清水正  村上玄一を読む(連載10)

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村上玄一を読む(連載10)

清水正

 

 

 「それで、俺に順子さんの浮気が本当なのかどうか、調べてくれというわけ?」きょう 始めて、富田が真顔になって言った。

 「いや、そうじゃないんだ。たぶん本当だよ。調べなくても判るよ。でも、どうしてか 、女房に、そのことを言い出せないんだ。だから、女房の出方を待っている。こちらから は仕掛けない。戦争を引き起こすのはイヤだからね」

 「ここんとこ、順子さんと、そちらのほうの関係はないのか?」

 「ああ、ずいぶん長いこと、何もないね。生活時間も違うし」

 「きょう、彼女、どうしてるの?」美樹子が恐る恐る訊ねる。

 

  さて、この三者の会話からどのようなことが浮上してきただろうか。いったい〈ぼく〉 は単に妻の順子が浮気をしているというただそのことだけを言いたかったのであろうか。 別に富田や美樹子に相談しているわけではないから、〈ぼく〉は妻の浮気というその事実 を二人に報告しただけということになる。妻の浮気を三ヵ月前に別れた女の耳に入れてど うしようというのだろう。どうにもなるものでもないし、ふつうそんな恥さらしのことは 口にすることではない。尤も、〈ぼく〉や富田や美樹子にとってはすでに恥などというこ とは存在しないのかもしれない。〈ぼく〉は別れた女を旧友に押しつけ、そのアパートを 平然と訪問する鉄面皮であるから、彼らに恥を問うこと自体がアホらしい。〈ぼく〉の自 己保身的な卑劣さは「女房の出方を待っている。こちらからは仕掛けない」というセリフ に端的に表れている。

 つげ義春の日常漫画に登場する男も甲斐性なしで貧乏で不誠実で助 平で、そして受動的であるが、〈ぼく〉と一つだけ違うのは、彼らは決して「こちらから は仕掛けない」といったようなセリフは口にしないということである。つげ漫画の主人公 のしたたかな受動的能動性を指摘するのはあくまでも読者の側であって主人公自身ではな い。〈ぼく〉は口に出すことによって自らの卑劣さを露呈するわけだが、美樹子も富田も 言わば同じ穴のムジナなのでその卑劣さは際立ったものにはならない。彼らは自らの卑劣 さに麻痺しており、そんなことはごく当たり前のこととして受け止めている。〈ぼく〉の 卑劣さを鮮明に浮上させるためには富田や美樹子のような世ずれた者ではない、〈ぼく〉 と対極的なピュアな人物を登場させる必要があるがこの小説にはそういった人物は登場し ない。〈ぼく〉は美樹子の質問に次のように答えている。

 

 「昼過ぎに出かけたよ。きっと、男と一緒なんだろう。銀座で映画をみると言ってたけ ど。……女房が浮気するっていうのは、何か当り前のことのような気もするんだ。自分で 言うのも変だけど、平静でいられるんだ、嫉妬なんて感情は湧いてこないね。バレないよ うに必死になって演技してる女房が可哀そうでさえあるよ」

 

 〈ぼく〉は自分の卑劣さにまったく気づいていない。妻の浮気を当り前として受け止め 、嫉妬さえ覚えないと言う〈ぼく〉はまるでそのことを誇っているかのようでもある。誇 っていないとしても、そのことを恥さらしとは思っていない。いったい〈ぼく〉は何のた めに富田と美樹子のアパートを訪れたのだろう。〈ぼく〉の話を聞きおえて改めて思う。 〈ぼく〉の訪問理由は富田と話をしたいということであったのだとすれば、その願望に則 った行動そのものがかなり甘えたものだったということになろう。〈ぼく〉はその甘えに 気づかず、富田も美樹子もその甘えを甘えとして認識しないままに受け入れている。

 おしなべて〈ぼく〉は他者の思いを察するその感性に欠けている。この〈ぼく〉が語り の機能を一身に背負っているので、その眼差しは富田や美樹子といった他者の深部へ到り つくことがない。富田が〈ぼく〉の訪問をどのような気持ちで受け止め、〈ぼく〉と美樹 子のさり気ない会話ひとつひとつにどのような反応を示していたのか、そういった点に関 して〈ぼく〉はほとんど気配りをしていない。描かれた場面から、フレームの外に置かれ た富田の表情を伺い知ることはできない。換言すれば、場面に二重三重の深みがない。富 田や美樹子は〈ぼく〉の平板な意識に映っただけの人物として処理されてしまっていると いうことである。

 〈ぼく〉は〈とんでもない仕事〉を引き受けてしまう。それはオートバイ雑誌の割付作 業六十四頁分を一晩で仕上げる仕事である。〈ぼく〉は夜中その仕事に従事しながら「眠 たいときに眠って、起きたいときに起きる、時間に拘束されない気儘な生活、それが、サ ラリーマンを拒否して生きることにした、ぼくの最低条件であったはずだ」と思う。確か に彼は前作『鏡のなかの貴女』の〈ぼく〉と同じような考えを引き継いでいる。少し違う のは『謎謎』の〈ぼく〉は前作の〈ぼく〉よりも現実的な考えに近づいていることである 。

 彼は続けて思う「ところが、三十を過ぎて、ようやく、これが甘い考えであったことが 判ってきた。二十代のヤングと同じ仕事をしても、同じ報酬。それならば時間と量で勝負 しなくてはならない。しかし、若い奴よりも、いくらか仕事の要領を心得てはいるといっ ても、若さに勝とうとすることは、それだけ自分の寿命を縮めるようなもの。ちっぽけな 会社でもよかった、近頃、サラリーマンになっておけばよかったと、ふと思うこともある 」と。「もっと本当の仕事をしたい。自分に納得のできる仕事をしたい。ぼくにネクタイ の似合うわけがない」とムキになってサラリーマンを拒否していた『鏡のなかの貴女』の 〈ぼく〉の姿は影が薄くなっている。『謎謎』の〈ぼく〉はかなり生活にくたびれてきて いる。

 

 

国立新美術館で開催中の第93回・国展に出品された神尾和由さんの絵を観る

近況報告

昨日五月一日は千代田線で我孫子から乃木坂へ。

国立新美術館で開催中の第93回・国展に出品された神尾和由さんの絵を観るため。

神尾さんと国展入り口で待ち合わせていたがTELしてもつながらないので

先に会場に入る。

神尾作品「INTERNO e ESTERNO」(162×334)を撮影。しばらくして神尾さんからTEL。

神尾作品の前で会うことにする。

神尾さんと会うのは実に26年ぶり。はたしてすぐに分かるだろうか。

心配した通り、神尾さんと分かるまでに数分かかった。

作品の前で立ち話した後で、喫茶室でコーヒーをすすりながら

一時間ほど話をして国立新美術館を後にした。

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神尾和由作品 INTERNO e ESTERNO

 

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神尾さんと記念撮影

 

清水正  動物で読み解く『罪と罰』の深層(連載2)

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江古田文学」97号98号

 

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今回は「江古田文学」98号に掲載した「動物で読み解く『罪と罰』の深層」(連載第二回)を載せる。

動物で読み解く『罪と罰』の深層(連載2)

清水正

 

■おす犬(пёс)

 犬(собака)と人間の関係は古代に遡る。猟犬、番犬、食用犬、羊導犬、盲導犬、捜査犬として犬は人間の生活に深く関わってきた。またペットとして主人と従者の関係を越えて家族、友人の一員となって飼い主の癒しともなっている。犬は民族によって神と崇められたり汚れの対象として忌み嫌われたりもするが、おしなべて人間にとって親愛的な動物として認知されている。

 

 さて『罪と罰』の中ではどのような形で登場しているであろうか。ロジオンは未亡人プラスコーヴィヤの所に下宿しているが、そこに賄い婦として働いていたのが女中ナスターシャである。ナスターシャは屋根裏部屋で昼間から働きにも出ずゴロゴロしているロジオンに向かって嫌みを言うが、この時ロジオンは俺の仕事は考えることなんだとやり返す。このセリフを聞いてナスターシャは腹をかかえて笑い転げる。

