキリスト教徒とイスラム教徒の壮絶な闘いの歴史を省みれば、一神教の神と〈旋毛虫〉は限りなくその同質性を晒すことになる。
 ユダヤキリスト教界に限らず、仏教においても法華経の唯一絶対性を主張して他のあらゆる宗派の殲滅を願う日蓮宗は〈旋毛虫〉と同様の力を内在している。日蓮宗各派の自己主張は凄まじく、その闘いの様相を目の当たりにすると、ロジオンの夢の中の〈旋毛虫〉の威力を感じざるを得ない。宗教における神や教典の唯一絶対性を信じて他を排斥する者は、〈旋毛虫〉に感染した者と同様の恐るべき狂気的な行動に駆られ、全人類の壊滅を招くことになる。彼らは各自の唯一絶対性を俯瞰的に眺めて、絶対を相対化することを知らない。
 自らの唯一絶対性を相対化すれば、たちまち絶対は絶対の座から追放されることになる。一神教の信徒や日蓮宗の信徒たちが自らの唯一絶対性をどこまでも貫こうとすれば、彼らは他を殲滅するまで闘い続けなければならないことになる。論理的には最終的に勝利したただ一人が生き延びることになる。が、生き延びたただ一人が、信奉する唯一絶対性に帰依することにいったいどんな意味があるだろうか。今日の政治、宗教状況を一瞥するに〈旋毛虫〉に感染した者もまた、その威力を十全に果たしているようには思えない。
さらにロジオンの夢で注目したいのは、理性と意志を賦与された〈精霊〉(дух=魔)が〈旋毛虫〉(трихина)という〈生物〉(существо)として人間の肉体に感染するという点である。〈精霊〉という本来、〈生物〉の範疇に属さないものが〈旋毛虫〉という肉体を獲得して出現することが面白い。これは本来、姿のない〈神〉(бог)がイエスという人間の姿を装って地上世界に現出することを思わせる。
 生前のイエスの場合は、特定の能力を備えた者にしか見えないということはなかった。イエスを神のひとり子と信じる者は極めて稀であったが、彼は誰の目にも〈人間〉に見えた。
 『罪と罰』の中では、狂信者ソーニャはイエスを神の子と見ていたであろうが、作者はこの点について明確に記していない。おしなべて『罪と罰』で問題になっている神は新約のイエス・キリストであって、試み、呪い、裁き、罰する旧約の神ではない。マルメラードフが地下の居酒屋でロジオン相手に饒舌に説いた愛と赦しの神はどこから見ても〈新約の神〉イエスである。ソーニャやリザヴェータが観る〈幻=видение〉も新約の神イエスであって、厳しく試み罰する旧約の神ではない。
 子なる神イエスは父なる神を絶対的に許容する者として振る舞いながら、時にヨブ的な懐疑と不信の言葉を父なる神に発している。イエスは未だ試み裁く父なる神を完全に超克できずにいる。その意味でイエスは旧約の神の幻影を引きずらざるを得ず、未だ完全な〈新約の神〉として自立できていない。
 ドストエフスキーはイエスをこの世界に現出した完全に美しく、合理的で、理性的で、完璧な唯一の存在と認めたが(一八五四年二月のフォンヴィージナ宛の手紙参照)、これはイエスの内部に秘められた父なる神に向けての懐疑と惑い(「ゲッセマネの祈り」やマルコ福音書15章が伝える十字架上での最後の言葉「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨て給うのか」)を無視しているとしか思えない。

 ドストエフスキーは真実美しい人間の具現化を目指して『白痴』のムイシュキン公爵を創造したが、彼が理性的で男性的な美しい人間とは思えない。ムイシュキンは他者の苦しみや悲しみに敏感に反応する青年だが、他者と共に苦しみ悲しむことはできても、他者をそこから救いだすことはできない。ムイシュキンは福音書に描かれたイエスよりもはるかに無力な青年で、いかなる奇跡を起こすこともできない。ドストエフスキーはムイシュキンをあくまでもひとりの人間として描いている。
 ムイシュキンはナスターシャが胸深くに秘めた悲憤を、彼女の傲岸不遜な振る舞いによって看過することはない。ムイシュキンが他者に向けるまなざしは〈悲しみ〉や〈怒り〉を見逃すことはない。が、そのことが救いの力になるとは限らない。ムイシュキンの果てしない〈同情・憐憫〉(сострадание)は他者をさらなる悲しみと苦しみに追いやることになる。