文学の交差点(連載28)■描かれない場面をどのように構築し、どのように批評するか ――『罪と罰』の場合――

「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横無尽に語り続けようと思っている。

最初、「源氏物語で読むドストエフスキー」または「ドストエフスキー文学の形而下学」と名付けようと思ったが、とりあえず「文学の交差点」で行く。

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

f:id:shimizumasashi:20181228105251j:plain

清水正の著作はアマゾンまたはヤフオクhttps://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208で購読してください。 https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208 日芸生は江古田校舎購買部・丸善で入手出来ます。

 

清水正への講演依頼、清水正の著作の購読申込、課題レポートなどは下記のメールにご連絡ください。
shimizumasashi20@gmail.com

https://youtu.be/RXJl-fpeoUQ

(人気ブログランキングに参加しています。よろしければクリックお願いします)

これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

文学の交差点(連載28)

清水正

■描かれない場面をどのように構築し、どのように批評するか

 ――『罪と罰』の場合――

 源氏物語』にはたして「輝く日の宮」はあったのかなかったのか。あったとしてそれは紫式部が書いたのか、それともほかの誰かが書いたのか。あったものを誰がどのような理由で抹殺したのか。「輝く日の宮」をめぐってさえ様々な議論を展開することができる。不在の「輝く日の宮」に小説家が創作魂を刺激されることはよく分かる。わたしは瀬戸内寂聴の作品『藤壷』を検証することで、わたしなりに藤壷と光源氏、及び王命婦の秘密に肉薄したいと考えているが、今回は『罪と罰』を題材に〈描かれざる場面〉の問題について書いてみたい。『罪と罰』についてはすでに数回にわたって様々な角度から検証し続けているので重複するところもあるが、了解されたし。

 わたしが『罪と罰』に執拗な関心を抱いているのは、『罪と罰』が広大な闇の領域を潜ませているからである。ふつう、批評は描かれた場面について言及するが、それはまあ当然の事として、『罪と罰』には描かれていない場面がことのほか多い。『罪と罰』に描かれた事など氷山の一角に過ぎない。では何が描かれていないのか。大げさではなく、描かれていない事は無限にあるが、次に思いつくままに列挙してみよう。

 〇主人公ロジオンの幼少年時代の事が描かれていない。

 ロジオンは二十歳になって故郷リャザン県ザライスクから単身ペテルブルクに上京して来る。時は一八六二年、ロジオンが目指すペテルブルク大学は閉鎖中で受験できず、翌年の一八六三年に法学部に入学する。が、授業料未払いによって除籍処分を受け、下宿の女将から借りた百十五ルーブリも返せず、悶々として屋根裏部屋生活に甘んじている。ロジオンがペテルブルクに上京してからの出来事すべてが明確に描かれているわけではないが、しかし大体のことは察しがつくように描かれている。ところが幼少年時代に関しては〈痩せ馬殺しの夢〉の場面で触れられるだけである。

 ロジオンは学校に通っていたのか、それとも家庭教師について勉強していたのか。家庭ではどのような生活をしていたのか。友達はいたのか。父親はロジオンが幼い時分に亡くなっているが、何が原因だったのか。病死なのか事故死なのか。夫亡き後、プリヘーリヤは年金百二十ルーブリで幼い二人の子供を育て上げるが、その実態はどうだったのか。美しい未亡人プリヘーリヤ、美しい少女ドゥーニャが村人たちからどのような眼で見られていたのか。要するにドストエフスキーはロジオンの幼少年時代に特別の照明を当てていない。この描かれざるロジオンの幼少年時代を浮上させるためには現にある『罪と罰』を執拗に読み返し、想像力を限りなく発揮して〈構築〉するよりほかはないのである。

文学の交差点(連載27)■描かれない場面をどのように読むか。

「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横無尽に語り続けようと思っている。

最初、「源氏物語で読むドストエフスキー」または「ドストエフスキー文学の形而下学」と名付けようと思ったが、とりあえず「文学の交差点」で行く。

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

f:id:shimizumasashi:20181228105251j:plain

清水正の著作はアマゾンまたはヤフオクhttps://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208で購読してください。 https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208 日芸生は江古田校舎購買部・丸善で入手出来ます。

 

清水正への講演依頼、清水正の著作の購読申込、課題レポートなどは下記のメールにご連絡ください。
shimizumasashi20@gmail.com

https://youtu.be/RXJl-fpeoUQ

(人気ブログランキングに参加しています。よろしければクリックお願いします)

これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

文学の交差点(連載27)

清水正

■描かれない場面をどのように読むか。

    現在までのところ「輝く日の宮」は発見されていない。従って「輝く日の宮」実在、非在に関する諸説に関係なく、わたしたちは今ある『源氏物語』を読むしかない。とは言っても、『源氏物語』というテキスト自体が様々あり、どれか一つのみを絶対とすることはできない。しかも現代人にとって古典語で書かれた『源氏物語』は一種の外国文学に近い。そこで注釈書や翻訳本を参考にして読むことになる。現在入手可能な注釈書だけでも中央公論社朝日新聞社岩波書店、新潮社、小学館角川書店勉誠出版などから刊行されているし、翻訳も与謝野晶子谷崎潤一郎、窪田空穂、円地文子田辺聖子橋本治瀬戸内寂聴大塚ひかり今泉忠義、玉上琢弥、尾崎左永子、中井和子、林望角田光代などが試みている。

