野本博 文学に係わる者の使命(2)

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ドストエフスキー曼陀羅」特別号から紹介します。

文学に係わる者の使命(2)
野本博

 
二冊の著書
  
ドストエフスキー宮沢賢治
 
清水先生が大変な読書家で、ご自身が執筆された膨大な ページ数の著書も多数あることは以前から承知していたが、 かつての上司とのこの出会いがきっかけとなり、私を編集協 力者として清水先生の著書を出版することが決まり、平成十 八(二〇〇六)年にその出版社から先生の一冊目の著書『ウ ラ読みドストエフスキー』が刊行されたのである。これは今 から思うと何とも幸運な出来事であった。人間と神の問題を 徹底的に見つめ、二十一世紀の預言書とも言うべきドストエ フスキーの文学に仕掛けられた数字や時間の謎を大胆に読み解くこの衝撃の書は、大変好評で、同じ出版社からもう一 冊、清水先生の著書を出版しようという流れにつながった。 それが平成十九(二〇〇七)年に出版された、宮沢賢治の童 話に描かれたエロスと数字の謎を独自に解明しようと試みた 『ケンジ・コードの神秘』である。
 
清水先生は昭和二十四年のお生まれ、私は昭和二十三年。 同じ団塊世代の人間として、大学では学生運動史上、未曽有 の大闘争を繰り広げた、あの日大闘争を経験するなど、共通 の話題も多く、また先生は、長塚隆二先生(日芸のフランス 語の教授)の後を継いで自動車部の部長を務めていただくと いうご縁もあり、この二冊の本の著者と編集者としての関係 がスタートとなり、以来、親しくお付き合いをさせていただ くようなったわけである。
 
伊香保で聴いた「連絡船の唄」
 
清水先生との個人的なお付き合いとしては、平成十八(二 〇〇六)年に三泊四日の韓国旅行に同行させていただいたこ とがある。メンバーは清水先生を中心に、山下聖美先生など の教員や職員の方、それに文芸学科の卒業生や日芸の大学院 を終えられたりした方たちである。旅行中は日芸と韓国の大 学との親密な意見交換会が行われたり、日本と韓国の出版事 情やその違いなどについて、活発な議論が繰り広げられた。

市内観光を終えた夜は、居酒屋でマッコリと焼き肉に舌鼓を 打つなど、私にとって日頃の仕事の疲れを忘れさせてくれる ありがたい旅であった。たまたま入った大きな書店で、韓国 語版の清水先生の著書を見つけた時は、私自身、大いに興奮 したものである。また、平成二十二(二〇一〇)年に、自動 車部の行事として新入部員の歓迎会が群馬県伊香保で行わ れた時は、OBの一員としてその参加メンバーにも加えてい ただき、徳冨蘆花記念文学館や自動車博物館、林芙美子文学 館などを新入部員の皆さんとともに見学した。
 
伊香保での夜は旅館「金太夫」で。夕食を済ませた後、 我々は館内のカラオケ・ルームへ移動。ここでは清水先生が マイクを握って唄う姿を初めて見た。曲はたしか菅原都々子 の「連絡船の唄」ではなかったかと思う。先生が哀調を帯び た独特のシブい低音で切々と歌い上げるこの「連絡船の唄」 は、まさに絶唱であった。
 
私の手元に菅原都々子のCDがあるが、その解説書を読む と、この「連絡船の唄」は昭和二十六(一九五一)年のヒッ ト曲とある。昭和二十六年と言えば清水先生はまだ二歳であ る。まさか二歳でこの歌を覚えたとは考えられない。では、 いったい先生はどこでこの歌を覚えたのだろうか?     清水先生の昨年八月のブログにこんな記述がある。 「ここ一週間、動画で田端義夫の歌を聴いている。かえり 船、大利根月夜、ふるさとの灯台、雨の屋台、どの曲も心に染みる。バタヤンの歌は日本人の魂にやさしくせつなく響い てくる。」と。
 
謡曲好きの私にはよく分かる。何より田端義夫と菅原 都々子の歌には、日本人の感性を揺さぶるセンチメントな情 感が共通するのである。テレビのない時代に育った団塊の世 代の人間にとっては、おそらくは小学生の頃、ラジオから流 れてくる菅原都々子の歌声に魅了され、そのメロディが少年 の心に忘れがたく深く染み入ったのではないだろうか。
 

