文学の交差点(連載35)○描かれなかったソーニャの淫売稼業

 

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

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ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

文学の交差点(連載35)

清水正

○描かれなかったソーニャの淫売稼業

 ソーニャの場合、描かれなかったのは最初の〈踏み越え〉ばかりではない。ソーニャは黄色い鑑札を受けて売春婦とならなければならなかったが、イワン閣下以外のどのような男たちと関係を結んだのか、どういうわけか作者はいっさい報告しない。読者は淫売婦ソーニャの稼業の実態――一日に何人の客をとったのか、場所、時間、値段、どのような避妊対策を取っていたのかなど――を何一つ知らされないままに、ソーニャという聖者(狂信者=聖痴女=юродивая)を分かったようなつもりで読んできた。

 ところで、『罪と罰』を愛読する小説家で描かれざるソーニャの〈踏み越え〉に興味を抱く者がいなかったことはどういうことだろうか。『罪と罰』は熱狂的に読まれてきたが、しかし大半の読者はテキストの表層をなぞる次元にとどまって、テキストに仕掛けられた謎を発見することも読み解くこともできなかった。ソーニャはその過酷な現実(淫売稼業)の実態に眼を向けられないまま、一人の信仰厚き〈聖女〉として受け止められてきた。わたしはソーニャを生身のソーニャとしてもきちんと見ていかなければいけないと思っている。

    もしドストエフスキーがソーニャの淫売稼業の実態を具体的に描いていたら、ソーニャの印象は全く違ったものになったかもしれない。描かれた限りで見た聖女ソーニャを、男たちはどのように抱いたのか。もちろんソーニャを買った男の数だけの抱きかたがあっただろうが、それを描くことは容易ではなかろう。

 丸谷才一瀬戸内寂聴が描かれざる「輝く日の宮」を創作したように、ソーニャの〈踏み越え〉や淫売稼業の実態を創作する衝動に駆られる小説家はいないのだろうか。わたしはそれを読みたいと思うと同時に、絶対に読みたくないという気持ちもある。ドストエフスキーが書くならまだしも、『罪と罰』を中途半端にしか読んでいない者に関わってもらいたくないという思いがある。

文学の交差点(連載34)○〈純潔な娘〉ソーニャの〈あんなこと〉

 

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文学の交差点(連載34)

清水正

○〈純潔な娘〉ソーニャの〈あんなこと〉

 マルメラードフは語る。

 

 で、私が見てますと、五時をまわったころでしたか、ソーニャが立ちあがって、プラトーク(ネッカチーフ)をかぶって、マントを羽織って、部屋から出ていきましたっけ。それで八時すぎになってから、また帰ってきたんです。帰ってくるなり、まっすぐにカチェリーナのところへ行って、その前のテーブルに黙って三十ルーブリの銀貨を並べました。そのあいだ一言も口をきこうとしないどころか、顔をあげもせんのです。ただ、うちで使っているドラデダム織(薄地の毛織物)の大きな緑色のショールを取って(うちにはみなでいっしょに使っているそういうショールがあるんですよ、ドラデダム織のが)、それで頭と顔をすっぽり包むと、顔を壁のほうに向けて寝台に横になってしまった。ただ肩と体がのべつびくん、びくんとふるえていましたがね……(上・42~43)  И вижу я, эдак часу в шестом, Сонечка встала, надела платочек, надела бурнусик и с квартиры отправилась, а в девятом часу и назад обратно пришла. Пришла, и прямо к Катерине Ивановне, и на стол перед ней тридцать целковых молча выложила, Ни словечка при этом не вымолвила, хоть бы взглянула, а взяла только наш большой драдедамовый зеленый платок(общий такой у нас платок есть, драдедамовый), накрыла им совсем голову и лицо и легла на кровать, лицом к стенке, только плечики да тело всё вздрагивают…(ア・17)

 

    カチェリーナが一方的に強制した、ソーニャの言葉で言えば〈あんなこと〉の具体はマルメラードフの口から直接に説明されることはない。が、どんな鈍感な読者でも〈あんなこと=身売り〉であることは分かるだろう。マルメラードフは「いったい貧乏ではあるが、純潔な娘がですよ、まともな仕事でどれくらいかせげるもんでしょう?……純潔一方で、腕におぼえのない小娘じゃ、日に十五カペイカもかせげやしませんや。それも、働きづめに働いてですよ!」(上・41)〔много ли может, по-вашему, бедная, но честная девица честным трудом заработать?… Пятнацать копеек в день, сударь, не заработает, есль честна и не имеет особых талантох, да и то рук не покладая работавши!〕(ア・17)と言っている。