 様々な原典、注釈書、翻訳など現在入手できるすべてのテキストを読んで『源氏物語』を研究している研究者がはたしているのだろうか。厳密に検証しようとすればするほどテキストの迷宮に呑み込まれにっちもさっちもいかなくなる。限られた人生のなかで、どのような方法で研究を進めるべきか。

 わたしが初めてドストエフスキーの作品を読んだのは新潮社文庫、米川正夫訳『地下生活者の手記』であった。別に米川正夫訳で読もうと思ったわけではない。たまたま地元の小さな本屋の棚にそれが置いてあっただけのことである。以後、わたしはドストエフスキーの作品の多くを米川訳で読んだ。最初の批評本『ドストエフスキー体験』を刊行した頃は〈翻訳〉などということに全くこだわっていなかった。ドストエフスキー文学=米川正夫訳で何の疑問も感じなかった。〈翻訳〉ということを意識し始めたのは江川卓が雑誌「新潮」に謎解きシリーズのドストエフスキー論を連載した頃からである。それまでわたしはドストエフスキーの文学は米川訳で充分に理解できると思っていた。  学科の教授からロシア語で読まないドストエフスキー研究などあり得ないと言われても、心の底から納得することはできなかった。米川訳で『罪と罰』を読んでも、わたしは充分過ぎるほどラスコーリニコフを体感することができたし、ポルフィーリイ予審判事に共感することができた。外国文学作品は原語を学べばより深く理解することができるのだと一言で片づけられない問題を孕んでいる。作品を享受するにはもちろん対象となるテキストが存在しなければならないが、しかし〈読者〉の存在も大きい。作品を読む読者がどのような読者であるかが問題である。

 わたしの最初の著作は『ドストエフスキー体験』であって『ドストエフスキー研究』ではない。しかもわたしは十七歳から五十年以上に渡ってドストエフスキーを読み続け批評し続けている。生涯をかけてドストエフスキーを読み続ける読者がたまたま最初に読んだのが米川正夫の翻訳本であり、その翻訳本でドストエフスキーに取り憑かれてしまったのだから、こういった読者にありきたりの正論をはかれてもたいした効果をあげることはできない。

 わたしはドストエフスキーを翻訳で読んで何ら不自然を感じなかったので本格的にロシア語を学ぼうと思ったことはない。それでもアカデミヤ版ドストエフスキー全集を予約したり、東郷正延のロシヤ語講座や井桁貞敏のコンサイス露和・和露辞典を購入し、暇を見つけて独学したこともある。が、ドストエフスキーを読んでいる時の、謂わば憑依状態にある者にとっては語学学習に必要とされる〈何か〉を頑強に拒む力が作用する。

 要するにわたしにとってドストエフスキーを読むこととロシア語学習はうまく調和しなかった。ロシア語に堪能な教師がドストエフスキーをより深く理解できるとは思っていなかったし、現に我が国においては小林秀雄埴谷雄高森有正など著名なドストエフスキー論者がロシア語原典で読んでいない。

 そんなこんなでわたしはロシア語でドストエフスキーを読むという情熱にかられたことはない。第一、わたしはドストエフスキーを〈研究〉しようなどと思っていたわけではない。わたしは世界各国の文学者や哲学者や宗教家を一人物に仕立てて壮大な戯曲を書きたいと思っていた。が、ドストエフスキーの五大作品の批評を終えて、どういうわけか処女作『貧しき人々』の批評を開始していた。以後、『分身』『プロハルチン氏』『おかみさん』などの初期作品、シベリア流刑時代の『おじさんの夢』『ステパンチコヴォとその住人』など我が国ではあまり批評の対象にはならなかった作品を批評し、いつの間にかドストエフスキーの全作品を批評することがライフワークのようになってきた。その間、『分身』の原典をノートに写したり、『罪と罰』のマルメラードフの告白をすべてロシア語で暗記しようと試みたが、これらは中途半端に終わった。暗記と言えば東郷正延の『東郷ロシヤ語講座』第Ⅲ巻所収の第35課「ヤースナヤ・ポリャーナ」(Ясная Поляна)の項だけは丸暗記した。

 いずれにしても、わたしのドストエフスキー批評は長いこと翻訳本をテキストにしてきた。原典に当たる必要を感じたのは江川卓の〈謎ときシリーズ〉を読んでからである。幸いにして手元に予約しておいたアカデミヤ版全集があったので、『罪と罰』は批評で引用する箇所に関しては必ず原典に当たることにした。ところで、原典に当たってみると、今度は翻訳をそのまま素直に受け入れることの危険性を感じるようになった。原語一語が含んでいる多義的意味を考えると、翻訳一語はやはり翻訳者の一つの解釈に依っているということになる。しかも、同じ翻訳者でも翻訳は一つではない。

 明治二十五年、日本で最初に『罪と罰』をフレデリック・ウイショウ(Frederick Whishaw)の英語訳『罪と罰』(『CRIME AND PUNISHMENT』ヴィゼッテリイ版 1886年)から日本語に写した内田魯庵(不知庵主人とも号した。本名は内田貢)は、大正二年に改訳『罪と罰』を丸善から刊行した。内田魯庵全集第12巻(ゆまに書房 昭和五十九年四月)に収録されているのは内田老鶴圃から刊行された『小説 罪と罰』(巻之一 明治二十五年十一月)と『小説 罪と罰』(巻の二 明治二十六年二月)だけであり、丸善版『罪と罰』(前編 大正二年七月)は収録されていない。翻訳の違いを検証しようとすれば丸善版『罪と罰』を読む必要がある。わたしは神田の古書店でたまたま入手したが、現在、この丸善版『罪と罰』を入手するのは大変であろう。