野本博 文学に係わる者の使命

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ドストエフスキー曼陀羅」特別号から紹介します。

文学に係わる者の使命(1)
野本博

 

清水先生との初めての出会い
 
私が清水正先生に初めてお目にかかったのは、たしか大竹 徹先生の「お別れの会」の時であったように思う。大竹先生 は長年、日本大学芸術学部の映画学科で教鞭をとられ、やが て芸術学部の学部長にもなられた方であったが、一方で運動 部の自動車部の参与も務められていて、大学の教員として部 の存続と発展のために力を尽くされ、部員たちの面倒もよく 見られた先生であった。
 
私は一浪の後、日芸の放送学科に入学、免許を取るべく自 動車部に入部し、怖い先輩にしごかれながら、運転練習や ハードなトレーニングなど部活動に励む大学生活を送ってい た。私が大学を卒業してさる出版社に就職し、月刊誌の編集部に配属されたのは昭和四十七(一九七二)年のこと。その 出版社で知り合った三歳年下の編集部の女性と結婚をした 時、仲人をしてくださったのも、大竹先生ご夫妻であった。
 
その後しばらくして大竹先生の奥さまが若くして亡くなら れ、先生ご自身もご病気で亡くなられたのが平成十一(一九 九九)年のことであった。そして同年の十月に開かれたこ の「お別れの会」で私の友人を介し、清水先生を紹介された のが最初である。その時はただ先生にご挨拶をした程度のこ とであったと記憶しているが、何しろ今から十九年も前のこ と、清水先生と何を話したか詳細は覚えてはいない。私のお ぼろげな記憶では、その「お別れの会」には昨年(二〇一七 年)亡くなられたドキュメンタリー映像作家の松本俊夫さん も出席されていたように思うが、これもまた定かではない。
 
当時の私は、長年勤めていた外資系の出版社を辞め、企画 を中心とする編集・制作会社(いわゆる編集プロダクショ ン)に転職をした頃で、会社の編集責任者として他社の出版 社からさまざまな書籍や雑誌などの編集作業を受注し、それ らの仕事を納期通りにこなすために土曜も日曜もまるで関係 なく、毎日深夜まで忙しく働いていた。
 
そしてその頃に偶然に出会ったのが、かつて同じ出版社で 一緒に働いていた私の上司である。話を聞くとその方も定年 を待たずに出版社を辞め、東京の神田神保町で新たに自身が 経営する出版社を立ち上げたということであった。そして外 部編集者として私に仕事の協力を求めてきたのである。

(のもと・ひろし 株式会社愛和出版研究所代表取締役)
 

英語落語の鹿鳴家英楽(カナリヤエイラク)さんたちと「同心房」で飲み会。

昨日8日は特別講座で日芸にいらっしゃった英語落語の鹿鳴家英楽(カナリヤエイラク)さんたちと「同心房」で飲み会。英楽さんは立川流に属していたということで、立川談志の話で盛り上がった。

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山下洪文 清水先生と私

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ドストエフスキー曼陀羅」特別号から紹介します。

 

清水先生と私
山下洪文

 

文学批評理論の一つに、原型批評というのがある。人間・ 歴史を、深層で支配する「原型」  それを光源として、 「文学」の本質を発見しようとする方法である。清水正の批 評は、これを限界まで拡張したものとして把握することがで きる。たとえば清水は、「わたしは『ドラえもん』論の延長 として『オイディプス王』論の続編を執筆したのである (1) 」と 記している。二千五百年前の悲劇詩人と、現代の人気漫画家 は、彼の批評空間においては等価なのだ。
 
原型批評は、その視野から「現在」が欠落するという、致 命的弱点を持っている。清水は、「現在」の視座から「神話」 を手繰り寄せる。また、「神話」の視座から「現在」を抉り 出す。彼は手塚治虫の漫画『罪と罰』を、本家のそれと比較 研究する著書も物している。原型批評は、清水において異数
神的微笑の領域に突入したと言えよう。
 
ところで、この未踏の場所に立つ主体は、いったいどんな 顔をしているだろうか?   清水は「ドストエフスキーのよう な小説家を理解するには百年、二百年の年月を必要とする (2)」 と書くが、これは、己こそが数世紀ものブランクを埋める批 評家だという矜持のあらわれと見ていい。だが、そんな不可 能事を目標に据える人格とは何者だろうか?
 