 マルメラードフにとって娘ソーニャは〈純潔な娘〉(честная девица)、すなわち未だ男を知らない〈処女〉(девица)なのである。この〈純潔な娘〉ソーニャが〈まともな仕事〉で働きづめに働いても、日に十五カペイカにもならないとマルメラードフは強調していた。〈純潔な娘〉の〈あんなこと〉とはもちろん〈まともな仕事〉ではないが、〈第六時〉から〈第九時〉までの三時間(実質的には三時間以内)で銀貨三十ルーブリである。再就職を決めたマルメラードフの一ヶ月の給料が二十三ルーブリ四十カペイカである。いかにソーニャの〈処女〉が高く評価されていたかを忘れてはならない。  マルメラードフは告白の中でソーニャの〈踏み越え〉に関しては何ら具体的に語ることをしなかった。ふつうに読めば、ソーニャの最初の男がイワン閣下だとはなかなか特定できないのであるから、読者はソーニャの〈踏み越え〉前と〈踏み越え〉後のことしか分からない。作者はロジオンの場合と違って、ソーニャの内的世界にいっさい踏み込もうとしない。ソーニャは神を信じている娘として設定されているが、「汝、姦淫することなかれ」の神の命令に反して、カチェリーナの身売り要請に従わざるをえなかった。作者は、ソーニャの内心の苦しみに直に照明を当てることを完璧に回避している。 

     描かれざるソーニャの〈踏み越え〉に関して、読者は想像力の限りを尽くして思い描くほかはない。酔いどれてソファに横たわるマルメラードフの脳裏で実の娘ソーニャの〈踏み越え〉はどのようにとらえられていたのか。〈第六時〉から〈第九時〉までの三時間の〈踏み越え〉のドラマはマルメラードフにとっては地獄の苦しみであったろう。この苦しみを継母カチェリーナも共に味わっていたことだろう。彼らはソーニャの相手が誰であるかを知っているのだから。

 さて、次に問題になるのはソーニャの〈踏み越え〉の場所である。わたしは当初、その場所をイワン閣下の邸と思いこんでいたが、妻子ある高位高官のイワン閣下がソーニャと自分の邸で関係を結んだと思えない。やはり前もって特定した場所にソーニャを呼んだのであろう。アパートからその場所までの道のりをソーニャがどのような思いで歩んだか、その場所でソーニャはイワン閣下とどのような会話を交わし、どのようにして関係を結んだのか、対価の銀貨三十ルーブリはどのように手渡されたのか、どのような気持ちでその場所を後にしたのか。

 ソーニャの〈踏み越え〉の場面は読者の想像力をいたく刺激する。マルメラードフやカチェリーナの気持ちに寄り添えば、この場面は耐え難い地獄の場面となる。が、姦淫を絶対に許容しないキリスト者からすれば、ソーニャの〈踏み越え〉

(преступление)は許し難い〈罪〉(грех)の行為と見なされるかもしれない。マルメラードフの悪人正機説的な神学に馴染んでいる読者はソーニャの〈踏み越え〉に果てしない〈同情〉(сострадание)を覚えるだろうが、〈試み〉と〈裁き〉の神に帰依するキリスト者はこういった〈同情〉を厳しく拒むかもしれない。

 いずれにせよ、読者は〈踏み越え〉たソーニャの内心の苦悩を直に知ることはできない。神を信じているソーニャがイワン閣下に身売りしたことの〈罪〉(грех)をどのように受け止めていたのか。このことをソーニャは自分の口から語ることはなかったし、作者もまたソーニャの内心を代弁することはなかった。  ソーニャは自分のことを〈たいそうな罪の女〉(великая грешница)と言っているから、イワン閣下との〈踏み越え〉が〈罪〉(грех)であることは充分に認めている。ソーニャは不断に罪の意識に苛まれながら神へと帰依しているキリスト者なのである。