 

 ロジオンの〈考えること=仕事〉に我が国で最初に注目したのが内田魯庵訳『罪と罰』(明治二十五年)を読んだ北村透谷である。以来、ドストエフスキー研究家はこのロジオンのセリフに重きを置く余り、ナスターシャの反応を忘却の彼方に追いやった。が、わたしは全身をゆらして笑い転げるナスターシャの反応にこそ、ロシア民衆の健全な姿を見る。二人の女を斧でたたき殺しておきながら、その殺人行為に遂に〈罪〉意識を感じることのできなかったロジオンの〈考えること〉に過大な評価を与えることこそ危険なのである。ナスターシャという一庶民の感性や常識を甘く見てはならない。

 

 このナスターシャがロジオンの唯一の友人ラズミーヒンに向かって「いやだよ、おす犬め!」(Ну ты, пёс !)と言う場面がある。この項では〈おす犬〉(пёс)をめぐってラズミーヒンの描かれざる性愛場面に逐次、順を追って照明を当てたいと思う。

 

 ラズミーヒン(Разумихин)という名前は〈разум〉(理性、知性、分別)に由来する。確かにラズミーヒンはロジオンの目眩く思弁に比べれば、枠組みから逸脱しない理性の持ち主と言えるかもしれない。ニーチェの用語を借りれば、ロジオンはディオニュソス的な理性の持ち主、ラズミーヒンはアポロン的な理性の持ち主と言える。ところでラズミーヒンは自分の正式な名前はヴラズミーヒン(Вразумихин)だとことわっている。動詞〈вразмить〉は〈説示・教示・教訓する、納得させる〉という意味で、まさにヴラズミーヒンは女将プラスコーヴィヤを瞬く間に説得、教示し、挙げ句の果てにハーモニーまで奏でている。

 

 ラズミーヒンはロジオンと同じく大学をやめているが、ロジオンとは違って復学を目指して頑張っている。彼ら二人がどういう事情で大学(ペテルブルク大学法学部)をやめざるを得なかったのか作中においては具体的に説明されていない。おそらく授業料未納で除籍ないしは退学処分の措置を受けたのだろう。二人とも貧しい苦学生であったが、ロジオンは家庭教師のアルバイトも止め、女将に百十五ルーブリの借金を負ったまま屋根裏部屋の空想家に甘んじていた。この空想家が殺人という大胆な〈踏み越え〉をなすことで『罪と罰』という小説はダイナミックな展開を見せるわけだが、ここでは〈おす犬〉(さかりのついた犬)であるラズミーヒンに照明を当てることにしよう。

 

 ラズミーヒンは『罪と罰』の女性読者に受けのいい人物の一人である。彼は得意な外国語(ドイツ語)で翻訳の仕事をこなす知性的な青年だが、いわゆる知識馬鹿の堅物ではない。頑丈な体の持ち主で場合によっては腕力を振るうし、大酒もくらう豪放磊落な明るい青年である。こういったイメージが優先して女性読者に人気があるわけだが、しかし同時にこの青年は〈さかりのついた犬〉、つまり女に関して実にマメな女たらしでもあった。ラズミーヒンは行方の知れなかったロジオンの下宿先を探し当て、犯行後、極度の不安と恐怖に襲われ意識混濁状態でソファに横たわっていたロジオンの看病をしていた。が、ラズミーヒンはロジオンの世話だけをしていたのではない。彼は下宿の女将、未亡人のプラスコーヴィヤとハーモニーを奏でていた。つまりラズミーヒンは〈さかりのついた犬〉ぶりをロジオンの下宿先でも存分に発揮していたということである。

 

 『罪と罰』において登場人物たちの性愛場面は直接的に描かれることはなかったが、注意して読めば至るところに〈描かれざる性愛場面〉が仕込まれている。未亡人プラスコーヴィヤは夫亡き後、律儀に貞操を守って暮らしていたわけではない。現に、事件屋の渾名を持つ文官七等官チェバーロフと愛人関係を持って定期的に会っている。こういった女将の裏事情に通じているのが女中のナスターシャである。ナスターシャ・ピョートヴァはなかなか洒落のわかる柔軟な精神の持ち主で、女将プラスコーヴィヤとハーモニーを奏でているヴラズミーヒンとも粋な軽口を交わすことができる女性として描かれている。

 

 「ねえ、ナスターシュシカ、プラスコーヴィヤ・パーヴロヴナ(主婦の正式の呼名)に言って、ビールを二本ばかり出してもらえるとありがたいな。一杯やりたいんでね」とラズミーヒンに言われた時、ナスターシャは「まあ、図々しいよ、こののっぽは!」とつぶやいて言いつけを果たしに行く。江川卓が〈のっぽ〉と訳したロシア語〈востроногий〉を米川正夫は〈長脛〉、小沼文彦は〈ちゃっかりや〉と訳している。辞書を引くと〈востроногий〉は〈よく駆回る〉とあり〈востроносый〉は〈鼻の尖った〉とある。ナスターシャは後にラズミーヒンを〈おす犬〉(пёс)とも言っているから、〈востроногий〉には尖った鼻先をクンクンさせながら盛りのついためす犬をかぎ出す〈おす犬〉の意味が込められていたと見ることができる。

 

 ラズミーヒンは女将を〈プラスコーヴィヤ・パーヴロヴナ〉と名と父称で正式に呼ぶかと思えば、ハーモニーを奏でた仲らしく〈パーシェンカ〉と愛称で呼び、ロジオンに向かって臆面もなく「いや、きみ、彼女があれほどの……魅力があるとは……さすがにぼくも思いがけなかったね、え? きみはどう思う?」とか「それがまた、すこぶるつきなんだな」「そうなんだ、すこぶるつきの絶品でね、文句のつけどころなしさ」と言う。ロジオンは沈黙を守っているが、ナスターシャはすぐに「まあ、いやらしい!」と大声で応えている。この大声は批判とか非難を意味しない。ナスターシャはラズミーヒンの下ネタを存分に楽しんでいる。  

 

  ラズミーヒンを〈おす犬〉呼ばわりしたナスターシャは、ロジオンに向かっても〈犬ころ〉と言っている。警察署からの呼出状を持ってきた庭番に付いてきたナスターシャが部屋の掛金をはずさないロジオンに「明けても暮れても、まるで犬ころみたいに寝込んでてさ! 犬ころだよ、ほんとに!」(целые дни-то деньские, как пёс, дрыхнет ! Пёс и есть !)と叫ぶ場面がそれである。ナスターシャはラズミーヒンに対してと同じ〈пёс〉という言葉を使っているが、ロジオンの場合はめす犬を追いかけ回す〈おす犬〉という意味では使われていない(少なくともこの場面においては)。

 

 さて、ラズミーヒンが言う女将パーシェンカの〈魅力〉(авенантненькая)、〈すこぶるつきの絶品〉(и очень даже в порядке)は、江川卓がハーモニーを意識して訳しているので分かりやすいが、ほかの翻訳者で読むとラズミーヒンがこれらの言葉に託した形而下的な意味はほとんど読みとれない。ラズミーヒンの女将に対する言葉の背後に二人の〈性愛関係〉があることは明白であり、この〈描かれざる性愛場面〉を見逃すと、人物たちを十全に理解することはできない。〈説得者〉であるヴラズミーヒンは女将のロジオンに関する不安を解消したばかりでなく、その〈魅力〉をも存分に堪能した〈おす犬〉でもあったことを見逃してはならない。

 

  ロジオンは犯行前、ラズミーヒンのアパートを訪れ翻訳の仕事を分けてもらう。しかしすぐに考えを変え、何の説明もせずに立ち去る。ロジオンの無礼な言動に腹をたてたラズミーヒンは、ロジオンの住居を探し出して彼をこらしめてやろうと思う。ラズミーヒンはその日のうちから探し回るが発見できず、翌日、警察署の住所係を訪ねてロジオンの住所を聞き出すことに成功する。警察署でラズミーヒンは、呼出状の担当事務官ザメートフ、署長ニコジム・フォミッチ、副署長イリヤ・ペトローヴィチなどから署でのロジオンの件を取材し、最後に下宿の女将プラスコーヴィヤからすべての事情を聞き出す。