 ドストエフスキー作品の翻訳者として中村白葉、米川正夫、小沼文彦、江川卓などが知られているが、彼らは翻訳本を出すたびに微妙に訳語・訳文を変えているので、翻訳本を従前に検証すること自体が実に様々な厄介な問題を孕んでいることになる。わたしは『罪と罰』を長いこと米川正夫訳で読んできたが、ある時、注解が詳しく独創的に思われた江川卓訳・小学館版世界文学全集第37巻の『罪と罰』を読んだ。以来、江川訳『罪と罰』を旺文社版文庫本、岩波文庫で愛読することになった。江川卓もまた出版社が変わるたびに多少翻訳文を変更している。

 いずれにしても、ドストエフスキーのような外国の小説家の場合、原語次元でも様々なテキストがあり、そして日本語翻訳においても様々なテキストが存在し、これからも新たに生み出されることになる。そんなこんなを『源氏物語』に当てはめてみれば、テキストの多様性、古文解釈、現代語テキストの解釈など、目眩が起きそうな諸問題が浮上してくる。従って、まずはできることから始めるほかはない。

文学の交差点(連載26)■テキストの実在・非在の問題  ――米川正夫訳『青年』をめぐって――

「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横無尽に語り続けようと思っている。

最初、「源氏物語で読むドストエフスキー」または「ドストエフスキー文学の形而下学」と名付けようと思ったが、とりあえず「文学の交差点」で行く。

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

f:id:shimizumasashi:20181228105251j:plain

清水正の著作はアマゾンまたはヤフオクhttps://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208で購読してください。 https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208 日芸生は江古田校舎購買部・丸善で入手出来ます。

 

清水正への講演依頼、清水正の著作の購読申込、課題レポートなどは下記のメールにご連絡ください。
shimizumasashi20@gmail.com

https://youtu.be/RXJl-fpeoUQ

(人気ブログランキングに参加しています。よろしければクリックお願いします)

これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

文学の交差点(連載26)

清水正

■テキストの実在・非在の問題

 ――米川正夫訳『青年』をめぐって――  

「輝く日の宮」は紫式部の手によって実際に書かれたのか。この問題をめぐっては研究者によって様々な説が発表された。代表的な論考として風巻景次郎の『源氏物語の成立』(『源氏物語』成立に関する著者の緒論をまとめ、『風巻景次郎全集』第四巻(昭和44年十一月 桜楓社)に収録)、武田宗俊の『源氏物語の研究』(一九五四年六月第一刷 岩波書店。)がある。

   大野晋丸谷才一瀬戸内寂聴は両氏の論文を視野に入れて対談や創作をしている。今、わたしは彼らの論文の領野には立ち入らず、まずは「輝く日の宮」というテキストが実際に存在していたのかどうかについて、ドストエフスキー作品やドストエフスキー研究と関連付けながらいろいろと考えをめぐらしてみたいと思う。 

   小沼文彦は筑摩書房ドストエフスキー全集の翻訳者として知られているが、彼に「初期ドストエフスキー全集」(「学鐙」一九七五年一月)という論考がある。日本はドストエフスキー文学の翻訳にかけては世界一と言ってもいい。二〇一八年現在、作品集や未完結のものを含めると十七種類が刊行されている。小沼はそのすべてを列挙し、簡単な解説を付けている。最初の全集は新潮社から刊行された。小沼はこの全集を「全十七巻」とし「これは本邦最初の全集として記念すべきもので、実質的には作品集とはいえ、「原露文直接訳」とうたった画期的出版である」「これによって作品の邦訳題名もほぼ定着することになるのであるが、『悪霊』は最初の広告では『生霊』、『未成年』もこのときはまだ『青年』であった」と記している。

 わたしは学生時代から古本屋街を歩いてドストエフスキー文献を買い求めた。文献はすべて早稲田と神田の古書店、それに大学のあった江古田の古本屋で入手した。ドストエフスキーに関する邦訳文献の大半は学生時代に揃えた。わたしは図書館を利用することはなかったので、文献は必ず購入して手元に置くことを原則とした。すでに購入済みのものでも余裕がある限り入手した。文献は一筋縄ではいかない。同じタイトル、同じ出版社でも内容が異なる場合がある。全集を出すたびに書き直しをする著者もいるので、最新の全集だけを持っていればいいということにはならない。

 さて、ドストエフスキーの研究者でも十七種類の全集をすべて手元に揃えている者はいないのではないかと思われる。文献を十全に入手することは困難を極めるのである。ここでは本邦初の新潮社版ドストエフスキー全集に限って話を進める。わたしはこの全集を全冊揃えているが、揃えるのに二十年以上かかっているし、揃えてみて初めて分かったことがある。小沼はこの全集を「全十七巻」としているが、これは間違いで本当は「全十六巻」としなければならない。