ここからは、個人的な断想を記したい。つまり、批評家清 水正でなく、大恩ある清水先生に向けての言葉を書いてゆき たいのだ。
 
先生は、面白いことが起こったわけでもないのに、ふいに 笑顔になることがある。その印象が脳裏に焼きついているた め、私が先生を想起するとき、いつも、その顔は不思議な微笑を浮かべているのだ。私に微笑みかけているのだろうか?
 
これは、私に愛嬌がゼロであるという理由から、却下され る。石田英一郎の言う、「日本人独特の不気味な笑顔」だろ うか?   だが、数千年もの時間にさえ囚われぬ先生が、日本 的「世間」に染まっているなど、ブラック・ジョークにすぎ まい。
 
私はその仕草を、神を欺こうとするものではないか、と考 えてみたい。先生は、つぎのように書いている。「オイディ プスが両の眼を潰したことは、彼が〈アポロンの神託〉に屈 したことを意味しない。むしろオイディプスは両の眼を潰す ことで神々へ向けて反逆の牙をむいたのである。わたしたち は深く歎くオイディプスの顔を、真下から覗きこみ、彼の不 敵な笑みを見なければならない (3) 」。
 
オイディプスの「歎き」は、神への反逆の意志を秘めてい る。そこには「自分を神、否、神以上の存在へと高めようと する野望 (4) 」が潜んでいる、と言う。先生の微笑こそ、この 「歎き」に類するものではないか。笑ってみせることで、「意 0 味そのもの 00000 さえ峻厳に拒む идиот」 (5) の如くふるまうことで、 「運命」を「拒否 (6) 」しているのではないか。あるいは、この 世界を笑うことで、「神」と同一化しようとしているのでは ないか。それこそが、先生を「狂気に陥ることのないイヴァ ン (7) 」たらしめたのではないのか。

 オイディプス王論を書いているあいだ、先生は、記した言
葉を「何ものかが打ち返してくる (8) 」のを感じたという。数千 年を隔てた、言葉のキャッチボール    しかし、なぜそこ までしなければならないのか?   過去との対話が、神への抗 議が、なぜ重要なのか?   その答えは、『ドストエフスキー 論全集』『宮沢賢治論全集』のなかにある、としか言いよう がない。そこで先生は、幼時の原体験や、無惨な別れのこと も語っている。そのエピソードを冷静に語る自信が、私には ない。ただ、つぎの言葉は、文学を「生」の中心において きた私たちにとって    清水先生を師に、歩んできた私に とって    、ひとつの救いである。 「ことばにならない憤りや、悲しさや、くやしさを胸いっ ぱいつめこんで、わたしは歩き続ける。多分歩き続けるだろ う 。その足跡がつづくかぎり、私たちもそれを追いかけてゆく だろう。

(1)『清水正ドストエフスキー論全集7『オイディプス王』と 『罪と罰』』二〇一四年   D文学研究会   五八五頁

(2)『清水正ドストエフスキー論全集5『罪と罰』論余話』二 〇一〇年   D文学研究会   三九四頁

(3)『清水正ドストエフスキー論全集7『オイディプス王』と 『罪と罰』』二三八頁

(4)同 二三六頁

(5)『清水正ドストエフスキー論全集8『白痴』の世界』二〇 一五年   D文学研究会   四五頁

(6)『清水正ドストエフスキー論全集7『オイディプス王』と 『罪と罰』』二三六頁

(7)『清水正ドストエフスキー論全集1「萩原朔太郎とドスト エフスキー体験」』二〇〇七年   D文学研究会   一八二頁

(8)『清水正ドストエフスキー論全集7『オイディプス王』と 『罪と罰』』五八一頁

(9)『清水正ドストエフスキー論全集8『白痴』の世界』五〇 二 – 五〇三頁
(やました・こうぶん  日本大学大学院芸術学研究科博士後期課程芸術専攻在籍)