 

 ロジオンは三年前、故郷リャザン県ザライスクから単身上京、プラスコーヴィヤの所に下宿しペテルブルク大学法学部に入学する。プラスコーヴィヤは八等官未亡人でナターリヤという不具の娘があった。ロジオンはこの娘と婚約する。警察署でロジオンは聞かれもしないのに、婚約は口約束であり、ナターリヤのことも特に好きなわけではなかったと話している。ではなぜ婚約までしたのか。ロジオンもまた若い〈おす犬〉(пёс)で、性欲を手っ取り早く、しかもただで満足させるためという穿った見方もできる。

 

  わたしは『罪と罰』を初めて読んだ頃、ロジオンについて人類の苦悩を一身に背負った文学青年的なイメージを抱いていたが、長い年月をかけて読み込んでいくうちに、それとは違ったイメージを抱くようになった。ロジオンは上京当時、貧しい状況にあったにも関わらず、ドイツの青年貴族が被るようなチンメルマン製の丸型帽子を購入したり、将来の見通しもつかないうちにいきなり婚約したり、女将から多額の借金をしたりと、どう見ても軽佻浮薄な青年にしか見えない。一方、女将の方から見れば、不具の娘と婚約してくれた、将来有望株であるペテルブルク大学法学部の学生は頼もしく思えたのかも知れない。ところが、娘は一年前に腸チフスで死んでしまい、有望株ロジオンの義母となる夢は潰えた。しかも大学をやめたロジオンは働きもせず、下宿代も払わず、アパートを出て行くこともしない。不安に駆られた女将は九ヶ月前、ロジオンに借用書を書かせる。額面は百十五ルーブリである。

 

  ちなみに、わたしはロジオンが女将から借りていた金額を江川卓訳で読むまでずっと百五十ルーブリだと思っていた。これはわたしの記憶間違いではなく、わたしが愛読していたグリーン版世界文学全集米川正夫訳『罪と罰』の二カ所にそのように書かれていたのである。なぜ百五十ルーブリが江川卓訳で百十五ルーブリになっているのか。手元にあるアカデミア版全集で確認すると、そこには二カ所とも〈сто пятнадцать рублей〉とあり、間違いなく百十五ルーブリである。ロシア文学の大家として知られる米川正夫がこんな基本的なことを間違えるはずはないと思いながら米川正夫訳決定版ドストエーフスキイ全集第六巻『罪と罰』(一九五八年十一月三十日 第二次第一刷発行 河出書房新社)を見ると、ここでも百五十ルーブリとなっている。さらに米川正夫(1891-11-25~1965-12-29)の死後に刊行された愛蔵決定版ドストエーフスキイ全集第六巻『罪と罰』(一九六九年五月二十五日)を見ると、ここでは百十五ルーブリに訂正されている。この全集の月報に記載された〈編集室から〉に「死後、訳者の遺志をついで若手研究者グループがこの仕事をなしとげました」とある。筑摩書房から個人訳ドストエフスキー全集を刊行していた生前の小沼文彦は、他人の手の入ったこの全集は米川正夫個人訳とは見なせないと言っていたことを思い出す。いずれにせよ、百五十ルーブリを百十五ルーブリに訂正したのは米川正夫ではなく〈若手研究者グループ〉ということになる。それにしても、なぜ米川正夫は百五十ルーブリと訳したのか。単なる思い違いですませられるものなのか。つくづく翻訳だけで読むことの危険性を身に染みて感じる。ちなみに、現在刊行中の講談社版文庫本・米川正夫訳『罪と罰』では百五十ルーブリのままとなっている。

 

  さて、〈おす犬〉ラズミーヒンに戻ろう。彼はロジオンがサインした百十五ルーブリの手形が女将と親しくしている七等官チェバーロフの手にわたったことを知り、この男を呼び出してわずか十ルーブリで買い戻す。事件屋のチェバーロフもラズミーヒンにかかってはチンピラ扱いである。ラズミーヒンはロジオンが警察署から呼出しをくらった債権問題を実にてきぱきと鮮やかに解決して見せた。ロジオンのことで内心もやもやしていた女将のプラスコーヴィヤが救世主ラズミーヒンに身も心も奪われてしまったのも無理はない。女将をたらし込んだラズミーヒンは牛肉でもビールでもなんでも思いのままというわけである。

 

 ところで、この女たらしのラズミーヒンはロジオンの妹ドゥーニャに一目惚れしてしまう。ラズミーヒンは厄介者になったパーシェンカを、自分と同じ〈女たらし〉(потаскун=放蕩者、浮気者)の医師ゾシーモフに押しつけようと様々な甘言を弄する。「実はだね、今夜きみはおかみのほうに寝て(やっとのことで彼女に承知させたんだ)、ぼくは台所に寝るんだが、こいつは、きみらふたりがねんごろになる絶好のチャンスなんだ」「あれはね、きみ、恥ずかしがり屋で、無口で、内気で、恐ろしいばかり身持が固くて、しかもだな、溜息ひとつでとろけちまう女さ、蝋のようにとろけちまうんだ! 頼む、一生のお願いだから、ぼくをあの女から救ってくれないか! 実に魅力のある女だぜ!……恩に着るよ、ぜったい恩に着るよ」「あそこには、きみ、羽根ぶとんそのものがあるよ、まったく! いや、羽根ぶとんだけじゃない! あそこには、こう人を引き入れるような何かがあるんだな。あそこは地の果てさ、碇舶地さ、地球の臍さ、世界を支えている三匹の鯨さ、薄焼ケーキのエッセンスさ、油っこいピローグや、夜ごとのサモワールや、ひそかな溜息や、暖かい女物の上着や、ぽかぽかする暖炉の上の寝床なんかのエッセンスなのさ。まあ、死んだような、生きたような、両方の気分がいっきょに味わえるというやつなんだな!」――なんとも調子のいい、自分勝手な押しつけのセリフである。女将プラスコーヴィヤが〈実に魅力のある女(Преавенантненькая)であるなら、ゾシーモフになど譲らなければいいものを、彼はドゥーニャの美に圧倒され、一瞬のうちに魅了されてしまったのである。

 

  ちなみに、ラズミーヒンは女将に対して先にも〈авенантненькая〉(江川卓訳では〈魅力のある〉)という言葉を使っているが、この言葉は日本で発行されている辞書には載っていない。この語はフランス語の〈avenante〉(魅力のある・愛想のいい)をロシア語風にアレンジしたもので、肉体的、性愛的な次元での意味を含んでおり、当時のインテリ学生たちの間では隠語的に使われていたのかも知れない。米川正夫は〈味をもっていようとは〉、小沼文彦は〈やさしい気持をもった〉、工藤精一郎は〈チャーミングな〉と訳している。いずれにせよ、ラズミーヒンとプラスコーヴィヤの〈ハーモニー〉の実態、その〈描かれざる性愛場面〉を想像できなければ、この言葉〈авенантненькая〉を体感的に読みとることはできない。

 

  ラズミーヒンはまた、いっさいの偏見を根絶するためや、事件屋のチェバーロフを懲らしめるために「電流を放つ」といった言い方をしているが、こういった表現も当時のリベラルな思想を抱いた若者特有のものであったのかもしれない。ラズミーヒンは社会変革者として、また自らの良心に照らして悪者を罰するために〈電流〉を放つことのできる、現世的次元での〈神〉的役割を担った若者とも言えようか。

 