 小沼は『青年』を上下二巻として数えているが、実は『青年』は上巻しか刊行されなかった。わたしは神田の古本屋で『青年』上巻をゾッキ本コーナーで入手、その後も長いあいだ下巻を探しまわったが、米川正夫自身の文章で下巻が刊行されなかった経緯を知った。小沼は文献蒐集家としても知られていたが、未刊行の『青年』下巻を刊行されたものとして数えている。小沼は『青年』下巻を未確認のまま「初期のドストエフスキー全集」を書き上げてしまった。研究は実物に当たることが原則であり、いくら定評のある研究者の論考でも鵜呑みにすることは危険である。研究者も人間である限り見栄もハッタリもある。客観、公正を求められる〈研究〉にも生々しい人間のドラマが潜んでいることを忘れてはならない。

 もともと刊行されていないもの、不在のものをいくら探しても発見できないのは当たり前である。『青年』下巻は実在していないことが証明されたが、「輝く日の宮」の場合はそうそう簡単には決着がつかない。「輝く日の宮」は実在したのか、それとも初めから存在しなかったのか、それを客観的に実証することは不可能であろう。学問的に実証するよりは、丸谷才一瀬戸内寂聴森谷明子が試みたように、実在・非在にかかわらず〈それ〉(「輝く日の宮」)を創作した方がよほど生産的ということになる。

 実証的研究も創作も、煎じ詰めれば作品をどのように読むかということにかかっている。わたしは『源氏物語』をドストエフスキー文学を読むのと同じように読んでいる。ドストエフスキーは十七歳の時から、人間の謎を解き明かすために文学を志した小説家である。紫式部もまた『源氏物語』において人間とは何かを徹底的に探求している。『源氏物語』の世界に生きている〈人間〉の諸相に照明を当て、彼らと生々しく関わることを通して〈人間の謎〉に迫ること、これがわたしの批評行為である。 

文学の交差点(連載25)■丸谷才一の小説『輝く日の宮』をめぐって ■「事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみ」

「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横無尽に語り続けようと思っている。

最初、「源氏物語で読むドストエフスキー」または「ドストエフスキー文学の形而下学」と名付けようと思ったが、とりあえず「文学の交差点」で行く。

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

f:id:shimizumasashi:20181228105251j:plain

清水正の著作はアマゾンまたはヤフオクhttps://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208で購読してください。 https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208 日芸生は江古田校舎購買部・丸善で入手出来ます。

 

清水正への講演依頼、清水正の著作の購読申込、課題レポートなどは下記のメールにご連絡ください。
shimizumasashi20@gmail.com

https://youtu.be/RXJl-fpeoUQ

(人気ブログランキングに参加しています。よろしければクリックお願いします)

これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

文学の交差点(連載25)

清水正

丸谷才一の小説『輝く日の宮』をめぐって

 王命婦は唐突に光源氏六条御息所のところに通っているという〈口さがない女房たち〉の噂を口にする。これは瀬戸内寂聴が「藤壷」を創作するにあたって『源氏物語』に不在の「かかやく日の宮」の内容を意識しての設定と言える。ここで『源氏物語』成立論に肉薄した丸谷才一の小説『輝く日の宮』(講談社文庫、二〇〇六年六月)にしばし立ち止まってみることにする。

(略)

 

 光源氏と藤壷との最初の契りを書いた「輝く日の宮」は実在したのか。この件に関しては『源氏物語』研究者はもとより、『源氏物語』に関心を持つ文学者や小説家が大いに想像力を掻き立てられた。『源氏物語』成立史自体がミステリアスで興味深い。研究者のすべての論文を検証することはできないが、武田宗俊、風巻景次郎、及び彼らの説を踏まえた大野晋丸谷才一の対談、丸谷の小説『輝く日の宮』、『源氏物語』を現代日本語に再現した瀬戸内寂聴の小説『藤壷』、ミステリー小説に仕立てた森谷明子の『千年の黙 異本源氏物語』位は視野に入れて論を進めていきたいと思っている。

 

「輝く日の宮」があったのかなかったのか。藤原定家の書いた『奥入』の注釈書からさまざまな説が展開されてきた。真実は紫式部に聞くほかはないが、そんなことは不可能である。「輝く日の宮」が発見でもされない限り、結局研究者は〈解釈〉を披露するしかない。丸谷才一は小説の形式で書いた『輝く日の宮』で複数の人物の口を通して様々な〈解釈〉を披露した。特に杉安佐子の実在説と、それに反対の立場に立つ大河原篤子の反論を通して『源氏物語』成立をめぐる諸問題に照明を当てている。

 丸谷才一は批評意識の勝った小説家である。バフチンが指摘したドストエフスキー文学のポリフォニック性を充分に意識して「日本の幽霊 シンポジウム」の場面を描いているので、「輝く日の宮」をめぐっての各人物間の議論は明確である。読者はこの小説一編を一読するだけで日本における代表的な研究者の『源氏物語』成立に関する諸〈解釈〉を一瞥することができる。

 

■「事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみ」

 今再びわたしの脳裏をよぎるのは例のニーチェの言葉である。

 

  現象に立ちどまって「あるのはただ事実のみ」と主張する実証主義に反対して、私は言うであろう、否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみと。私たちはいかなる事実「自体」をも確かめることはできない。おそらく、そのようなことを欲するのは背理であろう。(引用は河出書房「世界の大思想」Ⅱ-9 「ニーチェ 権力への意志」原佑訳。昭和42年11月。216頁)