校條剛 毎日十五枚

ドストエフスキー曼陀羅」特別号から紹介します。

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京都造形芸術大学准教授の牛田あや美さん。清水正研究室の前で。牛田さんは校條さんと同僚ということになります。

毎日十五枚
校條剛

 

清水先生は私の恩人です。先生には大きく二つ恩を受けた と思っています。当時学科主任の清水先生から、二〇〇四年 に日大芸術学部文芸学科の非常勤講師に呼んでいただいたの が、私の人生後半部の新たな展開の端緒となりました。この 原稿を書いている現在、私は京都造形芸術大学文芸表現学科 の専任教授ですが、ここに至るまでのきっかけとなったの が、日芸の非常勤講師であることは間違いのないところだと 思うのです。まったく大学で教えた経験のない人間を他大学 が教授として招聘するはずもないのですから、日芸で非常勤 講師を務めさせていただいたことは、私の経歴に新たな強み を加える助けとなったのです。これが、「恩その一」という ことになるでしょう。
 
出版社の新潮社でエンタメの文芸編集者として会社と一体化していた私と会社との間に小さな溝ができ、それが大きな 亀裂に変わってきたころ、思い切って、大学教員に仕事替え ができないものかと夢想し始めました。大学という世界に詳 しくなかった私は、自分の赫奕たる経歴があれば、専任で 雇ってくれる大学があるはずだと思い込んだのです。それ は、大きな間違いだったのですが、最初、清水先生には、大 胆にも「専任教員」にしてほしいと申し出たため、あとあと の宴会の席で、その件で何度もからかわれたものでした。
 
非常勤講師になりたてのころの楽しい思い出はすでにどこ かに書いたような気がします。池袋なのになぜか「嵯峨」と いう京都じみた店名の飲み屋で月に一回とか二回とか「清水 組」の皆さんとお酒を飲んだ日々は忘れがたいものがありま す。池袋の地理に詳しくない私がこの店の場所を説明することは難しいのですが、確か西口公園の近くだったと思うので す。ビルの二階にあって、入り口は分かりにくく、ところが 店内に入ると、だだっ広い空間が広がっていて、カウンター 席も並んでいるのですが、基本は寝っ転がれるほど余裕のあ る座敷席でした。それは、これまで出版界でさんざん飲んで きたときとは、まったく違う感触の宴会でした。従業員に は、なぜかミャンマー人の女性たちがたくさん働いていまし た。店名は京都なのに、従業員はミャンマー人で、客は我々 関東人なんですよね。
 
いまや堂々たる教授の山下聖美先生も当時はまだ助手で清 水宴会の常勤幹事という役どころ、欠席ということは一度も なかったはずです。ほかに常連は清水先生の先輩に当たる此 経先生や評論家の山崎行太郎さん、韓国からの大学院留学生 だったパク・ヨオオクさん、副手の阿久澤君、川島さん、院 生の牛田さん、栗原君、さらには非常勤の先生方でした。
 
あのころ、この「嵯峨」での定期的な宴会ばかりではな く、他にも飲み会が何度もあったことを思い出します。清水 組の面々総動員、かなりの大人数で、新大久保の豚料理の店 に向かったこともありました。近年は江古田の線路際の「同 心房」という中華屋が会合場所として固定していますが、一 時期拠点だった椎名町も含めて、私が参加した宴会は数えき れないほどあったと思います。
 
清水先生は決して酒に飲まれる方ではないのですが、宴席では、「さあ、これからが本番だぞ」と議論をふっかけてこ られるのが常でした。
 
この世界のすべての作家がいかにドストエフスキーの影響下 で成長したか、作家としての核を持つことができたか、だいた いのところ、そこに議論が集約していくのでした。古今東西、 あらゆる作家、例外なしです。しかし、中央公論社のチェーホ フ全集を宝モノにしていた私には、ドストエフスキーは重要 な存在ではなかったので、たいへん申し訳ないことながら、 清水先生の主張はいささか強引としか思えなかったのです。
 