文学の交差点(連載33)○ソーニャとロジオンの〈踏み越え〉

 

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文学の交差点(連載33)

清水正

 ○ソーニャとロジオンの〈踏み越え〉

 ソーニャは〈おとなしい女〉(тихая Соня)と言われている。不条理な運命に反逆の狼煙をあげることなど思いもよらない。カチェリーナの理不尽な物言いにも真っ向から刃向かうことはない。ソーニャはカチェリーナの無遠慮な下卑た言葉に対して、静かな口調で「じゃ、カチェリーナ・イワーノヴナ、ほんとにわたし、あんなことをしなくちゃいけないの?」(上・42)〔Что ж, Катерина Ивановна, неужели же мне на такое дело пойти?〕(ア・17)と答える。この〈踏み越え〉前のソーニャの言葉は、わたしの中でロジオンの〈踏み越え〉前の独白「いったいおれにあれができるんだろうか?」(上・13)〔Разве я способен на это?〕(ア・6)と響き合う。

 ロジオンの場合、作者は彼の内部に照明を与え続けているので、読者は彼の自虐的な思い惑いの逐一を知ることができる。作者はロジオンの内的独白を続ける「あれはまじめな話なんだろうか? よせやい、なにがまじめな話なもんか。空想をもてあそんで、自分の慰みにしていただけじゃないか。つまり、玩具だったのさ! そう、玩具というのが、どうもぴったりするようだな!」(上・13)〔Разве это серьезно? Совсем не серьезно. Так, ради фантазии сам себя тешу; игрушки! Да, пожалуй что и игрушки!〕(ア・6)と。

 ロジオンにとって〈アレ〉(этоのイタリック体)は未だ決定的な事となっていない。ロジオンは〈アレ〉をめぐって何度も逡巡を繰り返すし、〈アレ〉の悪魔的妄想から解放され自由を満喫することさえあった。ところがソーニャの場合、〈あんなこと〉(такое дело)に微塵の躊躇も逡巡も許されてはいなかった。カチェリーナはせせら笑って言葉を投げつける「それがどうしたのさ」「なにを大事にしてるのさ! たいしたお宝でもあるまいに!」(上・42)〔А что ж, ――отвечает Катерина Ивановна, в пересмешку, ――чего беречь?〕(ア・17)と。

 酷い言葉だ。酒場に居合わせた酔客も使用人も主人も、そしてすべての読者がそう思うだろう。マルメラードフは聞き手すべての意識を先取りして、誰よりも真っ先にカチェリーナの弁護にたつ。彼は言う「けれど責めないでないでくださいよ、あなた、責めないで! あれは落ちついた頭で言ったことじゃない。気持がたかぶって、病気がひどいところへ、腹のへった子どもたちが泣きたてるなかで言ったことで、それも言葉どおりの意味というより、あてつけに言ったことなんです……だいたいカチェリーナはそういう気性の女で、子どもたちが泣きだせば、それがひもじくて泣くのでも、すぐにぶつんですから」と。もちろんソーニャもまたカチェリーナの気性をマルメラードフと同様に分かっている。ソーニャはカチェリーナからどんなに酷い理不尽な言葉を浴びせられてもいっさい口答えしない。

文学の交差点(連載32)○マルメラードフの告白から見えてくる秘密の数々   ――カチェリーナの〈踏み越え〉――

 

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

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文学の交差点(連載32)

清水正

 ○マルメラードフの告白から見えてくる秘密の数々

  ――カチェリーナの〈踏み越え〉――

〈最初の男=イワン閣下〉と解釈することによってそれまで明確に見えていなかった人物間の関係や役割が鮮明になる。マルメラードフ一家のアパートの家主アマリヤは単に家主であったばかりか、女衒ダーリヤ・フランツォヴナの手先となってペテルブルク中の淫蕩な高位高官たちの欲望を満たすために貢献していたことが分かる。

 ロシア最新思想の崇拝者レベジャートニコフは、〈同情〉(сострадание)などというものは本国イギリスにおいては学問上ですら禁じられていると公言してはばからなかった。ソーニャの継母カチェリーナは貴族女学校を優秀な成績で卒業した誇り高き潔癖な〈貴婦人〉(дама)である。いくら貧困に喘いでいるとはいえ、ソーニャに身売りさせるなどという屈辱を受け入れることはできない。が、この誇り高き〈貴婦人〉もアマリアの三回目の申し出を拒みきることはできなかった。