 

 〈事実〉(Thatsachent)なるものはなく、あるのはただ〈解釈(Interpretationen)のみ。十代後半に出会ったニーチェの言葉のうち、私にもっとも影響を与えた言葉がこれであった。以降、わたしの批評は〈解釈〉の戯れのうちにある。絶対不動の真理、ものそれ自体はなく解釈あるのみ……わたしの批評はテキストを解体して想像・創造力を限りなく駆使して再構築することであるが、べつにそれでもって〈絶対真理〉を探求しているわけではない。否、〈絶対真理〉さえ無限に相対化せざるを得ないという絶望を引き受け、絶望を即悦楽として体感する批評の境地を生きるということである。

 一言で『源氏物語』を読むといっても、『源氏物語』というテキストは一つではない。極端なことを言えば無数にある。物質的なもの、写本だけでも相当あり、どんなに情熱的な若い研究者でもそのすべてに眼を通すことは不可能であろう。言い伝えによれば紫式部が直接書いた『源氏物語』は一冊も残っておらず、すべては紫式部以外の人によって書き写されたということである。しかしこの一点に限ってもそのことをいちいち実証することは不可能であろう。ニーチェに言わせれば、各研究者による各実証自体が〈事実〉ではなく〈解釈〉ということになるから、研究者はどうもがいても絶対的事実、ものそれ自体に到達ことはできず、ただひたすら膨大な解釈の渦の中に巻き込まれ弄ばれる、その独特な悦楽にひたるほかはない。そうでない研究者、あくまでも紛れもない〈事実〉を発掘しようと懸命に努力する地道な実証主義的研究者にはニーチェ風ディオュソス的〈絶望即悦楽〉の境地に狂い遊ぶことはできないだろう。

 わたしは今回、『源氏物語』をドストエフスキー文学に関連づけて徹底的に批評しようと思っている。七十歳近くになって『源氏物語』に出会った必然性をわたしはたいへんおもしろく感じている。十七歳からドストエフスキー、三十歳過ぎてから宮沢賢治、十年前から林芙美子の代表作『浮雲』について批評している、このわたしが『源氏物語』へと突き進んできたのである。

 わたしの批評はテキストに即しながらも、想像・創造力を限りなく発揮する創作行為でもあるから、固定的で、狂気とカオスのディオニュソスを内包しないアポロン的な研究者のそれとは一線を画する。が、わたしはアポロン的な論考をも貴重な一〈解釈〉として自らの批評に取り入れることにやぶさかではない。様々な〈解釈〉の織りなす目眩く交響楽がわたしの批評であり、『源氏物語』批評もその例外ではない。

安濃豊氏の動画を毎日観る

わたしは日大病院から退院後(2016年2月末)、三年半にわたって安濃豊氏の動画を毎日観続けてきた。神経痛のため一日の大半を横になって過ごしている。執筆時以外は読書と動画を観ているが、必ず見るのが安濃豊氏の動画である。配信されていないと体の具合が悪くなったのかと心配になる。もはや家族の一員なのである。

先日、夏休み前最後の火曜会(日藝文士會)を終えての帰途、山崎行太郎さんから安濃豊氏の東京講演に一緒に行かないかと声をかけられたのだが、神経痛のため断念した。

先刻、安濃氏のブログを覗いたら下記のような記事があった。

 

睡眠霊通:
8畳くらいの個室に7、8名が集まっていた。私は奥に座り、皆さんの静かな会話を聞いていた。誰かがロシア文学の話を始めた。そこで私は「チェーホフドストエフスキープーシキンだったかもしれない)を知らずんばロシアを知らず」(自分も知らないのに)というと話が盛り上がり、参加者の1人が私の近くに来て、ロシア文学について熱く語り始めた。そこで目が覚めた。来週末の上京のヒトコマなのだろうか?

 

会場に行くことはできないが、盛況を祈っている。安濃豊氏の戦勝・アジア解放史観は日本人に元気と勇気を与えてくれる。

文学の交差点(連載24)■瀬戸内寂聴の小説『藤壷』をめぐって

「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横無尽に語り続けようと思っている。

最初、「源氏物語で読むドストエフスキー」または「ドストエフスキー文学の形而下学」と名付けようと思ったが、とりあえず「文学の交差点」で行く。

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

f:id:shimizumasashi:20181228105251j:plain

清水正の著作はアマゾンまたはヤフオクhttps://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208で購読してください。 https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208 日芸生は江古田校舎購買部・丸善で入手出来ます。

 

清水正への講演依頼、清水正の著作の購読申込、課題レポートなどは下記のメールにご連絡ください。
shimizumasashi20@gmail.com

https://youtu.be/RXJl-fpeoUQ

(人気ブログランキングに参加しています。よろしければクリックお願いします)

これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

文学の交差点(連載24)

清水正

瀬戸内寂聴の小説『藤壷』をめぐって

    現在わたしたちが読むことのできる『源氏物語』に光源氏と藤壷の最初の不義密通は何も書かれていない。この場面に関しては武田宗俊『源氏物語の研究』、大野晋丸谷才一の対談『光る源氏の物語』、丸谷才一の小説『輝く日の宮』などでも検討されているが、ここではとりあえず瀬戸内寂聴の小説『藤壷』(講談社文庫、二〇〇八年六月)を題材にして想像力を存分に発揮していきたいと思う。