ただ、私にもかろうじてドストエフスキー体験といったも のがないわけではありません。
 
早稲田を出てからすぐに新潮社に入社して、小説雑誌の編 集部に投げ込まれました。当時の文壇は、「読む」より「飲 む」の時代、編集者は小説を読み込むよりも、酒に浸ること に熱心でした。他社の先輩編集者からの薫陶も得て、ずくず くと酒に飲まれていく生活に染まっていった私ですが、もち ろん嫌々飲んでいたわけではありません。他人や時代のせい にはできないのはもちろんです。酒に私が求めていた一番大 きな効用は「酩酊感」の追求であったと思います。
 
主たる飲み場所は新宿でした。新宿ゴールデン街の主など と呼ばれていた田中小実昌さんと滝田ゆうさんを担当してい たのですから、梯子酒は、これ当たり前。何軒かの酒場を放 浪するうちに、酩酊は深まり、のちにはかなり酒癖の悪い酒飲み、つまり「酒乱」の域に近づいていたようですが、当人 はそんなこととは知りません。とにかく、早く酩酊したい一 心なのですから。酩酊を深め、たとえばあるスナックのス ツールから立ち上がって、突然演説したいような気分になり ます。そんな風に迸り出てくる感情を乗せて演説したいなど と思うとき、必ず浮かんでくるイメージがドストエフスキー の『罪と罰』に登場するソーニャの父親マルメラードフだっ たのです。多分、ドストエフスキーの小説で一番気に入って いたのは、あの情けない酔っ払いの三流官吏マルメラードフ だったのでしょう。
 
私の読んだドストエフスキーの小説は『罪と罰』と『白 痴』の二作だけです。『悪霊』も『カラマーゾフ』も読んで いません。多分、これからも読むことはないと思います。こ れはもう読むべき時期を逃したということに尽きるでしょう ね。さらに述べると、こちらがメインの理由かもしれません が、やはり「私の趣味ではない」ということになるでしょう。 振り返ってみると二作目を『白痴』ではなく、『悪霊』とか 他の作品にしていれば、もう何作かは読んでいて、評価も変 わったのかもしれません。なぜなら、『罪と罰』については、 いまでも登場人物の何人かは覚えているほど、入れ込んで読 んだのですから、決してこの大作家の他の作品を読めなかっ たということはなかったはずなのです。 『白痴』は、中学の同級生で、クラシック友達でもあった
東京外語大ロシア語科の長谷川君から、強く薦められて読ん だのです。「ムイシュキン、ナスターシャ」の名前を感に堪 えたように発音していた彼の陶酔の様が強烈だったので、私 はその情熱に引きずられて読んだのです。ですが、「イッポ リートの告白」という章で、完全にアウトを喰らってしまい ました。あのくだくだしい語りには耐えられなかったので す。それでも最後まで読むことは義務と感じて、読み終えて はいます。その後、決してドストエフスキーの本は手に取ら なくなっただけというわけです。
 
清水先生はこれまで何冊の書籍を上梓されたのでしょう か。そもそも、先生のご著書は何百ページもある大部なもの が多いです。一冊出来上がると、「はい」といつも手渡しで下 さる。江古田から、決して近い距離に自宅があるわけではな い私にとって、判型の大きな単行本を持ち帰るのは、「エッコ ラサ」という労働であったので、正直有難いような、迷惑な ような……いや、大恩ある先生にそんなことを言ってはいけ ません。もちろん、ありがたいわけですが、ドストエフスキー 関連の本だとちょっと読みようがなかったのも事実です。
 
そうそう二つ目の理由(「恩その二」)ですが、この年間何 冊も著作を出されるということと密接に関連しているので す。本を出すためには、かなりの量の原稿を書かなくてはな りません。先生のように、一年に何冊も結果を出すために は、半徹夜で集中的に仕事をするか、毎日、休まず適量の文字を書きつけなくてはならないでしょう。
 
清水先生のやり方は、まず通勤の電車のなかで、膝の上に PCを置いて、自動小銃を連射するように、キーを叩き続け る。さらに、池袋に着いてからは、馴染みの喫茶店に入り、 また電車での続きを書くのだそうです。一日の文字量は、四 百字詰で十五枚が目安だったといいますから、字数にすると 六千字です。
 