 ラズミーヒンはプラスコーヴィヤと性的関係を持った翌々日にはゾシーモフに彼女を押しつけることに成功し、ルージンと婚約していたドゥーニャに接近をはかる。結果だけを見れば、ラズミーヒンはルージンとの婚約を破棄し、スヴィドリガイロフの脅迫的陰謀から逃れたドゥーニャと結婚することになる。描かれた限りで見れば、めでたくドゥーニャと結ばれたラズミーヒンが以後〈女たらし〉(потаскун)ぶりを発揮することはなかった。ラズミーヒンはロジオンの母プリヘーリヤと妹ドゥーニャにとって当初から絶対的な信頼を得た好青年で、プリヘーリヤは彼を〈救いの神とも頼む人〉と見なしていた。作者はここで〈神〉を〈провидение〉で表している。

 

  ところで、〈провидение〉(神)で想起するのはスヴィドリガイロフである。彼は壁一枚隔てた自分の部屋で、ソーニャがロジオンに聞かせた〈ラザロの復活〉を立ち聞きしていた、いわば〈奇蹟〉(чудо)の〈立会人〉(свидетель)であり、後日、カチェリーナの連れ子三人を養育院に預けたりソーニャを淫売稼業の泥沼から救い出すなど〈実際に奇蹟を起こした人〉(чудотворец)になった男である。スヴィドリガイロフは亡き妻マルファの〈幽霊〉(привидение)を三度ほど見て、言葉まで交わしている。ロシア語のマルファ(Марфа)はラザロの姉妹の一人マルタを意味する。死んでも〈幽霊〉となって現れてくるマルファはスヴィドリガイロフに〈実際に奇蹟を起こす神〉(провидение)になることを促しているようにも思える。

 

  さて、ラズミーヒンであるが、彼もまた現実的に奇蹟を起こす〈神〉(провидение)としての役割を負っている。ロジオンは犯行の翌日、ラズミーヒンの下宿を訪ねた夜、自室で意識不明に陥る。ロジオンが意識を回復するのは四日目の午前十時頃である。この時、ロジオンの傍らで甲斐甲斐しく面倒をみたのがラズミーヒンである。彼は、死んで四日もたっていたラザロを復活させた神のひとり子よろしく、意識不明に陥っていたロジオンを四日目に蘇らせた〈神〉ということになる。この〈神〉はロジオンが意識不明の間に、女将とハーモニーを奏でたばかりでなく、女将から事件屋チェバーロフの手にわたっていたロジオンの借用証書を取り返してもいた。まさにラズミーヒンは現実的な実効性を備えた〈神〉(провидение)ということになる。

 

 ソーニャは「黄色の鑑札」を受けた、いわば国家から認められた公娼であるが、汝姦淫することなかれという神の命令に背いていたことに変わりはない。ただしソーニャは、二人の女を殺しておきながら遂に罪の意識に襲われなかった〈不信心者〉(безбожник)ロジオンとは違って、深い罪意識に苦しんでいた〈信仰者〉(狂信者=юродивая)であった。ソーニャは論理に立脚する思弁家ロジオンから見れば〈なんにもしてくれない神〉を〈なんでもしてくださる神〉として信仰している。このソーニャの信仰する〈神〉(бог)と〈実際に奇蹟を起こす神〉(провидение)を同一視することはできないだろう。〈実際に奇蹟を起こす神〉はスヴィドリガイロフやラズミーヒンという現実を生きている人間がその役割を果たすことができるが、ソーニャの信じている〈神〉はその姿を万人の前に現すことはない。

 

  ロジオンに殺されたリザヴェータとソーニャは観照派に属する信徒で、神を視ることができたと言われる。作者はソーニャの視る〈神〉(бог)を実体感のある〈幻〉(видение)として表現している。〈ラザロの復活〉朗読の場面では、確かにソーニャの傍らに〈幻=キリスト〉があらわれているが、ロジオンはそれを視ることはできなかった。ロジオンがこの〈幻=ソーニャ=キリスト〉を視るのはシベリアで復活の曙光に輝く時まで待たなければならなかった。スヴィドリガイロフは〈ラザロの復活〉朗読の立会人で〈実際に奇蹟を起こす神〉〈провидение〉として振る舞いながら、結局は亡き妻マルファと同じく〈幽霊〉(привидение)的な存在にとどまったとも言える。〈幽霊〉スヴィドリガイロフが自殺して逝った〈あの世〉とはどういうものなのか。生きながらにして死んでいたような〈幽霊〉スヴィドリガイロフは現世で唯一〈淫蕩〉に望みをかけていたが、その望みもドゥーニャの拒否によって潰えた。彼の自殺は〈幽霊〉の現世での最後の戯れと見るほかはない。

 

 『罪と罰』には現世のみを生きているような人物と、現世を超越したようなある種霊的な要素を多分にそなえた人物が登場している。ポルフィーリイ予審判事、スヴィドリガイロフ、ソーニャは後者に属するが、ドゥーニャ、ラズミーヒンは前者に属する典型的な人物である。

 

  スヴィドリガイロフとラズミーヒンでは同じ〈実際に奇蹟を起こす神〉(провидение)とは言っても、その性格は大いに異なる。スヴィドリガイロフは象徴的次元ではまさに〈幽霊〉(привидение)だが、ラズミーヒンはどこをとっても現世的な人物である。スヴィドリガイロフの〈淫蕩〉(разврат)は常軌を逸して狂気染みているが、ラズミーヒンの〈女たらし〉(потаскун)は常識と理性・分別の枠内に収まっている。ドゥーニャはスヴィドリガイロフという現世と来世をまたに掛けた〈развратитель〉(淫蕩漢)と深く関わることはできなかったが、ラズミーヒンという常識的次元に収まった〈потаскун〉(浮気者、放蕩者)を受け入れることはできたというわけである。

 

 スヴィドリガイロフはソーニャを淫売稼業の泥沼から救いだし、三千ルーブリもの金を与えた。そのことでソーニャは八年の刑を宣告されたロジオンをシベリアにまで追っていくことができた。このシベリアでロジオンはソーニャと共に〈愛〉によって復活することができた。二人を復活の曙光に輝かせたこの〈愛〉(любовь)は、マルメラードフやソーニャが信じていた〈神〉(бог)の〈愛〉である。すでに指摘したように、この〈神〉は信仰者ソーニャにとっては「なんでもしてくださる神」であるが、思弁家ロジオンにとっては「なんにもしてくれない神」であった。つまりロジオンは論理的思考によっては遂に発見し得ぬ〈神〉(бог)の〈愛〉(любовь)によって〈復活〉したのであって、〈実際に奇蹟を起こす神〉(провидение)スヴィドリガイロフの善行によってではない。スヴィドリガイロフはロジオンの元にソーニャを派遣したという意味では、ロジオンが信仰を獲得するための仲介者の役割を果たしたとは言えよう。

 

  ここで詳しくは触れないが、ロジオンに〈同じ森の獣〉を嗅ぎ取っていたスヴィドリガイロフは、二度にわたってソーニャとロジオンのやりとり(一つは〈ラザロの復活〉朗読場面、さらにもう一つはロジオンのリザヴェータ殺しの報告及びロジオンとソーニャの〈嵐=буря〉、すなわち娼婦と殺人者の霊肉合体=激しいセックスの場面)を立ち聞きしていたこともあって、ロジオンの秘密をすべて知り尽くしていた。〈привидение〉(幽霊)スヴィドリガイロフは〈чудотворец〉(実際に奇蹟を起こす人)から、さらに〈провидение〉(実際に奇蹟を起こす神)にまでなって、ロジオンが本当に必要としていたソーニャを派遣し、ソーニャが信じる〈神〉(бог)へと絶対帰依させたのである。まさに現世と来世をまたに掛けた〈幽霊〉スヴィドリガイロフにしかできない神業であったと言えよう。

 