 光源氏が藤壷との〈契り〉にはたしてどこまで〈極悪道〉の意識を持っていたのか。この問いは何度問うてもいいような気がする。瀬戸内寂聴は王命婦に「この企ては、人倫の道にも仏の道にも叛いた極悪道でございます」と言わせているのだが、光源氏が人倫、仏道をどのようにとらえ意識していたのかが曖昧に処理されているので、そもそも彼の〈叛逆〉が体感的に伝わってこないのである。一夫多妻の時代における男女関係を今日の恋愛観に即して判断することはできないので、光源氏が複数の女たちと契りを結ぶことを人倫に反する行為と見なすことは出来ない。

 藤壷は父桐壷帝の妻であるにしても、それが光源氏にとってどれほどの重みを持っていたかは実はよく伝わってこない。王命婦は言う「生きて露見すれば只事ではおさまりますまい」と。さて〈露見〉が問題である。王命婦が手引きする以上、〈不義密通〉は当事者の光源氏と藤壷だけの秘密ではないということである。ここで『光る源氏の物語』(中公文庫上巻、一九九四年八月)から大野晋の言葉を引いておこう。

 大野 『源氏物語』の本質をとらえるときに大事なことが一つあると思うんですよ。それはヨーロッパでは、フランスの作品の具体的な名前をぼく知りませんけれども、「お女中文学」というのがあるということです。『源氏物語』を語っているのは「女房」といわれる人たちですが、いわば今日の「お女中」でしょう。この人たちはお姫様が男の人と一緒になるときには隣の部屋にひかえていて、万事知っているといったぐあいに、お姫様についている女房はお姫様のあらゆることを知っている。そういう位置にいて、しかも一人前には扱ってもらえない「女房」が『源氏物語』を語っているということです。(56~57)

 藤壷には王命婦だけが女房として付き添っていたわけではない。乳母子の弁や王命婦以外の命婦も何人かはいた可能性が高い。王命婦の〈手引き〉が他の女房たちの眼や耳や第六感の網の目にかからなかったはずはない。ただ光源氏と藤壷の〈不義密通〉に感づいていた女房たちが、それを心の奥底に封じ込んで、公にしなかっただけのことである。秘密を知っている女房たちの声にならない噂話は心の闇の中で止むことはない。もちろんそんなことは女房でもあった紫式部はよく知っている。こと光源氏と藤壷の〈不義密通〉に関しては王命婦も乳母子の弁も、そして作者の紫式部も共犯関係を結んで、あたかもその秘密は保持されたかのように振る舞い続けるのである。恐るべし〈女房〉、ということである。

 先に引用した瀬戸内寂聴「藤壷」の続きを見てみよう。

 

  それにしても王命婦はいつまで待たせるのかと源氏の君は焦ってきました。狐のような顔付のこの女がいかにも狡猾なように見えてきて、この女の思うよう自分があやつられているような不快な気持さえしてきました。

「これ以上、待たされるなら、もうよい。頼まぬ。文も届けてくれぬ。返歌もいただけぬ。まるで霞と恋をしているようにはかなすぎる。そなたとこうして逢うのも……」 「飽いたとおっしゃりたいのですね」

  王命婦がずばりと抑揚のない声で他人事のように言いました。図星をつかれて源氏の君は思わず顔を染めてしまわれました。

「ちか頃、六条あたりに御熱心にお通い遊ばしていらっしゃるとか、口さがない女房たちがお噂申しております」

六条御息所のところへは、都じゅうの気の利いた公達なら、みな伺っている。御息所の催される詩文や音楽の集りは、実に高尚で気が利いているのだ」

「何より御息所はお美しいお方ですから」

「たしかに、高貴なお方で教養があるという点では、藤壷の宮と双璧といえるお方だ。わたしなど集る公達の中では一番年が若く出る幕もない」

「さあ、いかがなものでしょう。あの気位の高い御息所のお心をどなたが射とめるかと、京雀の噂の種とやら……源氏の君さまは、もはや御息所とは」

「残念ながらいまだ高嶺の花だ。あそこに集る公達たちは、一人残らず万に一つの僥倖を期待しているにちがいない。ところが御息所は前の東宮の未亡人という御身分の上、途方もない御遺産に囲まれていらっしゃる。対等にお相手出来る公達など居るものではない」

「ただお一人、源氏の君さまを除いては」

「いやに御息所にこだわるんだね。美しいお方だけれど、もうお若くはないよ」

「わたくしより三歳の下、源氏の君さまより七つの年上でいらっしゃいます」

  そうすると藤壷の宮は御息所より二歳の御年少か、それにしては藤壷の宮は何という初々しい愛嬌にあふれたお可愛らしさなのだろうか。源氏の君は改めて藤壷の宮のお若さに感嘆しながら立ち上り、王命婦に背を向けて歩き出されました。