 ドストエフスキーの文学にあって〈三〉は神・神の子・聖霊の聖なる三位一体を意味するのではなく、イスカリオテのユダがイエスを裏切って手にした金貨〈三〉枚を意味する。つまり〈三〉という数字は〈悪魔〉〈裏切り・駆け引き・取引き〉を意味している。潔癖で誇り高きカチェリーナもまた遂に〈三=悪魔〉の声に屈してしまったのである。 〈貴婦人〉カチェリーナがソーニャに浴びせた「この穀つぶし、ただで食って飲んで、ぬくぬくしてやがる」(上・41)〔《Живешь, дескать, ты, дармоедка, у нас, ешь и пьешь, и теплом пользуешься》〕(ア・17)は余りにも下卑た言葉である。この屈辱的な言葉にソーニャは次のように答える「じゃ、カチェリーナ・イワーノヴナ、ほんとにわたし、あんなことをしなくちゃいけないの?」(上・42)〔Что ж, Катерина Ивановна, неужели же мне на такое дело пойти?〕(ア・17)と。 

 マルメラードフの口から語られるカチェリーナとソーニャのやりとりは凄まじくも悲しくもせつない。〈貴婦人〉(дама)と強調されたカチェリーナの口から吐き出される薄汚い言葉――この言葉だけでも貧困と病気に追いつめられたカチェリーナの疲労困憊、衰弱しきった実存が厭なほど浮き彫りになる。この言葉には誇りのかけらもない。  カチェリーナは悪魔の誘惑に乗らざるを得なかった。しかしここには一筋縄ではいかないカチェリーナの〈踏み越え〉のドラマも潜んでいる。彼女の〈踏み越え〉はソーニャの実の父親マルメラードフのプロポーズを受けたことである。彼女はマルメラードフを愛してもいなかったし尊敬もしていなかった。夫に先立たれ、幼い子供三人を抱えたカチェリーナはマルメラードフと結婚しなければ文字通り一家心中しなければならなかった。カチェリーナにとってマルメラードフとの再婚は自分では微塵も望まなかった〈踏み越え〉であったのである。カチェリーナの内心の声を拡大すれば『私だってあんたの父親のプロポーズを仕方なく受けたんだ。あんたが〈踏み越え〉たってバチなんか当たらないよ』ということになる。

文学の交差点(連載31)○ソーニャの最初の男(キリスト)

「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横無尽に語り続けようと思っている。

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清水正

○ソーニャの最初の男(キリスト)

 作品は読者の数だけの感想があり、一人の読者の内にも様々な感想がある。どれが正しい読みであるとは言えない。様々な〈感想〉〈解釈〉が 存在するだけである。これから少し厄介な問題に踏み込んでいこう。わたしは今までソーニャが最初に身売りした男は〈イワン閣下〉であると して批評を進めてきた。が、これも一つの〈解釈〉であって絶対的な事実ではない。 わたしはソーニャの最初の男に関してはもう一つ別の〈解釈〉も提示している。それは〈キリスト〉である。イワン閣下はマルメラードフの口から〈生神様〉(божий человек)と言われていたが、この言葉は字義から言えば淫蕩漢のイワン閣下より遙かに神の子イエス・キリストの方が近いということになる。

 ソーニャはロジオンが斧で殺したリザヴェータと〈秘密の会合〉を持っていたが、この会合と彼女たちが所属していたと思われる分離派の一つ〈観照派〉とを結びつけると、ソーニャの最初の男は観照派の男性信者の可能性も出てくる。観照派の秘密の会合においてキリストの霊に憑かれた男性信者をキリストと見れば、まさにソーニャの最初の男は〈キリスト〉ということになる。

 ソーニャの最初の男はイワン閣下なのか、それともキリストなのか。わたしはどちらが正しくてどちらかが間違っているかなどとは問わない。わたしは作品批評において様々な〈解釈〉を受け入れる。最初の男をイワン閣下と見なすことで一義化し固定化しがちなテキスト解釈を限りなく解放し、そのことで新たに開かれた領野に大胆に踏み込んでいく、それがわたしの批評の方法である。  