  一方、現世的次元でのみ〈実際的な奇蹟を行う神〉ラズミーヒンはドゥーニャと結婚し、やがては二人してシベリアに移住し、ロジオンを実際的な面において支えようと考えている。はたしてラズミーヒンの実際的な〈神〉(провидение)とロジオンとソーニャが信じる超越的な〈神〉(бог)はどのように折り合いをつけていくのだろうか。『罪と罰』というまさに巨大な嵐のドラマに幕が下りてからのロジオンとソーニャの〈日常〉にまなざしを注ぐと、途方もなく広大なキョムの光景が浮かんでくる。「熱血漢で、あけっぴろげで、生一本で、誠実で、昔話の巨人勇士のように力持」のラズミーヒンによっても、このキョムの光景をなんともすることはできまい。ロジオンはソーニャと共にラズミーヒンの常識、理性、分別では絶対に届くことのない〈あちら側〉の世界へと行ってしまったように思える。スヴィドリガイロフのように〈幽霊〉(привидение)も見ず、ソーニャのように〈神〉(видение)を見ることもできないラズミーヒンが、いったいどのようにロジオンとソーニャの〈新生活〉を支えることができるのだろうか。

 引用テキストは『罪と罰』(江川卓訳 岩波文庫)、『ПРЕСТУПЛЕНИЕ И НАКАЗАНИЕ』(アカデミア版30巻全集第6巻)に拠った。

清水正  村上玄一を 読む (連載9)

村上玄一を 読む (連載9)

 

清水正

 

 

 〈ぼく〉は美樹子のエプロンに付いた〈可愛いペンギン〉の顔が泣いているのに気づい て「嬉し泣きなのだろうか?」と思う。〈ぼく〉は続けて「美樹子を、見知らぬ女だと錯 覚しかけるほど、それは彼女とアンバランスだった」と書く。ここで言う〈それ〉とは何 か。1〈可愛いペンギンのアップリケの付いたエプロン〉なのか。2〈泣いているペンギ ンの顔〉か、それとも3〈嬉し泣きしているペンギンの顔〉なのか。こまかい事を言うよ うだが、〈それ〉が何を指しているのかがはっきりしないと、〈ぼく〉が感じた〈アンバ ランス〉がよく伝わってこないのである。1から検討してみよう。別に好きで結婚したわ けではないし、美樹子が富田の結婚生活に嬉し泣きするほど喜んでいるわけはないだろう 。それに〈ぼく〉はほんの一頁前に「もしかしたら、二人の生活は、幸せなどというイメ ージとは無関係で、何やら哀れっぽいものではないのだろうか」と書いたばかりではない か。従って〈それ〉は1を指している可能性はない。2はどうだろうか。2は〈アンバラ ンス〉どころか、まさに美樹子の内心そのものである可能性もある。すると〈それ〉は3 ということになろうか。

 

 〈ぼく〉の自己中心的な性格は美樹子の富田に向けられた言葉「紅茶にしたわよ」を自 分に向けられた言葉として受け取めたところによく出ている。この場面はどんなに隠して も現れてしまう〈ぼく〉と美樹子の二人の関係であるが、〈ぼく〉がとっさに口に出して しまった「どうして、そんなことが判るんだ?」の言葉を富田がどのような表情で聞いて いたのか、その点についてはまったく触れていない。富田がよっぽど鈍感な男ならいざ知 らず、ふつうなら〈ぼく〉のこの言葉に、〈ぼく〉と美樹子との関係を疑うはずである。 それとも富田は〈ぼく〉が言うように「そんなことに拘泥るタイプの男でない」というこ となのであろうか。もしそういうことなら、この三人は嫉妬とか憎悪とかいう厄介な感情 を超越した存在ということになるが、どう見てもそんなリッパなひとたちとは思えない。

 

 どうやら〈ぼく〉はオヤジの癌よりも沢井原という男の自殺が気になっているらしい。 沢井原は〈ぼく〉が小学校に入学する前からの遊び友達で、中学を卒業すると自衛隊に入 隊した。〈ぼく〉は十年前、偶然にも新宿駅総武線の下りホームで沢井原と出会い、以後 酒を呑む仲となる。沢井原は職を転々とし、結婚して娘が一人いる。三日前に自殺した時 はタクシーの運転手をしていた。〈ぼく〉が沢井原と最後に会ったのは二週間前である。 幼馴染みで十年間も呑み友達であった男がとつぜん何の前触れもなく自殺した。〈ぼく〉 は沢井原がどうして自殺したのかその〈謎〉の前に立たされることになった。その謎は解 きあかされなければならないというわけである。

 

 富田はしたり顔で言う「お前のオヤジが死にかけていて、お前の友人が自殺して、つま り、ふたつの死がお前を襲ったということだ。しかし、これは、まさに現代的な死を代表 していると思わないか。お前が生きているのは現代そのものなんだよ。どちらを見渡して も、最近、亡くなられる方々の死因というやつは、癌か自殺だぜ」。 富田は癌と自殺を〈現代的な死〉と言っているが、その言葉にリアリティがないのは彼が 〈死〉を内在的にとらえていないところにある。それは富田ばかりではなく、〈ぼく〉に も美樹子にも共通している。〈ぼく〉のオヤジの〈癌〉も富田の母親の〈寝たきり〉状態 も、彼らにとっては何ら痛みとしては感じられていない。彼らは肉親の病を、苦しみを自 分のものとして受け止める、そういった感覚が欠如している。彼らにとって父親や母親は 他人の美樹子以上に他人なのである。

 

 肉親の苦しみさえ感受し得ない〈ぼく〉が沢井原の自殺の原因を突き止めることができ るのだろうか。否、〈ぼく〉はそもそも沢井原の自殺の謎を真剣に解こうなどと思ってい るわけではない。〈ぼく〉は最後に女房が浮気していることを話す。〈ぼく〉にとってオ ヤジの癌、沢井原の自殺、女房の浮気はどれも同じようなものなのかもしれない。

 〈ぼく〉は妻の順子に関して次のように書いている。

 

  順子と結婚して八年目になる。学生時代の先輩の友人の妹だった。彼女が若いという ことだけで一緒になった。ほかに理由は思い浮かばない。といっても、順子はぼくより七 歳若いだけである。子供はない。週四回、四谷の設計事務所でアルバイトをしている。年 収は、ぼくと同じ程度、ということは、いかに、ぼくの年収が少ないかということでもあ る。

  なぜ、順子がぼくと結婚する気になったのか。おそらく彼女のほうに大きな誤解があ ったのだろう。ぼくにはない何ものかを、あるものと期待していたのかもしれない。それ が何であるのかを、ぼくは知らない。だが、それがないものだと判ってしまった順子は、 もう、ぼくと一緒に生活をつづけていく気にはなれぬのだろうと思う。

 

 ここにも〈ぼく〉の下劣さが遺憾なく発揮されている。〈ぼく〉は当時、美樹子と関係 を続けながら、ただ若いという理由だけで順子と結婚したと臆面もなく語る。〈ぼく〉は 順子との内的関係をいっさい語らない。〈ぼく〉は結婚生活において二人の内的結びつき など無用と思っていたのだろうか。〈ぼく〉に必要だったのは同窓の美樹子の肉体の他に 、もう一人の若い肉体だけだったとでも言うのだろうか。しかも順子は週四日のアルバイ トで、稼ぎの足りない〈ぼく〉の生活を支えてくれる。〈ぼく〉にとってこんなに都合の いい女はいないということになろう。

  それにしても、順子が期待していた〈ぼくにはない 何ものか〉とは何なのだろう。〈ぼく〉はこういった微妙なことに関してはあいまいには ぐらかしてしまう。このことが、この小説において〈ぼく〉の人間関係をきわめて不鮮明 にしている。〈ぼく〉と富田、〈ぼく〉と美樹子、〈ぼく〉と沢井原、〈ぼく〉と順子… …これらの関係が曖昧なのは〈ぼく〉自身に事をはっきりさせようとする意志がないから である。〈ぼく〉は〈ぼく〉自身に対して途方もない逃亡を図りながら、誰よりも自分を 客観的に押さえていると思い込んでいるようなところがある。ここに〈ぼく〉の語り手と しての甘さがあるが本人がそのことに気づいていないのでどうしようもない。

関口収さんが秋田から10年ぶりに来訪

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我孫子の中華料理店「海華」にて。2019-4-28

 

 

 