「恋ひわびて恨む涙にこの春も

     命むなしく過ぎ逝きにけり」

「源氏の君さま、来る二十日の深更に藤壷にお渡り下さい。その日は内裏は物忌みに当っております」

  王命婦の低いしゃがれた声が、源氏の君の耳近く聞えました。

  源氏の君は思わず振り返りさま、王命婦の手を掴んでいました。

「まことか、空耳ではなかったか。二十日、深更とな、内裏は物忌みだと……」

「その通り申しあげました」

「三日の後だ。王命婦、もう一度お礼をしようか」

  源氏の君が手に力をこめ、王命婦の体を胸に引き寄せると、王命婦は両腕で源氏の君の胸を突き、身を引き離しました。

「もう結構でございます」

  源氏の君は声をあげて笑い、若々しい足取りで出口の方へ歩いて行きました。   築地の破れの外には、すでに網代車が着けられていて、惟光が榻を整えて蹲っていました。(42~47)

 

 瀬戸内寂聴の小説「藤壷」は可能な限り史実を押さえた上で創作されている。

 王命婦は狐のような顔付として設定されているが、これに関してはウィキペディア「稲荷神と狐」「伏見稲荷創建以降」などの記事が参考になる。

 狐は稲荷神の神使であって稲荷神そのものではないが、民間においては稲荷と狐はしばしば同一視されており、例えば『百家説林』に「稲荷といふも狐なり 狐といふも稲荷なり」という女童の歌が記されている。また、稲荷神が貴狐天皇(ダキニ天)、ミケツ(三狐・御食津)、野狐、狐、飯綱と呼ばれる場合もある。

 

  日本では弥生時代以来、蛇への深更が根強く、稲荷山も古くは蛇信仰の中心地であったが、平安時代になってから狐を神使とする信仰が広まった。稲荷神と習合した宇迦之御魂神の別名に御ケ津神(みけつのかみ)があるが、狐の古名は「けつ」で、そこから「みけつのかみ」に「三狐神」と当て字したのが発端と考えられ、やがて狐は稲荷神の使い、あるいは眷属に収まった。なお、「三狐神」は「サグジ」とも読む。時代が下ると、稲荷狐には調停に出入りすることができる「命婦」の格が授けられたことから、これが命婦神(みょうぶがみ)と呼ばれて上下社に祀られるようにもなった。(以上「稲荷神と狐」より)

 都が平安京に遷されると、この地を基盤としていた秦氏が政治的な力を持ち、それにより稲荷神が広く信仰されるようになった。さらに、東寺建造の際に秦氏が稲荷山から木材を提供したことで、稲荷神は東寺の守護神とみなされるようになった。『二十二社本縁』では空海が稲荷神と直接交渉して守護神になってもらったと書かれている。神としての位階(神階)も、天長4年(827)に淳和天皇より「従五位下」を授かったのを皮切りに上昇していき、天慶5年(942)には最高の「正一位」となった。

   東寺では、真言密教における荼枳尼天(だきにてん、インドの女神ダーキニー)に稲荷神を習合させ、真言宗が全国に布教されるとともに、荼枳尼天の概念も含んだ状態の稲荷信仰が全国に広まることとなった。荼枳尼天は人の心臓を食らう夜叉神で、平安時代後期頃からその本体が狐の霊であるとされるようになった。この荼枳尼天との習合や、中国における妖術を使う狐のイメージの影響により、稲荷神の使いの狐の祟り神としての側面が強くなったといわれる。(以上「伏見稲荷創建以降」より)

  

    王命婦と狐の関係は探ると途方もない闇を抱えているように思える。単に狡猾な女という意味での隠喩を超えたものを感じさせる。王命婦命婦の一人であるにもかかわらず〈王〉が付いている。彼女が高貴な家柄(皇族、王族)の出身であることを伺わせるが、彼女を秦氏の一族であったと見ることもできよう。権勢を誇った秦一族と天皇家との関係に関しても新たな照明を当てる必要があろう。

 わたしたちは何度でも王命婦が桐壷帝の后藤壷と桐壷帝の息子光源氏の契りを手引きしたこと、瀬戸内寂聴に言わせれば人倫に叛し仏道に叛する〈極悪道〉を手引きしたことの秘密に迫らなければならない。今日の感覚からすれば、天皇の息子が天皇の后と契りを結ぶなどという大それたことは考えるだに不謹慎であり、絶対にあってはならないことである。はたして平安時代においてはどうだったのだろうか。

源氏物語』に描かれた限りにおいては、男女の肉体関係はかなりゆるいように思える。今日から見れば強姦まがいのことも寛容に受け入れられている。愛があればすべては許されるではないが、光源氏においては相手が少女であれ、年上の女房であれ、父帝の后であれ、求愛の行動を妨げるものではなかった。人倫、仏道陰陽道も、光源氏の行動を絶対的に拘束することはできない。

   ドストエフスキーの人神論者たちは「神がなければすべてが許されている」と公言してはばからなかった。光源氏にとって彼の行動を統御支配する絶対的なものは存在しなかったのであろうか。

 或る限定された時代に生きる限り、人はその時代の風習、慣習、制度、 倫理、信仰に支配される。が、中にはこういった制約から限りなく自由であろうとする人もいる。ロジオンが規定した非凡人の範疇に属する人がそれである。ロジオンは結果として凡人の範疇に属する人であったが、犯行以前は自分を絶対者として自己規定していた。〈ロジオン〉(Родион)という名前は〈薔薇〉を意味し、これは〈美・力・聖〉を意味する。〈イロジオン〉(Иродион)は〈英雄〉を意味する。フルネーム〈ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフ〉(Родион Романович Раскольников)は〈РРР=666〉で〈悪魔〉を意味する。光源氏をロジオンに重ねて読み込んでいくと、物語の深層に潜んでいるものが浮き彫りになってくるように思える。