文学の交差点(連載30)○ソーニャの描かれざる〈踏み越え〉

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文学の交差点(連載30)

清水正

 ○ソーニャの描かれざる〈踏み越え〉

 罪と罰』でロジオンの〈踏み越え〉は現在進行形のかたちで描かれているのに、ヒロインであるソーニャの〈踏み越え〉は完璧に描かれていない。読者はロジオンの〈踏み越え〉は具象的な映像を観るようにみることができる。が、ソーニャの〈踏み越え〉に関しては〈踏み越え〉自体を失念してしまいがちである。ふつう読者は描かれている場面でその内容を把握するしかない。従って大半の読者はソーニャの〈踏み越え〉に特別な思いを寄せることもしない。しかし何十年にもわたって『罪と罰』を読み続け、テキストに向けて様々な疑問をぶつけていると、思いもかけないところに〈謎〉が仕掛けられていることに気づいたりする。ソーニャの〈踏み越え〉は実はマルメラードフの告白の中に潜んでいた。

 ソーニャの〈踏み越え〉に関しては今まで何度も言及しているので、ここでは簡単に復習しておく。ソーニャは午後五時過ぎにアパートを出て三時間後の八時過ぎに戻ってくると、黙ってテーブルの上に銀貨三十ルーブリの金を置く。ソーニャは処女を捧げる代償として銀貨三十ルーブリを得てきた。このことはマルメラードフの告白を読めば誰にでも分かる〈事実〉である。

 問題は、ソーニャの相手は誰であったのかということである。この問題に関しては小沼文彦、江川卓と三人でドストエフスキーをめぐって鼎談した時にも話題にのぼった。時は一九八六年十一月十四日、場所は江古田の居酒屋「和田屋」の二階の一室であった。この鼎談は「江古田文学」12号(一九八七年五月 江古田文学会)に掲載、後に『鼎談ドストエフスキー』(「ドストエフスキー曼荼羅」別冊 二〇〇八年一月 日本大学芸術学部文芸学科「雑誌研究」編集室)に採録した。この鼎談時、ソーニャの処女を奪った相手に関して三人ともに明確な説得力のある説を口にすることはできなかった。ソーニャの相手を特定したのは拙著『宮沢賢治ドストエフスキー』(一九八九年五月 創樹社)所収の「思いこみとソーニャの踏み越え」が最初である。

 ソーニャの最初の相手に関して、わたしは担当する講座「文芸批評論」の受講生やゼミ学生と何年にもわたって飽かずに議論してきた。ソーニャに密かに思いを寄せていたレベジャートニコフ、海千山千の淫蕩家スヴィドリガイロフなどの名前があがったが、結局、マルメラードフの告白の中では〈生神様〉(божий человек)と呼ばれていたイワン閣下ということになった。これは実に重要な発見で、ソーニャの相手がイワン閣下と特定できたことで、それまで見えなかったソーニャの〈踏み越え〉の場面が生々しく浮上してくることになった。 『罪と罰』が「ロシア報知」一月、二月、四月、六月、七月、八月、十一月、十二月の八回に渡っ連載されたのは一八六六年である。ソーニャの最初の男が〈発見〉されたのが一九八八年であるから、実に百二十二年の歳月を必要としたことになる。つまりイワン閣下は〈発見〉されるまでマルメラードフの言う〈生神様〉を演じ続けてきたことになる。ドストエフスキーのような天才級の作家の場合、テキストに仕掛けた謎自体を発見するのに一世紀以上の歳月を必要とするのである。宮沢賢治の場合もそうだが、彼らの作品は驚きあきれるほど表層的な次元で読まれてきた。

 本人以外でソーニャの最初の相手を知っていたのは実父マルメラードフ、継母カチェリーナ、家主アマリヤ、それに作中では名前でしか登場しなかった女衒のダーリヤ・フランツォヴナである。イワン閣下はペテルブルク中で知らない者がいないほどの淫蕩漢で、女衒のダーリヤはイワン閣下のような淫蕩な高位高官たちのリストを持っており、彼ら顧客たちの欲望をかなえられる娘を不断に探していたのである。