近況報告

関口収さんが秋田から10年ぶりに来訪。

関口さんは日芸写真学科を卒業、大学院に進むが高校教師の職が決まり中退。

今は結婚して子供は今年小学5年生になるという。

わたしが寝起きしているマンションで三時間、

近くの中華料理店で三時間半ほど話した。

高校教師の多忙ぶりは半端ではないらしい。

関口さんは宮沢賢治芥川龍之介に関する著作や

原直久氏の写真集の先鋭的な批評作品などがあるが

教師生活と並行して著作活動することはなかなか難しいらしい。

この度の訪問を機に旺盛な著作活動を再び開始してもらいたいと思った。

 

 

清水正  村上玄一を読む(連載8)

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村上玄一を読む(連載8)

清水正

 

 

〈ぼく〉は美樹子の結婚相手に富田を選ぶ。〈ぼく〉に「誰か紹介してよ」と頼む美樹 子も美樹子だが、すぐに富田を思い浮かべる〈ぼく〉も〈ぼく〉である。この二人の関係 のなかには〈愛〉とか〈恋〉とかそういった言葉に当てはまる感情は当初からなかったと しか言いようがない。美樹子は〈ぼく〉と十年以上も関係していながら、他の男とセック スすることに何の抵抗もないようだし、〈ぼく〉もまたそのことで美樹子を責めたてたり することはない。ドライと言えばこれほどドライな関係はない。それならいっそのこと二 人の関係を公開してしまってもいいようなものの、この二人はそのことに関しては厳しく 秘密を守ろうとする。この二人はお互い自己保身的なずるさにおいて共通している。

  事は簡単に運んだ。美樹子の不満は、一六六センチもある彼女より、富田が五センチ ほど背が低いという一点だけだった。

 「それは富田の責任じゃないよ。君の背が高すぎるだけだよ。そんな贅沢を言ってると 、せっかくのチャンスを逃がしてしまうぞ。富田はその気になって、君さえ承知すればと 言ってるんだ。変った男かもしれないけど、収入はいいし、頭もいい、顔も悪くはない。 ヤツは、いま会社では労働組合の責任者だけど、裏では社長から特別手当てを貰ってるん だ。実際には会社側の重要な人間なんだから、いずれ出世もするよ。それに出張も多いか ら、気が楽だし、日常生活の些細なことに口出しするような男でもないし」

  ふたりは親に相談するわけでもなく、密かに入籍し、新しい部屋を西荻窪に見つけて 住むことになった。

 「事は簡単に運んだ」。この小説においては何も複雑で厄介な問題は起こらないようだ 。〈ぼく〉は美樹子の内部に踏み込まないし、〈ぼく〉は美樹子のことで嫉妬も怒りも感 じないのであるから、とうぜんのことだ。はたしてこんな人物の性格付けで小説としての 展開が可能なのか。〈ぼく〉から結婚話をされてすぐに美樹子と入籍する富田という人物 のどこに魅力を感じたらいいのだろう。こんなことでは〈ぼく〉も美樹子も富田も、同じ 程度の俗物ということ以外のなにものでもない。〈ぼく〉の視点からとらえられるとすべ ての人間は〈ぼく〉と同程度の俗物に化してしまう。

 おそらく〈ぼく〉には、人間などと いうものはすべて俗物であるという確固たる信念があるのだろう。〈ぼく〉は他人を尊敬 したり愛したりすることはないだろう。〈ぼく〉がかろうじて信じているのは、この世に 信じられるものなど何ひとつない、ということぐらいであろうか。〈ぼく〉が抱え込んで いる〈虚無〉はニヒリズムではない。〈ぼく〉は或る絶対的なものの存在を始めから信じ ていないので、それが倒れてもそのことでニヒリズムに陥ることはない。〈ぼく〉の世代 はニヒリストにさえなれない時代を生きてきたと言っても過言ではない。それにしても〈 ぼく〉はあまりにも現実の表層をのみ生きてはいないか。ここで言う〈表層〉とは無限の 垂直軸と交差するような〈無〉の表層ではない。単なる上っ面という意味である。

 〈ぼく〉は富田のアパートを訪ねた理由を「急に、お前と話したくなって」と説明する 。その後の〈ぼく〉と富田の会話場面を見てみよう。

 

「じつは、きのう珍しくオフクロから手紙がきたんだ。オヤジが危いと書いてあった。 今年いっぱい、長引いても二、三か月。直腸癌らしい」

「なんだ、なんだ、やっぱり暗い話だぜ。それで?」

「ま、そういうことだけど」  

「人間なんてのは、誰だっていずれ死ぬんだよ。気にしたって仕方ないだろう。オヤジ に死なれて、何か困ることでもあるのか?」

「何もないよ。ただ、その時に田舎に帰らなきゃいけないだろう?」

「親が死んだ時ぐらいは帰ったほうがいいぜ。死ぬ前にも一度ぐらい顔を見せておいた ほうが、財産分与のときなんかには得をするかもしれないし」

「そんなものはないよ。それに九州の最果てだから、交通費を使った分だけ損するよ」  「金なら貸してやるぜ」

「死ぬまで帰る気はないよ」

「それもいいだろう。俺の母親だって、もう二年間も寝たきりだ。きょう死んだって、 おかしくないんだぜ」

「なるほど、そういうものか」

「お前には悩みごとが少なすぎるんじゃないのか? そんなことで考えこむなんて」  「悩んでるわけじゃないけど、ただ、いますぐ九州に帰る気にはなれないんだ。仕事の こともあるし。できるだけ長引いて欲しいと思ってるわけだよ」

「癌は苦しむだけだ。早く死んだほうがいいぜ。田舎に帰る気がしないといっても、い ずれ、その日は来るんだ。いつだって同じさ。大変な仕事を抱えこんでいる時に死なれる より、いまのほうが、まだ、ましかもしれないし」

 

 〈ぼく〉のオヤジに対する感情はいったいどうなっているのだろうか。富田との会話を 読むかぎり、〈ぼく〉はオヤジに対して冷たいというよりも、余りにも事務的である。富 田のセリフも〈ぼく〉と同じレベルで発せられている。〈ぼく〉と富田は、〈ぼく〉と美 樹子以上に似たもの同士である。自分の父親が癌でいつ死ぬかもしれないという状況にお かれているのに、ここで話題になっているのはオヤジに死なれても困ることは何もないと か、財産分与とか九州までの交通費のことである。息子にとってオヤジの〈死〉とはどう いうことなのか。そこから〈オヤジ〉の存在が、〈死〉自体が問題にされることはない。 ここでも〈ぼく〉と富田は通俗的な次元にとどまって、一歩も深みへと降りていくことは ない。

 ことの表層だけをなぞりながらも、人物の抱えている苦悩や悲しみが感じ取れる表 現がある。しかしこの会話場面からは〈ぼく〉の苦しみや悲しみはまったく感じ取れない 。これは〈ぼく〉がストイックに自分の感情を隠しきっているというのではない。どうも この〈ぼく〉にはオヤジに対する特別の感情などそもそものはじめからなかったように見 える。

 これはおそらく〈ぼく〉のオヤジに対してだけの感情ではない。〈ぼく〉は何事に 関しても感情を烈しく表に出すタイプではない。なにしろ〈ぼく〉は美樹子の要求を素直 に受け入れて富田との結婚を斡旋した男なのだ。しかも〈ぼく〉は一ヵ月前に結婚したば かりの富田と美樹子のアパートに富田と話をしたいという理由だけで何の連絡もなくとつ ぜん訪問することのできる男なのである。

 こういう男の性格は何と言ったらいいのだろう か。美樹子との関係を知られまいとしてびくついている男が、ここでは図々しい無神経な 男のようにも見える。平気な顔で富田のアパートを訪ねることのできる〈ぼく〉は、富田 をなめきっているのか、それとも甘えきっているのであろうか。