 ロジオンは二百年の歴史を持ったラスコーリニコフ家の出身者であるが、光源氏天皇家の血筋を引く紛うことなき選ばれた者である。この選ばれし光源氏はすべてが許されている存在として誕生してきたのかも知れない。

 王命婦を検証する上で荼枳尼天と習合した稲荷神の使いが狐であるという説も興味深い。狐は狡猾という次元を超えた夜叉神であり祟り神であると見ると、王命婦は一挙に畏怖すべき存在へと変容する。まさに藤壷と光源氏を契りの場に手引きする存在に相応しい異形なる貌を見せ始める。

 さて、話を現実的な次元に戻して「藤壷」を見ることにしよう。瀬戸内寂聴が描く王命婦はまず何よりも一人の女房であり女である。光源氏と肉体関係を結んでしまった後の王命婦は、十歳の年の差を越えて光源氏の魅力にとらえられてしまった女である。光源氏が誰よりも藤壷に愛情を向けていることを知っていながら、王命婦は何度も光源氏と契りを交わしている。王命婦の心の内に光源氏を独占したいという思いも生じてきたに違いない。が、光源氏が王命婦を抱くのは、藤壷に手引きをしてもらいたいが故なのである。女としての王命婦の葛藤、嫉妬はどれほどであったろうか。

 しかし、決断しなければならない時がやってきた。王命婦光源氏に対する思いを断ち切り、〈極悪道〉への途へと踏み込む決意をする。瀬戸内寂聴は決意した女の毅然とした姿を端的に描いている。深い迷いと激しい葛藤に決着をつけた女の姿は凛々しいのだ。決断した王命婦の姿に作者瀬戸内寂聴の思いが見事に重なった場面と言えよう。 

文学の交差点(連載23)■『源氏物語』における描かれざる重要場面  ――光源氏における〈アレ〉とロジオンの〈アレ〉――

「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横無尽に語り続けようと思っている。

最初、「源氏物語で読むドストエフスキー」または「ドストエフスキー文学の形而下学」と名付けようと思ったが、とりあえず「文学の交差点」で行く。

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

f:id:shimizumasashi:20181228105251j:plain

清水正の著作はアマゾンまたはヤフオクhttps://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208で購読してください。 https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208 日芸生は江古田校舎購買部・丸善で入手出来ます。

 

清水正への講演依頼、清水正の著作の購読申込、課題レポートなどは下記のメールにご連絡ください。
shimizumasashi20@gmail.com

https://youtu.be/RXJl-fpeoUQ

(人気ブログランキングに参加しています。よろしければクリックお願いします)

これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

文学の交差点(連載23)

清水正

■『源氏物語』における描かれざる重要場面

――光源氏における〈アレ〉とロジオンの〈アレ〉――

 ロジオン・ラスコーリニコフは「わたしに本当にアレができるだろうか」と考えていた。〈アレ〉は表層的次元では〈高利貸しアリョーナ殺し〉であるが、その背後に〈皇帝殺し〉が潜んでいた。光源氏にロジオンと同様の思弁を与えれば、彼もまたロジオンのように危険な自己問答を繰り返したに違いない。光源氏の〈アレ〉とは〈藤壷〉との〈契り〉であり、それは同時に父桐壷帝に対する明白な〈裏切り〉である。まさに瀬戸内寂聴描くところの王命婦が口にした人の道、仏の教えに叛いた〈極悪道〉そのものである。

罪と罰』の読者は主人公ロジオンの悩ましい内心の動きにぴったりと付き添いながら読み進んで行く。当初、一人称小説の体裁で構想されていた『罪と罰』は、作中で示された主人公を意味する〈彼〉や〈ラスコーリニコフ〉をすべて〈私〉に置き換えて読むことができる。カメラが主人公の両眼に張り付いていて、このカメラは主人公がとらえる外的世界のみならず主人公の内的世界をも明確にとらえる。読者はあたかも主人公ロジオンに化身したかのようにして作品世界に参入し、ロジオンと共に世界を体験するのである。

 さて『源氏物語』の場合はどうだろうか。光源氏と藤壷の最初の〈契り〉の場面、その人として絶対に犯してはならない〈不義密通〉の場面、作品全体の流れから見て最も重要な場面が、なんと『源氏物語』の中で描かれていないのである。すでに見た通り、この描かれざる光源氏と藤壷の最初の〈契り〉は「若紫」で暗示的に触れられているだけなのである。

罪と罰』ではロジオンの〈アレ〉(最初の踏み越え=高利貸しアリョーナ殺し、と彼女の腹違いの妹リザヴェータ殺し)は具体的にリアルに描かれている。ドストエフスキーは〈アレ〉(殺し)の現場を客観的に描くと同時に、ロジオンの内部世界にも照明を当てている。従って『罪と罰』の読者は誰でも〈アレ〉の生々しい現場に立ち会うことが出来、この小説における〈アレ〉の重要性を見逃すことはない。読者はロジオンが〈アレ〉に至るまでの煩悶、葛藤、迷いを彼とともに体験し、ロジオンと共に二人の女の頭上に斧を振り下ろし、そして〈アレ〉以降のロジオンの内的闘争と苦悩をもまた彼と共に体験することになる。『罪と罰』を読むとは一種の体験、否、実存的な体験そのものなのである。