この毎日の儀式は、強制された行為ではなく、自発的な義 務感だったのか、それとも指が勝手に動いたのかどうかは定 かではありませんが、私には一種の「自動書記」のように受 け取れました。というのは、清水先生にそのあたりのことを 尋ねたときに、「どんどん、次から次へと言葉が湧いてきて、 指が追い付かないほどだ」というのです。ドストエフスキー というより、まるでモーツァルトのようなトランス状態では ありませんか。
 
私は、当時、専任教員を目指していたと述べました。その ためには、著作を持つことも必須の要件だと考えていて、若 い編集者時代にとことんお付き合いをした滝田ゆう氏の評伝 をものしようと思い決めていたのですが、なかなか筆が進ま ずに、「また今日も書けなかったな」と反省ばかりの日々だっ たのです。こういうときに、清水先生の仕事ぶりは、天から 落ちてきた最高の啓示でした。熟考するまえに書いてしま え、というのが清水先生式の方法です。あれこれ、設計した
り、文章、構成に悩んだりするまえにとにかく思いついたま ま書くこと、量を書くこと。清水先生の考えとは違うかもし れませんが、私の理解では内容はどうあれ、とにかく書いて しまえ、ということでした。頭よりも手、見るまえに跳べ。
 
私の面前を覆っていた垂れ幕が、さっと引き払われた瞬間 でした。そうすればいいんだ!   私は一種感動に打たれてい たのです。
 
感動して終りであれば、私の本は完成していなかったで しょう。それから一年後でしょうか、私の処女作『ぬけられ ますか 私漫画滝田ゆう』は完成し、その後、大衆文学研 究賞も受賞することができました。授賞式にご来駕いただい た清水先生には、清水式の執筆姿勢を学んだおかげで、この ような晴れの日を迎えることができました、と深くお礼を申 し上げたのです。
 
その後も清水先生の教えを守って数冊の書籍を出すことが できたのですが、京都に単身赴任し、京都造形芸術大学に勤 めるようになって、執筆に関しては、いささか怠け癖が戻っ てきてしまいました。今期で京都を去ることですし、ここら でまた清水先生から一喝していただき、あと十年は執筆に励 みたいと思うのです。
 清水先生、これからもご指導よろしくお願いします。
(めんじょう・つよし 京都造形芸術大学文芸表現学科教授)

日芸創設者・松原寛の著作を読み返す。

日芸創設者・松原寛の著作を読み返す。

今日は久しぶりに松原寛の本を読み直す。

三年前、日大病院に入院中、入手できた本はすべて読み、450枚の松原寛論も執筆した。これは「日藝ライブラリー」松原寛特集号に掲載した。

松原寛は京都帝国大学哲学科を卒業した哲学者で、著作も二十数冊あるが、すべて五十年以上にわたって絶版状態にある。

松原寛の本はいわゆる書斎派の学的哲学というよりは、激しい内在的な欲求によって自在に書かれている。哲学、宗教、芸術、芸能から身辺雑記に至るまで、幅広く、熱く語っており、そこに最大の魅力がある。

まさに松原寛は市井の哲学者、現代のソクラテスぶりをいかんなく発揮している。

今回読み直したのは『哲学への思慕』に所収の「愛兒に與う」と「別れし妻に與う」の二篇。一読すれば松原寛、只者ではないことがすぐにわかろう。分別臭い、頭でっかちの思弁家ではなく、わが魂の震えをもって、ニーチェの言うわが血によってものを書く本物の哲学者なのである。松原寛の著作には例外なく血のしたたる「わが魂」が躍動している。

わたしは今後も徹底して松原寛の本を読んでいこうと思っている。

また、日芸の学生はぜひ、創設者松原寛先生の著作を読み、日芸魂にじかに触れてもらいたい。絶版状態にあってなかなか入手できない本を苦労して探し出すのも必要である。わたしは六年ばかり日芸の図書館長を務めたが、学生時代はもっぱら早稲田や神田の古書店街を歩き回って、本を購入した。目的の本を歩いて探す楽しみ、苦労して手に入れた本の一冊一冊に懐かしい風景がまとわりついている。