 いずれにしても〈ぼく〉のオヤジに対する思いは肉親愛とかいうものとは途方もなくか け離れた感情であり、それは感情とすら言えないようなものである。

 いったい何のために〈ぼく〉は富田のアパートを半月ぶりで訪れたのであろうか。その 必然性がいったいどこにあるというのだろうか。富田と話がしたいというのであれば、富 田だけを呼び出して話をすればいいことであって、なにも別れたばかりの女がいるアパー トにわざわざ足を運ぶ必要はないだろう。ドアの前で美樹子のよがり声まで耳にしたとい うのに、〈ぼく〉は執拗に事が終わるまで待ち続けるのだ。〈ぼく〉は富田と話もしたか ったが、同時に美樹子の顔も見たかったと素直に書いている。なんて未練たらしい破廉恥 漢だろう。これでは単にバカな恥知らずの男二人と女一人の会話場面になってしまうので はないか。先の場面の続きを見てみよう。

 

 「相変らず冷たいのね」

 美樹子がテーブルに紅茶を運んで来た。可愛いペンギンのアップリケの付いたエプロ ンをしている。しかし、よく見ると、そのペンギンの顔は泣いている。嬉し泣きなのだろ うか? 美樹子を、見知らぬ女だと錯覚しかけるほど、それは彼女とアンバランスだった 。

 「もうコーヒーは飲んだでしょうから、紅茶にしたわよ」

 「どうして、そんなことが判るんだ?」

  とっさに、ぼくは美樹子に聞き返した。

 「あら、あなたのことじゃないわよ。この人に言ったんじゃないの」  

 「あ、なるほどね。紅茶、いいねえ。……オヤジの話は、もういいけど、富田にも知ら せておこうと思って、ほら、沢井原って、いつだったか高円寺で一緒に呑んだヤツがいた ろう? あいつ、自殺したよ」

 

 美樹子の「相変らず冷たいのね」は「癌は苦しむだけだ。早く死んだほうがいいぜ」云 々の富田の言葉を受けてのものだが、これは〈ぼく〉の言葉に対して発せられていたと言 っても過ちではない。富田も〈ぼく〉も肉親の不治の病に対して余りにもそっけない。い ったい彼らは父親や母親とどのような関係性を取り結んできたのだろうか。そこに血の通 った関係性を見ることはできない。それにしても結婚してまだ一ヵ月しかたっていないと いうのに富田に対して「相変わらず」というのはどういうことだろう。この言葉は十年以 上の関係を取り結んできた〈ぼく〉に対してのみ有効な言葉と思えるが。

 

 

村上玄一を読む(連載7)

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村上玄一を読む(連載7)

清水正

 

 

 

 『鏡のなかの貴女』が発表されたのは一九八三年二月号の「海燕」である。次作『謎謎 』は翌年六月号の「海燕」である。実に一年四ヵ月ぶりの発表である。村上玄一は次々に 作品を発表していく作家とは違って実に寡作である。はたしてこの『謎謎』という作品は 一年四ヵ月ぶりに発表される、何らかの必然性を持っていたのだろうか。

 「いつまでも待ちつづけようと思った。ここまで来て、ぼくには、もうどこへも行くあ てなどなかった」で『謎謎』は始まる。主人公は前作と同じく〈ぼく〉である。もうどこ へも行くあてのない〈ぼく〉が、いったい何をいつまでも待ちつづけようとしているのか 。そういえばベケットに『ゴドーを待ちながら』という作品があったが、まさか〈ぼく〉 がゴドーを待ち続けているわけもあるまい。

〈ぼく〉がたどり着いた〈ここ〉とは富田と いう友達のアパートで、富田の妻は〈ぼく〉が一ヵ月前に別れたばかりの美樹子である 。〈ぼく〉が半月ぶりで富田のアパートを訪ねてみると、部屋の中から美樹子の喜悦の声 が漏れ聞こえてくる。そこで〈ぼく〉は富田と美樹子のコトが終えるまで「いつまでも待 ちつづけようと思った」と、まあそういうわけである。

 作品のタイトルは『謎謎』であるが、いったい何が〈謎〉なのであろうか。『鏡のなか の貴女』の〈ぼく〉にも言えたことだが、彼には必死になって解かねばならないような〈 謎〉など何一つなかった。なにしろ〈ぼく〉の眼差しは果てしなく遠い方も、ミクロの世 界へも向けられず、ただひたすら自分が生きている現実、それも極めて狭い現実にしか注 がれていないので、彼自身の存在を震撼せしめるような神秘や謎は現れてこないのである 。

 〈ぼく〉は美樹子と十五年もつきあっている。美樹子と〈ぼく〉は学生時代に所属して いた雑誌研究クラブの同窓である。富田も同級であったが、サークルは別で、富田と美樹 子は在学中一度も口をきいたことがない。三人はそんな間柄だったのに、どうしてまた美 樹子は富田と結婚することになったのか。まずはこれが一つの現実的なナゾである。

 〈ぼく〉は三ヵ月前、同窓会が終わった夜更け、美樹子の部屋のベッドの中で彼女に泣 きながら次のように言われる「ひとりで生活していくことが恐くなったの。誰とでもいい から結婚するわ。もう三十五になるんだから。あなたとの腐れ縁にも、そろそろケジメを つけなくちゃ。誰か紹介してよ、ほんとに誰でもいいんだから、男なら。いまが最後のチ ャンスかもしれないし。もうじき誰からも相手にされなくなるわ。ヒシヒシと、そんな感 じがしてくるの。いままでの生き方を変えたいのよ」と。

 美樹子は〈ぼく〉との関係を清算し、新たな生き方をしたいと言う。この美樹子の言葉 は考え抜かれた末に口にされたのであろう、余計なところは少しもない。美樹子は実に端 的に別れの言葉を発している。 このとき〈ぼく〉は美樹子にどのような言葉を返したのか。〈ぼく〉はそうそう簡単には 記さない。〈ぼく〉は学生時代や、毎年行われる同窓会のことに触れ、同窓生の一人が「 しょせん、美樹子は男性用公衆便所にすぎん」とまで言い放ったことなどを書き記してい る。〈ぼく〉は同窓会のメンバーであるにもかかわらず、まるでその中に一人侵入した取 材記者のごとくその現場を報告する役目に徹している。〈ぼく〉は美樹子の不倫相手であ るが、そのことをみんなから隠し続けて平静を装っている。〈ぼく〉はいったい美樹子を どのように思っているのか、その思いを自らに対しても他者に対しても明らかにしない。 この曖昧な態度は〈ぼく〉に終始一貫している。

  例年、美樹子は三次会か四次会で、必ず誰かと姿を消すことが習慣となっていた。女 房が実家に帰っているヤツらが、彼女を奪い合う場面も何度かあった。美樹子は、誘われ ると断わることのできない性分ではあったが、それだけではなく、ぼくとの関係を他に隠 すための演出でもあったような気もする。ところが、今年の会では、誰も彼女を誘おうと はしなかった。気がついてみると、新宿の大衆酒場でふたりだけで呑んでいた。四次会だ か五次会だか忘れてしまったが、互いに重く沈んだ気分で、少しも酔えないでいた。おそ らく美樹子は、誰からも無視されてしまった自分の存在というものを思いつめていたのだ ろう。ぼくは、また別のことを考えていた。

 これはある意味とても興味深い文章である。まずこの文章には語り手〈ぼく〉の感情表 出が皆無である。〈ぼく〉が美樹子とどういうきっかけでいつ関係を結び、その関係性は どのようなものであったのか、こういった二人についての基本的な情報について〈ぼく〉 は語らない。〈ぼく〉は当事者でありながら、傍観者風である。二人の間に他人が入り込 めない濃密な関係性があって、しかもその関係を冷徹に見据えているといった眼差しでは ない。何か、週刊記者風の俗っぽい無責任な冷静さと言ったらいいだろうか。〈ぼく〉は 美樹子と内緒の関係を続けながら、しかし美樹子をホテルに誘う同窓生の男と並列的な存 在を自己保身的に保持している。〈ぼく〉は美樹子が自分の知っている同窓の男連中とホ テルにしけこんでそういった行為に及ぶことに対してどのように思っていたのだろうか。