 貧しい家の若くて美しい処女ソーニャの値段が〈銀貨三十ルーブリ〉であった。そらくこの値段はダーリヤ、アマリヤの口からマルメラードフ、カチェリーナに予め伝えられていた可能性が高い。カチェリーナは最初のうちはアマリヤからの身売りの話を拒絶していた。が、三回目、ついにカチェリーナはこの〈取引き〉に応じてしまった。運命に従順なおとなしい女ソーニャは、黙ってアパートを出てイワン閣下との〈取引き・商売〉に応じ、以後、黄色い監察を受けて淫売稼業を続けなければならなかった。

 ソーニャとイワン閣下の性的場面はいっさい描かれていない。大半の読者はソーニャの〈踏み越え〉のことなどに特別の関心を抱かずに『罪と罰』を読み終えてしまう。主人公ロジオンの〈踏み越え〉があまりにも鮮烈な印象を与えるし、叙述の大半はロジオンの内面を通して描かれているのでソーニャの〈踏み越え〉自体を失念してしまうのである。

源氏物語』に関しては後で改めて詳細に検討したいと思っているが、紫式部はなぜ藤壷と光源氏の最初の〈契り〉の場面を描かなかったのか。この問題と『罪と罰』における描かれざるソーニャの最初の〈踏み越え〉を重ねて考えてみたい。『罪と罰』における〈踏み越え〉(престпление)を充全に検証するためにはロジオンの場合だけではなく、彼に大きな影響を与えたソーニャの〈踏み越え〉についてもきちんと見ておかなければならない。しかし、ドストエフスキーはロジオンの〈踏み越え〉のみを現在進行形で描き、ソーニャの〈踏み越え〉に関しては直接的な描写はしなかった。

 ソーニャの描かれざる〈踏み越え〉を具象的に浮上させるためには、ソーニャが身売りした相手を特定しなければならないが、先述したようにイワン閣下と特定するまでに百二十二年の途方もない歳月を必要とした。つまり『罪と罰』はソーニャの〈踏み越え〉に無関心のまま百年の長きにわたって読まれてきたということである。『罪と罰』の大半の読者はロジオンの〈踏み越え〉を中心に読みすすめ、ソーニャの〈踏み越え〉に関してはあまり注意を払ってこなかった。わたしは『罪と罰』に限らず、作品の描かれざる場面に多大の関心を寄せる読者であるが、このような読者は稀である。

文学の交差点(連載29)○描かれざる〈踏み越え〉

「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横無尽に語り続けようと思っている。

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

文学の交差点(連載29)

清水正

 ○描かれざる〈踏み越え〉

 『罪と罰』の原題は『преступление и наказание』で直訳すれば『犯罪と刑罰』である。我が国では内田魯庵が英訳タイトル『CRIME AND PUNISHMENT』を『罪と罰』と訳して以来、今日まですべての翻訳者がこのタイトルに従っている。〈犯罪〉(преступление)とは従来の風習慣習を打ち破ったり法律を踏み越えたりする事である。〈преступление〉を〈罪〉と訳すと、どうしても宗教的なニュアンスが濃くなる。宗教的な意味での〈罪〉は英語では〈sin〉、ロシア語では〈грех〉である。したがってフレデリック・ウィショウは『преступление и наказание』を原語通りに英訳したことになる。内田魯庵が『罪と罰』と訳したことで、わたしたちはこの作品のタイトル自体にも注意を向けなければならなくなったわけだが、ここでは〈преступление〉を〈踏み越え〉と訳して話を進めていく。

罪と罰』には主人公ロジオンの〈踏み越え〉、つまりロジオンの〈高利貸しアリョーナ殺し〉と〈リザヴェータ殺し〉が詳細に描かれている。しかしドストエフスキーはロジオンだけの〈踏み越え〉をこの作品で取り扱っていたのではない。実はマルメラードフの後妻カチェリーナ、スヴィドリガイロフ、プリヘーリヤ、ドゥーニャ、そしてソーニャの〈踏み越え〉などもきちんと視野において描いている。

 問題は彼らの〈踏み越え〉の場面が読者の誰にでも分かるようには描かれていないということである。はっきり言えば具体的には何一つ描かれていないのである。何一つ描かれていない場面が、にもかかわらずある種の想像力を働かせると実に鮮明にその場面が浮上してくるのである。真っ暗闇の中の出来事がある種の照明を当てると鮮明に立ち上がってくるのである。