〈ぼく〉は自分の感情を吐露しない。〈ぼく〉の記した文章を読んでいると、彼は美樹子 が他の男と肉体関係を取り結ぶことに関して無関心のようにさえ思える。それとも〈ぼく 〉は〈ぼく〉なりに精一杯、美樹子が他の男の誘いに答える理由を探っていたのだろうか 。否、〈ぼく〉の語りからは彼の苦悩とか嫉妬とか、どうしようもなさとかがいっさい伝 わってこない。〈ぼく〉の分析は三流の週刊誌記者並である。美樹子が同窓会の帰り「必 ず誰かと姿を消すこと」は彼女の〈習慣〉という一言で片づけられてしまう。〈ぼく〉は 、それではなぜそんなことが〈習慣〉になってしまったのか、という点に関しては少しも 踏み込んでいこうとしない。

〈ぼく〉の分析の眼差しは美樹子の内部深くに注がれること はない。〈ぼく〉の眼差しは美樹子の現象的な上っ面の次元にのみ注がれている。「美樹 子は、誘われると断わることのできない性分」「ぼくとの関係を他に隠すための演出」こ れが美樹子が他の男とホテルに消えていく理由とされる。なんとも通俗的な表層的分析で ある。もし〈ぼく〉のこの分析が的を射ているとすれば、美樹子という女そのものがまさ に〈男性用公衆便所〉ということになろう。美樹子がトイレに行った不在の時に「まだ一 度も美樹子の相手を務めたことのない冴えぬヤツ」が言い放ったこの言葉にたいし、〈ぼ く〉は「何とも非常識な発言である」とコメントしていた。が、同窓生の誰よりも〈ぼく 〉自身が美樹子を〈男性用公衆便所〉扱いしていることを見逃してはならない。

〈ぼく〉 は美樹子を自分専用の、特別の〈男性用便所〉と見なしているわけでもない。美樹子はあ くまでも不特定多数の男性用〈公衆便所〉なのだ。だからこそ〈ぼく〉は他の男が美樹子 を誘っても、その誘いに美樹子が従っても、べつに腹も立たなければ、嫉妬もしないとい うことになる。〈ぼく〉が〈冴えぬヤツ〉の発言を「何とも非常識な発言」と言うとき、 それはなにも〈ヤツ〉がそう思っていること自体を非難しているのではない。同窓会の酒 の席とは言え、そういった言葉を言い放ったことを〈非常識〉と言っているまでのことで ある。美樹子が他の男と関係を結ぶことに嫉妬もしない、怒りもしない、そのくせ美樹子 との関係を内緒で続けてきたこの〈ぼく〉こそ美樹子を〈公衆便所〉扱いしているロクデ ナシなのである。

 この週刊記者並の分析力しか持ち合わせていないロクデナシは美樹子の 沈んだ気分を「おそらく美樹子は、誰からも無視されてしまった自分の存在というものを 思いつめていたのだろう」と説明する。この説明で美樹子はますますくだらない次元にお としめられてしまう。〈ぼく〉は、どんなことがあっても美樹子の沈んだ気分を、彼自身 とのあやふやな関係性に求めようとはしない。〈ぼく〉は美樹子との関係性の淵を決して 覗き込んでみようとはしない。〈ぼく〉は曖昧な自分をいつまでも曖昧なままにしておく かのように「ぼくは、また別のことを考えていた」と書くだけで、決してその〈考えてい た〉ことを吐露しないのである。

  美樹子は、定期的な編集の仕事を請け負って、ひとりで自立した生活をしている。金 が目的でヤツらとホテルに消えるわけではない。だけど、もし、彼女が商売として男と寝 る女だったとしたら、おそらく「優しい娼婦」とでも呼ばれることになるのだろう。そう でないばかりに、美樹子は、もっとも品位を落した言葉で蔑まれてしまうことになる。  

 どうやら〈ぼく〉は自分の間抜けさに気づいていないようだ。ここでいう間抜けとは卑 劣という意味である。〈ぼく〉は自分のゴシップ記者的次元の分析を能天気に鼻にかけて いる間抜けである。美樹子が〈冴えぬヤツ〉に「男性用公衆便所にすぎん」と言われたの は「商売として男と寝る女」でなかったからではない。美樹子との関係を明らかにできな い〈ぼく〉、美樹子を誘う男と戦うことのできない〈ぼく〉、非常識な発言をしたヤツを 殴り倒すこともできない〈ぼく〉、美樹子にはっきりした態度を示せない優柔不断な〈ぼ く〉……この〈ぼく〉が十五年以上も関係している美樹子を蔑ませている張本人である。 もしこの自覚が〈ぼく〉にないのだとすればホント、この男は箸にも棒にもかからない間 抜けなロクデナシということになる。こんな男に十五年も係わってきた美樹子という女の どうしようもない性を、語り手でもあるこの〈ぼく〉がはたして表現し得るのであろうか 。

 

  シングルベッドを、いつもより狭く感じていた。泣き顔を見せまいと、美樹子は背中 を向けた。ぼくは何も付けてない彼女の尻に両手を当て、背中の黒子を見つめながら、結 婚してもらわなくてはならないと思った。十年にも及ぶ関係に、少し躊躇いはあったけれ ど、いずれは清算しなければならない時がくることは判っていた……。   富田の顔が頭に浮かんだ。ぼくの友人で独身は彼しかいない。ふたりは話を交したこ とはなかったけれど、互いに顔だけは知っている。美樹子とぼくの関係を富田が知ってい るはずもないけれど、かりに気づいていたとしても、彼がそんなことに拘泥るタイプの男 でないことを、ぼくは判っていた。

 

 先に引用した美樹子の言葉をもう一度引こう。美樹子はベッドの中で「ひとりで生活し ていくことが恐くなったの。誰とでもいいから結婚するわ。もう、三十五になるんだから 。あなたとの腐れ縁にも、そろそろケジメをつけなくちゃ。誰か紹介してよ、ほんとに誰 でもいいんだから、男なら」と言った。この言葉にたいし、〈ぼく〉が思うのは「結婚し てもらわなくてはならない」である。  

 〈ぼく〉は自ら決断し、その決断を口に出して言う男ではない。村上玄一の書く小説の 主人公〈ぼく〉はつげ義春の描く日常漫画の主人公に似ている。つまり〈ぼく〉の性格は 、わたしが受動的能動性と名付けたように、自分の内心の思いを決して自分からは口にせ ず、相手にその思いを言わせるようなタイプの男である。

 つまりここで美樹子が泣きなが ら口に出しているセリフは、すでに〈ぼく〉の中で作られていたセリフだったということ である。が、〈ぼく〉は決して自分から別れ話を持ちかけはしない。〈ぼく〉はあくまで も自分の思いを相手の口から出させるように仕組むのである。これはどう考えても自己保 身的なずるい男の手口である。が、おもしろいというか、どうしようもないというか、す でに指摘したように〈ぼく〉の分析力はゴシップ週刊誌的次元にとどまっているから、こ の受動的能動性の心理的トリックに彼本人が気づいていない節が見られる。

 〈ぼく〉はず るくて卑怯なロクデナシであるにもかかわらず、美樹子の希望を黙ってかなえてやる男気 のあるカッコイイ男だぐらいに自分を見ている可能性すらある。つげ義春の漫画「チーコ 」を批評したときにも指摘したが、こういった受動的能動的な男を好きになった女はかな りの程度においていらつくはずである。

 それではなぜ、こんなずるい卑怯者の男と美樹子は十年以上も関係を続けてきたのだろ うか。この疑問は「チーコ」の若い夫婦(あるいは単なる同棲者)に向けられたものと同 じである。つげ義春は一コマも描かなかったが、考えられるのは男の性的能力である。 〈ぼく〉と美樹子に何ら精神的な繋がりを見いだせない以上、二人を繋いでいるのは性的 な側面をおいて他にはあるまい。しかし、〈ぼく〉の性的魅力を読者が納得するためには 、そのような表現がなされていなければならない。が、〈ぼく〉は自分の考えばかりでな く、性的描写もしていない。